獅子の末裔

卯花月影

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30.陸奥(みちのく)へ

30-3. 罪、赦されし者

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 こうして、会津に入部して間もない蒲生家には、全国津々浦々から名もなき浪人たちが続々と仕官を願い出てきた。だが、その選別を一手に引き受けたのが、浮世離れした天下一の気長な男――忠三郎である。ならば、ただの人集めでは済まぬことも起こるのが道理というもの。

 それはある春の日のこと。蒲生勢が戦場から凱旋を果たし、軍装のまま行列して京の町を練り歩いたときのことだ。桜の花がはらはらと舞い、通りは老若男女の見物人でごった返していた。

 その中で、忠三郎は――それはもう、雷に打たれるかのように――目を奪われた。見物に詰めかけた群衆の中で、忠三郎は一人の娘に目を奪われた。艶やかな黒髪に白粉の肌、すらりとした佇まい。白梅のごとく、気品すら感じさせる。

(おお……あの娘は……)
 人混みの先に、ひときわ目を引く娘がいた。白梅のように色白の肌、透けるような黒髪が風に揺れ、伏し目がちに笑う姿はまさに天女のごとし。薄桃色の小袖に濃紫の帯、凛としていながらどこか儚げで、花の盛りを包んだようなその風情――。
「……見まごうた。天の御使いかと……」
 忠三郎は馬上からぽつりと呟いた。隣を歩く町野長門守が振り返ると、忠三郎はうっとりした顔で娘を見つめていた。まばたきもせず。

 その晩、屋敷に戻った忠三郎は湯に浸かりながら、寝床に入ってからも、ふとんをかぶっても――娘の面影が離れなかった。
「……あの目元……あの白いうなじ……声をかけておけばよかった……否、あの場で名乗るなど無粋……しかし……」

 夜が更けても悶々。手慰みに扇子に和歌をしたためては、火鉢にくべてため息をつく始末。

 君こそは 春の霞のまにまにも 咲きて消えゆく 白梅の花

 とうとう我慢できず、翌朝には乳人子の町野長門守を呼びつけた。
「長門、都で見かけた天女――いや、あの娘を探してきてくれぬか。白梅色の小袖を着ていた。ほくろがひとつ、左の目尻に……」
 町野長門守は「またか…」とため息をつきながらも、主命には逆らえず都じゅうを探し回った。
 そして、三日後――。
 ついに、それらしき者を連れ帰ってきた。
 忠三郎は、今にも飛び跳ねそうな勢いで客間に香を焚かせ、唐櫃より取り出したばかりの直垂を身にまとい、自ら鏡台の前に座して身づくろいをした。髷を撫でつけ、ふと鏡に映る己が顔を見て、「老いたな……」と呟く。それでも胸は、春風のようにそわそわと浮き立っていた。
 のれんが揺れ、仄かな梅の香とともに、白梅色の小袖が現れる。風情ある足取り、伏し目がちな横顔、その影のさし方に――忠三郎の胸中に、かの少女の面影が咲いた。
「よう来てくれた……待ちかねておったぞ。まことにうれしゅう――」
 が、そのとき、
「名古屋山三郎と申す者にて……お召しに預かり、光栄至極」
 ……低く、妙に張りのある声が室内に響いた。
 忠三郎の眉がわずかにひそむ。ん? と目を凝らすと、そこには――
 喉仏。しっかりとした男の喉仏。そして、うっすらと青い髭の跡が、白粉の下にほのかに浮いているではないか。

 忠三郎、目を瞬かせる。風よ、花よ、我が心を嘲るか――。
「…………おぬし、娘では……?」
 山三郎は少し肩をすくめ、どこか恥じらいを含んだ笑みを浮かべた。
「芝居にて女形を演じておりました。町で評判となってしまいましてな……」
「……なるほど…」
「お声がけを受けてまさかと思いましたが、これもご縁かと。仕官の願いを、ひとつ……」
 顔を覆っていた両手の隙間から、忠三郎はちらりとその男の顔を覗いた。きりりと引き締まった眼差し、通った鼻筋。よく見れば、どこかしら品がある。女装など滑稽のはずが、不思議といやらしさがない。

 それ以上に、この場に躊躇なく踏み込む胆力。冷や汗一つ見せぬ、確たる心根――。どこかの誰かを彷彿とさせる。
「おぬし、もしや故右府様の縁者では?」
 山三郎は襟を正し、両手をついた。
「仰せの通り。母方の祖父は織田駿河守と申し、かつて会津様が初陣を飾られた大河内城攻めの折には、信長公の馬廻りとして槍を振るうたとのこと――血筋ばかりのことではございませぬが、心ばえは継ぎたき所存にございます」」
 その言葉に、忠三郎はまなじりを細めた。さざ波のように、胸中に広がる温かさ。己がかつて敬い、憧れた信長の気配が、ほんのりとこの若者から香るではないか。
「よかろう……召し抱えよう」
「は、はぁ?」
 町野長門守の驚きの声が響く。
「我が家には、いささか風変わりな者も多い。ひとり増えたところで騒ぐほどのことではない」
 忠三郎は扇子をぱたりと閉じ、どこか楽しげに山三郎の肩を叩いた。
「それに、女装してまで見目を繕おうとは、なかなか見上げた根性ではないか」
 こうして名古屋山三郎は、忠三郎の家臣となった。屋敷の者たちは「また殿が妙な者を……」と顔を見合わせ、笑いをこらえたが、忠三郎の口元には、どこか満足げな笑みが残っていた。
 ――人生、ままならぬゆえに、面白い。
 その夜、忠三郎はもう一首、短冊にしたためた。

 夢に見し 白梅の花 散りにけり なれど香りは 袖に残りぬ


「……名古屋山三郎。よき器量の男よ」
 そんな風に、冗談まじりで家臣たちが語るほどに、近ごろの忠三郎の召し抱える者は、一癖も二癖もある連中ばかりであった。
 常識では測れぬほどの臆病者、都一の目利きでありながら浪々の身にあった老爺、さらには女と見まごうばかりの若者。
「殿の見る目は、どこかズレておる」
「いや、ずれているどころか、ひっくり返っている」
 そんなことを、町野長門守や関盛信が、夜な夜な酒の肴にしては笑っていたが、それでも彼らは、主君忠三郎を誇らしく思っていた。

 というのも、忠三郎が見出す者たちは、やがて皆、どこかでその才を発揮し、欠けた器のように見えた彼らの一芸が、軍政の場で、城下の民のあいだで、あるいは戦場においてさえ、鮮やかな光を放ち始めたからである。
 他家であれば見捨てられるような者、奇矯とされるがゆえに遠ざけられるような者が、ここ会津では受け容れられ、その才を活かされる。
 まるで、どの角度から差す光でも反射する、不思議な硝子玉のような――そんな家中ができあがりつつあった。

「才を得ようと思えば、正道だけでは届かぬ」
 そう口にした忠三郎の言葉は、やがて都にも届き、「会津の太守、ものの分かった人物」との評判を生んだ。
 人は、才だけで動くものではない。情と、時と、居場所があってこそ、その才が花開く。
 忠三郎のもとには、次第に風に吹かれ流れてきた花の種のような者たちが集まりはじめた。しかもその種のいくつかは、のちに大輪を咲かせ、天下の耳目を集めることとなる。

 だがその裏で――
 その名声と人望が日を追うごとに高まるにつれ、忠三郎には目に見えぬ影が忍び寄っていた。
 その影――すなわち、伊達政宗である。

 奥州の覇者たらんとする政宗にとって、信長の血を引く女婿であり、奥州の監視役である忠三郎は、いずれ障壁となる存在であった。政宗は冷静な計算の末、ある策略に打って出た。

「――あの蒲生忠三郎、男色の気はない。されど縁戚の田丸中務少輔は違う。あれのもとに児小姓として入り、隙を見て命を取れ」
 そう言って政宗が選んだのは、美貌に恵まれ、まだ十六にして目を奪うような輝きをもつ少年――清十郎だった。
 清十郎の家は、数代にわたり伊達家に仕えてきた家柄。従わねば父母に累が及ぶ。政宗の命を受け、清十郎は田丸中務少輔の屋敷へと遣わされた。まるで白梅の花が毒にまみれて咲くような、静かな悲劇のはじまりだった。

 田丸家と蒲生家は、縁組を結んだ間柄。ほどなく、何事もなきかのように忠三郎が田丸家を訪れ、酒宴の席が設けられることが決まった。
『隙を見て命を取れ』
 政宗の冷たい声が、清十郎の耳に焼き付いていた。だが、その命を胸に抱いて屋敷に上がってからの数日、清十郎の心には、静かに、しかし確かに揺らぎが生まれていた。

 会津の若き太守、蒲生忠三郎――
 名高き武辺者、名家に生まれた男と聞いていたが、出迎えに現れたその人は、どこか柔らかい面持ちの男であった。
「よう参ったな。若いのに骨がある。さすがは田丸家の若者じゃ」
 そう言って、忠三郎は、自ら清十郎の杯を満たし、腰をかがめて膳をすすめるような振る舞いをした。
(なんと気さくな……)
 威を示そうとするどころか、家臣や召し抱えの者にも名を呼び、労い、温和な笑顔を見せる。
 己の威光で人をねじ伏せるのではなく、ただ、まっすぐな眼差しと、物腰の柔らかさで人を包む――そんな太守が、世にいるのかと清十郎は驚いた。

 気づけば清十郎は、忠三郎が障子の開け閉めひとつにも気遣いを示すたび、胸の奥が妙に痛んだ。
 寝所に戻っても、その声音や笑みが離れず、夜毎、まぶたを閉じては胸を掻きむしるような思いにかられた。
(この人を……討てと……)
 命を狙う相手に、心を動かされてはならぬ。そう分かってはいた。
 だが、あまりに眩しく、温かい光に包まれた人のように思えてならなかった。

 そしてある夜――
 清十郎は震える手で父に宛てた密書をしたためた。
『我がなすこと、罪にして正義とは思えず』

 筆は何度も止まり、手のひらは汗で湿っていた。書いては破り、書いては涙に滲む文字。
 それでも書かねばならなかった。命じられた使命ではなく、心が叫ぶままに。

 だが、その密書は会津へと向かう途中の関所で見とがめられ、検閲役の手に落ちた。
「……なんだこれは……?」
 やがて文は、忠三郎のもとに届けられた。
 その日、忠三郎は静かに、何度もその細筆で綴られた文字を読み返した。
 滲んだ墨の跡。掠れた筆跡。そこにこめられたのは、言葉ではなく、切実な迷いと恐れと、そして、ひとひらの誠。
「――それがしは、殺されるより他なしと心得ております」
 耳もとで声を聞いたような気がした。
 忠三郎はそのまま、しばし座を立たず、脇息にひじをついて、しばらく目を閉じた。
 悲しいのではなかった。ただ、人というものの哀しさ、深さに胸を打たれていた。
 この少年は、敵として遣わされた。だが、それでも――
 ひとの心は、誰かのやさしさに触れることで、ここまで揺らぐものなのか。

 清十郎は、牢の中で静かに目を閉じていた。
 鈍く冷えた石畳に座り、手は膝の上にきちんと重ねてある。
 もはや抗う気力もなく、ただ、心のどこかで――「殺されるのも、当然だ」と、静かに思っていた。
 だが、その静けさを破ったのは、意外にも柔らかな声だった。
「……寒くはないか」
 顔を上げると、牢の前に、ひとりの男が立っていた。
 裃も着けず、鎧も帯びず、ただ深い紺の羽織をゆるやかに羽織り、手には蒸した酒の入った徳利を下げていた。
 それが、蒲生忠三郎その人だとは、清十郎はすぐに信じられなかった。
「なぜ……ここへ……」
「そなたが書いたものを、わしは読んだ。何度も、繰り返し。――心を尽くして書いたのであろう」
 忠三郎は、牢の前に膝を折り、片手に持っていた徳利を、手ぬぐいで拭いながら続けた。
「わしは、人の罪を裁くほど、正しき者ではない。ましてや、お主のような若き者に……刃をもって問うことなど、わしにはできぬ」
 清十郎の喉が、かすかに鳴った。
 それは涙を堪える音だった。
「そなたの父御のことは、聞いておる。誠実な侍じゃ。伊達殿の御家中にあっても、忠義を貫いておられると」
 忠三郎はそっと、檻の前に小さな杯を置いた。
「そなたのような若者に、死を以て忠義を果たさせるのは、本意ではあるまい」
 その声音には、怒りも、疑いもなかった。ただ、惜しむような――春の終わりに舞い落ちる花びらを見送るような、静かな思いが宿っていた。

 清十郎は、とうとう目を伏せ、唇をかみ、震える肩を止めることができなかった。
「……それがしは……討とうと、思うておりました」
「そうであろうとも。されどわしは、そなたを討とうとは思わぬ」
 静かに、忠三郎は立ち上がった。そして牢の扉の錠を自ら開き、扉を引いた。
「出よ、清十郎。わしのもとで、生きて働け。もしまた、わしの心がそなたの心にそぐわぬときは……そのとき改めて、裁きを受けよう」
 涙が、ぽつりと、清十郎の頬を伝った。

 そしてその夜――

 忠三郎の居間には、再び二人が向かい合い、小さな火鉢を囲んでいた。
 清十郎は、差し出された酒を受け取りながら、火の粉が静かに舞う様を見つめていた。
 忠三郎は何も言わず、ただ、火鉢の向こうから微笑んでいた。

 温かさとは、声高に語るものではない。
 それは、誰かが心を許したいと願ったとき、ふとそこにある光のようなものだ。
 そしてこの夜から――
 清十郎は命を捧げる主を、政宗ではなく、忠三郎へと定めた。
 火鉢の中で、静かに炭がはぜる。
 その音を聞きながら、清十郎はふと、自らの心の底に、これまで感じたことのない安らぎを見出していた。
 それは赦しという名の、深く静かな水面。

 忠三郎は、ただそこにいて、彼を裁かず、責めず、受け容れた。
 その懐の広さと、まなざしのあたたかさが、清十郎の胸に灯をともしたのだった。
 ふと忠三郎が口にした、かすかなつぶやきが耳に残った。

「――汝らのうち、罪なき者、まず石をもて打て」

 それは、キリシタンの話。
 はるか南蛮の地で語り継がれる、古き物語。

 ある町に、一人の女がいた。
 咎を犯し、法に照らせば、石を投げられて殺されるはずの女。
 その日、彼女は人々に囲まれ、罵られ、石を手にした群衆の前に突き出された。
 誰もが口々に叫ぶ――「罪を犯した女だ」「罰を受けねばならぬ」と。

 だが、そこへ現れたキリストが、静かに地面に何かを書いたあと、顔をあげて言った。
「汝らのうち、罪なき者、まず石をもて打て」
 ――それだけだった。

 誰一人、石を投げることはなかった。
 やがて一人、また一人と立ち去り、最後には、女とキリストだけが、そこに残された。
 キリストは、女に言った。
「我も汝を咎めず。行きて、再び罪を犯すことなかれ」

 それは清十郎が、蒲生家に来てから耳にした異国の物語だった。
 その言葉が、今、忠三郎のくぐもった声として胸に響いたのだ。

 この人は……その話の中の、光のような男だ。
 責めず、裁かず、ただ在るだけで、赦しを与えるような人。
 その姿に、心が揺るがぬ者などいるだろうか。

 清十郎は、細く震える筆で、自らの想いを文に綴った夜を思い出していた。
 闇の中で光に手を伸ばすように。
 その手を、忠三郎は静かに、だが確かに、握り返してくれたのだ。

 赦されるとは、命をもらうこと。
 そして、希望をもって生きよと告げられること。
 清十郎は、その夜、はじめて涙を流した。それは悔いでも、恐れでもない。
 生まれてはじめて、ひとのやさしさに触れたことによる涙だった。

 赦されたその日から、清十郎の顔つきが、わずかに変わった。
 いつも怯えがちだった眼差しは、どこか澄んだものに変わり、話す言葉にも、すこしずつ柔らかさが増していった。

「そなたはもう、誰かの刃ではない。そなた自身の心のままに、生きよ」
 そう言って微笑んだ忠三郎のことばが、何よりの道しるべだった。

 屋敷の庭に咲く椿の花が、風に揺れていた。
 その下で、清十郎は文机に向かい、短冊に筆を運ぶ。
 忠三郎が毎朝していることを、まねていたのだ。
 誰に教えられたでもない。ただ、その穏やかな背中を、見ていたから。

 ある日、忠三郎がふと声をかけた。
「なにを書いておる?」
 清十郎は少し恥ずかしそうに、短冊を差し出した。
 そこには拙い筆致で、こんな歌が書かれていた。

  人の世に 咲きては消ゆる 花あれど 主のこころに 散りぞ残りぬ

 忠三郎は、しばし黙ってその歌を見つめ、やがてふっと目を細めた。
「……よう詠めておる。今宵の膳、そなたもともに」

 家臣たちは驚いた。命を狙った少年が、今や主人と膳を囲むことになるとは――。
 だが不思議なことに、誰ひとり文句を言わなかった。
 それが、忠三郎という人の力だった。怒鳴るでも、脅すでもない。
 ただ黙って、相手の言葉に耳を傾け、過去ではなく、「今」を見てくれる人。
 やがて清十郎は、田丸家を離れ、蒲生家の一人の小姓として立ち働くようになる。
 己の過去に囚われず、生き直せるということを、教えてくれた人のそばで。

 会津の太守――蒲生忠三郎氏郷。

 その名は、武勇の誉れよりも、慈悲と誠実さによって、
 東国の地にしずかに広まっていった。
 あるとき、老臣がぽつりと言った。
「まるで……主が歩むところ、雪の上に春が訪れるようですな」
 誰もそれを否定しなかった。
 主君のまなざしのあたたかさを、皆が知っていたからだ。

 清十郎が、そっと障子を閉める音が聞こえた。
 蝉の声が、遠くから谷を越えて響いていた。
 会津の夏は、深く、濃い。
 昼の熱気が石垣に残り、夜になってもなお、風はあたたかい。

 忠三郎は、広縁にひとり腰を下ろし、薄手の羽織を肩にかけたまま、団扇で静かに扇いでいた。

 日野の夏も、こうだったろうか。
 松坂の夏も、こんなに深い蒼をしていただろうか。
 あの町にも、あの人々にも、もう戻ることはできない。
 けれど、どこかで似た音、似た香りがふと心に届くとき、過ぎた日々は、柔らかな影となって、今の自分を包んでくれる。

 それでも――
 いま、ここ会津にもまた、あたらしい季節が確かに息づいていた。

 清十郎は、昨日、城下の子どもに声をかけられて、不器用な笑顔を浮かべていた。
 罪の重さに、今も時折うつむく少年の横顔に、忠三郎は、未来というものを見たような気がしていた。
「――人は、変わってゆけるもの」
 誰にともなく呟いた言葉は、すぐに夜気に溶けた。

 鈴虫の声が、庭の草陰からかすかに聞こえる。
 夕顔が白く開き、かすかな甘い香りを運んでくる。
 ひとの罪を、赦すということ。
 それは、誰よりも、自らが赦された罪びとであることを知ることだ。
 忠三郎は、ひとつ深く息をつき、机の上の短冊に、そっと筆をおろした。

 なつの夜の あはれをしりて 風を待つ
          つみのごとくも やさしき月よ

 夏の月が、会津の城下をそっと照らしていた。
 そして、ふと、あの言葉が胸に浮かぶ。

 ――「汝らのうち、罪なき者、まず石をもて打て」――

 あのキリストの言葉を思い出すたびに、
 忠三郎の胸には、静かな祈りのようなものが灯るのだった。
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