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36.心短き春の山風
36-2. 命を継ぐ者
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その年の十月二十五日。伏見の空は澄みわたり、木々はすでに紅葉を落とし、冬の気配が忍び寄っていた。
宴の夜、忠三郎がもてなした大広間は、炭火のぬくもりと、篝火のゆらめきに包まれていた。
秀吉、家康、前田利家ら、天下を分かち合う大名たちが一堂に会し、盃を交わして笑い合うその陰で、誰の目にも明らかなものがあった。
忠三郎の舞――。
命を振り絞るような、それでいて、羽のように軽やかな舞であった。
だがその体には、すでに病の影が深く刻まれていた。
顔色は蝋のように白く、腹の奥を押さえるしぐさが、舞の端々に滲んでいた。
肝を病んだ者特有の、眼の黄ばみ。時折、誰にも気づかれぬよう口元を拭うその白い袖には、かすかな血の色が混じっていた。
宴ののち、秀吉は黙って典医を遣わした。
徳川家康も、江戸より名のある医師を送り寄越し、加賀の利家は、高山右近の配下にあった教会の薬師までも推挙した。
だが、幾人もの医師が診立てた末、口を揃えてこう告げた。
「病は肝に入りて、すでに癒しがたく候」
「黄疸、腹水、熱、吐き気……もはや、諸薬これを救わず」
「十に九つは難しかろう。ただ一つ望みを託すならば、若さと、いまだ物を口にできること。これのみが頼みの綱」
「されば、今しばらく、静かに、心安らかにお過ごしくださりますよう――」
帝の御典医を務め、豊臣家にも仕えた当代随一の名医・曲直瀬玄朔に診療の依頼がなされたが、玄朔はその命を辞退した。
「なにゆえ……!」
町野長門守は憤然として声を上げた。
「太閤殿下の命であるぞ! その玄朔とやら、一介の薬医が何を偉そうに!」
しかし忠三郎は、やや顔を青ざめさせながらも、静かに微笑んで長門守を制した。
「……長門。気づかぬか。あれはわしの死期を見通しておるのだ」
「死期、とは…」
「僧医というものは、治る見込みなき病者を診たがらぬ。救えぬ命を前に筆を振るえば、名が廃る。玄朔ほどの男であれば、己の名と技を傷つけぬために、身を退くこともまた術のうち」
長門守は拳を握りしめ、苦々しく顔を背けたが、忠三郎の声音は穏やかだった。
「よいのだ、長門。死は誰にも等しく訪れる。ことさらに抗うことはない。…静かな最期を迎えられれば、それでよしとせねばなるまい」
その言葉には、もはや怨みも悔いもなかった。
その報は、洛中を走り、洛外に漏れ、やがて国々にまで広がった。
会津宰相、重篤なり――と。
そして、冬の訪れとともに。
加賀から、ひとりの客が京へと上った。
高山右近。キリシタン大名として追放の身でありながら、前田家に保護され、密やかに信仰を守り続けていた。
忠三郎の病を知るや、雪の加賀を発ち、寒風にたなびく旅装のまま、馬を急がせた。
時はすでに旧暦十一月半ば。
凍てつく朝靄が伏見の館を包み、白梅のつぼみが固く口を閉ざすころ。
右近は、静かにその門をくぐった。
忠三郎は、もう床を離れることも叶わず、布団に横たわっていた。
腹の腫れが着物の紐をきつく締めさせず、呼吸のたびに、肋のあたりがわずかにひくひくと痙攣していた。
声は出ず、眼差しも曇っていたが――
右近の気配に、まぶたがかすかに揺れ、唇が「ゆき……」と震えたように見えた。
右近は静かに膝を折り、火桶には目もくれず、忠三郎の枕元に顔を寄せる。
「忠三郎殿。来ましたぞ。……ようやく、来られました」
その言葉に、忠三郎はふっとまぶたを閉じた。
「右近殿にお伺いしたき儀が…」
かすれた声だった。遠い風の音のように頼りないその言葉に、右近は心得たようにうなずいた。
「お許しあれ、忠三郎殿。これまで秘めていたことのすべてを、お話いたしましょう」
そう言って右近は火桶の火を見つめたまま、遠い記憶の底から言葉を掘り起こすように、ゆっくりと話しはじめた。
――永禄六年、夏。
高山右近が父・飛騨守とともに洗礼を受け、「ユスト」の名を授かって間もない頃。
先祖伝来の地、甲賀に戻った折のことだった。
村の外れで、奇妙な人だかりに出くわした。人々が何事かとざわめき、騒然としていた。
近づいてみると、土に埋められた少年が、顔だけを地上に出していた。
まだ十を少し超えた程度の年ごろ。頬には泥がこびりつき、目は怯え、唇は乾ききっていた。
「この童が、また逃げ出そうとしたんでさぁ」
誰かが、嘲るように言った。
聞けば、素破の里に売られてきた孤児で、幾度も脱走を試みては捕まり、その罰として土に埋められているのだという。
右近はその姿を見つめた。少年のまなざしは、泥に塗れていながらも、なお火のように光っていた。
生きたい――ただ、それだけを訴えている目だった。土に埋もれ、まばたき一つするたびに、乾いた睫がこすれるような、そのか細い瞳の奥に、なお宿っていた火の色。
少年は、まだ諦めていなかった。
「父上…」
まだあどけなさを残す右近の声が、ふるえるように漏れた。
少年の眼差しは、助けを乞うのではなく、何かを訴えようとするように、まっすぐに飛騨守を見上げていた。
父・高山飛騨守は、しばし無言で少年の目を見つめ返し――やがて静かにうなずいた。
「この者を、それがしにお預け願いたい」
右近と飛騨守の手によって、少年――三雲佐助は、土の中から引き上げられた。
凍えきった小さな身体を抱きしめると、佐助は一言も発さず、ただ震えながら涙を流した。
その涙は泥を伝い、地面にぽとりと落ちた。
その後の三日間。
右近は佐助のそばを離れなかった。
囲炉裏のそばで温めた湯を少しずつ飲ませ、着替えをさせ、言葉をかけ、何よりも、黙って共にいた。
朝と夕べには、飛騨守が穏やかな声で祈りを捧げ、キリシタンの教えを説いた。
その語りは、聖典のように荘厳でもなければ、押しつけがましくもなかった。
あくまで静かに、慈しみに満ちたものであった。
佐助は最初、目を伏せ、身じろぎもせず聞いていた。
だが日を追うごとに、その眼差しはわずかに右近や飛騨守を追うようになり、
ある夜には、右近の背中にそっと手を伸ばした。
「……主は、信じるすべての者のそばにおられる」
飛騨守の言葉に、佐助は、はじめて頷いた。
そして三日目の夜。
佐助は右近の膝の上で、ぐっすりと眠った。
だが、高山家の本領は高槻にあり、長く甲賀にとどまるわけにはいかなかった。
右近は、名残惜しさをこらえながら、佐助の寝顔を見つめた。炎の揺らめきが、少年の額に金の光を落としていた。
まるで、その魂に、祝福の印が灯されているかのように。
「佐助……また、必ず……」
右近は声には出さなかった。ただその小さな肩に手を置き、目を閉じた。
高山父子は、三雲家に礼を尽くし、甲賀を後にした。
晩夏の山路を、沈黙のうちに馬を進めながら、右近は祈った。
――願わくば、この子が、人の光の届く場所で、生きられるようにと。
右近は、声には出さなかった。ただ、その小さな肩に、そっと手を置き、まぶたを閉じた。
胸の内で繰り返すのは、ひとつの祈り――
どうか、この子が、人の光の届く場所で、生きていけますように。
誰にも知られず、誰にも見捨てられず、人の温もりを感じて、ただ、まことの神のみを信じて。
高山父子は、三雲家に深く頭を下げ、甲賀をあとにした。
晩夏の山路は、草の匂いと、遠くせみの声が残り、夕日が峠の稜線ににじんでいた。
沈黙のうちに馬を進めながら、右近は背に小さく刻まれた少年の体温を思い返し、祈るように唇を噛んだ。
――それから、時は流れた。
佐助は、どうしているだろうか――。
ふとした折に、右近はその名を思い出すことがあった。
あの静かな目、深い泥のなかにあってなお、消えなかった光。だが、その消息は、雲をつかむように知れなかった。
三雲家に留まっているのか。あるいは、どこか他国へ売られたのか。
誰に引き取られたのか、それすらも分からぬまま、四年の歳月が過ぎた。
そして、再び佐助の名を耳にしたのは、ある静かな宵だった。
「密命を受け、江南にいると言うておりました」
右近の言葉が、雪の夜の水のように、ひたひたと胸の奥に沁みていく。
江南――日野。
忠三郎は、何も言わず、天井の木組みを見つめていた。
(やはり、そうであったのか)
佐助が自分のもとへ来たあの頃、いま思えば、何度も不自然な沈黙があった。
あれほど腕の立つ者が、刺そうと思えば、いつでも、どこでも、自分を仕留めることができたはずなのに――刺さなかった。
ずっと、傍にいたのに。
あの眼差しが、今も瞼の裏に焼きついている。
火の傍で、片膝を立てて坐っていた佐助。
揺らめく炎の影が、その頬をなぞり、沈黙の底に、心のうねりが垣間見えた。
「幼い子の命を奪わねばならぬと。されど、それができそうにないと。悩んだ末に、それがしのもとへ相談にきたのでござります」
右近の声が、遠くなってゆく。
――では、あれは、根も葉もない噂などではなかったのか。
佐助が刺客として差し向けられていたという話。
ただの悪意に満ちた風評ではなかったのか。
忠三郎は、そっとまぶたを閉じた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れるのを感じた。
けれど、不思議と、痛みはなかった。怒りもなかった。
裏切られたと叫ぶこともできなかった。
それどころか――ほのかに、懐かしさすら覚えた。
薄々は、感じていた。佐助が、誰かに命じられて来た者であろうことを。
だからこそ、何も言わずに去ったのだ。
背を向けたのは、逃げたのではなく、刃を振るわぬためだったのだ。
「例え、恩義ある師を裏切ることになろうとも、忠三郎殿を守り続けると、そう言う佐助に、それがしは、それが正しき道であると、そう伝えた次第」
右近の声が、もう一度、耳朶をうった。
「佐助が…」
では、あのときの言葉は、嘘ではなかったのか。
命を懸けて、守ると。
あの、夜更けの雪の中で、ふっと言い残した、短い一言。
(ああ……そうか……)
忠三郎は、胸の奥深くで呟いた。言葉にはならぬ、魂の気づきのように。
あの日から、すべてはもう始まっていたのかもしれない。
自分が命を得た、そのかげで、誰かが命を懸けていた。
命を奪う役目を負わされた者が、その命を奪わぬと選んだことで――今の自分が、ここに、こうして在る。
そう思えば、胸の内に、静かな温もりがゆっくりと広がってゆく。
冷えきった炉に小さな灯が戻ってくるように。懐かしい名を、心の中で、ただそっと呼ぶ。
(……佐助)
人は、なぜこうも深く、他者の生に関わってしまうのだろう。
自分自身の運命のように、絡まり、結ばれ、ほどけることなく――。
その夜、忠三郎はひとことも言葉を発さず、けれど、右近の語りが終わるころには、そのまぶたに、ひとすじ、涙の痕があった。
右近は忠三郎の枕元に座し、ひとしきり祈りをささげると、そっと十字を切った。蝋燭の火は揺れ、障子の向こうでは北風が杉を渡る音がしていた。
忠三郎はもう、口を開いて話すことも稀になっていた。だが右近の語る天国の風景――悲しみも、痛みもない世界――を、かすかにうなずいて聞いていた。
厠に立つにも、人の手を借りなければならず、床の中に身を横たえたまま、昏々と日が過ぎていく。痩せたその手を、右近は日に何度もぬくもりで包みこんだ。
右近は佐助の名を、二度と口に出さなかった。忠三郎もまた、それを問うことはしなかった。
問えば、右近は必ず嘘をつかねばならない――あるいは、すべてを語らねばならぬのだ。
それは右近にとっても、あまりに重すぎる懺悔であるに違いない。
忠三郎は、佐助を送り込んだ者の顔を、心のどこかで思い浮かべていた。
右近ではない。
右近のもとに相談が持ち込まれた時点で、すでに密命は下っていたのだ。
ならば、佐助の背後にいた影は、誰なのか――。
その答えは、とうに自分の中にあった。けれど、それを認めることは、どうしてもできなかった。
心のどこかで、「まさか」と思い続けていた。そうであってほしくない、と願いながら。
その答えは、ある冬の午後、何の前触れもなく、まるで日常の延長のような顔をして現れた。
湯がたぎる音。茶を煮る匂いが部屋にたちこめるころ――。
「鶴。如何した。養生が足りぬようじゃなぁ」
しわがれたが、どこか陽気な響きを帯びた声。
障子が開くと、そこには歳を重ねていっそう面の皮が厚くなったような男が立っていた。
黒羽織に身を包み、白い髭をゆったりと撫でながら入ってきたのは、他でもない――滝川義太夫だった。
その名を心に浮かべたとき、忠三郎の胸に、幾度となく交わした言葉、叱責、笑い声、裏切り、そして哀しみが波のように押し寄せた。
右近がわずかに眉を動かすのが見えた。右近もまた、義太夫を待っていたのかもしれない。
義太夫は部屋の空気を読むように、少しだけ頭を下げ、忠三郎の枕元に膝をついた。
「痩せたのう、鶴。おぬしは昔から酒ばかり飲み、飯を食わぬからかようなことになるのじゃ」
忠三郎はかすかに唇を動かした。
それが微笑であったのか、痛みに耐える歪みであったのか、右近にも判然としなかった。
義太夫の目の奥に、ふっと翳りが射す。
「おぬしに会うておかねばならぬと思うてな。――いや、おぬしに、詫びをせねばならぬと思うて、来たのじゃ」
あの豪胆で、打っても響かぬような男の声ではなかった。
これは――まるで、ひとりの老いた父が、子に語る言葉のようだった。
右近が、はっとしたように顔を上げた。
忠三郎は目を閉じたまま、呼吸を続けていた。その頬を、静かに涙が伝った。
雪が、音もなく降っていた。
外の庭に積もる白は、言葉も、怒りも、記憶も、すべてを覆い隠してしまうかのようだった。
やがて、語られた言葉と、語られなかった沈黙のあいだに、ひとつずつ、秘められてきた真実が解きほぐされていく。
宴の夜、忠三郎がもてなした大広間は、炭火のぬくもりと、篝火のゆらめきに包まれていた。
秀吉、家康、前田利家ら、天下を分かち合う大名たちが一堂に会し、盃を交わして笑い合うその陰で、誰の目にも明らかなものがあった。
忠三郎の舞――。
命を振り絞るような、それでいて、羽のように軽やかな舞であった。
だがその体には、すでに病の影が深く刻まれていた。
顔色は蝋のように白く、腹の奥を押さえるしぐさが、舞の端々に滲んでいた。
肝を病んだ者特有の、眼の黄ばみ。時折、誰にも気づかれぬよう口元を拭うその白い袖には、かすかな血の色が混じっていた。
宴ののち、秀吉は黙って典医を遣わした。
徳川家康も、江戸より名のある医師を送り寄越し、加賀の利家は、高山右近の配下にあった教会の薬師までも推挙した。
だが、幾人もの医師が診立てた末、口を揃えてこう告げた。
「病は肝に入りて、すでに癒しがたく候」
「黄疸、腹水、熱、吐き気……もはや、諸薬これを救わず」
「十に九つは難しかろう。ただ一つ望みを託すならば、若さと、いまだ物を口にできること。これのみが頼みの綱」
「されば、今しばらく、静かに、心安らかにお過ごしくださりますよう――」
帝の御典医を務め、豊臣家にも仕えた当代随一の名医・曲直瀬玄朔に診療の依頼がなされたが、玄朔はその命を辞退した。
「なにゆえ……!」
町野長門守は憤然として声を上げた。
「太閤殿下の命であるぞ! その玄朔とやら、一介の薬医が何を偉そうに!」
しかし忠三郎は、やや顔を青ざめさせながらも、静かに微笑んで長門守を制した。
「……長門。気づかぬか。あれはわしの死期を見通しておるのだ」
「死期、とは…」
「僧医というものは、治る見込みなき病者を診たがらぬ。救えぬ命を前に筆を振るえば、名が廃る。玄朔ほどの男であれば、己の名と技を傷つけぬために、身を退くこともまた術のうち」
長門守は拳を握りしめ、苦々しく顔を背けたが、忠三郎の声音は穏やかだった。
「よいのだ、長門。死は誰にも等しく訪れる。ことさらに抗うことはない。…静かな最期を迎えられれば、それでよしとせねばなるまい」
その言葉には、もはや怨みも悔いもなかった。
その報は、洛中を走り、洛外に漏れ、やがて国々にまで広がった。
会津宰相、重篤なり――と。
そして、冬の訪れとともに。
加賀から、ひとりの客が京へと上った。
高山右近。キリシタン大名として追放の身でありながら、前田家に保護され、密やかに信仰を守り続けていた。
忠三郎の病を知るや、雪の加賀を発ち、寒風にたなびく旅装のまま、馬を急がせた。
時はすでに旧暦十一月半ば。
凍てつく朝靄が伏見の館を包み、白梅のつぼみが固く口を閉ざすころ。
右近は、静かにその門をくぐった。
忠三郎は、もう床を離れることも叶わず、布団に横たわっていた。
腹の腫れが着物の紐をきつく締めさせず、呼吸のたびに、肋のあたりがわずかにひくひくと痙攣していた。
声は出ず、眼差しも曇っていたが――
右近の気配に、まぶたがかすかに揺れ、唇が「ゆき……」と震えたように見えた。
右近は静かに膝を折り、火桶には目もくれず、忠三郎の枕元に顔を寄せる。
「忠三郎殿。来ましたぞ。……ようやく、来られました」
その言葉に、忠三郎はふっとまぶたを閉じた。
「右近殿にお伺いしたき儀が…」
かすれた声だった。遠い風の音のように頼りないその言葉に、右近は心得たようにうなずいた。
「お許しあれ、忠三郎殿。これまで秘めていたことのすべてを、お話いたしましょう」
そう言って右近は火桶の火を見つめたまま、遠い記憶の底から言葉を掘り起こすように、ゆっくりと話しはじめた。
――永禄六年、夏。
高山右近が父・飛騨守とともに洗礼を受け、「ユスト」の名を授かって間もない頃。
先祖伝来の地、甲賀に戻った折のことだった。
村の外れで、奇妙な人だかりに出くわした。人々が何事かとざわめき、騒然としていた。
近づいてみると、土に埋められた少年が、顔だけを地上に出していた。
まだ十を少し超えた程度の年ごろ。頬には泥がこびりつき、目は怯え、唇は乾ききっていた。
「この童が、また逃げ出そうとしたんでさぁ」
誰かが、嘲るように言った。
聞けば、素破の里に売られてきた孤児で、幾度も脱走を試みては捕まり、その罰として土に埋められているのだという。
右近はその姿を見つめた。少年のまなざしは、泥に塗れていながらも、なお火のように光っていた。
生きたい――ただ、それだけを訴えている目だった。土に埋もれ、まばたき一つするたびに、乾いた睫がこすれるような、そのか細い瞳の奥に、なお宿っていた火の色。
少年は、まだ諦めていなかった。
「父上…」
まだあどけなさを残す右近の声が、ふるえるように漏れた。
少年の眼差しは、助けを乞うのではなく、何かを訴えようとするように、まっすぐに飛騨守を見上げていた。
父・高山飛騨守は、しばし無言で少年の目を見つめ返し――やがて静かにうなずいた。
「この者を、それがしにお預け願いたい」
右近と飛騨守の手によって、少年――三雲佐助は、土の中から引き上げられた。
凍えきった小さな身体を抱きしめると、佐助は一言も発さず、ただ震えながら涙を流した。
その涙は泥を伝い、地面にぽとりと落ちた。
その後の三日間。
右近は佐助のそばを離れなかった。
囲炉裏のそばで温めた湯を少しずつ飲ませ、着替えをさせ、言葉をかけ、何よりも、黙って共にいた。
朝と夕べには、飛騨守が穏やかな声で祈りを捧げ、キリシタンの教えを説いた。
その語りは、聖典のように荘厳でもなければ、押しつけがましくもなかった。
あくまで静かに、慈しみに満ちたものであった。
佐助は最初、目を伏せ、身じろぎもせず聞いていた。
だが日を追うごとに、その眼差しはわずかに右近や飛騨守を追うようになり、
ある夜には、右近の背中にそっと手を伸ばした。
「……主は、信じるすべての者のそばにおられる」
飛騨守の言葉に、佐助は、はじめて頷いた。
そして三日目の夜。
佐助は右近の膝の上で、ぐっすりと眠った。
だが、高山家の本領は高槻にあり、長く甲賀にとどまるわけにはいかなかった。
右近は、名残惜しさをこらえながら、佐助の寝顔を見つめた。炎の揺らめきが、少年の額に金の光を落としていた。
まるで、その魂に、祝福の印が灯されているかのように。
「佐助……また、必ず……」
右近は声には出さなかった。ただその小さな肩に手を置き、目を閉じた。
高山父子は、三雲家に礼を尽くし、甲賀を後にした。
晩夏の山路を、沈黙のうちに馬を進めながら、右近は祈った。
――願わくば、この子が、人の光の届く場所で、生きられるようにと。
右近は、声には出さなかった。ただ、その小さな肩に、そっと手を置き、まぶたを閉じた。
胸の内で繰り返すのは、ひとつの祈り――
どうか、この子が、人の光の届く場所で、生きていけますように。
誰にも知られず、誰にも見捨てられず、人の温もりを感じて、ただ、まことの神のみを信じて。
高山父子は、三雲家に深く頭を下げ、甲賀をあとにした。
晩夏の山路は、草の匂いと、遠くせみの声が残り、夕日が峠の稜線ににじんでいた。
沈黙のうちに馬を進めながら、右近は背に小さく刻まれた少年の体温を思い返し、祈るように唇を噛んだ。
――それから、時は流れた。
佐助は、どうしているだろうか――。
ふとした折に、右近はその名を思い出すことがあった。
あの静かな目、深い泥のなかにあってなお、消えなかった光。だが、その消息は、雲をつかむように知れなかった。
三雲家に留まっているのか。あるいは、どこか他国へ売られたのか。
誰に引き取られたのか、それすらも分からぬまま、四年の歳月が過ぎた。
そして、再び佐助の名を耳にしたのは、ある静かな宵だった。
「密命を受け、江南にいると言うておりました」
右近の言葉が、雪の夜の水のように、ひたひたと胸の奥に沁みていく。
江南――日野。
忠三郎は、何も言わず、天井の木組みを見つめていた。
(やはり、そうであったのか)
佐助が自分のもとへ来たあの頃、いま思えば、何度も不自然な沈黙があった。
あれほど腕の立つ者が、刺そうと思えば、いつでも、どこでも、自分を仕留めることができたはずなのに――刺さなかった。
ずっと、傍にいたのに。
あの眼差しが、今も瞼の裏に焼きついている。
火の傍で、片膝を立てて坐っていた佐助。
揺らめく炎の影が、その頬をなぞり、沈黙の底に、心のうねりが垣間見えた。
「幼い子の命を奪わねばならぬと。されど、それができそうにないと。悩んだ末に、それがしのもとへ相談にきたのでござります」
右近の声が、遠くなってゆく。
――では、あれは、根も葉もない噂などではなかったのか。
佐助が刺客として差し向けられていたという話。
ただの悪意に満ちた風評ではなかったのか。
忠三郎は、そっとまぶたを閉じた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れるのを感じた。
けれど、不思議と、痛みはなかった。怒りもなかった。
裏切られたと叫ぶこともできなかった。
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だからこそ、何も言わずに去ったのだ。
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右近の声が、もう一度、耳朶をうった。
「佐助が…」
では、あのときの言葉は、嘘ではなかったのか。
命を懸けて、守ると。
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(ああ……そうか……)
忠三郎は、胸の奥深くで呟いた。言葉にはならぬ、魂の気づきのように。
あの日から、すべてはもう始まっていたのかもしれない。
自分が命を得た、そのかげで、誰かが命を懸けていた。
命を奪う役目を負わされた者が、その命を奪わぬと選んだことで――今の自分が、ここに、こうして在る。
そう思えば、胸の内に、静かな温もりがゆっくりと広がってゆく。
冷えきった炉に小さな灯が戻ってくるように。懐かしい名を、心の中で、ただそっと呼ぶ。
(……佐助)
人は、なぜこうも深く、他者の生に関わってしまうのだろう。
自分自身の運命のように、絡まり、結ばれ、ほどけることなく――。
その夜、忠三郎はひとことも言葉を発さず、けれど、右近の語りが終わるころには、そのまぶたに、ひとすじ、涙の痕があった。
右近は忠三郎の枕元に座し、ひとしきり祈りをささげると、そっと十字を切った。蝋燭の火は揺れ、障子の向こうでは北風が杉を渡る音がしていた。
忠三郎はもう、口を開いて話すことも稀になっていた。だが右近の語る天国の風景――悲しみも、痛みもない世界――を、かすかにうなずいて聞いていた。
厠に立つにも、人の手を借りなければならず、床の中に身を横たえたまま、昏々と日が過ぎていく。痩せたその手を、右近は日に何度もぬくもりで包みこんだ。
右近は佐助の名を、二度と口に出さなかった。忠三郎もまた、それを問うことはしなかった。
問えば、右近は必ず嘘をつかねばならない――あるいは、すべてを語らねばならぬのだ。
それは右近にとっても、あまりに重すぎる懺悔であるに違いない。
忠三郎は、佐助を送り込んだ者の顔を、心のどこかで思い浮かべていた。
右近ではない。
右近のもとに相談が持ち込まれた時点で、すでに密命は下っていたのだ。
ならば、佐助の背後にいた影は、誰なのか――。
その答えは、とうに自分の中にあった。けれど、それを認めることは、どうしてもできなかった。
心のどこかで、「まさか」と思い続けていた。そうであってほしくない、と願いながら。
その答えは、ある冬の午後、何の前触れもなく、まるで日常の延長のような顔をして現れた。
湯がたぎる音。茶を煮る匂いが部屋にたちこめるころ――。
「鶴。如何した。養生が足りぬようじゃなぁ」
しわがれたが、どこか陽気な響きを帯びた声。
障子が開くと、そこには歳を重ねていっそう面の皮が厚くなったような男が立っていた。
黒羽織に身を包み、白い髭をゆったりと撫でながら入ってきたのは、他でもない――滝川義太夫だった。
その名を心に浮かべたとき、忠三郎の胸に、幾度となく交わした言葉、叱責、笑い声、裏切り、そして哀しみが波のように押し寄せた。
右近がわずかに眉を動かすのが見えた。右近もまた、義太夫を待っていたのかもしれない。
義太夫は部屋の空気を読むように、少しだけ頭を下げ、忠三郎の枕元に膝をついた。
「痩せたのう、鶴。おぬしは昔から酒ばかり飲み、飯を食わぬからかようなことになるのじゃ」
忠三郎はかすかに唇を動かした。
それが微笑であったのか、痛みに耐える歪みであったのか、右近にも判然としなかった。
義太夫の目の奥に、ふっと翳りが射す。
「おぬしに会うておかねばならぬと思うてな。――いや、おぬしに、詫びをせねばならぬと思うて、来たのじゃ」
あの豪胆で、打っても響かぬような男の声ではなかった。
これは――まるで、ひとりの老いた父が、子に語る言葉のようだった。
右近が、はっとしたように顔を上げた。
忠三郎は目を閉じたまま、呼吸を続けていた。その頬を、静かに涙が伝った。
雪が、音もなく降っていた。
外の庭に積もる白は、言葉も、怒りも、記憶も、すべてを覆い隠してしまうかのようだった。
やがて、語られた言葉と、語られなかった沈黙のあいだに、ひとつずつ、秘められてきた真実が解きほぐされていく。
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世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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