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8 一期一会
8-3. 三瀬御所炎上
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天正四年十一月二十五日――伊勢国・三瀬谷。
霜を踏む音が、まだ薄闇の庭にこだました。
吐く息は白く、松明の炎が風にあおられ、紅を揺らす。
その静寂を破るように、滝川雄利の号令が飛んだ。
「囲め――一人たりとも逃すな!」
瞬間、鬨の声が響き、三瀬御所を囲んだ兵たちが一斉に動いた。
そのとき、内門の閂が内側から、かすかに外れた。
影がひとつ、袖口を強く握りしめたまま後ずさる。誰の手かは見えない。ただ、闇に鉄の擦れる音だけが落ちた。
南勢・田丸城付近の野辺。
霜を含んだ草を踏むたび、かすかな音が闇に溶けた。
佐治新介は藪の影に身を潜め、息を殺して城の方角を見据えていた。
冷気が頬を刺し、吐く息が白く散る。
――あの日、日野でのこと。
義太夫が「上様に直訴いたす!」と叫び、駆け出したあの瞬間を、
そばにいた助太郎が見ていたという。
「忠三郎様は止めもせず、川を見つめて、ただ『落ち葉が沈むのも、澄むため』と呟かれたのみ」
助太郎の言葉が、今も耳の奥に残っている。
(……それで止めたつもりか)
新介は、唇をかすかに噛んだ。
義太夫の性を知っていれば、放っておけば何をしでかすか分かっていたはずだ。
それでも忠三郎は追わなかった。
濁った流れが澄むのを、ただ見守るかのように。
夜風が木の葉をわずかに揺らした。
その音に紛れて、遠くで馬の嘶きが聞こえる。
田丸城の内からだ。
やがて風向きが変わり、松明の光が城壁に反射してちらと揺れた。
(……来たか)
新介は闇に目を凝らした。
あのとき止められなかった義太夫が、再びこの地に姿を現す。
忠三郎の『静観』を思い出すたび、胸の奥で小さな焦りが燻った。
――田丸城には北畠三介に呼び出された北畠具教の次男・長野具藤、三男・北畠親成が姿をあらわした。
田丸城のすぐそばで様子を窺っていた義太夫は、織田掃部が現れるのを今か今かと待ちかねていた。
(ついに、おつや様の恨みを晴らすときがきた!)
頭巾で顔を隠し、右手で柄の上を握り、左手を鞘に添える――。
やがて掃部らしき影が城門に現れたその瞬間――。暗闇から腕を強く引かれ、義太夫は派手に転んだ。
「待て、義太夫!」
従弟の佐治新介であった。
「なんじゃ、驚かすな! 何でここがわかった」
「たわけ! 安土から長島へ便りが来たのじゃ。おぬし、よりにもよって上様に談判したであろう。早や、殿の耳にも入っておる!」
――そう、義太夫は日野を出てから一路安土に向かい、信長の前に直訴していた。
掃部の悪行を並べ立て、「逆臣、織田掃部を討つ許しを!」と願い出たのだ。しかし信長は不機嫌そうに睨み続け、やがて何も言わずに義太夫を下がらせただけだった。
「くだらぬ私怨で動くな、と上様はそう仰せなのじゃ!」
新介は声を荒げる。
「素破の心得を忘れたか!」
だが義太夫は頑なに首を振り、目をぎらつかせた。
「離せ、新介。掃部は織田家の獅子身中の虫。上様が許されぬなら、わしが天誅を下すまで!」
力づくで振り払おうとすると、新介は低く言い放った。
「思い違いをするな。まずは北畠一門の誅殺が先。掃部にその手を汚させるのじゃ」
「な、なにを申すか!……お? なんと申した?」
義太夫がぽかんとする。新介は深々と嘆息した。
「滝川三郎兵衛(雄利)から殿に内々に話があったのじゃ」
「そのような話、わしは聞いておらぬぞ!」
「殿が話す前に城を飛び出したのは誰じゃ!」
掃部は織田・北畠両方に取り入り、双方へ情報を流す二股ぶり。しかも今回は命令に背き、自分の縁者を逃がそうとしていた。
「この騒ぎが収まり、掃部が油断するのを待て。人目あるところで斬りかかれば、わしらの首が飛ぶぞ」
「……そ、それでは、やはり上様から上意討ちの命がくだったのか!」
義太夫は感極まり、目に涙を浮かべた。
「やはり! わしの直訴は通じたのじゃ! 上様はただの魔王ではなかった。正しきお裁きを……!」
新介は呆れ顔で空を仰いだ。
「己を立て、私怨に走り、軽挙妄動に出るとは……素破の風上にも置けぬ奴よ」
義太夫はそんな言葉も耳に入らぬ様子で、鼻をすすりながら拳を握りしめていた。
しばらく押し黙った新介は、やむなく諭すように言った。
「今は家中の目は南勢に注がれておる。時を待ち、落ち着いたころを見計らい、我ら二人で仕留めよう」
その一言に、義太夫はようやく大きくうなずいた。
「うむ! それがよい!」
……全く人の話を聞いていないように見えるのは、気のせいであろうか。
その日のうちに、北畠具教の籠る三瀬御所がおびただしい兵によって取り囲まれた。
庭先に姿を現した具教は、なお剣豪の気迫を失わず、悠然と立ち上がった。 庭のどこかで鳴いていた鳥が、ふいに声を呑んだ。一拍、庭が凍りつく。
腰の太刀に手を掛け、いざ抜かんと力を籠める。
「これが、天下を狙う者のやり口か!」
と叫んだ声が、庭の石灯籠を震わせた。
焦げた匂いとともに、背後の襖がわずかに揺れた。
風ではない――人の気配。
具教の眼が細く光り、蒼ざめてうつむく近侍の袖で視線が止まる。
「……まさか、内よりか」
声は怒りというより、深い哀しみを帯びていた。
「――左近か。やはり、そなたの手か」
「織田の犬ども……理の名を借りて血を流すか! 滝川左近、そなたもまたその牙か!」
だが――刃は鞘から動かない。
「なに……」
具教の瞳が小姓を射抜くと、小姓は蒼ざめて視線を逸らした。
「小癪な……」
咄嗟に脇差を抜き放ち、四方から迫る兵を斬り伏せる。鮮血が飛び散り、老いてなお卜伝の奥義を授けられた剣豪の凄烈さを見せつけた。だが、多勢に押し潰され、やがて刃に貫かれた。
「……これもまた、天命か」
呻くようにそう洩らし、具教は大地に膝を折った。剣豪の生涯、ここに尽きた。こののち、この地には静かな塚が築かれたとだけ、人は語った。
同日、北畠一族は次々と討たれ、田丸城では織田掃部が北畠家の家臣たちとともに誅殺を執行した。
ただ一人、北畠具教の嫡男・具房(中之御所)だけが残された。
広間に追い詰められた具房は、蒼白な顔で震えながら叫んだ。
「待て、待て! わしには滝川左近どのとの密約がある! 左近どのに会わせてくれ!」
家臣らは冷笑し、刀を構える。
「中之御所様、この期に及んで見苦しゅうござります。潔く御生涯あそばされよ」
具房は泣き崩れ、声を振り絞った。
「まことじゃ! 天地神明に誓ってまことじゃ! 左近殿に聞いてくれ!」
扱いに困った柘植保重らが、具房を長島城へ連れ出す。突然の来訪に一益はしばし言葉を失ったが、やがて具房の顔をじっと見据え、静かに口を開いた。
「……まことのことじゃ。わしが此度の件を予め伝え、兄弟を田丸城に誘い出す手引きをさせ、御所の内にもごく小さく手を回しておいた」
家臣らは一様に息を呑み、沈黙が落ちる。
一益は続けた。
「北畠は名家。根絶やしとするは忍びない。しかも中之御所は三介殿の養父。この場で斬れば、三介殿は親殺しの汚名を着せられるであろう。ここはわしが取り計らい、しばしこの城に幽閉いたす。皆もそれでよかろう」
家臣らは黙って頷き、具房は大柄な体を震わせながら、涙で地に額をすりつけた。
「左近どの……かたじけない!」
一益は冷ややかにその姿を見下ろし、静かに言った。
「ご隠居所を整えるまで、この城に留まられよ」
かくして、剣豪として散った父・具教に対し、息子・具房は命を乞うて生き延びた。
両者の姿は、あまりにも対照的であった。
(……名は残れど、魂は絶えたか)
一益は目を伏せ、しばし立ち尽くした。
その刹那、湯の香が鼻をかすめた。
あれは――忠三郎がたてた香と同じ香り。
ほんの一瞬、記憶が揺らぎ、すぐに風がそれをさらっていった。
(もうひとつの面倒事は…)
織田掃部と義太夫だ。
一益は忠三郎と信長の両方からの知らせを受け、急いで田丸城に新介を向かわせた。上意討ちの許しがでたと言って一旦義太夫を南勢から連れ戻れと新介に言い含めてある。
二人が長島城に戻ってきたのはその日の夜半。一益は三九郎も呼び、広間に二人が現れるのを待った。
やがて一益の前に出た義太夫は、しおらしく頭を下げた。
「此度の件、どうかお許しくだされ」
「義太夫、そなたはこの滝川左近の甥、滝川家の家人である」
ひとつも響いてはいないようだが、何度となく繰り返して来た言葉だ。義太夫は平伏したまま頭をあげない。
「私怨で人を殺めるなど、決してあってはならぬこと。素破は私欲で己がもつ技を使うことを固く禁じておろう」
一益が義太夫に近づき、片膝をつくと、義太夫が恐る恐る顔をあげる。
「滝川義太夫、己に誇りを持て。禄を君主に受くるものは、己の命は己の思うままに生きることにあらず。私欲で動くような、下賤なものになり下がるな」
静かにそう諭すと、義太夫はまた、両手をついて平伏した。
「面目次第もござりませぬ」
多少なりとも反省したそぶりを見せたので、面を上げさせる。
「上様からの上意討ちの沙汰はない」
「は?な、なんと?!それでは…わしは謀られたので?」
義太夫が新介の顔を見る。新介は素知らぬ顔で視線をそらした。
「されど北畠中将殿からは織田掃部を始末したいと内々に話があり、そのことはすでに上様もご承知じゃ」
連枝衆である織田掃部を討てと、表立って言えないのが実情だ。
「頃合いを見て刺客を差し向ける旨、三介殿には返事をしておる。いずれ滝川雄利から知らせが来る。それまでしばし待て」
「ハハッ!有難き幸せ」
「この件については上様も、北畠中将殿も、わしも、預かり知らぬこととせねばならぬ。それゆえ、人目のあるところで斬りかかるな。三九郎、義太夫、新介の三人で、少し離れたところから鉄砲で狙い定めて確実に討ち取れ」
三人が短く返事をする。中でも義太夫はやる気満々だ。先ほど言って聞かせたことが何一つ、通じていないようにも見える。
(困ったものだな)
深々と頭を下げた後、叱られたことなど忘れたかのように意気揚々とする義太夫を見て、深く息をついた。
長島でひたすら待ち続けていた義太夫が、滝川雄利からの連絡を受けて三九郎、新介とともに再び南勢に姿を現したのはその二十日後。
北畠一門の粛清が終わり、南勢は平穏な時を迎えている。
北畠三介の居城、田丸城は普請工事中で、織田掃部は普請奉行の一人として二の丸で指揮をとっていた。
三人は林の中から田丸城二の丸の様子を窺う。
「これではちと遠すぎて、当たっても致命傷には至らぬものと存じまする」
義太夫がそう言うと、三九郎が頷いた。
「案ずるな。北畠家の家人、日置大膳が掃部を少し離れたところまで連れだすことになっておる」
「三人同時に撃たねば取り逃がしましょう。三・二・一で撃つがよいかと」
新介が火薬を詰めながらそう言うと、二人が頷く。
「万一、三人とも撃ちもらしたときには、皆で近づき撒菱を投げ、新介が手裏剣で、わしと義太夫で刀を抜き、斬り伏せよう」
三九郎の命中率は限りなく百に近い。三九郎がいれば、ほぼ撃ち損ねることはないだろうが、念には念を入れて申し合わせる。
やがて手筈通り、日置大膳が織田掃部と連れ立ってこちらに向かって歩いてくるのが見えた。三人は互いに目配せし、火縄に火をつける。
織田掃部がどんどん近づいてくると、察知した日置大膳が少し間を取った。
「みな、よいか。三・二・一…」
三人の銃がほぼ同時に火を噴くと、山間に銃声が轟き、織田掃部が倒れるのが見えた。日置大膳が倒れた掃部を確認し、こちらに合図を送ってくる。
「眉間に一発!見たか!わしの弾が当たっておる!」
義太夫は小躍りし、手を打って喜んだ。
「静まれ!騒いでいる場合ではない。急ぎ逃げねば!」
三九郎と新介が目にも止まらぬ早さで林の中を駆け抜けていく。義太夫もあわてて鉄砲を抱え、その場を後にする。
(おつや様!ついに義太夫はおつや様の仇を討ち申した!どうかこれで何も思い残すことなく成仏してくだされ!)
とめどなく流れ落ちる涙を拭いながら、義太夫は林の中を走り続けた。
その胸にあったのは、上意に従ったという安堵ではなく、ただ「仇を討った」という熱い思いのみであった。
林を抜けて遠ざかる背を、秋風が冷ややかに吹き抜けていった。
かすかに、どこからか香の気配がした。
誰の祈りか、秋風に溶けて消えた。
そのころ、遠く日野の居城で、忠三郎は報を受けた。
南勢で血が流れたと聞き、ふと庭に漂う香の気配に顔を上げる。
「……兄上、また血の香りを背負われたか」
小さく息を吐き、さらにひと言、誰にも聞こえぬほどに。
「――印のない文の匂いがする」
その声は誰に届くでもなく、秋の風に溶けていった。
遠く、鐘の音だけが微かに響いた。
霜を踏む音が、まだ薄闇の庭にこだました。
吐く息は白く、松明の炎が風にあおられ、紅を揺らす。
その静寂を破るように、滝川雄利の号令が飛んだ。
「囲め――一人たりとも逃すな!」
瞬間、鬨の声が響き、三瀬御所を囲んだ兵たちが一斉に動いた。
そのとき、内門の閂が内側から、かすかに外れた。
影がひとつ、袖口を強く握りしめたまま後ずさる。誰の手かは見えない。ただ、闇に鉄の擦れる音だけが落ちた。
南勢・田丸城付近の野辺。
霜を含んだ草を踏むたび、かすかな音が闇に溶けた。
佐治新介は藪の影に身を潜め、息を殺して城の方角を見据えていた。
冷気が頬を刺し、吐く息が白く散る。
――あの日、日野でのこと。
義太夫が「上様に直訴いたす!」と叫び、駆け出したあの瞬間を、
そばにいた助太郎が見ていたという。
「忠三郎様は止めもせず、川を見つめて、ただ『落ち葉が沈むのも、澄むため』と呟かれたのみ」
助太郎の言葉が、今も耳の奥に残っている。
(……それで止めたつもりか)
新介は、唇をかすかに噛んだ。
義太夫の性を知っていれば、放っておけば何をしでかすか分かっていたはずだ。
それでも忠三郎は追わなかった。
濁った流れが澄むのを、ただ見守るかのように。
夜風が木の葉をわずかに揺らした。
その音に紛れて、遠くで馬の嘶きが聞こえる。
田丸城の内からだ。
やがて風向きが変わり、松明の光が城壁に反射してちらと揺れた。
(……来たか)
新介は闇に目を凝らした。
あのとき止められなかった義太夫が、再びこの地に姿を現す。
忠三郎の『静観』を思い出すたび、胸の奥で小さな焦りが燻った。
――田丸城には北畠三介に呼び出された北畠具教の次男・長野具藤、三男・北畠親成が姿をあらわした。
田丸城のすぐそばで様子を窺っていた義太夫は、織田掃部が現れるのを今か今かと待ちかねていた。
(ついに、おつや様の恨みを晴らすときがきた!)
頭巾で顔を隠し、右手で柄の上を握り、左手を鞘に添える――。
やがて掃部らしき影が城門に現れたその瞬間――。暗闇から腕を強く引かれ、義太夫は派手に転んだ。
「待て、義太夫!」
従弟の佐治新介であった。
「なんじゃ、驚かすな! 何でここがわかった」
「たわけ! 安土から長島へ便りが来たのじゃ。おぬし、よりにもよって上様に談判したであろう。早や、殿の耳にも入っておる!」
――そう、義太夫は日野を出てから一路安土に向かい、信長の前に直訴していた。
掃部の悪行を並べ立て、「逆臣、織田掃部を討つ許しを!」と願い出たのだ。しかし信長は不機嫌そうに睨み続け、やがて何も言わずに義太夫を下がらせただけだった。
「くだらぬ私怨で動くな、と上様はそう仰せなのじゃ!」
新介は声を荒げる。
「素破の心得を忘れたか!」
だが義太夫は頑なに首を振り、目をぎらつかせた。
「離せ、新介。掃部は織田家の獅子身中の虫。上様が許されぬなら、わしが天誅を下すまで!」
力づくで振り払おうとすると、新介は低く言い放った。
「思い違いをするな。まずは北畠一門の誅殺が先。掃部にその手を汚させるのじゃ」
「な、なにを申すか!……お? なんと申した?」
義太夫がぽかんとする。新介は深々と嘆息した。
「滝川三郎兵衛(雄利)から殿に内々に話があったのじゃ」
「そのような話、わしは聞いておらぬぞ!」
「殿が話す前に城を飛び出したのは誰じゃ!」
掃部は織田・北畠両方に取り入り、双方へ情報を流す二股ぶり。しかも今回は命令に背き、自分の縁者を逃がそうとしていた。
「この騒ぎが収まり、掃部が油断するのを待て。人目あるところで斬りかかれば、わしらの首が飛ぶぞ」
「……そ、それでは、やはり上様から上意討ちの命がくだったのか!」
義太夫は感極まり、目に涙を浮かべた。
「やはり! わしの直訴は通じたのじゃ! 上様はただの魔王ではなかった。正しきお裁きを……!」
新介は呆れ顔で空を仰いだ。
「己を立て、私怨に走り、軽挙妄動に出るとは……素破の風上にも置けぬ奴よ」
義太夫はそんな言葉も耳に入らぬ様子で、鼻をすすりながら拳を握りしめていた。
しばらく押し黙った新介は、やむなく諭すように言った。
「今は家中の目は南勢に注がれておる。時を待ち、落ち着いたころを見計らい、我ら二人で仕留めよう」
その一言に、義太夫はようやく大きくうなずいた。
「うむ! それがよい!」
……全く人の話を聞いていないように見えるのは、気のせいであろうか。
その日のうちに、北畠具教の籠る三瀬御所がおびただしい兵によって取り囲まれた。
庭先に姿を現した具教は、なお剣豪の気迫を失わず、悠然と立ち上がった。 庭のどこかで鳴いていた鳥が、ふいに声を呑んだ。一拍、庭が凍りつく。
腰の太刀に手を掛け、いざ抜かんと力を籠める。
「これが、天下を狙う者のやり口か!」
と叫んだ声が、庭の石灯籠を震わせた。
焦げた匂いとともに、背後の襖がわずかに揺れた。
風ではない――人の気配。
具教の眼が細く光り、蒼ざめてうつむく近侍の袖で視線が止まる。
「……まさか、内よりか」
声は怒りというより、深い哀しみを帯びていた。
「――左近か。やはり、そなたの手か」
「織田の犬ども……理の名を借りて血を流すか! 滝川左近、そなたもまたその牙か!」
だが――刃は鞘から動かない。
「なに……」
具教の瞳が小姓を射抜くと、小姓は蒼ざめて視線を逸らした。
「小癪な……」
咄嗟に脇差を抜き放ち、四方から迫る兵を斬り伏せる。鮮血が飛び散り、老いてなお卜伝の奥義を授けられた剣豪の凄烈さを見せつけた。だが、多勢に押し潰され、やがて刃に貫かれた。
「……これもまた、天命か」
呻くようにそう洩らし、具教は大地に膝を折った。剣豪の生涯、ここに尽きた。こののち、この地には静かな塚が築かれたとだけ、人は語った。
同日、北畠一族は次々と討たれ、田丸城では織田掃部が北畠家の家臣たちとともに誅殺を執行した。
ただ一人、北畠具教の嫡男・具房(中之御所)だけが残された。
広間に追い詰められた具房は、蒼白な顔で震えながら叫んだ。
「待て、待て! わしには滝川左近どのとの密約がある! 左近どのに会わせてくれ!」
家臣らは冷笑し、刀を構える。
「中之御所様、この期に及んで見苦しゅうござります。潔く御生涯あそばされよ」
具房は泣き崩れ、声を振り絞った。
「まことじゃ! 天地神明に誓ってまことじゃ! 左近殿に聞いてくれ!」
扱いに困った柘植保重らが、具房を長島城へ連れ出す。突然の来訪に一益はしばし言葉を失ったが、やがて具房の顔をじっと見据え、静かに口を開いた。
「……まことのことじゃ。わしが此度の件を予め伝え、兄弟を田丸城に誘い出す手引きをさせ、御所の内にもごく小さく手を回しておいた」
家臣らは一様に息を呑み、沈黙が落ちる。
一益は続けた。
「北畠は名家。根絶やしとするは忍びない。しかも中之御所は三介殿の養父。この場で斬れば、三介殿は親殺しの汚名を着せられるであろう。ここはわしが取り計らい、しばしこの城に幽閉いたす。皆もそれでよかろう」
家臣らは黙って頷き、具房は大柄な体を震わせながら、涙で地に額をすりつけた。
「左近どの……かたじけない!」
一益は冷ややかにその姿を見下ろし、静かに言った。
「ご隠居所を整えるまで、この城に留まられよ」
かくして、剣豪として散った父・具教に対し、息子・具房は命を乞うて生き延びた。
両者の姿は、あまりにも対照的であった。
(……名は残れど、魂は絶えたか)
一益は目を伏せ、しばし立ち尽くした。
その刹那、湯の香が鼻をかすめた。
あれは――忠三郎がたてた香と同じ香り。
ほんの一瞬、記憶が揺らぎ、すぐに風がそれをさらっていった。
(もうひとつの面倒事は…)
織田掃部と義太夫だ。
一益は忠三郎と信長の両方からの知らせを受け、急いで田丸城に新介を向かわせた。上意討ちの許しがでたと言って一旦義太夫を南勢から連れ戻れと新介に言い含めてある。
二人が長島城に戻ってきたのはその日の夜半。一益は三九郎も呼び、広間に二人が現れるのを待った。
やがて一益の前に出た義太夫は、しおらしく頭を下げた。
「此度の件、どうかお許しくだされ」
「義太夫、そなたはこの滝川左近の甥、滝川家の家人である」
ひとつも響いてはいないようだが、何度となく繰り返して来た言葉だ。義太夫は平伏したまま頭をあげない。
「私怨で人を殺めるなど、決してあってはならぬこと。素破は私欲で己がもつ技を使うことを固く禁じておろう」
一益が義太夫に近づき、片膝をつくと、義太夫が恐る恐る顔をあげる。
「滝川義太夫、己に誇りを持て。禄を君主に受くるものは、己の命は己の思うままに生きることにあらず。私欲で動くような、下賤なものになり下がるな」
静かにそう諭すと、義太夫はまた、両手をついて平伏した。
「面目次第もござりませぬ」
多少なりとも反省したそぶりを見せたので、面を上げさせる。
「上様からの上意討ちの沙汰はない」
「は?な、なんと?!それでは…わしは謀られたので?」
義太夫が新介の顔を見る。新介は素知らぬ顔で視線をそらした。
「されど北畠中将殿からは織田掃部を始末したいと内々に話があり、そのことはすでに上様もご承知じゃ」
連枝衆である織田掃部を討てと、表立って言えないのが実情だ。
「頃合いを見て刺客を差し向ける旨、三介殿には返事をしておる。いずれ滝川雄利から知らせが来る。それまでしばし待て」
「ハハッ!有難き幸せ」
「この件については上様も、北畠中将殿も、わしも、預かり知らぬこととせねばならぬ。それゆえ、人目のあるところで斬りかかるな。三九郎、義太夫、新介の三人で、少し離れたところから鉄砲で狙い定めて確実に討ち取れ」
三人が短く返事をする。中でも義太夫はやる気満々だ。先ほど言って聞かせたことが何一つ、通じていないようにも見える。
(困ったものだな)
深々と頭を下げた後、叱られたことなど忘れたかのように意気揚々とする義太夫を見て、深く息をついた。
長島でひたすら待ち続けていた義太夫が、滝川雄利からの連絡を受けて三九郎、新介とともに再び南勢に姿を現したのはその二十日後。
北畠一門の粛清が終わり、南勢は平穏な時を迎えている。
北畠三介の居城、田丸城は普請工事中で、織田掃部は普請奉行の一人として二の丸で指揮をとっていた。
三人は林の中から田丸城二の丸の様子を窺う。
「これではちと遠すぎて、当たっても致命傷には至らぬものと存じまする」
義太夫がそう言うと、三九郎が頷いた。
「案ずるな。北畠家の家人、日置大膳が掃部を少し離れたところまで連れだすことになっておる」
「三人同時に撃たねば取り逃がしましょう。三・二・一で撃つがよいかと」
新介が火薬を詰めながらそう言うと、二人が頷く。
「万一、三人とも撃ちもらしたときには、皆で近づき撒菱を投げ、新介が手裏剣で、わしと義太夫で刀を抜き、斬り伏せよう」
三九郎の命中率は限りなく百に近い。三九郎がいれば、ほぼ撃ち損ねることはないだろうが、念には念を入れて申し合わせる。
やがて手筈通り、日置大膳が織田掃部と連れ立ってこちらに向かって歩いてくるのが見えた。三人は互いに目配せし、火縄に火をつける。
織田掃部がどんどん近づいてくると、察知した日置大膳が少し間を取った。
「みな、よいか。三・二・一…」
三人の銃がほぼ同時に火を噴くと、山間に銃声が轟き、織田掃部が倒れるのが見えた。日置大膳が倒れた掃部を確認し、こちらに合図を送ってくる。
「眉間に一発!見たか!わしの弾が当たっておる!」
義太夫は小躍りし、手を打って喜んだ。
「静まれ!騒いでいる場合ではない。急ぎ逃げねば!」
三九郎と新介が目にも止まらぬ早さで林の中を駆け抜けていく。義太夫もあわてて鉄砲を抱え、その場を後にする。
(おつや様!ついに義太夫はおつや様の仇を討ち申した!どうかこれで何も思い残すことなく成仏してくだされ!)
とめどなく流れ落ちる涙を拭いながら、義太夫は林の中を走り続けた。
その胸にあったのは、上意に従ったという安堵ではなく、ただ「仇を討った」という熱い思いのみであった。
林を抜けて遠ざかる背を、秋風が冷ややかに吹き抜けていった。
かすかに、どこからか香の気配がした。
誰の祈りか、秋風に溶けて消えた。
そのころ、遠く日野の居城で、忠三郎は報を受けた。
南勢で血が流れたと聞き、ふと庭に漂う香の気配に顔を上げる。
「……兄上、また血の香りを背負われたか」
小さく息を吐き、さらにひと言、誰にも聞こえぬほどに。
「――印のない文の匂いがする」
その声は誰に届くでもなく、秋の風に溶けていった。
遠く、鐘の音だけが微かに響いた。
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卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
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