獅子の末裔

卯花月影

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33.見果てぬ夢

33-3. 旅立ち

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 天正二十年の春、北の空は、白き霞を孕んだまま、遠き大陸の風を孕んでいた。
 前年、豊臣秀吉は、関白職を甥の秀次に譲り、自らは「太閤」と号して、天下にその去就を明らかにした。
 かねてより風聞の絶えなかった「大明征伐」の意図が、ついに公に掲げられ、日本国中の大名たちへと出陣の命が下された。
 春先、雪解けもなお浅い会津の地において、忠三郎はその沙汰を静かに受け止めていた。
「いよいよか」
 その言葉は、誰に告げるでもなく、広間に差し込む朝の光のなかで、淡い息となった。
 秀吉の夢――大陸へと軍を進めるという、天の理すら超えんとする野望に、否とは言えぬ立場を忠三郎はよく心得ていた。
 だが同時に、胸には、もはや別の火がともっていた。かつては戦場で幾度も血風の渦をくぐり抜けてきた身。だが今、忠三郎の眼差しは、戦の先ではなく、地に生きる人々の暮らしへと向けられていた。
「国を興すとは、ただ城を建てることにあらず。田を開き、商いを栄えさせ、民の心に日だまりを灯すことこそ、我がつとめよ」
 そう思い定めてより、忠三郎にとって、戦はもはや志ではなく、義務に過ぎぬものとなっていた。
 会津はまだ若い地だ。町の形は定まりつつあり、城は鶴ヶ城として民に親しまれ、その影には多くの者の労苦と、民の願いが刻まれている。
 忠三郎は、会津の大地に立ちながら思った。
 これは、もはやただの拠点でもなければ、戦の舞台でもない。守り抜くべき命の場所、育まねばならぬ希望の苗床。
 忠三郎は一つの夢を抱いた。
 それは、広がる原野を田に変え、猪苗代湖より水を引いて、会津の大地に命の流れをもたらすというもの。
 山を越え、水路を拓き、民の暮らしを潤すその計画を、自ら思い立ち、信頼する家臣らに命じた。
 地を測り、山を見て、道を探る者たちの足音が、静かな野に響いたのは、つい昨年のことに過ぎない。

 だが、天の時は残酷にも、別の道を指し示した。豊かな未来を夢見た忠三郎の計画も、ついにその流れに抗えなかった。
 大明征伐――秀吉の命に従い、兵を率い、はるか九州の果てへと向かわねばならない。遠征には多額の費用が必要になる。用水計画は夢は半ばでその歩みを止めることとなった。
 戦のための費用は果てしなく、用水のために蓄えていた銭も人手も、次第に消え去っていった。
 猪苗代湖より水を引き、野を潤し、実りを生むその夢は、志半ばにして、歩みを止めることとなったのである。

 けれども、忠三郎の胸のうちでは、いまだその灯はかすかに揺れていた。
 図面の端に残された墨の線は、ただの記録ではない。
 それは、いつか必ず叶えるべき「未来の地図」だ。

 あの広き湖より水を引き、谷を渡し、山を越えてこの地に導くことが叶えば、
会津若松一帯は、まさしく天の恵みを受けし土地となる。
 見渡すかぎりの田畑には、黄金色の稲が風にたなびき、早苗のころには青き若葉が一面に息吹きやがて重たげに実った稲穂が、秋の陽に輝く。
 水路のほとりでは、子らが笑い、農にいそしむ手が、感謝とともに土を撫でるだろう。
 雪深き冬を越え、ようやく育まれた実りは、ただの糧ではない。人の労苦と祈り、そして未来への希望そのものだ。
 たとえそれが、子の代に、あるいは孫の代に持ち越されようとも――
 忠三郎は思う。
 この志だけは、いずれ必ず成し遂げねばならない。
 それが、己に与えられた使命であり、この地に生きる者として、果たすべき責務なのだと。

 一方、城下には市が立ちはじめた。
 雪解けの道を越えて、越後より、関東より、商人たちが品を運び、声を交わし、笑い合いはじめていた。
 冬の長きに鍛えられたこの地にも、人の営みという名の春が、ゆるやかに訪れつつあった。

 しかし、命は下った。兵をまとめ、まずは京の都を目指さねばならない。
 残す城のこと、民の暮らしのこと、幾重にも思い巡らす中で、忠三郎は家臣たちを呼び寄せた。
「わしが留守の間、鶴のごとく、地を這うことなく、空に心を保て」
 その言葉に応じたのは、仕置奉行筆頭の蒲生四郎兵衛と蒲生左門、蒲生源左衛門ら。
 皆、忠三郎の心を汲み、静かに頭を垂れる。戦支度の声があちこちから聞こえるなか、城には奇妙な静けさが漂っていた。

 やがて、旅立ちの朝が訪れた。
 霜の名残をかかえた道には、冷気が立ち込め、武具の金具がかすかに鳴った。
 忠三郎は、馬上から未だ工事半ばの城を振り返る。
 雪を頂いた鶴ヶ城が、春の陽を受けて静かに輝いていた。幼名にちなむその名が、いつしか民の口から自然と広まり、今やこの地の象徴となっていたことに、胸の奥に温かい思いが募る。
「守るべきを残して、戦に赴くとは、いと口惜しきものよな」
 つぶやきは風に消えた。だが、誰よりもその矛盾を胸に刻みながら、忠三郎は馬の腹を軽く蹴った。

 進路は西。東山道をたどり、やがて九州へと至る果てしなき軍旅。
 その果てに待つは、海を越えた大陸、見知らぬ天と地。だが、忠三郎の眼は揺るがず、ただ静かに、その道を見据えていた。
 ――この戦が、ただの覇気で終わらぬように。
 ――遠く離れしこの地が、再び戻る場所であるために。

 春風に吹かれ、若き太閤の命を帯びた軍勢は、ゆるやかに山路を下っていった。
 城下には早咲きの梅が、ひと枝だけ、空を仰いでいた。

 やがて、旅立ちの朝が訪れた。
 霜の名残をかかえた道には、冷気が立ち込め、武具の金具がかすかに鳴った。
 忠三郎は、馬上から未だ工事半ばの城を振り返る。
 雪を頂いた鶴ヶ城が、春の陽を受けて静かに輝いていた。幼名にちなむその名が、いつしか民の口から自然と広まり、今やこの地の象徴となっていたことに、胸の奥に温かい思いが募る。
「守るべきを残して、戦に赴くとは、いと口惜しきものよな」
 つぶやきは風に消えた。だが、誰よりもその矛盾を胸に刻みながら、忠三郎は馬の腹を軽く蹴った。

 進路は西。東山道をたどり、やがて九州へと至る果てしなき軍旅。
 その果てに待つは、海を越えた大陸、見知らぬ天と地。だが、忠三郎の眼は揺るがず、ただ静かに、その道を見据えていた。
 ――この戦が、ただの覇気で終わらぬように。
 ――遠く離れしこの地が、再び戻る場所であるために。

 春風に吹かれ、若き太閤の命を帯びた軍勢は、ゆるやかに山路を下っていった。
 城下には早咲きの梅が、ひと枝だけ、空を仰いでいた。

 空は晴れていた。しかし、白河の関に差しかかったそのとき、忠三郎の胸のうちには、形容しがたい影がゆらりと差した。
「白河か」
 手綱をゆるめた忠三郎は、道のわきに立つ杉木立の向こうに、古びた石の並ぶ一角を見やった。今は人の往来に埋もれて目立たぬが、かつてここには国境の関が置かれていたという。
奥州三古関の一つ、白河の関――陸奥と下野を分ける、この古の境にこそ、都人が憧れと畏れを抱いて越えようとした古道の記憶が息づいている。
 奈良の御代に設けられ、平安の昔まで機能していたとされるその関は、単なる通行の口ではなかった。人の世の境、文化の境、そして時として、心の境でもあった。多くの歌人が、ここを越えるとき、都への思慕と東国の厳しさとを歌に託したのも、道理であろう。
 忠三郎は、鞍の上で静かに短冊に歌をしたためた。

 「陸奥も 宮古もおなし名所の 白河の関 いまそこえゆく」

 声は風に溶け、木々の梢を渡ってゆく。家臣たちはその声に、しばし足を止めた。
「この関を越えれば、もはや都のうちと申せよう」
 と小さく笑った。
 戦の旅にありながらも、忠三郎の目は前線を見てはいなかった。
 白河の関を越えるというこの一歩が、どれほど古《いにしえ》の文人たちにとって重大な意味をもったかを、忠三郎は知っている。
「これより先は、都の風も届く。されど、風は常に追い風とは限らぬ――」
 独りごちるように、呟いた。
 奥州の北風は厳しかったが、それでも忠三郎にとっては、胸に沁み入る風だった。京の風はあまりに暖かく、時に人の心の節をたわめてしまう。己もまた、風にさらされる葦のごとく揺らいではならぬ、と忠三郎は自戒する。
 白河の関を越え、道はやや下りとなる。馬の歩みも軽くなったように感じた。
 けれど、忠三郎の心はどこか、重たかった。かつて松坂に城を築いた日々、京の風に背を向けて、ひたすら戦場を渡った日々。それらを思い返すと、関を越えた今、自分は再び「都の世」に巻き込まれてゆくのだという予感が、心にさざ波を立てる。
「道を越えたところにこそ、真の境がある。白河は、心の関でもあるな」
 そう呟くと、忠三郎は馬腹を軽く蹴った。
 馬は音もなく前へと歩み出す。小さく風が吹き、旅衣の裾がひらりと揺れた。

 下野の国に入って、道すがらはやや穏やかになった。東山道の塵と風の旅も、春の盛りにはさすがにやわらぎ、野辺に咲く花の色や、鳥の声が心をほどいてくれる。
 澄み渡る春の空の下、野辺を流れる細き川のほとりに、一本の柳がしなやかに枝を垂れていた。そよ風に葉擦れの音をたてるその姿に、忠三郎はふと馬の手綱を引いた。馬もまた、主の心を知るかのように、静かに歩を止める。
 川辺で鍬を休めていた農夫が、一行の到来に気づき、恐る恐る近づいてきた。
「これは……もしや、道にお迷いで……?」
 忠三郎は軽く笑みを浮かべて、
「いや、迷いはせぬ。ただ、この柳が目にとまり、しばし立ちどまったのみじゃ」
 と答えた。言葉も穏やかに、声には品があった。
 農夫は、忠三郎の姿に思わず目を見張る。

 身にまとっているのは、漆黒の小札に金糸を織り込んだ、精緻を極めた鎧直垂。浅葱色の地に唐草と雲文が金糸で織り出され、肩には銀箔を重ねた銀杏形の飾金具。膝には縫い取りのある紫の袴がゆるやかに波打ち、胸元には鳳凰の刺繍が陽光を受けてひそやかに輝く。
 背には染抜かれた家紋が風にたなびき、鞍の装飾もまた、都風の繊細な意匠であった。従う供の者も皆、練れた甲冑姿。馬の鐙には銀の飾りがあり、草摺の揺れる音までもが静謐だった。
――これは、尋常の武者ではあるまい。
 農夫は咄嗟に膝を折り、額を地に伏せながら、口の中でつぶやいた。
「いったい……何方《いずかた》の御方様でございましょうか……」
 忠三郎はその声に気づいたが、すぐには答えず、ただその柳にまなざしを向けたまま、ひと息深く、静かに言葉をこぼした。
「此の柳、いかなる由緒のものか」
「遊行上人が、かつて道に迷うた折、此の柳を目印に道を知ったと、昔から申します」
(遊行上人……)
 その名に、胸の奥にひっそりと沈めていた記憶を呼び覚まされた。
(それは、かの西行法師ではあるまいか――)
 忠三郎の口許に、ふとやわらかな微笑が浮かんだ。西行といえば、かの新古今に名を連ねた歌人。武士の身でありながら出家し、諸国を旅して風と雲を友とした、歌の道の先達である。その西行に

 「道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」

 と詠まれた歌こそ、まさにこの風景にも通じている。
「立ちどまらぬは、我が心ばかりやもしれぬな」
 鞍の脇には、つねに短冊と筆が携えてある。供の者がすぐさま差し出すと、忠三郎は緩やかにそれを受け取り、川のせせらぎに耳を傾けながら、細筆を走らせた。

 「今もまた 流れはおなし 柳陰 行まよひなば 道しるへせよ」

 風が短冊を吹かんとする。忠三郎はそれを押さえ、指先で紙のぬくもりを感じながら、呟いた。
「千里を越えても、心の迷いは絶えぬもの。ならばこそ、道を示すものがあらば頼もしきことよ……」
 それは、戦へ向かう身でありながらも、心の奥に消えぬ迷いを抱える忠三郎の、嘘偽りない心だった。権威の名において動く兵の旅であれど、忠三郎にとってはそれもまた、歌の道、そして心の旅路だった。

 農夫は、なおも平伏したまま、恐れとともに心のうちで呟いた。
――まこと、只者ではない。されど、いずれの御方かは知らぬ。ただ、この方こそ、時の運命に呼ばれたる人に違いあるまい。

 忠三郎は短冊を風にあおらせることなく、ふところに納めると、再び馬の背に腰を据え、静かに声をかけた。
「行こう。日は高うなった。先を急がねば」
 供の者たちが馬を整える中、忠三郎の横顔にはどこか、遠い過去を見つめるようなまなざしが浮かんでいた。かの柳陰に立ちどまった歌人と、時を隔てて重なる一瞬の情景だった。
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