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第二章 車内でも隣には
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「ぼくもちゃわんむしたべたい」
ゆきが声の方を見ると海知がおにぎりを手に目を輝かせている。
その周りの大人はぎょっとした顔をしているが、アレルギーでもあるのかなとゆきが迷う前に汐織が手元の同じ柄の器を差し出していた。
「え、あ、じゃあこれもう冷めてるから食べる?」
「おねえちゃん、ぼくもちゃわんむしたべるよ」
どうして自慢げなのかゆきにはさっぱり分からなかったが、母である汐織が勧めているなら食べられるはするのだと、同じように茶わん蒸しを手前に寄せる。
「わぁ、一緒だね。いただきます」
「いただきまーす」
ゆきもスプーンを手に持って、熱さに注意しながらそっと口に入れた。
「あ、美味しいです」
思わず声が出る程おいしい茶わん蒸しに反射的に目雲を見詰めたゆきに目雲がそれは良かったと僅かに表情を和ませると、海知の方からも同じ言葉が聞こえる。
「ぼくのもおいしいよ」
「一緒だねー」
ゆきがにっこりと微笑むと海知も満足そうに顔を綻ばせ、汐織にサポートされながら茶わん蒸しを次々放り込み始めた。
「周弥、お前キャラ変したのか?」
颯天が困惑した表情と声で尋ねるが、目雲は軽く流す。
「何も変わっていない」
「いや、絶対変だって。ゆきさんの前で猫被ってるのか?」
「いつも通りだ」
「いや、だからそれが――」
「他に何かいりますか?」
颯天の言葉を無視してゆきに尋ねる目雲を笑いながら、いつものことながら世話ばかり焼いてくれる。
「いえ、めく……周弥さんも私の事をあまり気になさらずに」
目雲はほんの少し口角を上げると、ゆきの隣りにしっかりと座りなおした。
「じゃあ少しだけ」
兄と弟が驚いて目配せし合っているのを気付かず、ゆきは手元に夢中だ。
「この茶わん蒸し本当においしいですね、お店のですか?」
「え、いや、汐織が作ったんだ」
動揺しながら大翔が答えるとゆきは汐織に尊敬のまなざしを向ける。
「すごいです、こんなにきれいな茶わん蒸し作るの難しいですよね」
「いえ、そんな。様子見ながらやればできるから」
「レンジで作る私が言えないですけど、これはすごいです」
「この吸い物も汐織が作ったんだ。だしも変えてある」
今度ははっきりとした大翔の言葉にゆきはお椀を手に取り、香りが嗅いで火傷をしないようにそっと口を付ける。
「あ、本当ですね。風味が違いますね、残念ながら私の舌ではそこまでしか分からないですけど」
「俺には美味いぐらいしか分からないけど」
颯天も冷めた吸い物を啜っていた。
するとまたも海知が声を上げる。
「ぼくも、ぼくも」
「どうした、急に腹が減ったのか?」
驚いているのは大翔だ。
「ぼくものみたいの」
汐織がさっきと同じくすでに置かれていたものを差し出す。
「これでいい? これはもう冷たいよ?」
「あったかいのがいい」
「え」
戸惑う汐織に大翔が立ち上がりながら助けを出した。
「少し温かいのを足してくる、周弥が火をいれてるだろ」
目雲は視線も向けずに軽くうなずくだけだが、それを見てゆきが少し微笑む。
その笑みを感じ取った目雲が注意を向ける。
「どうかしましたか?」
「いえ、ちょっと男兄弟だなと思いまして」
「そうですか?」
腑に落ちない様子の目雲に颯天が笑う。
「雑だよな、なんか対応が雑。マジで、周弥は特にな」
颯天がいうと、泰三がゆきに尋ねた。
「ゆきさんご兄弟は?」
「妹が一人います」
颯天がさらに頷く。
「姉妹かぁ、それは男だけだと雑にみえるわな」
雑だと思ったわけではなかったが、からっとした関係に見えるだけとは伝えず、つい昨日まで一緒だった人物を思い浮かべる。
「妹もなかなか騒がしいです」
そう言ったのと同時くらいに、もぞりと隣で寝ていた赤ちゃんが動き、そのままふみゃふみゅあとぐずり始めた。
「お腹空いたかな」
時枝が抱きあげると、颯天が立ち上がる。
「俺ミルク作ってくるな」
「うん」
しばらくそこで時枝があやしていたが本格的に泣き出したことで、部屋を出ていく。
それを何となくじっと見送っていたゆきのすぐ近くでガチャンと甲高い音がした。
とっさに振り返ったゆきだったが、すでに見事にグラスが倒れてそれによってお吸い物の椀も倒されている。それに気が付いた瞬間ゆきは被害を最小限に抑えるためにおしぼりで卓の端をガードする。
「ゆきさん! すぐ拭きます」
「ごめ、ゆきちゃん、大丈夫!?」
すぐに目雲と汐織が手を伸ばして対処し始め、倒した本人である海知は呆然としているのがゆきの目に入る。倒れた椀は時枝のものだと思われ、冷たいと感じるほどになっていた。
「大丈夫? 熱くはないみたいだけど、海知くんは濡れなかった?」
未だおしぼりを放すと畳に滴りそうになっているのでゆきの両手はそのまま、固まっている海知から返事はないが、白シャツにサスペンダー姿を眺めて汚れてないか確認する。
すぐに大翔が来て海知に触れて同様に確認してくれた。
「大丈夫だな」
「良かった」
ゆきが笑うと、大翔に促されて海知が声を出す。
「……ごめんなさい」
「何か欲しいものがあった?」
俯く海知は頷いているとも、横に首を振っているとも取れる動きを見せていた。
「ゆきさん、もう手を放してもらっても大丈夫です」
海知の方を見ていたからゆきは目雲の声に振り返る。
「あ、ありがとうございます」
言われるまま、そっと手を放すと確かに畳が濡れることはなくほっと息をついた。
「ゆきさん、袖が濡れてます」
目雲に言われて、腕を見ると袖口の色が変わっていた。
「あー、でもカーディガンだけみたいなので脱げば問題ないですね」
カーディガンを脱ぎながら言えば、それを当たり前のように受け取る目雲がゆきの両手を握る。
「ここも少し濡れてますよ」
まるで診察でもするかのように腕を表裏と確認されてゆきは笑う。
「これくらい大丈夫ですよ、すぐ乾きます」
「ちゃんと拭いておきましょう、ついでに手も洗った方が良いですね」
いつもの事ながら手厚いなと思いながら、素直に受け入れる。
「ありがとうございます」
汐織と大翔と泰三が座卓の上を片付けているのを残して、目雲に促されてゆきは部屋を出る。
「何かあった?」
哺乳瓶を振っている颯天がキッチンから出てきた。
「グラスが倒れただけだ」
答えた目雲に颯天は軽く頷いて返し、その後に続くゆきにも声を掛ける。
「濡れちゃった?」
「少しだけです」
話しながらもゆきは手を引かれてダイニングを横切りさらに奥の廊下を歩く。
ガラス張りの廊下というには少し広いスペースがあり、中庭を背に置かれていたソファーの前で時枝があやしながら立っていた。ぐずってはいるが、そこまで激しくは泣いていなくてすごいなとゆきはほっこりとしてしまう。
目雲に連れ歩かれているのを見つけた時枝が小首を傾げた。
「あれ?」
「手を洗ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
「ミルクこれでどう?」
後ろから付いてきていた颯天が哺乳瓶を渡すが、ちょっと熱いと返されていた。
「ウチと勝手が違うから難しいな」
「ウォーターサーバーの有難みを感じてないで、早く」
「すぐだからなぁ」
そんな会話を背に、そこから角を曲がる。今度は廊下と言える幅で先に少し続いていた。
「広いお家ですね」
「元の古民家が水回りは外だったので、この土地に収めるように繋げるとさっきの空間がどうしもできてしまったようです。この奥に父のアトリエがあるのでそれも考慮しているんだと思います」
中庭を観賞するために作られた訳ではなかったのだと、勝手に風流を大事にしていることに思想になっていたゆきは、雰囲気に飲まれている自分を笑う。
すぐにいくつか引き戸があり、その一つの先に広い洗面台があった。
「先に少し袖を拭かせてください、しみになると良くないので」
「自分でしますよ」
目雲があっという間にタオルを濡らして、きつく絞る。
「すぐですから」
ゆきの手元を近くで見るには屈むより楽なため目雲が膝立ちになると、ゆきがぎょっとする。
「な、なんだか、目に毒です」
「ん?」
「あ……上目遣いなんてしないで下さい」
「え?」
「なん、なんでもないです」
ゆきが思い切り目を逸らしたので、いつも見下ろしているゆきを下からのぞき込むようなことが珍しいのだと目雲も気が付いた。
普段と違う姿も様子も目雲も場違いだと分かっていても思わず胸をときめかせる。
ゆきのワンピースの袖口を濡れタオルで抑えながらも、素直に腕を見せているゆきの反応も気になる。
「夜の生活の話し合いは全く平常心のようだったのに、これは可愛い反応をするんですね」
「生物の営みでは当たり前のことですし三大欲求の一つですからそこについて禁忌したり羞恥ではぐらかす様なことは必要ないという認識ですが、これは違います。私の個人的な感情の起伏が生じての現象ですから、目雲さんが、こう、なんか、わ、わたしに、ひざまづいてる、みたいで、それにちょっと、見上げられると、かわいい、し」
「可愛い、ですか?」
「かわいい、です」
「これからもいくらでも跪きますよ」
目雲が楽しみ始めているのは声で分かったが、それに釣られて視線を下げるとまた目雲と目が合い、今度は微笑みまで加わって、慌てて上を向きなおす。
「え、いえ、そういう、違って、目雲さんに傅いてほしいわけではないので、ちょっとしたお姫様感とでも言いましょうか、そういうのを現実としてあるんだと実感してるだけと言いますか」
あからさまに狼狽する姿に目雲も珍しくクスクスと笑っていた。
「ゆきさんが動揺していることだけはよく分かりました、綺麗になりましたから手を洗って貰っても大丈夫です」
「……ありがとうございます」
立ち上がった目雲も見られなくなっているゆきが袖をまくり手を洗い始める横で、微笑みながら目雲がドライヤーを用意する。
「濡れているので、これで乾かしますね」
「わざわざありがとうございます」
目雲に対する胸の高鳴りが納まりきらないままのゆきはタオルを渡され、手を拭いてから袖口を見た。
「首と付く体の部位は冷やさない方が良いですから」
丁寧に拭いてもらって、さらにカーディガンがほとんどを受け止めていたようで目立たないくらいになっていた。
「ちょっとくらいは、たぶん平気だと思いますよ」
「駄目ですよ、カーディガンもすぐ乾かします」
ゆきもやっと平常心を取りもしてきて、簡単には頷けなかった。
「いえいえいえ、これくらいなら寒くないですよ、もし寒くてもいつものあったかストールも持ってきますから」
帰ってから自分で洗えば済むと思っていたが、目雲はそれを許さなかった。
「冷えてからでは遅いですよ、それに濡れたままにしておくと変な染みが付く可能性もあります」
彼氏の実家に行くのに安物を着てきたと嘘でも言えず、だからすぐ処分するというのも気を使わせるとゆきは目雲の手をこれ以上煩わせない言い訳を考える。
「その時は、部屋着にでもしますから」
「ゆきさんは細身のカーディガンを部屋着にするタイプですか?」
「……しま……せん」
鋭い指摘に撃沈した。
隣に住んでいたからこそ、デート以外の時の服装も知られている。ゴミ出しに行くときやちょっとコンビニに行くとき。それに昨日のゆきの実家にいる時も、体の線が出るような服装だったことはない。正装する時以外はいつもゆったりとしたパーカーやセーター、オーバーサイズのシャツ、ロングスカートなど締め付けがないものを好んでいる。
ゆきも流石にデートの時や今も、女性らしさが出る服を着ている。TPOに合わせて、体にフィットしたタートルネックや鎖骨の出るブラウス、ウエストがマークされるようなAラインのスカートやワンピース。当然仕事の打ち合わせ等の時も余所行きの清楚系できちんと社会人に交じっていた。
ちなみにそういった服装は愛美が動画の企画として通販や福袋で山ほど買った物や他の友人からのお下がりで、コーディネートのアドバイスと一緒に貰っていたりする。
「きちんと乾かすので少し待っていてください」
「……お任せします」
袖にドライヤーを当ててもらってすぐに乾いたので、ゆきは洗面所は冷えるからとカーディガンの袖を洗い始めた目雲を残して部屋に戻るため一人そこを離れる。
ただし一人で和室にはいかず、ダイニングテーブルにでも座っているように言われた。
ゆきが声の方を見ると海知がおにぎりを手に目を輝かせている。
その周りの大人はぎょっとした顔をしているが、アレルギーでもあるのかなとゆきが迷う前に汐織が手元の同じ柄の器を差し出していた。
「え、あ、じゃあこれもう冷めてるから食べる?」
「おねえちゃん、ぼくもちゃわんむしたべるよ」
どうして自慢げなのかゆきにはさっぱり分からなかったが、母である汐織が勧めているなら食べられるはするのだと、同じように茶わん蒸しを手前に寄せる。
「わぁ、一緒だね。いただきます」
「いただきまーす」
ゆきもスプーンを手に持って、熱さに注意しながらそっと口に入れた。
「あ、美味しいです」
思わず声が出る程おいしい茶わん蒸しに反射的に目雲を見詰めたゆきに目雲がそれは良かったと僅かに表情を和ませると、海知の方からも同じ言葉が聞こえる。
「ぼくのもおいしいよ」
「一緒だねー」
ゆきがにっこりと微笑むと海知も満足そうに顔を綻ばせ、汐織にサポートされながら茶わん蒸しを次々放り込み始めた。
「周弥、お前キャラ変したのか?」
颯天が困惑した表情と声で尋ねるが、目雲は軽く流す。
「何も変わっていない」
「いや、絶対変だって。ゆきさんの前で猫被ってるのか?」
「いつも通りだ」
「いや、だからそれが――」
「他に何かいりますか?」
颯天の言葉を無視してゆきに尋ねる目雲を笑いながら、いつものことながら世話ばかり焼いてくれる。
「いえ、めく……周弥さんも私の事をあまり気になさらずに」
目雲はほんの少し口角を上げると、ゆきの隣りにしっかりと座りなおした。
「じゃあ少しだけ」
兄と弟が驚いて目配せし合っているのを気付かず、ゆきは手元に夢中だ。
「この茶わん蒸し本当においしいですね、お店のですか?」
「え、いや、汐織が作ったんだ」
動揺しながら大翔が答えるとゆきは汐織に尊敬のまなざしを向ける。
「すごいです、こんなにきれいな茶わん蒸し作るの難しいですよね」
「いえ、そんな。様子見ながらやればできるから」
「レンジで作る私が言えないですけど、これはすごいです」
「この吸い物も汐織が作ったんだ。だしも変えてある」
今度ははっきりとした大翔の言葉にゆきはお椀を手に取り、香りが嗅いで火傷をしないようにそっと口を付ける。
「あ、本当ですね。風味が違いますね、残念ながら私の舌ではそこまでしか分からないですけど」
「俺には美味いぐらいしか分からないけど」
颯天も冷めた吸い物を啜っていた。
するとまたも海知が声を上げる。
「ぼくも、ぼくも」
「どうした、急に腹が減ったのか?」
驚いているのは大翔だ。
「ぼくものみたいの」
汐織がさっきと同じくすでに置かれていたものを差し出す。
「これでいい? これはもう冷たいよ?」
「あったかいのがいい」
「え」
戸惑う汐織に大翔が立ち上がりながら助けを出した。
「少し温かいのを足してくる、周弥が火をいれてるだろ」
目雲は視線も向けずに軽くうなずくだけだが、それを見てゆきが少し微笑む。
その笑みを感じ取った目雲が注意を向ける。
「どうかしましたか?」
「いえ、ちょっと男兄弟だなと思いまして」
「そうですか?」
腑に落ちない様子の目雲に颯天が笑う。
「雑だよな、なんか対応が雑。マジで、周弥は特にな」
颯天がいうと、泰三がゆきに尋ねた。
「ゆきさんご兄弟は?」
「妹が一人います」
颯天がさらに頷く。
「姉妹かぁ、それは男だけだと雑にみえるわな」
雑だと思ったわけではなかったが、からっとした関係に見えるだけとは伝えず、つい昨日まで一緒だった人物を思い浮かべる。
「妹もなかなか騒がしいです」
そう言ったのと同時くらいに、もぞりと隣で寝ていた赤ちゃんが動き、そのままふみゃふみゅあとぐずり始めた。
「お腹空いたかな」
時枝が抱きあげると、颯天が立ち上がる。
「俺ミルク作ってくるな」
「うん」
しばらくそこで時枝があやしていたが本格的に泣き出したことで、部屋を出ていく。
それを何となくじっと見送っていたゆきのすぐ近くでガチャンと甲高い音がした。
とっさに振り返ったゆきだったが、すでに見事にグラスが倒れてそれによってお吸い物の椀も倒されている。それに気が付いた瞬間ゆきは被害を最小限に抑えるためにおしぼりで卓の端をガードする。
「ゆきさん! すぐ拭きます」
「ごめ、ゆきちゃん、大丈夫!?」
すぐに目雲と汐織が手を伸ばして対処し始め、倒した本人である海知は呆然としているのがゆきの目に入る。倒れた椀は時枝のものだと思われ、冷たいと感じるほどになっていた。
「大丈夫? 熱くはないみたいだけど、海知くんは濡れなかった?」
未だおしぼりを放すと畳に滴りそうになっているのでゆきの両手はそのまま、固まっている海知から返事はないが、白シャツにサスペンダー姿を眺めて汚れてないか確認する。
すぐに大翔が来て海知に触れて同様に確認してくれた。
「大丈夫だな」
「良かった」
ゆきが笑うと、大翔に促されて海知が声を出す。
「……ごめんなさい」
「何か欲しいものがあった?」
俯く海知は頷いているとも、横に首を振っているとも取れる動きを見せていた。
「ゆきさん、もう手を放してもらっても大丈夫です」
海知の方を見ていたからゆきは目雲の声に振り返る。
「あ、ありがとうございます」
言われるまま、そっと手を放すと確かに畳が濡れることはなくほっと息をついた。
「ゆきさん、袖が濡れてます」
目雲に言われて、腕を見ると袖口の色が変わっていた。
「あー、でもカーディガンだけみたいなので脱げば問題ないですね」
カーディガンを脱ぎながら言えば、それを当たり前のように受け取る目雲がゆきの両手を握る。
「ここも少し濡れてますよ」
まるで診察でもするかのように腕を表裏と確認されてゆきは笑う。
「これくらい大丈夫ですよ、すぐ乾きます」
「ちゃんと拭いておきましょう、ついでに手も洗った方が良いですね」
いつもの事ながら手厚いなと思いながら、素直に受け入れる。
「ありがとうございます」
汐織と大翔と泰三が座卓の上を片付けているのを残して、目雲に促されてゆきは部屋を出る。
「何かあった?」
哺乳瓶を振っている颯天がキッチンから出てきた。
「グラスが倒れただけだ」
答えた目雲に颯天は軽く頷いて返し、その後に続くゆきにも声を掛ける。
「濡れちゃった?」
「少しだけです」
話しながらもゆきは手を引かれてダイニングを横切りさらに奥の廊下を歩く。
ガラス張りの廊下というには少し広いスペースがあり、中庭を背に置かれていたソファーの前で時枝があやしながら立っていた。ぐずってはいるが、そこまで激しくは泣いていなくてすごいなとゆきはほっこりとしてしまう。
目雲に連れ歩かれているのを見つけた時枝が小首を傾げた。
「あれ?」
「手を洗ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
「ミルクこれでどう?」
後ろから付いてきていた颯天が哺乳瓶を渡すが、ちょっと熱いと返されていた。
「ウチと勝手が違うから難しいな」
「ウォーターサーバーの有難みを感じてないで、早く」
「すぐだからなぁ」
そんな会話を背に、そこから角を曲がる。今度は廊下と言える幅で先に少し続いていた。
「広いお家ですね」
「元の古民家が水回りは外だったので、この土地に収めるように繋げるとさっきの空間がどうしもできてしまったようです。この奥に父のアトリエがあるのでそれも考慮しているんだと思います」
中庭を観賞するために作られた訳ではなかったのだと、勝手に風流を大事にしていることに思想になっていたゆきは、雰囲気に飲まれている自分を笑う。
すぐにいくつか引き戸があり、その一つの先に広い洗面台があった。
「先に少し袖を拭かせてください、しみになると良くないので」
「自分でしますよ」
目雲があっという間にタオルを濡らして、きつく絞る。
「すぐですから」
ゆきの手元を近くで見るには屈むより楽なため目雲が膝立ちになると、ゆきがぎょっとする。
「な、なんだか、目に毒です」
「ん?」
「あ……上目遣いなんてしないで下さい」
「え?」
「なん、なんでもないです」
ゆきが思い切り目を逸らしたので、いつも見下ろしているゆきを下からのぞき込むようなことが珍しいのだと目雲も気が付いた。
普段と違う姿も様子も目雲も場違いだと分かっていても思わず胸をときめかせる。
ゆきのワンピースの袖口を濡れタオルで抑えながらも、素直に腕を見せているゆきの反応も気になる。
「夜の生活の話し合いは全く平常心のようだったのに、これは可愛い反応をするんですね」
「生物の営みでは当たり前のことですし三大欲求の一つですからそこについて禁忌したり羞恥ではぐらかす様なことは必要ないという認識ですが、これは違います。私の個人的な感情の起伏が生じての現象ですから、目雲さんが、こう、なんか、わ、わたしに、ひざまづいてる、みたいで、それにちょっと、見上げられると、かわいい、し」
「可愛い、ですか?」
「かわいい、です」
「これからもいくらでも跪きますよ」
目雲が楽しみ始めているのは声で分かったが、それに釣られて視線を下げるとまた目雲と目が合い、今度は微笑みまで加わって、慌てて上を向きなおす。
「え、いえ、そういう、違って、目雲さんに傅いてほしいわけではないので、ちょっとしたお姫様感とでも言いましょうか、そういうのを現実としてあるんだと実感してるだけと言いますか」
あからさまに狼狽する姿に目雲も珍しくクスクスと笑っていた。
「ゆきさんが動揺していることだけはよく分かりました、綺麗になりましたから手を洗って貰っても大丈夫です」
「……ありがとうございます」
立ち上がった目雲も見られなくなっているゆきが袖をまくり手を洗い始める横で、微笑みながら目雲がドライヤーを用意する。
「濡れているので、これで乾かしますね」
「わざわざありがとうございます」
目雲に対する胸の高鳴りが納まりきらないままのゆきはタオルを渡され、手を拭いてから袖口を見た。
「首と付く体の部位は冷やさない方が良いですから」
丁寧に拭いてもらって、さらにカーディガンがほとんどを受け止めていたようで目立たないくらいになっていた。
「ちょっとくらいは、たぶん平気だと思いますよ」
「駄目ですよ、カーディガンもすぐ乾かします」
ゆきもやっと平常心を取りもしてきて、簡単には頷けなかった。
「いえいえいえ、これくらいなら寒くないですよ、もし寒くてもいつものあったかストールも持ってきますから」
帰ってから自分で洗えば済むと思っていたが、目雲はそれを許さなかった。
「冷えてからでは遅いですよ、それに濡れたままにしておくと変な染みが付く可能性もあります」
彼氏の実家に行くのに安物を着てきたと嘘でも言えず、だからすぐ処分するというのも気を使わせるとゆきは目雲の手をこれ以上煩わせない言い訳を考える。
「その時は、部屋着にでもしますから」
「ゆきさんは細身のカーディガンを部屋着にするタイプですか?」
「……しま……せん」
鋭い指摘に撃沈した。
隣に住んでいたからこそ、デート以外の時の服装も知られている。ゴミ出しに行くときやちょっとコンビニに行くとき。それに昨日のゆきの実家にいる時も、体の線が出るような服装だったことはない。正装する時以外はいつもゆったりとしたパーカーやセーター、オーバーサイズのシャツ、ロングスカートなど締め付けがないものを好んでいる。
ゆきも流石にデートの時や今も、女性らしさが出る服を着ている。TPOに合わせて、体にフィットしたタートルネックや鎖骨の出るブラウス、ウエストがマークされるようなAラインのスカートやワンピース。当然仕事の打ち合わせ等の時も余所行きの清楚系できちんと社会人に交じっていた。
ちなみにそういった服装は愛美が動画の企画として通販や福袋で山ほど買った物や他の友人からのお下がりで、コーディネートのアドバイスと一緒に貰っていたりする。
「きちんと乾かすので少し待っていてください」
「……お任せします」
袖にドライヤーを当ててもらってすぐに乾いたので、ゆきは洗面所は冷えるからとカーディガンの袖を洗い始めた目雲を残して部屋に戻るため一人そこを離れる。
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※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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