158 / 214
28.揺らぐ天下
28-2. 霧の中の十字架
しおりを挟む
戦国の世にあって、堺の町はひとつの異界といえる。
大坂の陣太鼓が鳴り響こうとも、この町にはどこか、戦の気配が届かぬ不思議がある。風は海より吹き寄せ、潮の香を運び、町の路地裏には南蛮の香辛料と茶の湯の香が交じる。商いの声が行き交い、堺筋を行き交う輿の上では、商人も貴人もその衣に埃ひとつつけまいと身を正していた。
寺院の軒下には白砂が敷かれ、町屋の簾の向こうには、静かに撫子の花が揺れている。武士が刀を帯びずに歩くことも、ここでは珍しくなかった。金子が刀に勝る町、ここでは刀より秤が力を持つ。
堺――この町は、武の理が支配する戦国の世にあって、唯一、文と商の理が立つ場だ。
人の声が高ぶることもなく、船の帆が夕映えに染まり、南蛮渡りの鐘の音が、遠く沖へと消えてゆく。
この静けさの中にこそ、時代の裂け目があった。
三十年ほど前の、凍てつく冬の朝――。
北風が野をわたり、葉を落とした木々の間を通り抜け、ざわりと寒気が肌を刺していた。
旅路の一行は、くすんだ冬空のもと、土の乾いた街道をゆるりと進んでいた。地面は霜に白く縁どられ、踏みしめれば、ざくざくと細かな音が立つ。
その中に、一人の異国人がいた。
みすぼらしい衣をまとい、肩には薄く雪が積もる。
彼の名はフランシスコ・ザビエル。遠くリスボンの港を発ち、嵐に揺られてこの東の果て――日本にたどり着いた宣教師である。
最初の布教地であった薩摩では、異国の教えを恐れた領主の命により追われることとなり、ザビエルは新たにキリシタンとなった従者とともに、平戸へと落ちのびた。
だがザビエルは、諦めなかった。信仰を伝えるには、この国の王たる者に会わねばならない――。
人々から聞く「ミヤコ」、すなわち都を目指し、寒風吹きすさぶなか、三か月にわたる徒歩の旅を続けた。
その道中、とある市(いち)の立つ町で、一人の商人風の男が目をとめた。
異国の面立ちに法衣、錫杖にも似た木の十字。これまでに見たこともない風采の僧侶を前に、男は目を細めて言った。
――「こりゃまた、天竺あたりのお坊様か。どちらまで?」
通訳がザビエルの意を伝えると、男は感心したように頷き、懐から一通の文を取り出す。
「都を目指すのであれば、堺の『日比屋了珪』という者を訪ねるがよろしかろうて。日比屋殿であれば、迎え入れてくれるというものじゃ」
それは堺の中でも名を知られた豪商であった。
商いの街、堺――武士が支配しえぬこの町には、富と知恵をもって時代を動かす者たちがいた。
堺に着いたザビエル一行は、その文を手に、了珪の屋敷を訪ねた。
凍えるような朝、囲炉裏の煙が立ちのぼる座敷で、了珪は初めて見る「伴天連」を前に、静かに問うた。
「さて、その教えとやら、聞かせてくれまいか」
通訳を介しながら、ザビエルは一言一言、言葉を選びながら語る。
「我らが信ずるは、唯一なる神――天地を創り、すべてを愛したもう御方にございます」
その声は、冬の寒気とは裏腹に、真っ直ぐで、どこまでも温かかった。
了珪は耳を澄まし、異国から来たその言葉の奥に、何かしらの誠を見いだした。
町には雪がちらつき、家々の軒には氷柱が下がる。
だがその日、ひとつの屋敷の中では、凍てつく外界とは別の熱が、静かに灯されていた。
日比屋了珪がその妻子とともに洗礼を受けたのは、それほど時を要さなかった。
ザビエルを通して語られる「唯一なる神」の教えに、了珪は心を奪われ、まるで水の流れが自然に低きに帰するように、その身を神の御手に委ねたのである。
ほどなくして、了珪は都の豪商にして旧知の友である小西隆佐を、伴天連ザビエルのもとへと導いた。
隆佐もまた、了珪の語る「新しき教え」に深い興味を抱き、やがて家族ともども洗礼を受けた。
かくして、小西家は「ミヤコ」における最初のキリシタンとなった。
ザビエルは、都において将軍への拝謁を果たせぬまま、その道を閉ざされたが、それでもその心はくじけることなく、再び海辺の地――平戸へと赴いた。
寒風が松林を渡る黄昏、彼は辻に立ち、通りすがりの人々に神の言葉を説いた。 風にたなびく法衣の下、かすかに凍る息を吐きながら、ザビエルは静かに語り続けた。
その時――。
足を止め、じっと耳を傾けるひとりの琵琶法師がいた。
彼の名は、まだロレンソ了斉ではなかった。だが、その目は、語られる真理に深く引き寄せられ、胸中に小さき光を宿していた。
やがて彼は洗礼を受け、名をロレンソ・了斉と改める。
そしてふたたび京の都を目指し、人々へと伝えていった。
その声が、ひとりの侍の心に届く――。
高山右近の父・高山図書である。高山図書は妻と子とともに、ロレンソの導きによってキリストの教えに触れ、やがて親子は洗礼を受けた。
流れる水が流れを知るように、目に見えぬ力が働き、人々がいざなわれてゆく。
ひとつの出会いが、やがて大いなる信仰の波となり、都にも、山間にも、民の心にも静かに沁みわたっていった。
冬の陽が、薄く町屋の軒に差していた。
忠三郎は、利休の言葉に従い、堺の町を後にして、小西隆佐の屋敷を目指していた。
「小西と申せば、豊臣家の奉行、小西弥九郎殿の…」
供をする町野長門守が、手綱を操りながら言葉をかける。
忠三郎は小さく頷いた。
「然様。弥九郎殿は今、肥後出兵の兵糧調達に奔走しておられるであろう。ご家中も慌ただしいはず…」
その弥九郎の父にあたるのが、かの小西隆佐である。
商人にしてキリシタン、かつて南蛮人ザビエルと出会い、都にキリストの名を広めた一人でもあった。
だが、利休は何も言わなかった。
ただ、「隆佐殿を訪ねよ」と、それだけを忠三郎に告げた。
なぜ今、この時に――その理由は語られぬままだ。
利休という男は、言葉少なくして、多くを示す。
その静けさの奥には、政の潮流さえ読み取る冷ややかな眼がある。
忠三郎は、心の奥にわずかなざわめきを抱えたまま、隆佐の屋敷へと歩を進める。
吹く風が、堺の海の匂いを運んでいた。どこか、懐かしく、また不安を誘うようでもあった。
小西隆佐の屋敷は、町家が立ち並ぶ一角に、静かに構えていた。
堺の賑わいから少し離れ、ひっそりとした通り沿いに在るその構えは、いかにも南蛮趣味を好む者らしく、控えめながらも異国の香を漂わせている。
門をくぐると、庭の片隅に十字架が据えられ、冬枯れの庭木と共に、静かに佇んでいた。
白き石でかたどられたそれは、堺の土と空のもとに、不思議なほど自然に溶け込んでいた。
「ようお越しくださいました」
迎えたのは、小西隆佐自身であった。
年の頃、すでに六十を越えていようが、背筋はまっすぐに伸び、目には確かな光があった。
商いの才と信仰とを併せ持つ、その風格は、ただの豪商ではない、何か深きものに触れた者の佇まいである。
忠三郎は丁重に頭を下げ、利休の名を告げると、隆佐は微笑を浮かべ、静かに頷いた。
「お茶頭は言葉少なにして、よく人を導かれる方。されど、今宵のご縁には、何か主の御手が働いているように思われますな」
案内された座敷には、南蛮渡来の小さなマリア像が祀られていた。
その前には、炉の火がほのかに灯り、香の代わりに甘やかな葡萄酒の香が漂っている。
「忠三郎様。――人の世における理と、天の理は、時に相反するもの。それでも、われらは信じ続ける。たとえ、世が乱れようとも」
隆佐の声は、静かに、そしてどこか確信めいている。
忠三郎は、その声に耳を傾けながら考える。
(右近殿も、官兵衛殿も、そして己もまた、問われているのであろうか。――何を信じ、何を守るのかを)
外では、夕暮れの鐘が遠くに響いていた。
夕の光が、障子越しにわずかに差し込む。
庭の木々が風にゆれ、裸木の枝が影をつくって揺れていた。
「忠三郎様をお待ちになっているお方がおられます」
小西隆佐が静かに言ったとき、忠三郎は、胸の奥にかすかな波が立つのを覚えた。
促されるままに座敷を後にし、奥の間へと歩を進める。ふと、敷居の先に立っていた人影を見て、立ち止まった。
痩身にして、凛とした面持ち。
質素な装束の中に、かえってただならぬ気品をまとっている。
それは、幾度となく言葉を交わし、忠三郎をキリスト教へと導いた――高山右近、その人だった。
「……忠三郎殿」
その声は、以前と変わらず穏やかで、どこか月明かりのような柔らかさを帯びていた。
「右近殿……」
互いの名を呼んだ瞬間、言葉にならぬ感情が静かに胸を満たし、過ぎし年月が、ひと息に流れ去ったように感じられた。
「まことに、お会いできるとは」
「主の御心によって、再び巡り逢えました」
右近は、迷いのない目をしていた。
そう言って微笑む右近の眼差しは澄みわたり、いかなる迷いも影を潜めていた。
武士としての誉れ、家の栄耀、すべてを置き去りにしてなお、一筋の光に導かれるように生きる覚悟が、言葉よりもなお雄弁にその姿にあらわれていた。
「……大坂の南蛮寺にて、共に祈りを捧げた日が思い起こされる」
右近の声が、遠き祈りの鐘のように、静かに響いた。
忠三郎はうなずいた。あの日、淡い香の立ちこめる南蛮寺で、ともに捧げた祈りの記憶は、今も耳の奥で小さく脈打っている。
しかし、それでも――
「わしは…」
そう言いかけて、言葉を呑んだ。
豊臣家の家臣としてこの乱世を生きること。
一方で、胸奥に宿った信仰の灯を育てること。
そのいずれもが、いまだ曖昧で、霧に包まれていた。
(わしは……まだ、何も選びきれてはおらぬ)
右近は、そんな忠三郎の迷いに寄り添うように、やわらかな微笑をたたえて、言葉をつないだ。
「世に在りながら、主に従う道もございます。――ひとりひとりに異なる道が、天の御手によりて備えられておるものと、思うておりまする」
その言葉に、穏やかな静けさが宿っていた。
忠三郎が言葉を探す間もなく、右近はふと、空を仰ぐような目をして続けた。
「されど…安堵しておりまする」
「安堵?と申されると?」
「ここ数年、殿下の前に出ることが辛うござりました。こうしてすべてを失い、殿下の元より離れた今、ようやく……、重荷を一つ下ろしたような心地となりました。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
静かに語られる右近のことばには、飾りも衒いもなかった。
その横顔をちらと見る。……嘘はない。すべてを委ねた者の顔だった。
風のない冬空のように、ただ穏やかで、澄んでいた。
(義兄上も……そうだったのか)
ふと、胸の奥に、もうひとつの影が浮かぶ。
伊勢を本領としていた滝川一益――忠三郎の義兄にして、かつては関東をも束ねた智将であった。
だが小牧・長久手の戦の後、一益はそのすべてを手放した。
幾度声をかけても、再び陣羽織をまとうことはなかった。
誰かが言っていた。
越前の山里にて、ひっそりと、木々のざわめきを聞きながら、静かな暮らしを送っていると――。
忠三郎は、手にしたものの重さと、それを手放すことの意味とを思った。
右近も、義兄も、己の名を賭して守ってきたものを、手のひらからそっと滑らせるように失った。
それでも彼らの表情は、どこか安らかだった。
(わしには……それが、まだできぬ)
名を背負い、家を背負い、乱世の只中を生きる。
それは、たとえ心のどこかで真実を知っていたとしても、容易に捨て去ることなどできぬほどに深く、血と共に刻まれたものだった。
己が何を信じ、何を選ぶのか――答えはまだ、遠い。
外では、空がすっかり暮れ、秋の夜風がそっと格子を揺らした。
高く澄んだ空に、星々がきらめき始める。
ひとつ、またひとつと堺の町に灯る篝火は、まるで人々の小さな祈りのように、闇ににじみ、夜の海にその光を映していた。
心の奥に浮かんだ問いに、忠三郎は答えることができずにいた。
ただ、どこか遠くで聞こえる波の音と、風に乗って微かに届く香のような静けさに耳を澄ましながら、
夜空の星のひとつを、じっと見上げていた。
大坂の陣太鼓が鳴り響こうとも、この町にはどこか、戦の気配が届かぬ不思議がある。風は海より吹き寄せ、潮の香を運び、町の路地裏には南蛮の香辛料と茶の湯の香が交じる。商いの声が行き交い、堺筋を行き交う輿の上では、商人も貴人もその衣に埃ひとつつけまいと身を正していた。
寺院の軒下には白砂が敷かれ、町屋の簾の向こうには、静かに撫子の花が揺れている。武士が刀を帯びずに歩くことも、ここでは珍しくなかった。金子が刀に勝る町、ここでは刀より秤が力を持つ。
堺――この町は、武の理が支配する戦国の世にあって、唯一、文と商の理が立つ場だ。
人の声が高ぶることもなく、船の帆が夕映えに染まり、南蛮渡りの鐘の音が、遠く沖へと消えてゆく。
この静けさの中にこそ、時代の裂け目があった。
三十年ほど前の、凍てつく冬の朝――。
北風が野をわたり、葉を落とした木々の間を通り抜け、ざわりと寒気が肌を刺していた。
旅路の一行は、くすんだ冬空のもと、土の乾いた街道をゆるりと進んでいた。地面は霜に白く縁どられ、踏みしめれば、ざくざくと細かな音が立つ。
その中に、一人の異国人がいた。
みすぼらしい衣をまとい、肩には薄く雪が積もる。
彼の名はフランシスコ・ザビエル。遠くリスボンの港を発ち、嵐に揺られてこの東の果て――日本にたどり着いた宣教師である。
最初の布教地であった薩摩では、異国の教えを恐れた領主の命により追われることとなり、ザビエルは新たにキリシタンとなった従者とともに、平戸へと落ちのびた。
だがザビエルは、諦めなかった。信仰を伝えるには、この国の王たる者に会わねばならない――。
人々から聞く「ミヤコ」、すなわち都を目指し、寒風吹きすさぶなか、三か月にわたる徒歩の旅を続けた。
その道中、とある市(いち)の立つ町で、一人の商人風の男が目をとめた。
異国の面立ちに法衣、錫杖にも似た木の十字。これまでに見たこともない風采の僧侶を前に、男は目を細めて言った。
――「こりゃまた、天竺あたりのお坊様か。どちらまで?」
通訳がザビエルの意を伝えると、男は感心したように頷き、懐から一通の文を取り出す。
「都を目指すのであれば、堺の『日比屋了珪』という者を訪ねるがよろしかろうて。日比屋殿であれば、迎え入れてくれるというものじゃ」
それは堺の中でも名を知られた豪商であった。
商いの街、堺――武士が支配しえぬこの町には、富と知恵をもって時代を動かす者たちがいた。
堺に着いたザビエル一行は、その文を手に、了珪の屋敷を訪ねた。
凍えるような朝、囲炉裏の煙が立ちのぼる座敷で、了珪は初めて見る「伴天連」を前に、静かに問うた。
「さて、その教えとやら、聞かせてくれまいか」
通訳を介しながら、ザビエルは一言一言、言葉を選びながら語る。
「我らが信ずるは、唯一なる神――天地を創り、すべてを愛したもう御方にございます」
その声は、冬の寒気とは裏腹に、真っ直ぐで、どこまでも温かかった。
了珪は耳を澄まし、異国から来たその言葉の奥に、何かしらの誠を見いだした。
町には雪がちらつき、家々の軒には氷柱が下がる。
だがその日、ひとつの屋敷の中では、凍てつく外界とは別の熱が、静かに灯されていた。
日比屋了珪がその妻子とともに洗礼を受けたのは、それほど時を要さなかった。
ザビエルを通して語られる「唯一なる神」の教えに、了珪は心を奪われ、まるで水の流れが自然に低きに帰するように、その身を神の御手に委ねたのである。
ほどなくして、了珪は都の豪商にして旧知の友である小西隆佐を、伴天連ザビエルのもとへと導いた。
隆佐もまた、了珪の語る「新しき教え」に深い興味を抱き、やがて家族ともども洗礼を受けた。
かくして、小西家は「ミヤコ」における最初のキリシタンとなった。
ザビエルは、都において将軍への拝謁を果たせぬまま、その道を閉ざされたが、それでもその心はくじけることなく、再び海辺の地――平戸へと赴いた。
寒風が松林を渡る黄昏、彼は辻に立ち、通りすがりの人々に神の言葉を説いた。 風にたなびく法衣の下、かすかに凍る息を吐きながら、ザビエルは静かに語り続けた。
その時――。
足を止め、じっと耳を傾けるひとりの琵琶法師がいた。
彼の名は、まだロレンソ了斉ではなかった。だが、その目は、語られる真理に深く引き寄せられ、胸中に小さき光を宿していた。
やがて彼は洗礼を受け、名をロレンソ・了斉と改める。
そしてふたたび京の都を目指し、人々へと伝えていった。
その声が、ひとりの侍の心に届く――。
高山右近の父・高山図書である。高山図書は妻と子とともに、ロレンソの導きによってキリストの教えに触れ、やがて親子は洗礼を受けた。
流れる水が流れを知るように、目に見えぬ力が働き、人々がいざなわれてゆく。
ひとつの出会いが、やがて大いなる信仰の波となり、都にも、山間にも、民の心にも静かに沁みわたっていった。
冬の陽が、薄く町屋の軒に差していた。
忠三郎は、利休の言葉に従い、堺の町を後にして、小西隆佐の屋敷を目指していた。
「小西と申せば、豊臣家の奉行、小西弥九郎殿の…」
供をする町野長門守が、手綱を操りながら言葉をかける。
忠三郎は小さく頷いた。
「然様。弥九郎殿は今、肥後出兵の兵糧調達に奔走しておられるであろう。ご家中も慌ただしいはず…」
その弥九郎の父にあたるのが、かの小西隆佐である。
商人にしてキリシタン、かつて南蛮人ザビエルと出会い、都にキリストの名を広めた一人でもあった。
だが、利休は何も言わなかった。
ただ、「隆佐殿を訪ねよ」と、それだけを忠三郎に告げた。
なぜ今、この時に――その理由は語られぬままだ。
利休という男は、言葉少なくして、多くを示す。
その静けさの奥には、政の潮流さえ読み取る冷ややかな眼がある。
忠三郎は、心の奥にわずかなざわめきを抱えたまま、隆佐の屋敷へと歩を進める。
吹く風が、堺の海の匂いを運んでいた。どこか、懐かしく、また不安を誘うようでもあった。
小西隆佐の屋敷は、町家が立ち並ぶ一角に、静かに構えていた。
堺の賑わいから少し離れ、ひっそりとした通り沿いに在るその構えは、いかにも南蛮趣味を好む者らしく、控えめながらも異国の香を漂わせている。
門をくぐると、庭の片隅に十字架が据えられ、冬枯れの庭木と共に、静かに佇んでいた。
白き石でかたどられたそれは、堺の土と空のもとに、不思議なほど自然に溶け込んでいた。
「ようお越しくださいました」
迎えたのは、小西隆佐自身であった。
年の頃、すでに六十を越えていようが、背筋はまっすぐに伸び、目には確かな光があった。
商いの才と信仰とを併せ持つ、その風格は、ただの豪商ではない、何か深きものに触れた者の佇まいである。
忠三郎は丁重に頭を下げ、利休の名を告げると、隆佐は微笑を浮かべ、静かに頷いた。
「お茶頭は言葉少なにして、よく人を導かれる方。されど、今宵のご縁には、何か主の御手が働いているように思われますな」
案内された座敷には、南蛮渡来の小さなマリア像が祀られていた。
その前には、炉の火がほのかに灯り、香の代わりに甘やかな葡萄酒の香が漂っている。
「忠三郎様。――人の世における理と、天の理は、時に相反するもの。それでも、われらは信じ続ける。たとえ、世が乱れようとも」
隆佐の声は、静かに、そしてどこか確信めいている。
忠三郎は、その声に耳を傾けながら考える。
(右近殿も、官兵衛殿も、そして己もまた、問われているのであろうか。――何を信じ、何を守るのかを)
外では、夕暮れの鐘が遠くに響いていた。
夕の光が、障子越しにわずかに差し込む。
庭の木々が風にゆれ、裸木の枝が影をつくって揺れていた。
「忠三郎様をお待ちになっているお方がおられます」
小西隆佐が静かに言ったとき、忠三郎は、胸の奥にかすかな波が立つのを覚えた。
促されるままに座敷を後にし、奥の間へと歩を進める。ふと、敷居の先に立っていた人影を見て、立ち止まった。
痩身にして、凛とした面持ち。
質素な装束の中に、かえってただならぬ気品をまとっている。
それは、幾度となく言葉を交わし、忠三郎をキリスト教へと導いた――高山右近、その人だった。
「……忠三郎殿」
その声は、以前と変わらず穏やかで、どこか月明かりのような柔らかさを帯びていた。
「右近殿……」
互いの名を呼んだ瞬間、言葉にならぬ感情が静かに胸を満たし、過ぎし年月が、ひと息に流れ去ったように感じられた。
「まことに、お会いできるとは」
「主の御心によって、再び巡り逢えました」
右近は、迷いのない目をしていた。
そう言って微笑む右近の眼差しは澄みわたり、いかなる迷いも影を潜めていた。
武士としての誉れ、家の栄耀、すべてを置き去りにしてなお、一筋の光に導かれるように生きる覚悟が、言葉よりもなお雄弁にその姿にあらわれていた。
「……大坂の南蛮寺にて、共に祈りを捧げた日が思い起こされる」
右近の声が、遠き祈りの鐘のように、静かに響いた。
忠三郎はうなずいた。あの日、淡い香の立ちこめる南蛮寺で、ともに捧げた祈りの記憶は、今も耳の奥で小さく脈打っている。
しかし、それでも――
「わしは…」
そう言いかけて、言葉を呑んだ。
豊臣家の家臣としてこの乱世を生きること。
一方で、胸奥に宿った信仰の灯を育てること。
そのいずれもが、いまだ曖昧で、霧に包まれていた。
(わしは……まだ、何も選びきれてはおらぬ)
右近は、そんな忠三郎の迷いに寄り添うように、やわらかな微笑をたたえて、言葉をつないだ。
「世に在りながら、主に従う道もございます。――ひとりひとりに異なる道が、天の御手によりて備えられておるものと、思うておりまする」
その言葉に、穏やかな静けさが宿っていた。
忠三郎が言葉を探す間もなく、右近はふと、空を仰ぐような目をして続けた。
「されど…安堵しておりまする」
「安堵?と申されると?」
「ここ数年、殿下の前に出ることが辛うござりました。こうしてすべてを失い、殿下の元より離れた今、ようやく……、重荷を一つ下ろしたような心地となりました。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
静かに語られる右近のことばには、飾りも衒いもなかった。
その横顔をちらと見る。……嘘はない。すべてを委ねた者の顔だった。
風のない冬空のように、ただ穏やかで、澄んでいた。
(義兄上も……そうだったのか)
ふと、胸の奥に、もうひとつの影が浮かぶ。
伊勢を本領としていた滝川一益――忠三郎の義兄にして、かつては関東をも束ねた智将であった。
だが小牧・長久手の戦の後、一益はそのすべてを手放した。
幾度声をかけても、再び陣羽織をまとうことはなかった。
誰かが言っていた。
越前の山里にて、ひっそりと、木々のざわめきを聞きながら、静かな暮らしを送っていると――。
忠三郎は、手にしたものの重さと、それを手放すことの意味とを思った。
右近も、義兄も、己の名を賭して守ってきたものを、手のひらからそっと滑らせるように失った。
それでも彼らの表情は、どこか安らかだった。
(わしには……それが、まだできぬ)
名を背負い、家を背負い、乱世の只中を生きる。
それは、たとえ心のどこかで真実を知っていたとしても、容易に捨て去ることなどできぬほどに深く、血と共に刻まれたものだった。
己が何を信じ、何を選ぶのか――答えはまだ、遠い。
外では、空がすっかり暮れ、秋の夜風がそっと格子を揺らした。
高く澄んだ空に、星々がきらめき始める。
ひとつ、またひとつと堺の町に灯る篝火は、まるで人々の小さな祈りのように、闇ににじみ、夜の海にその光を映していた。
心の奥に浮かんだ問いに、忠三郎は答えることができずにいた。
ただ、どこか遠くで聞こえる波の音と、風に乗って微かに届く香のような静けさに耳を澄ましながら、
夜空の星のひとつを、じっと見上げていた。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる