獅子の末裔

卯花月影

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34.大明征伐

34-1. 千年の風、ふたたび

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 胡蝶こちょう 双双そうそう 菜花さいか
 日長くして かく田家でんかに 到れる無し
 にわとり飛んで まがきを過ぎ 犬穴いぬあなに吠ゆ
 知んぬ 行商の来たりて 茶を買う有るを

         晩春田園雑興 范成大はん せいだい

 つがいの蝶がひらひらと菜の花畑の中を飛びまわっている。晩春の、日が長くなったころのこと。こんな田舎の家には、ふだん客が訪ねてくることはほとんどない。
 ところが突然、鶏がばたばたと飛び立って垣根を越え、犬が穴の中から吠えはじめた。茶を買う行商人がやって来たようだ。
 
「それは南宋の范成大はん せいだいの詩ではないか。佐助が漢文とは珍しいこともあるものじゃ。誰に教わった?」
 鶴千代が感心して問うと、
「さすがは若。よう存じておいでで。先ごろ甲賀へ戻った折にございます。日野とは、かような地ではあるまいか、と。我が師が、ふとその詩を口にされたのでございます」
 佐助はどこか気恥ずかしげに笑みを浮かべた。
「なんとも言い得て妙ではないか。佐助の目には、我が領国がそのように映っておったか」
 范成大《はん せいだい》――かつては宰相にも上りつめた男が、都を離れ、好んで鄙《ひな 》の暮らしに身を置いたという。その心に浮かぶままを綴った一篇。何ひとつ取り立てることのない、季節の移ろいと土のにおい、村のたたずまい。
 范成大《はん せいだい》は、ただそれだけを淡々と綴りながら、
――ほんとうの幸福は、こうしたささやかな日々のうちにこそ宿るのだ――
と、静かに語りかけているようでもあった。

 鶴千代はふと遠くを眺め、春霞の向こうに揺れる山の稜線を見つめながら、かつての佐助のまなざしに、そっと思いを重ねた。

 されど……。
――その声は、やがて風に溶けるように消えていった。
 夢の中だった。
 光と影の合間に揺れるその光景は、いつしか輪郭を失い、淡く溶け、目の前からゆるやかに遠のいていく。
 忠三郎は、ひとり夢の底に沈むようにして、そこに立ち尽くしていた。
 佐助が折にふれて語る「師」――あれはいったい誰のことだったのか。

 もしや……義兄・一益ではなかったのか。
 佐助は、確かに知っていた。月が最も冴え冴えと照る夜に、信楽院に現れる人物のことを。
 それを思えば、すべてが、あまりにできすぎた話ではなかったか。
 あの長良川で、義太夫が、時を計ったように声をかけてきたのは、果たして偶然だったのか。
 そして、一益が、迷いもなく二つ返事で義兄弟の契りを結び、忠三郎に忠三郎にものを教えてくれたことも――。
(……佐助。おぬしではないのか)
 声にはならぬ問いが、夢の中で波紋のように広がってゆく。
(おぬしが、義兄上に――)
(この忠三郎の身を、案じてくれていたのではないか)
 光のない空に、白く山吹が揺れる。誰もいない野に、名を呼ぶ声だけが、やわらかく消えていった。
 
 忠三郎は、はたと目を覚ました。

 まだ夢の底にいるような心地で、まばたきの間に揺れる光と影の中、ぼんやりと天井を仰ぐ。
――ここは……。
 夢の続きを見ているのかと、しばし現と幻の境に漂いながら、ゆっくりと身を起こす。
 次第に、潮のにおいと風のざわめきが、現実へと引き戻していく。
 そう――ここは、肥前・名護屋。かつて日ノ本の西果てと呼ばれた地に、自らの手で建てた屋敷であった。
 昨日、長きにわたる旅路の果てに、軍勢を率いて九州へと戻ったばかり。
 そして今、征服の大義のもとに諸将が集い、大明征伐を前に、かの名護屋の地に忠三郎もまた、その歩を進めたのであった。

 だが胸の奥には、なお醒めやらぬ夢の面影――
 山吹の花の色と、過ぎ去りし者たちの声だけが、ひっそりと残っている。

(懐かしい夢を見た)
 胸の奥にほのあたたかく残る面影――それは、都を発つ折に、ふと顔を見せてくれた義太夫のせいであろうか。
 あのときの義太夫は、相も変わらず気取らず飄々とした風情であったが、近頃はどうやら茶の湯に目覚めたらしく、堺の町に通い、商人たちの茶席に招かれては浮き立つように出かけてゆくという。
(茶菓子目当てであろうな)
 忠三郎は、夢の余韻に包まれながら、唇の端をやわらかくほころばせた。

 日ノ本の国が最後に、海を越えて兵を送ったのは――千年も昔、大和朝廷の時代にまで遡る。

 唐・新羅連合軍と、大和朝廷・百済連合軍が激突した「白村江の戦」。その結末は唐・新羅の勝利に終わり、滅びた百済の王族や民は、命からがら日ノ本へと渡ってきた。
 大和朝廷は彼らのために地を与えた。江南の蒲生野――その名残は、いまも忠三郎の領していた江南の地に、かすかに息づいている。

 思えば、今回の「唐入り」もまた、あの敗戦から千年を経た、いわば雪辱戦ともいえるのかもしれない。
 しかし、あの戦が滅びゆく同盟国・百済を助けるための戦いであったのに対し、今回は違う。
 大明を征服し、朝鮮を踏み越えて進軍しようという、秀吉の野望そのもの。
 そこに「正義」の旗印などはない。あるのは、ただ威信と征服の欲望だけ。
(されど…おかしな話もあるものだ)
 そう感じたのは、出立の前、義太夫と交わした会話がきっかけだった。

「なにせ、相手の言葉が通じぬ。話せぬ者とは、まずもって心根を探ることもできぬ。交渉? 和平? 荒唐無稽な話よ。お互い何を怒ってるかすら分からぬまま、刀で語り合うしかなかろう。そら、ただの殺し合いじゃ」
 さながら未来を見通しているかのような言葉だった。
 義太夫はただの茶人でも、風狂でもない。甲賀の素破――影を歩む者。
 直接、朝鮮の地に赴くことはなくとも、甲賀の者たちは、南蛮船に紛れて対馬を越え、明や朝鮮に潜んでいるとも聞く。
(義太夫は何かを知っている。いや、知っていて、なお黙していたのではないか)
 秀吉の命を受けて、九州の果て、名護屋にまで築かれた壮麗な陣屋。その背後には、数十万の兵が動員されている。
 しかし、そのすべては、薄氷の上に立つ策にすぎぬのではないか。

 宗義智が治める対馬には、朝鮮から毎年一万俵の年貢米が送られているという触れ込みであった。
――つまり、朝鮮はすでに宗氏の「属国」である。
 そうであれば、大明へと進軍するための通路は開かれているはずだった。

 だが現実は違った。秀吉が日ノ本統一の祝賀を求めた使者に、朝鮮はまともな返答をよこさぬばかりか、対馬との関係すら曖昧にしている。

(もしや…あれは、虚構ではなかったのか)
 宗氏の「属国」など、ただの幻想。作られた情報を信じ、秀吉の軍勢は空理空論の上に歩を進めているのではないか。
(義太夫の言葉には、裏がある)
 そして、その裏には、あの男――ロレンソがいるかもしれない。
 義太夫とは旧知の間柄であり、今や天草から肥前に渡り、宣教師たちを率いて名護屋に姿を現したロレンソ。
(明日には、右近殿とともにロレンソ殿と会うことになっている)
――義太夫があれほどはっきりと「荒唐無稽」と言い切った戦。
それが、ただの猜疑ではないならば。

 今、忠三郎の心に忍び寄るのは、果てしない不安と、過去と未来の裂け目に揺らぐような「声なき予兆」。
 千年前の亡霊が、大陸の風にまぎれて、再び呼び覚まされていくような――。
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