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第二章 車内でも隣には

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 二人は付き合い始めてからほぼ週末の土日どちらかにデートをしていた。
 予定を聞くのはいつも目雲だったが、プランはゆきが毎回いろいろと提案してその中から目雲が選ぶことが多い。
 これまでに行ったところだと動物園、水族館、植物園、プラネタリウム、陶器市、マルシェイベント、ハーブティーの専門店、キャンドルやレザークラフトなど手作り体験、果物狩り、等々。ゆきが毎度天候気候や目雲の体調の浮き沈みを確認しながら候補を上げて、食事に行くだけの日もあれば、目雲が弁当を作ってハイキングに行くくらいの日もあった。

 これまで週に一日程度予定を合わせていた二人だったが、二月に入って目雲ではなくゆきの仕事のスケジュールが過密になっていた。

 平日の夜、ゆきは自分のマンションから電話でその状況を伝えていた。

「すみません、目雲さん。どうしても日程が詰まってしまっていて」

 去年の夏前、目雲に振られたことで翻訳の仕事に注力しだしたゆきはその後からずっと積極的に仕事をこなしていたことで、少しずつだが仕事量が確実に増えてきていることと、年度末の複雑な事務手続きをできるだけ早く終わらせておきたいことが重なって最低限健康に暮らそうと思うと時間に余裕がない状態だった。

 もちろんゆきとしては多少無理してでも会いたい気持ちはあったが、それでは人一倍体調に過敏な目雲に余計な気遣いをさせてしまうため、自己管理はゆきにとっても優先させるべきものになっていた。

『大丈夫ですよ』
「でもデートできません。それもこの先三週間以上」

 ベッドに座り、資料に囲まれたパソコンが乗る仕事用の机を眺め、その先にある予定を書き込んでいるカレンダーの文字の多さに少しため息が漏れる。

『仕方ありません。ゆきさんは大丈夫ですか?』

 目雲の予想通りの心配に自信を持って答えた。

「体調はばっちりです。目雲さんはお疲れになってないですか?」
『いつも通りと言ったところです』

 飛び切り元気だと言わないところがゆきは逆に安心する。心配させないための嘘でないと分かるからだ。

「できるだけ元気に過ごしてくださいね、私も早く会えるように頑張ります」

 さっき自己管理は大事だと思った矢先だったが、目雲に会えないならば多少いいだろうとすでに好き勝手しようとしたゆきの雰囲気を感じ取ったわけではないだろうが、目雲が改まって呼んだ。

『あの、ゆきさん』

 ドキッと緊張したのは言うまでもない。いつもと変わらない声色で、いくら目雲でもまさか生活リズムなど気にもしない暮らしをゆきがしようとしていると伝わったなどとは思わなかったが何か叱られてしまうだろうかと息をのむ。

「はい」
『もしご迷惑でなければの話なのですか』
「なんでしょうか」

 何を言われるのだろうかとドキドキしていると、思わぬ提案が告げられた。

『僕がご飯を作りに行くというのはどうでしょうか?』
「ウチにですか?」

 目雲がゆきの部屋に来るというのは本棚を作りに来てもらってから未だにない、そして目雲が一人で来るのは初めてのことだった。

『お仕事の邪魔はしないようにしますし、作り終わったらすぐに帰りますので。もちろん人がいると気になって仕事ができないのであれば、お伺いしません』

 ゆきにとっては有難いばかりの申し出だったがもろ手を挙げて喜ぶことはできず、少し逡巡し、恐る恐るゆきの気持ちを吐露する。

「私には嬉しいだけのお話ですし、せっかく来ていただけるなら一緒にご飯食べたいですけど、目雲さんの方が大変じゃないですか?」
『僕もゆきさんに会えるなら嬉しいですし、一緒にいたいだけですから大変ではありません』

 これが嘘や社交辞令じゃないと思えるところが目黒の日頃の行動のおかげか、はたまたゆきの欲目なのか。
 遠慮することも当然考えたが、ゆきは自分の気持ちに従うことにした。

「……ではお願いしてもいいでしょうか。何のお構いもできませんし、部屋もあまり整ってはいませんが」
『なんなら掃除もしますから、ゆきさんは仕事に集中してください』

 それほど汚れていないとそれは噓なく伝えてから簡単にすり合わせをして、電話を切った。

 次の日曜日、昼前。
 朝から仕事のメールの確認や返信などをしながらもどこか落ち着かないでいたゆきは、エントランスからのインターフォンを確認したあとの部屋のチャイムは画面を見るだけで応答せずすぐ玄関を開けた。

「目雲さん、こんにちは」

 そわそわしている感情を隠すようにいつもより少し大きく挨拶したゆきに、目雲はいつも通りの態度だ。

「お邪魔します」

 肩にトートバックを下げて、手に食材の入ったエコバックを持った目雲を招き入れながら、ゆきはぺこりと頭を下げた。

「わざわざありがとうございます、目雲さんのお家みたいに整理整頓できてませんが見逃してくださいね」

 玄関からトイレ、バスなどの水回りのある短い廊下を抜けて、扉を開けるとすぐに左手にキッチンの入り口がある。

 そこにエコバックを置いた目雲は、キッチンには入らずゆきに付いて部屋の中へ進む。
 以前目雲が来た時よりゆきの部屋も少し物が増えていた。

 翻訳の仕事をする時間が増えたので壁際にシンプルなライトウッドのパソコン机とイスを置いて、今まで使っていたローテーブルは食事用にしていた。
 本棚はすでにすべて埋まるのも時間の問題と言った感じの充填度だ。
 ダイニングテーブルは小さいものなら置けるスペースはあるものの、ゆきが必要性を感じていないがためにカウンターキッチンとベッドの間は壁際にハンガーラックがあるだけで、あとはシンプルな木製のスツールが一脚置いてあった。

 そのスペースで目雲はコートを脱いで、トートバックからエプロンを出して着る横で、コートはゆきがハンガーに掛けてラックに仕舞った。

 早速キッチンに向かった目雲は手を洗いながらカウンターの向こうにいるゆきに話しかける。

「冷蔵庫をお借りしてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「何か使ってほしいものありますか?」

 目雲が持ってきた食材を取り出しながら、ゆきに聞けば考えても思いつかずにお任せと言った感じで笑う。

「ちょっと今把握しきれてなくてダメになりそうなのから使って貰えればなんでも、いくらでも」
「ありがとうございます」
「こちらこそです。台所もなんでも使ってくださいね。あまり充実はしてませんが」

 目雲のキッチンを隅々まで見たことなどないゆきでも、料理をしてくれている姿を見る分に多くの便利グッズを使っているわけではないが、ゆきの部屋では目にしないような道具が登場していた。ブレンダーや無水鍋なら料理する人なら当たり前かもしれないが、蒸籠や鉄のフライパンは少し手入れが必要そうで買おうとゆきの頭に浮かんだこともなかった。

「基本的な物があれば問題ないですよ」
「それならきっとあるはずです」

 自炊はある程度ゆきもするので、目雲の家程とはとてもいかないが、普通のことなら問題なくできる。ほとんどが安物ばかりだが包丁だけは母から良い物をプレゼントされていて、それは料理しろと言うことではなく切れる包丁ならば怪我が減るという経験がもとになった助言付きだった。怪我をしないと言わないところが母らしいというのがその時の感想だ。

「少し早いですが昼食を作りますから、一緒に食べましょう。その後に作り置きや夕飯の支度をします」
「本当にありがとうございます」

 心の底からのゆきの言葉に、目雲はゆきの仕事の邪魔にならないかだけが気にかかっていた。

「できあがったら声を掛けていいですか?」

 頷くゆきが、ある事を思い出した。

「あ、食器なんですけど目雲さんの分を適当に買ったので大分不揃いですけど気にしないで下さいね」
「買ってくれたんですか?」

 カウンター越しにゆきが仕舞ってある場所を示した。

「お茶碗とお椀だけです。お皿だけは友達がおつまみとか作ってくれる時に必要になので大中小いっぱいあったんですけど、目雲さんは和食が好きだしもしかしたらいるかなと思って」
「わざわざありがとうございます」
「いえいえ、作ってもらうのはこっちですし。それに本当に時間がなくて選ばず買ったので、何というか色々バラバラです」

 食器が売っているような場所に長くいる時間がなく、近所の中型のスーパーの片隅に置かれていた古典的な瓢箪柄の物を念のため買うことにした。元からある桜柄の物も決し厳選したものでもないだが、一人暮らしを始めた時からずっと割れずに使い続けている。
 目雲はゆきに教えられた食器棚を覗く。

「嬉しいです」

 話の物だと思われる茶わんを手に取った目雲がゆきを見て頷く。けれどゆきは目雲が普段使っている食器を知っているからこそ喜ばれるものではないと本気で謙遜した。

「いえいえ」
「では、これは晩に使うようにして、お昼は簡単に焼うどんにしようかと思っているんですがどうですか?」
「わあ、楽しみです」

 ただでさえ手間をかけている自覚がある分、手の込んだものを作ると言われたら恐れ多くなってしまいそうだったゆきは、自分でも作りそうなメニューでほっとしたのが半分と、目雲の腕前を知っているので手軽さだけを追求した自分とは比べるのも申し訳ないと昼食が待ち遠しくなる。

「では汁物を付けて焼うどんにしますね」

 そこは一品で終わらせないのが目雲だなと尊敬の念を抱きながら、その心遣いに背かないように気合を入れた。

「はい、頑張って仕事します」

 ゆきが仕事に戻ると同時に目雲がキッチンに立つと奥に長い部屋は全体を見渡せた。
 キッチンの真正面は壁に沿うようにベッドが置かれており、その反対側の壁には目雲と宮前で設置した天井までの大きな本棚。本棚の隣に机が置いており、ゆきはそこに座っている。
 ベッドに背を向け壁に向かってパソコンを開いていたが、目雲の立つ位置によってはゆきの横顔を見ることができた。
 時折ゆきの様子を見ながら、物の場所を確認しながら手早く調理を進めていく。

 昼食をあっという間に作り終えゆきに声を掛けて、机とドアの間に敷かれたラグの上にあるローテーブルで二人で食べると、ゆきを仕事に戻し洗い物をしてから目雲はコートを手に取った。

「少し足りない物を買い足しに行ってきます」

 目雲の声にゆきが椅子から振り返る。

「お店、分かりますか?」
「分かります」

 スマホをゆきに掲げると、ゆきは頷きそうだともう一つ質問を投げた。

「鍵持って行きますか?」

 目雲の表情はほぼ変わらないが、一瞬驚いたような間が開いた。

「いいんですか?」

 ゆきは立ち上がり、ハンガーラックに掛けてあるいつもの肩掛けカバンから鍵を取り出し、目雲に渡す。
 チャイムが鳴ってからゆきが開けることに手間を感じたわけではなかったが、なんとなくだった。

 目雲は形として見える信頼を受け取ったような心持になった。

「ありがとうございます、ゆきさんはお仕事しててください」
「はい、頑張ります」

 ゆきは目雲を見送るとコーヒーを作ってパソコンの前に座る。
 午前中は事務仕事を主にやっていたが、ここからは翻訳を始める。
 締め切った部屋の中で小さく聞こえる外の音と、あとはエアコンの音と自分の動作で生じる音だけがするいつもの状態が、目雲が僅かにいたことでそれにほんのちょっとの違和感が感じられた。




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