獅子の末裔

卯花月影

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32.会津若松

32-6. 雪のごとく、罪は降る

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 九月四日、朝露の名残がまだ草葉に光るころ、九戸城の門が静かに開かれた。
 鐘の音がひとつ、風に乗って遠くまで響く。それは、戦の終焉を告げるものというより、冥府への門出を報せる音色のようだった。
 城門が軋み、白装束の九戸政実と七名の重臣が姿を現す。
 髷を落とし、己が運命を見据えるような眼差しで、秋の風にその身を晒した。
 その姿には、敗者の悲哀よりも、静かな覚悟と誇りが宿っていた。
 忠三郎は、言葉なく彼らを見つめた。敵将ではあったが、彼らの背に漂う気配は、死に装束のそれではなく、むしろ神前に立つ巫女のように思われた。
――清々しくも潔いその姿を美しい、とすら、思った。
 それが、余計に重く、胸を締めつける。胸の底に、鉛のような重みが沈んでいく。
 寄せ手の兵に取り囲まれた九戸政実と重臣七名は、丸腰でありながら、屈する色は微塵もなかった。
 政実が虚ろなまなざしを空に向けていたそのとき、不意に、忠三郎へと視線を向けた。
 その眼には、何の言葉も宿っていない。
 否――言葉を超えた、冷ややかな審きの剣。
 ただ一瞥で、忠三郎は己がすでに裁かれたことを悟った。
 それは、死を前にしてなお信を貫いた者が、信を偽った者に向ける、最後の矢であった。
 忠三郎は、目を逸らさなかった。逸らせなかった。
 喉の奥で何かがせり上がり、拳を握る手に汗が滲んだ。
 あの約定は、たしかに、命を繋ぐ橋だった。
 だが、その橋は渡るためのものではなく、最初から焼かれるために架けられていたのではないか――
 政実の視線が、そう語っていた。
 言葉にすれば崩れてしまう何かが、胸の内を満たす。
 そのとき、自分の内にいる何者かが、ふいに背を向けて歩き去っていったような、寂寥があった。
「九戸殿……」
 忠三郎が、絞るように声を出したとき、政実が応じた。
「約定を違えることが、上方武士の武略でござるか」
 静かだが、張りつめた声。静かな水面に落ちる小石のように、場の空気を揺らがせた。
「いかにも。ようお分かりじゃ……それが、勝者の理でござる」
 政実は鼻で笑った。その笑みに宿るのは、怒りや軽蔑だけではない。
 そこには、敗者としての哀しみではなく、勝者の欺瞞に向けた深い憐れみがあった。
「…城に残された、戦とは無縁の女子供を、いかがなさるおつもりか」
 忠三郎は答えず、ただ風の音を聞いていた。
 胸に刺すような痛みが走る――だが、それを顔に出すことはなかった。
「九戸殿。約定などは最初からなかったのでござるよ」
「何を申されるか」
 忠三郎は、皮肉にも似た微笑を浮かべて答えた。
「約定のことを…誓紙のことを知るものが皆、世からいなくなれば、最早、約定などは意味を成し申さぬ。紙切れひとつに命を賭けるとは、都の殿上人の習いでござろう」
 政実の目が、凍るような光を放った。
「どこまでも、穢れた道を往くか――おぬしまで」
 忠三郎の瞳が、かすかに揺れた。
 ――この手は、血に染まっている。
 だが、それは己の望みで穢したものではない。

 思い返すのは、総奉行・浅野長政の言葉。
 奥州再仕置軍が都をでるときに、秀吉から厳命されたこと。
「天下泰平のため、豊臣家に逆らう者は、老若男女の別なく、一人残らず切り捨てよ」
 それは、忠三郎にとって、剣より重い呪縛であった。
 政実の瞳から怒りは消えていた。ただ、深い静けさだけがそこにあった。
 兵が促し、政実がゆっくりと歩き出したときだった。
 足を止め、振り返り、声を荒げて叫んだ。
「――キリシタンが、人を騙すのか!!」
 その一声が、雷のように、忠三郎の胸を貫いた。
 返す言葉は、なかった。
 空を仰いでも、答えはどこにもなかった。
 ――では、この他に、どんな道を選び取ることができたというのか。
 ――これまでの歩みは誤りだったのか。
 答えは聞こえてこない。ただ、沈黙の空が広がっていた。

 その日のうちに、政実らは総大将・豊臣秀次の陣へと送られていった。
 その行列に、白い旗はなく、鼓の音もなかった。ただ、重く沈んだ曇天の下、鎧の擦れる音だけが響いていた。

 その後のことは、もはや誰も語りたがらなかった。
 政実とその家臣七名は、秀次の陣中にて、なんの前触れもなく斬られた。
 助命の約定が守られることはなかった。
 井伊直政が書かせた約束の文は、既にその役目を終え、灰にされていたとも、最初からなかったとも、囁かれた。

 しかし、戦さの後始末はそれだけではなかった。
「……これより、城中の民を退去させよ」
 やがて忠三郎が低く命じると、家臣たちは顔を見合わせた。いぶかしげな表情を隠そうともせず、ひとりが問いかける。
「殿、城が落ち、敵が降伏した今、なにゆえ――」
「何も申すな。ただちに行え」
 家臣たちは黙って頷き、城内の百姓たちに城を離れるよう告げて回った。城兵の気配が消えた石垣のあいだを、幼子の手を引く老人や、米俵を担ぐ女たちが、困惑の色を浮かべながらも次々と城を後にしていく。

 そして夕刻、すっかり人気のなくなった本丸に、命を免れた士分の者とその家族だけが二の丸へと集められた。数百名、声も立てぬまま肩を寄せあう人々の瞳に、不安の影が揺れている。
 忠三郎は風を仰ぎ見るように、秋空を見上げた。高く抜けた空に、薄く雲が棚引いている。ふと、誰かの声が耳に蘇る。
――「此度、兵の血を流さぬ道があるかと……一計、巡らせ候」
 井伊直政の声。あのとき感じた胸のざらつきは、やはり、誤魔化しなどではなかったのだ。
「一人残らず斬り捨てよ」
 忠三郎がそう呟いたとき、長門守が小さく息をのむのが傍らに感じられた。
「よいな。一人も逃すな。女子供も容赦するな」
 その声は低く、よく通った。だが誰ひとり、返答する者はいなかった。
 ただ風だけが、何事もなかったかのように、二の丸の草木を揺らしていた。

 兵たちは、沈黙のまま刀を抜いた。
 そのとき、二の丸には士分にある者とその家族、老若男女あわせて数百人が詰め込まれていた。
 捕虜とはいえ、武器を持たぬ彼らにとって、囲まれた二の丸はもはや生ける墓場だ。

 号令もなく、殺戮は始まった。
 幼子を抱いた母が泣き叫び、老人が膝をついて赦しを乞うた。
 だが、刃は容赦なく振り下ろされ、血が砂地に散った。
 若者は仲間の死を目にして無謀にも立ち上がり、兵の槍に貫かれた。
 無言で屠られていく命が、ただ赤い跡を地に刻んでいった。
 斬られた母の腕から転がり落ちた赤子が、草の上でしばし喘いでいたが、それもまた、ひとつの刃にかけられた。
 叫び、泣き、祈る声が、炎の轟きにかき消されてゆく。
 二の丸に広がる血の池は、やがてひとつの静寂に収束していった。

 やがて忠三郎は命じた。
「火をかけよ。跡形も残すな――これは太閤殿下の命じゃ」
 兵たちは何も言わず、手際よく薪を積み、建物という建物に火を放った。
 二の丸全体が、地の底から噴き上がるかのような焔に包まれてゆく。
 燻るような煙が空を覆い、炎は木戸から屋根へ、塀から倉へと燃え移り、最後の嘆きの声すら焼き尽くした。
 すべては、「天下泰平」の名のもとに。
 秀吉の命によって――逆らう者は誰であれ容赦なく切り捨てよ、との布令のとおりに。

 忠三郎はただ一人、火の海の前に立ち尽くしていた。
 
 燃え上がる二の丸の火柱。頬を撫でる熱、崩れ落ちる音、過去の炎が脳裏に蘇る。
 十七年前、信長に従い、伊勢長島で願証寺と対峙したあの日――
 女も子も老人も、門前にひれ伏し赦しを乞うたが、命令はただひとつ、「根切」であった。
 火が放たれ、寺も町も城も、すべて灰と化した。
 川を流れる死体、火の粉を浴びて燃える母と子、叫び声が夜を裂いて空へ昇っていった。

 あのとき、正しきことはただ一つ、主命に従うことだった。
 ならば――今もそうであるのか。
 長島の炎の中で焼け落ちた何かが、まだ心のどこかで燻っていたのかもしれない。
 そして今また、新たな炎が、同じものを焼き尽くそうとしているのではないか――
「世に従えば身苦し。従わねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」
 方丈記の一節を口にしたその時、はっきりと思い出した。
(あのときも…)
 燃え盛る砦。阿鼻叫喚の中、方丈記の一節をふと口にした。世の流れに従えば苦しい。従わなければ狂人と言われる。どこでこの心を休ませることができるのか――。
 そう、誰にともなく問いかけたあの時、隣にいたのは。
(義兄上…)
 一益だった。
『このようなことが平然とできることが、武士たるものでありましょうか』
 そう問いかける忠三郎に対し、一益は確かに言ったのだ。
『このようなことが平然とできるのであれば、それはもはや人ではない』
 そして最後に、静かにこう続けた。
『冬は、雪をあはれぶ。積もり、消ゆるさま、罪障にたとえつべし』
 忠三郎と同じように、方丈記の一節を口にした。
 寡黙にして、しかしどこまでも忠三郎と同じ目線で物を考え、痛みを知ってくれた唯一の人。
 あのとき、一番つらかったのは一益だったのではないか。二万もの人を手に掛けたその手で、戦乱で荒れ果てた地を復興させる役目を負ったのは一益だ。
 焼け跡に立ち、無数の人骨を埋葬し、誰もいなくなった土地に種を蒔き、人を呼び戻し、北勢の地を築き直した。
 どれほどの労苦と、どれほどの罪の重さを背負って生きていたのか。
(されど…)
 その苦労を、一度として口にしなかった。
 ただ、誰よりも多く働き、誰よりも深く思い、そして――北勢を奪われ、世を去った。
 いま、忠三郎の前で燃え盛る炎の中に、一益の背が見えるような気がした。
 己が背負わねばならぬと、誰にも告げず、その背に重荷を負ったまま立ち尽くしていた、あの姿が。
 忠三郎は、目を閉じた。
 その目の裏で、雪が降る。罪を覆い尽くすように、静かに、しんしんと。

 火は、三日三晩、消えることなく燃え続けた。
 雨は降らず、風は山の尾根から乾いた息を吐き下ろし、炎は屋敷の梁から土壁へ、土塁から植え込みへと這い移り、怒りそのものが姿を得て、ひたすらに広がっていくかのようだった。

 焼け跡には、なお形をとどめたまま白く崩れた遺体が、ところどころに横たわっていた。炭と化した柱にもたれるように寄り添い、黒く焦げた母と子。焼け落ちた瓦の下に、声もなく埋もれた若者。誰が誰ともわからぬ、ただの黒い塊となった骸が、山からの風に晒されては、静かに、音もなく灰へと還っていった。
 兵たちの口数は、日を追うごとに少なくなっていった。言葉が焼け焦げ、胸の奥に沈殿していく。

 やがて、斬られた九戸政実の首は、京の聚楽第へと送られた。秀吉のもとへ――勝者の証として、栄光の贄として。

 その首が都に届いた日、鴨川のほとりには、今年最後の紅葉がひらひらと舞い落ちていた。
 赤く、寂しく、何もかもが燃え尽きたあとのように――静かに、すべてが過ぎていった。
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