167 / 214
29.関東騒乱
29-6. 水底の城
しおりを挟む
忍城――。
水に沈むはずだった城。だが、城は沈まなかった。
六月、重たい梅雨の雲が垂れ込める空の下、秀吉の命を受けた普請が延々と続いた。
何百、何千という人足が、泥に足を取られながらも、黙々と土を積み上げ、堤を伸ばし続けた。
中山道を越えて集められた農民たちの汗と血が、まさにこの「水攻め」という狂気を成していた。
広大な堤防が築かれ、利根川の流れがねじ曲げられた。
水は低きへ、広がりながら流れ出した。
田畑が、一夜にして沼となる。
桑畑も麦の畝も、濁った泥に埋もれた。
水面には、腐りかけた作物と、家畜の屍が浮かんだ。
村々はことごとく水に沈んだ。
竹垣に引っかかった赤子の死骸、流された厠の戸板にしがみついて亡くなった老女、片腕だけが見えるまま水面を漂う男――。
誰が兵で、誰が民か、もはや見分けるすべもない。
水は生き物のようにうねり、汚れた泡を噴き出しながら、森を呑み、社を押し流し、仏像の首をねじ切っていった。
それでも忍城は、丘の上にしずかに立ち続けていた。
まるで、流転の時のただ中にあって、ひとつだけ変わらぬ巨木のように。
滝川三九郎は、舟のへりに立ち、黙してその光景を見下ろしていた。
脚元を漂うのは、民が育てた穂のない稲束。
耳に届くのは、蛙の声ではなく、濁流のうねりと、遠くで啼く鶏の哀しい声だった。
(……神も仏もないものか)
何十年もかけて耕されてきた田が、いまは泥沼と化していた。
あの日まで、そこには米が実り、笑い声があったはずなのだ。
今はただ、濁った水の上に、ぽっかりと浮かぶ柿の葉と、青い着物の切れ端が揺れている。
打ち捨てられた村の土塀が、半ば水に崩れかけながらも、辛うじて立っていた。
その軒下に、ひとつ、破れた風鈴が残っていた。
鉄の風が吹くたびに、くぐもった音がした。
もはや涼やかではなく、どこか悲しげで、空ろな音色だった。
三九郎の心を、ふいに何かがつかんだ。
――かつて、この村にも夏があり、家族があり、祈りがあった。
濁流は、すべてを呑み込んだ。だが、呑み込まれたものの記憶までは、奪いきれない。
三九郎は目を閉じた。
軒に残る破れた風鈴。
それが、空ろな音を立てて揺れていた。
遠い夏の日、我が子・久助が、笑いながら風鈴を指さしていた光景が、ふいに脳裏をよぎった。
(久助……お虎……)
心に滲んだ痛みを、深く呑み込んだ。
戦場に立つ以上、未練は毒だ。
だが、毒にも似た未練が、血のように全身を巡っていた。
やがて、泥にまみれた野を、敵の成田勢が押し寄せてきた。
水攻めに耐えた者たちの、怒りと誇りを乗せた反撃だった。
三九郎は槍を取り、最前線へ躍り出た。
斬り合い、突き合い、血と泥の匂いが風に乗った。
無数の叫びと濁流の音に紛れ、一騎、鮮やかな鎧を纏った武者が、前に立った。
槍を交える。
一突き、二突き。
その動きの軽やかさ、そして一瞬の、清冽な瞳――。
三九郎は、はっとした。
(……女、か)
成田家――。
代々、成田家には、男と並び立ち、槍をとる女武者がいると、かつて耳にしたことがあった。
聞き流すには惜しい、どこか哀しくも誇らしげな、古い伝承だった。
今、その伝え話が、目の前の現実となって現れている。
(これが……成田甲斐)
彼女の瞳には、哀しみと、抗いがたい誇りが宿っていた。
この戦の中にあって、なお、美しいものが残るなら、まさにこの武者こそがそれだ――。
三九郎の胸に、かすかな情が芽生えた。
この戦はもはや、何のためでもない。
だがせめて、この者ひとりだけでも救いたい。
三九郎は槍を引いた。
「行け」
低く、かすれた声で、短く告げた。
成田甲斐は驚いたように三九郎を見た。
だが、何も言わず、ただ深く一礼すると、しなやかに踵を返し、森陰へと駆けていった。
――その瞬間だった。
火縄銃の轟音が、天地を引き裂いた。
乾いた破裂音が幾重にも重なり、戦場の空気が一変する。
銃口の向こうで火花が散り、煙が立ち昇る。
鉛の雨が、斜めに、鋭く、空を裂いて降り注いだ。
三九郎の足に、一発。
腕に、もう一発。
そしてうなじのすぐ下に、鋭い痛みが走った――弾丸が肉を裂き、骨に当たって砕ける感触が、遅れて脳に届いた。
「……!」
息が、喉の奥で詰まる。
討たれた馬が絶叫を上げ、前脚を折り、地面に呑み込まれるように崩れ落ちた。
鞍から投げ出された三九郎の体が、泥と血にまみれた地へ叩きつけられる。
視界がぐらりと揺れた。
空が逆さまに回る。
耳の奥で、低い唸り声のような音が響きつづけていた。
血が、土に溶けてゆく。
その温もりすら、もう遠かった。
滝川藤九郎が駆け寄る。
泥を蹴立て、息を切らして。
両腕で三九郎の体を抱き起こし、その名を呼ぶ。
「若殿! 若殿――!」
だが、その声はもう、届かない。
――頭上に、鉛色の空。
風にざわめく竹林。
泥に煙る世界。
意識が遠のく中、三九郎の心は、ふいに遠い過去へ還った。
あの日――見覚えのある、川のほとり。
春まだ浅き頃、日野の里には、陽気が少しずつ満ちはじめていた。
川沿いの土手には、名も知らぬ白い花が一面に咲き広がり、細い柳が、薄緑の芽吹きを風に揺らしていた。
遠くには、山並みに残る雪が、薄墨のように霞んで見えた。
田畑には水が張られ、空を映して、どこまでも青かった。
日野の四季――
春には、こうして野に花が咲き、里人たちの笑い声が田の面にこだました。
夏には、濃い緑の木立と蝉時雨が、村を包み、子らは日野川に飛び込んで遊んだ。
秋になれば、稲穂が金色に波打ち、祭囃子が小さな社に響き渡った。
冬には、田畑も川も霜に白く縁取られ、早朝にはあちこちの家から煙がのぼり、寒さをやわらげた。
そんな四季のすべてを、三九郎は肌で覚えていた。
それは、どれも温かく、やさしい記憶だった。
その春の日もまた――
土手に腰を下ろし、何気なく水面を眺めていた三九郎の前に、一人の娘が現れた。
浅葱色の小袖に、色あせた赤い帯。
名家の姫にしてはずいぶんと地味な身なりだったが、妙に品があった。
黒髪を簡素に結い、控えめな顔立ちに、どこかおっとりとした、頼りなげな風情をたたえていた。
――それが、お虎だった。
お虎は、そっと土手の花を摘んでいた。
それは、病に伏す父親の枕元に飾るためだった。
花を摘むその手つきは、不器用ながらも、花を折るたびに胸の内から祈るような思いがにじんでいた。
小柄なその背が、かすかに春の川風に吹かれて揺れていた。
「花摘みか?」
「はい。父上に、お見せしとうて…」
虎がどこか照れたように返すと、ふたりのあいだに、川風が吹き抜けた。
銀の光を揺らす川面、土手を覆う小さな白い花々。
お虎は、小さな手で摘み取った白い花を、ぎこちなく束ねていた。
遠く、土手の上では、子供たちが駆け回り、誰かが遠くで、田をうがつ鍬の音を立てていた。
野を渡る風はやわらかく、まだどこか冷たさを残していた。
すべてが、生まれたばかりの季節の中にあった。
すべてが、これからだと思えたあの頃。
この日、この時――
三九郎とお虎の運命の糸は、確かに、そっと結ばれた。
ふと気づくと、久助が水面に小石を投げて遊んでいる。その小さな手、その無邪気な笑顔は、陽だまりの中の夢のようだった。
そよ風に吹かれる野花。
お虎は、まだ見ぬ娘、お籍をその胸に抱いていた。
そよ風が吹くたび、草の匂いとともに、彼女のやさしい微笑が三九郎の胸を満たした。
何ひとつ、足りないものなどなかった。
家族という、かけがえのない世界。
刃も策も届かぬ、小さな楽園。
三九郎はただ、彼らのそばに在りたかった。
久助の成長を見届けたかった。
お虎の横顔を、老いるまで見つめていたかった。
お籍の初めての声を、この腕で抱きしめて聞きたかった。
それは、どこにでもあるようで、たった一つしかない幸福。すべては人の欲と思惑と、大義の名のもとに奪い去られた。
(帰りたい……)
もう一度だけでもいい。
久助を肩車して、川の土手を歩きたい。
お虎と並んで、麦畑を渡る風に耳を澄ませたい。
お籍の名を、呼んでみたい。
奪われたもの。
戻らぬもの。
けれど、心の中では、今も息づいている。
その記憶の温かさだけが、命の終わりを照らす光となっていた。
――世界は、ただそれだけで、完全だった。
だが、帰る道は、もうない。
風鈴の音が、ふと止んだ。
まぶたの裏が、白く光に包まれる。雪解け水が静かに流れるような、やわらかな光。
そこに、何かが見える。
――城のようで城ではない。高い石垣もなく、櫓もなく、ただ白く、光に包まれた場所。
音もなく風が吹き、樹々の葉がそよぎ、
鳥たちが天空を舞い、どこかで鐘の音が響いていた。
その門の前に、ひとりの武将が立っていた。
法衣のような着物をまとい、白髪を風に揺らすその姿。
三九郎は、思わず膝を折った。
その胸に込み上げるものは、懺悔でも、誇りでもない。
ただ、懐かしさと、帰る場所を見出した安らぎであった。
「……父上……」
一益は黙って微笑んだ。
老いたその顔に、かすかな涙のような光がきらめく。
「よう来た、三九郎……もう、よい。槍を置け。心を休めよ。そなたは……よう戦った」
懐かしい父の声。
その手が、三九郎の肩に触れたとき、
不意に、あの声が聞こえた。
――「父上!」
駆けてくる久助の声。
――「若殿……」と、ふり返るお虎の面影。
だが、そこには彼らの姿はなかった。
それは、三九郎の心が作り出した幻、まだこの世に生きる者たちへの、切なる想いだった。
「……お虎……久助……お籍……」
三九郎の手は宙を彷徨った。
届きそうで、届かない。
ここにはいない、けれど、確かにこの胸にいる。
一益が静かにうなずいた。
「皆は、健固に過ごしておる。されど、そなたの心は、かならず皆のもとに寄り添う。それでよいではないか」
門が、ゆっくりと開く。
鐘の音が空を渡り、風がやさしく吹いた。
三九郎は、そっと目を閉じた。
その頃、現実の戦場では――。
泥と煙が満ちる野を、滝川藤九郎が、血に染まった三九郎の躯を背負い、ただ一心に歩いていた。
「……若殿、もうすぐでござります。もうすぐ味方の陣が……」
雨は止まない。
銃声も、遠くではまだ響く。
ぬかるんだ地に足を取られ、何度も倒れそうになりながらも、藤九郎は歯を食いしばった。
背にある主の身体は、重く、あまりにも静かだった。
だが、その重みこそが、藤九郎にとっては命そのものだった。
「……若殿、わしは忘れませぬ。あの日、初めて槍の使い方を教えてくださったこと。戦の意味を、わしに問いかけてくださったこと……」
やがて、森陰に味方の旗が見えた。
その瞬間、雲の切れ間から、一条の光が差し込む。
湿った野に、たったひと筋のやさしい光。
「……若殿……」
藤九郎は、震える膝で最後の坂を登った。
そこには、味方の陣と、安息の焚き火の煙がゆらいでいた。
藤九郎は、ゆっくりと、三九郎を地に伏せぬよう、そっと横たえた。
「……どうか、おやすみなされませ。この身を賭して、若殿の志は、それがしが守りまする……」
その夜、藤九郎は星の下で静かに祈った。
三九郎が首に下げていた小さな十字架を、そっと胸にあてる。
風が吹いた。
風鈴の音のように、どこか遠くで、やさしい鈴の音が響いていた――。
水に沈むはずだった城。だが、城は沈まなかった。
六月、重たい梅雨の雲が垂れ込める空の下、秀吉の命を受けた普請が延々と続いた。
何百、何千という人足が、泥に足を取られながらも、黙々と土を積み上げ、堤を伸ばし続けた。
中山道を越えて集められた農民たちの汗と血が、まさにこの「水攻め」という狂気を成していた。
広大な堤防が築かれ、利根川の流れがねじ曲げられた。
水は低きへ、広がりながら流れ出した。
田畑が、一夜にして沼となる。
桑畑も麦の畝も、濁った泥に埋もれた。
水面には、腐りかけた作物と、家畜の屍が浮かんだ。
村々はことごとく水に沈んだ。
竹垣に引っかかった赤子の死骸、流された厠の戸板にしがみついて亡くなった老女、片腕だけが見えるまま水面を漂う男――。
誰が兵で、誰が民か、もはや見分けるすべもない。
水は生き物のようにうねり、汚れた泡を噴き出しながら、森を呑み、社を押し流し、仏像の首をねじ切っていった。
それでも忍城は、丘の上にしずかに立ち続けていた。
まるで、流転の時のただ中にあって、ひとつだけ変わらぬ巨木のように。
滝川三九郎は、舟のへりに立ち、黙してその光景を見下ろしていた。
脚元を漂うのは、民が育てた穂のない稲束。
耳に届くのは、蛙の声ではなく、濁流のうねりと、遠くで啼く鶏の哀しい声だった。
(……神も仏もないものか)
何十年もかけて耕されてきた田が、いまは泥沼と化していた。
あの日まで、そこには米が実り、笑い声があったはずなのだ。
今はただ、濁った水の上に、ぽっかりと浮かぶ柿の葉と、青い着物の切れ端が揺れている。
打ち捨てられた村の土塀が、半ば水に崩れかけながらも、辛うじて立っていた。
その軒下に、ひとつ、破れた風鈴が残っていた。
鉄の風が吹くたびに、くぐもった音がした。
もはや涼やかではなく、どこか悲しげで、空ろな音色だった。
三九郎の心を、ふいに何かがつかんだ。
――かつて、この村にも夏があり、家族があり、祈りがあった。
濁流は、すべてを呑み込んだ。だが、呑み込まれたものの記憶までは、奪いきれない。
三九郎は目を閉じた。
軒に残る破れた風鈴。
それが、空ろな音を立てて揺れていた。
遠い夏の日、我が子・久助が、笑いながら風鈴を指さしていた光景が、ふいに脳裏をよぎった。
(久助……お虎……)
心に滲んだ痛みを、深く呑み込んだ。
戦場に立つ以上、未練は毒だ。
だが、毒にも似た未練が、血のように全身を巡っていた。
やがて、泥にまみれた野を、敵の成田勢が押し寄せてきた。
水攻めに耐えた者たちの、怒りと誇りを乗せた反撃だった。
三九郎は槍を取り、最前線へ躍り出た。
斬り合い、突き合い、血と泥の匂いが風に乗った。
無数の叫びと濁流の音に紛れ、一騎、鮮やかな鎧を纏った武者が、前に立った。
槍を交える。
一突き、二突き。
その動きの軽やかさ、そして一瞬の、清冽な瞳――。
三九郎は、はっとした。
(……女、か)
成田家――。
代々、成田家には、男と並び立ち、槍をとる女武者がいると、かつて耳にしたことがあった。
聞き流すには惜しい、どこか哀しくも誇らしげな、古い伝承だった。
今、その伝え話が、目の前の現実となって現れている。
(これが……成田甲斐)
彼女の瞳には、哀しみと、抗いがたい誇りが宿っていた。
この戦の中にあって、なお、美しいものが残るなら、まさにこの武者こそがそれだ――。
三九郎の胸に、かすかな情が芽生えた。
この戦はもはや、何のためでもない。
だがせめて、この者ひとりだけでも救いたい。
三九郎は槍を引いた。
「行け」
低く、かすれた声で、短く告げた。
成田甲斐は驚いたように三九郎を見た。
だが、何も言わず、ただ深く一礼すると、しなやかに踵を返し、森陰へと駆けていった。
――その瞬間だった。
火縄銃の轟音が、天地を引き裂いた。
乾いた破裂音が幾重にも重なり、戦場の空気が一変する。
銃口の向こうで火花が散り、煙が立ち昇る。
鉛の雨が、斜めに、鋭く、空を裂いて降り注いだ。
三九郎の足に、一発。
腕に、もう一発。
そしてうなじのすぐ下に、鋭い痛みが走った――弾丸が肉を裂き、骨に当たって砕ける感触が、遅れて脳に届いた。
「……!」
息が、喉の奥で詰まる。
討たれた馬が絶叫を上げ、前脚を折り、地面に呑み込まれるように崩れ落ちた。
鞍から投げ出された三九郎の体が、泥と血にまみれた地へ叩きつけられる。
視界がぐらりと揺れた。
空が逆さまに回る。
耳の奥で、低い唸り声のような音が響きつづけていた。
血が、土に溶けてゆく。
その温もりすら、もう遠かった。
滝川藤九郎が駆け寄る。
泥を蹴立て、息を切らして。
両腕で三九郎の体を抱き起こし、その名を呼ぶ。
「若殿! 若殿――!」
だが、その声はもう、届かない。
――頭上に、鉛色の空。
風にざわめく竹林。
泥に煙る世界。
意識が遠のく中、三九郎の心は、ふいに遠い過去へ還った。
あの日――見覚えのある、川のほとり。
春まだ浅き頃、日野の里には、陽気が少しずつ満ちはじめていた。
川沿いの土手には、名も知らぬ白い花が一面に咲き広がり、細い柳が、薄緑の芽吹きを風に揺らしていた。
遠くには、山並みに残る雪が、薄墨のように霞んで見えた。
田畑には水が張られ、空を映して、どこまでも青かった。
日野の四季――
春には、こうして野に花が咲き、里人たちの笑い声が田の面にこだました。
夏には、濃い緑の木立と蝉時雨が、村を包み、子らは日野川に飛び込んで遊んだ。
秋になれば、稲穂が金色に波打ち、祭囃子が小さな社に響き渡った。
冬には、田畑も川も霜に白く縁取られ、早朝にはあちこちの家から煙がのぼり、寒さをやわらげた。
そんな四季のすべてを、三九郎は肌で覚えていた。
それは、どれも温かく、やさしい記憶だった。
その春の日もまた――
土手に腰を下ろし、何気なく水面を眺めていた三九郎の前に、一人の娘が現れた。
浅葱色の小袖に、色あせた赤い帯。
名家の姫にしてはずいぶんと地味な身なりだったが、妙に品があった。
黒髪を簡素に結い、控えめな顔立ちに、どこかおっとりとした、頼りなげな風情をたたえていた。
――それが、お虎だった。
お虎は、そっと土手の花を摘んでいた。
それは、病に伏す父親の枕元に飾るためだった。
花を摘むその手つきは、不器用ながらも、花を折るたびに胸の内から祈るような思いがにじんでいた。
小柄なその背が、かすかに春の川風に吹かれて揺れていた。
「花摘みか?」
「はい。父上に、お見せしとうて…」
虎がどこか照れたように返すと、ふたりのあいだに、川風が吹き抜けた。
銀の光を揺らす川面、土手を覆う小さな白い花々。
お虎は、小さな手で摘み取った白い花を、ぎこちなく束ねていた。
遠く、土手の上では、子供たちが駆け回り、誰かが遠くで、田をうがつ鍬の音を立てていた。
野を渡る風はやわらかく、まだどこか冷たさを残していた。
すべてが、生まれたばかりの季節の中にあった。
すべてが、これからだと思えたあの頃。
この日、この時――
三九郎とお虎の運命の糸は、確かに、そっと結ばれた。
ふと気づくと、久助が水面に小石を投げて遊んでいる。その小さな手、その無邪気な笑顔は、陽だまりの中の夢のようだった。
そよ風に吹かれる野花。
お虎は、まだ見ぬ娘、お籍をその胸に抱いていた。
そよ風が吹くたび、草の匂いとともに、彼女のやさしい微笑が三九郎の胸を満たした。
何ひとつ、足りないものなどなかった。
家族という、かけがえのない世界。
刃も策も届かぬ、小さな楽園。
三九郎はただ、彼らのそばに在りたかった。
久助の成長を見届けたかった。
お虎の横顔を、老いるまで見つめていたかった。
お籍の初めての声を、この腕で抱きしめて聞きたかった。
それは、どこにでもあるようで、たった一つしかない幸福。すべては人の欲と思惑と、大義の名のもとに奪い去られた。
(帰りたい……)
もう一度だけでもいい。
久助を肩車して、川の土手を歩きたい。
お虎と並んで、麦畑を渡る風に耳を澄ませたい。
お籍の名を、呼んでみたい。
奪われたもの。
戻らぬもの。
けれど、心の中では、今も息づいている。
その記憶の温かさだけが、命の終わりを照らす光となっていた。
――世界は、ただそれだけで、完全だった。
だが、帰る道は、もうない。
風鈴の音が、ふと止んだ。
まぶたの裏が、白く光に包まれる。雪解け水が静かに流れるような、やわらかな光。
そこに、何かが見える。
――城のようで城ではない。高い石垣もなく、櫓もなく、ただ白く、光に包まれた場所。
音もなく風が吹き、樹々の葉がそよぎ、
鳥たちが天空を舞い、どこかで鐘の音が響いていた。
その門の前に、ひとりの武将が立っていた。
法衣のような着物をまとい、白髪を風に揺らすその姿。
三九郎は、思わず膝を折った。
その胸に込み上げるものは、懺悔でも、誇りでもない。
ただ、懐かしさと、帰る場所を見出した安らぎであった。
「……父上……」
一益は黙って微笑んだ。
老いたその顔に、かすかな涙のような光がきらめく。
「よう来た、三九郎……もう、よい。槍を置け。心を休めよ。そなたは……よう戦った」
懐かしい父の声。
その手が、三九郎の肩に触れたとき、
不意に、あの声が聞こえた。
――「父上!」
駆けてくる久助の声。
――「若殿……」と、ふり返るお虎の面影。
だが、そこには彼らの姿はなかった。
それは、三九郎の心が作り出した幻、まだこの世に生きる者たちへの、切なる想いだった。
「……お虎……久助……お籍……」
三九郎の手は宙を彷徨った。
届きそうで、届かない。
ここにはいない、けれど、確かにこの胸にいる。
一益が静かにうなずいた。
「皆は、健固に過ごしておる。されど、そなたの心は、かならず皆のもとに寄り添う。それでよいではないか」
門が、ゆっくりと開く。
鐘の音が空を渡り、風がやさしく吹いた。
三九郎は、そっと目を閉じた。
その頃、現実の戦場では――。
泥と煙が満ちる野を、滝川藤九郎が、血に染まった三九郎の躯を背負い、ただ一心に歩いていた。
「……若殿、もうすぐでござります。もうすぐ味方の陣が……」
雨は止まない。
銃声も、遠くではまだ響く。
ぬかるんだ地に足を取られ、何度も倒れそうになりながらも、藤九郎は歯を食いしばった。
背にある主の身体は、重く、あまりにも静かだった。
だが、その重みこそが、藤九郎にとっては命そのものだった。
「……若殿、わしは忘れませぬ。あの日、初めて槍の使い方を教えてくださったこと。戦の意味を、わしに問いかけてくださったこと……」
やがて、森陰に味方の旗が見えた。
その瞬間、雲の切れ間から、一条の光が差し込む。
湿った野に、たったひと筋のやさしい光。
「……若殿……」
藤九郎は、震える膝で最後の坂を登った。
そこには、味方の陣と、安息の焚き火の煙がゆらいでいた。
藤九郎は、ゆっくりと、三九郎を地に伏せぬよう、そっと横たえた。
「……どうか、おやすみなされませ。この身を賭して、若殿の志は、それがしが守りまする……」
その夜、藤九郎は星の下で静かに祈った。
三九郎が首に下げていた小さな十字架を、そっと胸にあてる。
風が吹いた。
風鈴の音のように、どこか遠くで、やさしい鈴の音が響いていた――。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
