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33.見果てぬ夢
33-4. 九尾の狐
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霜をまとう那須野の原は、広く、そして静かだった。
風が立つたび、枯れ草の波がさらさらと鳴り、遠くには冬鶴の影も見えた。 人の気配はなく、ただ雲が流れ、空が広がる。都を目指す道中とはいえ、いまこのひととき、忠三郎は何処へ向かっているのかもわからなくなるほど、霧のなかにいるような心持ちであった。
ふと、馬を下り、供の者に目配せをして遠くへ下がらせると、旅装の懐から短冊と筆を取り出す。
草を払って腰をおろし、膝に短冊を載せる。冷えた風が袖口をくすぐるたび、心の底に沈んでいた澱のようなものが、少しずつ浮かび上がってきた。
(――わしは、何者になりたかったのか)
この年になっても、まだそれが見えない。かつて主君と仰いだ人はいなくなった。日の本を騒がせた大軍の先陣に立ったこともあったが、それも遠い記憶の影のごとし。今はただ、義に縋って会津に拠り、やがて都へ向かおうとしている。
だが、それが何のためか、自身にもはっきりとは言えなかった。
三十七年の歳月が、指の間から砂のようにこぼれていった感触だけが、胸に重く残っていた。
嫡子の鶴千代は体が弱いながらも、預けられた寺で日々、勉学に勤しんでいる。しかし己自身は、何百年もの間、統治してきた日野の地から引き離され、今後、家名の先も定かでない。若いころは何かになれると思っていた。だが気づけば、ただ流され、戦い、仕え、誰かを喪い、誰かに見放され、ここまで来た。
筆を取り、墨をつけて、一文字ずつ、胸の内を吐くようにしたためた。
「世中に 我は何をか 那須の原 なすわさもなく 年やへぬべき」
――世の中において、我は一体何を為すというのか。
この那須の原のように、果てしなく、ただ広がっているだけの身。成す業もなく、ただ年ばかり重ねてゆくのか。
書き終えて、そっと筆を置く。風が短冊の端を揺らした。風の音が、誰かが遠くでため息をついたようでもあった。
言葉にすることができぬ焦りがあった。誰にも見せぬ、見せられぬ悔いがあった。
けれども、それを歌というかたちにしたことで、わずかに心の靄が晴れていくような気がした。
と、そのとき――。
風がふいに止み、空気がねっとりと肌にまとわりついた。背後で、草を踏む足音がした。振り返ると、そこに女が立っていた。
青白い装束に、黒髪を垂らし、あまりにも静かな顔。だが、その瞳の奥には、何か獣じみた光が宿っている。女はひとことも発せず、ただじっと忠三郎を見つめていた。
「……いずこより現れし」
忠三郎が問うたが、女は言葉を持たぬように、首を傾げるだけだった。
彼女の周囲だけ、風がなく、音がなかった。まるで時が止まったかのようだった。
――殺生石。かつてこの地には、九尾の狐が毒を吐き、石となったといういい伝えがある。誰かがそれを破ろうと近づけば、命を落としたとも。
この女は……その伝説に連なる何者かではないか――。
忠三郎は立ち上がった。だが、足が地につかぬような感覚があった。
女は一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。そのたびに、空気が異様に甘く、重くなる。
「……忠三郎殿。胸に巣くう苦悩を、わたしは知っております」
女の声は、霞のように淡く、耳の奥に直接響いた。
「忠三郎殿は、すでに疲れておられる。多くを背負い、誰にも見せぬ痛みを、胸の奥に沈めている。……もうよいのではありませぬか。戦を離れ、誰のためでもない安らぎの中へ、共に参りましょう。わたしが、忠三郎殿を包みましょう」
その言葉は、夜のしじまに忍び寄る霧のように、忠三郎の心の隙間へと入り込んでくる。
ふと、目の奥が滲んだ。
過ぎし日々が脳裏をよぎる。滝川家の凋落、兄を裏切った日、若き日より苦楽を共にしてきた三九郎の死、無念に散った家臣たちの顔、声、血――。
「……もう……」
忠三郎は、低く唸るように呟いた。
「わしは、誰のために、生きておるのか……」
女が近づいた。顔がすぐそばにある。息が、甘い香のように忠三郎の頬に触れた。
「この手を取りなさい。その苦しみは、すべて、わたしが引き受けます。何もかも、忘れて――」
――そのときだった。
胸の奥から、ふいにひとつの声が湧いた。
『すべて労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません』
かつて南蛮寺で聞いた――主イエスの言葉だった。忠三郎の指が、無意識に袂の中の十字架へと触れた。それが、焼けつくほどに熱く感じられた。
――高山右近が、白布に包んだ十字架を胸に、目を閉じて祈っていた姿。
――鶴千代が、両手を合わせ、ただ父を慕って見つめていたあの目。
――そして、微笑みを向けてくれた者たちのぬくもり――。
女の手が伸びた、その瞬間。
「……否」
忠三郎は、息を呑むようにその言葉を吐いた。
女の手を、振り払う。
「そなたの言葉はたしかに甘い。されど、それは、まやかしにすぎぬ。わしは、この身が泥にまみれようと、なおこの世でなすべきことがある。わしが生かされておるのは、まだ終わってはならぬ道があるがゆえ」
女の瞳に、亀裂が走るような痛みが浮かんだ。
「……それでも、忠三郎殿はまた苦しむ。涙し、血を流す。それでも、行くと仰せになるか」
「行くとも」
忠三郎は、まっすぐに女を見返して言った。
「わしの行く道は、たとえ闇に覆われていようと、全能者なる神が灯火を与えてくださる。わしは、もう迷わぬ」
女はひとつ、深く、寂しげに笑った。その笑みに、かすかに光が裂ける。
そして次の瞬間、女の姿は、枯草のなかにしゅうと溶けるように消えていった。あとには、白い羽毛が一枚、風に乗って漂っていた。
ふと、胸のあたりがじっとりと汗ばんでいることに気づいた。忠三郎はゆっくりと目を開けた。
草を枕にして仰向けに横たわっていた。空はまだ薄曇りの朝を映していたが、どこか冬の日らしい澄んだ気配があった。
「……夢、か……」
呟いた声に、誰の返事もない。家臣たちはまだ支度をしているのか、あるいは忠三郎が眠っている間、気を利かせて離れていたのか。
忠三郎は上体を起こし、袖で額の汗をぬぐった。
夢にしては、あまりにも生々しかった。女の声も、そのまなざしも、そしてあの白い羽根の手ざわりまでも。
心の奥に、いまだあの哀しげな言葉が、微かに残響のように残っていた。
――この手を取りなさい。忠三郎殿の苦しみは、すべて、わたしが引き受けます――
たしかに夢だった。だが、あの白き女は……まこと、何者だったのか。
それは人知の及ばぬ、夜と昼のはざまに棲む影のひとつだったのかもしれない。いや、あるいは、己の心の奥底に巣くっていた弱さの具現――。
忠三郎は、空を見上げた。心のうちに、ひとすじの光がさすようだった。
わしは、まだ生かされている。行かねばならぬ。たとえそれが、また新たなる迷いを呼ぶとしても――。
町野長門守が、そっと近づいてきた。
「……殿、お目覚めで?」
「うむ。よい朝だ」
忠三郎は立ち上がり、手綱を受け取った。
足もとはまだ凍てていたが、その冷たさがかえって意識を冴え渡らせる。
あの夢のようなひとときと、あの女の影は、いつかまた心をよぎるかもしれない。だが、それでも。
――行こう。
那須の原に、冬の陽が淡く射していた。
日の光が傾き、山の端にかかる頃、忠三郎一行は、東山道を西へとたどり、下野国佐野の地に入った。
野の風はどこか湿りを帯びていた。旅の疲れが身にしみるなか、一行が佐野の舟橋近くに差しかかると、村はずれの草むらや林の陰から、ぽつりぽつりと人影が現れた。
先に通ったときとは違う顔ぶれであったが、やはりその姿には驚嘆の色が濃かった。
「おや…あの紋はもしや…」
「なんとまあ……あれほどの装い、あれほどの気配、あのお方はよもや……」
里人たちは声を潜めながらも、忠三郎の馬のたてがみ、紺の帷子、腰に佩いた大小の拵えに、目を見張っていた。
そのうち、歩き巫女が、つと進み出て、深く頭を下げた。
「殿さま、もし時あらば、こちらの舟橋をご覧くだされませ。古くからの言い伝えがございます」
忠三郎は軽く頷き、従者とともに川辺へと歩を移した。
そこには、烏川が静かに流れ、その上に舟をいくつも並べ、綱で繋いだ橋――舟橋がかかっていた。夕映えを映す川面に、夢の中に浮かぶ道のように見えた。
「この佐野の舟橋には、かような話が伝わっております」
歩き巫女の声は風に溶け込むように静かで、そしてどこか哀しみを帯びていた。
昔、この川をはさんで朝日村と夕日村というふたつの里があり、それぞれの村に長者が住んでいた。朝日村の長者にはナミという娘、夕日村の長者には小治朗という若者がいた。
二人は舟橋を渡って逢瀬を重ね、やがて、誰よりも深く想い合うようになった。
「さりながら、世の常でございますな。そうした仲を妬む者が、ひそかに舟橋の中央の板を外してしまったのです」
夜のこと、月も出ぬ闇のなか、ナミも小治朗も、互いに舟橋を渡って会おうとした。橋が途切れているとも知らずに――。
翌朝、村人が見つけたとき、二人は川の流れに寄り添うように、抱き合ったまま、冷たい水の中に眠っていたという。
「それからというもの、舟橋のあたりには、夜ごと青い炎が灯るようになりましてな。人々はふたりの魂だと噂し、供養をいたしました」
歩き巫女は、そっと目を閉じ、古歌を口ずさんだ。
「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」
(万葉集巻十四、東歌)
――親は離そうとするが、私は離れぬ。
その歌の余韻に、忠三郎は黙したまま舟橋を見つめた。
舟のゆらめき、川の流れ、そして夕空に一筋の雲。
思いは過去へとさかのぼる。愛した女は、ふたりいた。
ひとりは幼馴染にして従姉のおさち。世の栄華など知らぬ、静かな愛を交わした日々。だが、おさちはすでに亡く、残されたのはその忘れ形見、正寿丸ひとり。
もうひとりは、信長の娘・章姫。人に知られてはならぬ恋であった。なぜなら、忠三郎の正室は章姫の姉、吹雪。世の人の手前、正室の妹と心を通わせるなど、許されることではなかった。
だが、章姫との間に生まれた鶴千代は、いまや蒲生家の嫡子として、都・聚楽第にて育てられている。名目上は、吹雪の子として――。
忠三郎は一歩、舟橋に近づいた。水面を見下ろし、かつてのふたり、ナミと小治朗の影をその下に見た。
いや、影は己の心にあったのかもしれない。
――そのとき。
風が鳴ったかと思うと、忠三郎の意識はふっと薄れ、気がつけばいつとも知れぬ薄闇の中にいた。舟橋のたもとには、先ほどの歩き巫女が静かに立っていた。
どこかで見たような、懐かしさを誘う面差し。――よくよく見ると、その顔かたちは、亡きおさちに、あまりにもよく似ていた。
「おさち…なのか」
「鶴殿、お久しゅうござります」
その声は、水のように澄み、風のように懐かしかった。
「おさち…」
そなたを失って、どれほどの歳月が流れたのか。
風の匂いに、花の揺れに、ふとした笑い声に、今なお、そなたの影を探す。
だが、どこにもいない。そなたは、あの春の日のまま――永久に時を止めた。
忠三郎の胸に、ぽたりと何かが落ちたような気がした。
それは涙だったかもしれないし、心の底に沈みきらぬ思いの雫だったかもしれぬ。
舟橋に立つ己の足は、揺れていた。流れにあらがう舟のように、定まる場所を求めていた。
おさちを失ったと知ったあの日――。
ひとつの命が絶えたというだけではなかった。忠三郎の内に灯っていた小さな明かり、かすかな希望までもが、そのとき吹き消されたのだ。
人に話せぬ悔いがあった。
もっと早く気づいてやればよかった。もっと言葉を尽くせば、手を取って逃げ出せば、この世のしがらみなどかなぐり捨てて、守ればよかった。
けれど、それをしなかったのは誰か――己自身ではなかったか。
愛しい者の名を呼ぶことすらできず、夜ごと灯を消し、言葉をなくし、
あるいは夢と現の境をさまよいながら、朝が来るのをただ待つだけの日々――。
喪ったという実感を、長い間持てなかった。
あまりに深い喪失は、人をして、悲しみすら奪うのだ。
ただ茫然と、空を仰ぎ、音のない風の中に、声なき叫びを繰り返すしかなかった。
この世はただ白く、何も見えず、何も聞こえなかった。
時間も、言葉も、そして自分自身の輪郭さえ、あやふやだった。
「ともにまいりましょう、鶴殿」
その声のなんと甘く、そして危ういことか。
おさちの面影は、水面に浮かぶ幻か、それとも死者の遣いか。
その手を取れば、もう苦しむことはない。
いまのこの世に残した悔いも、果たせぬ愛も、忘れることができるのなら――。
そう思った瞬間だった。胸の奥に、かつて聞いたことばが、かすかに響いた。
『悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる』
ああ、そうか――
悲しむことでしか知り得ないことがある。なぜ愛する者と引き裂かれたのか、なぜ背負うばかりの運命なのか――その答えはまだ分からない。だが、信じている。愛する者を喪い、残された者が背負う涙と祈りこそが、いつか誰かのために、光となることもある。己の悲しみの深さは、己にしか分からぬ。だが、それでもなお、生きよと、神は言う。
『それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ』
確かな約束、それはひとつしかない。それは永遠に変わらないもの。草が枯れ、花がしぼんだとしても、変わらないものがある。
沈黙のなか、忠三郎はそっと目を閉じ、かぶりを振った。
「わしにはまだやらねばならぬことがある」
かすれた声で呟いた忠三郎の瞳は、もう迷ってはいなかった。
その言葉に、おさちに似た女は、ふっと微笑んだ。
「鶴殿。悩みも、苦しみも、なお……」
おさちに似た女の姿は、静かに水底へと溶けていった。波紋ひとつ残さぬその別れは、むしろ穏やかで、さながら眠りへと帰っていくようだった。
水面には、何の波紋も残らなかった。
そこで、忠三郎ははっと目覚めた。舟橋のたもとに立つ己。川はただ、静かに流れていた。空はわずかに朱を帯び、風がそよいでいた。
その胸中に、もうひとつのことばが甦る。
『苦しみに会った事は、私にとって良い事なり。故に、我汝の法を学べり』
忠三郎は筆をとり、短冊に一首をしたためた。
「これや此 佐野の舟橋 渡るにそ いにしへ人の ことあはれなる」
――いにしへの人。舟橋で命を落とした二人。そして、愛した人を失い、それでも生きねばならぬ己自身。
静かに詠み上げたその声に、誰ひとりとして言葉を返す者はいなかった。
ただ、風だけが舟橋を渡り、川の流れに波紋を生んだ。
風が立つたび、枯れ草の波がさらさらと鳴り、遠くには冬鶴の影も見えた。 人の気配はなく、ただ雲が流れ、空が広がる。都を目指す道中とはいえ、いまこのひととき、忠三郎は何処へ向かっているのかもわからなくなるほど、霧のなかにいるような心持ちであった。
ふと、馬を下り、供の者に目配せをして遠くへ下がらせると、旅装の懐から短冊と筆を取り出す。
草を払って腰をおろし、膝に短冊を載せる。冷えた風が袖口をくすぐるたび、心の底に沈んでいた澱のようなものが、少しずつ浮かび上がってきた。
(――わしは、何者になりたかったのか)
この年になっても、まだそれが見えない。かつて主君と仰いだ人はいなくなった。日の本を騒がせた大軍の先陣に立ったこともあったが、それも遠い記憶の影のごとし。今はただ、義に縋って会津に拠り、やがて都へ向かおうとしている。
だが、それが何のためか、自身にもはっきりとは言えなかった。
三十七年の歳月が、指の間から砂のようにこぼれていった感触だけが、胸に重く残っていた。
嫡子の鶴千代は体が弱いながらも、預けられた寺で日々、勉学に勤しんでいる。しかし己自身は、何百年もの間、統治してきた日野の地から引き離され、今後、家名の先も定かでない。若いころは何かになれると思っていた。だが気づけば、ただ流され、戦い、仕え、誰かを喪い、誰かに見放され、ここまで来た。
筆を取り、墨をつけて、一文字ずつ、胸の内を吐くようにしたためた。
「世中に 我は何をか 那須の原 なすわさもなく 年やへぬべき」
――世の中において、我は一体何を為すというのか。
この那須の原のように、果てしなく、ただ広がっているだけの身。成す業もなく、ただ年ばかり重ねてゆくのか。
書き終えて、そっと筆を置く。風が短冊の端を揺らした。風の音が、誰かが遠くでため息をついたようでもあった。
言葉にすることができぬ焦りがあった。誰にも見せぬ、見せられぬ悔いがあった。
けれども、それを歌というかたちにしたことで、わずかに心の靄が晴れていくような気がした。
と、そのとき――。
風がふいに止み、空気がねっとりと肌にまとわりついた。背後で、草を踏む足音がした。振り返ると、そこに女が立っていた。
青白い装束に、黒髪を垂らし、あまりにも静かな顔。だが、その瞳の奥には、何か獣じみた光が宿っている。女はひとことも発せず、ただじっと忠三郎を見つめていた。
「……いずこより現れし」
忠三郎が問うたが、女は言葉を持たぬように、首を傾げるだけだった。
彼女の周囲だけ、風がなく、音がなかった。まるで時が止まったかのようだった。
――殺生石。かつてこの地には、九尾の狐が毒を吐き、石となったといういい伝えがある。誰かがそれを破ろうと近づけば、命を落としたとも。
この女は……その伝説に連なる何者かではないか――。
忠三郎は立ち上がった。だが、足が地につかぬような感覚があった。
女は一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。そのたびに、空気が異様に甘く、重くなる。
「……忠三郎殿。胸に巣くう苦悩を、わたしは知っております」
女の声は、霞のように淡く、耳の奥に直接響いた。
「忠三郎殿は、すでに疲れておられる。多くを背負い、誰にも見せぬ痛みを、胸の奥に沈めている。……もうよいのではありませぬか。戦を離れ、誰のためでもない安らぎの中へ、共に参りましょう。わたしが、忠三郎殿を包みましょう」
その言葉は、夜のしじまに忍び寄る霧のように、忠三郎の心の隙間へと入り込んでくる。
ふと、目の奥が滲んだ。
過ぎし日々が脳裏をよぎる。滝川家の凋落、兄を裏切った日、若き日より苦楽を共にしてきた三九郎の死、無念に散った家臣たちの顔、声、血――。
「……もう……」
忠三郎は、低く唸るように呟いた。
「わしは、誰のために、生きておるのか……」
女が近づいた。顔がすぐそばにある。息が、甘い香のように忠三郎の頬に触れた。
「この手を取りなさい。その苦しみは、すべて、わたしが引き受けます。何もかも、忘れて――」
――そのときだった。
胸の奥から、ふいにひとつの声が湧いた。
『すべて労する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません』
かつて南蛮寺で聞いた――主イエスの言葉だった。忠三郎の指が、無意識に袂の中の十字架へと触れた。それが、焼けつくほどに熱く感じられた。
――高山右近が、白布に包んだ十字架を胸に、目を閉じて祈っていた姿。
――鶴千代が、両手を合わせ、ただ父を慕って見つめていたあの目。
――そして、微笑みを向けてくれた者たちのぬくもり――。
女の手が伸びた、その瞬間。
「……否」
忠三郎は、息を呑むようにその言葉を吐いた。
女の手を、振り払う。
「そなたの言葉はたしかに甘い。されど、それは、まやかしにすぎぬ。わしは、この身が泥にまみれようと、なおこの世でなすべきことがある。わしが生かされておるのは、まだ終わってはならぬ道があるがゆえ」
女の瞳に、亀裂が走るような痛みが浮かんだ。
「……それでも、忠三郎殿はまた苦しむ。涙し、血を流す。それでも、行くと仰せになるか」
「行くとも」
忠三郎は、まっすぐに女を見返して言った。
「わしの行く道は、たとえ闇に覆われていようと、全能者なる神が灯火を与えてくださる。わしは、もう迷わぬ」
女はひとつ、深く、寂しげに笑った。その笑みに、かすかに光が裂ける。
そして次の瞬間、女の姿は、枯草のなかにしゅうと溶けるように消えていった。あとには、白い羽毛が一枚、風に乗って漂っていた。
ふと、胸のあたりがじっとりと汗ばんでいることに気づいた。忠三郎はゆっくりと目を開けた。
草を枕にして仰向けに横たわっていた。空はまだ薄曇りの朝を映していたが、どこか冬の日らしい澄んだ気配があった。
「……夢、か……」
呟いた声に、誰の返事もない。家臣たちはまだ支度をしているのか、あるいは忠三郎が眠っている間、気を利かせて離れていたのか。
忠三郎は上体を起こし、袖で額の汗をぬぐった。
夢にしては、あまりにも生々しかった。女の声も、そのまなざしも、そしてあの白い羽根の手ざわりまでも。
心の奥に、いまだあの哀しげな言葉が、微かに残響のように残っていた。
――この手を取りなさい。忠三郎殿の苦しみは、すべて、わたしが引き受けます――
たしかに夢だった。だが、あの白き女は……まこと、何者だったのか。
それは人知の及ばぬ、夜と昼のはざまに棲む影のひとつだったのかもしれない。いや、あるいは、己の心の奥底に巣くっていた弱さの具現――。
忠三郎は、空を見上げた。心のうちに、ひとすじの光がさすようだった。
わしは、まだ生かされている。行かねばならぬ。たとえそれが、また新たなる迷いを呼ぶとしても――。
町野長門守が、そっと近づいてきた。
「……殿、お目覚めで?」
「うむ。よい朝だ」
忠三郎は立ち上がり、手綱を受け取った。
足もとはまだ凍てていたが、その冷たさがかえって意識を冴え渡らせる。
あの夢のようなひとときと、あの女の影は、いつかまた心をよぎるかもしれない。だが、それでも。
――行こう。
那須の原に、冬の陽が淡く射していた。
日の光が傾き、山の端にかかる頃、忠三郎一行は、東山道を西へとたどり、下野国佐野の地に入った。
野の風はどこか湿りを帯びていた。旅の疲れが身にしみるなか、一行が佐野の舟橋近くに差しかかると、村はずれの草むらや林の陰から、ぽつりぽつりと人影が現れた。
先に通ったときとは違う顔ぶれであったが、やはりその姿には驚嘆の色が濃かった。
「おや…あの紋はもしや…」
「なんとまあ……あれほどの装い、あれほどの気配、あのお方はよもや……」
里人たちは声を潜めながらも、忠三郎の馬のたてがみ、紺の帷子、腰に佩いた大小の拵えに、目を見張っていた。
そのうち、歩き巫女が、つと進み出て、深く頭を下げた。
「殿さま、もし時あらば、こちらの舟橋をご覧くだされませ。古くからの言い伝えがございます」
忠三郎は軽く頷き、従者とともに川辺へと歩を移した。
そこには、烏川が静かに流れ、その上に舟をいくつも並べ、綱で繋いだ橋――舟橋がかかっていた。夕映えを映す川面に、夢の中に浮かぶ道のように見えた。
「この佐野の舟橋には、かような話が伝わっております」
歩き巫女の声は風に溶け込むように静かで、そしてどこか哀しみを帯びていた。
昔、この川をはさんで朝日村と夕日村というふたつの里があり、それぞれの村に長者が住んでいた。朝日村の長者にはナミという娘、夕日村の長者には小治朗という若者がいた。
二人は舟橋を渡って逢瀬を重ね、やがて、誰よりも深く想い合うようになった。
「さりながら、世の常でございますな。そうした仲を妬む者が、ひそかに舟橋の中央の板を外してしまったのです」
夜のこと、月も出ぬ闇のなか、ナミも小治朗も、互いに舟橋を渡って会おうとした。橋が途切れているとも知らずに――。
翌朝、村人が見つけたとき、二人は川の流れに寄り添うように、抱き合ったまま、冷たい水の中に眠っていたという。
「それからというもの、舟橋のあたりには、夜ごと青い炎が灯るようになりましてな。人々はふたりの魂だと噂し、供養をいたしました」
歩き巫女は、そっと目を閉じ、古歌を口ずさんだ。
「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」
(万葉集巻十四、東歌)
――親は離そうとするが、私は離れぬ。
その歌の余韻に、忠三郎は黙したまま舟橋を見つめた。
舟のゆらめき、川の流れ、そして夕空に一筋の雲。
思いは過去へとさかのぼる。愛した女は、ふたりいた。
ひとりは幼馴染にして従姉のおさち。世の栄華など知らぬ、静かな愛を交わした日々。だが、おさちはすでに亡く、残されたのはその忘れ形見、正寿丸ひとり。
もうひとりは、信長の娘・章姫。人に知られてはならぬ恋であった。なぜなら、忠三郎の正室は章姫の姉、吹雪。世の人の手前、正室の妹と心を通わせるなど、許されることではなかった。
だが、章姫との間に生まれた鶴千代は、いまや蒲生家の嫡子として、都・聚楽第にて育てられている。名目上は、吹雪の子として――。
忠三郎は一歩、舟橋に近づいた。水面を見下ろし、かつてのふたり、ナミと小治朗の影をその下に見た。
いや、影は己の心にあったのかもしれない。
――そのとき。
風が鳴ったかと思うと、忠三郎の意識はふっと薄れ、気がつけばいつとも知れぬ薄闇の中にいた。舟橋のたもとには、先ほどの歩き巫女が静かに立っていた。
どこかで見たような、懐かしさを誘う面差し。――よくよく見ると、その顔かたちは、亡きおさちに、あまりにもよく似ていた。
「おさち…なのか」
「鶴殿、お久しゅうござります」
その声は、水のように澄み、風のように懐かしかった。
「おさち…」
そなたを失って、どれほどの歳月が流れたのか。
風の匂いに、花の揺れに、ふとした笑い声に、今なお、そなたの影を探す。
だが、どこにもいない。そなたは、あの春の日のまま――永久に時を止めた。
忠三郎の胸に、ぽたりと何かが落ちたような気がした。
それは涙だったかもしれないし、心の底に沈みきらぬ思いの雫だったかもしれぬ。
舟橋に立つ己の足は、揺れていた。流れにあらがう舟のように、定まる場所を求めていた。
おさちを失ったと知ったあの日――。
ひとつの命が絶えたというだけではなかった。忠三郎の内に灯っていた小さな明かり、かすかな希望までもが、そのとき吹き消されたのだ。
人に話せぬ悔いがあった。
もっと早く気づいてやればよかった。もっと言葉を尽くせば、手を取って逃げ出せば、この世のしがらみなどかなぐり捨てて、守ればよかった。
けれど、それをしなかったのは誰か――己自身ではなかったか。
愛しい者の名を呼ぶことすらできず、夜ごと灯を消し、言葉をなくし、
あるいは夢と現の境をさまよいながら、朝が来るのをただ待つだけの日々――。
喪ったという実感を、長い間持てなかった。
あまりに深い喪失は、人をして、悲しみすら奪うのだ。
ただ茫然と、空を仰ぎ、音のない風の中に、声なき叫びを繰り返すしかなかった。
この世はただ白く、何も見えず、何も聞こえなかった。
時間も、言葉も、そして自分自身の輪郭さえ、あやふやだった。
「ともにまいりましょう、鶴殿」
その声のなんと甘く、そして危ういことか。
おさちの面影は、水面に浮かぶ幻か、それとも死者の遣いか。
その手を取れば、もう苦しむことはない。
いまのこの世に残した悔いも、果たせぬ愛も、忘れることができるのなら――。
そう思った瞬間だった。胸の奥に、かつて聞いたことばが、かすかに響いた。
『悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる』
ああ、そうか――
悲しむことでしか知り得ないことがある。なぜ愛する者と引き裂かれたのか、なぜ背負うばかりの運命なのか――その答えはまだ分からない。だが、信じている。愛する者を喪い、残された者が背負う涙と祈りこそが、いつか誰かのために、光となることもある。己の悲しみの深さは、己にしか分からぬ。だが、それでもなお、生きよと、神は言う。
『それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ』
確かな約束、それはひとつしかない。それは永遠に変わらないもの。草が枯れ、花がしぼんだとしても、変わらないものがある。
沈黙のなか、忠三郎はそっと目を閉じ、かぶりを振った。
「わしにはまだやらねばならぬことがある」
かすれた声で呟いた忠三郎の瞳は、もう迷ってはいなかった。
その言葉に、おさちに似た女は、ふっと微笑んだ。
「鶴殿。悩みも、苦しみも、なお……」
おさちに似た女の姿は、静かに水底へと溶けていった。波紋ひとつ残さぬその別れは、むしろ穏やかで、さながら眠りへと帰っていくようだった。
水面には、何の波紋も残らなかった。
そこで、忠三郎ははっと目覚めた。舟橋のたもとに立つ己。川はただ、静かに流れていた。空はわずかに朱を帯び、風がそよいでいた。
その胸中に、もうひとつのことばが甦る。
『苦しみに会った事は、私にとって良い事なり。故に、我汝の法を学べり』
忠三郎は筆をとり、短冊に一首をしたためた。
「これや此 佐野の舟橋 渡るにそ いにしへ人の ことあはれなる」
――いにしへの人。舟橋で命を落とした二人。そして、愛した人を失い、それでも生きねばならぬ己自身。
静かに詠み上げたその声に、誰ひとりとして言葉を返す者はいなかった。
ただ、風だけが舟橋を渡り、川の流れに波紋を生んだ。
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