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32.会津若松
32-1. 雪間の春に
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春といえど、会津の山はまだ白かった。
南からの風がひとしきり雪の野をわたると、遠くの木立がさわさわと鳴った。 音なき朝にあって、かすかな命の響きが広がる。忠三郎は、そのわずかな音に耳をすませた。
「これほど冷えるとは。。冬が、いささか名残惜しき心を残しておると見える」
障子越しに差しこむ光は春のものだが、部屋の中は火鉢なしではとても座っていられぬ寒さだった。
帳簿の山がうず高く積まれている。重臣たちの筆には、苦悶と嘆息のあとが滲んでいる。
近江や伊勢にては目にせぬ言葉――「欠乏」「飢餓」「延納願」。
この奥州なる地においては、田の神も民も、その力を失いつつあるようであった。
「二毛作が叶わぬというだけで、かようにも違うものか……」
忠三郎は、帳簿の一冊に指を這わせた。
忠三郎は指先でひとつの帳簿をなぞった。温暖で肥沃な土地に育った忠三郎にはすべてが真新しく、驚きに満ちている。
「秋しか実らぬならば、その秋を守ってやらねばなるまい」
会津に入封して八か月。年貢は豊臣家の定める二公一民が原則だったが、忠三郎はそれを頑なに守らなかった。
否、守らせなかった。
「うやく田を起こしたばかりの民に、春より刀を突きつけるなど……武門の恥よ」
その理は清らかにして気高かったが、現実は非情である。銭がなく、兵糧の備蓄も乏しい。夏には上方より再仕置の軍が来るとの知らせがあり、戦の備えも急がねばならない。
「――殿、どうか、お聞きくだされ」
重臣のひとり、蒲生源左衛門が身を乗り出し、声を落として言う。
「すでに、蔵の米は三月をもたぬありさまにございます。会津の寒気ゆえ、麦も野菜も育ちが鈍く、里の者どもも口減らしに追われておる始末……」
「兵の給金も、ままなりませぬ」
と関盛信が言った。
「城普請もままならぬ中にて、戦の支度とては……」
「殿、いかに御志あらばとて、民を救いて家を滅ぼすことはなきよう……」
そう言って、家臣たちは皆、顔を伏せた。
忠三郎は口を閉ざし、長く黙していた。
帳簿に走る墨の跡が、呻くように滲んで見える。
「……愚か者よの。わしは、民に施しをしたつもりなどない」
「……殿?」
「あれはただ、生かす道を選んだまでよ。飢えたる民が鍬を振るい、荒地に種を蒔く――その手を討つが如き政など、わしはようせぬ」
言いながら、忠三郎は拳を固く握った。
「わしとて、家が傾く怖れを知らぬではない。されど――政とは、帳簿ではなく、人の胸にて決すものと信じておる」
蒲生源左衛門が、ため息まじりに声をあげる。
「ほう、されば民を搾り取りて家を守れと申すか」
「いえ、決してそのような――」
「ならば、我が家の家宝でも売り払うかのう。大広間にて市を開いてみるか?」
忠三郎の言に笑みはあったが、その場に漂う空気は、冗談と受け取るにはあまりにも重い。
家臣らは押し黙り、火鉢の火がかすかに音を立てて燃えた。
その夜、忠三郎は火鉢の前にひとり座した。帳簿を開いても、文字は墨の染みのように霞み、目に入らない。
冷気が障子の隙間から忍び入り、肩をすくめるたびに、心までも冷えてゆくようだった。
「近江や伊勢では、米と水さえあれば、民は飢えぬと思うておったが……」
呟く声が宵闇に沈む。
寒冷な気候、荒れた土地、そして疲弊した百姓たち。
「民を搾れば家が立ち、家を立てねば民が死ぬ」
――家臣たちの言葉が、幾度も頭をよぎる。
だが、刀で田を割り、年貢で飢えさせて築く家に、何の価値があるのか。
「政の道は、かくも茨に満ちたものか……」
数日が過ぎた。忠三郎は朝餉にも手をつけず、ただ座して沈思した。
膳を下げにきた下女の手が凍えていたのを見て、忠三郎は思わず袖の内に火鉢を引き寄せた。
「下々にすら火が足らぬ。……蔵が寒ければ、民の家など氷の箱よな」
そのとき、近侍が、廊下に人の気配を告げた。
「殿。懐かしいお方が…」
襖が音もなく開いた。
雪の結晶をまとう麻裃が、静かに廊下に滴を落とす。
立っていたのは、痩せた老臣――町野左近であった。
「……爺?」
忠三郎の目がわずかに見開かれる。
町野左近。かつて忠三郎の傅役を務めた老臣だ。日野に戻り、実家の竹田神社の神主となると聞いていた。
けれどもその顔は、あたかも昨日までこの屋敷にいたかのように、穏やかに微笑んでいた。
「お久しゅうございます、殿。お顔を拝しとうて、馳せ参じました」
「……そなた、神主として日々を送っておるものとばかり……」
「父の病も癒え、わしの顔を見て元気づいたと申しておりまする。それがしにもまた、蒲生家に仕え直すよう、幾度となく勧められ…。こうして戻ってまいりました。して、殿に手土産が…」
そう言って、町野左近は襖の向こうを振り返った。
とたんに、幾人もの足音が控えの間より聞こえてくる。
「いくらか連れてまいりました。日野からの者どもでござります。瓦職人、漆職人、酒造り、蝋燭細工の者ども……」
「職人を……連れてきたと申すか」
「は。田を耕す力ばかりでは、この奥州の地は救えませぬ。物を造り、灯を点し、寒き夜を照らす力こそ、民を生かす手立てと考えましてな」
忠三郎は、帳簿の山を振り返った。墨の染みは、今もなお乾かぬままにそこにある。
だが、目の前の職人たちのまなざしは、その墨よりも、遥かに濃く、温かかった。
「民の腹を満たし、蔵を潤し、兵を支える。そのいずれも、刀槍のみでは成せませぬ。拙者は、職の技もまた武に劣らぬ力と信じておりまする」
「よう戻ってくれた」
「ハハッ。有難きお言葉」
忠三郎はしばし沈黙したのち、床几よりゆるりと立ち上がった。
そして、障子を開け放つ。
春の風が、雪の庭先より一筋、部屋に吹き込んだ。
「爺。――会津にも、春が訪れたようじゃ」
「はい、殿。されば、この地もまた、芽吹きましょうぞ」
その日のうちに、忠三郎は重臣たちを召し集め、町の興しと工芸の興隆を宣した。
寒地の漆を活かした塗物、冷涼な水による酒造り、蝋燭の灯が夜を照らす産業。
それらの芽が、静かに、だが確かに、雪解けの地に芽吹こうとしていた。
そして翌日――
忠三郎は一枚の紙に筆を執る。
「この地を……『若松』と名付ける」
筆先はためらうことなく、紙上を走る。
「日野の綿向神社の前には、若松の森があった。春ともなれば、雪を割りて青く芽吹く。あの若松のごとく――この地もまた、凛として立てばよい」
かくして、黒川の名は改められ、「会津若松」となる。
雪解けの大地に、新たなる息吹が芽生える。民の暮らしはなお厳しきも、どこかに――確かに、春の兆しはあった。
忠三郎は、その音を、風の向こうに聴いていた。
忠三郎は、町野左近と相談のうえ、木地師や塗師の住まいと工房を兼ねた伝習所を、城下の北の丘に設けることとした。
「名は……どうするかの」
「殿、ここはひとつ、ド派手に『大屋敷』などいかがで?」
「それでは何やら城より大きそうではないか。……うむ、よかろう。ならば『塗大屋敷《ぬりおおやしき》』としよう」
その場所は、かつて寺院の跡で、石垣と井戸が残っていたが、屋根は抜け、柱はかろうじて立っているだけの荒れ地であった。
「よき土地ではないか、風が通る。屋根はないが、星が見える」
「殿、それを世間では『野晒し』と申します」
「うむ、それも一興じゃ」
日野から来た者たちをそこに住まわせた。
町野長門守は率先して鍬を握り、職人たちも己が腕をもって棟を立て、壁を塗り、炉を築いた。
忠三郎もまた日ごとに顔を見せ、煙に咽びながら薪を運び、釉薬に顔をしかめ、漆の匂いにむせ返った。
「漆はな、木の血ぢゃ」
そう語ったのは、日野の老漆師・喜平であった。
「山が育て、手が摘み、器となる。……だがこの地の漆は、まだ若い。気候と土に合わねば、割れるだけよ」
忠三郎が腕組みしながらうむうむと頷き、町野長門守は脇で神妙な顔をつくっていたが、いつのまにやら大根の煮物の話にすり替えていた。
「ならば育てればよい」
忠三郎は薪の束を脇に置き、誰にともなく呟いた。
「木を植え、時を待ち、百年の器をこしらえようではないか」
塗大屋敷には、やがて焼き物に挑む者、木綿を織る者、絵師を呼んで彩色を試す者が集い、少しずつ『会津のかたち』が出来あがっていく。
――雪の白、山の青、稲の金。
やわらかな木綿には、会津の藍が映え、素朴な小物には、子供が遊ぶ風車の彩が加わった。
ある夜、忠三郎が言った。
「この地の色を、残したいのう」
「漆の話で?」
「寒さに耐える器、雪に遊ぶ子の人形。………真似では飽き足らぬ。会津にしかないものをのう」
「ははあ、では殿にしか出せぬ顔を、張子にしてみましょうか」
「長門、それはやめておけ」
そんなやりとりのあと、職人たちは忠三郎の来訪にあわせ、こしらえた品々を棚に並べて見せた。
忠三郎がひとつ手に取る。赤い張子だ。
「これは……なにやら、牛か?」
「それは赤べこにござります」
「赤べこ?」
「奥州では牛を『べこ』と呼びまして、赤いべこだから赤べこで――」
ひとりの玩具師が、会津の赤牛に倣って張子で牛を拵え、子供が首を振って喜ぶようにと工夫した。
「赤は魔除けの色とされ、また疫病除けの験もあるとか」
「ふむ……なるほど、これは良い。なんとも愛嬌のある面構えじゃ」
そう言って、忠三郎が指先でその首をつつくと、ふらふらと牛の首が揺れた。
「ほほう、これはまた笑えぬ。殿のごとく、首が回らぬ。当家の懐事情を察したようで」
「長門、そこに直れ」
長門守が笑いながら別の張子を取り上げた。
「それなるは『起き上がり小法師』と名付けました」
「起き上がり小法師?」
「倒しても倒しても、起き上がりまする。……殿のように」
忠三郎はその小さな人形を手に取って、指先で倒してみた。
ぽてん、ころん――するりと起きる。
「ほう…。これはよい。会津者の心よの」
「うむ、倒れても立ち、立ってもたまに寝ておる」
「長門、それはそなたのことじゃ」
笑いが起こる中、蝋燭職人がやってきた。
「殿。越前の「絵入蝋燭」を存じておいでで?」
「絵入蝋燭とは?」
「蝋燭に花の絵を描くのでございます。火を灯せば、蝋の中に花が咲きまする」
「ほう……夜に咲く花、とな」
忠三郎が目を細めた。
「蝋に絵を――よいではないか。あれじゃ、あれ。火の中の風情よ」
「殿、あれがどれか分かりませんが、承知つかまつった」
こうして生まれたのが、会津絵蝋燭だった。
芯のまわりに、ひとつひとつ丁寧に描かれる花――牡丹、桜、菊、水仙。
火を灯せば、蝋の中から仄かに浮かびあがる花の影。
「これは、火の中に咲く、会津の花じゃ」
「火事のもとにはならぬよう、お気をつけあそばせ」
町野長門守がまた妙な顔でしみじみと笑う。
やがて塗大屋敷の工芸は城下に広まり、雪深い地にあっても人々の目に彩りと温もりを与えはじめた。
寒い朝にも、灯の中に花が咲き、赤べこが揺れ、小法師がぽてんと立ち上がる。
けれど、どれほど彩り豊かな品が生まれようとも、それだけで腹が満たせるわけではなかった。
春を告げる雪解けの頃、忠三郎は静かに呟いた。
「飢えた腹に、絵の花は咲かぬ……か」
会津の冬は厳しく、春の訪れすら遅い。吹雪に閉ざされた村々では、塗大屋敷の玩具や器が微笑みをもたらす一方で、火の気のない囲炉裏と、空になった米びつにため息が漏れていた。
忠三郎は、家中の者に言われずとも、自ら村を回った。ときに雪を踏み分け、ときに泥に足を取られながら、老農と囲炉裏端で腰を下ろし、まるで隣人のように話に耳を傾けた。
「田に水が足らぬ。春先には川も干上がってしまうんでな……」
「夏にゃ干ばつ、秋には泥濘《ぬかるみ》よ。稲も気の毒なほどだ」
民の言葉に、忠三郎は地図を広げた。筆を片手に、山々の尾根をなぞり、水の流れを追い、沈思する。町野長門守も地図に目を凝らしていたが、やがて困り果てた顔で言った。
「この辺り、水脈なぞござりませぬ…どうにも絞り出すような水ばかりでして」
「確かに…いや、これは…」
ふと、指が止まった。
「――猪苗代の湖…」
城の北西、山を越えた先に広がる大湖。その名が、目を引いた。
「まさか……殿、それほど遠き湖より、水を引こうと?」
長門守が目を白黒させて問い返す。
「この水を田へ届ける道はないものか……」
と忠三郎は、呟くように言った。
周囲の家臣たちはざわめいた。馬鹿げた話と、一笑に付す者もいた。だが、忠三郎の眼差しは静かで、決して笑ってはいなかった。
やがて、塗大屋敷を見やり、静かに語った。
「あの者たちを見よ。己の手で荒地に工房をこしらえ、火を起こし、彩を作り出した。……今度は、我らの番であろう」
忠三郎は家中に命じた。
「湖の水を、野に通わせよ」と。
それは夢物語のような命だった。春の雪解けを、夏の干ばつに備えてどう貯え、どう運ぶか。山を越え、谷を縫う長大な水路を通すには、歳月と金と、何より人の力が要った。
凍土を砕き、岩を穿ち、堤を積み、用水を刻む。工事は困難を極めた。村の男たちは鍬を握り、女たちは水場に飯を炊いた。腕の立つ山師、川掘りの名人、老いた僧も加わり、智と力が束となって、一本の細い水の道を育てていった。
会津の地形と気候は一筋縄ではゆかない。だが忠三郎は、山師や堀削りの名人、在地の長百姓、果ては僧の知恵までも集め、少しずつ形を整えていった。
決して急がず、着実に人と水とを繋げていく。
「用水とは、ただの水路にあらず。人の暮らしと、心の流れをつなぐもの」
やがて、数年後の春には、水が田を潤す日がくる。村の子らが裸足で畦を走る姿を見ることができる。
「……水の音のあたたかさを、皆が知る日がくるはず。米蔵が満たされる日がくるはずじゃ」
そう語る忠三郎の言葉は、疲れた村人の胸にじんと染みた。
すぐには結果は出せない。だが、それでいい。信じて動けば、やがてその先に芽が出る。忠三郎はそう思っていた。
新たに引かれた用水が、山あいの谷を縫い、野を渡り、枯れがちだった田に水をもたらす。水路の傍には、草が萌え、蛙が鳴き、風にそよぐ稲の苗が並ぶようになる。やがて、季節は巡り、忠三郎の願いは、ひとつ、またひとつと形を結んでいくはずだ。
南からの風がひとしきり雪の野をわたると、遠くの木立がさわさわと鳴った。 音なき朝にあって、かすかな命の響きが広がる。忠三郎は、そのわずかな音に耳をすませた。
「これほど冷えるとは。。冬が、いささか名残惜しき心を残しておると見える」
障子越しに差しこむ光は春のものだが、部屋の中は火鉢なしではとても座っていられぬ寒さだった。
帳簿の山がうず高く積まれている。重臣たちの筆には、苦悶と嘆息のあとが滲んでいる。
近江や伊勢にては目にせぬ言葉――「欠乏」「飢餓」「延納願」。
この奥州なる地においては、田の神も民も、その力を失いつつあるようであった。
「二毛作が叶わぬというだけで、かようにも違うものか……」
忠三郎は、帳簿の一冊に指を這わせた。
忠三郎は指先でひとつの帳簿をなぞった。温暖で肥沃な土地に育った忠三郎にはすべてが真新しく、驚きに満ちている。
「秋しか実らぬならば、その秋を守ってやらねばなるまい」
会津に入封して八か月。年貢は豊臣家の定める二公一民が原則だったが、忠三郎はそれを頑なに守らなかった。
否、守らせなかった。
「うやく田を起こしたばかりの民に、春より刀を突きつけるなど……武門の恥よ」
その理は清らかにして気高かったが、現実は非情である。銭がなく、兵糧の備蓄も乏しい。夏には上方より再仕置の軍が来るとの知らせがあり、戦の備えも急がねばならない。
「――殿、どうか、お聞きくだされ」
重臣のひとり、蒲生源左衛門が身を乗り出し、声を落として言う。
「すでに、蔵の米は三月をもたぬありさまにございます。会津の寒気ゆえ、麦も野菜も育ちが鈍く、里の者どもも口減らしに追われておる始末……」
「兵の給金も、ままなりませぬ」
と関盛信が言った。
「城普請もままならぬ中にて、戦の支度とては……」
「殿、いかに御志あらばとて、民を救いて家を滅ぼすことはなきよう……」
そう言って、家臣たちは皆、顔を伏せた。
忠三郎は口を閉ざし、長く黙していた。
帳簿に走る墨の跡が、呻くように滲んで見える。
「……愚か者よの。わしは、民に施しをしたつもりなどない」
「……殿?」
「あれはただ、生かす道を選んだまでよ。飢えたる民が鍬を振るい、荒地に種を蒔く――その手を討つが如き政など、わしはようせぬ」
言いながら、忠三郎は拳を固く握った。
「わしとて、家が傾く怖れを知らぬではない。されど――政とは、帳簿ではなく、人の胸にて決すものと信じておる」
蒲生源左衛門が、ため息まじりに声をあげる。
「ほう、されば民を搾り取りて家を守れと申すか」
「いえ、決してそのような――」
「ならば、我が家の家宝でも売り払うかのう。大広間にて市を開いてみるか?」
忠三郎の言に笑みはあったが、その場に漂う空気は、冗談と受け取るにはあまりにも重い。
家臣らは押し黙り、火鉢の火がかすかに音を立てて燃えた。
その夜、忠三郎は火鉢の前にひとり座した。帳簿を開いても、文字は墨の染みのように霞み、目に入らない。
冷気が障子の隙間から忍び入り、肩をすくめるたびに、心までも冷えてゆくようだった。
「近江や伊勢では、米と水さえあれば、民は飢えぬと思うておったが……」
呟く声が宵闇に沈む。
寒冷な気候、荒れた土地、そして疲弊した百姓たち。
「民を搾れば家が立ち、家を立てねば民が死ぬ」
――家臣たちの言葉が、幾度も頭をよぎる。
だが、刀で田を割り、年貢で飢えさせて築く家に、何の価値があるのか。
「政の道は、かくも茨に満ちたものか……」
数日が過ぎた。忠三郎は朝餉にも手をつけず、ただ座して沈思した。
膳を下げにきた下女の手が凍えていたのを見て、忠三郎は思わず袖の内に火鉢を引き寄せた。
「下々にすら火が足らぬ。……蔵が寒ければ、民の家など氷の箱よな」
そのとき、近侍が、廊下に人の気配を告げた。
「殿。懐かしいお方が…」
襖が音もなく開いた。
雪の結晶をまとう麻裃が、静かに廊下に滴を落とす。
立っていたのは、痩せた老臣――町野左近であった。
「……爺?」
忠三郎の目がわずかに見開かれる。
町野左近。かつて忠三郎の傅役を務めた老臣だ。日野に戻り、実家の竹田神社の神主となると聞いていた。
けれどもその顔は、あたかも昨日までこの屋敷にいたかのように、穏やかに微笑んでいた。
「お久しゅうございます、殿。お顔を拝しとうて、馳せ参じました」
「……そなた、神主として日々を送っておるものとばかり……」
「父の病も癒え、わしの顔を見て元気づいたと申しておりまする。それがしにもまた、蒲生家に仕え直すよう、幾度となく勧められ…。こうして戻ってまいりました。して、殿に手土産が…」
そう言って、町野左近は襖の向こうを振り返った。
とたんに、幾人もの足音が控えの間より聞こえてくる。
「いくらか連れてまいりました。日野からの者どもでござります。瓦職人、漆職人、酒造り、蝋燭細工の者ども……」
「職人を……連れてきたと申すか」
「は。田を耕す力ばかりでは、この奥州の地は救えませぬ。物を造り、灯を点し、寒き夜を照らす力こそ、民を生かす手立てと考えましてな」
忠三郎は、帳簿の山を振り返った。墨の染みは、今もなお乾かぬままにそこにある。
だが、目の前の職人たちのまなざしは、その墨よりも、遥かに濃く、温かかった。
「民の腹を満たし、蔵を潤し、兵を支える。そのいずれも、刀槍のみでは成せませぬ。拙者は、職の技もまた武に劣らぬ力と信じておりまする」
「よう戻ってくれた」
「ハハッ。有難きお言葉」
忠三郎はしばし沈黙したのち、床几よりゆるりと立ち上がった。
そして、障子を開け放つ。
春の風が、雪の庭先より一筋、部屋に吹き込んだ。
「爺。――会津にも、春が訪れたようじゃ」
「はい、殿。されば、この地もまた、芽吹きましょうぞ」
その日のうちに、忠三郎は重臣たちを召し集め、町の興しと工芸の興隆を宣した。
寒地の漆を活かした塗物、冷涼な水による酒造り、蝋燭の灯が夜を照らす産業。
それらの芽が、静かに、だが確かに、雪解けの地に芽吹こうとしていた。
そして翌日――
忠三郎は一枚の紙に筆を執る。
「この地を……『若松』と名付ける」
筆先はためらうことなく、紙上を走る。
「日野の綿向神社の前には、若松の森があった。春ともなれば、雪を割りて青く芽吹く。あの若松のごとく――この地もまた、凛として立てばよい」
かくして、黒川の名は改められ、「会津若松」となる。
雪解けの大地に、新たなる息吹が芽生える。民の暮らしはなお厳しきも、どこかに――確かに、春の兆しはあった。
忠三郎は、その音を、風の向こうに聴いていた。
忠三郎は、町野左近と相談のうえ、木地師や塗師の住まいと工房を兼ねた伝習所を、城下の北の丘に設けることとした。
「名は……どうするかの」
「殿、ここはひとつ、ド派手に『大屋敷』などいかがで?」
「それでは何やら城より大きそうではないか。……うむ、よかろう。ならば『塗大屋敷《ぬりおおやしき》』としよう」
その場所は、かつて寺院の跡で、石垣と井戸が残っていたが、屋根は抜け、柱はかろうじて立っているだけの荒れ地であった。
「よき土地ではないか、風が通る。屋根はないが、星が見える」
「殿、それを世間では『野晒し』と申します」
「うむ、それも一興じゃ」
日野から来た者たちをそこに住まわせた。
町野長門守は率先して鍬を握り、職人たちも己が腕をもって棟を立て、壁を塗り、炉を築いた。
忠三郎もまた日ごとに顔を見せ、煙に咽びながら薪を運び、釉薬に顔をしかめ、漆の匂いにむせ返った。
「漆はな、木の血ぢゃ」
そう語ったのは、日野の老漆師・喜平であった。
「山が育て、手が摘み、器となる。……だがこの地の漆は、まだ若い。気候と土に合わねば、割れるだけよ」
忠三郎が腕組みしながらうむうむと頷き、町野長門守は脇で神妙な顔をつくっていたが、いつのまにやら大根の煮物の話にすり替えていた。
「ならば育てればよい」
忠三郎は薪の束を脇に置き、誰にともなく呟いた。
「木を植え、時を待ち、百年の器をこしらえようではないか」
塗大屋敷には、やがて焼き物に挑む者、木綿を織る者、絵師を呼んで彩色を試す者が集い、少しずつ『会津のかたち』が出来あがっていく。
――雪の白、山の青、稲の金。
やわらかな木綿には、会津の藍が映え、素朴な小物には、子供が遊ぶ風車の彩が加わった。
ある夜、忠三郎が言った。
「この地の色を、残したいのう」
「漆の話で?」
「寒さに耐える器、雪に遊ぶ子の人形。………真似では飽き足らぬ。会津にしかないものをのう」
「ははあ、では殿にしか出せぬ顔を、張子にしてみましょうか」
「長門、それはやめておけ」
そんなやりとりのあと、職人たちは忠三郎の来訪にあわせ、こしらえた品々を棚に並べて見せた。
忠三郎がひとつ手に取る。赤い張子だ。
「これは……なにやら、牛か?」
「それは赤べこにござります」
「赤べこ?」
「奥州では牛を『べこ』と呼びまして、赤いべこだから赤べこで――」
ひとりの玩具師が、会津の赤牛に倣って張子で牛を拵え、子供が首を振って喜ぶようにと工夫した。
「赤は魔除けの色とされ、また疫病除けの験もあるとか」
「ふむ……なるほど、これは良い。なんとも愛嬌のある面構えじゃ」
そう言って、忠三郎が指先でその首をつつくと、ふらふらと牛の首が揺れた。
「ほほう、これはまた笑えぬ。殿のごとく、首が回らぬ。当家の懐事情を察したようで」
「長門、そこに直れ」
長門守が笑いながら別の張子を取り上げた。
「それなるは『起き上がり小法師』と名付けました」
「起き上がり小法師?」
「倒しても倒しても、起き上がりまする。……殿のように」
忠三郎はその小さな人形を手に取って、指先で倒してみた。
ぽてん、ころん――するりと起きる。
「ほう…。これはよい。会津者の心よの」
「うむ、倒れても立ち、立ってもたまに寝ておる」
「長門、それはそなたのことじゃ」
笑いが起こる中、蝋燭職人がやってきた。
「殿。越前の「絵入蝋燭」を存じておいでで?」
「絵入蝋燭とは?」
「蝋燭に花の絵を描くのでございます。火を灯せば、蝋の中に花が咲きまする」
「ほう……夜に咲く花、とな」
忠三郎が目を細めた。
「蝋に絵を――よいではないか。あれじゃ、あれ。火の中の風情よ」
「殿、あれがどれか分かりませんが、承知つかまつった」
こうして生まれたのが、会津絵蝋燭だった。
芯のまわりに、ひとつひとつ丁寧に描かれる花――牡丹、桜、菊、水仙。
火を灯せば、蝋の中から仄かに浮かびあがる花の影。
「これは、火の中に咲く、会津の花じゃ」
「火事のもとにはならぬよう、お気をつけあそばせ」
町野長門守がまた妙な顔でしみじみと笑う。
やがて塗大屋敷の工芸は城下に広まり、雪深い地にあっても人々の目に彩りと温もりを与えはじめた。
寒い朝にも、灯の中に花が咲き、赤べこが揺れ、小法師がぽてんと立ち上がる。
けれど、どれほど彩り豊かな品が生まれようとも、それだけで腹が満たせるわけではなかった。
春を告げる雪解けの頃、忠三郎は静かに呟いた。
「飢えた腹に、絵の花は咲かぬ……か」
会津の冬は厳しく、春の訪れすら遅い。吹雪に閉ざされた村々では、塗大屋敷の玩具や器が微笑みをもたらす一方で、火の気のない囲炉裏と、空になった米びつにため息が漏れていた。
忠三郎は、家中の者に言われずとも、自ら村を回った。ときに雪を踏み分け、ときに泥に足を取られながら、老農と囲炉裏端で腰を下ろし、まるで隣人のように話に耳を傾けた。
「田に水が足らぬ。春先には川も干上がってしまうんでな……」
「夏にゃ干ばつ、秋には泥濘《ぬかるみ》よ。稲も気の毒なほどだ」
民の言葉に、忠三郎は地図を広げた。筆を片手に、山々の尾根をなぞり、水の流れを追い、沈思する。町野長門守も地図に目を凝らしていたが、やがて困り果てた顔で言った。
「この辺り、水脈なぞござりませぬ…どうにも絞り出すような水ばかりでして」
「確かに…いや、これは…」
ふと、指が止まった。
「――猪苗代の湖…」
城の北西、山を越えた先に広がる大湖。その名が、目を引いた。
「まさか……殿、それほど遠き湖より、水を引こうと?」
長門守が目を白黒させて問い返す。
「この水を田へ届ける道はないものか……」
と忠三郎は、呟くように言った。
周囲の家臣たちはざわめいた。馬鹿げた話と、一笑に付す者もいた。だが、忠三郎の眼差しは静かで、決して笑ってはいなかった。
やがて、塗大屋敷を見やり、静かに語った。
「あの者たちを見よ。己の手で荒地に工房をこしらえ、火を起こし、彩を作り出した。……今度は、我らの番であろう」
忠三郎は家中に命じた。
「湖の水を、野に通わせよ」と。
それは夢物語のような命だった。春の雪解けを、夏の干ばつに備えてどう貯え、どう運ぶか。山を越え、谷を縫う長大な水路を通すには、歳月と金と、何より人の力が要った。
凍土を砕き、岩を穿ち、堤を積み、用水を刻む。工事は困難を極めた。村の男たちは鍬を握り、女たちは水場に飯を炊いた。腕の立つ山師、川掘りの名人、老いた僧も加わり、智と力が束となって、一本の細い水の道を育てていった。
会津の地形と気候は一筋縄ではゆかない。だが忠三郎は、山師や堀削りの名人、在地の長百姓、果ては僧の知恵までも集め、少しずつ形を整えていった。
決して急がず、着実に人と水とを繋げていく。
「用水とは、ただの水路にあらず。人の暮らしと、心の流れをつなぐもの」
やがて、数年後の春には、水が田を潤す日がくる。村の子らが裸足で畦を走る姿を見ることができる。
「……水の音のあたたかさを、皆が知る日がくるはず。米蔵が満たされる日がくるはずじゃ」
そう語る忠三郎の言葉は、疲れた村人の胸にじんと染みた。
すぐには結果は出せない。だが、それでいい。信じて動けば、やがてその先に芽が出る。忠三郎はそう思っていた。
新たに引かれた用水が、山あいの谷を縫い、野を渡り、枯れがちだった田に水をもたらす。水路の傍には、草が萌え、蛙が鳴き、風にそよぐ稲の苗が並ぶようになる。やがて、季節は巡り、忠三郎の願いは、ひとつ、またひとつと形を結んでいくはずだ。
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