46 / 86
第二章 車内でも隣には
45
しおりを挟む
二人は付き合い始めてからほぼ週末の土日どちらかにデートをしていた。
予定を聞くのはいつも目雲だったが、プランはゆきが毎回いろいろと提案してその中から目雲が選ぶことが多い。
これまでに行ったところだと動物園、水族館、植物園、プラネタリウム、陶器市、マルシェイベント、ハーブティーの専門店、キャンドルやレザークラフトなど手作り体験、果物狩り、等々。ゆきが毎度天候気候や目雲の体調の浮き沈みを確認しながら候補を上げて、食事に行くだけの日もあれば、目雲が弁当を作ってハイキングに行くくらいの日もあった。
これまで週に一日程度予定を合わせていた二人だったが、二月に入って目雲ではなくゆきの仕事のスケジュールが過密になっていた。
平日の夜、ゆきは自分のマンションから電話でその状況を伝えていた。
「すみません、目雲さん。どうしても日程が詰まってしまっていて」
去年の夏前、目雲に振られたことで翻訳の仕事に注力しだしたゆきはその後からずっと積極的に仕事をこなしていたことで、少しずつだが仕事量が確実に増えてきていることと、年度末の複雑な事務手続きをできるだけ早く終わらせておきたいことが重なって最低限健康に暮らそうと思うと時間に余裕がない状態だった。
もちろんゆきとしては多少無理してでも会いたい気持ちはあったが、それでは人一倍体調に過敏な目雲に余計な気遣いをさせてしまうため、自己管理はゆきにとっても優先させるべきものになっていた。
『大丈夫ですよ』
「でもデートできません。それもこの先三週間以上」
ベッドに座り、資料に囲まれたパソコンが乗る仕事用の机を眺め、その先にある予定を書き込んでいるカレンダーの文字の多さに少しため息が漏れる。
『仕方ありません。ゆきさんは大丈夫ですか?』
目雲の予想通りの心配に自信を持って答えた。
「体調はばっちりです。目雲さんはお疲れになってないですか?」
『いつも通りと言ったところです』
飛び切り元気だと言わないところがゆきは逆に安心する。心配させないための嘘でないと分かるからだ。
「できるだけ元気に過ごしてくださいね、私も早く会えるように頑張ります」
さっき自己管理は大事だと思った矢先だったが、目雲に会えないならば多少いいだろうとすでに好き勝手しようとしたゆきの雰囲気を感じ取ったわけではないだろうが、目雲が改まって呼んだ。
『あの、ゆきさん』
ドキッと緊張したのは言うまでもない。いつもと変わらない声色で、いくら目雲でもまさか生活リズムなど気にもしない暮らしをゆきがしようとしていると伝わったなどとは思わなかったが何か叱られてしまうだろうかと息をのむ。
「はい」
『もしご迷惑でなければの話なのですか』
「なんでしょうか」
何を言われるのだろうかとドキドキしていると、思わぬ提案が告げられた。
『僕がご飯を作りに行くというのはどうでしょうか?』
「ウチにですか?」
目雲がゆきの部屋に来るというのは本棚を作りに来てもらってから未だにない、そして目雲が一人で来るのは初めてのことだった。
『お仕事の邪魔はしないようにしますし、作り終わったらすぐに帰りますので。もちろん人がいると気になって仕事ができないのであれば、お伺いしません』
ゆきにとっては有難いばかりの申し出だったがもろ手を挙げて喜ぶことはできず、少し逡巡し、恐る恐るゆきの気持ちを吐露する。
「私には嬉しいだけのお話ですし、せっかく来ていただけるなら一緒にご飯食べたいですけど、目雲さんの方が大変じゃないですか?」
『僕もゆきさんに会えるなら嬉しいですし、一緒にいたいだけですから大変ではありません』
これが嘘や社交辞令じゃないと思えるところが目黒の日頃の行動のおかげか、はたまたゆきの欲目なのか。
遠慮することも当然考えたが、ゆきは自分の気持ちに従うことにした。
「……ではお願いしてもいいでしょうか。何のお構いもできませんし、部屋もあまり整ってはいませんが」
『なんなら掃除もしますから、ゆきさんは仕事に集中してください』
それほど汚れていないとそれは噓なく伝えてから簡単にすり合わせをして、電話を切った。
次の日曜日、昼前。
朝から仕事のメールの確認や返信などをしながらもどこか落ち着かないでいたゆきは、エントランスからのインターフォンを確認したあとの部屋のチャイムは画面を見るだけで応答せずすぐ玄関を開けた。
「目雲さん、こんにちは」
そわそわしている感情を隠すようにいつもより少し大きく挨拶したゆきに、目雲はいつも通りの態度だ。
「お邪魔します」
肩にトートバックを下げて、手に食材の入ったエコバックを持った目雲を招き入れながら、ゆきはぺこりと頭を下げた。
「わざわざありがとうございます、目雲さんのお家みたいに整理整頓できてませんが見逃してくださいね」
玄関からトイレ、バスなどの水回りのある短い廊下を抜けて、扉を開けるとすぐに左手にキッチンの入り口がある。
そこにエコバックを置いた目雲は、キッチンには入らずゆきに付いて部屋の中へ進む。
以前目雲が来た時よりゆきの部屋も少し物が増えていた。
翻訳の仕事をする時間が増えたので壁際にシンプルなライトウッドのパソコン机とイスを置いて、今まで使っていたローテーブルは食事用にしていた。
本棚はすでにすべて埋まるのも時間の問題と言った感じの充填度だ。
ダイニングテーブルは小さいものなら置けるスペースはあるものの、ゆきが必要性を感じていないがためにカウンターキッチンとベッドの間は壁際にハンガーラックがあるだけで、あとはシンプルな木製のスツールが一脚置いてあった。
そのスペースで目雲はコートを脱いで、トートバックからエプロンを出して着る横で、コートはゆきがハンガーに掛けてラックに仕舞った。
早速キッチンに向かった目雲は手を洗いながらカウンターの向こうにいるゆきに話しかける。
「冷蔵庫をお借りしてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「何か使ってほしいものありますか?」
目雲が持ってきた食材を取り出しながら、ゆきに聞けば考えても思いつかずにお任せと言った感じで笑う。
「ちょっと今把握しきれてなくてダメになりそうなのから使って貰えればなんでも、いくらでも」
「ありがとうございます」
「こちらこそです。台所もなんでも使ってくださいね。あまり充実はしてませんが」
目雲のキッチンを隅々まで見たことなどないゆきでも、料理をしてくれている姿を見る分に多くの便利グッズを使っているわけではないが、ゆきの部屋では目にしないような道具が登場していた。ブレンダーや無水鍋なら料理する人なら当たり前かもしれないが、蒸籠や鉄のフライパンは少し手入れが必要そうで買おうとゆきの頭に浮かんだこともなかった。
「基本的な物があれば問題ないですよ」
「それならきっとあるはずです」
自炊はある程度ゆきもするので、目雲の家程とはとてもいかないが、普通のことなら問題なくできる。ほとんどが安物ばかりだが包丁だけは母から良い物をプレゼントされていて、それは料理しろと言うことではなく切れる包丁ならば怪我が減るという経験がもとになった助言付きだった。怪我をしないと言わないところが母らしいというのがその時の感想だ。
「少し早いですが昼食を作りますから、一緒に食べましょう。その後に作り置きや夕飯の支度をします」
「本当にありがとうございます」
心の底からのゆきの言葉に、目雲はゆきの仕事の邪魔にならないかだけが気にかかっていた。
「できあがったら声を掛けていいですか?」
頷くゆきが、ある事を思い出した。
「あ、食器なんですけど目雲さんの分を適当に買ったので大分不揃いですけど気にしないで下さいね」
「買ってくれたんですか?」
カウンター越しにゆきが仕舞ってある場所を示した。
「お茶碗とお椀だけです。お皿だけは友達がおつまみとか作ってくれる時に必要になので大中小いっぱいあったんですけど、目雲さんは和食が好きだしもしかしたらいるかなと思って」
「わざわざありがとうございます」
「いえいえ、作ってもらうのはこっちですし。それに本当に時間がなくて選ばず買ったので、何というか色々バラバラです」
食器が売っているような場所に長くいる時間がなく、近所の中型のスーパーの片隅に置かれていた古典的な瓢箪柄の物を念のため買うことにした。元からある桜柄の物も決し厳選したものでもないだが、一人暮らしを始めた時からずっと割れずに使い続けている。
目雲はゆきに教えられた食器棚を覗く。
「嬉しいです」
話の物だと思われる茶わんを手に取った目雲がゆきを見て頷く。けれどゆきは目雲が普段使っている食器を知っているからこそ喜ばれるものではないと本気で謙遜した。
「いえいえ」
「では、これは晩に使うようにして、お昼は簡単に焼うどんにしようかと思っているんですがどうですか?」
「わあ、楽しみです」
ただでさえ手間をかけている自覚がある分、手の込んだものを作ると言われたら恐れ多くなってしまいそうだったゆきは、自分でも作りそうなメニューでほっとしたのが半分と、目雲の腕前を知っているので手軽さだけを追求した自分とは比べるのも申し訳ないと昼食が待ち遠しくなる。
「では汁物を付けて焼うどんにしますね」
そこは一品で終わらせないのが目雲だなと尊敬の念を抱きながら、その心遣いに背かないように気合を入れた。
「はい、頑張って仕事します」
ゆきが仕事に戻ると同時に目雲がキッチンに立つと奥に長い部屋は全体を見渡せた。
キッチンの真正面は壁に沿うようにベッドが置かれており、その反対側の壁には目雲と宮前で設置した天井までの大きな本棚。本棚の隣に机が置いており、ゆきはそこに座っている。
ベッドに背を向け壁に向かってパソコンを開いていたが、目雲の立つ位置によってはゆきの横顔を見ることができた。
時折ゆきの様子を見ながら、物の場所を確認しながら手早く調理を進めていく。
昼食をあっという間に作り終えゆきに声を掛けて、机とドアの間に敷かれたラグの上にあるローテーブルで二人で食べると、ゆきを仕事に戻し洗い物をしてから目雲はコートを手に取った。
「少し足りない物を買い足しに行ってきます」
目雲の声にゆきが椅子から振り返る。
「お店、分かりますか?」
「分かります」
スマホをゆきに掲げると、ゆきは頷きそうだともう一つ質問を投げた。
「鍵持って行きますか?」
目雲の表情はほぼ変わらないが、一瞬驚いたような間が開いた。
「いいんですか?」
ゆきは立ち上がり、ハンガーラックに掛けてあるいつもの肩掛けカバンから鍵を取り出し、目雲に渡す。
チャイムが鳴ってからゆきが開けることに手間を感じたわけではなかったが、なんとなくだった。
目雲は形として見える信頼を受け取ったような心持になった。
「ありがとうございます、ゆきさんはお仕事しててください」
「はい、頑張ります」
ゆきは目雲を見送るとコーヒーを作ってパソコンの前に座る。
午前中は事務仕事を主にやっていたが、ここからは翻訳を始める。
締め切った部屋の中で小さく聞こえる外の音と、あとはエアコンの音と自分の動作で生じる音だけがするいつもの状態が、目雲が僅かにいたことでそれにほんのちょっとの違和感が感じられた。
予定を聞くのはいつも目雲だったが、プランはゆきが毎回いろいろと提案してその中から目雲が選ぶことが多い。
これまでに行ったところだと動物園、水族館、植物園、プラネタリウム、陶器市、マルシェイベント、ハーブティーの専門店、キャンドルやレザークラフトなど手作り体験、果物狩り、等々。ゆきが毎度天候気候や目雲の体調の浮き沈みを確認しながら候補を上げて、食事に行くだけの日もあれば、目雲が弁当を作ってハイキングに行くくらいの日もあった。
これまで週に一日程度予定を合わせていた二人だったが、二月に入って目雲ではなくゆきの仕事のスケジュールが過密になっていた。
平日の夜、ゆきは自分のマンションから電話でその状況を伝えていた。
「すみません、目雲さん。どうしても日程が詰まってしまっていて」
去年の夏前、目雲に振られたことで翻訳の仕事に注力しだしたゆきはその後からずっと積極的に仕事をこなしていたことで、少しずつだが仕事量が確実に増えてきていることと、年度末の複雑な事務手続きをできるだけ早く終わらせておきたいことが重なって最低限健康に暮らそうと思うと時間に余裕がない状態だった。
もちろんゆきとしては多少無理してでも会いたい気持ちはあったが、それでは人一倍体調に過敏な目雲に余計な気遣いをさせてしまうため、自己管理はゆきにとっても優先させるべきものになっていた。
『大丈夫ですよ』
「でもデートできません。それもこの先三週間以上」
ベッドに座り、資料に囲まれたパソコンが乗る仕事用の机を眺め、その先にある予定を書き込んでいるカレンダーの文字の多さに少しため息が漏れる。
『仕方ありません。ゆきさんは大丈夫ですか?』
目雲の予想通りの心配に自信を持って答えた。
「体調はばっちりです。目雲さんはお疲れになってないですか?」
『いつも通りと言ったところです』
飛び切り元気だと言わないところがゆきは逆に安心する。心配させないための嘘でないと分かるからだ。
「できるだけ元気に過ごしてくださいね、私も早く会えるように頑張ります」
さっき自己管理は大事だと思った矢先だったが、目雲に会えないならば多少いいだろうとすでに好き勝手しようとしたゆきの雰囲気を感じ取ったわけではないだろうが、目雲が改まって呼んだ。
『あの、ゆきさん』
ドキッと緊張したのは言うまでもない。いつもと変わらない声色で、いくら目雲でもまさか生活リズムなど気にもしない暮らしをゆきがしようとしていると伝わったなどとは思わなかったが何か叱られてしまうだろうかと息をのむ。
「はい」
『もしご迷惑でなければの話なのですか』
「なんでしょうか」
何を言われるのだろうかとドキドキしていると、思わぬ提案が告げられた。
『僕がご飯を作りに行くというのはどうでしょうか?』
「ウチにですか?」
目雲がゆきの部屋に来るというのは本棚を作りに来てもらってから未だにない、そして目雲が一人で来るのは初めてのことだった。
『お仕事の邪魔はしないようにしますし、作り終わったらすぐに帰りますので。もちろん人がいると気になって仕事ができないのであれば、お伺いしません』
ゆきにとっては有難いばかりの申し出だったがもろ手を挙げて喜ぶことはできず、少し逡巡し、恐る恐るゆきの気持ちを吐露する。
「私には嬉しいだけのお話ですし、せっかく来ていただけるなら一緒にご飯食べたいですけど、目雲さんの方が大変じゃないですか?」
『僕もゆきさんに会えるなら嬉しいですし、一緒にいたいだけですから大変ではありません』
これが嘘や社交辞令じゃないと思えるところが目黒の日頃の行動のおかげか、はたまたゆきの欲目なのか。
遠慮することも当然考えたが、ゆきは自分の気持ちに従うことにした。
「……ではお願いしてもいいでしょうか。何のお構いもできませんし、部屋もあまり整ってはいませんが」
『なんなら掃除もしますから、ゆきさんは仕事に集中してください』
それほど汚れていないとそれは噓なく伝えてから簡単にすり合わせをして、電話を切った。
次の日曜日、昼前。
朝から仕事のメールの確認や返信などをしながらもどこか落ち着かないでいたゆきは、エントランスからのインターフォンを確認したあとの部屋のチャイムは画面を見るだけで応答せずすぐ玄関を開けた。
「目雲さん、こんにちは」
そわそわしている感情を隠すようにいつもより少し大きく挨拶したゆきに、目雲はいつも通りの態度だ。
「お邪魔します」
肩にトートバックを下げて、手に食材の入ったエコバックを持った目雲を招き入れながら、ゆきはぺこりと頭を下げた。
「わざわざありがとうございます、目雲さんのお家みたいに整理整頓できてませんが見逃してくださいね」
玄関からトイレ、バスなどの水回りのある短い廊下を抜けて、扉を開けるとすぐに左手にキッチンの入り口がある。
そこにエコバックを置いた目雲は、キッチンには入らずゆきに付いて部屋の中へ進む。
以前目雲が来た時よりゆきの部屋も少し物が増えていた。
翻訳の仕事をする時間が増えたので壁際にシンプルなライトウッドのパソコン机とイスを置いて、今まで使っていたローテーブルは食事用にしていた。
本棚はすでにすべて埋まるのも時間の問題と言った感じの充填度だ。
ダイニングテーブルは小さいものなら置けるスペースはあるものの、ゆきが必要性を感じていないがためにカウンターキッチンとベッドの間は壁際にハンガーラックがあるだけで、あとはシンプルな木製のスツールが一脚置いてあった。
そのスペースで目雲はコートを脱いで、トートバックからエプロンを出して着る横で、コートはゆきがハンガーに掛けてラックに仕舞った。
早速キッチンに向かった目雲は手を洗いながらカウンターの向こうにいるゆきに話しかける。
「冷蔵庫をお借りしてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
「何か使ってほしいものありますか?」
目雲が持ってきた食材を取り出しながら、ゆきに聞けば考えても思いつかずにお任せと言った感じで笑う。
「ちょっと今把握しきれてなくてダメになりそうなのから使って貰えればなんでも、いくらでも」
「ありがとうございます」
「こちらこそです。台所もなんでも使ってくださいね。あまり充実はしてませんが」
目雲のキッチンを隅々まで見たことなどないゆきでも、料理をしてくれている姿を見る分に多くの便利グッズを使っているわけではないが、ゆきの部屋では目にしないような道具が登場していた。ブレンダーや無水鍋なら料理する人なら当たり前かもしれないが、蒸籠や鉄のフライパンは少し手入れが必要そうで買おうとゆきの頭に浮かんだこともなかった。
「基本的な物があれば問題ないですよ」
「それならきっとあるはずです」
自炊はある程度ゆきもするので、目雲の家程とはとてもいかないが、普通のことなら問題なくできる。ほとんどが安物ばかりだが包丁だけは母から良い物をプレゼントされていて、それは料理しろと言うことではなく切れる包丁ならば怪我が減るという経験がもとになった助言付きだった。怪我をしないと言わないところが母らしいというのがその時の感想だ。
「少し早いですが昼食を作りますから、一緒に食べましょう。その後に作り置きや夕飯の支度をします」
「本当にありがとうございます」
心の底からのゆきの言葉に、目雲はゆきの仕事の邪魔にならないかだけが気にかかっていた。
「できあがったら声を掛けていいですか?」
頷くゆきが、ある事を思い出した。
「あ、食器なんですけど目雲さんの分を適当に買ったので大分不揃いですけど気にしないで下さいね」
「買ってくれたんですか?」
カウンター越しにゆきが仕舞ってある場所を示した。
「お茶碗とお椀だけです。お皿だけは友達がおつまみとか作ってくれる時に必要になので大中小いっぱいあったんですけど、目雲さんは和食が好きだしもしかしたらいるかなと思って」
「わざわざありがとうございます」
「いえいえ、作ってもらうのはこっちですし。それに本当に時間がなくて選ばず買ったので、何というか色々バラバラです」
食器が売っているような場所に長くいる時間がなく、近所の中型のスーパーの片隅に置かれていた古典的な瓢箪柄の物を念のため買うことにした。元からある桜柄の物も決し厳選したものでもないだが、一人暮らしを始めた時からずっと割れずに使い続けている。
目雲はゆきに教えられた食器棚を覗く。
「嬉しいです」
話の物だと思われる茶わんを手に取った目雲がゆきを見て頷く。けれどゆきは目雲が普段使っている食器を知っているからこそ喜ばれるものではないと本気で謙遜した。
「いえいえ」
「では、これは晩に使うようにして、お昼は簡単に焼うどんにしようかと思っているんですがどうですか?」
「わあ、楽しみです」
ただでさえ手間をかけている自覚がある分、手の込んだものを作ると言われたら恐れ多くなってしまいそうだったゆきは、自分でも作りそうなメニューでほっとしたのが半分と、目雲の腕前を知っているので手軽さだけを追求した自分とは比べるのも申し訳ないと昼食が待ち遠しくなる。
「では汁物を付けて焼うどんにしますね」
そこは一品で終わらせないのが目雲だなと尊敬の念を抱きながら、その心遣いに背かないように気合を入れた。
「はい、頑張って仕事します」
ゆきが仕事に戻ると同時に目雲がキッチンに立つと奥に長い部屋は全体を見渡せた。
キッチンの真正面は壁に沿うようにベッドが置かれており、その反対側の壁には目雲と宮前で設置した天井までの大きな本棚。本棚の隣に机が置いており、ゆきはそこに座っている。
ベッドに背を向け壁に向かってパソコンを開いていたが、目雲の立つ位置によってはゆきの横顔を見ることができた。
時折ゆきの様子を見ながら、物の場所を確認しながら手早く調理を進めていく。
昼食をあっという間に作り終えゆきに声を掛けて、机とドアの間に敷かれたラグの上にあるローテーブルで二人で食べると、ゆきを仕事に戻し洗い物をしてから目雲はコートを手に取った。
「少し足りない物を買い足しに行ってきます」
目雲の声にゆきが椅子から振り返る。
「お店、分かりますか?」
「分かります」
スマホをゆきに掲げると、ゆきは頷きそうだともう一つ質問を投げた。
「鍵持って行きますか?」
目雲の表情はほぼ変わらないが、一瞬驚いたような間が開いた。
「いいんですか?」
ゆきは立ち上がり、ハンガーラックに掛けてあるいつもの肩掛けカバンから鍵を取り出し、目雲に渡す。
チャイムが鳴ってからゆきが開けることに手間を感じたわけではなかったが、なんとなくだった。
目雲は形として見える信頼を受け取ったような心持になった。
「ありがとうございます、ゆきさんはお仕事しててください」
「はい、頑張ります」
ゆきは目雲を見送るとコーヒーを作ってパソコンの前に座る。
午前中は事務仕事を主にやっていたが、ここからは翻訳を始める。
締め切った部屋の中で小さく聞こえる外の音と、あとはエアコンの音と自分の動作で生じる音だけがするいつもの状態が、目雲が僅かにいたことでそれにほんのちょっとの違和感が感じられた。
0
あなたにおすすめの小説
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
解けない魔法を このキスで
葉月 まい
恋愛
『さめない夢が叶う場所』
そこで出逢った二人は、
お互いを認識しないまま
同じ場所で再会する。
『自分の作ったドレスで女の子達をプリンセスに』
その想いでドレスを作る『ソルシエール』(魔法使い)
そんな彼女に、彼がかける魔法とは?
═•-⊰❉⊱•登場人物 •⊰❉⊱•-═
白石 美蘭 Miran Shiraishi(27歳)…ドレスブランド『ソルシエール』代表
新海 高良 Takara Shinkai(32歳)…リゾートホテル運営会社『新海ホテル&リゾート』 副社長
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
助けた騎士団になつかれました。
藤 実花
恋愛
冥府を支配する国、アルハガウンの王女シルベーヌは、地上の大国ラシュカとの約束で王の妃になるためにやって来た。
しかし、シルベーヌを見た王は、彼女を『醜女』と呼び、結婚を保留して古い離宮へ行けと言う。
一方ある事情を抱えたシルベーヌは、鮮やかで美しい地上に残りたいと思う願いのため、異議を唱えず離宮へと旅立つが……。
☆本編完結しました。ありがとうございました!☆
番外編①~2020.03.11 終了
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
【本編、番外編完結】血の繋がらない叔父にひたすら片思いしていたいのに、婚約者で幼馴染なアイツが放っておいてくれません
恩田璃星
恋愛
蓮見千歳(はすみちとせ)は、血の繋がりのない叔父、遼平に少しでも女性として見てもらいと、幼い頃から努力を続けてきた。
そして、大学卒業を果たし千歳は、念願叶って遼平の会社で働き始めるが、そこには幼馴染の晴臣(はるおみ)も居た。
千歳が遼平に近づくにつれ、『一途な想い』が複雑に交錯していく。
第14回恋愛小説対象にエントリーしています。
※別タイトルで他サイト様掲載作品になります。
番外編は現時点でアルファポリス様限定で掲載しております。
かりそめ婚のはずなのに、旦那様が甘すぎて困ります ~せっかちな社長は、最短ルートで最愛を囲う~
入海月子
恋愛
セレブの街のブティックG.rowで働く西原望晴(にしはらみはる)は、IT企業社長の由井拓斗(ゆいたくと)の私服のコーディネートをしている。彼のファッションセンスが壊滅的だからだ。
ただの客だったはずなのに、彼といきなりの同居。そして、親を安心させるために入籍することに。
拓斗のほうも結婚圧力がわずらわしかったから、ちょうどいいと言う。
書類上の夫婦と思ったのに、なぜか拓斗は甘々で――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる