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23.宿命の対決
23-7. 苦渋の決断
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一月末、伊勢に出陣してから幾度の夜を越えたことか。寒風に凍える冬を経て、やがて春の兆しが訪れ、そしていま、夏の陽が陣営を照らしている。季節が巡るごとに、忠三郎の胸中もまた、重く沈む思いが積み重なっていった。
その間、忠三郎は何度も長島城に使者を送った。柴田勝家、織田信孝の死を伝え、これ以上の抗戦は無意味だと説き伏せ、降伏を促した。しかし、五月が過ぎ、六月の梅雨が陣営を湿らせる頃になっても、一益はついに応じることはなかった。
忠三郎は馬上からじっと長島の地を見据えた。風にそよぐ草木の音が耳をかすめ、遠く川の流れが絶え間なく響いている。その静寂の中に、一益の胸の内が潜んでいるかのように思えた。
(義兄上…何故、そこまで意地を通されるのか)
川を挟んで対峙する長島城。その堅固な姿は、一益の揺るがぬ意志そのもののようだ。だが、それは同時に孤高の抵抗でもある。
かつては織田家の名の下に、共に戦場を駆け抜けた日々。その時の大義も正義も、今や燃え尽き、灰となり果てた。秀吉が天下人を名乗り、その力がここまで強大となった今、いったい何のためにこの抵抗を続けているのか。
(織田家への義理立てか)
胸に浮かぶ疑念は、消えない霧のように忠三郎の心を覆う。信長が築いた栄華も、今は風化しつつある。その残響にすがる者たちは、一人また一人と姿を消していった。
(いや、それでも義兄上は信じておられるのか。織田家が再び立ち上がり、天下にその旗を掲げる日を…)
忠三郎は手綱を握りしめた。その手に伝わる感触は、決意を確かめるかのように硬く、冷たい。
(最初から分かっていたのか…。義兄上には――清須で別れたあのときから、羽柴筑前が次の天下を取るのだと…)
忠三郎は目を閉じ、あの日を思い返した。一益が関東から引き揚げてきた日。織田家の家臣たちが今後の行く末を定めるはずの合議を終え、去っていったあと、清須に現れたあの日。一益が見せた瞳の奥の翳りを。
(それでも、義兄上は抵抗を選ばれた。分かっていながらも、その道を進んだ…)
清須を後にした一益の背中には、何かを捨てるような覚悟と、全てを背負おうとする重圧があった。そして今も、ただ一人、織田家の名と誇りを守り続けようとしている。それが、羽柴筑前の覇業に抗うことでしか叶わぬと知りながらも。
風が川面を渡り、忠三郎の頬を撫でる。長島の地は、夕陽に照らされてなお冷ややかな影を落としている。それはまるで、一益の胸の内に秘められた頑なな意志を映しているかのようだ。
(この戦がもはや何の意味を持たぬと、義兄上も承知しておられるのだろう。それでもなお、義兄上は自らの誇りと信念のために、最後まで刀を握り続けられるおつもりなのか…)
忠三郎の胸に、得も言われぬ痛みが広がる。
(義兄上…。何故、そこまでして織田家を――否、己の信じる大義を守ろうとされるのか)
忠三郎は、目の前の川面に散る水の波紋を見つめた。それは次第に広がり、やがて消えていく。季節の移ろいとともに、織田家の過ぎ去った栄華の記憶を暗示しているようで、心をざわつかせた。
(義兄上も、もはやこの戦いに勝ち目はないことを悟っておられるはず。それでもなお、降ることを拒まれるのは…)
忠三郎の思考は川風に揺れる葦のようにさまよい続けたが、その答えはなお霧の中に包まれていた。
そんな折、意外な人物が忠三郎の陣営を訪れた。滝川家の家臣であり、一益の寵臣として知られる木全彦次郎である。その姿を見た町野左近は、驚きのあまり足早に彦次郎を忠三郎のもとへと案内した。
「彦次郎。よくぞ参った。義兄上が降伏されると仰せか?」
忠三郎の声には安堵の色が滲んでいた。しかし、彦次郎の表情は硬く、その目には猜疑の影が深く宿っていた。
「それがし、若殿の命により参上つかまつりました。殿は何も存じ上げてはおらぬこと」
「若殿とは…三九郎が?」
思わず問い返す忠三郎に、彦次郎は静かに頷いた。
「然様。降伏して城を明け渡せば、殿のお命は取らぬとの申し出。されど、これは到底納得のいかぬ話にござります。いかなる理由で羽柴筑前殿がそのような寛大な処置を下したのか、何故に滝川家だけがそのように遇されるのか…」
その声には、疑念と不信がはっきりと込められていた。忠三郎は一瞬、言葉を詰まらせた。
事実、忠三郎はこれまでの戦いの中で、一益の助命を嘆願し続けてきた。柴田勝家や織田信孝を討つにあたり、徹底的な制裁を加えた秀吉に対し、一益だけは命を奪わぬよう必死に訴えた。しかし、三九郎の疑念はもっともだった。果たして秀吉が滝川一益という一大名を生かしておく理由はどこにあるのか。
「彦次郎、わしは心から義兄上を救いたいと思っている。それが羽柴殿のお心の内を確かめ、助命を嘆願してきた理由だ。だが、三九郎が疑うのも道理」
「では、やはり何かカラクリがあると?」
彦次郎の目が鋭く光る。忠三郎は言おうかどうしようか迷い、何度も言葉を飲み込んだ末、ついに重い口を開いた。
「虎を…筑前の側室にしたことは、聞き及んでおろう?」
「それは無論…」
彦次郎が咎めるような目で忠三郎を睨む。忠三郎はわずかに目を伏せた。
「柴田殿の嫡子に嫁いでいた義兄上の娘、葉月殿。越前を落ち延び、ここまで逃げてきた。それを捕らえ、筑前に渡した」
「な、なんと?葉月様を筑前めに差し出したと?」
彦次郎は驚愕のあまり、声を失った。その瞳には、怒りと困惑が激しく渦巻いていた。
「まだある。わしのもとにおった義兄上の姪、章姫をも筑前の側室にあげた」
「な、なんということ…。忠三郎様、それはいかなる策か!」
彦次郎の声が怒りで震える。彦次郎は忠三郎を睨みつけ、拳を握り締めた。
「すべては義兄上のお命を救うため!」
「そのようなことをしてまで、殿が命長らえたいとお思いと申されるのか!」
彦次郎の嘆きの声に、忠三郎は静かに深い息をついた。胸には、言い尽くせぬほどの重みがのしかかる。
「それゆえ、このことは義兄上には申すな。すべて内密に話を進めよ。これが、わしにできる唯一の策…」
言葉に滲む悲哀を隠しながら、忠三郎は低く諭すように語りかけた。その声は、自らをも納得させるために紡がれるかのようであった。
彦次郎は震える拳を握りしめ、顔を伏せたまま肩を震わせる。やがて堪えきれず嗚咽が漏れた。
「口惜しや…。かような恥辱に甘んじなければならぬとは…」
その言葉が忠三郎の心を深く抉る。忠三郎自身、胸の内には燻るような怒りと悔しさが渦巻いている。それでも、戦乱の世にあって、己の信じる正義のためには耐えねばならぬと知っていた。
(義兄上…。わしのこの策が正しいと申せるかどうか、いまのわしにはわかりませぬ。されど…そうであっても義兄上のお命を救いたいのでござります)
心中の葛藤が、忠三郎の表情に一瞬影を落とした。しかし、それを見せぬよう顔を上げ、彦次郎の肩にそっと手を置いた。
「彦次郎、わしも苦しい。されど、義兄上の命を守るためには、この屈辱をも飲み込むしかない。共にこの重荷を背負ってくれぬか」
忠三郎の声は知らぬ間にかすかに震えていた。
彦次郎は涙を拭い、震える手で顔を覆いながらも、やがてその手を下ろし、忠三郎をじっと見つめた。その瞳には、怒りと悲しみが入り混じり、消えぬ焔のように揺れていた。
「忠三郎様…。いかに理を尽くし、殿のお命を救わんとするお心を御説明いただこうとも、それがしには、忠三郎様のなされたことを許すことはできませぬ。殿のお命を救うと言いつつ、羽柴筑前の顔色を伺い、我が家を辱め、己の保身を図るような汚い手口。かようなことが、この天下に許されてなるものか…」
その声は、震えていた。彦次郎は拳を固く握り締め、感情を押し殺そうとしているようだった。
「それがどれほど卑しく見えるか、お分かりではないようじゃ。されど――今は最早、弓矢も折れ、矢玉も尽き果て申した。ただ、この恥辱の重み、我が胸に刻みつけ、いずれ晴らさねばならぬものと心得まする…」
彦次郎の言葉に、忠三郎の胸は締めつけられるような痛みに満たされる。
(では他に道があったと?義兄上の命を繋ぐためにできることがあったというのか)
彦次郎の姿は、あまりにも悲愴で、忠義の重みを余すところなく体現しているようだった。その背筋の張り詰めた緊張が、忠三郎の胸に重くのしかかる。
「彦次郎…。わしは…」
しかし、言葉は続かなかった。どれほどの誠実を尽くしても、この決断が生んだ深い傷を癒すには至らないことを、悟らざるを得ない。
忠三郎は微かに震える声で、重い言葉を絞り出した。
「三九郎にも…伝えてくれ」
彦次郎の顔は一層険しくなり、拳を握り締めた。だが、忠三郎の視線は変わらず真っ直ぐに彦次郎を見据えていた。その目には迷いや恐れはなく、ただ全てを受け入れる覚悟だけが宿っていた。
(怒りの矛先を向ける者が、彦次郎だけで済むはずもない。三九郎も、義太夫も、滝川家の家人たち…、皆がわしを恨み憎む…)
胸に去来するのは、これまで共に戦い、汗を流し、涙を拭った滝川家の者たちの顔だった。彼らの信頼を裏切り、心を裂く選択をしてしまった。その重みが、まるで鉄塊となって心に押し寄せる。
(だが、それでもわしは…)
それが一益を救うための代償であれば、甘んじて受け入れるしかない。
遠く、長島の城を望む川の向こうに、一益の孤高の姿が重なる。忠三郎の決断が、その背にどれほどの影を落としたのか。いや、それ以上に、忠三郎自身がいかなる影を背負うことになったのか。
「彦次郎、わしの決断を否とするならば、三九郎にもそう伝えるがよい」
その言葉は、川面を吹き渡る風に消えそうなほど静かであったが、彦次郎の胸には重く響いた。彦次郎は言葉を返すことなく、ただ忠三郎を睨みつけたまま、じっとその場に立ち尽くしていた。
二人の間に、戦場の喧騒を忘れさせる静寂が訪れる。外では夏の蝉が、どこか遠くでかすかに鳴き始めていた。それは、儚さの中に希望を見いだすかのような、戦乱の隙間に訪れた一瞬の安らぎだった。
その間、忠三郎は何度も長島城に使者を送った。柴田勝家、織田信孝の死を伝え、これ以上の抗戦は無意味だと説き伏せ、降伏を促した。しかし、五月が過ぎ、六月の梅雨が陣営を湿らせる頃になっても、一益はついに応じることはなかった。
忠三郎は馬上からじっと長島の地を見据えた。風にそよぐ草木の音が耳をかすめ、遠く川の流れが絶え間なく響いている。その静寂の中に、一益の胸の内が潜んでいるかのように思えた。
(義兄上…何故、そこまで意地を通されるのか)
川を挟んで対峙する長島城。その堅固な姿は、一益の揺るがぬ意志そのもののようだ。だが、それは同時に孤高の抵抗でもある。
かつては織田家の名の下に、共に戦場を駆け抜けた日々。その時の大義も正義も、今や燃え尽き、灰となり果てた。秀吉が天下人を名乗り、その力がここまで強大となった今、いったい何のためにこの抵抗を続けているのか。
(織田家への義理立てか)
胸に浮かぶ疑念は、消えない霧のように忠三郎の心を覆う。信長が築いた栄華も、今は風化しつつある。その残響にすがる者たちは、一人また一人と姿を消していった。
(いや、それでも義兄上は信じておられるのか。織田家が再び立ち上がり、天下にその旗を掲げる日を…)
忠三郎は手綱を握りしめた。その手に伝わる感触は、決意を確かめるかのように硬く、冷たい。
(最初から分かっていたのか…。義兄上には――清須で別れたあのときから、羽柴筑前が次の天下を取るのだと…)
忠三郎は目を閉じ、あの日を思い返した。一益が関東から引き揚げてきた日。織田家の家臣たちが今後の行く末を定めるはずの合議を終え、去っていったあと、清須に現れたあの日。一益が見せた瞳の奥の翳りを。
(それでも、義兄上は抵抗を選ばれた。分かっていながらも、その道を進んだ…)
清須を後にした一益の背中には、何かを捨てるような覚悟と、全てを背負おうとする重圧があった。そして今も、ただ一人、織田家の名と誇りを守り続けようとしている。それが、羽柴筑前の覇業に抗うことでしか叶わぬと知りながらも。
風が川面を渡り、忠三郎の頬を撫でる。長島の地は、夕陽に照らされてなお冷ややかな影を落としている。それはまるで、一益の胸の内に秘められた頑なな意志を映しているかのようだ。
(この戦がもはや何の意味を持たぬと、義兄上も承知しておられるのだろう。それでもなお、義兄上は自らの誇りと信念のために、最後まで刀を握り続けられるおつもりなのか…)
忠三郎の胸に、得も言われぬ痛みが広がる。
(義兄上…。何故、そこまでして織田家を――否、己の信じる大義を守ろうとされるのか)
忠三郎は、目の前の川面に散る水の波紋を見つめた。それは次第に広がり、やがて消えていく。季節の移ろいとともに、織田家の過ぎ去った栄華の記憶を暗示しているようで、心をざわつかせた。
(義兄上も、もはやこの戦いに勝ち目はないことを悟っておられるはず。それでもなお、降ることを拒まれるのは…)
忠三郎の思考は川風に揺れる葦のようにさまよい続けたが、その答えはなお霧の中に包まれていた。
そんな折、意外な人物が忠三郎の陣営を訪れた。滝川家の家臣であり、一益の寵臣として知られる木全彦次郎である。その姿を見た町野左近は、驚きのあまり足早に彦次郎を忠三郎のもとへと案内した。
「彦次郎。よくぞ参った。義兄上が降伏されると仰せか?」
忠三郎の声には安堵の色が滲んでいた。しかし、彦次郎の表情は硬く、その目には猜疑の影が深く宿っていた。
「それがし、若殿の命により参上つかまつりました。殿は何も存じ上げてはおらぬこと」
「若殿とは…三九郎が?」
思わず問い返す忠三郎に、彦次郎は静かに頷いた。
「然様。降伏して城を明け渡せば、殿のお命は取らぬとの申し出。されど、これは到底納得のいかぬ話にござります。いかなる理由で羽柴筑前殿がそのような寛大な処置を下したのか、何故に滝川家だけがそのように遇されるのか…」
その声には、疑念と不信がはっきりと込められていた。忠三郎は一瞬、言葉を詰まらせた。
事実、忠三郎はこれまでの戦いの中で、一益の助命を嘆願し続けてきた。柴田勝家や織田信孝を討つにあたり、徹底的な制裁を加えた秀吉に対し、一益だけは命を奪わぬよう必死に訴えた。しかし、三九郎の疑念はもっともだった。果たして秀吉が滝川一益という一大名を生かしておく理由はどこにあるのか。
「彦次郎、わしは心から義兄上を救いたいと思っている。それが羽柴殿のお心の内を確かめ、助命を嘆願してきた理由だ。だが、三九郎が疑うのも道理」
「では、やはり何かカラクリがあると?」
彦次郎の目が鋭く光る。忠三郎は言おうかどうしようか迷い、何度も言葉を飲み込んだ末、ついに重い口を開いた。
「虎を…筑前の側室にしたことは、聞き及んでおろう?」
「それは無論…」
彦次郎が咎めるような目で忠三郎を睨む。忠三郎はわずかに目を伏せた。
「柴田殿の嫡子に嫁いでいた義兄上の娘、葉月殿。越前を落ち延び、ここまで逃げてきた。それを捕らえ、筑前に渡した」
「な、なんと?葉月様を筑前めに差し出したと?」
彦次郎は驚愕のあまり、声を失った。その瞳には、怒りと困惑が激しく渦巻いていた。
「まだある。わしのもとにおった義兄上の姪、章姫をも筑前の側室にあげた」
「な、なんということ…。忠三郎様、それはいかなる策か!」
彦次郎の声が怒りで震える。彦次郎は忠三郎を睨みつけ、拳を握り締めた。
「すべては義兄上のお命を救うため!」
「そのようなことをしてまで、殿が命長らえたいとお思いと申されるのか!」
彦次郎の嘆きの声に、忠三郎は静かに深い息をついた。胸には、言い尽くせぬほどの重みがのしかかる。
「それゆえ、このことは義兄上には申すな。すべて内密に話を進めよ。これが、わしにできる唯一の策…」
言葉に滲む悲哀を隠しながら、忠三郎は低く諭すように語りかけた。その声は、自らをも納得させるために紡がれるかのようであった。
彦次郎は震える拳を握りしめ、顔を伏せたまま肩を震わせる。やがて堪えきれず嗚咽が漏れた。
「口惜しや…。かような恥辱に甘んじなければならぬとは…」
その言葉が忠三郎の心を深く抉る。忠三郎自身、胸の内には燻るような怒りと悔しさが渦巻いている。それでも、戦乱の世にあって、己の信じる正義のためには耐えねばならぬと知っていた。
(義兄上…。わしのこの策が正しいと申せるかどうか、いまのわしにはわかりませぬ。されど…そうであっても義兄上のお命を救いたいのでござります)
心中の葛藤が、忠三郎の表情に一瞬影を落とした。しかし、それを見せぬよう顔を上げ、彦次郎の肩にそっと手を置いた。
「彦次郎、わしも苦しい。されど、義兄上の命を守るためには、この屈辱をも飲み込むしかない。共にこの重荷を背負ってくれぬか」
忠三郎の声は知らぬ間にかすかに震えていた。
彦次郎は涙を拭い、震える手で顔を覆いながらも、やがてその手を下ろし、忠三郎をじっと見つめた。その瞳には、怒りと悲しみが入り混じり、消えぬ焔のように揺れていた。
「忠三郎様…。いかに理を尽くし、殿のお命を救わんとするお心を御説明いただこうとも、それがしには、忠三郎様のなされたことを許すことはできませぬ。殿のお命を救うと言いつつ、羽柴筑前の顔色を伺い、我が家を辱め、己の保身を図るような汚い手口。かようなことが、この天下に許されてなるものか…」
その声は、震えていた。彦次郎は拳を固く握り締め、感情を押し殺そうとしているようだった。
「それがどれほど卑しく見えるか、お分かりではないようじゃ。されど――今は最早、弓矢も折れ、矢玉も尽き果て申した。ただ、この恥辱の重み、我が胸に刻みつけ、いずれ晴らさねばならぬものと心得まする…」
彦次郎の言葉に、忠三郎の胸は締めつけられるような痛みに満たされる。
(では他に道があったと?義兄上の命を繋ぐためにできることがあったというのか)
彦次郎の姿は、あまりにも悲愴で、忠義の重みを余すところなく体現しているようだった。その背筋の張り詰めた緊張が、忠三郎の胸に重くのしかかる。
「彦次郎…。わしは…」
しかし、言葉は続かなかった。どれほどの誠実を尽くしても、この決断が生んだ深い傷を癒すには至らないことを、悟らざるを得ない。
忠三郎は微かに震える声で、重い言葉を絞り出した。
「三九郎にも…伝えてくれ」
彦次郎の顔は一層険しくなり、拳を握り締めた。だが、忠三郎の視線は変わらず真っ直ぐに彦次郎を見据えていた。その目には迷いや恐れはなく、ただ全てを受け入れる覚悟だけが宿っていた。
(怒りの矛先を向ける者が、彦次郎だけで済むはずもない。三九郎も、義太夫も、滝川家の家人たち…、皆がわしを恨み憎む…)
胸に去来するのは、これまで共に戦い、汗を流し、涙を拭った滝川家の者たちの顔だった。彼らの信頼を裏切り、心を裂く選択をしてしまった。その重みが、まるで鉄塊となって心に押し寄せる。
(だが、それでもわしは…)
それが一益を救うための代償であれば、甘んじて受け入れるしかない。
遠く、長島の城を望む川の向こうに、一益の孤高の姿が重なる。忠三郎の決断が、その背にどれほどの影を落としたのか。いや、それ以上に、忠三郎自身がいかなる影を背負うことになったのか。
「彦次郎、わしの決断を否とするならば、三九郎にもそう伝えるがよい」
その言葉は、川面を吹き渡る風に消えそうなほど静かであったが、彦次郎の胸には重く響いた。彦次郎は言葉を返すことなく、ただ忠三郎を睨みつけたまま、じっとその場に立ち尽くしていた。
二人の間に、戦場の喧騒を忘れさせる静寂が訪れる。外では夏の蝉が、どこか遠くでかすかに鳴き始めていた。それは、儚さの中に希望を見いだすかのような、戦乱の隙間に訪れた一瞬の安らぎだった。
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