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29.関東騒乱
29-5. 幸いな人
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伊豆国・韮山城――
箱根山を越えてなお南に下ったこの城下には、初夏の濃き緑が日ごとに色を深め、潤いを孕んだ風が川面をわたってゆく。梅雨入りを間近に控えた空は鈍く重く、時折、遠雷が海の彼方から響くような気配がした。
その風に、豊臣方の陣幕が幾重にもはためいている。
韮山城は深き山と川に囲まれ、難攻不落とうたわれた北条の堅城――その城にいま、織田信雄の率いる五万の軍勢が、静かに、しかし確かに包囲の輪を狭めていた。
ただ、戦は動かない。
大軍の威圧で開城に至らせるという策のもと、黒田官兵衛が幾度も城内に使者を送り、北条氏規に降伏を促していた。
それを眺めながら、忠三郎はじっと耐えていた。
自らが兵を率いて戦うことなく、ただ幕内にて話が進むのを見守る――それが命じられた立場であったとしても、沸き立つものを抑え切るのは難しかった。
「たかだか五千の兵に、二月もかかって落とせぬとあっては、武門の名折れでございます」
そう進言した忠三郎の声は、穏やかであったが、微かな熱がこもっていた。
その顔にはいつものように柔らかな笑みがあったが、心の奥には、内に積もったものが静かに揺れていた。
対する織田信雄は、むずかしそうに眉を寄せた。
「忠三郎。……なにも急くことはあるまい。城方には黒田なる者が話を進めておるという。無用な血は流さぬに越したことはない」
まるで梅雨空のように、煮えきらぬ言葉だった。
「それよりものう、忠三郎。北条が降ったのちの関東支配の件、聞き及んでおるか」
「は…それは…」
「あの猿めが、このわしを関東に封じ込めようとしておるらしい」
信雄は苦々し気にそう言う。
信雄にしてみれば、関白となった秀吉も、いまだ織田家の郎党の一人にすぎないのだろう。
「会津には久太郎という話であったが、久太郎めが固辞し、おぬしの名をあげおったわい」
忠三郎は、うっすらと眉を寄せたまま、信雄の言葉の意味を反芻した。
「久太郎が…それがしを…」
口の内で繰り返すと、その言葉の響きには、どうしても違和感が残った。
織田信雄の声が、風にまぎれて遠ざかってゆくように感じた。
忠三郎は、黙って頭を垂れたまま、しばし身じろぎもせずにいた。
胸の奥では、ぬかるみに火をくべたように、じりじりとした怒りと困惑が交錯していた。
(――会津移封は久太郎の入れ知恵…)
まさか、と理がささやいた。だが、己の勘はもっと深く、もっと冷たく告げていた。
これは、かつてのように――またしても、わしを追いやろうとしているのだ。
堀久太郎、こと堀秀政。
元服前のまだ前髪立ちの頃、岐阜城で毎日のように顔を合わせた。
忠三郎が、まだ蒲生氏郷と名乗る前、父・賢秀に代わって人質として岐阜に預けられていた頃の話だ。
南近江の蒲生家――名門佐々木六角氏の旧臣筋にして、織田家の下でも屈せず一目置かれていた家柄。
当時から、若き忠三郎は学問にも長け、信長の目にも留まっていた。
それが、堀久太郎の癇に障ったのだろう。
――わざと重き鎧を着せられ、兵法稽古の場で「見苦しい」と笑われた。
――秀才と囃された夜には、茶席にて茶器を粗相したように見せかけられ、失態を演出された。
――信長の前で読み上げた漢詩には「人の褌で相撲を取った」などと影で揶揄された。
そのすべてが、久太郎の仕込みだったかどうかは知れぬ。だが、久太郎が嘲笑の先にいたことは、忘れようにも忘れられない。
そして今――。
あの久太郎が、豊臣政権の寵臣となり、秀吉の「側近」として政の中枢にいる。
そして漏れ出した「会津への移封」。
会津のような大国の支配――それを辞退して、自らよりも格下と見なしていた忠三郎の名を上げるなど、どうにも理屈が通らない。
(まさか――)
その刹那、忠三郎の胸を、冷たいものがひと筋、背骨に沿って走った。
(――これは、罠か)
ただの推挙ではない。
久太郎は、信長の娘婿であり、織田家にとっての過去の象徴でもある忠三郎を、表舞台から引きずり下ろそうとしている。
そもそも、会津移封とは如何なる意味か。
秀吉のもとで今や外様と化した忠三郎を、東国の奥深くに送り込むということ。すなわちそれは、中央政権からの遠ざる目的に他ならない。加えて、会津の支配は容易ではない。反発する地侍、東北の冷気、肥沃ながらも荒れた土地――失敗すれば、それは滅びに繋がる。
「会津」は、名誉であるように見せかけた、実質的な辺境――監視と隔離の地。
(久太郎……おぬし、策をもってわしを追いやるつもりか)
秀吉も、知っているのだ。
久太郎は、おそらく秀吉と共に画策している。
蒲生忠三郎という名を、静かに、しかし確実に歴史の帳の奥に追いやるために。
口元に笑みを浮かべたまま、忠三郎はじっと黙していた。
織田信雄はまるで己がすべてを見通しているかのように、胸を張って言葉を続ける。
「まあ、猿めの采配ゆえどうなるかは分からぬがの。いずれにせよ、猿の時代も長くはあるまい。いずれ我ら織田家が、再び天下を……」
信雄の言葉はもはや、夢とも空言ともつかぬものだった。
忠三郎は微笑を崩さぬまま、深く頭を垂れた。
「ご高説、まことに恐れ入ります」
だがその実、心は凪が壊れるようにざわめいていた。
ありし日の岐阜の記憶、黙って屈辱を耐えた少年の日の感触を、ありありと甦らせた。
(久太郎よ……わしは、もはやあの頃の人質ではない。たとえ秀吉の寵臣であろうと、この蒲生忠三郎、再び恥辱に沈むつもりはない)
韮山の空には、薄く切れた雲の合間から、まだ湿気を帯びた淡い陽が覗いている。
陣幕の外で、遠雷が一つ。
空さえ、心の内の怒りを代弁するように鳴り響く。
それはあまりにも静かで、静けさゆえに胸の奥の怒りや焦りが、よりはっきりと浮き上がってくる。
(もはや、手をこまねいているわけには…)
何もかもを人任せにはできない。己の命運も、家の未来も。
(久太郎……覚悟しておれ。おぬしがその策をめぐらせたならば、それを逆手に取り、我がための道とせん)
初夏の風が陣幕をふわりとはためかせた。
その音は、まるで静かなる戦の始まりを告げる鼓動のようだった。
怒りの焔は、なおも忠三郎の胸の底で燻っていた。
陣の外には、暮れなずむ伊豆の山々。湿り気を含んだ風が、竹林をざわつかせている。
その風音の中にまぎれて、しずかに足音が近づいてきた。
帷幕の外に影が落ちたかと思うと、控えの者が小声で告げた。
「黒田官兵衛様、お見えにございます」
忠三郎は驚かなかった。
むしろ、来るべくして来た――そんな予感がしていた。
官兵衛は、薄墨の鎧直垂に身を包み、黒々とした瞳に静謐な光を湛えていた。
暮れかけた空の下、その姿はまるで夜の霧にまぎれた修道士のようだった。
「……夜分に、失礼つかまつる」
「いや、ちょうどよい。わしも、話をしたいと思うていた」
忠三郎は、いつになく率直だった。
抑え込んできた感情が、声の端々に滲み出していた。
「官兵衛殿も存じておろう。久太郎めが、わしを会津へ追いやろうとしておると」
その声には、怒りよりも、むしろ深い疲れが滲んでいた。
「わしは……すべてを失った」
忠三郎は、低くつぶやいた。
故郷・日野の地も、義兄とも慕った滝川一益も、天下人の連枝としての未来も――。
信長の死とともに、すべては音を立てて崩れ去った。
「わしは、ただ……耐えてきた。泥にまみれ、屈辱にまみれてなお、生きようとしてきた。されど――」
拳が膝の上で小さく震えた。
心の奥に押し込めたものが、ひび割れ、溢れそうになった。
「それでも、なお、踏みにじられねばならぬというのか」
「忠三郎殿」
官兵衛が、ようやく口を開いた。
「それがしもまた、忠三郎殿と同じく、人の意により翻弄され、牢に落とされ、足を引きずる身となり申した」
その話は知っていた。かつて荒木村重が信長に叛旗を翻したとき、官兵衛は説得のために有岡城に赴き、裏切られて囚われた。
暗き牢獄の中、骨を削がれ、飢えと寒さに苛まれながら、官兵衛は一年を生き抜いた。
救い出されたときには、片足の自由を失っていた。
「骨を削られ、痛みに喘ぎ、光なき牢で日々を数えるうち、すべてが絶たれたと思うた。されど、真理は悲しむものの心を照らすもの。悲しみの人にこそ、まことの神の憐れみが指し示される。なぜならば…」
官兵衛は一呼吸おいて、忠三郎に笑顔を向けた。
「主イエスが悲しみの人であったゆえでござろう」
その声は、霧雨のように静かで、心のひび割れを優しくなぞる。
「悲しみの人…」
「然様。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰さめられん。これぞ真理。我らの信ずる道。そうは思われぬか」
官兵衛の言葉が、ふわりと忠三郎の胸に降り積もる。
「はるか昔、敵の手により故国を奪われ、敵国に連れられて行った神の民。捕らわれた民は当初、すぐに国に帰ることができるという希望をもっていたとか。されど、その希望は幻と変わり、何年待っても、故国に戻ることはかなわなかったのでござるよ」
しかし、故国を奪われ、敵国で暮らしたことにより、彼らは町や神殿を重んじる代わりに、神から与えられた律法を重要視するように変わっていった。
遠い遠い時代の苦難と、いま自分が抱える痛みとが、静かに重なる。
「彼らは希望を捨てなかった。七十年という、果てなき時を経てもなお、神を信じ、故国に帰る日を信じ続けた。……忠三郎殿。会津の地に赴くこともまた、神の御手のうちにあるかと、それがしは信じており申す」
外では、鈍色の雲が重たくたれ込め、初夏の湿った風が竹林を渡っていた。
どこか遠く、海鳴りのような低い雷が響く。
「この天が下において、創造主の力の及ばぬところはない。それは遠国・会津においても同様かと。そして新たな地で、まことの神が忠三郎殿に新たな計画を用意していると、それがしはそう思案する次第」
官兵衛の声は、風に溶けるように柔らかかった。
「新たな計画…」
忠三郎は、そっと目を閉じた。
重たく、曇った心の奥に、ひと筋の光が差し込むようだった。
すべてを失ったと思っていた。
だが、それでも、自分にはまだ、生きる道がある。
天がくだす試練の中に、なおも希望を見出すことができるのか――。
ふいに、竹林を渡る風の中に、小さな白い花が咲いているのが見えた。
名も知らぬ野の花。
けれど、どんな嵐にも耐え、なお咲き誇るその姿に、なぜか目を離せなかった。
(佐助。おぬしがおれば、同じことを言うてくれたか)
誰に知られずとも。
誰に報いられずとも。
二人の間に、しんしんと夜の気配が降りてきた。
はるか遠い雲の向こうには、まだ見ぬ光があると、忠三郎は信じようと思った。
箱根山を越えてなお南に下ったこの城下には、初夏の濃き緑が日ごとに色を深め、潤いを孕んだ風が川面をわたってゆく。梅雨入りを間近に控えた空は鈍く重く、時折、遠雷が海の彼方から響くような気配がした。
その風に、豊臣方の陣幕が幾重にもはためいている。
韮山城は深き山と川に囲まれ、難攻不落とうたわれた北条の堅城――その城にいま、織田信雄の率いる五万の軍勢が、静かに、しかし確かに包囲の輪を狭めていた。
ただ、戦は動かない。
大軍の威圧で開城に至らせるという策のもと、黒田官兵衛が幾度も城内に使者を送り、北条氏規に降伏を促していた。
それを眺めながら、忠三郎はじっと耐えていた。
自らが兵を率いて戦うことなく、ただ幕内にて話が進むのを見守る――それが命じられた立場であったとしても、沸き立つものを抑え切るのは難しかった。
「たかだか五千の兵に、二月もかかって落とせぬとあっては、武門の名折れでございます」
そう進言した忠三郎の声は、穏やかであったが、微かな熱がこもっていた。
その顔にはいつものように柔らかな笑みがあったが、心の奥には、内に積もったものが静かに揺れていた。
対する織田信雄は、むずかしそうに眉を寄せた。
「忠三郎。……なにも急くことはあるまい。城方には黒田なる者が話を進めておるという。無用な血は流さぬに越したことはない」
まるで梅雨空のように、煮えきらぬ言葉だった。
「それよりものう、忠三郎。北条が降ったのちの関東支配の件、聞き及んでおるか」
「は…それは…」
「あの猿めが、このわしを関東に封じ込めようとしておるらしい」
信雄は苦々し気にそう言う。
信雄にしてみれば、関白となった秀吉も、いまだ織田家の郎党の一人にすぎないのだろう。
「会津には久太郎という話であったが、久太郎めが固辞し、おぬしの名をあげおったわい」
忠三郎は、うっすらと眉を寄せたまま、信雄の言葉の意味を反芻した。
「久太郎が…それがしを…」
口の内で繰り返すと、その言葉の響きには、どうしても違和感が残った。
織田信雄の声が、風にまぎれて遠ざかってゆくように感じた。
忠三郎は、黙って頭を垂れたまま、しばし身じろぎもせずにいた。
胸の奥では、ぬかるみに火をくべたように、じりじりとした怒りと困惑が交錯していた。
(――会津移封は久太郎の入れ知恵…)
まさか、と理がささやいた。だが、己の勘はもっと深く、もっと冷たく告げていた。
これは、かつてのように――またしても、わしを追いやろうとしているのだ。
堀久太郎、こと堀秀政。
元服前のまだ前髪立ちの頃、岐阜城で毎日のように顔を合わせた。
忠三郎が、まだ蒲生氏郷と名乗る前、父・賢秀に代わって人質として岐阜に預けられていた頃の話だ。
南近江の蒲生家――名門佐々木六角氏の旧臣筋にして、織田家の下でも屈せず一目置かれていた家柄。
当時から、若き忠三郎は学問にも長け、信長の目にも留まっていた。
それが、堀久太郎の癇に障ったのだろう。
――わざと重き鎧を着せられ、兵法稽古の場で「見苦しい」と笑われた。
――秀才と囃された夜には、茶席にて茶器を粗相したように見せかけられ、失態を演出された。
――信長の前で読み上げた漢詩には「人の褌で相撲を取った」などと影で揶揄された。
そのすべてが、久太郎の仕込みだったかどうかは知れぬ。だが、久太郎が嘲笑の先にいたことは、忘れようにも忘れられない。
そして今――。
あの久太郎が、豊臣政権の寵臣となり、秀吉の「側近」として政の中枢にいる。
そして漏れ出した「会津への移封」。
会津のような大国の支配――それを辞退して、自らよりも格下と見なしていた忠三郎の名を上げるなど、どうにも理屈が通らない。
(まさか――)
その刹那、忠三郎の胸を、冷たいものがひと筋、背骨に沿って走った。
(――これは、罠か)
ただの推挙ではない。
久太郎は、信長の娘婿であり、織田家にとっての過去の象徴でもある忠三郎を、表舞台から引きずり下ろそうとしている。
そもそも、会津移封とは如何なる意味か。
秀吉のもとで今や外様と化した忠三郎を、東国の奥深くに送り込むということ。すなわちそれは、中央政権からの遠ざる目的に他ならない。加えて、会津の支配は容易ではない。反発する地侍、東北の冷気、肥沃ながらも荒れた土地――失敗すれば、それは滅びに繋がる。
「会津」は、名誉であるように見せかけた、実質的な辺境――監視と隔離の地。
(久太郎……おぬし、策をもってわしを追いやるつもりか)
秀吉も、知っているのだ。
久太郎は、おそらく秀吉と共に画策している。
蒲生忠三郎という名を、静かに、しかし確実に歴史の帳の奥に追いやるために。
口元に笑みを浮かべたまま、忠三郎はじっと黙していた。
織田信雄はまるで己がすべてを見通しているかのように、胸を張って言葉を続ける。
「まあ、猿めの采配ゆえどうなるかは分からぬがの。いずれにせよ、猿の時代も長くはあるまい。いずれ我ら織田家が、再び天下を……」
信雄の言葉はもはや、夢とも空言ともつかぬものだった。
忠三郎は微笑を崩さぬまま、深く頭を垂れた。
「ご高説、まことに恐れ入ります」
だがその実、心は凪が壊れるようにざわめいていた。
ありし日の岐阜の記憶、黙って屈辱を耐えた少年の日の感触を、ありありと甦らせた。
(久太郎よ……わしは、もはやあの頃の人質ではない。たとえ秀吉の寵臣であろうと、この蒲生忠三郎、再び恥辱に沈むつもりはない)
韮山の空には、薄く切れた雲の合間から、まだ湿気を帯びた淡い陽が覗いている。
陣幕の外で、遠雷が一つ。
空さえ、心の内の怒りを代弁するように鳴り響く。
それはあまりにも静かで、静けさゆえに胸の奥の怒りや焦りが、よりはっきりと浮き上がってくる。
(もはや、手をこまねいているわけには…)
何もかもを人任せにはできない。己の命運も、家の未来も。
(久太郎……覚悟しておれ。おぬしがその策をめぐらせたならば、それを逆手に取り、我がための道とせん)
初夏の風が陣幕をふわりとはためかせた。
その音は、まるで静かなる戦の始まりを告げる鼓動のようだった。
怒りの焔は、なおも忠三郎の胸の底で燻っていた。
陣の外には、暮れなずむ伊豆の山々。湿り気を含んだ風が、竹林をざわつかせている。
その風音の中にまぎれて、しずかに足音が近づいてきた。
帷幕の外に影が落ちたかと思うと、控えの者が小声で告げた。
「黒田官兵衛様、お見えにございます」
忠三郎は驚かなかった。
むしろ、来るべくして来た――そんな予感がしていた。
官兵衛は、薄墨の鎧直垂に身を包み、黒々とした瞳に静謐な光を湛えていた。
暮れかけた空の下、その姿はまるで夜の霧にまぎれた修道士のようだった。
「……夜分に、失礼つかまつる」
「いや、ちょうどよい。わしも、話をしたいと思うていた」
忠三郎は、いつになく率直だった。
抑え込んできた感情が、声の端々に滲み出していた。
「官兵衛殿も存じておろう。久太郎めが、わしを会津へ追いやろうとしておると」
その声には、怒りよりも、むしろ深い疲れが滲んでいた。
「わしは……すべてを失った」
忠三郎は、低くつぶやいた。
故郷・日野の地も、義兄とも慕った滝川一益も、天下人の連枝としての未来も――。
信長の死とともに、すべては音を立てて崩れ去った。
「わしは、ただ……耐えてきた。泥にまみれ、屈辱にまみれてなお、生きようとしてきた。されど――」
拳が膝の上で小さく震えた。
心の奥に押し込めたものが、ひび割れ、溢れそうになった。
「それでも、なお、踏みにじられねばならぬというのか」
「忠三郎殿」
官兵衛が、ようやく口を開いた。
「それがしもまた、忠三郎殿と同じく、人の意により翻弄され、牢に落とされ、足を引きずる身となり申した」
その話は知っていた。かつて荒木村重が信長に叛旗を翻したとき、官兵衛は説得のために有岡城に赴き、裏切られて囚われた。
暗き牢獄の中、骨を削がれ、飢えと寒さに苛まれながら、官兵衛は一年を生き抜いた。
救い出されたときには、片足の自由を失っていた。
「骨を削られ、痛みに喘ぎ、光なき牢で日々を数えるうち、すべてが絶たれたと思うた。されど、真理は悲しむものの心を照らすもの。悲しみの人にこそ、まことの神の憐れみが指し示される。なぜならば…」
官兵衛は一呼吸おいて、忠三郎に笑顔を向けた。
「主イエスが悲しみの人であったゆえでござろう」
その声は、霧雨のように静かで、心のひび割れを優しくなぞる。
「悲しみの人…」
「然様。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰さめられん。これぞ真理。我らの信ずる道。そうは思われぬか」
官兵衛の言葉が、ふわりと忠三郎の胸に降り積もる。
「はるか昔、敵の手により故国を奪われ、敵国に連れられて行った神の民。捕らわれた民は当初、すぐに国に帰ることができるという希望をもっていたとか。されど、その希望は幻と変わり、何年待っても、故国に戻ることはかなわなかったのでござるよ」
しかし、故国を奪われ、敵国で暮らしたことにより、彼らは町や神殿を重んじる代わりに、神から与えられた律法を重要視するように変わっていった。
遠い遠い時代の苦難と、いま自分が抱える痛みとが、静かに重なる。
「彼らは希望を捨てなかった。七十年という、果てなき時を経てもなお、神を信じ、故国に帰る日を信じ続けた。……忠三郎殿。会津の地に赴くこともまた、神の御手のうちにあるかと、それがしは信じており申す」
外では、鈍色の雲が重たくたれ込め、初夏の湿った風が竹林を渡っていた。
どこか遠く、海鳴りのような低い雷が響く。
「この天が下において、創造主の力の及ばぬところはない。それは遠国・会津においても同様かと。そして新たな地で、まことの神が忠三郎殿に新たな計画を用意していると、それがしはそう思案する次第」
官兵衛の声は、風に溶けるように柔らかかった。
「新たな計画…」
忠三郎は、そっと目を閉じた。
重たく、曇った心の奥に、ひと筋の光が差し込むようだった。
すべてを失ったと思っていた。
だが、それでも、自分にはまだ、生きる道がある。
天がくだす試練の中に、なおも希望を見出すことができるのか――。
ふいに、竹林を渡る風の中に、小さな白い花が咲いているのが見えた。
名も知らぬ野の花。
けれど、どんな嵐にも耐え、なお咲き誇るその姿に、なぜか目を離せなかった。
(佐助。おぬしがおれば、同じことを言うてくれたか)
誰に知られずとも。
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