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36.心短き春の山風
36-5. 獅子の眠るところ
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秋の岐阜。稲葉山の梢を渡る風は、やわらかさを残しつつも、冬の気配を孕んでいた。
鶴千代はその日、書院の縁側に腰を下ろし、母の遺した和歌の冊子をひらいていた。
信長より命じられた使者の役目に備え、文の筆をとる前に、いま一度言葉を整えようとしていたのだった。
ふと、遠くにふくろうの声がした。
その声に、鶴千代は小さく目を閉じた。
(……佐助)
名を口にすることはない。それは、過去に閉ざされた幻のような存在。
まだ日野にいたとき、「佐助は、祖父に斬られて死んだ」と、そう伝えられたきりだった。
けれど、あの山でともに歩いた日々も、囲碁を打った夜も、和歌を口ずさみながら草の上に寝転んだ、夢のようなひとときも――
鶴千代の心から消えたことは一度もなかった。
(あの夜、ふくろうの声がした。あくる日、佐助は…)
あれは夢だったのか。
それとも、自分が知らぬだけで、もっと深い事情があったのか――
わからない。もう確かめる術もない。けれど、なぜか心のどこかで、佐助はまだどこかで自分を見ている――
そんな気がしてならなかった。
そして、事実――佐助はいた。
鶴千代の見ぬ場所、気配も残さぬ影として、城の裏手の木立から静かにその姿を見つめていた。
かつて、命を奪うべく遣わされた少年を、いまは己の命に代えてでも守りたいと願いながら。
その胸に、忘れようとしても消えぬ記憶があった。
――あの冬の日、自らの手で斬った一振りの刃が奪った命。
それが鶴千代の母であったこと。
その贖いに生きることこそが、自分に与えられた罰であり、生であった。
「佐助、そこにおったか」
声がして、木立の陰から現れたのは、義太夫だった。
手に小さな包みを提げ、いつものように陽気な顔をしている。
「ふむ、いたな。ほれ。岐阜城下でつくった柿餅とか申しての。……食わぬのなら、わしが食うが」
佐助は笑わぬまま、静かに首を振った。
「わしは、まだ……その資格がござりませぬゆえ」
義太夫が眉をひそめる。
「……あのことを、まだ」
「はい。あれは忘れてはならぬことでございます」
「されど、鶴には、おぬしが生きているとすら伝わっておらぬ」
「それでよいのです。それがしは、あの方の陰。……陽のもとには、出てはならぬ者ゆえ」
風が、柿の葉を一枚、はらりと落とした。
義太夫はふうとため息をつき、包みの餅をひとつ口に放り込むと、大げさに言った。
「まったく、陰だの贖罪だの……いっぺん、鶴に会って、どつかれて来い。きっとそれで晴れるぞ」
佐助は微笑んだ。それでも、頭を横に振る。
「それがしは……あの方が強く、真っすぐに育たれるのを、こうして見守っているだけで、幸せにございます」
その言葉を背に、義太夫は城下へ戻っていった。
ふと振り返ると、佐助の姿はもう、木の影に消えていた。
秋の岐阜城。
稲葉山の木々の間をすり抜ける風は、どこか遠い昔を思わせるような、静かな調べを奏でていた。
佐助が語り終えたのは、夜半を過ぎたころだった。雨も風もなく、ただ静けさだけが、薄く冷えた空気のなかに満ちていた。
忠三郎は、枕に頭を預けたまま、しばし目を閉じていた。やがて、まぶたの奥でゆっくりと記憶がほどけていく。
――叔父・後藤賢豊が討たれたその日、母・お桐が姿を消し、ひとり音羽城を訪ねた、あの晩。闇のなか、背後から迫った刃。
そして、自分を庇うように身を投げ出した、母の姿。
「……あの時の、刺客は……」
忠三郎の声はかすれていた。目を開き、静かに佐助を見つめる。
「まさか……そなたであったのか……」
佐助は膝に置いた拳を、かすかに震わせていた。何も言わず、ただ俯き、長い間、答えを飲み込んでいた。
やがて、その肩が、ふるふると揺れた。小さく、震える声がようやく漏れる。
「……はい。あの夜、音羽城で……拙者が……」
「……」
「殿を討てという密命を受け、音羽へ参りました。闇にまぎれ、襲いかかろうとしたとき、お母上が…鶴様を庇われたのでござります」
佐助の声が震える。
「とっさに止めることができなかった……それが拙者の……一生の……」
そこから先は、言葉にならなかった。
胸の奥が、ひたひたと締めつけられ、忠三郎の目が、ゆっくりと閉じられる。
――そうだったのか。
あの夜の、すべての謎がいま、ひとつに繋がる。
ずっと信じていた。
母を斬ったのは祖父・快幹――蒲生定秀だと。母は、野望に囚われた祖父の、冷酷な計略の犠牲となったのだと。
だが、真実はもっと近くにあった。
もっと……深く、痛ましいほどに人の心に絡みついていた。
「…なぜ……」
忠三郎が、しぼり出すように問う。
「なぜ、来てくれなかった…。なぜ、わたしを独りにした…佐助……」
その一言に、佐助の顔が苦悶に歪んだ。
噛みしめた唇が、わななき、ついには崩れ落ちるように地に伏した。
「……母上を恋しく思われる若を見ていて、そしらぬ顔をしていることが、できなくなりました……」
佐助の声は、ひどく小さく、深い後悔と慟哭に濡れていた。
しばらくの沈黙が、ふたりを包んだ。
雪の積もる朝のような静けさ――。
その中で、忠三郎はかすかに手を伸ばした。わずかに震えるその指先が、佐助の影に触れようとする。
「……それでも、おぬしは……」
声は、もう風のように細くなっていた。
「……ずっと……傍にいてくれたのか」
佐助の瞳が、涙ににじんだ。そして深く、深く、頭を垂れた。
忠三郎は、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
それは、幼き日、野山をともに駆けた友に向ける、たった一人にだけ見せる笑みだった。
「おぬしがいてくれて、わたしは……独りではなかった」
その言葉は、ふうっと空に溶けていく春風のように、佐助の胸の奥を震わせる。
「忘れぬ、佐助…」
佐助は、地に額をつけたまま、声を震わせた。
「……恐れ多き……御言葉にござります……」
そのときだった。
忠三郎がかすかに指を動かし、視線を、小さな手文庫へと向けた。
「……あれを……」
言葉にならぬ囁きが、佐助の耳に届いた。佐助はそっと立ち上がり、手文庫を開いた。
中に、ひときわ白く際立つ一枚の短冊が納められていた。
そこには、端正な筆致でこう記されていた。
限りあれば咲かねど花の散るものを こころ短き春の山風
佐助の手が、かすかに震えた。
それが、忠三郎の――主君の、時世の句であると悟った。
季節を待たずに散る花の哀しみ。咲くことさえ許されぬまま、春を知らず吹き過ぎてゆく山風。
その一首に込められていたのは、若き命の悔いと、すべてを赦し受け入れた者の、穏やかな終焉だった。
佐助は短冊を胸に抱きしめ、肩を震わせて嗚咽した。
この世にたった一人、守るべき主を、これまで――そして、これからも。
障子の向こうから、朝の光が差し込みはじめた。
冬の霧はまだ町を包んでいたが、その奥には確かに、春の匂いがあった。
忠三郎の呼吸は、やがて静かに、深く――
まるであの幼き日、日野の野山を歩いた静かな午後が、いま、再び胸のうちに広がってゆくかのように。
佐助は涙をぬぐわず、その場を動かず、ただひたすらに、忠三郎の横顔を見守り続けた。
そして、小さな座敷の一隅に、赦しと絆の光が、確かに――やさしく、差し込んでいた。
忠三郎の身体は、次第に力を失っていった。
手足は重く、まぶたは閉じたまま、まどろむ時間が日に日に長くなる。
やわらかな春の夜風が、開け放たれた障子の隙間からすうっと吹き込み、ほの白い帳が静かに揺れた。
その風に運ばれて、忠三郎の意識は、遠い記憶の岸辺へと漂いはじめる。
――あの日の大坂。
まだ若く、まだまっすぐに、右近に誘われるまま、南蛮寺の聖堂を訪れたときのこと。
高い鐘楼の陰に佇み、オルガンティノ神父の前で、ひざまずいた。
その日、忠三郎は「レオ」という洗礼名を授かった。
「レオとは、ラテンのことばで『獅子』を意味します」
神父の言葉が、やさしく胸に響いた。
「主イエスは、獅子のごとき強さと、子羊のようなやさしさを併せ持たれた方。忠三郎殿は、その御子に仕え、世に福音をもたらす者……獅子の末裔」
「獅子の末裔…」
忠三郎は、深くは理解できぬまま、ただ神父の穏やかな眼差しに導かれるように、膝をつき、静かに祈った。
十字を切る手がかすかに震えた。
それは迷いでも恐れでもなく、神にすべてを委ねようとする、熱に似た祈りの昂ぶりだった。
「神はすべてを赦します」
オルガンティノの言葉が、鐘の音のように耳に残る。
「キリストは、十字架の上で、忠三郎殿をあがなわれました。忠三郎殿は赦しの中に歩み、神と人に仕える者として、新しく生まれ変わるのです」
香の煙が、聖堂の静けさに溶けてゆく。
祈りの声が、光の中に遠ざかっていく――
そのなかで受けた洗礼の水の感触が、ふと頬をかすめた。
夢のなかで、忠三郎は微笑んでいた。
血と裏切りの道を歩んできた者にも、与えられたひとしずくの清らかさ。
あの日だけは、己が神の子であると、迷いなく信じていた。
――ああ、われ、ひとたび神の子とされし者なり。
レオの名のごとく、たとえ沈黙のなかにあっても、天を仰ぎ、誠を吠える者でありたい。
そして夢の終わりに、もう一度、あの日と同じ声が聞こえた。
「レオ。神はあなたを、見捨ててはいません――今こそ、安らぎのなかに、帰っておいでなさい」
その瞬間、忠三郎の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
それは、誰かの名を呼ぼうとした微笑みか。
それとも、見えぬ手に触れた安堵のような、静かな喜びだったのか。
春を告げる風が、ふたたび障子の隙間から舞い込み、帳をそっとふくらませた。
夢のなかの忠三郎は、もはや病んだ身体を離れ、光の中に在った。
あの日と同じように、両手を組み、天に祈る姿――
その面差しは、幼き日に戻ったかのように、穏やかで清らかだった。
忠三郎の胸の鼓動は、ゆるやかに、波が引くように静まりゆく。
それは、遠い旅を終えた舟が、ようやく穏やかな入り江へとたどり着くかのように。
――そのとき、どこか遠くで、鐘の音が鳴ったような気がした。
それは、夢か、記憶か。
それとも、魂を迎える鐘の音か。
春の風にのって、その音は、ふたたびこの世へと響いていた。
忠三郎は静かに、まぶたを閉じた。
その顔は、旅立ちの先に、ほんとうの故郷を見つけた者のように――
やすらぎと、微笑みに満ちていた。
文禄四年二月七日――
空には春霞がうっすらと立ちこめ、遠くの山の輪郭が淡くにじんでいた。
新暦にして三月十七日。庭先では梅がほころび、ふとした風に、やわらかな香りが流れる頃。
だが、そのやさしい光のなかで、一つの命は、静かに終わりを迎えようとしていた。
忠三郎の意識は、もう数日戻ることはなかった。
ときおり夢の中で誰かの名を呼ぶように唇を動かすが、声にはならず、まぶたは重く閉じられたまま。
そしてその朝――
梅の香を含んだ風が屋敷を包む中、忠三郎は、深い眠りにつくがごとく、静かに息を引き取った。
高山右近は、祈りの姿勢を崩さぬまま、その最期を看取っていた。
白木のロザリオが指のあいだからこぼれ落ちそうに揺れ、右近の祈りの声だけが静かに座敷を満たしていた。
佐助と義太夫は、少し離れて控えていた。
涙は流さぬまま、しかし深く、胸の奥底で、ただ一人の友の死を受けとめていた。
その枕元には、忠三郎の嫡男・鶴千代。
そして、おさちの忘れ形見である正寿丸。
小さな手が、冷たくなりゆく父の手を握りしめたまま、声もなく揺れていた。
正室・吹雪は、その横顔をそっと見守りながら、掌で額をなでていた。
傅役として忠三郎を支え続けた町野左近、
そしてその子であり忠三郎の乳人子として育った町野長門守。二人は膝をつき、主君の最期に頭を垂れ、ただ静かにその魂を送っていた。
梅の花が、ふと風に舞い、敷かれた畳に一つ、淡紅の花びらが落ちた。
春は確かにそこにあった。だが、そのぬくもりを、忠三郎はもう感じることはなかった。
――ただひとつ、忠三郎の魂がこの世に遺したもの。
それは、この場に集った者たちの胸に灯された志と、忘れえぬ記憶。
その朝、忠三郎の横顔は穏やかで、幼き日に野山を歩いた日々を思い出しているかのようだった。
佐助はただ、涙をぬぐわず、その場を動かずに忠三郎の顔を見守りつづけていた。
その小さな座敷の一隅に、確かな光が、そっと差し込んでいた。
鶴千代はその日、書院の縁側に腰を下ろし、母の遺した和歌の冊子をひらいていた。
信長より命じられた使者の役目に備え、文の筆をとる前に、いま一度言葉を整えようとしていたのだった。
ふと、遠くにふくろうの声がした。
その声に、鶴千代は小さく目を閉じた。
(……佐助)
名を口にすることはない。それは、過去に閉ざされた幻のような存在。
まだ日野にいたとき、「佐助は、祖父に斬られて死んだ」と、そう伝えられたきりだった。
けれど、あの山でともに歩いた日々も、囲碁を打った夜も、和歌を口ずさみながら草の上に寝転んだ、夢のようなひとときも――
鶴千代の心から消えたことは一度もなかった。
(あの夜、ふくろうの声がした。あくる日、佐助は…)
あれは夢だったのか。
それとも、自分が知らぬだけで、もっと深い事情があったのか――
わからない。もう確かめる術もない。けれど、なぜか心のどこかで、佐助はまだどこかで自分を見ている――
そんな気がしてならなかった。
そして、事実――佐助はいた。
鶴千代の見ぬ場所、気配も残さぬ影として、城の裏手の木立から静かにその姿を見つめていた。
かつて、命を奪うべく遣わされた少年を、いまは己の命に代えてでも守りたいと願いながら。
その胸に、忘れようとしても消えぬ記憶があった。
――あの冬の日、自らの手で斬った一振りの刃が奪った命。
それが鶴千代の母であったこと。
その贖いに生きることこそが、自分に与えられた罰であり、生であった。
「佐助、そこにおったか」
声がして、木立の陰から現れたのは、義太夫だった。
手に小さな包みを提げ、いつものように陽気な顔をしている。
「ふむ、いたな。ほれ。岐阜城下でつくった柿餅とか申しての。……食わぬのなら、わしが食うが」
佐助は笑わぬまま、静かに首を振った。
「わしは、まだ……その資格がござりませぬゆえ」
義太夫が眉をひそめる。
「……あのことを、まだ」
「はい。あれは忘れてはならぬことでございます」
「されど、鶴には、おぬしが生きているとすら伝わっておらぬ」
「それでよいのです。それがしは、あの方の陰。……陽のもとには、出てはならぬ者ゆえ」
風が、柿の葉を一枚、はらりと落とした。
義太夫はふうとため息をつき、包みの餅をひとつ口に放り込むと、大げさに言った。
「まったく、陰だの贖罪だの……いっぺん、鶴に会って、どつかれて来い。きっとそれで晴れるぞ」
佐助は微笑んだ。それでも、頭を横に振る。
「それがしは……あの方が強く、真っすぐに育たれるのを、こうして見守っているだけで、幸せにございます」
その言葉を背に、義太夫は城下へ戻っていった。
ふと振り返ると、佐助の姿はもう、木の影に消えていた。
秋の岐阜城。
稲葉山の木々の間をすり抜ける風は、どこか遠い昔を思わせるような、静かな調べを奏でていた。
佐助が語り終えたのは、夜半を過ぎたころだった。雨も風もなく、ただ静けさだけが、薄く冷えた空気のなかに満ちていた。
忠三郎は、枕に頭を預けたまま、しばし目を閉じていた。やがて、まぶたの奥でゆっくりと記憶がほどけていく。
――叔父・後藤賢豊が討たれたその日、母・お桐が姿を消し、ひとり音羽城を訪ねた、あの晩。闇のなか、背後から迫った刃。
そして、自分を庇うように身を投げ出した、母の姿。
「……あの時の、刺客は……」
忠三郎の声はかすれていた。目を開き、静かに佐助を見つめる。
「まさか……そなたであったのか……」
佐助は膝に置いた拳を、かすかに震わせていた。何も言わず、ただ俯き、長い間、答えを飲み込んでいた。
やがて、その肩が、ふるふると揺れた。小さく、震える声がようやく漏れる。
「……はい。あの夜、音羽城で……拙者が……」
「……」
「殿を討てという密命を受け、音羽へ参りました。闇にまぎれ、襲いかかろうとしたとき、お母上が…鶴様を庇われたのでござります」
佐助の声が震える。
「とっさに止めることができなかった……それが拙者の……一生の……」
そこから先は、言葉にならなかった。
胸の奥が、ひたひたと締めつけられ、忠三郎の目が、ゆっくりと閉じられる。
――そうだったのか。
あの夜の、すべての謎がいま、ひとつに繋がる。
ずっと信じていた。
母を斬ったのは祖父・快幹――蒲生定秀だと。母は、野望に囚われた祖父の、冷酷な計略の犠牲となったのだと。
だが、真実はもっと近くにあった。
もっと……深く、痛ましいほどに人の心に絡みついていた。
「…なぜ……」
忠三郎が、しぼり出すように問う。
「なぜ、来てくれなかった…。なぜ、わたしを独りにした…佐助……」
その一言に、佐助の顔が苦悶に歪んだ。
噛みしめた唇が、わななき、ついには崩れ落ちるように地に伏した。
「……母上を恋しく思われる若を見ていて、そしらぬ顔をしていることが、できなくなりました……」
佐助の声は、ひどく小さく、深い後悔と慟哭に濡れていた。
しばらくの沈黙が、ふたりを包んだ。
雪の積もる朝のような静けさ――。
その中で、忠三郎はかすかに手を伸ばした。わずかに震えるその指先が、佐助の影に触れようとする。
「……それでも、おぬしは……」
声は、もう風のように細くなっていた。
「……ずっと……傍にいてくれたのか」
佐助の瞳が、涙ににじんだ。そして深く、深く、頭を垂れた。
忠三郎は、ほんの一瞬だけ、微笑んだ。
それは、幼き日、野山をともに駆けた友に向ける、たった一人にだけ見せる笑みだった。
「おぬしがいてくれて、わたしは……独りではなかった」
その言葉は、ふうっと空に溶けていく春風のように、佐助の胸の奥を震わせる。
「忘れぬ、佐助…」
佐助は、地に額をつけたまま、声を震わせた。
「……恐れ多き……御言葉にござります……」
そのときだった。
忠三郎がかすかに指を動かし、視線を、小さな手文庫へと向けた。
「……あれを……」
言葉にならぬ囁きが、佐助の耳に届いた。佐助はそっと立ち上がり、手文庫を開いた。
中に、ひときわ白く際立つ一枚の短冊が納められていた。
そこには、端正な筆致でこう記されていた。
限りあれば咲かねど花の散るものを こころ短き春の山風
佐助の手が、かすかに震えた。
それが、忠三郎の――主君の、時世の句であると悟った。
季節を待たずに散る花の哀しみ。咲くことさえ許されぬまま、春を知らず吹き過ぎてゆく山風。
その一首に込められていたのは、若き命の悔いと、すべてを赦し受け入れた者の、穏やかな終焉だった。
佐助は短冊を胸に抱きしめ、肩を震わせて嗚咽した。
この世にたった一人、守るべき主を、これまで――そして、これからも。
障子の向こうから、朝の光が差し込みはじめた。
冬の霧はまだ町を包んでいたが、その奥には確かに、春の匂いがあった。
忠三郎の呼吸は、やがて静かに、深く――
まるであの幼き日、日野の野山を歩いた静かな午後が、いま、再び胸のうちに広がってゆくかのように。
佐助は涙をぬぐわず、その場を動かず、ただひたすらに、忠三郎の横顔を見守り続けた。
そして、小さな座敷の一隅に、赦しと絆の光が、確かに――やさしく、差し込んでいた。
忠三郎の身体は、次第に力を失っていった。
手足は重く、まぶたは閉じたまま、まどろむ時間が日に日に長くなる。
やわらかな春の夜風が、開け放たれた障子の隙間からすうっと吹き込み、ほの白い帳が静かに揺れた。
その風に運ばれて、忠三郎の意識は、遠い記憶の岸辺へと漂いはじめる。
――あの日の大坂。
まだ若く、まだまっすぐに、右近に誘われるまま、南蛮寺の聖堂を訪れたときのこと。
高い鐘楼の陰に佇み、オルガンティノ神父の前で、ひざまずいた。
その日、忠三郎は「レオ」という洗礼名を授かった。
「レオとは、ラテンのことばで『獅子』を意味します」
神父の言葉が、やさしく胸に響いた。
「主イエスは、獅子のごとき強さと、子羊のようなやさしさを併せ持たれた方。忠三郎殿は、その御子に仕え、世に福音をもたらす者……獅子の末裔」
「獅子の末裔…」
忠三郎は、深くは理解できぬまま、ただ神父の穏やかな眼差しに導かれるように、膝をつき、静かに祈った。
十字を切る手がかすかに震えた。
それは迷いでも恐れでもなく、神にすべてを委ねようとする、熱に似た祈りの昂ぶりだった。
「神はすべてを赦します」
オルガンティノの言葉が、鐘の音のように耳に残る。
「キリストは、十字架の上で、忠三郎殿をあがなわれました。忠三郎殿は赦しの中に歩み、神と人に仕える者として、新しく生まれ変わるのです」
香の煙が、聖堂の静けさに溶けてゆく。
祈りの声が、光の中に遠ざかっていく――
そのなかで受けた洗礼の水の感触が、ふと頬をかすめた。
夢のなかで、忠三郎は微笑んでいた。
血と裏切りの道を歩んできた者にも、与えられたひとしずくの清らかさ。
あの日だけは、己が神の子であると、迷いなく信じていた。
――ああ、われ、ひとたび神の子とされし者なり。
レオの名のごとく、たとえ沈黙のなかにあっても、天を仰ぎ、誠を吠える者でありたい。
そして夢の終わりに、もう一度、あの日と同じ声が聞こえた。
「レオ。神はあなたを、見捨ててはいません――今こそ、安らぎのなかに、帰っておいでなさい」
その瞬間、忠三郎の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
それは、誰かの名を呼ぼうとした微笑みか。
それとも、見えぬ手に触れた安堵のような、静かな喜びだったのか。
春を告げる風が、ふたたび障子の隙間から舞い込み、帳をそっとふくらませた。
夢のなかの忠三郎は、もはや病んだ身体を離れ、光の中に在った。
あの日と同じように、両手を組み、天に祈る姿――
その面差しは、幼き日に戻ったかのように、穏やかで清らかだった。
忠三郎の胸の鼓動は、ゆるやかに、波が引くように静まりゆく。
それは、遠い旅を終えた舟が、ようやく穏やかな入り江へとたどり着くかのように。
――そのとき、どこか遠くで、鐘の音が鳴ったような気がした。
それは、夢か、記憶か。
それとも、魂を迎える鐘の音か。
春の風にのって、その音は、ふたたびこの世へと響いていた。
忠三郎は静かに、まぶたを閉じた。
その顔は、旅立ちの先に、ほんとうの故郷を見つけた者のように――
やすらぎと、微笑みに満ちていた。
文禄四年二月七日――
空には春霞がうっすらと立ちこめ、遠くの山の輪郭が淡くにじんでいた。
新暦にして三月十七日。庭先では梅がほころび、ふとした風に、やわらかな香りが流れる頃。
だが、そのやさしい光のなかで、一つの命は、静かに終わりを迎えようとしていた。
忠三郎の意識は、もう数日戻ることはなかった。
ときおり夢の中で誰かの名を呼ぶように唇を動かすが、声にはならず、まぶたは重く閉じられたまま。
そしてその朝――
梅の香を含んだ風が屋敷を包む中、忠三郎は、深い眠りにつくがごとく、静かに息を引き取った。
高山右近は、祈りの姿勢を崩さぬまま、その最期を看取っていた。
白木のロザリオが指のあいだからこぼれ落ちそうに揺れ、右近の祈りの声だけが静かに座敷を満たしていた。
佐助と義太夫は、少し離れて控えていた。
涙は流さぬまま、しかし深く、胸の奥底で、ただ一人の友の死を受けとめていた。
その枕元には、忠三郎の嫡男・鶴千代。
そして、おさちの忘れ形見である正寿丸。
小さな手が、冷たくなりゆく父の手を握りしめたまま、声もなく揺れていた。
正室・吹雪は、その横顔をそっと見守りながら、掌で額をなでていた。
傅役として忠三郎を支え続けた町野左近、
そしてその子であり忠三郎の乳人子として育った町野長門守。二人は膝をつき、主君の最期に頭を垂れ、ただ静かにその魂を送っていた。
梅の花が、ふと風に舞い、敷かれた畳に一つ、淡紅の花びらが落ちた。
春は確かにそこにあった。だが、そのぬくもりを、忠三郎はもう感じることはなかった。
――ただひとつ、忠三郎の魂がこの世に遺したもの。
それは、この場に集った者たちの胸に灯された志と、忘れえぬ記憶。
その朝、忠三郎の横顔は穏やかで、幼き日に野山を歩いた日々を思い出しているかのようだった。
佐助はただ、涙をぬぐわず、その場を動かずに忠三郎の顔を見守りつづけていた。
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守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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