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32.会津若松
32-7. 雁の去りし後
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火が鎮まったあと、忠三郎は蒲生勢を率いて、しばし九戸の地に留まった。南部信直に城を引き渡すまでのあいだ、戦で破損した城の修復と、野に晒されたままの死者たちの埋葬を担うこととなった。
兵たちは言葉少なに鍬をふるい、崩れた土塁を積み直し、黒く焼けた柱を引き抜いて、代わりの木を組み上げた。敵味方の別なく、倒れ伏した者たちを一つひとつ土に伏せるたび、忠三郎の胸には、風に混じってかすかな嗚咽のような音が聞こえる気がした。
「……これが、戦の果てか」
城の高台に立ち、焼け落ちた屋形の跡を見下ろした。そこは、かつて九戸政実が立ち、夢を描いたはずの地。いまや、その夢も志も、風の中に灰となって舞っている。
そのとき、ふと胸裏に、遠き日の光景が過った。
――伊勢長島。かつて信長の命によって一向一揆を根絶やしにした地。焼け落ちた寺々と、屍の山。生ける者よりも死者のほうが多いかのような、あの地獄のような戦のあと。
その焦土に、一益はひとり、黙して立ち尽くしていた。
遺体の腐臭のなかで、鍬を持ち、自らの手で埋葬を進め、崩れた土を何度も掘り返しては、瓦礫に埋もれた骨を拾い、静かに目を閉じていたという。止める者もなく、ただ、家臣たちは一益の背を見て、無言で後に続いた。
あれは、忠三郎がまだ若く、ただ一益の背を追っていた時分のことだった。 戦に勝つとはこういうことか――そう自らに問いながら、一益の背中を見つめていた。
――義兄上は、如何なる心持ちで死者を埋葬していたのであろうか。
忠三郎は、まだ煙の匂いが残る二の丸跡に目をやりながら、静かに息を吐いた。
焼け焦げた梁の残骸の向こうに、かつての一益の姿が重なる。
一益が見ていたものと、いま自分が見ているものの間に、果たしてどれほどの違いがあるのだろうか。
あるいは、何も変わらないのではないか。
(……戦とは、こうして、終わっていくもの)
風に乗って、どこからか嗚咽のような音が聞こえた気がした。
それは忠三郎自身の胸の底から洩れた、かすかな声だったのかもしれない。
夜、野営の火のそばに佇むとき、忠三郎はかつて一益の背を追って戦場に出た日を思い出した。誇りと栄光を信じて歩いたあの道の先に、こんな風景があるとは、誰も教えてはくれなかった。
修復と埋葬には半月を要した。南部家当主の南部信直は修復された城に入り、丁重に忠三郎を迎えてくれた。
「会津殿。こたびは何と言って礼を申し上げたらよいやら」
歳は忠三郎より十ばかり上、年長らしい落ち着きのある口ぶりだった。
会津移封からの忠三郎の働きぶりに、深い敬意と親愛の情を抱いているのが伝わってきた。
やがて、夕餉の膳を囲むうちに、信直は一度膝を正し、言葉を選ぶように切り出した。
「――これは、この身より願いあってのこと。聞き届けていただければ、かたじけなく存ずる」
「なんなりと、お聞きしましょう」
「はばかりながら……我が嫡男、彦九郎――来春には元服を控えており申す。まだ青く、学ぶべきことの多い若輩ながら、いずれ家を継ぐ身。そこへ……会津殿のご息女を、正室として迎えられぬかと……」
忠三郎は一瞬、盃の手を止めた。
信直は静かに続けた。
「戦を経て、世は移ろうております。南部もまた、もはや奥州の一角に留まるべきでないと、思案する次第。会津殿のように、ただ剛勇にして智謀あるのみならず、主君に忠義を尽くし、人の道を見失わぬお方と、縁を結び、共にこの奥州を治めてまいりたいのござります」
深々と頭を下げる信直の声には、打算よりもむしろ、誠意と憧れに近い響きがあった。
「信長公の縁者にておわす会津殿。いまや豊臣の世にありながら、そのお心根は、武門の本懐を失われておらぬと、かねてより感じておりました」
忠三郎は、静かに信直を見つめた。
信直の背後にある想い――戦乱にまみれた奥州を、ただの「辺境」としてではなく、新たな秩序の地にしたいという気概――それは、己が今、会津で模索しているものと、どこか響き合っていた。
「……ありがたい申し出にございます」
忠三郎は、盃を置き、ゆるやかに言葉を続けた。
「娘はまだ若く、武家の政に染まぬゆえ、すぐにとはまいらぬかもしれませぬが……南部家の真心、しかと受け止めました。然るべきときが来れば、喜んでお応えいたしましょう」
信直の顔に、ふっと安堵の色がにじんだ。
「かたじけのうございます。戦の果てに、このようなご縁を得られたこと、何よりの喜びにございます」
静かな杯の応酬がつづく中、忠三郎はふと、杯を見つめながら言葉を継いだ。
「ひとつ、僭越ながら申し上げたきことが儀がござる」
「なんなりと」
「この城と、城下の呼び名のことでございます」
信直が軽く眉を上げると、忠三郎はゆっくりと視線を窓の外へ向けた。夜の帳が降り、戦で焦げた町並みに、修復の灯がぽつぽつと点り始めている。
「この地は、長らく『九戸』と呼ばれていたとか。民の多くが、亡き政実殿を慕い、今なおその名に心を寄せております。……されど、政実殿は討たれ、旧き秩序は終わった。焼け跡に新しき世を築くには、過去の影から離れねばならぬ」
信直は黙して頷いた。
「名は、地をつくり、心をつくるもの。これよりは、九戸ではなく――『福岡』と呼んではいかがであろうか」
「……福岡、でございますか」
「『福』は、戦を経たこの地にあらたなる恵みが訪れんことを。『岡』は、焼け野原にもなお芽吹く命を望む心。麦の芽のように、かすかでも、まっすぐに天を仰ぐものにございます」
信直は深く頷き、しばしの沈黙ののち、静かに口を開いた。
「……よき名にございます。民の心を明日へと導くもの。我らが手に取り、育てねばなりますまいな」
忠三郎は、またひとつ息を吐き、盃を掲げた。
「福岡に、神の祝福あらんことを」
「そして、我らの縁にも――」
かくして、かつて火と血にまみれた九戸の地に、静かに芽吹いた新しき名と絆。焼け跡を歩んだ忠三郎の胸にも、その夜は、かすかながら、春を待つ麦の芽のような希望が、温かく沁みはじめていた。
九戸改め、福岡の地を離れる日、朝の空はどこまでも澄み渡り、草露は白く光っていた。忠三郎は深く礼をし、静かに馬にまたがると、北の空を一度だけ振り仰ぎ、それから南へと馬首を向けた。
胸には、ただ一つの思いがひっそりと芽生えていた。
(……この戦が、日の本における最後の戦であってくれれば)
もうこれ以上、灰の上に夢を埋めることがありませんように――と、願うように。
帰路、蝉の声は遠ざかり、稲穂は頭を垂れていた。白河の手前、浅野長政が忠三郎のもとに合流し、短く、重い知らせを伝えた。
「……鶴松様が、この八月、薨去なされた」
「なんと…」
秀吉の待望の嫡男――その幼き命が、ひと夏の熱に呑まれ、儚く消えたという。
忠三郎の脳裏に、ひとつの影がよぎる。
この一月、秀吉の実弟・大和大納言秀長が病の床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。
智謀に富み、温厚にして他者を立て、秀吉の棘をやわらげていた男。
あの男がいたからこそ、豊臣の政は滑らかに運ばれていたのだ――そう、誰もが口をそろえた。
忠三郎もまた、何度か秀長と言葉を交わしたことがあった。
そのたびに感じたのは、熱を押し隠すような冷静さと、他者を思いやる目線であった。
だが今、その男もおらず、豊臣家に残されたのは、大陸への野望をただ一人で抱く秀吉と、その背に連なる者たちだけだ。
すでに豊臣家の内では、甥・秀次が「次の世を担う者」として名が挙がっており、今年中に関白職を継ぐとも言われている。このため、早くも「関白殿下」と呼ぶ声もあるという。
秀次は穏やかな気性で、人の話に耳を傾けることを知る青年だ。
忠三郎や黒田官兵衛のような家臣にも頭を垂れ、戦場での教訓を自ら学ぼうとする姿勢もある。
だが、秀次には――秀吉の太陽のような覇気も、信長の如き烈しさもなかった。
やがて秀吉がこの世を去り、秀次の代となれば――
世は本当に収まるのだろうか? あるいは、混乱の淵へと沈んでいくのではあるまいか?
そう思えば、忠三郎の胸には、ひとつの芽が静かに顔を出す。
(いつか、あの若き関白の手に収まらぬ空白が、世にぽっかりと生まれるかもしれぬ)
そのとき、自分は――。
信長が夢見た天下を、今度こそ自らの手で掴むべきではないか――。
信長の娘婿として期待されながら、中央から遠ざけられ、遠国へと追いやられた。その理不尽を呑み込み、ただ仕えるふりをして己を偽ってきた。
だが、いまやその沈黙の内に、かつて断たれたはずの焔が、密やかに燃え始めている。
(すべてを失ったからこそ、もう一度、すべてを賭けてみる価値はある)
それは忠三郎にとって、野望というよりも、むしろ義務のような響きを帯びている。信長が描いた未来、一益が戦場の只中で追い求めた秩序――その残響が、いまも忠三郎の耳にかすかに届いている。
秀吉は、いずれ日本の政を秀次に任せ、自らは海を越えて、明国をその手中に収めようとするだろう。
九州に集められた諸大名は、みなその野望のための駒にすぎず、彼らの兵は、やがて果ての見えぬ異国の泥濘に沈んでいく。
忠三郎には、それが愚かしい夢としか映らなかった。
秀吉は、忠三郎よりも二十歳以上も年長だ。かつての威光に陰りが差し、近ごろは言葉にも隙が生まれている。
加えて、この一月には、関白の右腕ともいうべき大和大納言・豊臣秀長が病に倒れた。さらに八月には、唯一の嫡男・鶴松が夭逝し、豊臣家の天命すら、ゆらぎ始めている。
世に立ちこめる暗雲――それは、ただの運命ではない。誰かが裂け目から手を伸ばし、引き寄せる機を見極めねばならない。
忠三郎は、天を仰ぎ、ひとつ深く息をついた。
(猿よ――そなたの夢は、我には過ぎたるものに見える。されど、我が見る夢は、かつて信長公が見た夢と、まっすぐにつながっている)
会津への道のりの空は、高く、ひどく静かだった。
心には、一筋の影が射したまま、晴れることはなかった。
「これも……夢の続きかもしれませぬ」
と、長政はぽつりと言った。
忠三郎は答えなかった。ただ黙って、馬の手綱を握り直す。
空には早くも雁が鳴き、新しき領国へと帰る胸には、どこか澱のようなものが残った。
夢の終わりか、あるいは、夢が病み始めたのか。
奥州の風は、しんと冷えていた。
その風の中に、失ったものの記憶がある。
そして、これから訪れるかもしれない、静かな始まりの気配も。
空には、雁が南へと列をなして飛んでいた。
やがて、その雁たちが帰るころ――忠三郎の胸に芽生えた思いは、もはやただの影ではなく、形あるものへと変わっているかもしれない。
兵たちは言葉少なに鍬をふるい、崩れた土塁を積み直し、黒く焼けた柱を引き抜いて、代わりの木を組み上げた。敵味方の別なく、倒れ伏した者たちを一つひとつ土に伏せるたび、忠三郎の胸には、風に混じってかすかな嗚咽のような音が聞こえる気がした。
「……これが、戦の果てか」
城の高台に立ち、焼け落ちた屋形の跡を見下ろした。そこは、かつて九戸政実が立ち、夢を描いたはずの地。いまや、その夢も志も、風の中に灰となって舞っている。
そのとき、ふと胸裏に、遠き日の光景が過った。
――伊勢長島。かつて信長の命によって一向一揆を根絶やしにした地。焼け落ちた寺々と、屍の山。生ける者よりも死者のほうが多いかのような、あの地獄のような戦のあと。
その焦土に、一益はひとり、黙して立ち尽くしていた。
遺体の腐臭のなかで、鍬を持ち、自らの手で埋葬を進め、崩れた土を何度も掘り返しては、瓦礫に埋もれた骨を拾い、静かに目を閉じていたという。止める者もなく、ただ、家臣たちは一益の背を見て、無言で後に続いた。
あれは、忠三郎がまだ若く、ただ一益の背を追っていた時分のことだった。 戦に勝つとはこういうことか――そう自らに問いながら、一益の背中を見つめていた。
――義兄上は、如何なる心持ちで死者を埋葬していたのであろうか。
忠三郎は、まだ煙の匂いが残る二の丸跡に目をやりながら、静かに息を吐いた。
焼け焦げた梁の残骸の向こうに、かつての一益の姿が重なる。
一益が見ていたものと、いま自分が見ているものの間に、果たしてどれほどの違いがあるのだろうか。
あるいは、何も変わらないのではないか。
(……戦とは、こうして、終わっていくもの)
風に乗って、どこからか嗚咽のような音が聞こえた気がした。
それは忠三郎自身の胸の底から洩れた、かすかな声だったのかもしれない。
夜、野営の火のそばに佇むとき、忠三郎はかつて一益の背を追って戦場に出た日を思い出した。誇りと栄光を信じて歩いたあの道の先に、こんな風景があるとは、誰も教えてはくれなかった。
修復と埋葬には半月を要した。南部家当主の南部信直は修復された城に入り、丁重に忠三郎を迎えてくれた。
「会津殿。こたびは何と言って礼を申し上げたらよいやら」
歳は忠三郎より十ばかり上、年長らしい落ち着きのある口ぶりだった。
会津移封からの忠三郎の働きぶりに、深い敬意と親愛の情を抱いているのが伝わってきた。
やがて、夕餉の膳を囲むうちに、信直は一度膝を正し、言葉を選ぶように切り出した。
「――これは、この身より願いあってのこと。聞き届けていただければ、かたじけなく存ずる」
「なんなりと、お聞きしましょう」
「はばかりながら……我が嫡男、彦九郎――来春には元服を控えており申す。まだ青く、学ぶべきことの多い若輩ながら、いずれ家を継ぐ身。そこへ……会津殿のご息女を、正室として迎えられぬかと……」
忠三郎は一瞬、盃の手を止めた。
信直は静かに続けた。
「戦を経て、世は移ろうております。南部もまた、もはや奥州の一角に留まるべきでないと、思案する次第。会津殿のように、ただ剛勇にして智謀あるのみならず、主君に忠義を尽くし、人の道を見失わぬお方と、縁を結び、共にこの奥州を治めてまいりたいのござります」
深々と頭を下げる信直の声には、打算よりもむしろ、誠意と憧れに近い響きがあった。
「信長公の縁者にておわす会津殿。いまや豊臣の世にありながら、そのお心根は、武門の本懐を失われておらぬと、かねてより感じておりました」
忠三郎は、静かに信直を見つめた。
信直の背後にある想い――戦乱にまみれた奥州を、ただの「辺境」としてではなく、新たな秩序の地にしたいという気概――それは、己が今、会津で模索しているものと、どこか響き合っていた。
「……ありがたい申し出にございます」
忠三郎は、盃を置き、ゆるやかに言葉を続けた。
「娘はまだ若く、武家の政に染まぬゆえ、すぐにとはまいらぬかもしれませぬが……南部家の真心、しかと受け止めました。然るべきときが来れば、喜んでお応えいたしましょう」
信直の顔に、ふっと安堵の色がにじんだ。
「かたじけのうございます。戦の果てに、このようなご縁を得られたこと、何よりの喜びにございます」
静かな杯の応酬がつづく中、忠三郎はふと、杯を見つめながら言葉を継いだ。
「ひとつ、僭越ながら申し上げたきことが儀がござる」
「なんなりと」
「この城と、城下の呼び名のことでございます」
信直が軽く眉を上げると、忠三郎はゆっくりと視線を窓の外へ向けた。夜の帳が降り、戦で焦げた町並みに、修復の灯がぽつぽつと点り始めている。
「この地は、長らく『九戸』と呼ばれていたとか。民の多くが、亡き政実殿を慕い、今なおその名に心を寄せております。……されど、政実殿は討たれ、旧き秩序は終わった。焼け跡に新しき世を築くには、過去の影から離れねばならぬ」
信直は黙して頷いた。
「名は、地をつくり、心をつくるもの。これよりは、九戸ではなく――『福岡』と呼んではいかがであろうか」
「……福岡、でございますか」
「『福』は、戦を経たこの地にあらたなる恵みが訪れんことを。『岡』は、焼け野原にもなお芽吹く命を望む心。麦の芽のように、かすかでも、まっすぐに天を仰ぐものにございます」
信直は深く頷き、しばしの沈黙ののち、静かに口を開いた。
「……よき名にございます。民の心を明日へと導くもの。我らが手に取り、育てねばなりますまいな」
忠三郎は、またひとつ息を吐き、盃を掲げた。
「福岡に、神の祝福あらんことを」
「そして、我らの縁にも――」
かくして、かつて火と血にまみれた九戸の地に、静かに芽吹いた新しき名と絆。焼け跡を歩んだ忠三郎の胸にも、その夜は、かすかながら、春を待つ麦の芽のような希望が、温かく沁みはじめていた。
九戸改め、福岡の地を離れる日、朝の空はどこまでも澄み渡り、草露は白く光っていた。忠三郎は深く礼をし、静かに馬にまたがると、北の空を一度だけ振り仰ぎ、それから南へと馬首を向けた。
胸には、ただ一つの思いがひっそりと芽生えていた。
(……この戦が、日の本における最後の戦であってくれれば)
もうこれ以上、灰の上に夢を埋めることがありませんように――と、願うように。
帰路、蝉の声は遠ざかり、稲穂は頭を垂れていた。白河の手前、浅野長政が忠三郎のもとに合流し、短く、重い知らせを伝えた。
「……鶴松様が、この八月、薨去なされた」
「なんと…」
秀吉の待望の嫡男――その幼き命が、ひと夏の熱に呑まれ、儚く消えたという。
忠三郎の脳裏に、ひとつの影がよぎる。
この一月、秀吉の実弟・大和大納言秀長が病の床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。
智謀に富み、温厚にして他者を立て、秀吉の棘をやわらげていた男。
あの男がいたからこそ、豊臣の政は滑らかに運ばれていたのだ――そう、誰もが口をそろえた。
忠三郎もまた、何度か秀長と言葉を交わしたことがあった。
そのたびに感じたのは、熱を押し隠すような冷静さと、他者を思いやる目線であった。
だが今、その男もおらず、豊臣家に残されたのは、大陸への野望をただ一人で抱く秀吉と、その背に連なる者たちだけだ。
すでに豊臣家の内では、甥・秀次が「次の世を担う者」として名が挙がっており、今年中に関白職を継ぐとも言われている。このため、早くも「関白殿下」と呼ぶ声もあるという。
秀次は穏やかな気性で、人の話に耳を傾けることを知る青年だ。
忠三郎や黒田官兵衛のような家臣にも頭を垂れ、戦場での教訓を自ら学ぼうとする姿勢もある。
だが、秀次には――秀吉の太陽のような覇気も、信長の如き烈しさもなかった。
やがて秀吉がこの世を去り、秀次の代となれば――
世は本当に収まるのだろうか? あるいは、混乱の淵へと沈んでいくのではあるまいか?
そう思えば、忠三郎の胸には、ひとつの芽が静かに顔を出す。
(いつか、あの若き関白の手に収まらぬ空白が、世にぽっかりと生まれるかもしれぬ)
そのとき、自分は――。
信長が夢見た天下を、今度こそ自らの手で掴むべきではないか――。
信長の娘婿として期待されながら、中央から遠ざけられ、遠国へと追いやられた。その理不尽を呑み込み、ただ仕えるふりをして己を偽ってきた。
だが、いまやその沈黙の内に、かつて断たれたはずの焔が、密やかに燃え始めている。
(すべてを失ったからこそ、もう一度、すべてを賭けてみる価値はある)
それは忠三郎にとって、野望というよりも、むしろ義務のような響きを帯びている。信長が描いた未来、一益が戦場の只中で追い求めた秩序――その残響が、いまも忠三郎の耳にかすかに届いている。
秀吉は、いずれ日本の政を秀次に任せ、自らは海を越えて、明国をその手中に収めようとするだろう。
九州に集められた諸大名は、みなその野望のための駒にすぎず、彼らの兵は、やがて果ての見えぬ異国の泥濘に沈んでいく。
忠三郎には、それが愚かしい夢としか映らなかった。
秀吉は、忠三郎よりも二十歳以上も年長だ。かつての威光に陰りが差し、近ごろは言葉にも隙が生まれている。
加えて、この一月には、関白の右腕ともいうべき大和大納言・豊臣秀長が病に倒れた。さらに八月には、唯一の嫡男・鶴松が夭逝し、豊臣家の天命すら、ゆらぎ始めている。
世に立ちこめる暗雲――それは、ただの運命ではない。誰かが裂け目から手を伸ばし、引き寄せる機を見極めねばならない。
忠三郎は、天を仰ぎ、ひとつ深く息をついた。
(猿よ――そなたの夢は、我には過ぎたるものに見える。されど、我が見る夢は、かつて信長公が見た夢と、まっすぐにつながっている)
会津への道のりの空は、高く、ひどく静かだった。
心には、一筋の影が射したまま、晴れることはなかった。
「これも……夢の続きかもしれませぬ」
と、長政はぽつりと言った。
忠三郎は答えなかった。ただ黙って、馬の手綱を握り直す。
空には早くも雁が鳴き、新しき領国へと帰る胸には、どこか澱のようなものが残った。
夢の終わりか、あるいは、夢が病み始めたのか。
奥州の風は、しんと冷えていた。
その風の中に、失ったものの記憶がある。
そして、これから訪れるかもしれない、静かな始まりの気配も。
空には、雁が南へと列をなして飛んでいた。
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