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36.心短き春の山風
36-4. かげろうの誓い
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義太夫は、ゆるゆると湯呑の茶をすすりながら、ふと顔を上げた。
「……わしがしばらく姿を消しておったこと、気にしておったようじゃな、鶴」
その声音には、いつものとぼけた調子がまるでなかった。
「何を隠そう…人探ししておったのじゃ」
右近が、はっと息を呑む気配を見せた。
忠三郎は寝床の上で、かすかに眉を動かした。
「もう、どこにもおらんかと思うた。影も、声も、風のようで……。されど――」
そこで義太夫は、にやりと口の端を持ち上げた。
「ちゃんとおったわい」
襖がすう、と音もなく開いた。
そこに立っていたのは、どこか懐かしい影――
時は流れたはずなのに、不思議と変わらぬ姿の男が、冬の風のように静かに、寝所へと足を踏み入れてきた。
「若……」
やわらかく響いたその声に、忠三郎のまぶたが微かに震える。
夢か、幻か。そんな疑いが胸をよぎりながら、ゆっくりと顔を向ける。
そこにいたのは――佐助だった。
あの日、日野中野城に現れ、誰よりも深く、忠三郎の内なる光と影のすべてを見ていた傅役。
「……佐助、なのか」
そのかすれた声には、安堵と喜びとが、わずかに滲んでいた。
佐助は何も言わず、膝をつき、そっと忠三郎の手を取った。冷えた指を、両の掌でやさしく包み込む。骨ばったその手に、かすかな温もりが戻る。
そのぬくもりに、いつしか佐助の目には涙があふれていた。
「……お許しあれ。長い間、お傍にあるべきでありながら……」
自らを責めるように、佐助は言葉をつなげる。
その横から、やわらかな声が割って入った。
「そう己を責めるな。分かるか、鶴。……こやつの顔に残る火傷の跡を」
義太夫は、そっと忠三郎の枕元に腰を下ろし、懐かしい話を紡ぎ始めた。
「おぬしが亀山城の攻めの折、新介の兵に囲まれたであろう? あのとき、おぬしを救った爆発――あれを仕掛けたのは、佐助じゃ。慣れぬ火薬を用い、自らを盾にして、おぬしを逃がした。そのとき負った傷が、いまも顔に残っておるのじゃ」
忠三郎は、じっと佐助を見つめた。
佐助は伏し目がちに語る。
「会津で町づくりに携わっておりました。若が望まれていた、戦なき世の礎を……。
されど――それにかまけて、若のお加減に気づかなんだこと……ただ、それが、悔しゅうて……」
忠三郎は、かすかに首を横に振った。
「……よい。おぬしが…会津まで来て…町をつくってくれていたこと、わしは、嬉しい」
その言葉に、佐助の頬に、また一筋、熱い涙が伝った。
やつれた忠三郎の手を、かつては小さな鶴千代の掌を包むように握っていたことを思い出す。
あのとき、剣を忍ばせて訪れた寝所で、命を絶つはずだった少年が、こんなにも大きく、こんなにも苦しみながら、生き抜いてきた。
その命に、自分はどれだけ報いてこれたのか。
佐助はただ、忠三郎の手を離すまいと、固く指を絡めた。
やがて、そっと襖が閉じられた。
義太夫も、右近も、黙って二人きりにしてくれたのだろう。
静寂の中、佐助は語りはじめた――
あの永禄の夜。暗い山道を抜けて、密命を抱えて歩いた日々。
日野の城で出会った、幼い忠三郎。
その枕元に座り、剣ではなく、手を差し伸べたあの夜のことを。
すべてのはじまりを。
長い沈黙の果てに――ついに、語るときが来たのだ。
六角家の騒動が頂点に達したのは、永禄六年の十月初旬。
観音寺城に渦巻いた疑念は、やがて怒りとなり、後藤賢豊父子を呑み込んだ。
それからの数日で、家中は激しく揺れ動いた。裏切り者を出した家が次の裏切り者になるのでは――そんな連鎖が、火の粉のように諸家へ広がっていった。
そして、滝川一益はその混乱のなかで見極めた。
――蒲生定秀こそが、真の強敵だと。
この老獪なる戦国の雄は、六角をも、後藤をも、北勢をも、すでに血縁という名の鎖で絡め取っていた。
そして、ただ一人、鶴千代。あの童子――蒲生の孫にして、後藤の血を引く神童こそが、その先に立つ者となる。
一益は静かに唇を引き結んだ。
最初の一手に失敗したとはいえ、ここで手をこまねいていれば、いずれ火の粉は織田家へ、そして我がもとへと飛んでくる。
――再び、討たねばならぬ。
こうして、一益は二度目の暗殺を画策する。
狙いは、鶴千代の「傅役」――三雲家から日野へ送られる予定であった老臣を途中で始末し、その代わりに甲賀に潜んでいた三雲佐助を身代わりとして日野中野城へ送り込んだのであった。
「行ってこい、佐助。もはやおぬししかおらぬ」
その言葉を受けた佐助は、ただ黙ってうなずいた。
――すきあらば、鶴千代を討て。
その命だけが与えられた。
しかし、佐助がたどり着いた日野中野城は、思いのほか静かだった。
兵の声もなく、活気もなく、まるで音のない雪の城のようだった。
案内された座敷には、冬の陽がかろうじて射し込んでいた。
そして、その奥に――
小さな、影のような存在が、布団の中に横たわっていた。
それが、鶴千代だった。
佐助は思わず足を止めた。
噂に聞いていた神童の姿はそこにはなかった。
病に伏し、力なくうつ伏せに寝ているその身体は、今にも消えてしまいそうなほど細く、頼りなかった。
見舞いの者もなく、薬を運ぶ者も不在。
側にいた女中の話によれば、母を殺された後、「謀反人の子」として家中で腫れ物のように扱われ、食事すら満足に与えられていなかったという。
――この子は、見捨てられている。
佐助の心に、冷たい痛みが走った。かつての、自分を思い出していた。
あの日。土に埋められ、顔だけを出して泣いていた少年。
声をあげることもできず、ただ、生きたいと、心の底から叫んでいたあの日。
あの時、高山右近と父・飛騨守が手を差し伸べてくれた。
あの優しい掌が、冷え切った土から自分を救い出してくれた。
佐助は、ふと膝をついて、鶴千代の寝顔を見つめた。
まだ幼い面差しに、熱と苦しみの色がにじんでいた。
掌を差し出した。
氷のように冷たい小さな手が、自分の手にふれて、かすかに揺れた。
その瞬間、胸の奥から何かが込み上げてきた。
涙だった。
こんなにも傷つき、こんなにも孤独な魂を、どうして斬ることなどできよう。
佐助は、静かにうつむいた。
――もう、命令には従えぬ。この子を守らねばならぬ。
それは理屈ではなかった。
佐助の中に、深く根を張ったあの夜の記憶が、ただそのように命じていた。
そしてその日から、佐助は鶴千代の傍を離れず、湯を沸かし、食を調え、夜には書物を読み、朝には手を引いて、城の回廊を歩いた。
誰にも認められず、誰にも必要とされずにいた子が、日ごとにほんのわずかずつ――生を取り戻していく姿を、黙って見守った。
傅役などではなかった。
それは、もはや――友だった。
鶴千代の痩せた頬にわずかに色が戻り、寝台から起き上がれるようになった日、佐助は迷わず馬を引いて中野城の裏門へと向かった。
「参りましょう。野山の見分に」
鶴千代は戸惑いながらも、差し出された手綱に手をかけた。
佐助はその小さな背を馬上に抱き上げ、自らもその背にまたがる。
二人の影は、初秋の陽を浴びて、金色の稲田を抜けていく。
日野の風はやさしかった。
佐助は、山裾の小さな祠を教えた。
栗鼠の巣、鹿の足跡、葉の裏に眠る青虫。
野に咲く撫子を摘み、水の湧く岩場で喉を潤し、古井戸の傍で石を跳ねて遊んだ。
「鶴千代様、これが『かわせみ』なるものでござります」
鮮やかな青い羽根を指差すと、鶴千代は目をまん丸に見開いて言った。
「か、かわせみ……まるで宝玉のようじゃ……!」
山は、静かに、ふたりの距離を縮めていった。
夜は囲碁を打った。
最初は佐助がわざと負けていたが、数日もすれば鶴千代の読みは深くなり、時折、佐助が苦笑を漏らすほどになった。
囲碁のあとは、鶴千代が母の遺した書物を開いた。
和歌や古今集、伊勢物語の断章。
いまだ幼さの残る声で詠むその音律に、佐助はただ耳を傾けていた。
「これは、母上が…遺してくれたものじゃ」
そう言った鶴千代の目には、憂いよりも、どこか誇らしげな光があった。
「わしが忘れてしまわぬようにと、書きつけてくれたのであろう」
佐助は胸の奥に、温かな何かが灯るのを感じていた。
この子は、忘れずに生きている。
母を、家を、過去のすべてを、抱えながら。
気がつけば、佐助は毎晩、鶴千代が寝静まるのを待ち、そっと戸を開けて空を見上げるのが習いになっていた。
ふくろうの声を聞いたのも、そんなある夜のことだった――。
館の周囲には深い夜霧がたちこめ、音という音が息をひそめるように消えていた。
佐助は静かに寝所の戸を開け、そっと外に出た。鶴千代の寝息は穏やかだった。
そのとき――
ほう――ほう――と、梟の鳴く声が暗い空を横切った。
ただの鳥ではない。素破同士の合図。しかも、それはかつて甲賀の山中で交わした、極めて限られた者のみが知る呼び声だった。
佐助は身を翻し、音もなく館を抜け出す。
辿りついたのは裏手の竹林。その向こうに、ふたりの影。
「佐助、ようやく気付いてくれたのう」
どこか気の抜けたような声。
「義太夫殿…助太郎殿…」
驚くふたりに、佐助は事の顛末を語った。
日野へ傅役として赴いたのは、あくまでも滝川一益の命によるもの。
本来は、鶴千代を見定め、しかるべき時に命を奪えという密命であったこと。
「しかし……」
佐助はかすかに笑った。
「病に伏したその子は、あまりに小さく、あまりに孤独で…。母を失い、誰にも顧みられぬ中で、ただ静かに、死を待っておりました。――わしは……見ておれなかった」
その声には、かつて自分もまた、誰からも忘れられ、土に埋められた日々を生きた少年の面影が滲んでいた。
しばしの沈黙ののち、助太郎がぽつりと呟く。
「……そりゃあ……まぁ……そういうことも、あるわな」
だが義太夫は眉を寄せた。
「おぬしが傅役となって早数か月、なぜいまだに命を取らぬのか――正直、皆、不思議がっておる」
佐助はうつむき、ただ一言だけ、吐き出すように答えた。
「鶴千代は……わしの命を、もうとっくに奪っておりますゆえ」
義太夫が息を呑んだ。
「初めて見た時から、わしはあの子に……命を懸けておるのです」
その言葉は冗談でも、誇張でもない。
以来、佐助は鶴千代の傍らにあって、傅役という名の盾となり、影となり続けた。
だがそれでも、疑念の目は消えなかった。
「なぜ刺さぬのか」――一益は口には出さぬものの、ずっと見ていた。
それが裏切りか、それとも心変わりか。滝川家の者たちが静かに注視していることを、佐助自身も知っていた。
義太夫は目をしばたたき、助太郎は眉を吊り上げたが、すぐに顔を見合わせ、ふっと笑った。
「そうか。まあ……そうなるかもしれぬとは、実は思っておった」
「え?」
「よいのじゃ、それで。いずれにせよ、もう、織田家の軍勢は数日のうちに観音寺城を攻め落とす。六角など風前の灯火よ。蒲生なんぞはただの老狐。いまさら一人の童の命を奪うたとて、何の意味もあるまい」
「……上様が……もうそこまで……?」
佐助は目を見開いた。
たしかに、風の噂には聞いていた。だがまさか、数日のうちとは――。
「如何する、佐助」
助太郎が問うた。
「戻るか? まだ、間に合わぬこともなかろう。殿の下へ参じれば、功も立つやも知れぬ」
だが、佐助は首を横に振った。
すでに、戻る道はなかった。
「……わしは、鶴千代様の友となり、傍におると誓った身。いまさら命を惜しんでどうする。……行ってくだされ、おふたりとも。もう、お戻りくだされ」
義太夫が、月明かりの下で、いつになく真顔になった。
「ふむ……やはり、おぬしも、情に負ける口か。ま、わしとてそうじゃがな。――気張れよ、佐助」
その言葉を最後に、ふたりは竹林の闇に消えていった。
翌日――
日野の信楽院では、蒲生家の先祖供養が盛大に行われていた。寺には、甲賀や北勢の名士たちが顔をそろえ、三雲定持の姿もあった。
佐助はひそかに供物の手伝いにまぎれ、供養の場に紛れ込んだ。だが、ふとした瞬間――
三雲定持の目が合った。
定持はすぐに蒲生定秀に近寄り、何やら囁いた。
佐助は、それが何を意味するか、悟った。
(……露見したか)
いまはすべてのことを鶴千代に伝えることはできない。
(せめて…若が元服した折に…)
文をしたため、信楽院の住職に手渡した。
逃げるべきか、留まるべきか。迷っている暇はなかった。
城に戻って鶴千代を城下に連れ出し、話しても差し障りない事実だけを伝えた。
しかし、思ったよりも定秀の動きが早く、すぐに追っ手が放たれ、城下は静かながらも、異様な緊張に包まれた。
定秀の家人に捕らえられ、牢に入れられる寸前に、佐助は脱出した。
佐助は、山の影に身を潜めながら、織田軍の動向をじっと見守っていた。信長が観音寺城を落としたのは予想よりも早かった。蒲生家もまた、その圧力に屈し、ついには――
鶴千代を、人質として差し出した。
観音寺城から岐阜までの道を、佐助は馬を使わず、歩いた。
それは、焦りと後悔と、それでも胸のどこかに灯る祈りのような想いが、そうさせた。
――間に合ってくれ。
そう願いながら、何度も山道を振り返った。
鶴千代が、観音寺城に向かうという報せを受けたのは、すでに出立したあとだった。佐助はふくろうの声を合図に山を下り、町を駆けたが、鶴千代はもう織田の兵に護られて姿を消していた。
(まさか…)
だが、観音寺城にはすでに――
滝川一益、そして義太夫が、供をしていたという。
それを知ったとき、佐助は何か、大きな手のひらの上で運命が転がり始めているような感覚を覚えた。
そしてその運命の中に、もはや自分は『使い捨ての刺客』ではなく、『鶴千代を守る者』として位置づけられているのではないか――と。
数日後、岐阜。
織田信長の居城を望む町並みの一角、旧知の滝川屋敷の門前に、佐助は立っていた。
黄昏が町の屋根を金に染めるなか、その姿は、ひときわ小さかった。
「佐助でござります。殿にお目通りを…」
門番の目がわずかに見開かれたが、名を聞くなり深くうなずき、奥へと通された。
足を踏み入れた広間は、かつて何度も顔を出した懐かしい空間だった。
畳の香り、煤けた梁の影、床の間の掛け軸に至るまで、記憶の中にあるままの佇まいだった。
襖が静かに開き、姿を現したのは――義太夫。
その顔を見た瞬間、佐助は思わず土間にひれ伏した。
「面目次第もござりませぬ。すべてを、申し上げたく……」
義太夫は一瞬、口を開けて固まった。
「……お、おぬしか、佐助」
「はい」
「……なぁにをしておったんじゃ、いまさら! あやうく鶴をそのまま岐阜の倉にでも閉じ込めるところじゃったわい!」
そこへ、すっと襖の奥から現れたのは滝川一益だった。
その眼光は、鋭さを失わぬまま、佐助をじっと見据えていた。
「……来るとは思うておった」
その低い声に、佐助は顔を上げ、深く頭を下げた。
「殿には、以前から、黙して隠していたことがありました。されど、どうしても、この口で申し上げたく……」
そして、佐助は語った。
あの冬、傅役として日野の中野城の門をくぐったこと。鶴千代を殺すはずが、やせ細ったその姿に、かつての自分を見たこと。
春を迎え、病から快癒した鶴千代を馬に乗せ、野山をめぐったこと。
夜には囲碁を打ち、母の遺した和歌を読み交わし、笑いあったこと――
命を奪うはずだった少年を、守るべき者と心に定めた日々のことを。
語り終えたとき、一益はそっと目を閉じ、長く息を吐き、やがてぽつりとつぶやいた。
「そなたの想いが天に通じたやもしれぬ」
「…それは如何なることで?」
一益はゆるりと佐助を見返した。
「上様は鶴千代を気に入り、己が娘婿とされた。あの小童を、織田家の連枝とするおつもりじゃ」
その言葉に、佐助の目が大きく見開かれた。
顔が、かすかに明るさを取り戻す。
義太夫が、茶をすすりながら、にやりと笑んだ。
「して、如何する、佐助。ここに残るか? それともまた、どこぞへ逃げるか?」
佐助はゆっくりと立ち上がり、座敷の陽だまりを見やった。
「逃げるのは……もう、やめました。もし許されるなら、再び、あの方の傍に――されどそれはできぬこと。であるなら、あくまでも陰ながら鶴様をお守りしとうござります」
一益は無言で、深くうなずいた。
「佐助。ならば鶴千代のもとへ行け」
佐助の目がかすかに揺れた。胸の奥底には、いまだ解けぬ悔恨が残っていた。
――あの日、自分が手にかけた命。
鶴千代の笑顔を思うたび、その影がひときわ濃く、胸を締めつける。
それでも。
だからこそ、誓ったのだ。
今度こそ、裏切ることなく――影として、命をかけて守り抜くのだと。
陽だまりのなかに、一陣の風がふわりと吹きぬける。
それは、遠い日野の綿向山から届いた風のようにも思えた。
「……わしがしばらく姿を消しておったこと、気にしておったようじゃな、鶴」
その声音には、いつものとぼけた調子がまるでなかった。
「何を隠そう…人探ししておったのじゃ」
右近が、はっと息を呑む気配を見せた。
忠三郎は寝床の上で、かすかに眉を動かした。
「もう、どこにもおらんかと思うた。影も、声も、風のようで……。されど――」
そこで義太夫は、にやりと口の端を持ち上げた。
「ちゃんとおったわい」
襖がすう、と音もなく開いた。
そこに立っていたのは、どこか懐かしい影――
時は流れたはずなのに、不思議と変わらぬ姿の男が、冬の風のように静かに、寝所へと足を踏み入れてきた。
「若……」
やわらかく響いたその声に、忠三郎のまぶたが微かに震える。
夢か、幻か。そんな疑いが胸をよぎりながら、ゆっくりと顔を向ける。
そこにいたのは――佐助だった。
あの日、日野中野城に現れ、誰よりも深く、忠三郎の内なる光と影のすべてを見ていた傅役。
「……佐助、なのか」
そのかすれた声には、安堵と喜びとが、わずかに滲んでいた。
佐助は何も言わず、膝をつき、そっと忠三郎の手を取った。冷えた指を、両の掌でやさしく包み込む。骨ばったその手に、かすかな温もりが戻る。
そのぬくもりに、いつしか佐助の目には涙があふれていた。
「……お許しあれ。長い間、お傍にあるべきでありながら……」
自らを責めるように、佐助は言葉をつなげる。
その横から、やわらかな声が割って入った。
「そう己を責めるな。分かるか、鶴。……こやつの顔に残る火傷の跡を」
義太夫は、そっと忠三郎の枕元に腰を下ろし、懐かしい話を紡ぎ始めた。
「おぬしが亀山城の攻めの折、新介の兵に囲まれたであろう? あのとき、おぬしを救った爆発――あれを仕掛けたのは、佐助じゃ。慣れぬ火薬を用い、自らを盾にして、おぬしを逃がした。そのとき負った傷が、いまも顔に残っておるのじゃ」
忠三郎は、じっと佐助を見つめた。
佐助は伏し目がちに語る。
「会津で町づくりに携わっておりました。若が望まれていた、戦なき世の礎を……。
されど――それにかまけて、若のお加減に気づかなんだこと……ただ、それが、悔しゅうて……」
忠三郎は、かすかに首を横に振った。
「……よい。おぬしが…会津まで来て…町をつくってくれていたこと、わしは、嬉しい」
その言葉に、佐助の頬に、また一筋、熱い涙が伝った。
やつれた忠三郎の手を、かつては小さな鶴千代の掌を包むように握っていたことを思い出す。
あのとき、剣を忍ばせて訪れた寝所で、命を絶つはずだった少年が、こんなにも大きく、こんなにも苦しみながら、生き抜いてきた。
その命に、自分はどれだけ報いてこれたのか。
佐助はただ、忠三郎の手を離すまいと、固く指を絡めた。
やがて、そっと襖が閉じられた。
義太夫も、右近も、黙って二人きりにしてくれたのだろう。
静寂の中、佐助は語りはじめた――
あの永禄の夜。暗い山道を抜けて、密命を抱えて歩いた日々。
日野の城で出会った、幼い忠三郎。
その枕元に座り、剣ではなく、手を差し伸べたあの夜のことを。
すべてのはじまりを。
長い沈黙の果てに――ついに、語るときが来たのだ。
六角家の騒動が頂点に達したのは、永禄六年の十月初旬。
観音寺城に渦巻いた疑念は、やがて怒りとなり、後藤賢豊父子を呑み込んだ。
それからの数日で、家中は激しく揺れ動いた。裏切り者を出した家が次の裏切り者になるのでは――そんな連鎖が、火の粉のように諸家へ広がっていった。
そして、滝川一益はその混乱のなかで見極めた。
――蒲生定秀こそが、真の強敵だと。
この老獪なる戦国の雄は、六角をも、後藤をも、北勢をも、すでに血縁という名の鎖で絡め取っていた。
そして、ただ一人、鶴千代。あの童子――蒲生の孫にして、後藤の血を引く神童こそが、その先に立つ者となる。
一益は静かに唇を引き結んだ。
最初の一手に失敗したとはいえ、ここで手をこまねいていれば、いずれ火の粉は織田家へ、そして我がもとへと飛んでくる。
――再び、討たねばならぬ。
こうして、一益は二度目の暗殺を画策する。
狙いは、鶴千代の「傅役」――三雲家から日野へ送られる予定であった老臣を途中で始末し、その代わりに甲賀に潜んでいた三雲佐助を身代わりとして日野中野城へ送り込んだのであった。
「行ってこい、佐助。もはやおぬししかおらぬ」
その言葉を受けた佐助は、ただ黙ってうなずいた。
――すきあらば、鶴千代を討て。
その命だけが与えられた。
しかし、佐助がたどり着いた日野中野城は、思いのほか静かだった。
兵の声もなく、活気もなく、まるで音のない雪の城のようだった。
案内された座敷には、冬の陽がかろうじて射し込んでいた。
そして、その奥に――
小さな、影のような存在が、布団の中に横たわっていた。
それが、鶴千代だった。
佐助は思わず足を止めた。
噂に聞いていた神童の姿はそこにはなかった。
病に伏し、力なくうつ伏せに寝ているその身体は、今にも消えてしまいそうなほど細く、頼りなかった。
見舞いの者もなく、薬を運ぶ者も不在。
側にいた女中の話によれば、母を殺された後、「謀反人の子」として家中で腫れ物のように扱われ、食事すら満足に与えられていなかったという。
――この子は、見捨てられている。
佐助の心に、冷たい痛みが走った。かつての、自分を思い出していた。
あの日。土に埋められ、顔だけを出して泣いていた少年。
声をあげることもできず、ただ、生きたいと、心の底から叫んでいたあの日。
あの時、高山右近と父・飛騨守が手を差し伸べてくれた。
あの優しい掌が、冷え切った土から自分を救い出してくれた。
佐助は、ふと膝をついて、鶴千代の寝顔を見つめた。
まだ幼い面差しに、熱と苦しみの色がにじんでいた。
掌を差し出した。
氷のように冷たい小さな手が、自分の手にふれて、かすかに揺れた。
その瞬間、胸の奥から何かが込み上げてきた。
涙だった。
こんなにも傷つき、こんなにも孤独な魂を、どうして斬ることなどできよう。
佐助は、静かにうつむいた。
――もう、命令には従えぬ。この子を守らねばならぬ。
それは理屈ではなかった。
佐助の中に、深く根を張ったあの夜の記憶が、ただそのように命じていた。
そしてその日から、佐助は鶴千代の傍を離れず、湯を沸かし、食を調え、夜には書物を読み、朝には手を引いて、城の回廊を歩いた。
誰にも認められず、誰にも必要とされずにいた子が、日ごとにほんのわずかずつ――生を取り戻していく姿を、黙って見守った。
傅役などではなかった。
それは、もはや――友だった。
鶴千代の痩せた頬にわずかに色が戻り、寝台から起き上がれるようになった日、佐助は迷わず馬を引いて中野城の裏門へと向かった。
「参りましょう。野山の見分に」
鶴千代は戸惑いながらも、差し出された手綱に手をかけた。
佐助はその小さな背を馬上に抱き上げ、自らもその背にまたがる。
二人の影は、初秋の陽を浴びて、金色の稲田を抜けていく。
日野の風はやさしかった。
佐助は、山裾の小さな祠を教えた。
栗鼠の巣、鹿の足跡、葉の裏に眠る青虫。
野に咲く撫子を摘み、水の湧く岩場で喉を潤し、古井戸の傍で石を跳ねて遊んだ。
「鶴千代様、これが『かわせみ』なるものでござります」
鮮やかな青い羽根を指差すと、鶴千代は目をまん丸に見開いて言った。
「か、かわせみ……まるで宝玉のようじゃ……!」
山は、静かに、ふたりの距離を縮めていった。
夜は囲碁を打った。
最初は佐助がわざと負けていたが、数日もすれば鶴千代の読みは深くなり、時折、佐助が苦笑を漏らすほどになった。
囲碁のあとは、鶴千代が母の遺した書物を開いた。
和歌や古今集、伊勢物語の断章。
いまだ幼さの残る声で詠むその音律に、佐助はただ耳を傾けていた。
「これは、母上が…遺してくれたものじゃ」
そう言った鶴千代の目には、憂いよりも、どこか誇らしげな光があった。
「わしが忘れてしまわぬようにと、書きつけてくれたのであろう」
佐助は胸の奥に、温かな何かが灯るのを感じていた。
この子は、忘れずに生きている。
母を、家を、過去のすべてを、抱えながら。
気がつけば、佐助は毎晩、鶴千代が寝静まるのを待ち、そっと戸を開けて空を見上げるのが習いになっていた。
ふくろうの声を聞いたのも、そんなある夜のことだった――。
館の周囲には深い夜霧がたちこめ、音という音が息をひそめるように消えていた。
佐助は静かに寝所の戸を開け、そっと外に出た。鶴千代の寝息は穏やかだった。
そのとき――
ほう――ほう――と、梟の鳴く声が暗い空を横切った。
ただの鳥ではない。素破同士の合図。しかも、それはかつて甲賀の山中で交わした、極めて限られた者のみが知る呼び声だった。
佐助は身を翻し、音もなく館を抜け出す。
辿りついたのは裏手の竹林。その向こうに、ふたりの影。
「佐助、ようやく気付いてくれたのう」
どこか気の抜けたような声。
「義太夫殿…助太郎殿…」
驚くふたりに、佐助は事の顛末を語った。
日野へ傅役として赴いたのは、あくまでも滝川一益の命によるもの。
本来は、鶴千代を見定め、しかるべき時に命を奪えという密命であったこと。
「しかし……」
佐助はかすかに笑った。
「病に伏したその子は、あまりに小さく、あまりに孤独で…。母を失い、誰にも顧みられぬ中で、ただ静かに、死を待っておりました。――わしは……見ておれなかった」
その声には、かつて自分もまた、誰からも忘れられ、土に埋められた日々を生きた少年の面影が滲んでいた。
しばしの沈黙ののち、助太郎がぽつりと呟く。
「……そりゃあ……まぁ……そういうことも、あるわな」
だが義太夫は眉を寄せた。
「おぬしが傅役となって早数か月、なぜいまだに命を取らぬのか――正直、皆、不思議がっておる」
佐助はうつむき、ただ一言だけ、吐き出すように答えた。
「鶴千代は……わしの命を、もうとっくに奪っておりますゆえ」
義太夫が息を呑んだ。
「初めて見た時から、わしはあの子に……命を懸けておるのです」
その言葉は冗談でも、誇張でもない。
以来、佐助は鶴千代の傍らにあって、傅役という名の盾となり、影となり続けた。
だがそれでも、疑念の目は消えなかった。
「なぜ刺さぬのか」――一益は口には出さぬものの、ずっと見ていた。
それが裏切りか、それとも心変わりか。滝川家の者たちが静かに注視していることを、佐助自身も知っていた。
義太夫は目をしばたたき、助太郎は眉を吊り上げたが、すぐに顔を見合わせ、ふっと笑った。
「そうか。まあ……そうなるかもしれぬとは、実は思っておった」
「え?」
「よいのじゃ、それで。いずれにせよ、もう、織田家の軍勢は数日のうちに観音寺城を攻め落とす。六角など風前の灯火よ。蒲生なんぞはただの老狐。いまさら一人の童の命を奪うたとて、何の意味もあるまい」
「……上様が……もうそこまで……?」
佐助は目を見開いた。
たしかに、風の噂には聞いていた。だがまさか、数日のうちとは――。
「如何する、佐助」
助太郎が問うた。
「戻るか? まだ、間に合わぬこともなかろう。殿の下へ参じれば、功も立つやも知れぬ」
だが、佐助は首を横に振った。
すでに、戻る道はなかった。
「……わしは、鶴千代様の友となり、傍におると誓った身。いまさら命を惜しんでどうする。……行ってくだされ、おふたりとも。もう、お戻りくだされ」
義太夫が、月明かりの下で、いつになく真顔になった。
「ふむ……やはり、おぬしも、情に負ける口か。ま、わしとてそうじゃがな。――気張れよ、佐助」
その言葉を最後に、ふたりは竹林の闇に消えていった。
翌日――
日野の信楽院では、蒲生家の先祖供養が盛大に行われていた。寺には、甲賀や北勢の名士たちが顔をそろえ、三雲定持の姿もあった。
佐助はひそかに供物の手伝いにまぎれ、供養の場に紛れ込んだ。だが、ふとした瞬間――
三雲定持の目が合った。
定持はすぐに蒲生定秀に近寄り、何やら囁いた。
佐助は、それが何を意味するか、悟った。
(……露見したか)
いまはすべてのことを鶴千代に伝えることはできない。
(せめて…若が元服した折に…)
文をしたため、信楽院の住職に手渡した。
逃げるべきか、留まるべきか。迷っている暇はなかった。
城に戻って鶴千代を城下に連れ出し、話しても差し障りない事実だけを伝えた。
しかし、思ったよりも定秀の動きが早く、すぐに追っ手が放たれ、城下は静かながらも、異様な緊張に包まれた。
定秀の家人に捕らえられ、牢に入れられる寸前に、佐助は脱出した。
佐助は、山の影に身を潜めながら、織田軍の動向をじっと見守っていた。信長が観音寺城を落としたのは予想よりも早かった。蒲生家もまた、その圧力に屈し、ついには――
鶴千代を、人質として差し出した。
観音寺城から岐阜までの道を、佐助は馬を使わず、歩いた。
それは、焦りと後悔と、それでも胸のどこかに灯る祈りのような想いが、そうさせた。
――間に合ってくれ。
そう願いながら、何度も山道を振り返った。
鶴千代が、観音寺城に向かうという報せを受けたのは、すでに出立したあとだった。佐助はふくろうの声を合図に山を下り、町を駆けたが、鶴千代はもう織田の兵に護られて姿を消していた。
(まさか…)
だが、観音寺城にはすでに――
滝川一益、そして義太夫が、供をしていたという。
それを知ったとき、佐助は何か、大きな手のひらの上で運命が転がり始めているような感覚を覚えた。
そしてその運命の中に、もはや自分は『使い捨ての刺客』ではなく、『鶴千代を守る者』として位置づけられているのではないか――と。
数日後、岐阜。
織田信長の居城を望む町並みの一角、旧知の滝川屋敷の門前に、佐助は立っていた。
黄昏が町の屋根を金に染めるなか、その姿は、ひときわ小さかった。
「佐助でござります。殿にお目通りを…」
門番の目がわずかに見開かれたが、名を聞くなり深くうなずき、奥へと通された。
足を踏み入れた広間は、かつて何度も顔を出した懐かしい空間だった。
畳の香り、煤けた梁の影、床の間の掛け軸に至るまで、記憶の中にあるままの佇まいだった。
襖が静かに開き、姿を現したのは――義太夫。
その顔を見た瞬間、佐助は思わず土間にひれ伏した。
「面目次第もござりませぬ。すべてを、申し上げたく……」
義太夫は一瞬、口を開けて固まった。
「……お、おぬしか、佐助」
「はい」
「……なぁにをしておったんじゃ、いまさら! あやうく鶴をそのまま岐阜の倉にでも閉じ込めるところじゃったわい!」
そこへ、すっと襖の奥から現れたのは滝川一益だった。
その眼光は、鋭さを失わぬまま、佐助をじっと見据えていた。
「……来るとは思うておった」
その低い声に、佐助は顔を上げ、深く頭を下げた。
「殿には、以前から、黙して隠していたことがありました。されど、どうしても、この口で申し上げたく……」
そして、佐助は語った。
あの冬、傅役として日野の中野城の門をくぐったこと。鶴千代を殺すはずが、やせ細ったその姿に、かつての自分を見たこと。
春を迎え、病から快癒した鶴千代を馬に乗せ、野山をめぐったこと。
夜には囲碁を打ち、母の遺した和歌を読み交わし、笑いあったこと――
命を奪うはずだった少年を、守るべき者と心に定めた日々のことを。
語り終えたとき、一益はそっと目を閉じ、長く息を吐き、やがてぽつりとつぶやいた。
「そなたの想いが天に通じたやもしれぬ」
「…それは如何なることで?」
一益はゆるりと佐助を見返した。
「上様は鶴千代を気に入り、己が娘婿とされた。あの小童を、織田家の連枝とするおつもりじゃ」
その言葉に、佐助の目が大きく見開かれた。
顔が、かすかに明るさを取り戻す。
義太夫が、茶をすすりながら、にやりと笑んだ。
「して、如何する、佐助。ここに残るか? それともまた、どこぞへ逃げるか?」
佐助はゆっくりと立ち上がり、座敷の陽だまりを見やった。
「逃げるのは……もう、やめました。もし許されるなら、再び、あの方の傍に――されどそれはできぬこと。であるなら、あくまでも陰ながら鶴様をお守りしとうござります」
一益は無言で、深くうなずいた。
「佐助。ならば鶴千代のもとへ行け」
佐助の目がかすかに揺れた。胸の奥底には、いまだ解けぬ悔恨が残っていた。
――あの日、自分が手にかけた命。
鶴千代の笑顔を思うたび、その影がひときわ濃く、胸を締めつける。
それでも。
だからこそ、誓ったのだ。
今度こそ、裏切ることなく――影として、命をかけて守り抜くのだと。
陽だまりのなかに、一陣の風がふわりと吹きぬける。
それは、遠い日野の綿向山から届いた風のようにも思えた。
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