獅子の末裔

卯花月影

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22.骨肉の争い

22-3. 塩攻め

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 翌朝、東の空がほんのりと染まり始めた頃、山間から吹き下りる風が忠三郎の頬をそっと撫でた。風は冷たさこそあれど、どこか湿り気を含み、冬の硬い空気とは違う柔らかさを感じさせる。

「冬とはいえ、江南と比べれば暖かな地でございますな」
 町野左近がぽつりと呟く。
「確かに…」
 忠三郎も頷き、ふと遠くに霞む山々を眺めた。山一つ隔てた日野に比べると、この伊勢の地は、冬の寒さがどこか和らいでいるようだった。

 しばし沈黙の後、忠三郎がふと話題を変えた。
「亀山城には佐治新介が、関城には木全彦次郎が控えているらしい…では、峯城には?」
 左近が軽く息を吐き、僅かに微笑む。
「峯城には義太夫殿でありましょうな」
「やはり、義太夫か」
 忠三郎は、それを予感していたかのように呟いた。

 町野左近が怪訝そうに忠三郎を見やる。
「若殿、何故そのようにお分かりに?」
「わかる。亀山に着いて以来、どうにも夢見が悪い」
「…は?」
 町野左近が一瞬、言葉を失った顔をしたが、忠三郎はどこ吹く風とばかり、山間を眺めている。
 風はまたひと吹き、二人の間に妙な間を作った。
 町野左近が少し首を傾げ、絞り出すように口を開いた。
「それがしの聞き間違いでなければ、夢見の悪さと峯城の義太夫殿に何かの繋がりが?」
「わしには分かる。毎晩、なにやら奇怪な妖気を感じる」
 忠三郎は一つ大きく伸びをしながら、いささか得意げに語り始める。
「この地に来てからというもの、夢に出てくるのは、昔馴染みの馬鹿笑いばかり。あの甲高い声、そして妙に脂ぎった指…義太夫以外に考えられるか?」

 町野左近は思わず吹き出しそうになり、慌てて咳払いでごまかした。
「つまり、殿の悪夢は義太夫殿のお顔そのものであると?」
「そこまで申すな。顔ではない、存在そのものじゃ」
 忠三郎が生真面目な顔をして眉を寄せる様子に、町野左近は堪えきれず小さく笑った。

「若殿、それはむしろ、かの方への親愛の情の現れにござりましょう」
「親愛?妙に芝居がかった口調、不要な大声、口を開けば法螺ばかり吹いて歩く。挙句の果てに大飯食らい。あやつのどこに愛すべきところがあると申すか」
 忠三郎が憤慨した様子を見せると、町野左近は少し目を細め、穏やかに答えた。
「されど、若殿。夢に見るほど心に留め置いておられるではありませんか」
「……。いらぬことを申すな。使いを出し、叔父上を呼んでくれ」

 伊勢の山風が冷たくも心地よい音を立て、二人の軽口をさらっていく。
 町野左近が去っていくと、忠三郎はふと真顔に戻った。
 
(わしの知らぬ何かが、関の家中に隠されている…)
 叔父・関盛信の背中。その影に秘められたものを、感じ取らずにはいられない。
(叔父上が何も知らぬはずがない…それどころか、むしろ何かを隠しているのではないか)

 盛信の口ぶりには、何か肝心なことを伏せているような不自然さがあった。戦況の報告にしても、城の情報にしても、どこか掴みどころのない曖昧さが漂っている。
(関家に亀裂が走った理由を、叔父上は知っているはず。いや、知りながら何も語らぬのか…それとも、語れぬ理由があるのか)

 ことここにきて、目の前の戦局よりも、むしろこの家中の暗闘に心を奪われていた。だが、盛信を問い詰めることはできない。問い詰めれば、自らが心の奥底で疑いを抱いていることを認めることになってしまう。
(叔父上に疑念を抱くなど、もっとも避けねばならぬこと…されど、この胸の暗雲を払うためには、何かしらの真実を掴むほかあるまい)
 
 思いを巡らせながら、城を見つめた。その目に宿るのは、数々の疑問と、心を掻き立てる不安の色。
(この伊勢で、誰かの思惑が働いている)
 そしてそれが誰であるかも分かっている。
 冷たい風が頬を撫でる。風の音に混じるのは、かつての盟友たちの声か、それとも己を責める幻のささやきか――その答えを知る術もなく、ただ目の前の城に目を凝らし続けた。

 秀吉本隊が山間の向こうへ姿を消したその日から、関盛信の態度には明らかな変化が現れていた。忠三郎の目にも、その不自然さは否応なく映り込んでくる。
「なんというても亀山は堅城よ。ここは少し、時をかけて攻めねば、悪戯に兵を損なうことになりかねぬ」
 忠三郎はハテと首を傾げる。つい先日まで「一刻も早く城を奪い返したい」と血気盛んに語っていた叔父が、今になってこうした腰の引けた言葉を口にするとは、一体どうしたことなのだろうか。
「叔父上…確か、奪われた城を一日でも早く取り戻したいと仰せであったかと…」

 忠三郎があえてその言葉を向けると、盛信は眉を寄せて、少しの間、何かを考え込むような素振りを見せた。
「あのときは、確かにそう言うた。されど、ここへきて我が城を見るに、やはりこの城は我が関家の誇る伊勢でも指折りの堅城。取り戻すにしても無傷で取り戻したいと思うたのじゃ」

「無傷で…」
 忠三郎の口から漏れた言葉は、盛信の説明をなぞるものの、その心中には到底納得しがたいものが渦巻いていた。亀山城の堅牢さを評価することに異議はない。だが、叔父の言葉からは、城の奪還よりもむしろ、何か別の意図を匂わせるような不明瞭さが感じ取れる。
(この手の平を返すが如き変わり様…一体、何を考えているのか)
 冷たい北風が二人の間をすり抜け、戦陣の旗を揺らす。その音だけが、重苦しい沈黙の中で耳に響いた。盛信の言葉に応じるべきか、それとも追及すべきか。忠三郎の心中では、いくつもの思いが交錯していた。

 忠三郎は夜の静けさに包まれ、いつしか眠りに落ちていた。その夢の中、過去の記憶が脳裏を巡る。

 時は六角家が江南の地を支配し、その勢力が千種や関といった伊勢の諸氏にも及んでいた頃。そこに突如として現れたのが滝川一益だった。その鋭き刃は北勢の城々を次々と打ち砕き、やがて北勢四十八家は織田家への恭順を余儀なくされた。
 その中でも神戸家の転機は鮮明だった。神戸の当主である蔵人は六角家に恭順の姿勢を示していたものの、織田家の進撃に抗えず、信長の出馬と一益の調略を前に降伏を余儀なくされた。そして、それは国府、鹿伏兎、峯といった関氏の分家にも連鎖し、彼らもまた織田家の傘下に入ることとなった。

 しかし、戦うことなく織田家に従った神戸に対し、六角義賢の怒りは容易に収まらなかった。報復として、観音寺城に留めていた神戸蔵人の叔父、福善寺の円貞坊を捕らえ、塩責めに処した。
 激しい苦痛を受けた円貞坊はついに気が狂い、観音寺城から放逐され、さまよい歩いて伊勢へと戻った。
『塩責め…とは?』
 鶴千代が小首を傾げて問う。その幼い眼差しは無垢な好奇心に満ちている。
『人が狂うほどのものか?それはどのようなものじゃ?』
 佐助の顔にはいつになく硬い表情が浮かんでいた。
『若は知る必要もなきこと。されど、狂うたというのは六角お館の目を欺くための芝居、とも言われておりまする。円貞坊殿は、このままでは命を奪われると悟り、一芝居打って命からがら伊勢に逃げ戻ったのではないかと』
『芝居か』 
 円貞坊の生存への執念。その裏にある屈辱と恐怖。想像するだけでも戦国の世の厳しさを改めて思わされる。
『乱世だからこそ、家と家の繋がりは重んじられ、そして裏切る者には容赦ない仕打ちが待ち受けるのでござります』
 佐助の声が静かに響く。その言葉の奥に潜む凄みが、幼な心に刻み込まれた。
『塩責めとは…余程、恐ろしいものなのか…』

 鶴千代の小さな口から漏れた呟きに、突如として背後から声が響いた。
『然様。まっこと恐ろしきものよ。恐ろしきこと、この上なしじゃ!』
 その妙に芝居がかった口調に、忠三郎はハッとし、背後を振り返った。すると、そこには義太夫が立っているではないか。

(義太夫…なにゆえここに…?いや、そもそもこの状況は…)
 義太夫はニヤリと笑い、腰に手を当てて威厳たっぷりにうなずいている。
『鶴!塩攻めの恐ろしさを知るがよい!あれは、人を狂わせるだけではない、味噌や酒の味すら分からなくなるほど、塩辛き仕打ちじゃ!』

 義太夫の真剣な表情に、忠三郎は半ば呆れつつも思った。
(いや、それはさすがに…いや、しかし…。塩辛き仕打ちとは…?)
 ふと周囲を見ると、鶴千代が大きな塩の山の上に座り、佐助がその山を崩さぬよう慎重に塩を積み上げているではないか。さらにその背後では、なぜか章姫が木べらで塩の山に刻みを入れており、その動作は奇妙なまでに優雅だった。
(皆、何をしておるのか…)
 そう言おうとしたが、声がでない。塩の山の前に茫然と立ち尽くす忠三郎を尻目に、義太夫がカハハと豪快に笑う。

『鶴、見ておれ。この山は滝川家の誇り、これぞ塩攻めの極意じゃ!』
 義太夫が指差した塩の山は、突如として輝き始め、白銀の城のごとくそびえ立つ。忠三郎は目を丸くし、思わず叫んだ。
『これが塩攻め!… いや、それ以前に、この状況は一体…』
 やっと声が出たその瞬間、塩の山が崩れ始め、塩の洪水が忠三郎を飲み込んでいく。
『義太夫!』
『鶴、塩に飲まれるとは、いと悲しや!』
 義太夫が芝居がかった嘆きを上げると同時に、忠三郎は塩の中で目を覚ました。

 忠三郎はしばし、虚空を見つめながら呆れるやら安堵するやら、何とも言えぬ気持ちで息をついた。夢の中で味わった塩の感触はすっかり消え失せ、代わりに額を伝う冷や汗が、現実であることを静かに告げていた。
(義太夫め、夢の中でまで法螺ばかり吹きおって…)
 そもそも塩責めとは、傷口に塩を塗り込む拷問のこと。話に聞くだけで実際には経験したことも、見たこともない。それが夢の中では塩の山となり、洪水となり、義太夫の妙な語り口と共に襲いかかってくるとは。

(あやつが夢に現れると、決まってかような妙な悪夢になる。まこと、面倒な奴よ…)
 ふと外を見やると、冬の月が青白く光り、夜の帳を静かに照らしていた。その穏やかな光景がなんとも対照的で、またおかしい。
「義太夫め、塩で攻めるなどと、寝入りばなにとんだ戯言を持ちこみおって、全く…」

 小声で独りごち、再び身体を横たえる。思い返せば馬鹿馬鹿しく、だが妙に可笑しくもある夢だ。ふと目を閉じると、義太夫の大袈裟な身振りや、崩れ落ちる塩の山がまだ目蓋の裏にちらつく。
(…まぁよい。夜はまだ長い)
 笑みを含んだまま、静かに身体を横たえた。今日一日の疲れもまだ抜けきれていない。
「義太夫。もう、寝かせてくれ」
 夜はまだ長い。塩の夢に邪魔されることなく、せめて次は穏やかな夢が訪れることを祈りながら、忠三郎は再び瞼を閉じた。
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