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33.見果てぬ夢
33-5. みかへりの里
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忠三郎一行は、上野の国を越え、信濃の地へと足を踏み入れた。
早春の風はなお冷たく、浅間の嶽の頂にはうっすらと雪が残っている。山裾では梅がほころびはじめ、淡い白と紅がまだ寒々しい景のなかに、ひそやかに春の到来を告げていた。
今回、忠三郎が東山道を選び、上洛の途に就いたのには、ひとつの深い思いがあった。
本能寺の変――。
その夜を境に、あらゆるものが変わった。義兄・滝川一益は、上野を捨て、伊勢へと退いた。そのとき辿った道と、いま己が進んでいる道は、奇しくも同じだった。忠三郎は、その足跡を、もう一度踏みしめたかったのだ。否、それをせずには、己の歩む先が見えぬような気がしていた。
信濃に入るのは、これが二度目だ。
前回は、若き日のこと。信長の命に従い、武田攻めの軍勢に加わった折。未来は目の前に開かれていると思い込んでいた。己の才と武と忠によって、望む道を押し拓いていけると、疑いもせぬ年頃であった。
そのとき、信濃路を進みながら、信長とともに仰ぎ見た富士の嶺――。
澄み渡る空に白くそびえるその姿は、天の鏡のように、見る者の胸の奥までも映し出すようであった。信長はその峯を見て、
「あの嶺を望むことができるうちは、まだ天下は我がものよ」
と言って微笑んだ。
あの声は、いまも耳の奥に焼きついて離れない。
道すがら、浅間の嶽がその威容をあらわした。
空は春の薄曇り。雪をいただいた頂きから、うす青く揺れる煙がひとすじ、空へと立ちのぼっている。春とはいえ、あの嶽にはなお冬の名残がある。けれど、噴煙の色には、何かしら生きもののような熱が感じられた。
忠三郎は馬の足を止め、ひととき見上げた。
ふいに大地が鳴り、噴煙が空を裂いた日。天地が怒れる神のごとく震え、黒き雲は火を孕んで渦巻いた。その時も、滝川勢は整然としていたと聞いた。馬の手綱を緩めず、兵を怯えさせず、一益はただ前を見据えていたらしい。
義兄・一益。
剛直にして、哀しみを胸の底に沈める人だった。信長亡きあと、万を超える北条氏と一戦し、伊勢へと退かざるをえなかった――。
何に、とは言えない。ただ、胸の底がうずくように、熱くなった。
あの煙のように、まっすぐに、迷いなく昇っていけるものがあるのならば。
いや、かつては自分にも、そうした心があったはずなのだ。
信長とともにこの山を眺めたのは、二十代の中ば。天下布武の理想に燃え、己もまた、武をもって世を変えんと夢見たあの頃。何も怖いものなどなかった。ただ、ただ進むことができた。
いま、胸を焦がすのは、かつての己か。それとも、ついぞ手に入れることのなかった、理想のかたちか。
あの煙は、いまなお心の奥底にくすぶりつづける炎を、形にして見せてくれているようだった。
忠三郎は、馬を降り、草の芽吹く土に立った。浅間の嶽を仰ぎ、ゆるやかに筆を取り、短冊に静かに一首を記す。
「しなのなる 淺間の嶽も 何を思ふ 我のみ胸を こかすと思へは」
――変わらぬものなど、この世にはない。
しかし、変わらぬがごとき姿を見せてくれる山がある。だからこそ、その変わらぬ嶽にこそ、己の変わり果てた心を映してしまうのだ。
忠三郎は短冊を懐に納め、春の冷気に少し震えながら、ふたたび馬にまたがった。
「――焦がるるとは、斯様なものか」
己の中に、消えぬ火がある。それが、何を照らしているのかは、まだわからぬ。けれど、この身を動かすものがあるとすれば、それは、この焦がれる心に他ならなかった。
風が吹く。煙が、いっとき揺れて、形を変えた。
忠三郎は手綱を握り直す。
まだ終わってはいない。あの煙が昇る限り、自らの行くべき道もまた、空に続いていると信じていたい――。
浅間の嶽をあとに、忠三郎の一行はさらに西へと馬を進めた。春の山間に残る雪が、まばらな陽の光に照らされて、ひととき煌めきを放つ。その風景の中を、誰ひとり声高に語ることもなく、ただ蹄の音だけが静かに響いてゆく。
道中、心に去来する思いの名残は、なお消えぬままに忠三郎の胸にあった。信濃の山々にこだましていたあの噴煙の記憶が、折々よぎる。心のどこかで、あの焦がれる想いをいまだ咀嚼しきれずにいたのかもしれない。
やがて一行は、木曽の地に足を踏み入れた。
空気がすうと冷たくなる。山の陰に入ったせいか、日も早く翳り、谷間の風がどこか寂しさを運んでくる。
道の傍らに、ぽつり、ぽつりと家屋がある。けれど、人気はなく、まるで時の流れに忘れ去られたような里であった。
されど、木曽は今もなお、東山道の要衝である。
この街道は、信濃と美濃を結び、京へと通ずる大路のひとつ。上洛を志す大名たちも、幾度となくこの谷を越えていった。
戦乱の世ゆえ、兵も行き交い、物資も通う。だがその往来に比して、山あいの村々はどこか沈黙を保ち、旅人を見下ろす山々は、あたかも千年変わらぬ顔で、ただ黙して立っている。
「……ここは、いずこか」
忠三郎がそっと問うと、近くの薪を割っていた老人が、斧を止めて答えた。
「はい、ここは『みかへりの里』と申します」
「みかへり……三たび、顧みると書いてか」
「然様で。謡曲にもござります。昔、この地に『三返りの翁』という不思議な御仁が住んでいたとか。妙薬を調じ、人々に与えては、三度まで若返ったと。さればこの名が残ったと、古より申します」
「妙薬とな?」
「はい。このあたり、薬草の宝庫と申しますゆえ。木曽の山には、人の知らぬ草も多うございます」
忠三郎は眉をわずかに上げた。
「たしか、木曽義昌も、兵を癒す薬草園を抱えていたと聞く。……なるほど、地の利にかなう話よ」
町野左近が、わざとらしく咳をして言った。
「殿、三度も若返るとあっては、もはや戦場に戻るおつもりかと」
「そうなれば、そちも再び槍を構えねばなるまいぞ」
「お手柔らかに願いたいものですな」
ふたりは笑ったが、吹き抜ける谷風に、小さく鈴の音のような響きが混じった気がした。
それはただの空耳か――あるいは、今もどこかで「三返りの翁」が生きている証かもしれない。
忠三郎は思わず小さく笑った。
長き旅路に、ふいにあらわれたその奇妙に懐かしい名の響きが、どこか心を和ませた。
「……なるほど、面白き名よ」
その夜、一行は村の外れにある古い空き家を借り、静かに休んだ。
火の気も乏しく、夜気は冷えたが、山の静けさがどこか心地よい。
忠三郎は短く祈りを捧げ、衣をかぶって横になった。
――いつしか、また夢を見ていた。
今度は前とは違う。辺りは深い海の底のような青。
そのなかを、まばゆいばかりの装束をまとったひとりの女が、ゆらりと歩み寄ってくる。
(また女子か…)
この旅では奇妙な女ばかりが姿を現す。今度は誰だと顔をのぞくと――
案の定、章姫に似ていた。いや、章姫その人ではないかと思えるほどに。
ただ、現実に大坂城で見せるあの冷たい眼差しではなく、面差しはどこかやさしく、そして哀しげでもあった。
夢のなかの章姫は、忠三郎に向かってすっと手を差し出す。
「忠三郎殿はお疲れじゃ。すべてを忘れ、この薬をお飲みくだされ。これを飲めば、時の波にさらわれず、いつまでも清らかに――」
掌には、小さな金の杯が載っていた。
そこに満たされた液は、虹のように揺らめき、見る者の心を奪う。
――はて、これは。
忠三郎は杯を見つめ、ふと胸騒ぎを覚えた。
どこかで、このような話を聞いた気がする。そう、三返りの翁のもうひとつの言い伝え。時を忘れ、竜宮に遊んだという話。
この女もまた、竜宮の使いなのか――いや。この夢の底に潜むのは、章姫の面影ではないか。
忠三郎が差し出した運命の杯を、章姫はいまも恨みとともに抱き続けている。
「……章殿」
思わず、その名を口にした。
女の目が、一瞬、かすかに揺れた。
「わしは……そなたを、猿の元へ送りたくはなかった」
返事はなかった。女はただ、杯を差し出したまま、静かに微笑んでいた。
忠三郎は静かに首を振った。
「ありがたき申し出なれど、わしには不要じゃ」
忠三郎は静かに首を振った。
「永遠の命は、すでに天におられる創造主から賜っている。この世の杯に、その真似はできぬ」
女の顔に、さっと影が差した。
その眼差しは哀れみとも怒りともつかぬ色を帯び、そっと杯を引いた。
「……忠三郎殿が、そう仰せならば」
風が吹いた。女の髪が波のように揺れ、その姿は徐々に崩れ、しずかに霧のように消えていった。
ただひとひら、金の鱗のようなものが宙を舞い、忠三郎の袖にふわりと落ちた。
次の瞬間、はっと目を覚ました。
屋根の隙間から朝の光が差し込み、鳥の声が遠くに響いていた。
夢だった――袖を見やると、そこに何もないのを確かめてから、忠三郎は目を閉じて、静かに息をついた。
「……されど、忘れがたき夢であった」
陽はすでに東の峰を越えかけていた。忠三郎は身を起こし、衣を整えると、袂から短冊を取り出し、筆をとった。
「限なく 遠くもここに 木曽のぢや 雲ゐの跡を みかへりの里」
尽きせぬ道の果て、見えぬ空のゆくえを、もう一度、三度、顧みてなお、この地にたどり着いた――そんな心持ちが、そっと筆先に滲んだ。
供の者たちが荷をまとめている。忠三郎はひとつ頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
みかへりの里。
それは、旅の途上にふとあらわれた、夢とうつつの狭間のような地だった。そして、ひとときの夢のなかに現れた章姫の影は、なおも心に、波紋のように広がっていた。
会津を発ち、幾つもの峠を越え、野を分け、川を渡り、忠三郎一行はようやく美濃の垂井へとたどり着いた。
この地は古より名水の里として知られ、巨大なケヤキの根元より湧き出す清水は、旅人の渇きを癒し、また、かの在原業平もその美しさに筆を執ったと伝わる。
「懐かしき地じゃ」
忠三郎が馬から降り、しみじみとそう洩らすと、後ろから町野左近が顔を出した。
「まことに。殿が滝川左近殿や義太夫殿と、水をすくいし時のこと、忘れ申さぬ」
「爺。よう覚えておったな」
「然様、あのときは殿もまだお若く、私も……やや若くございました」
ふたりは肩を並べて木陰に立ち、遠い日の水音を思い出すように、静かに耳を澄ませた。
だが、忠三郎の顔にはどこか翳りがある。
「それより殿、いかがなされました。心ここにあらずとお見受けいたすが……」
「この旅に出てからというもの、夜毎、どうにも妙な夢ばかり見る」
「夢……でござりますか。はて、夢というものは、心に沈む思いが形を変えてあらわれるものとか。女子の面影……などがちらついておられませぬか?」
左近の言葉に、忠三郎は苦笑いしたが、まんざら外れていないとあっては反論もできない。
口元にわずかに笑みを浮かべると、左近は意を得たりとばかりに言った。
「いっそ今宵はここ垂井に宿をとって、夢と水を清めてはいかがかと。岐阜と申せば、鮎が名物。旅の慰みにぴったりかと存じまする」
「……結局、そちの目当ては鮎か」
「いえいえ、殿のお体を案じてのことにございます。鮎はその……添え物にございます」
道中の緊張がふとほどけ、忠三郎も笑った。
かくして一行は、垂井の宿に足をとめることとなった――が、これがまた、難儀であった。
どの宿も旅人でごった返し、ようやく見つけた一軒は、見た目からして頼りない。
そして膳に並んだのは……。
「米と、具のない味噌汁……鮎の影すらないとは」
「……それもまた、旅の一興かと」
忠三郎はため息混じりに湯をすする。
だが、夜はそれで終わらなかった。
眠りに入ろうとした矢先――
頬に冷たい感触がぽたり。
天井の板の隙間から、雨のしずくが静かに落ちてきた。
「……垂井なだけに、よく垂れるものよ」
「爺、戯れておる場合ではない。何かでふさがねば」
家臣たちは、手拭い、うちわ、旅の札まで持ち出して天井の穴を塞ごうとしたが、しずくはなおも、ぽたり、ぽたりと。
そこへ町野左近の息である長門守がさっそうと現れ、勢い余って自らの褌を脱いだ。
「これを!我が真心のしぼり布を!」
と叫んで天井に突き上げると、左近が慌てて止めた。
「たわけ!殿のお顔にそれが垂れてきたらどうするつもりじゃ!」
「いえ、それがしの身魂を持ってお仕えを……」
「余計な魂は寝かせておけ!」
そのやりとりを見て、忠三郎はとうとう声をあげて笑った。
「戦で討たれるより先に、お主らの騒ぎで倒れるわい」
「それもまた、忠義のかたちにございますれば」
その夜、夢を見ることはなかった。
――というより、夢を見るほどの眠りには至らなかったというべきか。
明け方、薄明るくなった天井を見上げると、なおもぽたりと滴るしずく。
傍らでは町野左近が、見事な寝息で安らかに眠っている。
(羨ましいやつめ……)
忠三郎はそっと筆と短冊を取り出し、一首を認めた。
「かりねする 宿の軒端の あれはてて 露もたる井の 明方の空」
その朝、再び出立の合図がかかる頃には、忠三郎の背すじには凛としたものが戻っていた。
道はなおもつづく。されど、たまにはこうした夜もまた、悪くはない。
会津を離れ、京へ上るその道すがら――
一滴のしずくと一首の歌と、褌の騒動が、忠三郎の胸にささやかな余韻を残していた。
早春の風はなお冷たく、浅間の嶽の頂にはうっすらと雪が残っている。山裾では梅がほころびはじめ、淡い白と紅がまだ寒々しい景のなかに、ひそやかに春の到来を告げていた。
今回、忠三郎が東山道を選び、上洛の途に就いたのには、ひとつの深い思いがあった。
本能寺の変――。
その夜を境に、あらゆるものが変わった。義兄・滝川一益は、上野を捨て、伊勢へと退いた。そのとき辿った道と、いま己が進んでいる道は、奇しくも同じだった。忠三郎は、その足跡を、もう一度踏みしめたかったのだ。否、それをせずには、己の歩む先が見えぬような気がしていた。
信濃に入るのは、これが二度目だ。
前回は、若き日のこと。信長の命に従い、武田攻めの軍勢に加わった折。未来は目の前に開かれていると思い込んでいた。己の才と武と忠によって、望む道を押し拓いていけると、疑いもせぬ年頃であった。
そのとき、信濃路を進みながら、信長とともに仰ぎ見た富士の嶺――。
澄み渡る空に白くそびえるその姿は、天の鏡のように、見る者の胸の奥までも映し出すようであった。信長はその峯を見て、
「あの嶺を望むことができるうちは、まだ天下は我がものよ」
と言って微笑んだ。
あの声は、いまも耳の奥に焼きついて離れない。
道すがら、浅間の嶽がその威容をあらわした。
空は春の薄曇り。雪をいただいた頂きから、うす青く揺れる煙がひとすじ、空へと立ちのぼっている。春とはいえ、あの嶽にはなお冬の名残がある。けれど、噴煙の色には、何かしら生きもののような熱が感じられた。
忠三郎は馬の足を止め、ひととき見上げた。
ふいに大地が鳴り、噴煙が空を裂いた日。天地が怒れる神のごとく震え、黒き雲は火を孕んで渦巻いた。その時も、滝川勢は整然としていたと聞いた。馬の手綱を緩めず、兵を怯えさせず、一益はただ前を見据えていたらしい。
義兄・一益。
剛直にして、哀しみを胸の底に沈める人だった。信長亡きあと、万を超える北条氏と一戦し、伊勢へと退かざるをえなかった――。
何に、とは言えない。ただ、胸の底がうずくように、熱くなった。
あの煙のように、まっすぐに、迷いなく昇っていけるものがあるのならば。
いや、かつては自分にも、そうした心があったはずなのだ。
信長とともにこの山を眺めたのは、二十代の中ば。天下布武の理想に燃え、己もまた、武をもって世を変えんと夢見たあの頃。何も怖いものなどなかった。ただ、ただ進むことができた。
いま、胸を焦がすのは、かつての己か。それとも、ついぞ手に入れることのなかった、理想のかたちか。
あの煙は、いまなお心の奥底にくすぶりつづける炎を、形にして見せてくれているようだった。
忠三郎は、馬を降り、草の芽吹く土に立った。浅間の嶽を仰ぎ、ゆるやかに筆を取り、短冊に静かに一首を記す。
「しなのなる 淺間の嶽も 何を思ふ 我のみ胸を こかすと思へは」
――変わらぬものなど、この世にはない。
しかし、変わらぬがごとき姿を見せてくれる山がある。だからこそ、その変わらぬ嶽にこそ、己の変わり果てた心を映してしまうのだ。
忠三郎は短冊を懐に納め、春の冷気に少し震えながら、ふたたび馬にまたがった。
「――焦がるるとは、斯様なものか」
己の中に、消えぬ火がある。それが、何を照らしているのかは、まだわからぬ。けれど、この身を動かすものがあるとすれば、それは、この焦がれる心に他ならなかった。
風が吹く。煙が、いっとき揺れて、形を変えた。
忠三郎は手綱を握り直す。
まだ終わってはいない。あの煙が昇る限り、自らの行くべき道もまた、空に続いていると信じていたい――。
浅間の嶽をあとに、忠三郎の一行はさらに西へと馬を進めた。春の山間に残る雪が、まばらな陽の光に照らされて、ひととき煌めきを放つ。その風景の中を、誰ひとり声高に語ることもなく、ただ蹄の音だけが静かに響いてゆく。
道中、心に去来する思いの名残は、なお消えぬままに忠三郎の胸にあった。信濃の山々にこだましていたあの噴煙の記憶が、折々よぎる。心のどこかで、あの焦がれる想いをいまだ咀嚼しきれずにいたのかもしれない。
やがて一行は、木曽の地に足を踏み入れた。
空気がすうと冷たくなる。山の陰に入ったせいか、日も早く翳り、谷間の風がどこか寂しさを運んでくる。
道の傍らに、ぽつり、ぽつりと家屋がある。けれど、人気はなく、まるで時の流れに忘れ去られたような里であった。
されど、木曽は今もなお、東山道の要衝である。
この街道は、信濃と美濃を結び、京へと通ずる大路のひとつ。上洛を志す大名たちも、幾度となくこの谷を越えていった。
戦乱の世ゆえ、兵も行き交い、物資も通う。だがその往来に比して、山あいの村々はどこか沈黙を保ち、旅人を見下ろす山々は、あたかも千年変わらぬ顔で、ただ黙して立っている。
「……ここは、いずこか」
忠三郎がそっと問うと、近くの薪を割っていた老人が、斧を止めて答えた。
「はい、ここは『みかへりの里』と申します」
「みかへり……三たび、顧みると書いてか」
「然様で。謡曲にもござります。昔、この地に『三返りの翁』という不思議な御仁が住んでいたとか。妙薬を調じ、人々に与えては、三度まで若返ったと。さればこの名が残ったと、古より申します」
「妙薬とな?」
「はい。このあたり、薬草の宝庫と申しますゆえ。木曽の山には、人の知らぬ草も多うございます」
忠三郎は眉をわずかに上げた。
「たしか、木曽義昌も、兵を癒す薬草園を抱えていたと聞く。……なるほど、地の利にかなう話よ」
町野左近が、わざとらしく咳をして言った。
「殿、三度も若返るとあっては、もはや戦場に戻るおつもりかと」
「そうなれば、そちも再び槍を構えねばなるまいぞ」
「お手柔らかに願いたいものですな」
ふたりは笑ったが、吹き抜ける谷風に、小さく鈴の音のような響きが混じった気がした。
それはただの空耳か――あるいは、今もどこかで「三返りの翁」が生きている証かもしれない。
忠三郎は思わず小さく笑った。
長き旅路に、ふいにあらわれたその奇妙に懐かしい名の響きが、どこか心を和ませた。
「……なるほど、面白き名よ」
その夜、一行は村の外れにある古い空き家を借り、静かに休んだ。
火の気も乏しく、夜気は冷えたが、山の静けさがどこか心地よい。
忠三郎は短く祈りを捧げ、衣をかぶって横になった。
――いつしか、また夢を見ていた。
今度は前とは違う。辺りは深い海の底のような青。
そのなかを、まばゆいばかりの装束をまとったひとりの女が、ゆらりと歩み寄ってくる。
(また女子か…)
この旅では奇妙な女ばかりが姿を現す。今度は誰だと顔をのぞくと――
案の定、章姫に似ていた。いや、章姫その人ではないかと思えるほどに。
ただ、現実に大坂城で見せるあの冷たい眼差しではなく、面差しはどこかやさしく、そして哀しげでもあった。
夢のなかの章姫は、忠三郎に向かってすっと手を差し出す。
「忠三郎殿はお疲れじゃ。すべてを忘れ、この薬をお飲みくだされ。これを飲めば、時の波にさらわれず、いつまでも清らかに――」
掌には、小さな金の杯が載っていた。
そこに満たされた液は、虹のように揺らめき、見る者の心を奪う。
――はて、これは。
忠三郎は杯を見つめ、ふと胸騒ぎを覚えた。
どこかで、このような話を聞いた気がする。そう、三返りの翁のもうひとつの言い伝え。時を忘れ、竜宮に遊んだという話。
この女もまた、竜宮の使いなのか――いや。この夢の底に潜むのは、章姫の面影ではないか。
忠三郎が差し出した運命の杯を、章姫はいまも恨みとともに抱き続けている。
「……章殿」
思わず、その名を口にした。
女の目が、一瞬、かすかに揺れた。
「わしは……そなたを、猿の元へ送りたくはなかった」
返事はなかった。女はただ、杯を差し出したまま、静かに微笑んでいた。
忠三郎は静かに首を振った。
「ありがたき申し出なれど、わしには不要じゃ」
忠三郎は静かに首を振った。
「永遠の命は、すでに天におられる創造主から賜っている。この世の杯に、その真似はできぬ」
女の顔に、さっと影が差した。
その眼差しは哀れみとも怒りともつかぬ色を帯び、そっと杯を引いた。
「……忠三郎殿が、そう仰せならば」
風が吹いた。女の髪が波のように揺れ、その姿は徐々に崩れ、しずかに霧のように消えていった。
ただひとひら、金の鱗のようなものが宙を舞い、忠三郎の袖にふわりと落ちた。
次の瞬間、はっと目を覚ました。
屋根の隙間から朝の光が差し込み、鳥の声が遠くに響いていた。
夢だった――袖を見やると、そこに何もないのを確かめてから、忠三郎は目を閉じて、静かに息をついた。
「……されど、忘れがたき夢であった」
陽はすでに東の峰を越えかけていた。忠三郎は身を起こし、衣を整えると、袂から短冊を取り出し、筆をとった。
「限なく 遠くもここに 木曽のぢや 雲ゐの跡を みかへりの里」
尽きせぬ道の果て、見えぬ空のゆくえを、もう一度、三度、顧みてなお、この地にたどり着いた――そんな心持ちが、そっと筆先に滲んだ。
供の者たちが荷をまとめている。忠三郎はひとつ頷くと、ゆっくりと立ち上がった。
みかへりの里。
それは、旅の途上にふとあらわれた、夢とうつつの狭間のような地だった。そして、ひとときの夢のなかに現れた章姫の影は、なおも心に、波紋のように広がっていた。
会津を発ち、幾つもの峠を越え、野を分け、川を渡り、忠三郎一行はようやく美濃の垂井へとたどり着いた。
この地は古より名水の里として知られ、巨大なケヤキの根元より湧き出す清水は、旅人の渇きを癒し、また、かの在原業平もその美しさに筆を執ったと伝わる。
「懐かしき地じゃ」
忠三郎が馬から降り、しみじみとそう洩らすと、後ろから町野左近が顔を出した。
「まことに。殿が滝川左近殿や義太夫殿と、水をすくいし時のこと、忘れ申さぬ」
「爺。よう覚えておったな」
「然様、あのときは殿もまだお若く、私も……やや若くございました」
ふたりは肩を並べて木陰に立ち、遠い日の水音を思い出すように、静かに耳を澄ませた。
だが、忠三郎の顔にはどこか翳りがある。
「それより殿、いかがなされました。心ここにあらずとお見受けいたすが……」
「この旅に出てからというもの、夜毎、どうにも妙な夢ばかり見る」
「夢……でござりますか。はて、夢というものは、心に沈む思いが形を変えてあらわれるものとか。女子の面影……などがちらついておられませぬか?」
左近の言葉に、忠三郎は苦笑いしたが、まんざら外れていないとあっては反論もできない。
口元にわずかに笑みを浮かべると、左近は意を得たりとばかりに言った。
「いっそ今宵はここ垂井に宿をとって、夢と水を清めてはいかがかと。岐阜と申せば、鮎が名物。旅の慰みにぴったりかと存じまする」
「……結局、そちの目当ては鮎か」
「いえいえ、殿のお体を案じてのことにございます。鮎はその……添え物にございます」
道中の緊張がふとほどけ、忠三郎も笑った。
かくして一行は、垂井の宿に足をとめることとなった――が、これがまた、難儀であった。
どの宿も旅人でごった返し、ようやく見つけた一軒は、見た目からして頼りない。
そして膳に並んだのは……。
「米と、具のない味噌汁……鮎の影すらないとは」
「……それもまた、旅の一興かと」
忠三郎はため息混じりに湯をすする。
だが、夜はそれで終わらなかった。
眠りに入ろうとした矢先――
頬に冷たい感触がぽたり。
天井の板の隙間から、雨のしずくが静かに落ちてきた。
「……垂井なだけに、よく垂れるものよ」
「爺、戯れておる場合ではない。何かでふさがねば」
家臣たちは、手拭い、うちわ、旅の札まで持ち出して天井の穴を塞ごうとしたが、しずくはなおも、ぽたり、ぽたりと。
そこへ町野左近の息である長門守がさっそうと現れ、勢い余って自らの褌を脱いだ。
「これを!我が真心のしぼり布を!」
と叫んで天井に突き上げると、左近が慌てて止めた。
「たわけ!殿のお顔にそれが垂れてきたらどうするつもりじゃ!」
「いえ、それがしの身魂を持ってお仕えを……」
「余計な魂は寝かせておけ!」
そのやりとりを見て、忠三郎はとうとう声をあげて笑った。
「戦で討たれるより先に、お主らの騒ぎで倒れるわい」
「それもまた、忠義のかたちにございますれば」
その夜、夢を見ることはなかった。
――というより、夢を見るほどの眠りには至らなかったというべきか。
明け方、薄明るくなった天井を見上げると、なおもぽたりと滴るしずく。
傍らでは町野左近が、見事な寝息で安らかに眠っている。
(羨ましいやつめ……)
忠三郎はそっと筆と短冊を取り出し、一首を認めた。
「かりねする 宿の軒端の あれはてて 露もたる井の 明方の空」
その朝、再び出立の合図がかかる頃には、忠三郎の背すじには凛としたものが戻っていた。
道はなおもつづく。されど、たまにはこうした夜もまた、悪くはない。
会津を離れ、京へ上るその道すがら――
一滴のしずくと一首の歌と、褌の騒動が、忠三郎の胸にささやかな余韻を残していた。
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大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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