獅子の末裔

卯花月影

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32.会津若松

32-4. 秋風の中の一扇

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 空は高く澄みわたり、風は野を渡りてひややかに、すすきの穂を撫でてゆく。
 虫の声がしきりに響き、陽射しはまだ残暑の名残をとどめつつも、もはや夏のものではなかった。
 草むらに咲く女郎花《おみなえし》や吾亦紅《われもこう》の色合いはほの暗く、野の草いきれすら乾いている。
 長き進軍の果て、蒲生勢はついに奥州再仕置軍と合流し、南部領の玄関口へとたどり着いた。

 六万――。
 それが、この戦に集まった豊臣の大軍の数であった。
 対する九戸政実の兵は、わずか五千。
 兵数の差は歴然としていた。だが忠三郎の胸中には、言いしれぬ不安がまとわりついていた。
 九戸の地を踏んだときから、空気が変わった。
 草の音も、鳥の影も、なにか目に見えぬものを宿している。
 それはまるで、大地そのものが、よそ者の侵入を拒んでいるかのようであった。

 ――ここは、都人の理が通じぬ地。
 ただの勝ち負けでは、測れぬものがある。
「これが、姉帯城《あねたいじょう》か」
 忠三郎は馬上から、眼下の砦を見下ろした。
 小ぶりな構えの城である。だが、城を囲む土塁にも、幟にも、どこか怨念のような熱がこもっていた。
 それは、紅葉にはまだ早い木々が、血のように赤く見える錯覚を覚えるほどであった。
「城にこもるは、わずか二百三十。落とすに骨は折れまい。陽の高いうちに、ことは済む」
 その声には、かつて織田信長も認めた戦上手の自負があった。
 忠三郎は信長の娘婿として、その剛槍をもって数々の戦をくぐり抜けてきた。
 だが、その信長の冷酷と苛烈だけは、いまだに心に刺さったままだ。
 ――人の命を、石のように投げ捨てるあのやり口。
 それでも、戦場に立てば、剛の者として立ち向かわねばならぬ。

 夜明け前のことだった。
 まだ霧の残る刻、城門が不意に開いた。野を渡る風が土煙を巻き上げる。
 そして、そこから数十騎の武者が飛び出し、怒涛のごとく忠三郎の本陣へと突進してきた。
「突撃――だと?」
 わずかな数とはいえ、その勢いは烈火のごとく、忠三郎の本陣へ突き進む。
 血気、執念、命そのものを燃やすかのような突撃だった。
「う、討たれる……!」
 恐怖に駆られた兵たちが潰走しかけたその時、紅の陣羽織をなびかせ、馬上に一騎の武者が現れた。
 忠三郎である。
「下がるな! 見せてやる、これが蒲生忠三郎の槍じゃ!」
 雷鳴のような怒号が、戦場を貫いた。
 剛槍がうねり、敵の先鋒を突き崩す。
 その姿は、かつて長篠で、越前で、数多の戦場で敵を薙ぎ払った猛将そのものだった。
 敵将らしき騎馬武者が迫る。
 一騎、また一騎――
 忠三郎の姿に兵たちも勇み立ち、敵の突撃は程なく潰えた。
「深追いするな! 無理攻めはさせぬ!」
 敵が逃げ去った後には、ただ風だけが、北の空に吹いていた。
 勝った。
 そう誰もが思った。
 だが、戦場は静まり返り、誰一人、声を上げぬまま時が止まった。
「ご注進――石黒喜助殿が……」
 その報せに、忠三郎の手から槍がわずかに揺れた。
「……喜助が……?」
 敵将・姉帯兼信と刺し違えたという。
 あどけなさの残る若武者が、武士の誉れを信じ、初陣の誇りを胸に出陣し――
 まだ秋の名月を見ることなく、斃れた。

 忠三郎は、ゆっくりと馬を降りる。
 屍の間を縫い、血の泥濘を踏みしめ、喜助の亡骸のもとへ歩み寄る。
 少年の顔は穏やかで、どこか空を見上げているようだった。
 その目に映ったのは、敵か、雲か、あるいは未来だったか。
「……これは……」
 誰に向けた言葉でもなかった。
 戦に生き、勝ち、誉れを受けた数十年。
 そこで掴むのはいつも、かけがえのない命の喪失。
「……これは、何の報いなのだ……」
 忠三郎のまなざしが、ただひと筋、流れる雲を追った。
 その眼差しの奥に、一瞬、信長の薄笑いが浮かび、やがてまた、風に消えていく。
 信長も秀吉も、この少年の命の重みに、心を止めることはなかっただろう。
 城を落とし、勝利を手にしたというのに、野営の陣には誰一人、声高に笑う者もなかった。

 焚火の火は、小さく、細く、まるで誰かに憚るように燃えていた。
 日が傾き、虫の音が冴え渡る頃、忠三郎は焚火の前に座していた。
 肩にはまだ血のにおいが染みついている。
 甲冑も脱がぬまま、膝に両肘をつき、じっと炎を見つめていた。
 火に照らされたその顔は、鉄のように堅く、どこか哀しみに沈んでいた。
 語る言葉はなく、ただ指を組んで、祈るように黙している。

 木々のざわめきが、時折、風に乗って揺れる。
 火がはぜるたび、喜助の笑顔が浮かび、そして崩れていく。
 まだ童と呼んでもおかしくないほどの顔――だが、戦のなかでは、立派に武者として討死した。
――もし、この手に力がなければ、
――もし、この戦がなければ、
 喜助は今も、生きていたかもしれない。
 ふと見上げた夜空には、淡くにじむ月が浮かんでいた。
 その光は柔らかく、どこか遠く、手の届かぬものだった。

 秋の虫が鳴き、風が草を渡る。
 忠三郎は、声にはならぬ想いを胸に、ただひとり夜の深みに沈んでいった。
 
「――わしが、連れてこなければ」
 ふいに、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
 返る声はない。夜は冷たく沈黙し、ただ虫の音だけが忠三郎の耳を満たした。
 喜助には、剣の道ではなく、もっと別の道があったはずだ。
 風を追い、雲を仰ぎ、恋をして、子をなして、老いていく――そんな、平凡で、けれど尊い日々が。
「武門の誉れか……」
 乱世を駆け抜け、信長・秀吉に仕え、幾多の戦場を渡り歩いてきた。
 斬った敵の数も、奪った城の名も、もう正確には思い出せない。
 ただ、今日ひとつ失った命の重みだけが、いまはすべてを圧していた。

 忠三郎は、膝に置いた手を見つめる。
 剣を握るために鍛えられたその手――
 いまは、ただただ、祈るように固く握り締められていた。
 喜助の名を呼ぶことは、もうできなかった。
 それは涙になりそうで、涙にならぬまま、胸の底で固まっていた。

 ふと、空を仰ぐ。
 雲が流れてゆく。
 さきほどまで晴れていた空に、いまは細く、月が滲んでいた。
 ――許せ。
 心のなかでつぶやきながら、夜の深みにじっと身を沈めた。


 朝靄の向こうに、九戸城が現れた。
 重く、鈍く、黒ずんだ木々の合間に、その異様な城郭は姿を現す。
 旧暦九月二日。姉帯を落とした蒲生勢は、ついに九戸政実の本拠へと到達した。

 遠巻きに眺める城は、平山城で、百年前に建てられたものだという。
 三方を川に囲まれ、土塁がいくつも重なり、縄張りは複雑に入り組んでいる。侵入者を迷わせ、呑み込むために築かれたかのようであった。

「……なるほど、こやつが最後の牙城か」
 忠三郎は、馬上から城の全容を見据えた。
 空は曇天。秋風は冷たく、すすきの野を渡って陣幕を揺らす。虫の声も、九戸の地に入ってからはどこか濁って聞こえた。

 朝靄に煙る山裾の彼方、九戸の城は、まるで眠りから目覚める獣のごとく、静かにその全貌をあらわした。
 九月二日――空は高く、薄く色づきはじめた木々の葉が、秋の訪れを告げていた。空気は冴え、骨の芯にまで沁み入るひんやりとした気が、戦陣の幕舎にまで忍び寄ってくる。

 その日、蒲生勢を筆頭とする奥州再仕置軍、総勢六万は、ついに九戸政実の本拠たる九戸城を包囲した。
 しかし、それはただの砦ではない。百年前に建てられたという城は三方を川に囲まれた天然の要害。高く積まれた土塁は、秋風にさらされてもなお険しく、曲輪の配列はまるで蜘蛛の巣のように侵攻の筋を見失わせる。

 ある者はその構えを見て、こう洩らした。
「これは、東国武士の矜持が築きし、魂の形そのもの――」

 忠三郎は、奥州を預かる太閤秀吉の名代として、正面の布陣を任されていた。
 誉れであると同時に、最も危うき陣。敵が矢も楯もたまらず打って出るとすれば、最初に炎を被るは、蒲生勢である。
 だが、忠三郎は怯まなかった。
 姉帯の戦で甥・喜助を失ったあの日より、胸の奥に宿りしもの――それは、痛みでも憤怒でもない。冷たく燃えさかる、無言の焔だった。

 幕舎の内にて、小姓らを前に静かに語る。
「九戸殿は、軽からざる敵よ。姉帯においても、その胆力と才覚、見るべきものがあった。だが、それを上まわるべし。都の理を、奥州に通すということは――そのすべてを討つことを意味する」
 語る声には静かな威があった。
「だが我らは、都からの命を受けた討伐軍である。敵がいかなる因果を背負おうと、これを討たねばならぬ」
 そう言うと、まず、物見を出して城内の様子を伺わせようとした。
 すると、銃声が鳴り響いた。
「殿。城中に鉄砲の名手が一人おり、味方の者ら、遠きより狙い撃ちされておりまする」」
 町野左近の知らせに、忠三郎はふと昔を思い起こす。
(鉄砲の名手…)
 懐かしい面影が、風のように脳裏をよぎる。
 ――かつて、柱に開けた穴から敵を討ち、信長も一目置いた義兄・滝川一益。
 そして、その血を受け継ぎし、あの繊細な少年――三九郎。
 華奢な体つきで、重き火縄銃を軽々と構え、薫るような硝煙と共に引き金を引いた、その一瞬。
 遠き日の、秋の陽射しのなか。
 忠三郎は思わず、唇の端をゆるめた。
「面白いではないか……」
 口元に微笑をたたえたまま、ふと帷幕の中を見やり、家臣たちに語りかける。
「これより、ひとつ、故事に倣うとしよう。源平の昔、那須与一なる武者が、敵船に掲げられた扇を射落としたとの古事あり。都びとが愛する、風雅と武の交わる話じゃ。奥州の兵どもにも、風雅が通ずるか、試してみたくなった」
 一瞬の静けさが流れた後、家臣たちは互いに顔を見合わせた。
「源左衛門」
「は、は、はい」
「そのほう、扇を持って、城に向かって掲げてみよ」
「な、な、何ゆえこの源左衛門が……!?」

 あからさまにうろたえる蒲生源左衛門。忠三郎は口元を吊り上げて目を細めた。
「なに、顔立ちまろやかにして、玉避けには丁度良き的じゃ」
 忠三郎が目を細めて笑えば、まわりからどっと笑いがこぼれる。
 源左衛門はしばし絶句したが、やがて肩を落とし、観念した様子で従者から扇を受け取った。
「…やれやれ、那須与一のごとき名射手を、敵にてお持ちとは。されど、的となる身の不運よ…」
 ぶつぶつと何かを言いながら、従者から渡された傘を手に、源左衛門は野面へと歩み出た。
 そして一呼吸すると、白地に金の霞をあしらった傘を高く掲げた。
「頼みますぞ、命の傘……」
 彼はそっとつぶやき、城に向かって立った。そして、意を決して、ピンと背を伸ばすと、腕を高く掲げて扇をかざした――その瞬間。
「パンッ!」
 鋭い銃声が空を裂いた。
 掲げた傘が見事に撃ち抜かれ、ひらりと舞って、秋風に乗りながら地へと落ちた。
「おわっ!? いまの、今のご覧くだされたか!?」
 へたり込みそうになりながらも、源左衛門は裂けた傘を高く掲げる。
「おおおっ!!」
 まずは蒲生勢の陣から大きな歓声が上がり、それに呼応するように、九戸城の方からも喝采が響いた。
「よもや……かように離れた場所から、ど真ん中を撃ち抜くとは……」
「見事な腕じゃ……敵ながらあっぱれ!」
 誰からともなく拍手が広がり、それはまるで波紋のように陣の隅々まで届いた。
 この一発の銃弾が、敵味方を隔てる緊張を和らげ、戦場に笑いと人間味を呼び戻した。
 拍手と笑いが風に乗って、陣営を包み込んでゆく。
 この日の戦は、いつのまにか自然と中止となった。
 秋の日は傾き、金の光が野に注ぐ。裂けた傘は風に揺られ、草の上でくるりと舞った。
 忠三郎はそれを見つめながら、ひとつ息を吐いて、ぽつりとこぼした。
「……都の洒落は、奥州にも通じるか。ならば、よし」
「殿も……ご無体な」
 と、草の上にへたり込んだ源左衛門が苦笑いを浮かべる。
「ほう……まだ息があるか」
「ぎりぎりにございます……それがし、心より酒を所望つかまつりまする」
「よかろう。では参ろう。命の戻った祝いに、一献傾けるとしようか」
 忠三郎は笑みを浮かべて手を差し伸べた。源左衛門はその手を取りながら、目尻をぴくぴくと震わせた。
「……ほんに、洒落の通じるお方にございますな」
 秋風が吹き抜け、幕舎の中には、久方ぶりに戦を忘れた男たちの笑い声が満ちていった。

 その夜――。
 秋の虫が鳴く静かな幕舎の一角。
 篝火の影がちらちらと揺れる中、忠三郎は膳を前に、酒を一合だけ温めていた。
 やがて、そこへ蒲生源左衛門が、まだ少し腰をさすりながら現れる。
「源左衛門。ようやった。命拾いの祝いじゃ、共に飲め」
「はっ……かたじけのうございます」
 源左衛門は床几を整え、畏まりながらも、どこか安堵の色を見せて膳についた。
 酒を酌み交わすうち、自然と笑みがこぼれる。
「されど……今日の一件、まこと肝を冷やしましたぞ。
 扇ひとつで撃たれるとは……いや、扇を掲げる者が、肝でございましたな」
「案ずるな。おぬしの顔、実に弾除け向きであった」
「……誉め言葉と、受け取ってよろしゅうございますかの……」
 忠三郎がくつくつと笑う。
 源左衛門も、とうとう堪えきれず、肩を揺らして笑った。
「しかしながら、あの銃声に、戦の気が抜け申したな。いっそ、ああした洒落で、戦の一日が終わるなら、悪くはありますまい」
「うむ。笑いのうちに一日が終わる、これぞ何よりの勝ちよ」
 二人は、静かに杯を重ねた。
 風が帷幕を揺らし、どこか遠くで、虫の音が細く響いた。
 明日はまた、どうなるとも知れぬ戦の場――
 けれどこの夜だけは、笑いと酒が、帷幕を穏やかに包んでいた。
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