獅子の末裔

卯花月影

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33.見果てぬ夢

33-6. 我が故郷

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 旅路の空に、近江の山並みがにじみはじめたとき、忠三郎は静かに手綱を引いた。
 春の終わりの風が、木々のあいだから草の匂いを運んでくる。
「近江か…」
 誰に聞かせるでもなく、馬上でぽつりとつぶやいたその声に、一行は自然と歩みを緩めた。
 湖を中心に栄えたこの国は、戦国の世においても早くから人と物が往来する要衝であり、中山道、北国街道、西国街道が交わる水陸交通のかなめであった。
 だが忠三郎にとっての近江は、地図上の中継点ではなかった。
 それは、魂の端に刻まれた、拭えぬ血の記憶と、あたたかい土の匂いをともに孕んだ土地――。

 近江の南、鈴鹿山脈のふもとにひっそりと広がる小盆地。
 日野の町。
 かつてその地に、忠三郎の祖父・快幹がいた。
 蒲生一族に生まれながら、権謀術数をもって宗家の家督を奪い取り、自らの一族を独立させた戦国の梟雄。
 その快幹が、日野の地に城を構え、城下町を築いた。
 川を掘り、堀をめぐらせ、行商人を呼び寄せ、町の礎を作った。
 それはまさしく、野望と血と才覚によって生まれた町だった。
 信長の威光が京をも揺るがしていたころ、父そして祖父はこの地にあって一城を構え、江南の守りを担っていた。
 城下には染物商や薬商が集い、峠を越えた伊勢から届く紅花や金箔をさばく問屋も立ち並び、人と物とが交錯するにぎわいを見せていた。
 忠三郎自身もまた、信長の娘婿たる身として将来を約束された時期があった。

 だが――すべては、過去の話だ。
 快幹の築いた城も、今やほかの者の手に渡り、かつての町も姿を変えているだろう。
 今も耳に残る、あの市場のざわめき。
 水車の軋む音、白壁を伝う風の匂い、田の畦で鳴く蛙の声。
 そして何より――
 綿向山の、あの優しい稜線。
 近江は広く、強く、時に冷たいが、忠三郎にとっての「近江」とは、綿向山のふもとに息づく日野の町であり、あの山を仰ぎ、風を頬に受けながら過ごした、かけがえのない幼き日々そのものだった。
「八年ぶりか……」
 こうして近江の空を仰いでいると、胸の奥底にしまい込んだはずの想いが、静かに疼きはじめる。
 日野に帰るわけではない。
 けれど、足もとに広がるこの土、この空気には、確かに自分の根がある。それは祖父が奪い、父が守り、自分が手放した町――
 血脈と運命のすべてが交錯する、忘れることなど到底できぬ土地だった。
「……瞬く間に時が過ぎていった」
 心のうちで呟いたその言葉は、風に溶けて消えた。
 忠三郎はそっと馬腹を叩いた。
 馬は鼻を鳴らし、静かに歩みを再開する。

 やがて、一行は宿場町・武佐に着いた。
 そのとき、町野長門守が駆け寄ってきたのだった。
 町野長門守が駆け寄ってくる。
「殿!こちらへおいでくだされ」
 興奮を隠せぬ面持ちの長門守に導かれるまま、一行は小高い丘の上へと登った。
 風が吹く。春の終わりの淡い陽差しが、丘の緑を優しく包んでいた。
「あれなるに……!」
「……あれは……」
 忠三郎の視線の先に、はるか鈴鹿の山々が連なっている。
 そして、あのひときわ穏やかに盛り上がった山の影――。
「綿向山……」
 その名を、知らず口にしていた。
 幼き日より、朝に夕に見上げた山。祈るように心を寄せた、古里の象徴。
 そのすそ野に、霞のように広がっているのは、まさしく日野の町。
 甍の列も、田の光も、かつて歩いた日々のかけらたち。
 母の手を引かれて歩いた田のあぜ道でも、友と駆け抜けた川辺でも、どこにいても綿向山の姿が見えた。
 そして、共に過ごしたもうひとり――
「……佐助」
 忠三郎は思わず呟いた。
 佐助は、七つ年上の傅役であり、甲賀の出で素破の技に通じた男だった。
 幼き忠三郎のそばに常にあり、厳しくもあたたかな眼差しで、その一挙手一投足を見守ってくれていた。
 母を失い、父からも顧みられることのなかった忠三郎に、佐助は黙して寄り添い、時に聡し、時に野に連れ出してくれた。春には山菜を摘み、夏には沢を越え、秋には風に耳をすませ、冬には火を囲んで昔語りをしてくれた。
『若が健やかであることが、この日野の泰平に通じまする』
 そう言って佐助が教えてくれた多くのこと。その一つひとつが、忠三郎の血となり、骨となった。
『この日野谷はまさに桃源郷でござりますな』
 遠い昔、そう呟いた佐助の声が、ふと耳に甦る。
(いにしえの…幻の仙境)
 水は清く、田畑は潤い、草木は人の手に従い、実りを与える。
 どこまでも続く蒲草の野。
 この地を愛してこそ、先祖は「蒲生」と名乗ったのだ。
「懐かしゅうござりますな……」
 隣で町野長門守がそっと目頭をぬぐう。
「まことに……」
 忠三郎は小さく笑った。が、それはすぐに消えて、唇は静かに震えた。
 八年前、あの日、己の意志とは関係なく、日野を後にした。
 家を守るため、地を守るため、心を殺して出立した。
 だが、日野の町と、あの山と、何より佐助の背中を思うたび、心のどこかに欠けたままの空白が、いまだ疼いていた。
 母、兄の重丸、おさち、そして代えがたき友・佐助。
 だが、今さら何を悔やもう。
 自分にはもはや帰る家も、迎える者もない。だ、山と町と空だけが、すべてを赦すように、何も言わず、そこにある。
 ふと、そのときだった。
 丘の端に、小さな人影がひとつ――。
 旅衣に身を包んだ少年が、綿向山を仰ぎ見て佇んでいる。風にたなびく髪には、まだ幼さが残っていた。
「……あれは?」
 忠三郎が目を細めた。
「千世寿殿にござります」
 町野長門守がすぐに応えた。
「後藤喜三郎殿の嫡男にて、十三におなりとか」
 喜三郎。
 忠三郎の従弟にして、おさちの実弟。
 かつては兄弟同然に育ちながらも、おさちをめぐって確執が生まれ、冷え切ったままの関係になっていた。
 本能寺の変の折、明智に与した罪により、秀吉に追われ、落ちるように日野へ身を寄せたものの、互いに言葉少なに月日を過ごした。
 三年前、病を得てそのまま世を去ったと聞いたきりだった。

 忠三郎は、しばし言葉を失い、千世寿の背を見つめていた。
 あの喜三郎の子。
 だがその背には父の影は見えなかった。
 あまりに小さく、風に吹かれてもなお、ひたむきにそこへ立ち尽くしている。
 まるで誰かを慕い、何かを求めているようであった。

 忠三郎は、歩を進めた。
 馬を下り、土を踏みしめて近づく。忍び足ではない。ただ、まっすぐに。
 少年は気づき、振り返った。
 その瞳に宿る光は、怯えではなかった。
 どこか、懐かしみと戸惑いとが混じるような、かすかな光。
「千世寿……」
「……はい」
 少年は、視線をそらさぬまま応じた。
「殿のこと、父から聞いていました。……恨んでおると」
 その言葉に、忠三郎の胸がきしんだ。
 風がふたりの間を抜け、草を鳴らす。綿向山の稜線が、やわらかく浮かび上がる。
「……然様か。無念であったろう」
 ひと呼吸置き、忠三郎は言葉を続けた。
「されど、そなたにまで憎まれねばならぬ謂れはあるまい。そなたのことを案じておった。ずっと」
 千世寿の目がわずかに揺れた。
「父は、最期の床にて申しておりました。『おまえは、忠三郎のようにはなるな』と……。されど、それがしには、何のことやら」
「……」
「父は、確かに怒っておりました。されど、時折、黙して空を見上げておりました。……きっと、本心では殿と、話したかったのでございましょう」
 その声は、微かに震えていた。
「それがしは……殿を恨んでおりません」
「千世寿……」
 忠三郎は目を伏せ、言葉を探すようにして、そっとその肩に手を置いた。
「それで、十分じゃ。……喜三郎にも、聞かせてやりたかった」
 少年は、声もなくうなずいた。
「綿向山に、父と一度だけ登りました」
「ほう、そうであったか」」
「……日野の町が一望できました。父は、そのときだけ、笑っていました」
 それきり、ふたりはしばらく綿向山を仰いだまま、黙って立っていた。
 時の流れに逆らうことはできない。だが、想いは、こうして静かに継がれていくのかもしれない。
「さあ、行こう」
 忠三郎はふと、もう一度そう言った。
 それが誰に向けた言葉であったか、自分でもわからなかった。しかし、心のどこかで、空白が静かに埋まってゆくのを感じていた。

 少年と並んで、もう一度、綿向山を仰ぐ。空は澄み、雲はたなびき、梢には春の芽がほころんでいた。
 そのとき、ふと風がひとすじ吹きぬけ、忠三郎の袖を揺らした。
 千世寿が静かに口をひらいた。
「殿……。この山を、歌に詠まれたことはござりますか?」
 問いに、忠三郎は微かに笑みを浮かべた。
「昔はよう詠んだものじゃ。今は、言の葉も鈍ったが……」
 そう言いながら、視線を山のかなたへと向けた。

「おもひきや……」
 忠三郎は袂から短冊を取り出し、筆をとった。

 「おもひきや 人の行ゑそ定めなき 我ふる鄕を よそにみんとは」

 思いもしなかった――
 人の行く末がこれほど定まらぬものとは。
 かつて命のすべてと思うたこの古里を、こうしてよそ目に眺める日が来ようとは――。
 筆をおさめ、忠三郎はしばし目を閉じた。
 風の匂いが、微かに日野の田の土を運んでくる気がした。
 歌を聞いた千世寿は、じっと口をつぐんでいたが、やがて、小さくうなずき、ぽつりとつぶやいた。
「…さすがは幼き頃より神童と呼ばれたお方…」
 忠三郎は答えず、ただ微笑んだ。
 風がまたひとすじ、ふたりの間をすり抜けていった。
 それは、争いのなかで失われた言葉が、ようやく芽吹いた瞬間だった。
 綿向山は変わらずそこにあり、これからも――春を迎えるたびに、ふたりの胸に浮かぶことだろう。
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