獅子の末裔

卯花月影

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30.陸奥(みちのく)へ

30-5. 蒲生風呂

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 雲は高く、空の色はどこまでも澄んでいた。遠く猪苗代湖の水面が陽を弾き、山々の稜線には、うっすらと赤が混じりはじめている。
 黒川の城は、驚くほど質素であった。

 かつて蘆名氏の居城として名を馳せたとはいえ、北国の出城に過ぎない。天守などなく、主郭も小さく、石垣は所々崩れかけている。堀は浅く、土塁も低く、会津四十二万石の居城としては、あまりに手狭だった。

 だが忠三郎は、なにひとつ不満を口にしなかった。
 むしろこの静けさを好んだ。霧の朝、風の通る昼、虫の声とともに沈む夕暮れ。山々に囲まれ、天を仰げば雲が遠く、ここには松坂では得られぬ静寂があった。
(まずはこの地を知ることだ。風を、土を、水の流れを)

 忠三郎は焦らず、急がず、ただ心の内に一つの構想を秘めていた。
 ――この地にふさわしい城を築く。天守を掲げ、外敵を防ぎ、民の誇りとなる城を。

 だが、それは急ぐことではない。まずは、人を得、領を治めること。それが第一と、忠三郎は心得ていた。
 新たに与えられた四十二万石。松坂時代の三倍を超える大封を前に、忠三郎はまず、これまで家を支えてきた家臣たちの労をねぎらうことから始めた。

 秋の澄んだ空の下、忠三郎は一人ひとりの家臣に紙を渡し、こう言った。
「これまでの働きを書き記し、望む知行を遠慮なく書いてくれ」
 その数、百五十名を超えた。紙が集まり、合計してみると、百五十万石を優に超えていた。
 忠三郎はそれを見て、大いに笑った。
「よいな。それだけの働きをしたと、そなたらが自ら思うておる証よ。では皆でよく相談し、どう分け合うかを決めよ。任せる」
 その裁定を、関盛信をはじめとする重臣たちに一任した。皆、忠三郎の性格を知っている。結果、遠慮と配慮が重なり合い、揉めごともなく配分は収まった。
 そして――忠三郎自身の取り分は、松坂時代とほとんど変わらなかった。
 それを伝え聞いたとき、重臣たちは密かに頭を抱えた。

「殿、それでは新城の普請も、城下の整備も、薪代ひとつ払えませぬぞ……」
 とはいえ、当の忠三郎は、庭の萩を眺めながら涼しい顔で言った。
「それで良い。まだ蓄えもある。武士の誉れは、懐の石高にあらず。生きざまにある」
「はぁ…」
 問題はそこからである。
 黒川城の御台所は、ほどなく火の車となった。薪代、塩代、井戸の修繕、橋の架け直し、すべてに銭が要る。御用金の話が出れば、忠三郎は「まず民を楽にせよ」と言って退ける。家中は苦笑しつつも、知行の分け前が公平であったため、大きな不満はなかった。

 が――困ったのは、夜の一献である。
 ある日、酒肴役のひとりが重臣にそっと耳打ちした。
「今夜の膳、味噌汁と梅干しだけでは……殿にあまりに忍びなく……」
 その一言で、家臣たちは顔を見合わせた。
 それ以来、重臣たちがこっそりと懐から袋を出し合うことが増えた。へそくり、小遣い、嫁の手前内緒にしていた銭。誰かれともなく、風呂場の裏に集まり、小声で囁く。
「まこと、殿のための湯と膳じゃな……」
「酒も一本、足しておこう。米の節約分で何とか……」
 こうして、家中の『隠し銭』が集まり、酒肴はほんのり豪華になった。
 忠三郎はその夜、ささやかな酒に目を細めたが、なぜかその場にいた皆が一様に目を逸らしていたことに気づいて、後にぽつりとつぶやいた。
「ふむ……家臣が賄いを案ずる家、というのも……如何なものであろうか」

 この一連の噂は、いつしか「蒲生家の密酒騒動」として黒川の町人たちの笑い話となり、後には「蒲生の蔵は空っぽでも、心の懐は満ちておる」などと、どこか誇らしげに語られることとなった。

 そんな蒲生家には、もうひとつの、奇妙な習わしがあった。
 黒川の初秋は、目に見えぬほどの静けさをまとっていた。刈り入れ間近の田が朝露にきらめき、城の周囲を取り囲む山の稜線が、淡く煙る。城と呼ぶにはまだ質素なその館――黒川城には、天守はない。けれど、そこには主君・蒲生忠三郎の大いなる構想が秘められていると、加賀山隼人正は感じていた。

(この城は、やがて高く、美しくあろう……)
 隼人正はそう思いながら、城の石段を登った。

 隼人正はもと、高山右近の家来だった。十歳の時にルイス・フロイスより洗礼を受け、ディエゴの名を持つキリシタンとなった。右近が追放されたのち、蒲生家の召し抱えを受けたが、初めて忠三郎の姿を見たとき、どこか心の奥に響くものがあった。武辺一途な大名とは異なる、牧者のような、心に寄り添う気配。

 忠三郎の奇妙な美徳に初めて触れたのは、戦のあとのことだった。
 討ち取った首の数もさることながら、敵の兵糧庫を焼かずに確保した若武者が、その功を認められた。皆が金子か馬かと思っていたところ、忠三郎は言った。
「うむ、おぬしの名、まだ村名であったな? では今日より蒲生を名乗るがよい」
 家臣たちは一瞬ぽかんとし、次に笑った。
「殿、またですか……」
 忠三郎は悪びれもせず言った。
「名は魂。与うるに足る戦であった。惜しむべきは名ではなく、名に恥じぬ行いにある」

 以来、戦功のたびに「蒲生姓」がふえてゆき、蒲生家には本家より蒲生姓の者が多いという、奇妙な一門が出来上がった。町人からは「蒲生の里」とまであだ名されたが、忠三郎は笑って気にも留めなかった。
 そんなある折、前田利家が聚楽第の屋敷に立ち寄った際のこと。

「おぬしの元から来る者は、誰も彼もみな、蒲生を名乗る。これは如何なることか」
 忠三郎はあっけらかんと答えた。
「戦功の褒美にございます。皆、志ある者ゆえ、我が名を授け候」
 すると利家は、茶を噴きそうになりながら言った。
「ははあ、志ある者に与えるのは結構じゃ。が、蒲生の名は飴ではないぞ。珍しき苗字をこうも安売りしては、蒲生にあらざる蒲生が世に溢れて、道が混み合うわ!」
 忠三郎は少し首をかしげ、笑って答えた。
「さればこそ、道に迷う者があれば、いずれ誰かの導きとなるやも知れませぬ」
 利家はしばらく黙っていたが、やがて大笑し、
「……やれやれ、道理を説いても敵わぬお方よ!」
 と、茶を置いた。
 以後、利家はことあるごとに「蒲生殿の家臣は連枝かと思えば、名字だけの仮初めぞ」と冗談めかして言うようになったが、どこか羨ましげでもあったという。

 そして、月に一度開かれる評定――その場において、隼人正は、あらためて確信した。
 身分も年齢も問わず家臣たちを集め、思うところを述べよと忠三郎は笑って促した。ある者が声を震わせて「我らの知行が少のうございます」と訴えたとき、忠三郎は少し笑い、穏やかにこう言った。
「知行と情とは、車の両輪じゃ。どちらかが欠ければ、まことの道は行けぬ」

 その言葉は、隼人正にとって新鮮だった。神を恐れ、民に仕え、誇らず、奢らず――その姿はまさに、キリシタンの中で語られる「よき羊飼い」の姿と重なる。

 そして、あの夜のこと。
 風の冷たさに、はや秋の深まりを感じるころ、隼人正はふと湯屋の煙に気付き、音もなく戸口に立った。中から笑い声が響き、湯上がりの家臣たちが楽しげに出てくる。
「殿が……今宵も自ら薪を割られ、湯を焚いてくだされた」
「これぞ蒲生風呂。湯とともに、志まであたたまるわ」

 ひとりの家臣が、頬を赤く染めながらそう言ったとき、隼人正は戸をそっと開けた。
 白い湯気の向こう、忠三郎が――まるで煤の霊でも出たかのような格好で、もくもくと薪をくべていた。

 顔はすすでまだら模様、鼻の頭には灰がつき、髷の先には焚き木の小枝が一本、まるで飾りのようにくっついている。見れば、羽織の裾もところどころ焦げ、腕まくりの肘には小さな火の粉の跡。炭俵に腰をかけてはいるが、どう見てもくつろげてはおらず、眉間に皺を寄せて火加減と格闘中だった。

 が、ふと気配に気づいたのか、忠三郎は振り返り――顔いっぱいにすすをつけたまま、にこりと微笑んだ。
「隼人か。湯加減は、如何であった?」
 その瞬間、思わず声が漏れそうになった隼人正は、ぐっと唇を引き結び、深く頭を下げた。
 大身となり、会津少将と呼ばれる主君が、自ら手を動かし、煤まみれになってなお、家臣のために湯を焚き、笑って迎える――その姿が、ある言葉と重なった。

「あなたがたの間では、そうではありません。
 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」

 それはかつて、弟子の足を洗ったイエス・キリストの言葉。誰が一番偉いかと言い争う弟子たちに対してキリストは、偉くなりたいのであれば人に仕えよと、そう諭した。
 武将でありながら、誰よりも低く伏して家臣の疲れを癒すこの人の姿は、まさにキリストの生き方と通じる。

(これが…会津少将・蒲生忠三郎…) 
 隼人正は知らず、膝をついていた。
 ただ、深く、黙して頭を垂れた。

 このお方に付き従っていきたい。いや、このお方のそばで、自らも人をあたためる者でありたい――そう思わずにいられなかった。

 夜気は冴え、虫の声が遠く響く。黒川の城に灯る薪の炎は、ただ一夜の湯を温めるためのものではない。それは、厳しくもあたたかな国づくりの、第一歩であった。
 そして、その火がともる城の奥で、もう一人、複雑な思いを抱いている者がいた。
 成田甲斐。元は敵方の女武者にして、いまは忠三郎の側に仕える身――しかし正式な側室ではなく「側女」という曖昧な立場にあった。父はすでに蒲生家の家臣となっていたが、それでも甲斐の心は、いまだに居場所を定めかねていた。

 忠三郎にどう接してよいか、わからぬまま日々が過ぎていた。武将としては誠に不思議な人だと、甲斐は幾度となく思った。強い。それは間違いない。采配も、剣も、そして心も――
 戦場では矢玉をものともせぬ猛将でありながら、城に戻れば、人を遠ざけるようにひとり静かに過ごしている。誰に強いられるわけでもなく、茶杓を削り、和歌を詠み、居間に籠もって筆をとる。
 その背を、甲斐は何度、障子の隙間からのぞいたことだろう。あまりに雅びていて、どこか近寄りがたい。いや、近づいてはいけぬもののようにさえ思われた。

 ある晩、ふと目を覚ました甲斐は、ふらりと庭に出た。
 月はあまりに美しかった。
 澄み切った空に冴えわたる名月。雲一つない空を、まるで磨き上げた銀の皿のように、冷たくも気高く照らしていた。庭の草の露までもが銀に光り、遠くの山並みは薄墨の絵のように浮かんでいた。蝉の声も消え、虫の音だけが風にまぎれて聞こえる。

 ふと、築地の陰に立ち尽くす影が目に入った。
(誰……?)
 思わず足を止めると、それは忠三郎だった。
 甲斐は息を呑んだ。月を見上げるその目から、静かに涙がこぼれていた。頬を濡らすそれは、声もなく、ただ夜風に舞うように光を帯びていた。
 甲斐は、てっきり新たな国を得た喜びの涙かと思った。だが――

「……綿向山の月も、こうして冴えておった」

 そのひと言で、甲斐はすべてを悟った。
 かつて忠三郎が治めていた近江・日野。
 織田の婿として約束されていたはずの未来を断たれ、故郷を去った男の、戻ることの叶わぬ地への、慕情と悔恨。
 それは、今もなお彼の胸を静かに焼き続けているのだ。

 白い装束の背は、月の光に照らされて、どこか儚げであった。
 武門の誉れをまといながら、誰よりも孤独に耐えている背中。
 その姿が、甲斐の胸を締めつけた。

 声をかけることは、できなかった。
 否、かけてはならぬように思った。
 忠三郎は、誰にも、本当の想いを明かすことはない。人に見せぬ顔を、誰かに預けることも、きっと一生ないのだ――と。

 ただ、風の音と虫の声のなか、甲斐は忠三郎と同じように月を仰いだ。
 会津の空に浮かぶその月は、冷たく澄みわたりながら、どこかもの哀しく、人の世の寂しさを照らし出していた。
 築地の陰で佇むその背は、何ものにも寄りかからず、ただ一人で夜を受け止めていた。
 背を向けたままの忠三郎は、もう泣いてはいなかった。けれど、その沈黙のなかにこそ、甲斐は言葉にできぬ深い哀しみを感じた。
 それは栄達の陰にひそむものではなく、決して誰にも埋められぬ、喪われたものへの悔恨だった。

 綿向山の月は、もう彼の上にはない。
 その代わりに照らすこの会津の月も、忠三郎にとっては、遠い異郷の光なのかもしれない。
 どれほど人をあたためても、自らがその火にあたたまることのない男――。

 成田甲斐の夜は、音もなく、静かに更けていった。
 そしてその胸には、今はもう触れることすらできぬ、ひとつの悲しみが、そっと灯っていた。
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