169 / 214
30.陸奥(みちのく)へ
30-1. 風は西より来たりて
しおりを挟む
天正十八年六月――。
梅雨の湿りがまだ地を離れぬ関東平野を背に、蒲生忠三郎は、軍勢を率いて、ひそやかに小田原の包囲陣を離れた。目指すは、東北の果て、奥州・会津。
風はすでに夏の匂いを含み、山間を渡る涼やかな空気が、かすかに楢葉の香を運んでくる。田畑は雨に濡れ、青く盛り上がる稲の苗の間を、白鷺がひと筋、飛んでいった。
(これが、わしの新しき国か……)
忠三郎は馬上より、遥かなる北の大地を見つめた。
奥州――。かつて蝦夷と呼ばれた人々が住まいしこの地は、幾度も大和朝廷や鎌倉幕府の手によって征されながらも、その奥深い山河の裡に、いまだ言葉にできぬ古の気配を残している。
安倍、清原、藤原と、志を掲げた者たちが興り、そして滅んだ大地。血に染まった歴史の上に、ひと夏の草がまた芽吹く。
その地に、今度は己が根を下ろせというのか――。
忠三郎の胸に去来するのは、従容たる諦めではなかった。
松坂、日野、長島の空。すべての土地に人の暮らしがあり、家族の記憶があり、失ったものがあった。
そしていま、さらに遠く、かつて心の地図にもなかった奥州の山深くへ。
小田原の戦場に残してきた幾千の兵。失われた三九郎の命。
風が過ぎるたびに、それらが耳元でささやくように思われた。
(生きて、行けと……)
空は澄み、雲が千切れては東北の山並みに溶けていく。
それはまるで、古より絶えず続く人の営みを、すべて見おろす創造主の眼差しのようでもあった。
会津へと向かう街道の途中、忠三郎はふと、旅立ち前夜のことを思い出していた。
関東を発つ前、梅雨の雨がしとどに降りしきる夜。陣営の一角、藁敷きの仮庵にて、傅役の町野左近が、膝を揃えて座していた。
「……若殿、いや、もはや殿にてあらせられますな」
いつになく口重く、左近は言葉を選ぶようにして続けた。
その面差しには、何日も悩み続けた末の決意がにじんでいた。
いつものように静かに言葉を紡ぎながらも、声の奥に、どこか痛みのような響きがあった。
「まことに口惜しきことながら、此度の奥州への御供、叶いませぬ」
忠三郎は静かに町野左近を見つめた。
左近は、さらに深く頭を下げ、続ける。
「実は……日野の竹田神社にございます、我が実父が、近頃、重い病に倒れまして」
その言葉に、忠三郎の目がかすかに揺れた。
「殿もご存じの通り、それがしは、もと竹田神社の社家の生まれ。幼き折、町野家に養われ、以来、蒲生家に御奉公仕り候。…されど、今般、父の病重く、家には跡継ぎもございませぬ」
灯明が淡く、左近の頬の皺と髭を浮かび上がらせていた。
「跡を継ぐはずであった兄は先年の流行り病に倒れ、父には、もう跡継ぎがございませぬ」
「……」
「幾夜も迷い続け申した。されど老いたる父母が困窮していると聞いては…」
左近の肩が、かすかに震えた。
雨音が、帳の外で濡れた地を打ち続けていた。
会津は遠い。松坂とは比べものにならぬほど、日野からはるかに離れている。
齢を重ねた両親を日野に残したまま、奥州に渡れば、再び顔を合わせること叶わぬやもしれない――その覚悟が、左近の声に滲んでいた。
忠三郎は、しばし目を伏せたのち、静かに微笑をたたえて口を開いた。
「爺……よう申した。そちの心、よくぞ聞かせてくれた」
「……」
「これまで、わしの傍らにあって、無念の数々もあったろう。それでも一度たりとも、口にせぬ、そちの忠節――まことに感謝いたす」
忠三郎はそっと火桶の傍らから湯漬けをすくい、左近の椀に注いだ。
その手元には、わずかに震えがあったが、それを見せぬよう、慎重に振る舞った。
「案ずるな。わしは一人ではない。これから多くの家臣たちとともに、奥州へ向かう。されど、爺の帰るべきところは、我らの生まれ育った故郷。わしに代わりに日野へ帰り、民を守ってくれ」
そう告げた忠三郎の声は柔らかで、しかし胸中では、何かが静かに崩れ落ちるような思いがあった。
元服前から、自らを導いてくれた傅役――時に父のように、時に影のように寄り添い、ただ一言も報いを求めなかった股肱之臣が、今こうして、目の前から去ってゆこうとしている。
(寂しいものよ……爺。されど、そちは、そちの道を往け)
忠三郎は笑みを崩さぬまま、ぽつりとつぶやいた。
「竹田の社では、今年も蝉が、耳障りなほど鳴いておるであろうな」
左近は顔を伏せたまま、言葉を返さず、ただ深々と、頭を下げ続けていた。
明けて翌朝。
濃き朝もやの中、町野左近はわずかな供を連れ、山路を歩いていった。
その後ろ姿に向け、忠三郎は声をかけることもなく、ただ黙して見送った。
握りしめた掌の内に、こぼれぬように、己の寂しさをそっと抱きしめながら。
――あれから幾日が過ぎただろうか。
国元へと去った町野左近の背を見送ってから、忠三郎は一度も、その名を口にしていなかった。けれども、朝な夕な、ふとした拍子にその言葉が胸奥をよぎる。
(爺……そちは、あの蝉時雨の下、いまも元気でおるか)
思い浮かぶのは、鈴鹿の山々に囲まれたあの静かな谷。早苗が風にそよぎ、夏には蝉が鳴きしきり、秋には稲穂が波を打つ。
遠い昔、兄・重丸とともに遊んだ日々、生涯の友だった佐助と馬を走らせた毎日、そして義兄・滝川一益とはじめて顔をあわせたあの日。それらすべてが日野の空と土とに染み込んでいた。
懐かしい日野谷。先祖代々、蒲生家が守り続けてきた故郷の地。そこへ戻っていった町野左近が、ふと羨ましく思える。
彼は神官の家を継ぎ、あの社に息づく静けさの中で、今はまた別の務めを果たすのだろう。
(されど、わしには……)
忠三郎はゆるりと息を吐き、草を分ける馬の歩みに身を任せた。
――わしには、もう帰る場所などはない。
父・賢秀が亡くなり、松ヶ島へと移った日から、日野の空もまた、どこか遠いものに変わっていた。
この身が受けたのは、ただの国替えではない。
それは、根を引き抜かれ、風のままに運ばれる種のようなものであった。
それでも、歩まねばならない。
それが武家の子として生まれた者の定めならば。
会津へと至る旅路は、想像していたよりも険しく、そして深かった。
関東平野の広がりを後にし、山間に入り、峠を越え、奥羽の山並みが見え始めるころには、夏の色も次第に濃さを増していた。
陽は高く、田に植えられた早苗は風にそよぎ、合間に水鳥が身をひそめる。
忠三郎は、馬上からその景色を眺めながら、己の中に去来する不安と静かに向き合っていた。
人はみな、何かを背負って生きている――。
故郷に父母を残して去る者、己の志と家を天秤にかける者、そして、他人の恨みを無言で引き受ける者。
そのとき、供をしていた関盛信が、馬の歩みを緩めて、ふいに忠三郎に口を開いた。
「殿。そろそろ、会津の城下が見えてまいります」
忠三郎は手綱を軽く引いて馬を止め、前方を望んだ。
夕陽に染まる盆地の向こうに、かすかに城の壁が光っている。
「……ここが、わしの新しき国か」
「はい。しかし――殿には、知っておいていただきたいことがございます」
盛信の声には、どこかためらいと憂いが混じっていたが、やがて、語り始めた――
かつてこの地を治めていた、ある若き猛将――伊達政宗のことを。
「殿。会津という土地は、古くより易きにあらぬ場所にございます。草深く、山深く、されど人の気は浅くない」
「ほう。聞くほどに、興が湧いて参る」
忠三郎はゆるやかに盃を返し、曇りひとつない笑みを浮かべた。
「――ついこの春まで、この地は、伊達左京大夫政宗が支配しておりました」
その名に、忠三郎の手がわずかに止まった。
関白秀吉の命により、奥州仕置が進められる中、政宗は一度こそ従順の姿を見せたものの、その実、内には野心の火を絶やしてはいなかった。
小田原征伐に先立ち、会津を治めていた蘆名氏を討ち、政宗はこの広き地を手に入れた。だがそれは、秀吉の許しを得ぬ勝手な振る舞いであった。
「関白様の怒りを買うは当然のこと。伊達殿は、せっかく手に入れたこの広大な領地を、一言の沙汰で召し上げられた」
盛信はそう言いながら、ひとつ、咳払いした。
「されど――左京大夫は、諦めてはおらぬ」
忠三郎は盃を近侍に渡すと、奥州会津の山なみを眺めた。
高台の下には、葦が揺れる河があり、青い影のような鳥が一羽、水面をかすめて過ぎてゆく。
「面白い男ではないか」
忠三郎の声は飄々としていたが、盛信は眉を寄せたまま首を振った。
「お戯れを……。会津を追われた恨みは深うございましょうぞ。関白様を恨むだけならまだしも――」
「――新たにこの地を預かった、わが身をも?」
「……はい。あの男の眼は、いつも笑っておらぬ。微笑の奥に、冷たき刃を隠す。容易く奪われた会津四十二万石を再び手にしようと、虎視眈々と狙うておるは火を見るよりも明らか」
忠三郎は、扇子を手に取り、ぱたりと開いて顔をあおいだ。
その仕草もどこか気の抜けたようであったが、目の奥に一瞬、鋭い光が宿ったのを、盛信は見逃さなかった。
政宗――伊達政宗は、奥州中を一手に握らんとした若き猛将だ。
十代で初陣を果たし、独眼にて数多の戦を制し、家中の内訌を鎮めた果断の男。
表には従順を装いながら、心中に烈しき反骨と誇りを燃やすその姿は、まさに戦国の鬼火と呼ぶべきものであった。
「左京大夫は、殿の周囲を探っておりまする。人を遣わし、讒言を流し、時には賂をもって我が家の家人たちを試すやもしれませぬ」
「それはそれで、我が家の家人たちがみな、肝の座る者かどうか、見る良き機会となろう」
忠三郎はまた扇で風を送りながら、笑みをうかべた。
「――さりながら、左京大夫の毒は、時に香をもって忍び寄る。侮ってはなりませぬぞ」
「心得ておる」
忠三郎は、盛信の言葉を聞き届けると、すっと立ち上がった。
会津の空は、夕暮れの金色に染まり、彼方にはかすかに、雷の光が白く閃いていた。
(伊達左京大夫……そちは、わしを試すか。さればよい。試されるは、嫌いではない)
吹き抜ける風が、遠く田の稲を渡り、庭の簾を揺らした。
忠三郎はその風の中に、まだ見ぬ政宗の気配を感じながら、そっと唇の端を上げた。
梅雨の湿りがまだ地を離れぬ関東平野を背に、蒲生忠三郎は、軍勢を率いて、ひそやかに小田原の包囲陣を離れた。目指すは、東北の果て、奥州・会津。
風はすでに夏の匂いを含み、山間を渡る涼やかな空気が、かすかに楢葉の香を運んでくる。田畑は雨に濡れ、青く盛り上がる稲の苗の間を、白鷺がひと筋、飛んでいった。
(これが、わしの新しき国か……)
忠三郎は馬上より、遥かなる北の大地を見つめた。
奥州――。かつて蝦夷と呼ばれた人々が住まいしこの地は、幾度も大和朝廷や鎌倉幕府の手によって征されながらも、その奥深い山河の裡に、いまだ言葉にできぬ古の気配を残している。
安倍、清原、藤原と、志を掲げた者たちが興り、そして滅んだ大地。血に染まった歴史の上に、ひと夏の草がまた芽吹く。
その地に、今度は己が根を下ろせというのか――。
忠三郎の胸に去来するのは、従容たる諦めではなかった。
松坂、日野、長島の空。すべての土地に人の暮らしがあり、家族の記憶があり、失ったものがあった。
そしていま、さらに遠く、かつて心の地図にもなかった奥州の山深くへ。
小田原の戦場に残してきた幾千の兵。失われた三九郎の命。
風が過ぎるたびに、それらが耳元でささやくように思われた。
(生きて、行けと……)
空は澄み、雲が千切れては東北の山並みに溶けていく。
それはまるで、古より絶えず続く人の営みを、すべて見おろす創造主の眼差しのようでもあった。
会津へと向かう街道の途中、忠三郎はふと、旅立ち前夜のことを思い出していた。
関東を発つ前、梅雨の雨がしとどに降りしきる夜。陣営の一角、藁敷きの仮庵にて、傅役の町野左近が、膝を揃えて座していた。
「……若殿、いや、もはや殿にてあらせられますな」
いつになく口重く、左近は言葉を選ぶようにして続けた。
その面差しには、何日も悩み続けた末の決意がにじんでいた。
いつものように静かに言葉を紡ぎながらも、声の奥に、どこか痛みのような響きがあった。
「まことに口惜しきことながら、此度の奥州への御供、叶いませぬ」
忠三郎は静かに町野左近を見つめた。
左近は、さらに深く頭を下げ、続ける。
「実は……日野の竹田神社にございます、我が実父が、近頃、重い病に倒れまして」
その言葉に、忠三郎の目がかすかに揺れた。
「殿もご存じの通り、それがしは、もと竹田神社の社家の生まれ。幼き折、町野家に養われ、以来、蒲生家に御奉公仕り候。…されど、今般、父の病重く、家には跡継ぎもございませぬ」
灯明が淡く、左近の頬の皺と髭を浮かび上がらせていた。
「跡を継ぐはずであった兄は先年の流行り病に倒れ、父には、もう跡継ぎがございませぬ」
「……」
「幾夜も迷い続け申した。されど老いたる父母が困窮していると聞いては…」
左近の肩が、かすかに震えた。
雨音が、帳の外で濡れた地を打ち続けていた。
会津は遠い。松坂とは比べものにならぬほど、日野からはるかに離れている。
齢を重ねた両親を日野に残したまま、奥州に渡れば、再び顔を合わせること叶わぬやもしれない――その覚悟が、左近の声に滲んでいた。
忠三郎は、しばし目を伏せたのち、静かに微笑をたたえて口を開いた。
「爺……よう申した。そちの心、よくぞ聞かせてくれた」
「……」
「これまで、わしの傍らにあって、無念の数々もあったろう。それでも一度たりとも、口にせぬ、そちの忠節――まことに感謝いたす」
忠三郎はそっと火桶の傍らから湯漬けをすくい、左近の椀に注いだ。
その手元には、わずかに震えがあったが、それを見せぬよう、慎重に振る舞った。
「案ずるな。わしは一人ではない。これから多くの家臣たちとともに、奥州へ向かう。されど、爺の帰るべきところは、我らの生まれ育った故郷。わしに代わりに日野へ帰り、民を守ってくれ」
そう告げた忠三郎の声は柔らかで、しかし胸中では、何かが静かに崩れ落ちるような思いがあった。
元服前から、自らを導いてくれた傅役――時に父のように、時に影のように寄り添い、ただ一言も報いを求めなかった股肱之臣が、今こうして、目の前から去ってゆこうとしている。
(寂しいものよ……爺。されど、そちは、そちの道を往け)
忠三郎は笑みを崩さぬまま、ぽつりとつぶやいた。
「竹田の社では、今年も蝉が、耳障りなほど鳴いておるであろうな」
左近は顔を伏せたまま、言葉を返さず、ただ深々と、頭を下げ続けていた。
明けて翌朝。
濃き朝もやの中、町野左近はわずかな供を連れ、山路を歩いていった。
その後ろ姿に向け、忠三郎は声をかけることもなく、ただ黙して見送った。
握りしめた掌の内に、こぼれぬように、己の寂しさをそっと抱きしめながら。
――あれから幾日が過ぎただろうか。
国元へと去った町野左近の背を見送ってから、忠三郎は一度も、その名を口にしていなかった。けれども、朝な夕な、ふとした拍子にその言葉が胸奥をよぎる。
(爺……そちは、あの蝉時雨の下、いまも元気でおるか)
思い浮かぶのは、鈴鹿の山々に囲まれたあの静かな谷。早苗が風にそよぎ、夏には蝉が鳴きしきり、秋には稲穂が波を打つ。
遠い昔、兄・重丸とともに遊んだ日々、生涯の友だった佐助と馬を走らせた毎日、そして義兄・滝川一益とはじめて顔をあわせたあの日。それらすべてが日野の空と土とに染み込んでいた。
懐かしい日野谷。先祖代々、蒲生家が守り続けてきた故郷の地。そこへ戻っていった町野左近が、ふと羨ましく思える。
彼は神官の家を継ぎ、あの社に息づく静けさの中で、今はまた別の務めを果たすのだろう。
(されど、わしには……)
忠三郎はゆるりと息を吐き、草を分ける馬の歩みに身を任せた。
――わしには、もう帰る場所などはない。
父・賢秀が亡くなり、松ヶ島へと移った日から、日野の空もまた、どこか遠いものに変わっていた。
この身が受けたのは、ただの国替えではない。
それは、根を引き抜かれ、風のままに運ばれる種のようなものであった。
それでも、歩まねばならない。
それが武家の子として生まれた者の定めならば。
会津へと至る旅路は、想像していたよりも険しく、そして深かった。
関東平野の広がりを後にし、山間に入り、峠を越え、奥羽の山並みが見え始めるころには、夏の色も次第に濃さを増していた。
陽は高く、田に植えられた早苗は風にそよぎ、合間に水鳥が身をひそめる。
忠三郎は、馬上からその景色を眺めながら、己の中に去来する不安と静かに向き合っていた。
人はみな、何かを背負って生きている――。
故郷に父母を残して去る者、己の志と家を天秤にかける者、そして、他人の恨みを無言で引き受ける者。
そのとき、供をしていた関盛信が、馬の歩みを緩めて、ふいに忠三郎に口を開いた。
「殿。そろそろ、会津の城下が見えてまいります」
忠三郎は手綱を軽く引いて馬を止め、前方を望んだ。
夕陽に染まる盆地の向こうに、かすかに城の壁が光っている。
「……ここが、わしの新しき国か」
「はい。しかし――殿には、知っておいていただきたいことがございます」
盛信の声には、どこかためらいと憂いが混じっていたが、やがて、語り始めた――
かつてこの地を治めていた、ある若き猛将――伊達政宗のことを。
「殿。会津という土地は、古くより易きにあらぬ場所にございます。草深く、山深く、されど人の気は浅くない」
「ほう。聞くほどに、興が湧いて参る」
忠三郎はゆるやかに盃を返し、曇りひとつない笑みを浮かべた。
「――ついこの春まで、この地は、伊達左京大夫政宗が支配しておりました」
その名に、忠三郎の手がわずかに止まった。
関白秀吉の命により、奥州仕置が進められる中、政宗は一度こそ従順の姿を見せたものの、その実、内には野心の火を絶やしてはいなかった。
小田原征伐に先立ち、会津を治めていた蘆名氏を討ち、政宗はこの広き地を手に入れた。だがそれは、秀吉の許しを得ぬ勝手な振る舞いであった。
「関白様の怒りを買うは当然のこと。伊達殿は、せっかく手に入れたこの広大な領地を、一言の沙汰で召し上げられた」
盛信はそう言いながら、ひとつ、咳払いした。
「されど――左京大夫は、諦めてはおらぬ」
忠三郎は盃を近侍に渡すと、奥州会津の山なみを眺めた。
高台の下には、葦が揺れる河があり、青い影のような鳥が一羽、水面をかすめて過ぎてゆく。
「面白い男ではないか」
忠三郎の声は飄々としていたが、盛信は眉を寄せたまま首を振った。
「お戯れを……。会津を追われた恨みは深うございましょうぞ。関白様を恨むだけならまだしも――」
「――新たにこの地を預かった、わが身をも?」
「……はい。あの男の眼は、いつも笑っておらぬ。微笑の奥に、冷たき刃を隠す。容易く奪われた会津四十二万石を再び手にしようと、虎視眈々と狙うておるは火を見るよりも明らか」
忠三郎は、扇子を手に取り、ぱたりと開いて顔をあおいだ。
その仕草もどこか気の抜けたようであったが、目の奥に一瞬、鋭い光が宿ったのを、盛信は見逃さなかった。
政宗――伊達政宗は、奥州中を一手に握らんとした若き猛将だ。
十代で初陣を果たし、独眼にて数多の戦を制し、家中の内訌を鎮めた果断の男。
表には従順を装いながら、心中に烈しき反骨と誇りを燃やすその姿は、まさに戦国の鬼火と呼ぶべきものであった。
「左京大夫は、殿の周囲を探っておりまする。人を遣わし、讒言を流し、時には賂をもって我が家の家人たちを試すやもしれませぬ」
「それはそれで、我が家の家人たちがみな、肝の座る者かどうか、見る良き機会となろう」
忠三郎はまた扇で風を送りながら、笑みをうかべた。
「――さりながら、左京大夫の毒は、時に香をもって忍び寄る。侮ってはなりませぬぞ」
「心得ておる」
忠三郎は、盛信の言葉を聞き届けると、すっと立ち上がった。
会津の空は、夕暮れの金色に染まり、彼方にはかすかに、雷の光が白く閃いていた。
(伊達左京大夫……そちは、わしを試すか。さればよい。試されるは、嫌いではない)
吹き抜ける風が、遠く田の稲を渡り、庭の簾を揺らした。
忠三郎はその風の中に、まだ見ぬ政宗の気配を感じながら、そっと唇の端を上げた。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる