獅子の末裔

卯花月影

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36.心短き春の山風

36-6. 風のうた 火のひかり

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 空は抜けるように青く、初夏の陽が街道にきらめいていた。
 風はやわらかく、若葉の匂いをはらんで野を渡り、旅人の衣をそっと揺らしていく。
 義太夫は道中の埃を払いながら、草鞋を軽く蹴り、のんびりと歩いていた。
 その傍らには、素破の滝川助太郎と助九郎。いつものように荷を背負い、ぶつぶつと小言をこぼしている。
「……で、佐助殿はいずこへ?」
 助九郎の問いに、義太夫は咳払いひとつ、鼻の下をこすりながら答えた。
「日野じゃ。先祖代々の墓のある信楽院へ、遺髪を届けに行くそうな」
「もう一つは……?」
「会津じゃ。鶴が夢見た町。あやつが思い描いた町づくりの志を、今も継ぐ者たちがおる」
 助太郎はしばし黙し、そしてぽつりと呟いた。
「……それにしても、義太夫殿。なぜ、あれほどロレンソ殿や忠三郎さまに寄り添っていながら、キリシタンにはならなかったので?」
 義太夫はふいに道端に腰を下ろし、どこかとぼけた顔で空を仰いだ。
「わしが? キリシタンじゃよ」
「……えっ?」
 兄弟はそろって目を丸くする。
「されど義太夫殿は…南蛮寺にも行かぬし、十字も切らぬし、祈る姿も――」
「そんなもん、格好の話じゃ。若殿(三九郎)が洗礼を受けたのちに受けたわい。名前? ああ、なんであったかのう。よう覚えておらぬ」
「なんたる戯けた……」と助九郎が口を尖らせ、
「やはりうつけにつける薬なし」と助太郎があきれた顔でぼやいた。
 義太夫は腹をかかえて大笑いし、草鞋の紐をきゅっと締め直す。
「わしは三国一のはぐれキリシタンじゃ。唱えず、寄進もせず、されど心には神さまを住まわせておる。そういうのが、一番始末に負えんらしいわい」
「まことに…」
「兄者、もう言うだけ無駄じゃ」
 呆れ顔のふたりの背に続きながら、義太夫の足どりはどこか晴れやかだった。
 この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れず、それでいて心の奥に一本のぶれぬ芯を持つ――
 それが滝川義太夫。
「して、次の宿場では何を食う? 鰯の干物は名物じゃぞ。それからあんころ餅、それと――」
「我らはしみじみしておるのに……」
「兄者、もう言っても無駄じゃ」
 と助九郎が肩をすくめる。
 だが、そんなふたりの背に続く義太夫の足どりは、どこか晴れやかだった。
 この世に仇も恨みも残さず、笑いを忘れずに、それでも心の奥に一本の軸を持って歩いてゆく――
 まさに義太夫、その人であった。
 やがて、長崎の海にかすむように、南蛮寺の白い塔が姿を現した。潮風が吹く。旅路の終わりは、また新たな旅の始まりでもある。
 ふと義太夫は足を止め、空を見上げた。
 ――「我はぶどうの木、なんじらはその枝なり。人もし我にあり、我またその人にあれば、この人は多くの実を結ぶべし」
 その声は風にまぎれ、街道の先、海のかなたへ――
 静かに、やさしく、消えていった。
******
 時は流れ、文禄の世は遠ざかり、豊臣家が滅んだ後、戦乱の記憶も人々の口から語られなくなった頃――
 東国の山深き会津からは、幾つもの美しき工芸の品が、京、大坂、果ては長崎まで旅をするようになった。
 蒔絵の箱、漆の椀、織りの細やかな反物――
 それら一つひとつに、忠三郎が夢見た「新しき町」の息吹が宿っていた。
 人が人を敬い、技が技として磨かれ、暮らしが祈りのように静かに続いてゆく町。
 かつてあの城で語られた、戦なき国のかたちが、いま、小さな手のひらの中に結ばれていた。

 そして――
 禁教の世が訪れても、信仰の火は決して絶えなかった。
 十字を切ることも、祈りの声を上げることもかなわぬ中で、それでもひとり、またひとりと、静かにキリストの名を胸に刻む者たちがいた。
 名を残さず、顔も知られず、ただ黙して日々の労を重ねる人々。
 町を守り、子を育て、灯を絶やさぬ者たち。
 その祈りは、風のように、この国の奥深くへと広がっていった。
 やがて、季節はめぐる。
 誰も知らぬところで、名もなき光が、そっと灯っている――
 そのすべてが、ある一つの祈りから始まったのだと、誰が知ろうか。
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