獅子の末裔

卯花月影

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29.関東騒乱

29-6. 水底の城

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 忍城――。
 水に沈むはずだった城。だが、城は沈まなかった。
 六月、重たい梅雨の雲が垂れ込める空の下、秀吉の命を受けた普請が延々と続いた。
 何百、何千という人足が、泥に足を取られながらも、黙々と土を積み上げ、堤を伸ばし続けた。
 中山道を越えて集められた農民たちの汗と血が、まさにこの「水攻め」という狂気を成していた。

 広大な堤防が築かれ、利根川の流れがねじ曲げられた。
 水は低きへ、広がりながら流れ出した。
 田畑が、一夜にして沼となる。
 桑畑も麦の畝も、濁った泥に埋もれた。
 水面には、腐りかけた作物と、家畜の屍が浮かんだ。

 村々はことごとく水に沈んだ。
 竹垣に引っかかった赤子の死骸、流された厠の戸板にしがみついて亡くなった老女、片腕だけが見えるまま水面を漂う男――。
 誰が兵で、誰が民か、もはや見分けるすべもない。

 水は生き物のようにうねり、汚れた泡を噴き出しながら、森を呑み、社を押し流し、仏像の首をねじ切っていった。
 それでも忍城は、丘の上にしずかに立ち続けていた。
 まるで、流転の時のただ中にあって、ひとつだけ変わらぬ巨木のように。

 滝川三九郎は、舟のへりに立ち、黙してその光景を見下ろしていた。
 脚元を漂うのは、民が育てた穂のない稲束。
 耳に届くのは、蛙の声ではなく、濁流のうねりと、遠くで啼く鶏の哀しい声だった。

(……神も仏もないものか)
 何十年もかけて耕されてきた田が、いまは泥沼と化していた。
 あの日まで、そこには米が実り、笑い声があったはずなのだ。
 今はただ、濁った水の上に、ぽっかりと浮かぶ柿の葉と、青い着物の切れ端が揺れている。

 打ち捨てられた村の土塀が、半ば水に崩れかけながらも、辛うじて立っていた。
 その軒下に、ひとつ、破れた風鈴が残っていた。
 鉄の風が吹くたびに、くぐもった音がした。
 もはや涼やかではなく、どこか悲しげで、空ろな音色だった。
 三九郎の心を、ふいに何かがつかんだ。

 ――かつて、この村にも夏があり、家族があり、祈りがあった。
 濁流は、すべてを呑み込んだ。だが、呑み込まれたものの記憶までは、奪いきれない。

 三九郎は目を閉じた。
 軒に残る破れた風鈴。
 それが、空ろな音を立てて揺れていた。

 遠い夏の日、我が子・久助が、笑いながら風鈴を指さしていた光景が、ふいに脳裏をよぎった。
(久助……お虎……)
 心に滲んだ痛みを、深く呑み込んだ。
 戦場に立つ以上、未練は毒だ。
 だが、毒にも似た未練が、血のように全身を巡っていた。

 やがて、泥にまみれた野を、敵の成田勢が押し寄せてきた。
 水攻めに耐えた者たちの、怒りと誇りを乗せた反撃だった。
 三九郎は槍を取り、最前線へ躍り出た。

 斬り合い、突き合い、血と泥の匂いが風に乗った。
 無数の叫びと濁流の音に紛れ、一騎、鮮やかな鎧を纏った武者が、前に立った。
 槍を交える。
 一突き、二突き。
 その動きの軽やかさ、そして一瞬の、清冽な瞳――。
 三九郎は、はっとした。

(……女、か)

 成田家――。
 代々、成田家には、男と並び立ち、槍をとる女武者がいると、かつて耳にしたことがあった。
 聞き流すには惜しい、どこか哀しくも誇らしげな、古い伝承だった。
 今、その伝え話が、目の前の現実となって現れている。

(これが……成田甲斐)

 彼女の瞳には、哀しみと、抗いがたい誇りが宿っていた。
 この戦の中にあって、なお、美しいものが残るなら、まさにこの武者こそがそれだ――。

 三九郎の胸に、かすかな情が芽生えた。
 この戦はもはや、何のためでもない。
 だがせめて、この者ひとりだけでも救いたい。
 三九郎は槍を引いた。

「行け」
 低く、かすれた声で、短く告げた。
 成田甲斐は驚いたように三九郎を見た。
 だが、何も言わず、ただ深く一礼すると、しなやかに踵を返し、森陰へと駆けていった。

 ――その瞬間だった。
 火縄銃の轟音が、天地を引き裂いた。
 乾いた破裂音が幾重にも重なり、戦場の空気が一変する。
 銃口の向こうで火花が散り、煙が立ち昇る。
 鉛の雨が、斜めに、鋭く、空を裂いて降り注いだ。

 三九郎の足に、一発。
 腕に、もう一発。
 そしてうなじのすぐ下に、鋭い痛みが走った――弾丸が肉を裂き、骨に当たって砕ける感触が、遅れて脳に届いた。
「……!」
 息が、喉の奥で詰まる。
 討たれた馬が絶叫を上げ、前脚を折り、地面に呑み込まれるように崩れ落ちた。
 鞍から投げ出された三九郎の体が、泥と血にまみれた地へ叩きつけられる。

 視界がぐらりと揺れた。
 空が逆さまに回る。
 耳の奥で、低い唸り声のような音が響きつづけていた。
 血が、土に溶けてゆく。
 その温もりすら、もう遠かった。

 滝川藤九郎が駆け寄る。
 泥を蹴立て、息を切らして。
 両腕で三九郎の体を抱き起こし、その名を呼ぶ。
「若殿! 若殿――!」
 だが、その声はもう、届かない。

 ――頭上に、鉛色の空。
 風にざわめく竹林。
 泥に煙る世界。
 意識が遠のく中、三九郎の心は、ふいに遠い過去へ還った。

 あの日――見覚えのある、川のほとり。

 春まだ浅き頃、日野の里には、陽気が少しずつ満ちはじめていた。
 川沿いの土手には、名も知らぬ白い花が一面に咲き広がり、細い柳が、薄緑の芽吹きを風に揺らしていた。
 遠くには、山並みに残る雪が、薄墨のように霞んで見えた。
 田畑には水が張られ、空を映して、どこまでも青かった。

 日野の四季――
 春には、こうして野に花が咲き、里人たちの笑い声が田の面にこだました。
 夏には、濃い緑の木立と蝉時雨が、村を包み、子らは日野川に飛び込んで遊んだ。
 秋になれば、稲穂が金色に波打ち、祭囃子が小さな社に響き渡った。
 冬には、田畑も川も霜に白く縁取られ、早朝にはあちこちの家から煙がのぼり、寒さをやわらげた。

 そんな四季のすべてを、三九郎は肌で覚えていた。
 それは、どれも温かく、やさしい記憶だった。
 その春の日もまた――
 土手に腰を下ろし、何気なく水面を眺めていた三九郎の前に、一人の娘が現れた。

 浅葱色の小袖に、色あせた赤い帯。
 名家の姫にしてはずいぶんと地味な身なりだったが、妙に品があった。
 黒髪を簡素に結い、控えめな顔立ちに、どこかおっとりとした、頼りなげな風情をたたえていた。

――それが、お虎だった。
 お虎は、そっと土手の花を摘んでいた。
 それは、病に伏す父親の枕元に飾るためだった。

 花を摘むその手つきは、不器用ながらも、花を折るたびに胸の内から祈るような思いがにじんでいた。
 小柄なその背が、かすかに春の川風に吹かれて揺れていた。

「花摘みか?」
「はい。父上に、お見せしとうて…」
 虎がどこか照れたように返すと、ふたりのあいだに、川風が吹き抜けた。
 銀の光を揺らす川面、土手を覆う小さな白い花々。
 お虎は、小さな手で摘み取った白い花を、ぎこちなく束ねていた。

 遠く、土手の上では、子供たちが駆け回り、誰かが遠くで、田をうがつ鍬の音を立てていた。
 野を渡る風はやわらかく、まだどこか冷たさを残していた。

 すべてが、生まれたばかりの季節の中にあった。
 すべてが、これからだと思えたあの頃。
 この日、この時――
 三九郎とお虎の運命の糸は、確かに、そっと結ばれた。

 ふと気づくと、久助が水面に小石を投げて遊んでいる。その小さな手、その無邪気な笑顔は、陽だまりの中の夢のようだった。
 そよ風に吹かれる野花。
 お虎は、まだ見ぬ娘、お籍をその胸に抱いていた。
 そよ風が吹くたび、草の匂いとともに、彼女のやさしい微笑が三九郎の胸を満たした。

 何ひとつ、足りないものなどなかった。
 家族という、かけがえのない世界。
 刃も策も届かぬ、小さな楽園。
 三九郎はただ、彼らのそばに在りたかった。
 久助の成長を見届けたかった。
 お虎の横顔を、老いるまで見つめていたかった。
 お籍の初めての声を、この腕で抱きしめて聞きたかった。

 それは、どこにでもあるようで、たった一つしかない幸福。すべては人の欲と思惑と、大義の名のもとに奪い去られた。
(帰りたい……)
 もう一度だけでもいい。
 久助を肩車して、川の土手を歩きたい。
 お虎と並んで、麦畑を渡る風に耳を澄ませたい。
 お籍の名を、呼んでみたい。

 奪われたもの。
 戻らぬもの。
 けれど、心の中では、今も息づいている。
 その記憶の温かさだけが、命の終わりを照らす光となっていた。

 ――世界は、ただそれだけで、完全だった。
 だが、帰る道は、もうない。

 風鈴の音が、ふと止んだ。
 まぶたの裏が、白く光に包まれる。雪解け水が静かに流れるような、やわらかな光。
 そこに、何かが見える。

――城のようで城ではない。高い石垣もなく、櫓もなく、ただ白く、光に包まれた場所。
 音もなく風が吹き、樹々の葉がそよぎ、
 鳥たちが天空を舞い、どこかで鐘の音が響いていた。

 その門の前に、ひとりの武将が立っていた。
 法衣のような着物をまとい、白髪を風に揺らすその姿。

 三九郎は、思わず膝を折った。
 その胸に込み上げるものは、懺悔でも、誇りでもない。
 ただ、懐かしさと、帰る場所を見出した安らぎであった。

「……父上……」
 一益は黙って微笑んだ。
 老いたその顔に、かすかな涙のような光がきらめく。
「よう来た、三九郎……もう、よい。槍を置け。心を休めよ。そなたは……よう戦った」

 懐かしい父の声。
 その手が、三九郎の肩に触れたとき、
 不意に、あの声が聞こえた。

――「父上!」
 駆けてくる久助の声。
――「若殿……」と、ふり返るお虎の面影。

 だが、そこには彼らの姿はなかった。
 それは、三九郎の心が作り出した幻、まだこの世に生きる者たちへの、切なる想いだった。

「……お虎……久助……お籍……」

 三九郎の手は宙を彷徨った。
 届きそうで、届かない。
 ここにはいない、けれど、確かにこの胸にいる。

 一益が静かにうなずいた。
「皆は、健固に過ごしておる。されど、そなたの心は、かならず皆のもとに寄り添う。それでよいではないか」
 門が、ゆっくりと開く。
 鐘の音が空を渡り、風がやさしく吹いた。
 三九郎は、そっと目を閉じた。


 その頃、現実の戦場では――。

 泥と煙が満ちる野を、滝川藤九郎が、血に染まった三九郎の躯を背負い、ただ一心に歩いていた。

「……若殿、もうすぐでござります。もうすぐ味方の陣が……」

 雨は止まない。
 銃声も、遠くではまだ響く。
 ぬかるんだ地に足を取られ、何度も倒れそうになりながらも、藤九郎は歯を食いしばった。

 背にある主の身体は、重く、あまりにも静かだった。
 だが、その重みこそが、藤九郎にとっては命そのものだった。

「……若殿、わしは忘れませぬ。あの日、初めて槍の使い方を教えてくださったこと。戦の意味を、わしに問いかけてくださったこと……」

 やがて、森陰に味方の旗が見えた。
 その瞬間、雲の切れ間から、一条の光が差し込む。
 湿った野に、たったひと筋のやさしい光。
「……若殿……」

 藤九郎は、震える膝で最後の坂を登った。
 そこには、味方の陣と、安息の焚き火の煙がゆらいでいた。
 藤九郎は、ゆっくりと、三九郎を地に伏せぬよう、そっと横たえた。
「……どうか、おやすみなされませ。この身を賭して、若殿の志は、それがしが守りまする……」

 その夜、藤九郎は星の下で静かに祈った。
 三九郎が首に下げていた小さな十字架を、そっと胸にあてる。

 風が吹いた。
 風鈴の音のように、どこか遠くで、やさしい鈴の音が響いていた――。



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