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33.見果てぬ夢
33-7. 灯の奥に咲く山吹
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風がやわらかくなっていた。若葉が萌えいずる山裾から、春の風が都を包む。
水のような陽ざしが街並みに降り注ぎ、柳の枝が揺れていた。
山吹の花が、あちらこちらの垣根越しに、金の粒のようにこぼれている。
その花弁が、春風に吹かれて一つ、また一つ、石畳の上に落ちてゆく。
都――。
春の霞がかすかに棚引き、東山の稜線が淡く浮かぶ。
忠三郎の馬は、静かに京の町並みへと歩を進めていた。
幾度も足を踏み入れたこの町。生まれ育った日野に次いで、最もよく知る場所であるはずだった。
けれど、今日の都はどこか遠く、ひそやかに見知らぬ姿をしていた。
聚楽第の裏門を抜け、なじみの屋敷に入る。庭先の片隅に、小さな池がある。
池のほとりには、あざやかな山吹が咲いていた。
その姿が、水面にも揺れている。
去年もここに立った。
政のざわめきと軍議の声に満ちた日々。
だが今はただ、春の静けさのなかに、己の影を置くのみである。
山吹の花弁が、はらりと風にのって水面に落ちた。
それを目で追いながら、忠三郎はふと、ひとつの句をつぶやいた。
「はるばると思ひし我そけふははや 心のまゝの都いりして」
はるばる、と思っていた。
けれどこうして戻ってみれば、都は変わらず、目の前にある。
山の霞も、柳の青さも、かつての日々と変わらない。
変わったのは己の胸のうちなのだ。
名護屋へ――。
遠く異国を目指して、秀吉は三月一日、都を発つ。
諸大名の屋敷がすでに肥前に並ぶ今、忠三郎もまた、都を通りすぎる旅路のただ中にある。
しかし、異国の土を踏み、海を越えて戦を仕掛けることに、忠三郎の心は深く沈んでいた。
誰が敵で、誰のための戦なのか。
己が槍を振るうその先に、いかなる理があるのか。
理解しようとすればするほど、答えは霞のように遠のいていく。
山吹の花が、またひとひら、風に吹かれて落ちた。
都の春は、こんなにも穏やかだというのに――。
なぜ我らは、その静けさを背に、さらに遠くへと進まねばならぬのか。
庭先の風が、池の水面をゆらし、山吹の影を細く裂いた。
忠三郎は目を伏せ、その揺らぎの中に、己の心のかたちを見ていた。
聚楽第の屋敷に、春の夜が静かに降りていた。格式ある門構えに、複数の玄関、奥庭まで広がる回廊と池。灯りの届かぬ襖の向こうには、夜の静寂が深く澱んでいる。
忠三郎の居間は、庭を挟んで奥にある。囲炉裏の火が赤々と揺れ、忠三郎は庭先に咲く山吹の影を見つめていた。
あの花は、あすには名護屋への旅路に出る自分のことなど知らぬ顔で、また揺れているのだろう。
ふと、障子の向こうに、小姓の控えめな声がした。
「客人がお見えで。義太夫殿にございます」
「……義太夫?」
小首をかしげたとき、障子がするすると開いた。
膝をついた小姓の背後から、やけに大仰な咳払いが響いた。
「やれやれ、この廊下の長さ…相変わらず仰々しい屋敷じゃのう」
声がしたかと思えば、どこかで見たことのある小柄な男が現れる。
地味な縞模様の小袖に、扇をぱたぱたと仰ぎながら、軽々とした足取りで部屋に入ってきた。
「門からここまで三度も角を曲がったわい。案内の小姓がいなければ、わしは、厨房に迷い込んでたかもしれぬ」
忠三郎は吹き出しそうになりながら、立ち上がった。
「相変わらずじゃのう」
義太夫の身体の具合がよくないという噂は耳にしていた。
だからこそ会うのをためらっていたのだが、思いのほか元気そうだ。
「まったく、いまをときめく会津少将殿にお目通り叶うとは思わなんだ。これで心残りなく死ねるわい」
忠三郎は、肩を揺らして笑った。義太夫は滝川家に仕えていたころのままだ。 口にすることは、何一つ本気かどうか分からない。けれど――なぜか、そのどれもが嘘には思えなかった。
二人は囲炉裏の脇に並んで座り、温めていた酒を注ぎ合う。
「して。おぬし、今宵は何用で」
「そりゃ決まっとる。おぬしが名護屋へ向かう前に、ひと目顔を見ておきたくてな。それと…鶴、殿に代わり、少しばかり小言を言うておこうかと」
「小言とは、また唐突な」
義太夫は、酒を一口すすり、しばらく黙した。
「……海を越えて戦をする、というのはの。耳ざわりは立派だが、よう考えてみると、馬鹿げておる」
口調は軽妙だったが、目の奥に年齢の滲みと静かな怒りが垣間見える。
「なにせ、相手の言葉が通じぬ。話せぬ者とは、まずもって心根を探ることもできぬ。交渉? 和平? 荒唐無稽な話よ。お互い何を怒ってるかすら分からぬまま、刀で語り合うしかなかろう。そら、ただの殺し合いじゃ」
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、湯気がふわりと立ちのぼる。
「わしはもう、戦には出られん。鎧も重うなったし、朝起きると膝が言うこと聞かんのじゃ。されど、年寄りは年寄りなりに、何が大事かを見てきたつもりじゃ。鶴、おぬしの心が、あの潮風の中で迷わぬよう……願うばかりじゃ」
そして義太夫は、ぐるりと部屋を見回しながら、ふと笑みを浮かべた。
「それにしても、まあ……立派な屋敷よのう。こうして見ると、おぬしも大人になったのう」
「そう見えるか?」
「見える見える。川で必死に泳いでおった鶴が、今や海を越える大将じゃ。…ときに船酔いは大事ないのか」
「船酔い…」
言われて、ようやく思い出す。伊勢湾から三河湾までの航路。
あの悪夢のような酔いの感覚がよみがえる。
「鶴。我が殿は尾張におったときは長屋暮らし。家人といえば、わしを含めてもわずか数名。その殿がなにゆえに北伊勢を手にしたか、存じておるか?」
「それは…」
謀略によってだ。知らぬ者はいない。一益は天下に名高い謀将なのだから。しかしそれを言葉にするのははばかられる。
忠三郎が言い淀んだのをみて、義太夫が苦笑する。
「謀ごとによって、と思うておるのであろう。それもしかり。されど、殿が常に嘘偽りばかり言っていたとして、それが長々通じると思うか?誰も殿のいうことなど信じなくなろう?」
それは以前から不思議に思っていたことだ。一益が謀将と知っていてもなお、北伊勢の国人たちが一益に従ったのは何故なのだろうか。
「それは殿や織田家を恐れたからだけではない。殿は時として、伊勢の者たちの家を絶やさぬように、まことの心をもって切々と説かれたのじゃ。必要とあらば、直接出向き、面と向かって話をした。それゆえ、みな、殿を信用し、そして滝川家の家人となった。分かるか?人と獣の違いが。人は話すことができる。戦う前、戦っている最中だとしても、話をし、分かり合うことができる生き物なのじゃ」
義太夫の声はまっすぐで、あたたかかった。
忠三郎は盃を持ったまま、言葉を返せずにいた。
名護屋への命は秀吉から直々に下されたもの。迷う余地などない。だが――
「のう、鶴」
不意に、義太夫が穏やかな声で呼びかけた。
その声音には、かつて田畑に寝転んで雲を見上げていた頃の、あの柔らかな調子が戻っていた。
「おぬしが遠くの海を越えていっても、わしはここで、昼は団子を喰い、夜は博打に興じ、明くる日はまた腹をくだして寝ておるじゃろうて」
「……おぬしの暮らしは、まことに変わらぬな」
「おうとも。鶴がいかに名を上げようとも、わしは何も変わらん。むしろ変わらぬよう努めておるのじゃ。……でな、鶴。変わらぬ者がここにいる、と思うと、ちいと気が楽になるであろう?」
月光のせいか、笑った義太夫の顔は、わずかに潤んで見えた。
「罪を犯すもの、百度悪事をなして、長生きすれども…」
「我知る、神を畏みてその前に畏怖をいだく者には幸福あるべし」
「覚えておったか」
「南蛮寺で聞いた話の中でも、不思議と心に響くことばであった」
義太夫が明るく笑う。
盃を交わしながら、二人はしばし昔話に花を咲かせた。
城下の団子屋でつまみ食いした話、川遊びでどちらが魚を多く捕ったかで口論した話、滝川家の蔵で偶然見つけた謎の巻物を「天下の密書」と思い込んで慌てふためいた夜――。
笑いの合間に、ふと沈黙が落ちた。
「……のう、鶴。わしはの、名護屋には行かん。されど、戦が終わったら、おぬしに頼みがある」
「頼みとは?」
「ひとつだけ、土産話を聞かせてくれ」
「土産話?」
「そう。殺し合いの話ではなく、誰かと話をした、誰かを笑わせた……そんな話じゃ」
義太夫の声は低く、やさしく響いた。
「人が話せぬと決めつけるのは易い。されど鶴、おぬしはよう話す男じゃ。無骨な武士には作ることのできない泰平の世を、きっと築くことができよう」
「無骨な武士には作ることのできない泰平の世…」
どこかで聞いたような響きを感じながら、忠三郎は盃を見つめた。
(あれはたしか…)
思い起こそうとしていると、義太夫は、もう一度、盃を干した。
「……夜が更けたの。そろそろ、わしも失礼する」
「泊まってゆけ。部屋はいくらでもある」
「案ずるな。いまや暘谷庵にも布団があるのじゃ」
義太夫は自慢げにそう言うと、ぱたぱたと扇をたたみ、腰を上げ、庭の山吹に目をやったあと、ふと何かを思い出したように振り向いた。
「ひとつ、訊いてもよいか」
「如何した?」
「おぬしが育てておる、我が家の若殿の名…お籍というそうな」
忠三郎のまなざしがわずかに揺れ、静かに頷いた。
「いかにも」
「…何故にその名に?」
しばしの沈黙。庭先に山吹がそよぎ、風が畳をかすめていく。
忠三郎はゆっくりと答えた。
「名を考えたとき、おぬしが何度もその名を口にしていた名が浮かんだのじゃ」
「…」
「都に連れて行くと、そう約束した話を思い起こし…」
義太夫はまぶたを閉じた。
「…あの子は、楠城とともに逝った。わしの耳にも、いつどう果てたかまでは届かなんだ。骨も拾えんかった」
風が止んだ。義太夫の声は、かすれていた。
「どこぞに、生き残ってくれとったら、と思わん日はなかった。ふと道ばたで同じ歳頃の娘を見かけて、あれはお籍に似とる、ちゃうか、と……」
義太夫が少し笑った。その笑みは苦く、どこか安らいでもいた。
「されど、おぬしが、その名を継がせてくれたんなら──それで、ええ。あの名が、もういちど、春の下で呼ばれておるんなら」
忠三郎は黙ってうなずいた。
「娘に背負わせるつもりはなかった。ただ……あの名が、戦で消えてしまうのが、どうしても口惜しかった」
義太夫は、鼻をすすった。
「…おぬしらしいのう」
ふたりは、しばらく言葉を交わさぬまま立っていた。山吹の花が、ひとひら風に舞い、畳の上に落ちた。
「お籍の名が、春に返してもらえた。わしは嬉しく思うておる」
義太夫は気を取り直したかのようにそう言うと、小姓が廊下の向こうで控えているのを見て、手を挙げる。
「さてと、小姓殿。さきほどは厠と間違えて広間に入ってしもうた。今度は門まで、まっすぐ頼みますぞ。そちの道案内いかんでは、わしは鶴殿の馬の厩で目覚めることになるやもしれぬでな」
その背を見送りながら、忠三郎は深く頭を下げた。
──そのとき、一陣の風が吹いた。
庭の片隅、老いた山吹の枝がしなり、黄金色の花が一つ、はらりと落ちた。
風に乗って、地に落ちることもなく、ふわりふわりと舞ってゆく。
義太夫は立ち止まり、その花の行方を見つめた。
「……山吹はのう」
背を向けたまま、ぽつりと呟く。
「春を惜しまず咲くものじゃ。咲いて、風に乗って、また知らぬどこかへ……」
しばしの時、沈黙が続く。
「……あの子も、そうやったんかもしれんな。咲いたこと、誰かが覚えとれば、それでよい」
そう言って義太夫は、そっと笑った。
「山吹、お籍、よう似とるわい……派手ではないが、たしかに春を照らしておった」
忠三郎は、胸の奥でうなずいた。
やがて、義太夫の背が廊下の向こうに消える。
静けさが戻った庭に、ひとひらの山吹の花が残されていた。
その花びらは、お籍という名を宿したまま、春の光のなかで、そっと揺れていた。
水のような陽ざしが街並みに降り注ぎ、柳の枝が揺れていた。
山吹の花が、あちらこちらの垣根越しに、金の粒のようにこぼれている。
その花弁が、春風に吹かれて一つ、また一つ、石畳の上に落ちてゆく。
都――。
春の霞がかすかに棚引き、東山の稜線が淡く浮かぶ。
忠三郎の馬は、静かに京の町並みへと歩を進めていた。
幾度も足を踏み入れたこの町。生まれ育った日野に次いで、最もよく知る場所であるはずだった。
けれど、今日の都はどこか遠く、ひそやかに見知らぬ姿をしていた。
聚楽第の裏門を抜け、なじみの屋敷に入る。庭先の片隅に、小さな池がある。
池のほとりには、あざやかな山吹が咲いていた。
その姿が、水面にも揺れている。
去年もここに立った。
政のざわめきと軍議の声に満ちた日々。
だが今はただ、春の静けさのなかに、己の影を置くのみである。
山吹の花弁が、はらりと風にのって水面に落ちた。
それを目で追いながら、忠三郎はふと、ひとつの句をつぶやいた。
「はるばると思ひし我そけふははや 心のまゝの都いりして」
はるばる、と思っていた。
けれどこうして戻ってみれば、都は変わらず、目の前にある。
山の霞も、柳の青さも、かつての日々と変わらない。
変わったのは己の胸のうちなのだ。
名護屋へ――。
遠く異国を目指して、秀吉は三月一日、都を発つ。
諸大名の屋敷がすでに肥前に並ぶ今、忠三郎もまた、都を通りすぎる旅路のただ中にある。
しかし、異国の土を踏み、海を越えて戦を仕掛けることに、忠三郎の心は深く沈んでいた。
誰が敵で、誰のための戦なのか。
己が槍を振るうその先に、いかなる理があるのか。
理解しようとすればするほど、答えは霞のように遠のいていく。
山吹の花が、またひとひら、風に吹かれて落ちた。
都の春は、こんなにも穏やかだというのに――。
なぜ我らは、その静けさを背に、さらに遠くへと進まねばならぬのか。
庭先の風が、池の水面をゆらし、山吹の影を細く裂いた。
忠三郎は目を伏せ、その揺らぎの中に、己の心のかたちを見ていた。
聚楽第の屋敷に、春の夜が静かに降りていた。格式ある門構えに、複数の玄関、奥庭まで広がる回廊と池。灯りの届かぬ襖の向こうには、夜の静寂が深く澱んでいる。
忠三郎の居間は、庭を挟んで奥にある。囲炉裏の火が赤々と揺れ、忠三郎は庭先に咲く山吹の影を見つめていた。
あの花は、あすには名護屋への旅路に出る自分のことなど知らぬ顔で、また揺れているのだろう。
ふと、障子の向こうに、小姓の控えめな声がした。
「客人がお見えで。義太夫殿にございます」
「……義太夫?」
小首をかしげたとき、障子がするすると開いた。
膝をついた小姓の背後から、やけに大仰な咳払いが響いた。
「やれやれ、この廊下の長さ…相変わらず仰々しい屋敷じゃのう」
声がしたかと思えば、どこかで見たことのある小柄な男が現れる。
地味な縞模様の小袖に、扇をぱたぱたと仰ぎながら、軽々とした足取りで部屋に入ってきた。
「門からここまで三度も角を曲がったわい。案内の小姓がいなければ、わしは、厨房に迷い込んでたかもしれぬ」
忠三郎は吹き出しそうになりながら、立ち上がった。
「相変わらずじゃのう」
義太夫の身体の具合がよくないという噂は耳にしていた。
だからこそ会うのをためらっていたのだが、思いのほか元気そうだ。
「まったく、いまをときめく会津少将殿にお目通り叶うとは思わなんだ。これで心残りなく死ねるわい」
忠三郎は、肩を揺らして笑った。義太夫は滝川家に仕えていたころのままだ。 口にすることは、何一つ本気かどうか分からない。けれど――なぜか、そのどれもが嘘には思えなかった。
二人は囲炉裏の脇に並んで座り、温めていた酒を注ぎ合う。
「して。おぬし、今宵は何用で」
「そりゃ決まっとる。おぬしが名護屋へ向かう前に、ひと目顔を見ておきたくてな。それと…鶴、殿に代わり、少しばかり小言を言うておこうかと」
「小言とは、また唐突な」
義太夫は、酒を一口すすり、しばらく黙した。
「……海を越えて戦をする、というのはの。耳ざわりは立派だが、よう考えてみると、馬鹿げておる」
口調は軽妙だったが、目の奥に年齢の滲みと静かな怒りが垣間見える。
「なにせ、相手の言葉が通じぬ。話せぬ者とは、まずもって心根を探ることもできぬ。交渉? 和平? 荒唐無稽な話よ。お互い何を怒ってるかすら分からぬまま、刀で語り合うしかなかろう。そら、ただの殺し合いじゃ」
囲炉裏の火がぱちぱちと鳴り、湯気がふわりと立ちのぼる。
「わしはもう、戦には出られん。鎧も重うなったし、朝起きると膝が言うこと聞かんのじゃ。されど、年寄りは年寄りなりに、何が大事かを見てきたつもりじゃ。鶴、おぬしの心が、あの潮風の中で迷わぬよう……願うばかりじゃ」
そして義太夫は、ぐるりと部屋を見回しながら、ふと笑みを浮かべた。
「それにしても、まあ……立派な屋敷よのう。こうして見ると、おぬしも大人になったのう」
「そう見えるか?」
「見える見える。川で必死に泳いでおった鶴が、今や海を越える大将じゃ。…ときに船酔いは大事ないのか」
「船酔い…」
言われて、ようやく思い出す。伊勢湾から三河湾までの航路。
あの悪夢のような酔いの感覚がよみがえる。
「鶴。我が殿は尾張におったときは長屋暮らし。家人といえば、わしを含めてもわずか数名。その殿がなにゆえに北伊勢を手にしたか、存じておるか?」
「それは…」
謀略によってだ。知らぬ者はいない。一益は天下に名高い謀将なのだから。しかしそれを言葉にするのははばかられる。
忠三郎が言い淀んだのをみて、義太夫が苦笑する。
「謀ごとによって、と思うておるのであろう。それもしかり。されど、殿が常に嘘偽りばかり言っていたとして、それが長々通じると思うか?誰も殿のいうことなど信じなくなろう?」
それは以前から不思議に思っていたことだ。一益が謀将と知っていてもなお、北伊勢の国人たちが一益に従ったのは何故なのだろうか。
「それは殿や織田家を恐れたからだけではない。殿は時として、伊勢の者たちの家を絶やさぬように、まことの心をもって切々と説かれたのじゃ。必要とあらば、直接出向き、面と向かって話をした。それゆえ、みな、殿を信用し、そして滝川家の家人となった。分かるか?人と獣の違いが。人は話すことができる。戦う前、戦っている最中だとしても、話をし、分かり合うことができる生き物なのじゃ」
義太夫の声はまっすぐで、あたたかかった。
忠三郎は盃を持ったまま、言葉を返せずにいた。
名護屋への命は秀吉から直々に下されたもの。迷う余地などない。だが――
「のう、鶴」
不意に、義太夫が穏やかな声で呼びかけた。
その声音には、かつて田畑に寝転んで雲を見上げていた頃の、あの柔らかな調子が戻っていた。
「おぬしが遠くの海を越えていっても、わしはここで、昼は団子を喰い、夜は博打に興じ、明くる日はまた腹をくだして寝ておるじゃろうて」
「……おぬしの暮らしは、まことに変わらぬな」
「おうとも。鶴がいかに名を上げようとも、わしは何も変わらん。むしろ変わらぬよう努めておるのじゃ。……でな、鶴。変わらぬ者がここにいる、と思うと、ちいと気が楽になるであろう?」
月光のせいか、笑った義太夫の顔は、わずかに潤んで見えた。
「罪を犯すもの、百度悪事をなして、長生きすれども…」
「我知る、神を畏みてその前に畏怖をいだく者には幸福あるべし」
「覚えておったか」
「南蛮寺で聞いた話の中でも、不思議と心に響くことばであった」
義太夫が明るく笑う。
盃を交わしながら、二人はしばし昔話に花を咲かせた。
城下の団子屋でつまみ食いした話、川遊びでどちらが魚を多く捕ったかで口論した話、滝川家の蔵で偶然見つけた謎の巻物を「天下の密書」と思い込んで慌てふためいた夜――。
笑いの合間に、ふと沈黙が落ちた。
「……のう、鶴。わしはの、名護屋には行かん。されど、戦が終わったら、おぬしに頼みがある」
「頼みとは?」
「ひとつだけ、土産話を聞かせてくれ」
「土産話?」
「そう。殺し合いの話ではなく、誰かと話をした、誰かを笑わせた……そんな話じゃ」
義太夫の声は低く、やさしく響いた。
「人が話せぬと決めつけるのは易い。されど鶴、おぬしはよう話す男じゃ。無骨な武士には作ることのできない泰平の世を、きっと築くことができよう」
「無骨な武士には作ることのできない泰平の世…」
どこかで聞いたような響きを感じながら、忠三郎は盃を見つめた。
(あれはたしか…)
思い起こそうとしていると、義太夫は、もう一度、盃を干した。
「……夜が更けたの。そろそろ、わしも失礼する」
「泊まってゆけ。部屋はいくらでもある」
「案ずるな。いまや暘谷庵にも布団があるのじゃ」
義太夫は自慢げにそう言うと、ぱたぱたと扇をたたみ、腰を上げ、庭の山吹に目をやったあと、ふと何かを思い出したように振り向いた。
「ひとつ、訊いてもよいか」
「如何した?」
「おぬしが育てておる、我が家の若殿の名…お籍というそうな」
忠三郎のまなざしがわずかに揺れ、静かに頷いた。
「いかにも」
「…何故にその名に?」
しばしの沈黙。庭先に山吹がそよぎ、風が畳をかすめていく。
忠三郎はゆっくりと答えた。
「名を考えたとき、おぬしが何度もその名を口にしていた名が浮かんだのじゃ」
「…」
「都に連れて行くと、そう約束した話を思い起こし…」
義太夫はまぶたを閉じた。
「…あの子は、楠城とともに逝った。わしの耳にも、いつどう果てたかまでは届かなんだ。骨も拾えんかった」
風が止んだ。義太夫の声は、かすれていた。
「どこぞに、生き残ってくれとったら、と思わん日はなかった。ふと道ばたで同じ歳頃の娘を見かけて、あれはお籍に似とる、ちゃうか、と……」
義太夫が少し笑った。その笑みは苦く、どこか安らいでもいた。
「されど、おぬしが、その名を継がせてくれたんなら──それで、ええ。あの名が、もういちど、春の下で呼ばれておるんなら」
忠三郎は黙ってうなずいた。
「娘に背負わせるつもりはなかった。ただ……あの名が、戦で消えてしまうのが、どうしても口惜しかった」
義太夫は、鼻をすすった。
「…おぬしらしいのう」
ふたりは、しばらく言葉を交わさぬまま立っていた。山吹の花が、ひとひら風に舞い、畳の上に落ちた。
「お籍の名が、春に返してもらえた。わしは嬉しく思うておる」
義太夫は気を取り直したかのようにそう言うと、小姓が廊下の向こうで控えているのを見て、手を挙げる。
「さてと、小姓殿。さきほどは厠と間違えて広間に入ってしもうた。今度は門まで、まっすぐ頼みますぞ。そちの道案内いかんでは、わしは鶴殿の馬の厩で目覚めることになるやもしれぬでな」
その背を見送りながら、忠三郎は深く頭を下げた。
──そのとき、一陣の風が吹いた。
庭の片隅、老いた山吹の枝がしなり、黄金色の花が一つ、はらりと落ちた。
風に乗って、地に落ちることもなく、ふわりふわりと舞ってゆく。
義太夫は立ち止まり、その花の行方を見つめた。
「……山吹はのう」
背を向けたまま、ぽつりと呟く。
「春を惜しまず咲くものじゃ。咲いて、風に乗って、また知らぬどこかへ……」
しばしの時、沈黙が続く。
「……あの子も、そうやったんかもしれんな。咲いたこと、誰かが覚えとれば、それでよい」
そう言って義太夫は、そっと笑った。
「山吹、お籍、よう似とるわい……派手ではないが、たしかに春を照らしておった」
忠三郎は、胸の奥でうなずいた。
やがて、義太夫の背が廊下の向こうに消える。
静けさが戻った庭に、ひとひらの山吹の花が残されていた。
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藪から犬
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織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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