54 / 146
8 一期一会
8-4 鉄甲船
しおりを挟む
天つ正しき四の年。
一益は志摩の海賊、九鬼嘉隆とともに安土の信長の前に伺候した。
この七月、若狭住吉の浜にて、織田方の和泉海賊衆三百艘が本願寺への補給を阻もうとした。だが現れたは瀬戸内の雄・村上海賊、八百艘。焙烙火矢の雨に晒され、和泉衆の船は燃え上がり、次々と沈んでいった。敗残した者たちの報告は凄惨をきわめ、織田家の海戦力がいかに脆いかを知らしめた。
「兵站を絶たねば、この戦は終わらぬ」
信長は不機嫌そうに言い放った。
「阿武船を造れ。伊勢・志摩より大船を出し、海より本願寺を囲むのじゃ」
だが九鬼嘉隆は首を振った。
「船は木造。火をかけてられて燃えぬ船などござりませぬ」
信長は一益を見据える。
「左近、如何じゃ。燃えぬ船を造れるか」
(燃えぬ船…燃え尽きぬ木か)
突拍子もない命に、一益は言葉を失った。だが脳裏にふと、南蛮僧ロレンソの語っていた「燃え尽きぬ柴」の話がよぎる。燃え盛るのに燃え尽きぬ柴――あれは神の奇跡のたとえであったが、思考の糸口となるかもしれない。
上洛した一益は、忠三郎と義太夫を伴い、南蛮寺を訪ねた。
南蛮寺は老朽化に伴い大きく建て替えられていた。三層の楼閣は瓦葺きながら異国の彩りを帯び、屋根の上には金に輝く十字架が夕陽を受けてきらめく。 門をくぐれば、ポルトガルから運ばれた大鐘が低く鳴り、どこか異国めいた旋律の祈祷歌が流れている。香炉からは葡萄酒のように甘い香が漂い、馬屋には色鮮やかな鞍をつけた馬があふれ、町人、武士、南蛮人が入り乱れていた。異様な熱気と雑多なざわめきに、一益は思わず足を止める。
(これが…南蛮の祈りの場か)
一体、誰が来ているのかと不思議に思って本堂に近づくと、供の者らしき家人が大勢、本堂から溢れている。
「あれは…」
そこにいたのは信長の三人の息子、信忠・三介・三七だった。この兄弟は嫡男の信忠を中心に仲がいいので、よく一緒にでかけることが多いようだ。
「城介どの」
声をかけると、この冬、織田家の家督を継いで当主となった信忠がこちらを見る。
「左近か。これは思うてもみないところで会うたな。これもデウスの導きやもしれぬ」
と言ったので、嫌な胸騒ぎに襲われてよくよく見れば三人とも十字架のついたキリシタンの数珠を持っている。
(これは一体…)
振り返り、忠三郎を見ると、傍で笑って聞いている。
「…と仰せになるは…」
聞きたくないが、聞かざるを得ない。信忠は常と変わらず生真面目な顔で、
「我ら三人はパーデレよりキリシタンの教えを聞き、洗礼を受けようかと話していたのじゃが…」
信忠らしからぬ抑えきれない熱が混じる。一体、何が信忠をそこまで引きつけたのだろうか。
沈黙ののち、信忠が低く言った。
「左近。戦の理を学ぶほどに、人の策など風のごとく思うてな。勝つも負けるも、人の力を越えたところにある。ならば、その理の外に在る『何もの』かを知りたくなったのじゃ」
一益は扇を伏せ、わずかに眉を寄せた。
「理の外――ゆえに、キリシタンの教えを求められたか」
「うむ。祈るだけでは足らぬ。信じた先に、行いを以て天意に適うことこそ、人の務めではないかと思うておる」
その声には、若き将の潔癖と、理では測れぬ渇きが交じっていた。
忠三郎が静かに口を開く。
「城介殿の仰せ、尤もにて。されど……戦の世において、民の嘆きを誰が聞き入れるのか。キリシタンの書には、『泣く者は幸いなり、その者ら慰められん』とござります。もしそれが真ならば、救いは勝者にではなく、踏みにじられた者の側にこそ在るべきかと存じます」
信忠の瞳がわずかに揺れた。
一益はその二人を見比べながら、胸中でつぶやく。
(理の人は天に理を求め、情の人は地に慈悲を求む。ならば、我は何処に理を立てるべきか――)
風が南蛮寺の楼を渡り、遠くの鐘がかすかに鳴った。
一益は扇を折り畳み、静かに言う。
「……デウスとて、船を打たぬ。造るは人、祈るもまた人。理にて情を殺さず、それでよい」
信忠が静かに頷き、忠三郎が小さく笑った。
三人のあいだに、ことばにならぬ思いが流れた。
その沈黙の中に、確かに三つの『信仰の温度』があった。
「これは……由々しきこと」
一益は胸騒ぎを覚えた。
(伊勢の社は、この国を束ねる理の柱。
朝廷も武も、その柱を支えにして世を治めてきた。
だが、その理の内には、神の数ほどの矛盾がある。
八百万の神を祀りながら、互いに争い、呪い、また和す――。
人はその曖昧を『和』と呼ぶが、果たしてそれが理か)
南蛮寺で見た十字架を思い出した。
あの教えには、天と地とを一つに結ぶ筋があった。理は明快で、信と行いが一つの環のように閉じていた。
(だが……明快であるがゆえに脆い。ひとつを立てるということは、他を斬るということ)
奥歯の根が、かすかに鳴った。
(伊勢の社を離れ、異国の理を抱く――これは、ただの改宗ではない。国の骨格が入れ替わるということ)
「そ、それは……しばし……しばしお待ちくだされ。城介どのは織田家の当主、まずは上様にお話しされては如何なもので」
信長に黙ってそんなことをされては、三人の後見を務める一益の面目は丸つぶれだ。
(ようやく伊勢に鎮まる風が戻りつつあったというに……何故にかような仕儀となったのか)
チラリと忠三郎を睨むと、忠三郎が笑いを堪え、うつむいた。信忠はそんな二人を交互に見ながら、
「さりながら、わしには側室がおる。キリシタンの教えを変え、側室を認めるというのであればキリシタンになるつもりであったが、ロレンソめが頑固にもそれはならぬと言うての」
と言ったので、一益は少し胸をなでおろし、三介と三七を見る。
「では北畠中将どのと、三七どのは?」
ハラハラしながらそう聞くと、北畠三介は
「紀州攻めが近いと聞いた。洗礼を受けるためには、これまで以上にキリシタンの教えを受けねばならぬ。それゆえ、戦さのあととする」
この返事なら大丈夫だろう。時間を稼ぎ、何か別なことに目を向けて熱を冷ませば、忘れてくれるだろうと安堵した。
「三七どのは?」
神戸三七はうーんと考えだして、傍にいる家臣に何か相談している。
「忠三郎の話を聞いて、いささか気になることがある…」
なんのことかと忠三郎を振り返ると、困ったような笑顔を返してくる。
「鶴、何があった?」
「キリシタンになると知らせを送ったところ、日野から安土にいるそれがしに文が届きました」
忠三郎が胸元から文を取り出して一益に渡す。
『昨今耳にし風聞に依れば、切支丹は神仏を恐れず、先祖を敬まうこと、此れもなし。人の血を飲み、肉を食らう恐ろしき魑魅魍魎。我が家に曲事は断じて許すまじ。赦免これ有るまじきものなり。此の心持、分別もなく、言語道断の題目の事。此の不孝者、日野の地に足を踏み入ること勿れ』
祖父の快幹と父の賢秀の連名であったが、快幹の考えだろう。
この一文だけでも相当な怒りが伝わってくる。いささか極端な風聞が混じっているが、余程腹に据えかねたようだ。
「で、思いとどまったか?」
「はい」
祖父と父親に厳しく叱られ、がっかりしているようだ。多少、同情していると、それまで黙って聞いていた義太夫が忠三郎を小突いて、
「鶴。偽りを申すな。キリシタンになると、正室以外の女子もいかんと言うではないか。まことはそれでキリシタンになるのを諦めたのじゃろう」
「な、なにを申すか。皆の前でそのような…。わしはお爺様と父上がお許しくだされておれば…」
そういうことか。忠三郎もたいした信心ではないようだ。一益が半ば呆れて、
「キリシタンになると、そなたの女遊びが治るというご利益があるならば、家督を継いでからでもキリシタンになってはどうじゃ」
「義兄上まで、そのような…織田の方々がいる前でお戯れを…」
信忠はニコリともせず、生真面目な顔で忠三郎と一益を見ていたが、
「左近の言うこと尤もじゃ。忠三郎、よう考えてみよ」
信忠にまで言われ、忠三郎は恐縮し、はい、と言うしかない。
その胸の奥で、ひそかに思った。
(今は時にあらず。信ずる心は胸に残れど、軽々しくは踏み込めぬ)
こうして忠三郎は、このとき洗礼を見送った。
困惑して皆の顔を見ていた三七郎は一益に向き直る。
「左近。おぬしから父上に、わしがキリシタンになることを、如何お思いになるか、そっと探ってはくれぬか」
「は…それがしから上様に」
三男の三七郎であれば、一笑して終わるかもしれないが、それにしてもこの兄弟がここまで感化されたことには驚かされた。
夕暮れ近くなり、信忠たちが屋敷に戻っていった。残された一益一行は、そのままロレンソを待つことにする。
「いやはや、にしてもここは全く落ち着かぬところにて」
義太夫がそわそわとしながら言う。
「かようなことを申すは義太夫がはじめてじゃ。皆、心落ち着く場と言うておるが」
忠三郎が小首を傾げると
「あの裸の男がぶら下がっているのが、どうにも気になる」
というので理由がわかった。逆さ磔になったおつやの方を思い出すのだろう。
のち、ロレンソが杖をつきつき、南蛮寺に戻ってきた。このころのロレンソは畿内で爆発的に増えるキリシタンたちに教えを語って聞かせるのに奔走している。
「ようやく戻ってきたか。前に燃え尽きぬ木の話をしておったろう。詳しく聞かせよ」
「燃え尽きぬ木とは…。燃え尽きぬ柴のことか」
ロレンソが話したのは何千年も前から伝わるという話。選ばれし君主が神の山に登り、燃えている柴をよくよく見ると、燃えているのに柴が燃え尽きず、面妖なその光景を不思議に思い、近寄ってさらによく見ようとすると、神のお告げがあったという。
「何故に燃え尽きぬのじゃ。燃えているように見えていただけか。火と早合点したか?」
義太夫が首を傾げてそう問うと、ロレンソは首を横に振る。
「さにあらず。デウスは時も間も支配しておる。火が燃えておれば、いずれは柴が燃え尽きると考えるは人の考え。デウスは燃えるまま保つことができるのじゃ」
なんとも不思議な話だ。
「では神のお告げとは?」
「捕らわれし者たちの苦しみを見、叫びを聞いた。痛みを知っている、とデウスはそう仰せられた」
そして神の導きに従って捕らわれし民族を率いて敵国を脱した。
「南蛮には木が燃えない方法があるのかと思うたのじゃが、違うのか」
ある筈もないとは思っていたが、あえて訊くとロレンソは笑って、
「燃えぬ木がある筈はない。燃えて困るものを木で作らねばよい」
しごく当たり前の回答が返ってきた。
織田水軍の船が火矢により悉く燃やされたことを知っていた忠三郎が、あぁと顔をあげる。
「船を石か鉄で作っては?」
「古来よりそのような阿呆な話は聞いたこともない。石や鉄の船が水に浮くとは思えぬ。浮いたとしても人が乗れば沈むか、一歩も動けぬか、大湊から大坂までどうやって運ぶのじゃ」
義太夫が目を丸くしてそう言う。
(鉄の船)
それだ。
(鉄の板で船体を覆う。火矢を防ぎ、砦となす。そこから大筒を放てば、村上も毛利も恐るるに足らぬ)
「鉄の船などあり得ぬことにて」
義太夫が声を荒げ、忠三郎が首を傾げる。だが一益の胸中には、敗戦の報を受けたときの無力感がなお燃え続けていた。
闇を裂く稲妻のごとく、鮮烈な光景が一益の脳裏に閃く。
黒鉄の巨艦が海に聳え、火矢をはじき返し、轟音とともに大筒を撃ち放つ。
轟きに海は震え、敵船は次々と粉砕され、炎と煙のただ中で織田の旗がはためいていた。
「安土に戻り、この策を上様に奏上いたす」
低く静かに放たれたその声に、義太夫も忠三郎も息を呑む。
だが一益の眼差しには、すでに未来の海原が映っていた。
――この刹那こそ、戦国の海戦が大きく舵を切った時であった。
一益は志摩の海賊、九鬼嘉隆とともに安土の信長の前に伺候した。
この七月、若狭住吉の浜にて、織田方の和泉海賊衆三百艘が本願寺への補給を阻もうとした。だが現れたは瀬戸内の雄・村上海賊、八百艘。焙烙火矢の雨に晒され、和泉衆の船は燃え上がり、次々と沈んでいった。敗残した者たちの報告は凄惨をきわめ、織田家の海戦力がいかに脆いかを知らしめた。
「兵站を絶たねば、この戦は終わらぬ」
信長は不機嫌そうに言い放った。
「阿武船を造れ。伊勢・志摩より大船を出し、海より本願寺を囲むのじゃ」
だが九鬼嘉隆は首を振った。
「船は木造。火をかけてられて燃えぬ船などござりませぬ」
信長は一益を見据える。
「左近、如何じゃ。燃えぬ船を造れるか」
(燃えぬ船…燃え尽きぬ木か)
突拍子もない命に、一益は言葉を失った。だが脳裏にふと、南蛮僧ロレンソの語っていた「燃え尽きぬ柴」の話がよぎる。燃え盛るのに燃え尽きぬ柴――あれは神の奇跡のたとえであったが、思考の糸口となるかもしれない。
上洛した一益は、忠三郎と義太夫を伴い、南蛮寺を訪ねた。
南蛮寺は老朽化に伴い大きく建て替えられていた。三層の楼閣は瓦葺きながら異国の彩りを帯び、屋根の上には金に輝く十字架が夕陽を受けてきらめく。 門をくぐれば、ポルトガルから運ばれた大鐘が低く鳴り、どこか異国めいた旋律の祈祷歌が流れている。香炉からは葡萄酒のように甘い香が漂い、馬屋には色鮮やかな鞍をつけた馬があふれ、町人、武士、南蛮人が入り乱れていた。異様な熱気と雑多なざわめきに、一益は思わず足を止める。
(これが…南蛮の祈りの場か)
一体、誰が来ているのかと不思議に思って本堂に近づくと、供の者らしき家人が大勢、本堂から溢れている。
「あれは…」
そこにいたのは信長の三人の息子、信忠・三介・三七だった。この兄弟は嫡男の信忠を中心に仲がいいので、よく一緒にでかけることが多いようだ。
「城介どの」
声をかけると、この冬、織田家の家督を継いで当主となった信忠がこちらを見る。
「左近か。これは思うてもみないところで会うたな。これもデウスの導きやもしれぬ」
と言ったので、嫌な胸騒ぎに襲われてよくよく見れば三人とも十字架のついたキリシタンの数珠を持っている。
(これは一体…)
振り返り、忠三郎を見ると、傍で笑って聞いている。
「…と仰せになるは…」
聞きたくないが、聞かざるを得ない。信忠は常と変わらず生真面目な顔で、
「我ら三人はパーデレよりキリシタンの教えを聞き、洗礼を受けようかと話していたのじゃが…」
信忠らしからぬ抑えきれない熱が混じる。一体、何が信忠をそこまで引きつけたのだろうか。
沈黙ののち、信忠が低く言った。
「左近。戦の理を学ぶほどに、人の策など風のごとく思うてな。勝つも負けるも、人の力を越えたところにある。ならば、その理の外に在る『何もの』かを知りたくなったのじゃ」
一益は扇を伏せ、わずかに眉を寄せた。
「理の外――ゆえに、キリシタンの教えを求められたか」
「うむ。祈るだけでは足らぬ。信じた先に、行いを以て天意に適うことこそ、人の務めではないかと思うておる」
その声には、若き将の潔癖と、理では測れぬ渇きが交じっていた。
忠三郎が静かに口を開く。
「城介殿の仰せ、尤もにて。されど……戦の世において、民の嘆きを誰が聞き入れるのか。キリシタンの書には、『泣く者は幸いなり、その者ら慰められん』とござります。もしそれが真ならば、救いは勝者にではなく、踏みにじられた者の側にこそ在るべきかと存じます」
信忠の瞳がわずかに揺れた。
一益はその二人を見比べながら、胸中でつぶやく。
(理の人は天に理を求め、情の人は地に慈悲を求む。ならば、我は何処に理を立てるべきか――)
風が南蛮寺の楼を渡り、遠くの鐘がかすかに鳴った。
一益は扇を折り畳み、静かに言う。
「……デウスとて、船を打たぬ。造るは人、祈るもまた人。理にて情を殺さず、それでよい」
信忠が静かに頷き、忠三郎が小さく笑った。
三人のあいだに、ことばにならぬ思いが流れた。
その沈黙の中に、確かに三つの『信仰の温度』があった。
「これは……由々しきこと」
一益は胸騒ぎを覚えた。
(伊勢の社は、この国を束ねる理の柱。
朝廷も武も、その柱を支えにして世を治めてきた。
だが、その理の内には、神の数ほどの矛盾がある。
八百万の神を祀りながら、互いに争い、呪い、また和す――。
人はその曖昧を『和』と呼ぶが、果たしてそれが理か)
南蛮寺で見た十字架を思い出した。
あの教えには、天と地とを一つに結ぶ筋があった。理は明快で、信と行いが一つの環のように閉じていた。
(だが……明快であるがゆえに脆い。ひとつを立てるということは、他を斬るということ)
奥歯の根が、かすかに鳴った。
(伊勢の社を離れ、異国の理を抱く――これは、ただの改宗ではない。国の骨格が入れ替わるということ)
「そ、それは……しばし……しばしお待ちくだされ。城介どのは織田家の当主、まずは上様にお話しされては如何なもので」
信長に黙ってそんなことをされては、三人の後見を務める一益の面目は丸つぶれだ。
(ようやく伊勢に鎮まる風が戻りつつあったというに……何故にかような仕儀となったのか)
チラリと忠三郎を睨むと、忠三郎が笑いを堪え、うつむいた。信忠はそんな二人を交互に見ながら、
「さりながら、わしには側室がおる。キリシタンの教えを変え、側室を認めるというのであればキリシタンになるつもりであったが、ロレンソめが頑固にもそれはならぬと言うての」
と言ったので、一益は少し胸をなでおろし、三介と三七を見る。
「では北畠中将どのと、三七どのは?」
ハラハラしながらそう聞くと、北畠三介は
「紀州攻めが近いと聞いた。洗礼を受けるためには、これまで以上にキリシタンの教えを受けねばならぬ。それゆえ、戦さのあととする」
この返事なら大丈夫だろう。時間を稼ぎ、何か別なことに目を向けて熱を冷ませば、忘れてくれるだろうと安堵した。
「三七どのは?」
神戸三七はうーんと考えだして、傍にいる家臣に何か相談している。
「忠三郎の話を聞いて、いささか気になることがある…」
なんのことかと忠三郎を振り返ると、困ったような笑顔を返してくる。
「鶴、何があった?」
「キリシタンになると知らせを送ったところ、日野から安土にいるそれがしに文が届きました」
忠三郎が胸元から文を取り出して一益に渡す。
『昨今耳にし風聞に依れば、切支丹は神仏を恐れず、先祖を敬まうこと、此れもなし。人の血を飲み、肉を食らう恐ろしき魑魅魍魎。我が家に曲事は断じて許すまじ。赦免これ有るまじきものなり。此の心持、分別もなく、言語道断の題目の事。此の不孝者、日野の地に足を踏み入ること勿れ』
祖父の快幹と父の賢秀の連名であったが、快幹の考えだろう。
この一文だけでも相当な怒りが伝わってくる。いささか極端な風聞が混じっているが、余程腹に据えかねたようだ。
「で、思いとどまったか?」
「はい」
祖父と父親に厳しく叱られ、がっかりしているようだ。多少、同情していると、それまで黙って聞いていた義太夫が忠三郎を小突いて、
「鶴。偽りを申すな。キリシタンになると、正室以外の女子もいかんと言うではないか。まことはそれでキリシタンになるのを諦めたのじゃろう」
「な、なにを申すか。皆の前でそのような…。わしはお爺様と父上がお許しくだされておれば…」
そういうことか。忠三郎もたいした信心ではないようだ。一益が半ば呆れて、
「キリシタンになると、そなたの女遊びが治るというご利益があるならば、家督を継いでからでもキリシタンになってはどうじゃ」
「義兄上まで、そのような…織田の方々がいる前でお戯れを…」
信忠はニコリともせず、生真面目な顔で忠三郎と一益を見ていたが、
「左近の言うこと尤もじゃ。忠三郎、よう考えてみよ」
信忠にまで言われ、忠三郎は恐縮し、はい、と言うしかない。
その胸の奥で、ひそかに思った。
(今は時にあらず。信ずる心は胸に残れど、軽々しくは踏み込めぬ)
こうして忠三郎は、このとき洗礼を見送った。
困惑して皆の顔を見ていた三七郎は一益に向き直る。
「左近。おぬしから父上に、わしがキリシタンになることを、如何お思いになるか、そっと探ってはくれぬか」
「は…それがしから上様に」
三男の三七郎であれば、一笑して終わるかもしれないが、それにしてもこの兄弟がここまで感化されたことには驚かされた。
夕暮れ近くなり、信忠たちが屋敷に戻っていった。残された一益一行は、そのままロレンソを待つことにする。
「いやはや、にしてもここは全く落ち着かぬところにて」
義太夫がそわそわとしながら言う。
「かようなことを申すは義太夫がはじめてじゃ。皆、心落ち着く場と言うておるが」
忠三郎が小首を傾げると
「あの裸の男がぶら下がっているのが、どうにも気になる」
というので理由がわかった。逆さ磔になったおつやの方を思い出すのだろう。
のち、ロレンソが杖をつきつき、南蛮寺に戻ってきた。このころのロレンソは畿内で爆発的に増えるキリシタンたちに教えを語って聞かせるのに奔走している。
「ようやく戻ってきたか。前に燃え尽きぬ木の話をしておったろう。詳しく聞かせよ」
「燃え尽きぬ木とは…。燃え尽きぬ柴のことか」
ロレンソが話したのは何千年も前から伝わるという話。選ばれし君主が神の山に登り、燃えている柴をよくよく見ると、燃えているのに柴が燃え尽きず、面妖なその光景を不思議に思い、近寄ってさらによく見ようとすると、神のお告げがあったという。
「何故に燃え尽きぬのじゃ。燃えているように見えていただけか。火と早合点したか?」
義太夫が首を傾げてそう問うと、ロレンソは首を横に振る。
「さにあらず。デウスは時も間も支配しておる。火が燃えておれば、いずれは柴が燃え尽きると考えるは人の考え。デウスは燃えるまま保つことができるのじゃ」
なんとも不思議な話だ。
「では神のお告げとは?」
「捕らわれし者たちの苦しみを見、叫びを聞いた。痛みを知っている、とデウスはそう仰せられた」
そして神の導きに従って捕らわれし民族を率いて敵国を脱した。
「南蛮には木が燃えない方法があるのかと思うたのじゃが、違うのか」
ある筈もないとは思っていたが、あえて訊くとロレンソは笑って、
「燃えぬ木がある筈はない。燃えて困るものを木で作らねばよい」
しごく当たり前の回答が返ってきた。
織田水軍の船が火矢により悉く燃やされたことを知っていた忠三郎が、あぁと顔をあげる。
「船を石か鉄で作っては?」
「古来よりそのような阿呆な話は聞いたこともない。石や鉄の船が水に浮くとは思えぬ。浮いたとしても人が乗れば沈むか、一歩も動けぬか、大湊から大坂までどうやって運ぶのじゃ」
義太夫が目を丸くしてそう言う。
(鉄の船)
それだ。
(鉄の板で船体を覆う。火矢を防ぎ、砦となす。そこから大筒を放てば、村上も毛利も恐るるに足らぬ)
「鉄の船などあり得ぬことにて」
義太夫が声を荒げ、忠三郎が首を傾げる。だが一益の胸中には、敗戦の報を受けたときの無力感がなお燃え続けていた。
闇を裂く稲妻のごとく、鮮烈な光景が一益の脳裏に閃く。
黒鉄の巨艦が海に聳え、火矢をはじき返し、轟音とともに大筒を撃ち放つ。
轟きに海は震え、敵船は次々と粉砕され、炎と煙のただ中で織田の旗がはためいていた。
「安土に戻り、この策を上様に奏上いたす」
低く静かに放たれたその声に、義太夫も忠三郎も息を呑む。
だが一益の眼差しには、すでに未来の海原が映っていた。
――この刹那こそ、戦国の海戦が大きく舵を切った時であった。
2
あなたにおすすめの小説
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる