獅子の末裔

卯花月影

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23.宿命の対決

23-8. 家督継承

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 夏の暑さが和らぎ、北勢の野山が秋の気配に染まり始める頃、ついに長島城がその堅牢な門を開いた。一益は己の意志を貫きながらも、時の流れに抗えず、北勢四郡、尾張二郡の所領をすべて差し出して降伏を余儀なくされた。

 忠三郎はすぐさま町野左近に命じて滝川家の家臣たちを召し抱えるべく声をかけた。だが、返事はどれも冷たく、無言の拒絶が返ってくるばかりだった。滝川家の人々は、主を失い、家を失い、それでも誇りを胸に抱いて、何処へともなく姿を消していった。

 忠三郎は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。かつて慣れ親しんだ者たちが背を向け、去っていくその光景は、戦の勝者として味わう栄光とはかけ離れた苦味を伴っていた。

 こうして長きに渡る戦乱が収まり、天下には再び泰平が訪れた。だが、それは織田家の栄光という一つの大樹を失い、散り散りになったその葉たちの犠牲の上に成り立つ平和だった。忠三郎は、静まり返った戦場の寂寥を背に受けながら、一人黙然と峠を越えた。滝川家が刻んだ深い傷跡は、胸に深々と染みつき、消えることなく追い続けた。その傷跡を抱えたまま、古里である日野谷の地へと帰り着いた。

 一月の出兵から実に七か月。戦乱の嵐に翻弄され、幾多の戦場を駆け巡った末、ようやく日野谷の空気を胸いっぱいに吸い込むことができた。秋の澄み切った風が、懐かしい谷の景色と共に蒲生勢を迎える。

 戦後処理の忙しさに追われ、日が暮れる頃、ようやく三の丸の居館へと足を運んだ。久方ぶりの我が家の佇まいを目にし、心がほっと安らぐのを感じた。

 重たい甲冑を脱ぎ捨て、畳に腰を下ろし、ふぅ、と一息つく。七か月ぶりに訪れた平穏が、戦場で張り詰めていた心をそっと緩ませた。しかしその平穏の中にも、滝川家との別れや、自らの選択の余韻が影を落としていた。
 忠三郎の心には、拭い難い喪失感が重くのしかかっていた。妹の虎も、そして心のよりどころであった章姫も、もはや傍にはいない。二人とも秀吉の側室となり、今頃は華やかな都で新たな日々を送っていることだろう。

 虎は三九郎に嫁ぎ、日々の暮らしに安穏を見出していたという。生真面目な三九郎は、虎を大切に扱い、穏やかな日々を共に過ごしていたらしい。章姫はまた、その明るい笑顔と快活な振る舞いで、いつも周囲を和ませる存在だった。特に忠三郎にとっては、戦乱に翻弄される日々の中で心の支えとなる唯一無二の存在だった。彼女がそっと差し出す温かな言葉は、冷え切った戦場での夜にも、心に温もりを灯していた。

 だが、一益を救うために、自らの手で虎と章姫を秀吉のもとへ送った。密かに三九郎の元に戻る日々を待っていた虎、そして章姫もまた都で新たな運命を背負うこととなった。その決断がどれほど重く、苦しいものであったか、知る者はいない。
「義兄上を救うため」——そう言い聞かせることで、忠三郎は何とか己の行いに理を見出そうとした。それでも、二人の姿を思い浮かべるたび、胸が締め付けられるような痛みが蘇る。どれほど自責の念に苛まれようと、失ったものは戻らない。その事実が、忠三郎の心を何度も繰り返し傷つけた。

 秋風が庭を吹き抜け、葉が一枚、ひらりと地面に落ちる。忠三郎はその葉に目を落とし、深い溜息をついた。
「あの二人は、今、どのような想いでおるだろうか…」
 その問いに応える者はなく、ただ風が冷たく彼の頬を撫でるばかり。畳に落ちた影が、秋の日差しの中でひっそりと揺れていた。

 やがて、町野左近がそっと忠三郎の居室を訪れた。襖を静かに開け、姿を現したその顔には、どこか重苦しい影が差している。
「若殿。大殿が…お呼びでございます」
「父上が?」
 父・賢秀は、祖父の死を受けて本丸へと居を移して以来、日野を守り続けていた。しかし、昨年の籠城戦の折、織田家の一翼を担うべく奮闘した無理がたたり、その後は体調を崩し、ほとんど表に顔を出すこともなくなっていた。安土からの引き上げの折には、すでに足取りが重く、息を切らす様子を目にしていた忠三郎であったが、いつしか父の姿は遠いものとなっていた。

「体調が優れないと聞いているが…」
 町野左近は沈んだ面持ちで静かに頷くのみ。父がわざわざ自らを呼び寄せる理由を思うと、忠三郎の胸中には、わずかな不安が広がっていく。

 忠三郎は羽織を整え、町野左近に案内されながら本丸へと足を向けた。初秋の風が廊下を通り抜け、冷たい気配が身体を包む。かつての威厳に満ちた父の面影が頭に浮かんでくる。

 本丸へと向かう道すがら、忠三郎の心中には、父・賢秀との隔たりがちらついていた。
 秀吉のもとへ妹・虎を嫁がせたことに関して、賢秀が激怒しているという話は、家臣たちを通じて聞かされていた。それも無理からぬことだ。名家の血筋を継ぐ虎を、出自も定かでない羽柴秀吉の側室として差し出すなど、家名を重んじる賢秀にとっては到底受け入れがたい話だっただろう。

 だが、忠三郎自身、その苦渋の決断を直接父に釈明することはなかった。虎の縁談は事後承諾に留まり、いまだ父とはその件について一度たりとも言葉を交わしていない。
 そればかりか、昨冬の伊勢出兵から夏の戦いまで、戦乱の日々に追われて顔を合わせる機会も失われていた。互いの間に横たわる長い沈黙とわだかまりを思うと、忠三郎は深い溜息を漏らさずにはいられなかった。

 秋の訪れを告げる風が、竹林を通り抜けるたびにさやさやと音を立てる。本丸の奥にある父の居室が近づくにつれ、忠三郎の胸には緊張と不安が入り混じり、心の鼓動が否応なしに速くなっていった。

 町野左近が襖越しに声をかけ、襖を開けると、賢秀が折り目正しく座していた。その背筋は伸び、視線は毅然と正面を見据えている。臥せっているだろうと思い込んでいた忠三郎の予想を裏切るその姿に、一瞬、言葉を失った。
「父上…」
 忠三郎はいつもの柔らかな笑顔を浮かべ、穏やかに声をかけた。
 賢秀はその言葉にわずかに反応したが、すぐに厳しい視線を忠三郎に向けた。 よくよく見ると、疲れと憂いが感じ取れる。
「来たか」
 互いの胸中に積もるものを抱えたままの緊張感に包まれる。
「父上、お体は…」
 忠三郎が言葉を紡ごうとしたその時、賢秀が手を軽く上げて制した。
「我が家はすでにそなたのものではあるが、最早、わしも疲れた。正式に家督を譲ろうと思う」
 父の声には長きにわたる時を生き抜いた男の深い疲労と諦観が滲んでいる。
「は…」
 賢秀の視線はふいと遠くへと向けられ、どこか懐かしさを帯びているようでもあった。

「俵藤太秀郷公以来、我が家はこの地に根を下ろし、乱世を生き抜いてきた。この地で、家臣たちと共に領地を治め、民を守り続けてきた。たとえ世が乱れようとも、それは変わることがない。この先、何があろうとも、家を守り、国を守ることこそ、当主たる者の務めと心得よ」
 賢秀の言葉は静かでありながらも、重い響きを伴っていた。それは歴史の重みを背負い、生きてきた者だけが持つ気高さと、どこか哀愁を湛えているようだった。
 
 忠三郎の胸中に、幼き日の記憶がよみがえる。

 父・賢秀は、祖父の影に隠れるようにして生きていた。祖父に頭が上がらず、家督を継いでからもその威光のもとに傀儡として振る舞わざるを得なかった父の姿。家中の者たちも、他家の者たちも、口を開けば父を臆病者と侮り、陰で嘲笑する声が絶えなかった。その事実を幼い忠三郎が知らぬわけもない。

 忠三郎は父に憧れを抱くことはなかった。父よりもむしろ、戦国の梟雄と恐れられ、剛胆で威厳に満ちた祖父の姿に憧れた。誰にも屈せず、堂々と家を治める祖父こそが、幼き忠三郎の理想だった。祖父のようになりたい――そう願い、祖父の言葉や振る舞いを一心に真似ようとした。

 しかし、その祖父こそが、自分を廃嫡し、命を奪おうとしていたのだと知った時の衝撃は、今も忠三郎の心に消えぬ傷跡を残している。その厳格さの裏に潜む冷酷さを知り、心に抱いていた理想は一瞬にして崩れ去った。
 それでもなお、自分を守ろうとしたのは、軽んじられてきた父だった。臆病と嘲られ、侮られながらも、父は父なりに心を配り、忠三郎に家督を継がせるために奔走した。そして、織田家への臣従を決めた後も、賢秀は信長の信頼を得るために努め続けていた。その姿は、決して豪胆ではなかったが、家を守る者としての執念に満ちていた。

 居間となっては、その事実に気づくのが遅すぎた自分を責めずにはいられない。父の苦労を知りながらも、なお父を尊敬することができなかった自分。幼き日の未熟な思いが、いかに浅はかであったかを思い知らされた。

 そして、いま、目の前で語る父の背中は、かつての祖父の背中とは違う。力強さや威厳はないが、長い歳月の中で家を守り続けた者だけが持つ重みがあった。
「父上。心得ました。この命尽きるまで、蒲生家と、この日野谷を守ることをお約束いたしまする」
 父の眼差しは、どこか遠いところを見つめるように、静かだった。忠三郎がその言葉を発するのを待っていたかのように、小さく頷く。その顔には、長きにわたり家を守り抜いてきた者だけが持つ安堵と疲労が滲んでいた。

 忠三郎の胸中には、幼い頃からの記憶とともに、父への複雑な感情が渦巻いていた。賢秀の弱さを軽蔑していた自分、そしてその背中に宿る強さを見誤っていた自分――すべてを振り返りながら、父の想いを受け継ぐ決意を新たにする。
「よう言うてくれた。重き任を背負うことになるが、この先のすべてをそなたに託そう」
 賢秀は満足げに目を閉じる。それは激動の時代に翻弄されながらも、最期に家と国を守り抜く者としての使命を成し遂げた武士の姿そのものだった。

 外では秋風が静かに木々を揺らし、家督継承の新たな時を告げるように吹いていた。
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