獅子の末裔

卯花月影

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30.陸奥(みちのく)へ

30-1. 風は西より来たりて

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 天正十八年六月――。
 梅雨の湿りがまだ地を離れぬ関東平野を背に、蒲生忠三郎は、軍勢を率いて、ひそやかに小田原の包囲陣を離れた。目指すは、東北の果て、奥州・会津。
 風はすでに夏の匂いを含み、山間を渡る涼やかな空気が、かすかに楢葉の香を運んでくる。田畑は雨に濡れ、青く盛り上がる稲の苗の間を、白鷺がひと筋、飛んでいった。

(これが、わしの新しき国か……)
 忠三郎は馬上より、遥かなる北の大地を見つめた。

 奥州――。かつて蝦夷と呼ばれた人々が住まいしこの地は、幾度も大和朝廷や鎌倉幕府の手によって征されながらも、その奥深い山河の裡に、いまだ言葉にできぬ古の気配を残している。
 安倍、清原、藤原と、志を掲げた者たちが興り、そして滅んだ大地。血に染まった歴史の上に、ひと夏の草がまた芽吹く。

 その地に、今度は己が根を下ろせというのか――。
 忠三郎の胸に去来するのは、従容たる諦めではなかった。
 松坂、日野、長島の空。すべての土地に人の暮らしがあり、家族の記憶があり、失ったものがあった。
 そしていま、さらに遠く、かつて心の地図にもなかった奥州の山深くへ。

 小田原の戦場に残してきた幾千の兵。失われた三九郎の命。
 風が過ぎるたびに、それらが耳元でささやくように思われた。

(生きて、行けと……)

 空は澄み、雲が千切れては東北の山並みに溶けていく。
 それはまるで、古より絶えず続く人の営みを、すべて見おろす創造主の眼差しのようでもあった。

 会津へと向かう街道の途中、忠三郎はふと、旅立ち前夜のことを思い出していた。
 関東を発つ前、梅雨の雨がしとどに降りしきる夜。陣営の一角、藁敷きの仮庵にて、傅役の町野左近が、膝を揃えて座していた。
「……若殿、いや、もはや殿にてあらせられますな」
 いつになく口重く、左近は言葉を選ぶようにして続けた。
 その面差しには、何日も悩み続けた末の決意がにじんでいた。
 いつものように静かに言葉を紡ぎながらも、声の奥に、どこか痛みのような響きがあった。

「まことに口惜しきことながら、此度の奥州への御供、叶いませぬ」
 忠三郎は静かに町野左近を見つめた。
 左近は、さらに深く頭を下げ、続ける。
「実は……日野の竹田神社にございます、我が実父が、近頃、重い病に倒れまして」
 その言葉に、忠三郎の目がかすかに揺れた。
「殿もご存じの通り、それがしは、もと竹田神社の社家の生まれ。幼き折、町野家に養われ、以来、蒲生家に御奉公仕り候。…されど、今般、父の病重く、家には跡継ぎもございませぬ」
 灯明が淡く、左近の頬の皺と髭を浮かび上がらせていた。
「跡を継ぐはずであった兄は先年の流行り病に倒れ、父には、もう跡継ぎがございませぬ」
「……」
「幾夜も迷い続け申した。されど老いたる父母が困窮していると聞いては…」
 左近の肩が、かすかに震えた。
 雨音が、帳の外で濡れた地を打ち続けていた。

 会津は遠い。松坂とは比べものにならぬほど、日野からはるかに離れている。
 齢を重ねた両親を日野に残したまま、奥州に渡れば、再び顔を合わせること叶わぬやもしれない――その覚悟が、左近の声に滲んでいた。

 忠三郎は、しばし目を伏せたのち、静かに微笑をたたえて口を開いた。
「爺……よう申した。そちの心、よくぞ聞かせてくれた」
「……」
「これまで、わしの傍らにあって、無念の数々もあったろう。それでも一度たりとも、口にせぬ、そちの忠節――まことに感謝いたす」
 忠三郎はそっと火桶の傍らから湯漬けをすくい、左近の椀に注いだ。
 その手元には、わずかに震えがあったが、それを見せぬよう、慎重に振る舞った。
「案ずるな。わしは一人ではない。これから多くの家臣たちとともに、奥州へ向かう。されど、爺の帰るべきところは、我らの生まれ育った故郷。わしに代わりに日野へ帰り、民を守ってくれ」
 そう告げた忠三郎の声は柔らかで、しかし胸中では、何かが静かに崩れ落ちるような思いがあった。

 元服前から、自らを導いてくれた傅役――時に父のように、時に影のように寄り添い、ただ一言も報いを求めなかった股肱之臣が、今こうして、目の前から去ってゆこうとしている。
(寂しいものよ……爺。されど、そちは、そちの道を往け)
 忠三郎は笑みを崩さぬまま、ぽつりとつぶやいた。

「竹田の社では、今年も蝉が、耳障りなほど鳴いておるであろうな」
 左近は顔を伏せたまま、言葉を返さず、ただ深々と、頭を下げ続けていた。

 明けて翌朝。
 濃き朝もやの中、町野左近はわずかな供を連れ、山路を歩いていった。

 その後ろ姿に向け、忠三郎は声をかけることもなく、ただ黙して見送った。
 握りしめた掌の内に、こぼれぬように、己の寂しさをそっと抱きしめながら。

 ――あれから幾日が過ぎただろうか。
 国元へと去った町野左近の背を見送ってから、忠三郎は一度も、その名を口にしていなかった。けれども、朝な夕な、ふとした拍子にその言葉が胸奥をよぎる。
(爺……そちは、あの蝉時雨の下、いまも元気でおるか)
 思い浮かぶのは、鈴鹿の山々に囲まれたあの静かな谷。早苗が風にそよぎ、夏には蝉が鳴きしきり、秋には稲穂が波を打つ。
 遠い昔、兄・重丸とともに遊んだ日々、生涯の友だった佐助と馬を走らせた毎日、そして義兄・滝川一益とはじめて顔をあわせたあの日。それらすべてが日野の空と土とに染み込んでいた。

 懐かしい日野谷。先祖代々、蒲生家が守り続けてきた故郷の地。そこへ戻っていった町野左近が、ふと羨ましく思える。
 彼は神官の家を継ぎ、あの社に息づく静けさの中で、今はまた別の務めを果たすのだろう。
(されど、わしには……)
 忠三郎はゆるりと息を吐き、草を分ける馬の歩みに身を任せた。

 ――わしには、もう帰る場所などはない。
 父・賢秀が亡くなり、松ヶ島へと移った日から、日野の空もまた、どこか遠いものに変わっていた。
 この身が受けたのは、ただの国替えではない。
 それは、根を引き抜かれ、風のままに運ばれる種のようなものであった。
 それでも、歩まねばならない。
 それが武家の子として生まれた者の定めならば。

 会津へと至る旅路は、想像していたよりも険しく、そして深かった。
 関東平野の広がりを後にし、山間に入り、峠を越え、奥羽の山並みが見え始めるころには、夏の色も次第に濃さを増していた。
 陽は高く、田に植えられた早苗は風にそよぎ、合間に水鳥が身をひそめる。
 忠三郎は、馬上からその景色を眺めながら、己の中に去来する不安と静かに向き合っていた。

 人はみな、何かを背負って生きている――。
 故郷に父母を残して去る者、己の志と家を天秤にかける者、そして、他人の恨みを無言で引き受ける者。
 そのとき、供をしていた関盛信が、馬の歩みを緩めて、ふいに忠三郎に口を開いた。
「殿。そろそろ、会津の城下が見えてまいります」
 忠三郎は手綱を軽く引いて馬を止め、前方を望んだ。
 夕陽に染まる盆地の向こうに、かすかに城の壁が光っている。
「……ここが、わしの新しき国か」
「はい。しかし――殿には、知っておいていただきたいことがございます」
 盛信の声には、どこかためらいと憂いが混じっていたが、やがて、語り始めた――
 かつてこの地を治めていた、ある若き猛将――伊達政宗のことを。

「殿。会津という土地は、古くより易きにあらぬ場所にございます。草深く、山深く、されど人の気は浅くない」
「ほう。聞くほどに、興が湧いて参る」
 忠三郎はゆるやかに盃を返し、曇りひとつない笑みを浮かべた。

「――ついこの春まで、この地は、伊達左京大夫政宗が支配しておりました」
 その名に、忠三郎の手がわずかに止まった。

 関白秀吉の命により、奥州仕置が進められる中、政宗は一度こそ従順の姿を見せたものの、その実、内には野心の火を絶やしてはいなかった。
 小田原征伐に先立ち、会津を治めていた蘆名氏を討ち、政宗はこの広き地を手に入れた。だがそれは、秀吉の許しを得ぬ勝手な振る舞いであった。

「関白様の怒りを買うは当然のこと。伊達殿は、せっかく手に入れたこの広大な領地を、一言の沙汰で召し上げられた」
 盛信はそう言いながら、ひとつ、咳払いした。
「されど――左京大夫は、諦めてはおらぬ」

 忠三郎は盃を近侍に渡すと、奥州会津の山なみを眺めた。
 高台の下には、葦が揺れる河があり、青い影のような鳥が一羽、水面をかすめて過ぎてゆく。

「面白い男ではないか」
 忠三郎の声は飄々としていたが、盛信は眉を寄せたまま首を振った。

「お戯れを……。会津を追われた恨みは深うございましょうぞ。関白様を恨むだけならまだしも――」
「――新たにこの地を預かった、わが身をも?」
「……はい。あの男の眼は、いつも笑っておらぬ。微笑の奥に、冷たき刃を隠す。容易く奪われた会津四十二万石を再び手にしようと、虎視眈々と狙うておるは火を見るよりも明らか」

 忠三郎は、扇子を手に取り、ぱたりと開いて顔をあおいだ。
 その仕草もどこか気の抜けたようであったが、目の奥に一瞬、鋭い光が宿ったのを、盛信は見逃さなかった。

 政宗――伊達政宗は、奥州中を一手に握らんとした若き猛将だ。
 十代で初陣を果たし、独眼にて数多の戦を制し、家中の内訌を鎮めた果断の男。
 表には従順を装いながら、心中に烈しき反骨と誇りを燃やすその姿は、まさに戦国の鬼火と呼ぶべきものであった。

「左京大夫は、殿の周囲を探っておりまする。人を遣わし、讒言を流し、時にはまいないをもって我が家の家人たちを試すやもしれませぬ」
「それはそれで、我が家の家人たちがみな、肝の座る者かどうか、見る良き機会となろう」
 忠三郎はまた扇で風を送りながら、笑みをうかべた。

「――さりながら、左京大夫の毒は、時に香をもって忍び寄る。侮ってはなりませぬぞ」
「心得ておる」

 忠三郎は、盛信の言葉を聞き届けると、すっと立ち上がった。
 会津の空は、夕暮れの金色に染まり、彼方にはかすかに、雷の光が白く閃いていた。

(伊達左京大夫……そちは、わしを試すか。さればよい。試されるは、嫌いではない)
 吹き抜ける風が、遠く田の稲を渡り、庭の簾を揺らした。
 忠三郎はその風の中に、まだ見ぬ政宗の気配を感じながら、そっと唇の端を上げた。
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