214 / 214
36.心短き春の山風
36-6. 風のうた 火のひかり
しおりを挟む
空は抜けるように青く、初夏の陽が街道にきらめいていた。
風はやわらかく、若葉の匂いをはらんで野を渡り、旅人の衣をそっと揺らしていく。
義太夫は道中の埃を払いながら、草鞋を軽く蹴り、のんびりと歩いていた。
その傍らには、素破の滝川助太郎と助九郎。いつものように荷を背負い、ぶつぶつと小言をこぼしている。
「……で、佐助殿はいずこへ?」
助九郎の問いに、義太夫は咳払いひとつ、鼻の下をこすりながら答えた。
「日野じゃ。先祖代々の墓のある信楽院へ、遺髪を届けに行くそうな」
「もう一つは……?」
「会津じゃ。鶴が夢見た町。あやつが思い描いた町づくりの志を、今も継ぐ者たちがおる」
助太郎はしばし黙し、そしてぽつりと呟いた。
「……それにしても、義太夫殿。なぜ、あれほどロレンソ殿や忠三郎さまに寄り添っていながら、キリシタンにはならなかったので?」
義太夫はふいに道端に腰を下ろし、どこかとぼけた顔で空を仰いだ。
「わしが? キリシタンじゃよ」
「……えっ?」
兄弟はそろって目を丸くする。
「されど義太夫殿は…南蛮寺にも行かぬし、十字も切らぬし、祈る姿も――」
「そんなもん、格好の話じゃ。若殿(三九郎)が洗礼を受けたのちに受けたわい。名前? ああ、なんであったかのう。よう覚えておらぬ」
「なんたる戯けた……」と助九郎が口を尖らせ、
「やはりうつけにつける薬なし」と助太郎があきれた顔でぼやいた。
義太夫は腹をかかえて大笑いし、草鞋の紐をきゅっと締め直す。
「わしは三国一のはぐれキリシタンじゃ。唱えず、寄進もせず、されど心には神さまを住まわせておる。そういうのが、一番始末に負えんらしいわい」
「まことに…」
「兄者、もう言うだけ無駄じゃ」
呆れ顔のふたりの背に続きながら、義太夫の足どりはどこか晴れやかだった。
この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れず、それでいて心の奥に一本のぶれぬ芯を持つ――
それが滝川義太夫。
「して、次の宿場では何を食う? 鰯の干物は名物じゃぞ。それからあんころ餅、それと――」
「我らはしみじみしておるのに……」
「兄者、もう言っても無駄じゃ」
と助九郎が肩をすくめる。
だが、そんなふたりの背に続く義太夫の足どりは、どこか晴れやかだった。
この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れずに、それでも心の奥に一本の軸を持って歩いてゆく――
まさに義太夫、その人であった。
やがて、長崎の海にかすむように、南蛮寺の白い塔が姿を現した。潮風が吹く。旅路の終わりは、また新たな旅の始まりでもある。
ふと義太夫は足を止め、空を見上げた。
――「我はぶどうの木、なんじらはその枝なり。人もし我にあり、我またその人にあれば、この人は多くの実を結ぶべし」
その声は風にまぎれ、街道の先、海のかなたへ――
静かに、やさしく、消えていった。
******
時は流れ、文禄の世は遠ざかり、豊臣家が滅んだ後、戦乱の記憶も人々の口から語られなくなった頃――
東国の山深き会津からは、幾つもの美しき工芸の品が、京、大坂、果ては長崎まで旅をするようになった。
蒔絵の箱、漆の椀、織りの細やかな反物――
それら一つひとつに、忠三郎が夢見た「新しき町」の息吹が宿っていた。
人が人を敬い、技が技として磨かれ、暮らしが祈りのように静かに続いてゆく町。
かつてあの城で語られた、戦なき国のかたちが、いま、小さな手のひらの中に結ばれていた。
そして――
禁教の世が訪れても、信仰の火は決して絶えなかった。
十字を切ることも、祈りの声を上げることもかなわぬ中で、それでもひとり、またひとりと、静かにキリストの名を胸に刻む者たちがいた。
名を残さず、顔も知られず、ただ黙して日々の労を重ねる人々。
町を守り、子を育て、灯を絶やさぬ者たち。
その祈りは、風のように、この国の奥深くへと広がっていった。
やがて、季節はめぐる。
誰も知らぬところで、名もなき光が、そっと灯っている――
そのすべてが、ある一つの祈りから始まったのだと、誰が知ろうか。
風はやわらかく、若葉の匂いをはらんで野を渡り、旅人の衣をそっと揺らしていく。
義太夫は道中の埃を払いながら、草鞋を軽く蹴り、のんびりと歩いていた。
その傍らには、素破の滝川助太郎と助九郎。いつものように荷を背負い、ぶつぶつと小言をこぼしている。
「……で、佐助殿はいずこへ?」
助九郎の問いに、義太夫は咳払いひとつ、鼻の下をこすりながら答えた。
「日野じゃ。先祖代々の墓のある信楽院へ、遺髪を届けに行くそうな」
「もう一つは……?」
「会津じゃ。鶴が夢見た町。あやつが思い描いた町づくりの志を、今も継ぐ者たちがおる」
助太郎はしばし黙し、そしてぽつりと呟いた。
「……それにしても、義太夫殿。なぜ、あれほどロレンソ殿や忠三郎さまに寄り添っていながら、キリシタンにはならなかったので?」
義太夫はふいに道端に腰を下ろし、どこかとぼけた顔で空を仰いだ。
「わしが? キリシタンじゃよ」
「……えっ?」
兄弟はそろって目を丸くする。
「されど義太夫殿は…南蛮寺にも行かぬし、十字も切らぬし、祈る姿も――」
「そんなもん、格好の話じゃ。若殿(三九郎)が洗礼を受けたのちに受けたわい。名前? ああ、なんであったかのう。よう覚えておらぬ」
「なんたる戯けた……」と助九郎が口を尖らせ、
「やはりうつけにつける薬なし」と助太郎があきれた顔でぼやいた。
義太夫は腹をかかえて大笑いし、草鞋の紐をきゅっと締め直す。
「わしは三国一のはぐれキリシタンじゃ。唱えず、寄進もせず、されど心には神さまを住まわせておる。そういうのが、一番始末に負えんらしいわい」
「まことに…」
「兄者、もう言うだけ無駄じゃ」
呆れ顔のふたりの背に続きながら、義太夫の足どりはどこか晴れやかだった。
この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れず、それでいて心の奥に一本のぶれぬ芯を持つ――
それが滝川義太夫。
「して、次の宿場では何を食う? 鰯の干物は名物じゃぞ。それからあんころ餅、それと――」
「我らはしみじみしておるのに……」
「兄者、もう言っても無駄じゃ」
と助九郎が肩をすくめる。
だが、そんなふたりの背に続く義太夫の足どりは、どこか晴れやかだった。
この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れずに、それでも心の奥に一本の軸を持って歩いてゆく――
まさに義太夫、その人であった。
やがて、長崎の海にかすむように、南蛮寺の白い塔が姿を現した。潮風が吹く。旅路の終わりは、また新たな旅の始まりでもある。
ふと義太夫は足を止め、空を見上げた。
――「我はぶどうの木、なんじらはその枝なり。人もし我にあり、我またその人にあれば、この人は多くの実を結ぶべし」
その声は風にまぎれ、街道の先、海のかなたへ――
静かに、やさしく、消えていった。
******
時は流れ、文禄の世は遠ざかり、豊臣家が滅んだ後、戦乱の記憶も人々の口から語られなくなった頃――
東国の山深き会津からは、幾つもの美しき工芸の品が、京、大坂、果ては長崎まで旅をするようになった。
蒔絵の箱、漆の椀、織りの細やかな反物――
それら一つひとつに、忠三郎が夢見た「新しき町」の息吹が宿っていた。
人が人を敬い、技が技として磨かれ、暮らしが祈りのように静かに続いてゆく町。
かつてあの城で語られた、戦なき国のかたちが、いま、小さな手のひらの中に結ばれていた。
そして――
禁教の世が訪れても、信仰の火は決して絶えなかった。
十字を切ることも、祈りの声を上げることもかなわぬ中で、それでもひとり、またひとりと、静かにキリストの名を胸に刻む者たちがいた。
名を残さず、顔も知られず、ただ黙して日々の労を重ねる人々。
町を守り、子を育て、灯を絶やさぬ者たち。
その祈りは、風のように、この国の奥深くへと広がっていった。
やがて、季節はめぐる。
誰も知らぬところで、名もなき光が、そっと灯っている――
そのすべてが、ある一つの祈りから始まったのだと、誰が知ろうか。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる