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36.心短き春の山風
36-3. すべてのはじまり
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永禄六年九月。
東海一の弓取りと称された今川義元を討ち、美濃、そして伊勢へと矛先を向けた。目指すは伊勢、北勢四十八家の制圧である。
その先鋒を任されたのは、信長の信任の厚かった滝川左近将監一益――
兵も金も地縁もなく、あるのは鋭い眼光と底知れぬ胆力、そして口先ひとつで生き抜いてきたしぶとさ。まさに、信長にとっては使い勝手のよい「はがねの駒」だった。
だが、北勢を舐めてはならぬ。
北勢の雄・千草家は、近江六角氏の影響下にあり、当主は六角の家中・後藤但馬守の息子である三左衛門が婿入りしている。北勢に手を出せば、近江の六角も敵に回すことになる――その判断を、若き義太夫は真顔で口にした……つもりだった。
「まったくもって、まともに兵を揃えることもできぬ為体というに、お屋形様はその辺の木から柿の実をとるがごとく、北勢をとれなどと、仰せになる」
と、ため息まじりに吐いたその台詞の、三歩あとでどやしつけられたのは言うまでもない。
「無礼なことを申すな!だいたい、柿の実とは何だ、柿の実とは! 千草の屋敷は木ではないわ!」
声を荒げたのは、一益の従兄弟にして、口うるささ五十人分の男・道家彦八郎。義太夫の足を、わざとらしく軽く蹴った。
「おぬしの頭こそ、柿の実よりも柔うなっておるわい」
「いや、硬いのは頭じゃなくて、心根のほうで……いてっ!」
「二人ともやめい。殿が呆れておるわい」
そう割って入ったのは、目元の優しげな割に、仲裁に入るときだけ急に声が通る男・佐治新介。
その時の一益の顔は、まるで――そう、秋風に干された干し柿のごとく、しわくちゃで、怒気を孕んでいた。
それを思い出すたび、義太夫は今でも茶を吹き出して笑うのだ。
だが、冗談のような話の中に、真の策が潜んでいた。
兵なき攻城戦、血なき合戦。
それこそが、滝川一益の真骨頂。
――城を攻めるには、まず「人の心」を落とせ。
その一言に、佐治新介がぽかんとした顔をして問う。
「人の心……とは。色仕掛けか何かで?」
「それであれば、甲賀一の美丈夫と噂された、この滝川義太夫様の出番じゃ!」
と、義太夫は鼻を鳴らして胸を張る。が、そこに返ってきたのは、涼しげな秋の風と、一益の冷たい吐息だった。
場の空気が凍り付いたところで、道家彦八郎が冷たく言い放った。
「……鼻の下が長うなっただけの男に、誰がほだされようか」
さすがの義太夫も、少しだけ肩をすぼめた。
「――六角家に楔を打ち込む。さすれば北勢どころではなくなる。我らが千草城に兵を進めても、援軍に来ることなどできなくなろう」
一益の声は低く、静かだったが、その冷徹さは耳の奥を刺すようであった。
戦とは、命を削るもの。だが、血を流すばかりが勝利ではない。
心を揺らせば、山も動く。
そう呟いたとき、一陣の風が野のすすきを鳴らし、秋の陽がゆっくりと傾いた。
「六角と後藤の間に楔を打ち込み、仲違いさせることで六角の弱体化をはかる」
新介がそう反芻するように言ったその横で、義太夫はふむふむとうなずきながら、
「……ま、色仕掛けではなかったのう」と、ぽつり。
「言うまでもない!」
と、すかさず三人に同時に指摘され、しょんぼりと背を丸めた。
とはいえ、一益の策は着実に動いていた。
その後も、一益は何度も甲賀の素破たちを近江に送り込んでは六角家の動向を探らせ、自らもたびたび江南へと足を運んだ。素破たちの報せ、北勢と江南の絵図とにらめっこする顔は、もはや書の虫か、算盤を抱いた禅僧のようであった。
そうして、一益は一つの確信に至った。
――北勢や中勢において、真に影響力を持っているのは誰か。
それは、六角でもなければ、後藤でもなかった。
「……日野の、蒲生か」
一益がいぶかしげに眉をひそめると、義太夫と佐治新介は、そろって深々とうなずいた。
「それは確かか?」
「間違いございませぬ。神戸家、関家――いずれも勢州では一筋縄ではいかぬ家でございますが、両家に娘を嫁がせ、縁戚となし、争いを丸く収めたのは……」
「六角の家臣などではありませぬ。六角に『客分』として迎えられていた、蒲生なる老爺にございます」
その名は――蒲生定秀。剃髪し、「快幹《かいかん》」と号するという。
一益は、その名をしばし沈思し、火鉢の灰をじっと見つめた。
調べを進めるうちに、快幹には三人の男子がいることがわかった。次男は江南の豪族・青地家に、三男は同じく小倉家に婿入りし、それぞれ跡目を継いでいた。
「さらには、娘を甲賀の美濃部家にも嫁がせておりまする」
新介が静かに補足した。
つまりは、甲賀にまで、蒲生の血が伸びている――。
その事実に、一益は重く目を伏せた。眼前に立ちはだかるのは、城でも兵でもない。
目に見えぬ根のように広がった、血縁と縁戚の網――人の情と地縁の地脈であった。
「……して、さらに、ようわからぬ噂が――」
義太夫と新介が顔を見合わせ、声を落とす。
「如何なる噂じゃ」
一益が低く問うと、義太夫が小さな声で続けた。
「蒲生の爺には、『神童』とも『鳳の雛』とも噂される孫がおり、その母親は……後藤但馬守の娘であると」
その瞬間、室内の空気がぴたりと静まった。
「後藤の娘……? では、北勢を牛耳る千種三左衛門は……」
「――その弟にございます」
佐治新介が確かめるように言った。
一益は火鉢の灰を掻く手を止め、長く、静かに息をついた。
その吐息の中に、確かに見えた――蒲生快幹の目論見。
(甲賀、中勢、北勢までも、すべてを“血”で繋いで支配しようとしている――)
六角と後藤を引き離したところで、事は終わらない。もはや、それらはただの枝葉に過ぎない。
本当に斬るべきは、根――蒲生快幹、その人である。
外では風が吹いていた。
秋深まり、すすきが一面を揺らす日野の野を、見ぬ者でさえ思い描けるような、冷たい風だった。
「……余程のことをせねば、蒲生には勝てぬものか」
一益がぽつりと呟いたその言葉は、どこか空に吸い込まれていくようだった。
義太夫が、いつになく真顔でつぶやいた。
「――して、その『余程のこと』というのは、色仕掛けではないと?」
「……黙れ」
新介が眉を顰め、義太夫の太ももをつねる。
「…い、いたた…」
一益は火箸を静かに置いた。だが、灰のなかに映った影の輪郭が、先ほどよりもひとつ、濃くなっていた。
まずは、主家との折り合いが悪いと噂される後藤賢豊を、六角家から引き離すこと――。
それが、策の第一歩であった。
一益は義太夫を呼び寄せ、静かに命じた。
「観音寺城の辺りに……火を放て。あくまで匂わせる程度とせよ」
義太夫は目をぱちくりさせたが、すぐににやりと笑った。
「承知つかまつる。火遊びには心得がござります」
二日後の未明、琵琶湖に近い観音寺城の周辺に、小さな火が三つ、灯った。
それは兵火のようでいて、戦とも言い切れぬ、微妙な火災。
農家が誤って藁を焼いたかのような――だが、いずれも六角家の領内であった。
その直後のことであった。
観音寺城の城下に、不審な一団が現れた。
黒頭巾に脚絆、土埃にまみれながら、見るからに怪しげな風体で城下を行き来する者たち――
それは、滝川家の素破であった。
この『うっかり者たち』が、あえて城門の見張りの前を二度、三度と通り過ぎ、見とがめられると懐から一通の巻き紙を落として逃げた。
見張りがそれに気づいたときには、もう素破たちは町角の陰へと消えていた。
拾い上げてみれば、それは後藤家の花押が押された密書。
宛名には――「蒲生定秀殿」。
内容は衝撃的だった。
「時は満ちたり。六角を見限り、北近江・浅井の御傘下に加わるべし。
その節は、後藤・蒲生、心を合わせ、観音寺を衝く」
六角家にとって、それは裏切りの証そのものであった。
もちろん、これはすべて義太夫の仕込みである。
「後藤の筆跡は癖が強いでのう、真似るには骨が折れたわい」
と、義太夫が鼻を鳴らす一方で、実際の筆をとったのは――木全彦一郎。
何をやらせても職人芸と称された素破の筆跡は、後藤家中そのものと見まがう巧みさ。
しかも密書の内容には、蒲生の家風まで読み込んだ婉曲な言い回しがちりばめられていた。
佐治新介があきれて言った。
「して、おぬし。これは軍略か、それとも恋の手練手管か?」
義太夫はどこ吹く風で、胸を張る。
「よいか、恋文も軍略も、人の心を揺らす術よ。文というものはのう、『匂わせて、あとは黙る』のが肝なのじゃ!」
そして六角家の中には、見事なまでに疑念の種がまかれた。
後藤と蒲生――。
いずれも血縁により北勢・中勢に網を張る家々が、よりにもよって江北の浅井家と通じようとしているのではないか?
観音寺城の空に、遠火の煙と密書の墨が、じわりと影を落としていった。
――ここからが、始まりである。
誰も知らぬ影が、舞台の袖から忍び寄り、やがて、忠三郎という若き武将の人生を、良くも悪くも変えてゆくことになるのだから。
それからわずか二週間後――十月一日。
観音寺城の山々には、まだ紅葉の色づきも浅い秋の風が吹いていた。
だが、その静けさを破るように、近江の地に血の波が押し寄せた。
六角義治が、後藤但馬守賢豊、そしてその嫡男を、突如として誅殺したのである。
届けられた一通の密書――それが、すべての発端だった。
「後藤・蒲生、浅井と通ず」
偽書であった。だが、それを真と見た義治は、疑念と恐怖に囚われた。
「裏切りじゃ……裏切りじゃ……」
そう呟きながら、義治は冷たい刀を抜いた。
人は恐れに駆られるとき、もっとも身近な者を斬り捨ててしまう。
この理不尽な処断に、六角家の家臣たちは震え上がり、そして散った。
江北に走り、浅井家に従う者。あるいは旗幟を鮮明にし、観音寺城に矢を向ける者。
家中はもはや、鍋を火にかけたように煮えたぎり、誰が味方で誰が敵かも定かでなくなっていた。
だが、皆が見つめていた――あの男を。
蒲生定秀。
甲賀と江南に根を張り、血縁によって勢力を広げた老練の策士。
誰よりも先に、六角家に対し動き出すと信じられていたその男は――動かなかった。
いや、それどころか。
三雲定持と共に、血に染まった義治父子をかくまおうとさえしたのだった。
「老獪というのは、ああいう者のことを申すのでござろうな」
と、義太夫が唇を噛んで漏らした。
一益は、焦った。
あれほど時を尽くし、六角と後藤の関係を断ち切り、戦の火種を撒いたというのに――。
なぜ、蒲生が動かぬ。
動かねば――動かさねばならぬ。
ならば。六角がやったように見せかけ、蒲生の心臓を穿つしかあるまい。
その矛先は、やがて一人の幼子へと向けられた。
蒲生定秀の愛する孫。
神童の誉れ高い、鶴千代――後の忠三郎であった。
「よいか、義太夫。いささか気が進まぬが…今度はやむを得ん。鶴千代を討て」
一益は、深夜の小城でそう命じた。
命を受けた義太夫と、滝川助太郎は、わずか数人の素破を連れて、甲賀路を西へと駆けた。
鶴千代の首――それは、蒲生という老将の心を真に裂く、何よりの楔となるはずだった。
だが――その夜、月は翳っていた。
二人の子供を連れて、逃げようとしている女がいた。
白き裾を風に翻し、恐れを知らぬかのような立ち居振る舞いで子供たちを守ろうとしている、その人こそ、鶴千代の母であり、後藤賢豊の妹であった。
「……来ると思うておりました」
その言葉の刹那、短刀がきらりと舞い、火花のような閃きが夜の中に消えた。
女の身体が、すうと傾ぎ――音もなく地に伏した。
それが、間違いと知ったのは、それから一息も経たぬ後のことだった。
「……母上――!!」
闇の向こうから駆け寄る影。
幼子・鶴千代の姿を見て、義太夫は血の気が引いたという。
間違えた。――討つべきは、その子であったのに。
その夜、風は一層冷たくなった。
東海一の弓取りと称された今川義元を討ち、美濃、そして伊勢へと矛先を向けた。目指すは伊勢、北勢四十八家の制圧である。
その先鋒を任されたのは、信長の信任の厚かった滝川左近将監一益――
兵も金も地縁もなく、あるのは鋭い眼光と底知れぬ胆力、そして口先ひとつで生き抜いてきたしぶとさ。まさに、信長にとっては使い勝手のよい「はがねの駒」だった。
だが、北勢を舐めてはならぬ。
北勢の雄・千草家は、近江六角氏の影響下にあり、当主は六角の家中・後藤但馬守の息子である三左衛門が婿入りしている。北勢に手を出せば、近江の六角も敵に回すことになる――その判断を、若き義太夫は真顔で口にした……つもりだった。
「まったくもって、まともに兵を揃えることもできぬ為体というに、お屋形様はその辺の木から柿の実をとるがごとく、北勢をとれなどと、仰せになる」
と、ため息まじりに吐いたその台詞の、三歩あとでどやしつけられたのは言うまでもない。
「無礼なことを申すな!だいたい、柿の実とは何だ、柿の実とは! 千草の屋敷は木ではないわ!」
声を荒げたのは、一益の従兄弟にして、口うるささ五十人分の男・道家彦八郎。義太夫の足を、わざとらしく軽く蹴った。
「おぬしの頭こそ、柿の実よりも柔うなっておるわい」
「いや、硬いのは頭じゃなくて、心根のほうで……いてっ!」
「二人ともやめい。殿が呆れておるわい」
そう割って入ったのは、目元の優しげな割に、仲裁に入るときだけ急に声が通る男・佐治新介。
その時の一益の顔は、まるで――そう、秋風に干された干し柿のごとく、しわくちゃで、怒気を孕んでいた。
それを思い出すたび、義太夫は今でも茶を吹き出して笑うのだ。
だが、冗談のような話の中に、真の策が潜んでいた。
兵なき攻城戦、血なき合戦。
それこそが、滝川一益の真骨頂。
――城を攻めるには、まず「人の心」を落とせ。
その一言に、佐治新介がぽかんとした顔をして問う。
「人の心……とは。色仕掛けか何かで?」
「それであれば、甲賀一の美丈夫と噂された、この滝川義太夫様の出番じゃ!」
と、義太夫は鼻を鳴らして胸を張る。が、そこに返ってきたのは、涼しげな秋の風と、一益の冷たい吐息だった。
場の空気が凍り付いたところで、道家彦八郎が冷たく言い放った。
「……鼻の下が長うなっただけの男に、誰がほだされようか」
さすがの義太夫も、少しだけ肩をすぼめた。
「――六角家に楔を打ち込む。さすれば北勢どころではなくなる。我らが千草城に兵を進めても、援軍に来ることなどできなくなろう」
一益の声は低く、静かだったが、その冷徹さは耳の奥を刺すようであった。
戦とは、命を削るもの。だが、血を流すばかりが勝利ではない。
心を揺らせば、山も動く。
そう呟いたとき、一陣の風が野のすすきを鳴らし、秋の陽がゆっくりと傾いた。
「六角と後藤の間に楔を打ち込み、仲違いさせることで六角の弱体化をはかる」
新介がそう反芻するように言ったその横で、義太夫はふむふむとうなずきながら、
「……ま、色仕掛けではなかったのう」と、ぽつり。
「言うまでもない!」
と、すかさず三人に同時に指摘され、しょんぼりと背を丸めた。
とはいえ、一益の策は着実に動いていた。
その後も、一益は何度も甲賀の素破たちを近江に送り込んでは六角家の動向を探らせ、自らもたびたび江南へと足を運んだ。素破たちの報せ、北勢と江南の絵図とにらめっこする顔は、もはや書の虫か、算盤を抱いた禅僧のようであった。
そうして、一益は一つの確信に至った。
――北勢や中勢において、真に影響力を持っているのは誰か。
それは、六角でもなければ、後藤でもなかった。
「……日野の、蒲生か」
一益がいぶかしげに眉をひそめると、義太夫と佐治新介は、そろって深々とうなずいた。
「それは確かか?」
「間違いございませぬ。神戸家、関家――いずれも勢州では一筋縄ではいかぬ家でございますが、両家に娘を嫁がせ、縁戚となし、争いを丸く収めたのは……」
「六角の家臣などではありませぬ。六角に『客分』として迎えられていた、蒲生なる老爺にございます」
その名は――蒲生定秀。剃髪し、「快幹《かいかん》」と号するという。
一益は、その名をしばし沈思し、火鉢の灰をじっと見つめた。
調べを進めるうちに、快幹には三人の男子がいることがわかった。次男は江南の豪族・青地家に、三男は同じく小倉家に婿入りし、それぞれ跡目を継いでいた。
「さらには、娘を甲賀の美濃部家にも嫁がせておりまする」
新介が静かに補足した。
つまりは、甲賀にまで、蒲生の血が伸びている――。
その事実に、一益は重く目を伏せた。眼前に立ちはだかるのは、城でも兵でもない。
目に見えぬ根のように広がった、血縁と縁戚の網――人の情と地縁の地脈であった。
「……して、さらに、ようわからぬ噂が――」
義太夫と新介が顔を見合わせ、声を落とす。
「如何なる噂じゃ」
一益が低く問うと、義太夫が小さな声で続けた。
「蒲生の爺には、『神童』とも『鳳の雛』とも噂される孫がおり、その母親は……後藤但馬守の娘であると」
その瞬間、室内の空気がぴたりと静まった。
「後藤の娘……? では、北勢を牛耳る千種三左衛門は……」
「――その弟にございます」
佐治新介が確かめるように言った。
一益は火鉢の灰を掻く手を止め、長く、静かに息をついた。
その吐息の中に、確かに見えた――蒲生快幹の目論見。
(甲賀、中勢、北勢までも、すべてを“血”で繋いで支配しようとしている――)
六角と後藤を引き離したところで、事は終わらない。もはや、それらはただの枝葉に過ぎない。
本当に斬るべきは、根――蒲生快幹、その人である。
外では風が吹いていた。
秋深まり、すすきが一面を揺らす日野の野を、見ぬ者でさえ思い描けるような、冷たい風だった。
「……余程のことをせねば、蒲生には勝てぬものか」
一益がぽつりと呟いたその言葉は、どこか空に吸い込まれていくようだった。
義太夫が、いつになく真顔でつぶやいた。
「――して、その『余程のこと』というのは、色仕掛けではないと?」
「……黙れ」
新介が眉を顰め、義太夫の太ももをつねる。
「…い、いたた…」
一益は火箸を静かに置いた。だが、灰のなかに映った影の輪郭が、先ほどよりもひとつ、濃くなっていた。
まずは、主家との折り合いが悪いと噂される後藤賢豊を、六角家から引き離すこと――。
それが、策の第一歩であった。
一益は義太夫を呼び寄せ、静かに命じた。
「観音寺城の辺りに……火を放て。あくまで匂わせる程度とせよ」
義太夫は目をぱちくりさせたが、すぐににやりと笑った。
「承知つかまつる。火遊びには心得がござります」
二日後の未明、琵琶湖に近い観音寺城の周辺に、小さな火が三つ、灯った。
それは兵火のようでいて、戦とも言い切れぬ、微妙な火災。
農家が誤って藁を焼いたかのような――だが、いずれも六角家の領内であった。
その直後のことであった。
観音寺城の城下に、不審な一団が現れた。
黒頭巾に脚絆、土埃にまみれながら、見るからに怪しげな風体で城下を行き来する者たち――
それは、滝川家の素破であった。
この『うっかり者たち』が、あえて城門の見張りの前を二度、三度と通り過ぎ、見とがめられると懐から一通の巻き紙を落として逃げた。
見張りがそれに気づいたときには、もう素破たちは町角の陰へと消えていた。
拾い上げてみれば、それは後藤家の花押が押された密書。
宛名には――「蒲生定秀殿」。
内容は衝撃的だった。
「時は満ちたり。六角を見限り、北近江・浅井の御傘下に加わるべし。
その節は、後藤・蒲生、心を合わせ、観音寺を衝く」
六角家にとって、それは裏切りの証そのものであった。
もちろん、これはすべて義太夫の仕込みである。
「後藤の筆跡は癖が強いでのう、真似るには骨が折れたわい」
と、義太夫が鼻を鳴らす一方で、実際の筆をとったのは――木全彦一郎。
何をやらせても職人芸と称された素破の筆跡は、後藤家中そのものと見まがう巧みさ。
しかも密書の内容には、蒲生の家風まで読み込んだ婉曲な言い回しがちりばめられていた。
佐治新介があきれて言った。
「して、おぬし。これは軍略か、それとも恋の手練手管か?」
義太夫はどこ吹く風で、胸を張る。
「よいか、恋文も軍略も、人の心を揺らす術よ。文というものはのう、『匂わせて、あとは黙る』のが肝なのじゃ!」
そして六角家の中には、見事なまでに疑念の種がまかれた。
後藤と蒲生――。
いずれも血縁により北勢・中勢に網を張る家々が、よりにもよって江北の浅井家と通じようとしているのではないか?
観音寺城の空に、遠火の煙と密書の墨が、じわりと影を落としていった。
――ここからが、始まりである。
誰も知らぬ影が、舞台の袖から忍び寄り、やがて、忠三郎という若き武将の人生を、良くも悪くも変えてゆくことになるのだから。
それからわずか二週間後――十月一日。
観音寺城の山々には、まだ紅葉の色づきも浅い秋の風が吹いていた。
だが、その静けさを破るように、近江の地に血の波が押し寄せた。
六角義治が、後藤但馬守賢豊、そしてその嫡男を、突如として誅殺したのである。
届けられた一通の密書――それが、すべての発端だった。
「後藤・蒲生、浅井と通ず」
偽書であった。だが、それを真と見た義治は、疑念と恐怖に囚われた。
「裏切りじゃ……裏切りじゃ……」
そう呟きながら、義治は冷たい刀を抜いた。
人は恐れに駆られるとき、もっとも身近な者を斬り捨ててしまう。
この理不尽な処断に、六角家の家臣たちは震え上がり、そして散った。
江北に走り、浅井家に従う者。あるいは旗幟を鮮明にし、観音寺城に矢を向ける者。
家中はもはや、鍋を火にかけたように煮えたぎり、誰が味方で誰が敵かも定かでなくなっていた。
だが、皆が見つめていた――あの男を。
蒲生定秀。
甲賀と江南に根を張り、血縁によって勢力を広げた老練の策士。
誰よりも先に、六角家に対し動き出すと信じられていたその男は――動かなかった。
いや、それどころか。
三雲定持と共に、血に染まった義治父子をかくまおうとさえしたのだった。
「老獪というのは、ああいう者のことを申すのでござろうな」
と、義太夫が唇を噛んで漏らした。
一益は、焦った。
あれほど時を尽くし、六角と後藤の関係を断ち切り、戦の火種を撒いたというのに――。
なぜ、蒲生が動かぬ。
動かねば――動かさねばならぬ。
ならば。六角がやったように見せかけ、蒲生の心臓を穿つしかあるまい。
その矛先は、やがて一人の幼子へと向けられた。
蒲生定秀の愛する孫。
神童の誉れ高い、鶴千代――後の忠三郎であった。
「よいか、義太夫。いささか気が進まぬが…今度はやむを得ん。鶴千代を討て」
一益は、深夜の小城でそう命じた。
命を受けた義太夫と、滝川助太郎は、わずか数人の素破を連れて、甲賀路を西へと駆けた。
鶴千代の首――それは、蒲生という老将の心を真に裂く、何よりの楔となるはずだった。
だが――その夜、月は翳っていた。
二人の子供を連れて、逃げようとしている女がいた。
白き裾を風に翻し、恐れを知らぬかのような立ち居振る舞いで子供たちを守ろうとしている、その人こそ、鶴千代の母であり、後藤賢豊の妹であった。
「……来ると思うておりました」
その言葉の刹那、短刀がきらりと舞い、火花のような閃きが夜の中に消えた。
女の身体が、すうと傾ぎ――音もなく地に伏した。
それが、間違いと知ったのは、それから一息も経たぬ後のことだった。
「……母上――!!」
闇の向こうから駆け寄る影。
幼子・鶴千代の姿を見て、義太夫は血の気が引いたという。
間違えた。――討つべきは、その子であったのに。
その夜、風は一層冷たくなった。
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守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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