獅子の末裔

卯花月影

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36.心短き春の山風

36-2. 命を継ぐ者

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 その年の十月二十五日。伏見の空は澄みわたり、木々はすでに紅葉を落とし、冬の気配が忍び寄っていた。
 宴の夜、忠三郎がもてなした大広間は、炭火のぬくもりと、篝火のゆらめきに包まれていた。
 秀吉、家康、前田利家ら、天下を分かち合う大名たちが一堂に会し、盃を交わして笑い合うその陰で、誰の目にも明らかなものがあった。

 忠三郎の舞――。
 命を振り絞るような、それでいて、羽のように軽やかな舞であった。
 だがその体には、すでに病の影が深く刻まれていた。
 顔色は蝋のように白く、腹の奥を押さえるしぐさが、舞の端々に滲んでいた。
 肝を病んだ者特有の、眼の黄ばみ。時折、誰にも気づかれぬよう口元を拭うその白い袖には、かすかな血の色が混じっていた。

 宴ののち、秀吉は黙って典医を遣わした。
 徳川家康も、江戸より名のある医師を送り寄越し、加賀の利家は、高山右近の配下にあった教会の薬師までも推挙した。

 だが、幾人もの医師が診立てた末、口を揃えてこう告げた。
「病は肝に入りて、すでに癒しがたく候」
「黄疸、腹水、熱、吐き気……もはや、諸薬これを救わず」
「十に九つは難しかろう。ただ一つ望みを託すならば、若さと、いまだ物を口にできること。これのみが頼みの綱」
「されば、今しばらく、静かに、心安らかにお過ごしくださりますよう――」
 帝の御典医を務め、豊臣家にも仕えた当代随一の名医・曲直瀬玄朔に診療の依頼がなされたが、玄朔はその命を辞退した。
「なにゆえ……!」
 町野長門守は憤然として声を上げた。
「太閤殿下の命であるぞ! その玄朔とやら、一介の薬医が何を偉そうに!」
 しかし忠三郎は、やや顔を青ざめさせながらも、静かに微笑んで長門守を制した。
「……長門。気づかぬか。あれはわしの死期を見通しておるのだ」
「死期、とは…」
「僧医というものは、治る見込みなき病者を診たがらぬ。救えぬ命を前に筆を振るえば、名が廃る。玄朔ほどの男であれば、己の名と技を傷つけぬために、身を退くこともまた術のうち」
 長門守は拳を握りしめ、苦々しく顔を背けたが、忠三郎の声音は穏やかだった。
「よいのだ、長門。死は誰にも等しく訪れる。ことさらに抗うことはない。…静かな最期を迎えられれば、それでよしとせねばなるまい」
 その言葉には、もはや怨みも悔いもなかった。


 その報は、洛中を走り、洛外に漏れ、やがて国々にまで広がった。
 会津宰相、重篤なり――と。
 そして、冬の訪れとともに。
 加賀から、ひとりの客が京へと上った。
 高山右近。キリシタン大名として追放の身でありながら、前田家に保護され、密やかに信仰を守り続けていた。
 忠三郎の病を知るや、雪の加賀を発ち、寒風にたなびく旅装のまま、馬を急がせた。
 時はすでに旧暦十一月半ば。
 凍てつく朝靄が伏見の館を包み、白梅のつぼみが固く口を閉ざすころ。
 右近は、静かにその門をくぐった。

 忠三郎は、もう床を離れることも叶わず、布団に横たわっていた。
 腹の腫れが着物の紐をきつく締めさせず、呼吸のたびに、肋のあたりがわずかにひくひくと痙攣していた。
 声は出ず、眼差しも曇っていたが――
 右近の気配に、まぶたがかすかに揺れ、唇が「ゆき……」と震えたように見えた。

 右近は静かに膝を折り、火桶には目もくれず、忠三郎の枕元に顔を寄せる。
「忠三郎殿。来ましたぞ。……ようやく、来られました」
 その言葉に、忠三郎はふっとまぶたを閉じた。
「右近殿にお伺いしたき儀が…」
 かすれた声だった。遠い風の音のように頼りないその言葉に、右近は心得たようにうなずいた。
「お許しあれ、忠三郎殿。これまで秘めていたことのすべてを、お話いたしましょう」
 そう言って右近は火桶の火を見つめたまま、遠い記憶の底から言葉を掘り起こすように、ゆっくりと話しはじめた。

 ――永禄六年、夏。
 高山右近が父・飛騨守とともに洗礼を受け、「ユスト」の名を授かって間もない頃。
 先祖伝来の地、甲賀に戻った折のことだった。
 村の外れで、奇妙な人だかりに出くわした。人々が何事かとざわめき、騒然としていた。
 近づいてみると、土に埋められた少年が、顔だけを地上に出していた。
 まだ十を少し超えた程度の年ごろ。頬には泥がこびりつき、目は怯え、唇は乾ききっていた。
「この童が、また逃げ出そうとしたんでさぁ」
 誰かが、嘲るように言った。
 聞けば、素破の里に売られてきた孤児で、幾度も脱走を試みては捕まり、その罰として土に埋められているのだという。
 右近はその姿を見つめた。少年のまなざしは、泥に塗れていながらも、なお火のように光っていた。
 生きたい――ただ、それだけを訴えている目だった。土に埋もれ、まばたき一つするたびに、乾いた睫がこすれるような、そのか細い瞳の奥に、なお宿っていた火の色。
 少年は、まだ諦めていなかった。
「父上…」
 まだあどけなさを残す右近の声が、ふるえるように漏れた。
 少年の眼差しは、助けを乞うのではなく、何かを訴えようとするように、まっすぐに飛騨守を見上げていた。
 父・高山飛騨守は、しばし無言で少年の目を見つめ返し――やがて静かにうなずいた。
「この者を、それがしにお預け願いたい」
 右近と飛騨守の手によって、少年――三雲佐助は、土の中から引き上げられた。
 凍えきった小さな身体を抱きしめると、佐助は一言も発さず、ただ震えながら涙を流した。
 その涙は泥を伝い、地面にぽとりと落ちた。

 その後の三日間。
 右近は佐助のそばを離れなかった。
 囲炉裏のそばで温めた湯を少しずつ飲ませ、着替えをさせ、言葉をかけ、何よりも、黙って共にいた。
 朝と夕べには、飛騨守が穏やかな声で祈りを捧げ、キリシタンの教えを説いた。
 その語りは、聖典のように荘厳でもなければ、押しつけがましくもなかった。
 あくまで静かに、慈しみに満ちたものであった。

 佐助は最初、目を伏せ、身じろぎもせず聞いていた。
 だが日を追うごとに、その眼差しはわずかに右近や飛騨守を追うようになり、
ある夜には、右近の背中にそっと手を伸ばした。
「……主は、信じるすべての者のそばにおられる」
 飛騨守の言葉に、佐助は、はじめて頷いた。
 そして三日目の夜。
 佐助は右近の膝の上で、ぐっすりと眠った。
 だが、高山家の本領は高槻にあり、長く甲賀にとどまるわけにはいかなかった。

 右近は、名残惜しさをこらえながら、佐助の寝顔を見つめた。炎の揺らめきが、少年の額に金の光を落としていた。
 まるで、その魂に、祝福の印が灯されているかのように。
「佐助……また、必ず……」
 右近は声には出さなかった。ただその小さな肩に手を置き、目を閉じた。
 高山父子は、三雲家に礼を尽くし、甲賀を後にした。
 晩夏の山路を、沈黙のうちに馬を進めながら、右近は祈った。
――願わくば、この子が、人の光の届く場所で、生きられるようにと。
 右近は、声には出さなかった。ただ、その小さな肩に、そっと手を置き、まぶたを閉じた。
 胸の内で繰り返すのは、ひとつの祈り――
 どうか、この子が、人の光の届く場所で、生きていけますように。
 誰にも知られず、誰にも見捨てられず、人の温もりを感じて、ただ、まことの神のみを信じて。

 高山父子は、三雲家に深く頭を下げ、甲賀をあとにした。
 晩夏の山路は、草の匂いと、遠くせみの声が残り、夕日が峠の稜線ににじんでいた。
 沈黙のうちに馬を進めながら、右近は背に小さく刻まれた少年の体温を思い返し、祈るように唇を噛んだ。

――それから、時は流れた。
 佐助は、どうしているだろうか――。
 ふとした折に、右近はその名を思い出すことがあった。
 あの静かな目、深い泥のなかにあってなお、消えなかった光。だが、その消息は、雲をつかむように知れなかった。
 三雲家に留まっているのか。あるいは、どこか他国へ売られたのか。
 誰に引き取られたのか、それすらも分からぬまま、四年の歳月が過ぎた。

 そして、再び佐助の名を耳にしたのは、ある静かな宵だった。
「密命を受け、江南にいると言うておりました」
 右近の言葉が、雪の夜の水のように、ひたひたと胸の奥に沁みていく。
 江南――日野。
 忠三郎は、何も言わず、天井の木組みを見つめていた。
(やはり、そうであったのか)
 佐助が自分のもとへ来たあの頃、いま思えば、何度も不自然な沈黙があった。
 あれほど腕の立つ者が、刺そうと思えば、いつでも、どこでも、自分を仕留めることができたはずなのに――刺さなかった。
 ずっと、傍にいたのに。
 あの眼差しが、今も瞼の裏に焼きついている。
 火の傍で、片膝を立てて坐っていた佐助。
 揺らめく炎の影が、その頬をなぞり、沈黙の底に、心のうねりが垣間見えた。
「幼い子の命を奪わねばならぬと。されど、それができそうにないと。悩んだ末に、それがしのもとへ相談にきたのでござります」
 右近の声が、遠くなってゆく。

 ――では、あれは、根も葉もない噂などではなかったのか。
 佐助が刺客として差し向けられていたという話。
 ただの悪意に満ちた風評ではなかったのか。
 忠三郎は、そっとまぶたを閉じた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れるのを感じた。
 けれど、不思議と、痛みはなかった。怒りもなかった。
 裏切られたと叫ぶこともできなかった。
 それどころか――ほのかに、懐かしさすら覚えた。

 薄々は、感じていた。佐助が、誰かに命じられて来た者であろうことを。
 だからこそ、何も言わずに去ったのだ。
 背を向けたのは、逃げたのではなく、刃を振るわぬためだったのだ。
「例え、恩義ある師を裏切ることになろうとも、忠三郎殿を守り続けると、そう言う佐助に、それがしは、それが正しき道であると、そう伝えた次第」
 右近の声が、もう一度、耳朶をうった。
「佐助が…」
 では、あのときの言葉は、嘘ではなかったのか。
 命を懸けて、守ると。
 あの、夜更けの雪の中で、ふっと言い残した、短い一言。
(ああ……そうか……)
 忠三郎は、胸の奥深くで呟いた。言葉にはならぬ、魂の気づきのように。

 あの日から、すべてはもう始まっていたのかもしれない。
 自分が命を得た、そのかげで、誰かが命を懸けていた。
 命を奪う役目を負わされた者が、その命を奪わぬと選んだことで――今の自分が、ここに、こうして在る。
 そう思えば、胸の内に、静かな温もりがゆっくりと広がってゆく。

 冷えきった炉に小さな灯が戻ってくるように。懐かしい名を、心の中で、ただそっと呼ぶ。
(……佐助)
 人は、なぜこうも深く、他者の生に関わってしまうのだろう。
 自分自身の運命のように、絡まり、結ばれ、ほどけることなく――。

 その夜、忠三郎はひとことも言葉を発さず、けれど、右近の語りが終わるころには、そのまぶたに、ひとすじ、涙の痕があった。

 右近は忠三郎の枕元に座し、ひとしきり祈りをささげると、そっと十字を切った。蝋燭の火は揺れ、障子の向こうでは北風が杉を渡る音がしていた。
 忠三郎はもう、口を開いて話すことも稀になっていた。だが右近の語る天国の風景――悲しみも、痛みもない世界――を、かすかにうなずいて聞いていた。
 厠に立つにも、人の手を借りなければならず、床の中に身を横たえたまま、昏々と日が過ぎていく。痩せたその手を、右近は日に何度もぬくもりで包みこんだ。

 右近は佐助の名を、二度と口に出さなかった。忠三郎もまた、それを問うことはしなかった。
 問えば、右近は必ず嘘をつかねばならない――あるいは、すべてを語らねばならぬのだ。
 それは右近にとっても、あまりに重すぎる懺悔であるに違いない。
 忠三郎は、佐助を送り込んだ者の顔を、心のどこかで思い浮かべていた。

 右近ではない。
 右近のもとに相談が持ち込まれた時点で、すでに密命は下っていたのだ。
 ならば、佐助の背後にいた影は、誰なのか――。
 その答えは、とうに自分の中にあった。けれど、それを認めることは、どうしてもできなかった。
 心のどこかで、「まさか」と思い続けていた。そうであってほしくない、と願いながら。

 その答えは、ある冬の午後、何の前触れもなく、まるで日常の延長のような顔をして現れた。
 湯がたぎる音。茶を煮る匂いが部屋にたちこめるころ――。
「鶴。如何した。養生が足りぬようじゃなぁ」
 しわがれたが、どこか陽気な響きを帯びた声。
 障子が開くと、そこには歳を重ねていっそう面の皮が厚くなったような男が立っていた。
 黒羽織に身を包み、白い髭をゆったりと撫でながら入ってきたのは、他でもない――滝川義太夫だった。
 その名を心に浮かべたとき、忠三郎の胸に、幾度となく交わした言葉、叱責、笑い声、裏切り、そして哀しみが波のように押し寄せた。
 右近がわずかに眉を動かすのが見えた。右近もまた、義太夫を待っていたのかもしれない。
 義太夫は部屋の空気を読むように、少しだけ頭を下げ、忠三郎の枕元に膝をついた。
「痩せたのう、鶴。おぬしは昔から酒ばかり飲み、飯を食わぬからかようなことになるのじゃ」
 忠三郎はかすかに唇を動かした。
 それが微笑であったのか、痛みに耐える歪みであったのか、右近にも判然としなかった。
 義太夫の目の奥に、ふっと翳りが射す。
「おぬしに会うておかねばならぬと思うてな。――いや、おぬしに、詫びをせねばならぬと思うて、来たのじゃ」
 あの豪胆で、打っても響かぬような男の声ではなかった。
 これは――まるで、ひとりの老いた父が、子に語る言葉のようだった。

 右近が、はっとしたように顔を上げた。
 忠三郎は目を閉じたまま、呼吸を続けていた。その頬を、静かに涙が伝った。
 雪が、音もなく降っていた。
 外の庭に積もる白は、言葉も、怒りも、記憶も、すべてを覆い隠してしまうかのようだった。
 やがて、語られた言葉と、語られなかった沈黙のあいだに、ひとつずつ、秘められてきた真実が解きほぐされていく。
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