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32.会津若松
32-4. 秋風の中の一扇
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空は高く澄みわたり、風は野を渡りてひややかに、すすきの穂を撫でてゆく。
虫の声がしきりに響き、陽射しはまだ残暑の名残をとどめつつも、もはや夏のものではなかった。
草むらに咲く女郎花《おみなえし》や吾亦紅《われもこう》の色合いはほの暗く、野の草いきれすら乾いている。
長き進軍の果て、蒲生勢はついに奥州再仕置軍と合流し、南部領の玄関口へとたどり着いた。
六万――。
それが、この戦に集まった豊臣の大軍の数であった。
対する九戸政実の兵は、わずか五千。
兵数の差は歴然としていた。だが忠三郎の胸中には、言いしれぬ不安がまとわりついていた。
九戸の地を踏んだときから、空気が変わった。
草の音も、鳥の影も、なにか目に見えぬものを宿している。
それはまるで、大地そのものが、よそ者の侵入を拒んでいるかのようであった。
――ここは、都人の理が通じぬ地。
ただの勝ち負けでは、測れぬものがある。
「これが、姉帯城《あねたいじょう》か」
忠三郎は馬上から、眼下の砦を見下ろした。
小ぶりな構えの城である。だが、城を囲む土塁にも、幟にも、どこか怨念のような熱がこもっていた。
それは、紅葉にはまだ早い木々が、血のように赤く見える錯覚を覚えるほどであった。
「城にこもるは、わずか二百三十。落とすに骨は折れまい。陽の高いうちに、ことは済む」
その声には、かつて織田信長も認めた戦上手の自負があった。
忠三郎は信長の娘婿として、その剛槍をもって数々の戦をくぐり抜けてきた。
だが、その信長の冷酷と苛烈だけは、いまだに心に刺さったままだ。
――人の命を、石のように投げ捨てるあのやり口。
それでも、戦場に立てば、剛の者として立ち向かわねばならぬ。
夜明け前のことだった。
まだ霧の残る刻、城門が不意に開いた。野を渡る風が土煙を巻き上げる。
そして、そこから数十騎の武者が飛び出し、怒涛のごとく忠三郎の本陣へと突進してきた。
「突撃――だと?」
わずかな数とはいえ、その勢いは烈火のごとく、忠三郎の本陣へ突き進む。
血気、執念、命そのものを燃やすかのような突撃だった。
「う、討たれる……!」
恐怖に駆られた兵たちが潰走しかけたその時、紅の陣羽織をなびかせ、馬上に一騎の武者が現れた。
忠三郎である。
「下がるな! 見せてやる、これが蒲生忠三郎の槍じゃ!」
雷鳴のような怒号が、戦場を貫いた。
剛槍がうねり、敵の先鋒を突き崩す。
その姿は、かつて長篠で、越前で、数多の戦場で敵を薙ぎ払った猛将そのものだった。
敵将らしき騎馬武者が迫る。
一騎、また一騎――
忠三郎の姿に兵たちも勇み立ち、敵の突撃は程なく潰えた。
「深追いするな! 無理攻めはさせぬ!」
敵が逃げ去った後には、ただ風だけが、北の空に吹いていた。
勝った。
そう誰もが思った。
だが、戦場は静まり返り、誰一人、声を上げぬまま時が止まった。
「ご注進――石黒喜助殿が……」
その報せに、忠三郎の手から槍がわずかに揺れた。
「……喜助が……?」
敵将・姉帯兼信と刺し違えたという。
あどけなさの残る若武者が、武士の誉れを信じ、初陣の誇りを胸に出陣し――
まだ秋の名月を見ることなく、斃れた。
忠三郎は、ゆっくりと馬を降りる。
屍の間を縫い、血の泥濘を踏みしめ、喜助の亡骸のもとへ歩み寄る。
少年の顔は穏やかで、どこか空を見上げているようだった。
その目に映ったのは、敵か、雲か、あるいは未来だったか。
「……これは……」
誰に向けた言葉でもなかった。
戦に生き、勝ち、誉れを受けた数十年。
そこで掴むのはいつも、かけがえのない命の喪失。
「……これは、何の報いなのだ……」
忠三郎のまなざしが、ただひと筋、流れる雲を追った。
その眼差しの奥に、一瞬、信長の薄笑いが浮かび、やがてまた、風に消えていく。
信長も秀吉も、この少年の命の重みに、心を止めることはなかっただろう。
城を落とし、勝利を手にしたというのに、野営の陣には誰一人、声高に笑う者もなかった。
焚火の火は、小さく、細く、まるで誰かに憚るように燃えていた。
日が傾き、虫の音が冴え渡る頃、忠三郎は焚火の前に座していた。
肩にはまだ血のにおいが染みついている。
甲冑も脱がぬまま、膝に両肘をつき、じっと炎を見つめていた。
火に照らされたその顔は、鉄のように堅く、どこか哀しみに沈んでいた。
語る言葉はなく、ただ指を組んで、祈るように黙している。
木々のざわめきが、時折、風に乗って揺れる。
火がはぜるたび、喜助の笑顔が浮かび、そして崩れていく。
まだ童と呼んでもおかしくないほどの顔――だが、戦のなかでは、立派に武者として討死した。
――もし、この手に力がなければ、
――もし、この戦がなければ、
喜助は今も、生きていたかもしれない。
ふと見上げた夜空には、淡くにじむ月が浮かんでいた。
その光は柔らかく、どこか遠く、手の届かぬものだった。
秋の虫が鳴き、風が草を渡る。
忠三郎は、声にはならぬ想いを胸に、ただひとり夜の深みに沈んでいった。
「――わしが、連れてこなければ」
ふいに、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
返る声はない。夜は冷たく沈黙し、ただ虫の音だけが忠三郎の耳を満たした。
喜助には、剣の道ではなく、もっと別の道があったはずだ。
風を追い、雲を仰ぎ、恋をして、子をなして、老いていく――そんな、平凡で、けれど尊い日々が。
「武門の誉れか……」
乱世を駆け抜け、信長・秀吉に仕え、幾多の戦場を渡り歩いてきた。
斬った敵の数も、奪った城の名も、もう正確には思い出せない。
ただ、今日ひとつ失った命の重みだけが、いまはすべてを圧していた。
忠三郎は、膝に置いた手を見つめる。
剣を握るために鍛えられたその手――
いまは、ただただ、祈るように固く握り締められていた。
喜助の名を呼ぶことは、もうできなかった。
それは涙になりそうで、涙にならぬまま、胸の底で固まっていた。
ふと、空を仰ぐ。
雲が流れてゆく。
さきほどまで晴れていた空に、いまは細く、月が滲んでいた。
――許せ。
心のなかでつぶやきながら、夜の深みにじっと身を沈めた。
朝靄の向こうに、九戸城が現れた。
重く、鈍く、黒ずんだ木々の合間に、その異様な城郭は姿を現す。
旧暦九月二日。姉帯を落とした蒲生勢は、ついに九戸政実の本拠へと到達した。
遠巻きに眺める城は、平山城で、百年前に建てられたものだという。
三方を川に囲まれ、土塁がいくつも重なり、縄張りは複雑に入り組んでいる。侵入者を迷わせ、呑み込むために築かれたかのようであった。
「……なるほど、こやつが最後の牙城か」
忠三郎は、馬上から城の全容を見据えた。
空は曇天。秋風は冷たく、すすきの野を渡って陣幕を揺らす。虫の声も、九戸の地に入ってからはどこか濁って聞こえた。
朝靄に煙る山裾の彼方、九戸の城は、まるで眠りから目覚める獣のごとく、静かにその全貌をあらわした。
九月二日――空は高く、薄く色づきはじめた木々の葉が、秋の訪れを告げていた。空気は冴え、骨の芯にまで沁み入るひんやりとした気が、戦陣の幕舎にまで忍び寄ってくる。
その日、蒲生勢を筆頭とする奥州再仕置軍、総勢六万は、ついに九戸政実の本拠たる九戸城を包囲した。
しかし、それはただの砦ではない。百年前に建てられたという城は三方を川に囲まれた天然の要害。高く積まれた土塁は、秋風にさらされてもなお険しく、曲輪の配列はまるで蜘蛛の巣のように侵攻の筋を見失わせる。
ある者はその構えを見て、こう洩らした。
「これは、東国武士の矜持が築きし、魂の形そのもの――」
忠三郎は、奥州を預かる太閤秀吉の名代として、正面の布陣を任されていた。
誉れであると同時に、最も危うき陣。敵が矢も楯もたまらず打って出るとすれば、最初に炎を被るは、蒲生勢である。
だが、忠三郎は怯まなかった。
姉帯の戦で甥・喜助を失ったあの日より、胸の奥に宿りしもの――それは、痛みでも憤怒でもない。冷たく燃えさかる、無言の焔だった。
幕舎の内にて、小姓らを前に静かに語る。
「九戸殿は、軽からざる敵よ。姉帯においても、その胆力と才覚、見るべきものがあった。だが、それを上まわるべし。都の理を、奥州に通すということは――そのすべてを討つことを意味する」
語る声には静かな威があった。
「だが我らは、都からの命を受けた討伐軍である。敵がいかなる因果を背負おうと、これを討たねばならぬ」
そう言うと、まず、物見を出して城内の様子を伺わせようとした。
すると、銃声が鳴り響いた。
「殿。城中に鉄砲の名手が一人おり、味方の者ら、遠きより狙い撃ちされておりまする」」
町野左近の知らせに、忠三郎はふと昔を思い起こす。
(鉄砲の名手…)
懐かしい面影が、風のように脳裏をよぎる。
――かつて、柱に開けた穴から敵を討ち、信長も一目置いた義兄・滝川一益。
そして、その血を受け継ぎし、あの繊細な少年――三九郎。
華奢な体つきで、重き火縄銃を軽々と構え、薫るような硝煙と共に引き金を引いた、その一瞬。
遠き日の、秋の陽射しのなか。
忠三郎は思わず、唇の端をゆるめた。
「面白いではないか……」
口元に微笑をたたえたまま、ふと帷幕の中を見やり、家臣たちに語りかける。
「これより、ひとつ、故事に倣うとしよう。源平の昔、那須与一なる武者が、敵船に掲げられた扇を射落としたとの古事あり。都びとが愛する、風雅と武の交わる話じゃ。奥州の兵どもにも、風雅が通ずるか、試してみたくなった」
一瞬の静けさが流れた後、家臣たちは互いに顔を見合わせた。
「源左衛門」
「は、は、はい」
「そのほう、扇を持って、城に向かって掲げてみよ」
「な、な、何ゆえこの源左衛門が……!?」
あからさまにうろたえる蒲生源左衛門。忠三郎は口元を吊り上げて目を細めた。
「なに、顔立ちまろやかにして、玉避けには丁度良き的じゃ」
忠三郎が目を細めて笑えば、まわりからどっと笑いがこぼれる。
源左衛門はしばし絶句したが、やがて肩を落とし、観念した様子で従者から扇を受け取った。
「…やれやれ、那須与一のごとき名射手を、敵にてお持ちとは。されど、的となる身の不運よ…」
ぶつぶつと何かを言いながら、従者から渡された傘を手に、源左衛門は野面へと歩み出た。
そして一呼吸すると、白地に金の霞をあしらった傘を高く掲げた。
「頼みますぞ、命の傘……」
彼はそっとつぶやき、城に向かって立った。そして、意を決して、ピンと背を伸ばすと、腕を高く掲げて扇をかざした――その瞬間。
「パンッ!」
鋭い銃声が空を裂いた。
掲げた傘が見事に撃ち抜かれ、ひらりと舞って、秋風に乗りながら地へと落ちた。
「おわっ!? いまの、今のご覧くだされたか!?」
へたり込みそうになりながらも、源左衛門は裂けた傘を高く掲げる。
「おおおっ!!」
まずは蒲生勢の陣から大きな歓声が上がり、それに呼応するように、九戸城の方からも喝采が響いた。
「よもや……かように離れた場所から、ど真ん中を撃ち抜くとは……」
「見事な腕じゃ……敵ながらあっぱれ!」
誰からともなく拍手が広がり、それはまるで波紋のように陣の隅々まで届いた。
この一発の銃弾が、敵味方を隔てる緊張を和らげ、戦場に笑いと人間味を呼び戻した。
拍手と笑いが風に乗って、陣営を包み込んでゆく。
この日の戦は、いつのまにか自然と中止となった。
秋の日は傾き、金の光が野に注ぐ。裂けた傘は風に揺られ、草の上でくるりと舞った。
忠三郎はそれを見つめながら、ひとつ息を吐いて、ぽつりとこぼした。
「……都の洒落は、奥州にも通じるか。ならば、よし」
「殿も……ご無体な」
と、草の上にへたり込んだ源左衛門が苦笑いを浮かべる。
「ほう……まだ息があるか」
「ぎりぎりにございます……それがし、心より酒を所望つかまつりまする」
「よかろう。では参ろう。命の戻った祝いに、一献傾けるとしようか」
忠三郎は笑みを浮かべて手を差し伸べた。源左衛門はその手を取りながら、目尻をぴくぴくと震わせた。
「……ほんに、洒落の通じるお方にございますな」
秋風が吹き抜け、幕舎の中には、久方ぶりに戦を忘れた男たちの笑い声が満ちていった。
その夜――。
秋の虫が鳴く静かな幕舎の一角。
篝火の影がちらちらと揺れる中、忠三郎は膳を前に、酒を一合だけ温めていた。
やがて、そこへ蒲生源左衛門が、まだ少し腰をさすりながら現れる。
「源左衛門。ようやった。命拾いの祝いじゃ、共に飲め」
「はっ……かたじけのうございます」
源左衛門は床几を整え、畏まりながらも、どこか安堵の色を見せて膳についた。
酒を酌み交わすうち、自然と笑みがこぼれる。
「されど……今日の一件、まこと肝を冷やしましたぞ。
扇ひとつで撃たれるとは……いや、扇を掲げる者が、肝でございましたな」
「案ずるな。おぬしの顔、実に弾除け向きであった」
「……誉め言葉と、受け取ってよろしゅうございますかの……」
忠三郎がくつくつと笑う。
源左衛門も、とうとう堪えきれず、肩を揺らして笑った。
「しかしながら、あの銃声に、戦の気が抜け申したな。いっそ、ああした洒落で、戦の一日が終わるなら、悪くはありますまい」
「うむ。笑いのうちに一日が終わる、これぞ何よりの勝ちよ」
二人は、静かに杯を重ねた。
風が帷幕を揺らし、どこか遠くで、虫の音が細く響いた。
明日はまた、どうなるとも知れぬ戦の場――
けれどこの夜だけは、笑いと酒が、帷幕を穏やかに包んでいた。
虫の声がしきりに響き、陽射しはまだ残暑の名残をとどめつつも、もはや夏のものではなかった。
草むらに咲く女郎花《おみなえし》や吾亦紅《われもこう》の色合いはほの暗く、野の草いきれすら乾いている。
長き進軍の果て、蒲生勢はついに奥州再仕置軍と合流し、南部領の玄関口へとたどり着いた。
六万――。
それが、この戦に集まった豊臣の大軍の数であった。
対する九戸政実の兵は、わずか五千。
兵数の差は歴然としていた。だが忠三郎の胸中には、言いしれぬ不安がまとわりついていた。
九戸の地を踏んだときから、空気が変わった。
草の音も、鳥の影も、なにか目に見えぬものを宿している。
それはまるで、大地そのものが、よそ者の侵入を拒んでいるかのようであった。
――ここは、都人の理が通じぬ地。
ただの勝ち負けでは、測れぬものがある。
「これが、姉帯城《あねたいじょう》か」
忠三郎は馬上から、眼下の砦を見下ろした。
小ぶりな構えの城である。だが、城を囲む土塁にも、幟にも、どこか怨念のような熱がこもっていた。
それは、紅葉にはまだ早い木々が、血のように赤く見える錯覚を覚えるほどであった。
「城にこもるは、わずか二百三十。落とすに骨は折れまい。陽の高いうちに、ことは済む」
その声には、かつて織田信長も認めた戦上手の自負があった。
忠三郎は信長の娘婿として、その剛槍をもって数々の戦をくぐり抜けてきた。
だが、その信長の冷酷と苛烈だけは、いまだに心に刺さったままだ。
――人の命を、石のように投げ捨てるあのやり口。
それでも、戦場に立てば、剛の者として立ち向かわねばならぬ。
夜明け前のことだった。
まだ霧の残る刻、城門が不意に開いた。野を渡る風が土煙を巻き上げる。
そして、そこから数十騎の武者が飛び出し、怒涛のごとく忠三郎の本陣へと突進してきた。
「突撃――だと?」
わずかな数とはいえ、その勢いは烈火のごとく、忠三郎の本陣へ突き進む。
血気、執念、命そのものを燃やすかのような突撃だった。
「う、討たれる……!」
恐怖に駆られた兵たちが潰走しかけたその時、紅の陣羽織をなびかせ、馬上に一騎の武者が現れた。
忠三郎である。
「下がるな! 見せてやる、これが蒲生忠三郎の槍じゃ!」
雷鳴のような怒号が、戦場を貫いた。
剛槍がうねり、敵の先鋒を突き崩す。
その姿は、かつて長篠で、越前で、数多の戦場で敵を薙ぎ払った猛将そのものだった。
敵将らしき騎馬武者が迫る。
一騎、また一騎――
忠三郎の姿に兵たちも勇み立ち、敵の突撃は程なく潰えた。
「深追いするな! 無理攻めはさせぬ!」
敵が逃げ去った後には、ただ風だけが、北の空に吹いていた。
勝った。
そう誰もが思った。
だが、戦場は静まり返り、誰一人、声を上げぬまま時が止まった。
「ご注進――石黒喜助殿が……」
その報せに、忠三郎の手から槍がわずかに揺れた。
「……喜助が……?」
敵将・姉帯兼信と刺し違えたという。
あどけなさの残る若武者が、武士の誉れを信じ、初陣の誇りを胸に出陣し――
まだ秋の名月を見ることなく、斃れた。
忠三郎は、ゆっくりと馬を降りる。
屍の間を縫い、血の泥濘を踏みしめ、喜助の亡骸のもとへ歩み寄る。
少年の顔は穏やかで、どこか空を見上げているようだった。
その目に映ったのは、敵か、雲か、あるいは未来だったか。
「……これは……」
誰に向けた言葉でもなかった。
戦に生き、勝ち、誉れを受けた数十年。
そこで掴むのはいつも、かけがえのない命の喪失。
「……これは、何の報いなのだ……」
忠三郎のまなざしが、ただひと筋、流れる雲を追った。
その眼差しの奥に、一瞬、信長の薄笑いが浮かび、やがてまた、風に消えていく。
信長も秀吉も、この少年の命の重みに、心を止めることはなかっただろう。
城を落とし、勝利を手にしたというのに、野営の陣には誰一人、声高に笑う者もなかった。
焚火の火は、小さく、細く、まるで誰かに憚るように燃えていた。
日が傾き、虫の音が冴え渡る頃、忠三郎は焚火の前に座していた。
肩にはまだ血のにおいが染みついている。
甲冑も脱がぬまま、膝に両肘をつき、じっと炎を見つめていた。
火に照らされたその顔は、鉄のように堅く、どこか哀しみに沈んでいた。
語る言葉はなく、ただ指を組んで、祈るように黙している。
木々のざわめきが、時折、風に乗って揺れる。
火がはぜるたび、喜助の笑顔が浮かび、そして崩れていく。
まだ童と呼んでもおかしくないほどの顔――だが、戦のなかでは、立派に武者として討死した。
――もし、この手に力がなければ、
――もし、この戦がなければ、
喜助は今も、生きていたかもしれない。
ふと見上げた夜空には、淡くにじむ月が浮かんでいた。
その光は柔らかく、どこか遠く、手の届かぬものだった。
秋の虫が鳴き、風が草を渡る。
忠三郎は、声にはならぬ想いを胸に、ただひとり夜の深みに沈んでいった。
「――わしが、連れてこなければ」
ふいに、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
返る声はない。夜は冷たく沈黙し、ただ虫の音だけが忠三郎の耳を満たした。
喜助には、剣の道ではなく、もっと別の道があったはずだ。
風を追い、雲を仰ぎ、恋をして、子をなして、老いていく――そんな、平凡で、けれど尊い日々が。
「武門の誉れか……」
乱世を駆け抜け、信長・秀吉に仕え、幾多の戦場を渡り歩いてきた。
斬った敵の数も、奪った城の名も、もう正確には思い出せない。
ただ、今日ひとつ失った命の重みだけが、いまはすべてを圧していた。
忠三郎は、膝に置いた手を見つめる。
剣を握るために鍛えられたその手――
いまは、ただただ、祈るように固く握り締められていた。
喜助の名を呼ぶことは、もうできなかった。
それは涙になりそうで、涙にならぬまま、胸の底で固まっていた。
ふと、空を仰ぐ。
雲が流れてゆく。
さきほどまで晴れていた空に、いまは細く、月が滲んでいた。
――許せ。
心のなかでつぶやきながら、夜の深みにじっと身を沈めた。
朝靄の向こうに、九戸城が現れた。
重く、鈍く、黒ずんだ木々の合間に、その異様な城郭は姿を現す。
旧暦九月二日。姉帯を落とした蒲生勢は、ついに九戸政実の本拠へと到達した。
遠巻きに眺める城は、平山城で、百年前に建てられたものだという。
三方を川に囲まれ、土塁がいくつも重なり、縄張りは複雑に入り組んでいる。侵入者を迷わせ、呑み込むために築かれたかのようであった。
「……なるほど、こやつが最後の牙城か」
忠三郎は、馬上から城の全容を見据えた。
空は曇天。秋風は冷たく、すすきの野を渡って陣幕を揺らす。虫の声も、九戸の地に入ってからはどこか濁って聞こえた。
朝靄に煙る山裾の彼方、九戸の城は、まるで眠りから目覚める獣のごとく、静かにその全貌をあらわした。
九月二日――空は高く、薄く色づきはじめた木々の葉が、秋の訪れを告げていた。空気は冴え、骨の芯にまで沁み入るひんやりとした気が、戦陣の幕舎にまで忍び寄ってくる。
その日、蒲生勢を筆頭とする奥州再仕置軍、総勢六万は、ついに九戸政実の本拠たる九戸城を包囲した。
しかし、それはただの砦ではない。百年前に建てられたという城は三方を川に囲まれた天然の要害。高く積まれた土塁は、秋風にさらされてもなお険しく、曲輪の配列はまるで蜘蛛の巣のように侵攻の筋を見失わせる。
ある者はその構えを見て、こう洩らした。
「これは、東国武士の矜持が築きし、魂の形そのもの――」
忠三郎は、奥州を預かる太閤秀吉の名代として、正面の布陣を任されていた。
誉れであると同時に、最も危うき陣。敵が矢も楯もたまらず打って出るとすれば、最初に炎を被るは、蒲生勢である。
だが、忠三郎は怯まなかった。
姉帯の戦で甥・喜助を失ったあの日より、胸の奥に宿りしもの――それは、痛みでも憤怒でもない。冷たく燃えさかる、無言の焔だった。
幕舎の内にて、小姓らを前に静かに語る。
「九戸殿は、軽からざる敵よ。姉帯においても、その胆力と才覚、見るべきものがあった。だが、それを上まわるべし。都の理を、奥州に通すということは――そのすべてを討つことを意味する」
語る声には静かな威があった。
「だが我らは、都からの命を受けた討伐軍である。敵がいかなる因果を背負おうと、これを討たねばならぬ」
そう言うと、まず、物見を出して城内の様子を伺わせようとした。
すると、銃声が鳴り響いた。
「殿。城中に鉄砲の名手が一人おり、味方の者ら、遠きより狙い撃ちされておりまする」」
町野左近の知らせに、忠三郎はふと昔を思い起こす。
(鉄砲の名手…)
懐かしい面影が、風のように脳裏をよぎる。
――かつて、柱に開けた穴から敵を討ち、信長も一目置いた義兄・滝川一益。
そして、その血を受け継ぎし、あの繊細な少年――三九郎。
華奢な体つきで、重き火縄銃を軽々と構え、薫るような硝煙と共に引き金を引いた、その一瞬。
遠き日の、秋の陽射しのなか。
忠三郎は思わず、唇の端をゆるめた。
「面白いではないか……」
口元に微笑をたたえたまま、ふと帷幕の中を見やり、家臣たちに語りかける。
「これより、ひとつ、故事に倣うとしよう。源平の昔、那須与一なる武者が、敵船に掲げられた扇を射落としたとの古事あり。都びとが愛する、風雅と武の交わる話じゃ。奥州の兵どもにも、風雅が通ずるか、試してみたくなった」
一瞬の静けさが流れた後、家臣たちは互いに顔を見合わせた。
「源左衛門」
「は、は、はい」
「そのほう、扇を持って、城に向かって掲げてみよ」
「な、な、何ゆえこの源左衛門が……!?」
あからさまにうろたえる蒲生源左衛門。忠三郎は口元を吊り上げて目を細めた。
「なに、顔立ちまろやかにして、玉避けには丁度良き的じゃ」
忠三郎が目を細めて笑えば、まわりからどっと笑いがこぼれる。
源左衛門はしばし絶句したが、やがて肩を落とし、観念した様子で従者から扇を受け取った。
「…やれやれ、那須与一のごとき名射手を、敵にてお持ちとは。されど、的となる身の不運よ…」
ぶつぶつと何かを言いながら、従者から渡された傘を手に、源左衛門は野面へと歩み出た。
そして一呼吸すると、白地に金の霞をあしらった傘を高く掲げた。
「頼みますぞ、命の傘……」
彼はそっとつぶやき、城に向かって立った。そして、意を決して、ピンと背を伸ばすと、腕を高く掲げて扇をかざした――その瞬間。
「パンッ!」
鋭い銃声が空を裂いた。
掲げた傘が見事に撃ち抜かれ、ひらりと舞って、秋風に乗りながら地へと落ちた。
「おわっ!? いまの、今のご覧くだされたか!?」
へたり込みそうになりながらも、源左衛門は裂けた傘を高く掲げる。
「おおおっ!!」
まずは蒲生勢の陣から大きな歓声が上がり、それに呼応するように、九戸城の方からも喝采が響いた。
「よもや……かように離れた場所から、ど真ん中を撃ち抜くとは……」
「見事な腕じゃ……敵ながらあっぱれ!」
誰からともなく拍手が広がり、それはまるで波紋のように陣の隅々まで届いた。
この一発の銃弾が、敵味方を隔てる緊張を和らげ、戦場に笑いと人間味を呼び戻した。
拍手と笑いが風に乗って、陣営を包み込んでゆく。
この日の戦は、いつのまにか自然と中止となった。
秋の日は傾き、金の光が野に注ぐ。裂けた傘は風に揺られ、草の上でくるりと舞った。
忠三郎はそれを見つめながら、ひとつ息を吐いて、ぽつりとこぼした。
「……都の洒落は、奥州にも通じるか。ならば、よし」
「殿も……ご無体な」
と、草の上にへたり込んだ源左衛門が苦笑いを浮かべる。
「ほう……まだ息があるか」
「ぎりぎりにございます……それがし、心より酒を所望つかまつりまする」
「よかろう。では参ろう。命の戻った祝いに、一献傾けるとしようか」
忠三郎は笑みを浮かべて手を差し伸べた。源左衛門はその手を取りながら、目尻をぴくぴくと震わせた。
「……ほんに、洒落の通じるお方にございますな」
秋風が吹き抜け、幕舎の中には、久方ぶりに戦を忘れた男たちの笑い声が満ちていった。
その夜――。
秋の虫が鳴く静かな幕舎の一角。
篝火の影がちらちらと揺れる中、忠三郎は膳を前に、酒を一合だけ温めていた。
やがて、そこへ蒲生源左衛門が、まだ少し腰をさすりながら現れる。
「源左衛門。ようやった。命拾いの祝いじゃ、共に飲め」
「はっ……かたじけのうございます」
源左衛門は床几を整え、畏まりながらも、どこか安堵の色を見せて膳についた。
酒を酌み交わすうち、自然と笑みがこぼれる。
「されど……今日の一件、まこと肝を冷やしましたぞ。
扇ひとつで撃たれるとは……いや、扇を掲げる者が、肝でございましたな」
「案ずるな。おぬしの顔、実に弾除け向きであった」
「……誉め言葉と、受け取ってよろしゅうございますかの……」
忠三郎がくつくつと笑う。
源左衛門も、とうとう堪えきれず、肩を揺らして笑った。
「しかしながら、あの銃声に、戦の気が抜け申したな。いっそ、ああした洒落で、戦の一日が終わるなら、悪くはありますまい」
「うむ。笑いのうちに一日が終わる、これぞ何よりの勝ちよ」
二人は、静かに杯を重ねた。
風が帷幕を揺らし、どこか遠くで、虫の音が細く響いた。
明日はまた、どうなるとも知れぬ戦の場――
けれどこの夜だけは、笑いと酒が、帷幕を穏やかに包んでいた。
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三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
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藪から犬
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そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
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