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第二章 車内でも隣には

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 しばらくすると玄関の鍵が開く音がしてゆきは作業を中断して、目雲がドアから入ってくるのを見ていた。

「戻りました」

 手にしていた大きな紙袋と重そうな買い物袋をキッチン置くと、コートを脱ぐためにすぐに出てくる。
 目が合った目雲にゆきは何の気なしに笑顔で声を掛ける。

「おかえりなさい」

 目雲は今度ははっきりと少し驚いた表情をしたので、ゆきは不思議に思う。

「どうかしました?」

 ゆきの「おかえり」に心臓が跳ねたのだとは言わずに目雲は首を振った。

「いえ」

 コートを脱いで今度は自分でハンガーに掛ける目雲の背にゆきは伝えておこうと口を開く。

「あの、もしかしたら集中し過ぎて返事しないことがあるかもしれないですけど、気にせずに何度か声かけてもらえれば戻ってきますので、何かあればいつでも言ってください」
「邪魔にならないですか?」

 一番の懸念をエプロンを着ながら目雲が問うと、ゆきはならないと大きく頷く。

「大丈夫です、すぐに戻れますし。それに目雲さんを無視する方が嫌なのでいくらでも声かけてください」

 キッチンに戻った目雲はそれでも最低限にしようと心に誓い、料理を再開した。

 目雲の作業音をBGMにゆきは仕事により集中し始める。
 目雲がキッチンで作業していても、ゆきは全く気にすることなく仕事に没頭していた。
 元々ゆきは音の世界と文字の世界とがあまり繋がっていない。なので、一度文字の世界に浸ってしまうと、音は情報として脳を刺激せず通り過ぎてしまうことが多々あった。
 それでも、ずっとそのままというわけでもなく、集中力は必ず切れる。普段ならばそういう時でも違う角度からの資料を読んだり、また違う翻訳を始めたりして、それで気分転換ができてしまう。けれどそれではエンドレスで仕事ができてしまうために動かないことも食事を疎かにしてしまうことも良くないとは認識はあったが、今のところ改善はなかった。

 けれど今は目雲にもゆきの集中力の切れ間が見えたために、キッチンからゆきに声を掛ける。

「ゆきさん」
「はい」

 一度の呼びかけであっさり振り返ったゆきに提案する。

「新しいコーヒーどうですか?」
「あ、嬉しいです」

 ふにゃりと笑顔で頷いたゆきにまたしてもやられながら、目雲はゆきに近づきマグカップを回収した。
 ゆきが面倒だと言っていたドリップ式のコーヒーを買ってきていた目雲が、ゆきのためにそれを淹れている。

 そうして料理を着々と進めていた目雲の方は、密かにずっとゆきのことを気にしていた。
 調理の手を動かしながら、たびたびゆきの様子を観察し邪魔になっていないかと確認していた。しかし、そのうちゆきが全く気にする様子もなく集中していることに気が付いた。そうなると今度はその様子が気に掛かる。
 PCの画面を見つめたり、本をじっくりと読みこんでいたり、辞書を引いたり、資料を捲ったり、キーボードを打ち続けたり、ゆきが紡ぐ文章がそう言った作業の末に記されていくことが、どこか不思議で、それでいて神秘的でもあった。
 ただそのうち、ゆきがマグカップを持つ回数が増えたり、首を傾げたり、囁くほどでもない小さな声で呻いたりしていて、手が止まっている時間が増えていた。

 だからコーヒーを勧めれば表情と声だけでも嬉しいと分かるほどにゆきが微笑み、目雲はまたそれに心拍数が上がり気付かれず胸を高鳴らせてしまっていた。

「少し休憩しますか?」

 コーヒーを机の上に置きながら目雲が聞けば、ゆきは大きく伸びをした。

「はい、ちょっとだけそうします」
「おやつも一緒にどうですか?」
「おやつ?」

 時計を見てそんな時間だと確認するゆきに目雲がおやつの内容を知らせる。

「ロールケーキ買って来てあるので」

 しまったという顔でゆきが頭を下げる。

「すみません、そこまで気を使わせてしまって。私が用意すべきでしたよね」

 一日三食さえ疎かにしているゆきだからこそ、本当にうっかりしていた。簡単に摘まめる個包装のチョコレートやクッキーくらいはいつも部屋に買っておくことにしていたが、それもおやつとして食べると言うよりは、仕事や読書をしながら少しだけ口にする程度だ。

 そしてゆきの友人はそんなゆきを知っているからこそ外食に誘って外に出させたり、家に行き来していても、おやつより食事や飲み会をしてしっかり飲み食いさせることに重点を置いているので、三時のおやつという概念そのものがゆきの生活から欠如していた。

 そんなゆきをまだ知らない目雲だが、単純に甘いものが好きなゆきに食べさせたかったから買ってきた物だった。

「いえ、僕が好きでやっているので気にしないで下さい。それに一緒に食べますし」
「本当に、ありがとうございます」

 もう心の底からお礼を言うことしかできないゆきはただただ頭下げる。

「頭を使う作業に糖分の補給は必要です」
「素晴らしい免罪符まで、食べたらさらに全力でいつも以上に頑張ります」

 無理をさせにきたわけではないと目雲はやんわりとセーブを掛ける。

「いつも通りでいいですよ」

 目雲がローテーブルにケーキを用意してる間に、ゆきは仕事を分かりやすく始められるように整頓してからマグカップをもって座る。
 二人でケーキを食べながら味の感想など何気ない会話をした。

「目雲さんも適当に休んで下さいね、もう分かったと思いますが私本当に時間気にせずやってしまうので」
「はい、程よくやります。料理だけで大丈夫ですか?」

 掃除もと言っていたのを思い出して、ゆきはしっかり頷いた。

「他の家事はなんとかギリギリ頑張ってます」

 ゆきのその言い方に引っかかったのか、目雲はわずかに眉を寄せる。

「徹夜するほどとかではないですよね?」

 家事の時間を捻出するため犠牲にしているものがあるのではないかと疑う目雲にゆきは笑顔で誤魔化した。

「その辺りはなんとか、バイトもあるので睡眠はちゃんととってます」

 ちゃんとその誤魔化しを見抜き、睡眠はという言葉に引っ掛かりを持ちはしたが、目雲も干渉し過ぎは良くないと自制をしながらもできることは最大限サポートする気しかなかった。

「平日分の夕飯は僕が用意していくので、それだけでもしっかり食べてくださいね」

 そこまではと遠慮することももちろん頭を過ったゆきだったが、目雲の厚意をここは躊躇わず受け取ることにした。目雲ならきっと無茶なことまではしないだろうと、頼ることを知っていた目雲にだからこそ、ゆきも甘えられた。

「定食屋のまかないと目雲さんの食事があればあとはなんとかなります」

 それは大げさでなく、ゆきの食生活は実はかなり乱れていた。
 仕事がこれほど忙しくなる前から適当に三食おにぎりだけで食事を終わらせたり、一日中家にいると昼ご飯を忘れたりもする。
 翻訳の息抜きに本を読んだりでどちらも集中しているので、ゆきはこのところ朝起きた時が唯一家事をこなす時間になっている。そして外に用事がない日はうっかりスーパーにもコンビニにも行かずデリバリーすら頼まないで、朝ご飯だけで気づいたら夜になっていてそのまま眠っているなんてこともあるとは目雲には口が裂けても言えないゆきだった。

 今以上に心配させることが分かっているから、これ以上面倒を掛けるわけにはいかないともうちょっとちゃんと生活しようとゆきはひとり決意を新たにしていた。
 おやつのあともまた仕事をしっかり再開させて、どっぷり日が暮れてからまた目雲に声かけてもらって一緒に食事をした。

 ゆきは贅沢過ぎるとちゃんと分かっているものの、完全に甘えてしまっていた。適度な気分転換を目雲という幸せな強制力によって栄養補給と共にすると作業効率は上がり、目雲の存在もとても心地よく快適過ぎるのが理由だと分かっている。

 夕食後、片付けの前に食事の説明をすると言われ、一緒に冷蔵庫を覗いた。

「すごい、別の人の冷蔵庫みたい」

 思わずゆきはそう声が漏れていた。
 綺麗に並べらえた様々なサイズの保存容器は取り出さなくても色とりどりで様々取り揃えられていると分かる。
 目雲がいくつか出して透明の蓋に貼られたマスキングテープにメニュー名が書いてあると教える。

「総菜は全部三、四日ほど持つものなので、好きな物を取り箸でわけてワンプレートにすれば洗い物も少なく済むと思います。ご飯も一食分ずつ冷凍してありますし、冷凍庫にも温めると主菜になるものがいくつか用意してますから、気分で選んでください。ご飯も一緒にして弁当の様になっているのもいくつかあるので、それなら温めるだけで一食賄えます」

 冷凍庫を開いて見せてくれた目雲にすでに感嘆の声しか出ないゆきは、手間を掛けさせて申し訳ないのを通り越して、喝采を送りたいほど感動していた。
 温める目安の書かれた付箋まで冷蔵庫の扉に貼られているのに気が付き、まじまじと目雲を見上げてしまう。

「凄すぎです、目雲さん。私が想像するような簡単な物でないだろうとは思ってしたが、これほどなんて。それに容器まで用意してくれたんですか、まさかここまで本格的なものを想像してなかったです」

 最初はこの日の夕飯だけだと思っていたのが、目雲が来てから作り置きもというので、二、三日食べれるメニューを置いていってくれるのかなくらいにしか考えていなかったゆきは、一週間きっちりした食事がとれるほどの真剣な作り置きだと分かり、敬服するほどだった。



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