滝川家の人びと

卯花月影

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8 一期一会

8-2 仇討ちの影

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 長島に戻った一益は、三九郎と義太夫を伴い、領内を巡った。
 秋の陽は澄みきった空を金に染め、川面には薄紅の木葉が浮かび流れている。だが田のあぜ道に目をやれば、夏の洪水の爪痕がなお生々しく、折れた稲が泥にまみれ、農夫たちの頬は骨ばかりであった。
 そのひとりが一益の前に進み出て、泥にまみれた手を差し出す。
「滝川のお殿様、この田は痩せ地にて……」
 一益は土を手に取り、指の間で揉みしだいた。痩せて砕ける土の感触に、わずかに眉を曇らせる。
 しばしののち、静かに口を開く。
「……確かに痩せておる。小平次、年貢は三分の二に減ずると記せ」
 津田小平次が「ははっ」と応じ、帳面に筆を走らせる。
 農民は膝を折り、涙を流して地に額をすりつけた。
「ありがたき御恩……殿の慈悲は末代まで語り継ぎまする……」
 その声に、周囲の領民も次々に頭を垂れ、すすり泣きが広がった。場は温かな空気に満ちた。
 だが、一益の眼差しはすでに遠くを見据えていた。川の流れ、その先の丘の稜線。すくと立ち上がり、指を伸ばした。
「……兵糧、この流れに懸かっておる。伊勢は畿内の背面にあたり、兵糧の喉笛よ。ここを押さえられぬ者が、天下を望む道理はない。小平次、あの丘を押さえると記せ。あそこを制すれば、川を行き交う米も塩も、すべて我らの手中に落ちる。民の口も、敵の兵も、この流れなくしては一粒とて喰えぬ」
「ははっ」
 津田小平次が膝をつき、急ぎ筆を走らせ、場の空気は一変した。
 さきほどまで慈悲深き領主であった一益が、一瞬にして兵站を見抜く軍略家の貌をあらわにしたのだ。
 家臣らは互いに顔を見合わせた。
 今日の巡視が、ただの検地や領内視察ではないと分かる。領民の暮らしを量ると同時に、戦の行方までも見据えている―。
「殿はすべてを見通しておられる……」
 皆の胸の奥に戦慄めいた畏怖が走った。

 馬上に戻った一益は、川沿いの道を黙々と進んだ。あぜには折れた稲が積まれ、村の子らが泥に足を取られながら拾い集めている。
 三九郎はその姿を見やり、声をひそめた。
「父上……あの百姓をお救いになったのはまこと慈悲深きこと。されど、年貢を減らせば蔵に入る米が減り、いざという時に困るのではありませぬか」 
 一益は前を見据えたまま、しばし黙し、やがて低く答えた。
「三九郎、よく見ておれ。痩せた田から絞れば、今年は米が入ろう。されど翌年には土地は枯れ、人も逃げる。蔵は満ちても、国は痩せる」
 三九郎ははっとして父を見た。
「民を生かせば、田も生き、蔵もまた満ちる。短き利を追うは愚か。長きを見据え、人を生かすことこそ治めの道よ」
 三九郎は深く息を呑み、黙って頷いた。その胸に、父の言葉は重く刻まれていく。
 その様子を横で見ていた義太夫が、にやりと口の端をゆがめた。
「若殿、殿のお言葉はどうか深くお心に留め置かれませ。我ら家人が命を懸けてお仕えするのも、まさしくそのお心あればこそにござりまする」
 三九郎は改めて父を見つめ、静かにうなずいた。
 秋の風が稲穂を渡り、その金色の波は、父の言葉を刻むかのように揺れていた。
 
 やがて城に戻ると、北畠信雄の重臣・滝川雄利が広間に控えていた。もと僧であった彼を還俗させ、滝川の姓を与えたのは一益である。
 いまは北畠家の重臣となった雄利が、ひそかに語ったのは――三瀬御所に籠る北畠具教を討つ企てであった。
「北畠中将(三介)様からのご命令により、我らが三瀬御所を討ち取りまする」
 三瀬御所、すなわち北畠具教は塚原卜伝から奥義を伝授されたほどの剣の使い手だ。
「そなたに三瀬御所が討てるか」
「それがしだけではありませぬ。柘植保重、軽野左京進とともに御所に兵を差し向け、捕り込めて討ち取る手筈となっております」
 一益は鋭い眼を細め、冷ややかに言い放った。
「束になっても御所には敵わぬ。――小姓に言い含め、斬りかかったとき刀を抜けぬよう細工せよ」
「なるほど…さすがは左近どの…」
「で、一族の者は如何いたす?」
 一族のものとは、北畠具教の次男長野具藤、三男北畠親成のことだ。
「田丸城に呼び寄せ、織田掃部のほか、北畠の旧臣どもが討ち取りまする」
(……掃部が田丸城におるか。やはり裏で動いておるようじゃ)
 一益にとっては厄介な存在だ。信長はいつまであの男を泳がせておくつもりか――。
「……実は、もうひとつ、上様より内々に仰せつかっておりまする」
 雄利が辺りを窺う。一益が手をあげ、襖を閉めさせると、膝をにじり寄せて話しはじめた。
 その声は低く、外に控える者には何一つ聞き取れなかったが、一益が深くうなずいたのを近習は見た。
 廊の隙間風が紙灯籠を揺らした。
 一益は扇を伏せ、胸中で呟いた。
(外から囲むだけでは足りぬ。内を裂く手がいる)
 一益はその場で、印判なき短い書付をしたため、佐治新介に託した。
「名は記すな。三瀬の『若い近侍』に渡せ。合図は三つの松明、門のかんぬきひとつ外せばよい」
 新介が深くうなずき、影のように去ったあと、広間にはしばし沈黙が落ちた。
 外では風が障子を叩き、遠くで鷺の鳴く声が聞こえる。
 一益は扇を脇に置き、わずかに目を閉じた。
(事の理を尽くしても、血は避けられぬか……)
 
 日暮れ近くなったころ、一益はふと立ち上がった。そろそろ使いに出した義太夫が戻ってくる筈だ。
「義太夫はまだ戻らぬか」
 木全彦一郎の子、彦次郎に尋ねると、
「義太夫殿は早お戻りになり、雄利どのと話をして、なにやら大慌てで飛び出して行かれました」
「何、戻っておったか」
 義太夫は北畠誅殺の話を耳にし、それに掃部の名が加わったのを聞いて、好機と早合点したのだろう。
「手分けして探させよ」
 雄利が来ると分かっていたので、先に義太夫を城の外に出していたのだが、何か察知して早めに城に戻っていたようだ。
(また面倒事を起こしてくれそうだ)
 雄利が帰ってからしばらくたつ。義太夫はもう長島にはいないだろう。川を越え、南伊勢に入ったかもしれない。最近大人しかったので安心していたのだが。
 一益は手を打って佐治新介を呼びに行かせた。
 
 そのころ、険しい峠道を、義太夫は荒い息を吐きながら駆けていた。
 落葉に足を取られ、岩に手をかけ、ただひたすら山を越えて走る。
(おつや様……今こそ仇を討ち申す!)
 胸に燃えるのは、その思いひとつであった。
 だが南伊勢へ直行するのではなく、まずは忠三郎を頼ろうと、足は自然と日野の中野城へと向かっていた。
「二人とも怪しいと思えば、北畠中将どののところに織田掃部がおるというではないか」
 息せき切って叫ぶ義太夫の顔は、紅潮し、汗に濡れていた。忠三郎は驚きもせず、いつもの穏やかな笑みを浮かべて返した。
「わしはよう知らぬ。義兄上もご存じではあるまい。それより義太夫――最近、家中に加わった慶次とか申す者、あれは何者じゃ?」
 思いがけぬ名に、義太夫の表情が一瞬ひきつった。
「……あれは、前田又左殿の甥にあたり、わしの従弟筋にあたる者じゃ」
「又左殿の?何故に滝川家に?」
 前田利家の兄、利久の正室が一益の妹にあたる。つまり義太夫とは従弟になる。慶次と利家のうまがあわず、縁戚である滝川家に来た、というのが義太夫の説明だった。
「されど、おぬしの様子はどうも腑に落ちぬ。慶次のことになると、皆、腫れ物に触るような態度をとるではないか」
 忠三郎に鋭く見抜かれ、義太夫は口ごもる。やがて観念したように、低い声で言った。
「……これはあくまでも風聞にすぎぬ。ただの風聞じゃ。――慶次は、わしの子であると申す輩がおる」
 その言葉に、忠三郎は思わず目を見開いた。
「なんと……」
 義太夫は手を振り、声を荒げた。
「くだらぬ風聞よ! わしは何も隠してはおらぬ。だが上様の耳に届いたがゆえに、慶次は前田家を廃され、今は滝川家に身を寄せることとなったのじゃ」
 義太夫が神妙な顔で言うと、忠三郎は腹を抱えて笑い出した。
「上様も皆も、風聞とは思うておらぬ。義太夫ひとりが『風聞じゃ風聞じゃ』と叫んでおるわけか!」
 実際、何も知らされていなかった一益が突然、信長から問いただされ、顔を真っ赤にしてしらを切って帰ってきた。そのあと義太夫は一益にこっぴどく叱られた、という経緯がある。
「その話はもう終いじゃ! わしは慶次のことを語りに山を越えてきたわけではない!」
 義太夫は顔を真っ赤にして叫び、ぶんぶんと手を振った。
 忠三郎は大きく息をつき、義太夫の肩を軽く叩いた。
「まあよい、ここで言い合っても埒があかぬ。義太夫、少し歩こうぞ」

 そう言って館を抜け出すと、二人は日野川を望む高台へ向かった。
 川面には冬を前にした薄い陽がきらめき、流れの音が静かに響いていた。
「見よ、この流れを。琵琶の湖へと続いておる」
 忠三郎は川を指差し、穏やかに言った。
「人の噂も、風聞も、かように流れていくものよ。たとえ荒れ狂う日があろうとも、やがて静まり、澄むときが来る」
 義太夫は鼻を鳴らし、つまらなさそうに川を見やったが、どこか居心地悪げに口を閉ざした。
 忠三郎は、うすうす義太夫の胸の内を察していた。だがここで正面から問い詰めれば、ますます火に油を注ぐ。
 秋風に揺れるすすき野を前に、忠三郎はふと足を止めた。
 懐から短冊を取り出し、筆をさらさらと走らせる。
「――『風吹けば 波のごとくに 稲揺れて 里に豊けき 秋をぞ祈る』」
 落ち着き払った声が、野に広がる静けさに溶け込んだ。
 隣を歩く義太夫は、腕を組んで大きくあくびをした。
「まったく、鶴は相も変わらず歌にかまけておる。わしなら一首詠む暇あれば、囲炉裏で一杯やるがの」
 忠三郎は微笑して横目で見やる。
「義太夫、おぬしの句はいつも酒と女に落ち着くであろう」
「なにを申すか! 酒と女と博打は、武士の三種の神器よ」
 義太夫は胸を張って真顔で言い放つ。
 忠三郎はこらえきれず吹き出した。
「はは……おぬしの申すことは、墨の飛び散るような句じゃな」
 義太夫はきょとんとしたが、すぐに歯を見せて笑った。
「墨でも血でも飛び散るのはわしの性分よ。鶴のように静かに詠んでおったら、腹の虫が暴れ出すわ!」

 二人の笑い声が秋空に響いた。
 ――しかし、その笑みの余韻も束の間。義太夫の顔から笑みが消え、目の奥に鋭い光が宿る。
「……鶴。聞き及んだ。織田掃部が北畠におるそうな」
 忠三郎は思わず息をのんだ。
 さきほどまで冗談ばかり口にしていた友が、今や別人のように血走った眼をしている。
「何を申すやら。わしはよう知らぬ。義兄上も存ぜぬであろう」
 ことさらとぼけた声色で返すが、義太夫はにじり寄り、鼻息も荒く叫んだ。
「わしはこれより安土に行き、上様にすべてを直訴いたす!」
「な、何をたわけたことを! 義兄上に無断でそのような真似……血迷ったか!」
 忠三郎が制止の声を上げたが、義太夫はもう聞いちゃいない。
 その目は熱に浮かされ、火を映したように燃えていた。
「わしのこの身、もとより犬死にと笑われようが構わぬ! されど、おつや様の恨みだけは――!」
 叫ぶ声が冬空を裂き、野面にひびく。
 その気迫に、庭にいた鶴の群れが一斉に飛び立った。
「義太夫、待て!」
 忠三郎が人を呼ぼうとした時には、すでにその姿は塀の向こう。
 雪混じりの風が吹きつけ、門の外で馬のいななきがした。
「……あのまま行けば、上様の前で首が飛ぶぞ……」
 忠三郎は吐く息を白くしながら、誰にともなく呟いた。
 その胸に去りゆく友の影が重なり、風が頬を冷たく撫でた。

 風が山の端を渡り、枯草を鳴らした――
 夕陽はすでに沈み、日野の空は薄く朱を残している。
 その光が、義太夫の去った道をかすかに照らし、やがて闇に呑まれた。
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