神の契りは解けない

碧碧

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「本当に大丈夫か?気分は悪くねぇの?痛いところとか……っ」
「大丈夫だ。ちょっと身体が重く感じるくらい、か……?」

 霧生は大和に渡された服を着ながら、ぼんやりと虚空を見つめる。不思議な感じだ、この衣擦れの感覚も、自分が人間になっていることも。

「お前、なんか落ち着いてるな。俺の方が動揺してて恥ず……」
「いや、俺は大和がいるから、それだけで……」
「そういうことじゃなくて……!!」

 大和が両手で顔を覆った、その時——。

 ブブブッ、ブブブッ!

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

「ん?」

 大和は反射的に取り出して画面を見る。そこに表示された名前に、顔が強張った。

「……母さん」

 いつでもこの瞬間は緊張する。大和は少しだけ眉を寄せ、心配そうに大和を見つめた。

「ちょっと、黙ってろよ」

 霧生にそう言いながら、通話ボタンを押す。

「……もしもし」
『あ、やっと出たわね!というか、大和、事故ったんだって!?』

 開口一番、義母のやや高めの声が飛び込んできた。大和は一瞬目を瞬かせ、それから「あー……」と曖昧に唸る。

「ああ、まぁ、大丈夫……っていうか、何で」
『保険会社から連絡があったのよ。それよりあんた、身体大丈夫なの?病院にはちゃんと行ったんでしょうね』
「行ったけど、かすり傷だけ」
『はぁ……そういう時はちゃんと連絡しなさいよ』
「ん……ごめん」

 喉につっかえたみたいに、言葉がうまく出てこない。未だに義両親と話すのには緊張してしまう。

『……大和、そろそろ学校には慣れた?また時間あるときにでも帰ってきなさいね』
「あ……」

 用件は済んだのだろう。「帰ってきなさい」「顔を見せなさい」というのは、大抵電話を切る前の決まり文句だ。いつもならこんな言葉に反応したりしない。しかし、今日の大和はピクリと唇を震わせた。

「実は……今近くにいるんだけど、この後、家行っていい?」
『……何言ってんの。あんたの家なんだから、いつでも帰ってきなさい』

 その言葉に大和がほっと一息吐いた。

「……あ、あとさ」

 言いかけて、霧生を一瞥する。

「一人、連れていきたいやつがいるんだけど。泊まらせていい?」
『ええ?お友達?珍しいわね』
「まあ……そんな感じ」
『ふぅん?いいわよ。ご飯も用意しとくわ』
「ありがと」

 適当に誤魔化しつつ、大和はまだ胸の奥に重く残っている緊張感に拳を握った。

 実家を出てもう3年以上になる。帰省するのは一年に二回——盆と正月だけ。それほど遠くない距離に住んでいるのに、どうしてこうも精神的な距離があるのかは、考えるまでもない。

 普通に会話はできる。高校の寮に入るまでは一緒に暮らしていたし、「家族」をしてくれていたと思う。それでも、どこか他人行儀なままの関係。

『じゃあ、気をつけてね』
「ああ……」

 通話を切ると、大和はひとつ深呼吸をする。

「母親か」
「まぁな」

 霧生からの問いかけに、大和はスマホをポケットに突っ込みながら、ぼそりと答えた。

「んじゃ、行くぞ、霧生」
「家に、か?」
「ああ……さすがに風呂入りたいし、まともな飯も食いたい」

 本殿の横に置いてあった荷物を手に取って立ち上がる。バイクはもうないから、歩きで向かわなければ。

 神社の石段を降りる二人の背中を、暖かな日差しが照らしていた。



 昼下がりの陽射しが降り注ぎ、草木がそよぐ音が心地よい。

 長い儀式を終えたばかりの霧生は、どこか不思議そうな顔をしていた。

「……変な感じだ」

 ぽつりと呟く霧生に、大和はちらりと横目をやる。

「何が?」
「足の裏から地面を感じる。風も……体の中に染み込むように入ってくる」
「お前、今まで感覚なかったのかよ」
「いや、あった。あったはずなんだが……こうも違うとはな」

 霧生は歩きながら、拳を開いたり閉じたり、頬を撫でたりしてみたりしている。まるで、自分の体の感覚を確かめるように。

「今更すぎるけどさ、ちゃんと歩けてんのか?」
「問題ない。大和が隣にいるから」
「そういう意味じゃなくて!」

 ツッコみながらも、霧生が隣にいることが、どうしようもなく安心した。霧生が眠ってしまってから、そう経っていないのに、なんだかとても懐かしい気持ちだ。

 そうやって、いつもの調子に戻りかけた大和だったが、子どもの頃に歩いていた通学路に行きあたって、思わずため息を吐く。

「はー……やばい」
「どうした」
「実家に行くの、未だに慣れねぇの」

 一年に二回しか帰らない場所。
 特別何か嫌な思い出があるわけではないのに、家に入るたび、どこか自分がそこに“馴染まない”ような感覚を抱いてしまう。

「霧生、変なこと言うなよ」
「変なこと?」
「……なんていうか、俺のこと家族とか。あと、べたべた触るとかもナシ」
「それは無理だ」
「即答すんな!!」

 霧生は困ったような顔をしつつも、少しだけ笑った。

「わかった。気をつける」
「マジで頼むぞ……」

 元々、パーソナルスペースなど知らない霧生である。大和は大きな不安を覚えつつ、のろのろと実家への道を歩いた。





 どれだけゆっくり歩いても、所詮は小学生の徒歩圏内。あっという間に大和の実家に辿り着いた二人は、玄関の前で立ち止まる。

「……はー、マジで緊張する」

 何度も両手を握っては解くのを繰り返し、チャイムを鳴らせない大和に、霧生がそっと頭を撫でた。

「なっ……おい!」

 思わず手を振り払いそうになったが、その恥ずかしさがほんの少し緊張感を和らげた。霧生は、ただ静かに大和を見つめている。

(……ったく。)

 大和は小さく息を吐き、ようやく意を決してチャイムを押した。

 ピンポーン。

「はいはい……って、あら、大和。ほんとに近くにいたのね」
「……ちわ」

 ドアが開いた瞬間、義母が驚いたように目を丸くする。大和は目を逸らしながら、少しだけ頭を下げた。

「あら、お友達もの凄くイケメンね!!外国の方?って、ああごめんなさい、入って入って」

 大和はなんだか不思議な感覚がした。違和感と言ってもいい。

(なんだろ……この感じ。)

「霧生だ。邪魔する」

 普段どおり遠慮のない口調で挨拶をする霧生を横目に玄関で靴を脱ぎながらその原因を考えていると、奥からバタバタと足音が近づいてきた。

「兄貴じゃん!珍しい!」

 部屋の奥から顔を覗かせたのは、中学に上がったばかりの弟——陸人だった。陸人は勢いよく玄関に駆け寄り、二人の顔を交互に見比べる。

「……陸人、久しぶり」

 大和は微妙な間を置いてから、ややぎこちなく応えた。

 その直後——

「わん!!!」

 足元から高い鳴き声が響いた。

「うおっ!?」

 驚いて飛び退くと、そこには小さな柴犬が尻尾を振りながらぴょんぴょんと跳ねていた。

「い、犬!?」
「ああ、こいつ、最近うちに来た犬。名前はコタロウ」
「……コタロウ」

 大和がしゃがみ込むと、コタロウは興味津々に彼の匂いを嗅いでくる。

「お前、犬大丈夫なのか?アレルギーは……」
「アレルギー?それってちっさい頃の話だろ?しかも動物アレルギーじゃないし。っていうかコタロウめっちゃ可愛いでしょー!お母さんが知り合いから譲ってもらったんだ!」

 大和が困惑していると、コタロウはくるりと霧生のほうに目を向け——次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。

「……?」

 霧生がコタロウを見つめる。
 コタロウも霧生をじっと見つめる。

 沈黙。

「なんか、霧生のことめっちゃ見てね?」
「見てる、な……」

 コタロウはふと、霧生の匂いを嗅ごうと鼻を近づけるが、すぐにピクリと耳を動かし、一歩引く。

 そして——

「わんっ!」

 唐突に吠えると、勢いよく大和の後ろに回り込んだ。

「お前のこと、怖がってんじゃねぇの?」
「これは……」
「うん?」

 霧生は少し考え込むようにして、それから大和にだけ聞こえるように小さく呟いた。

「俺の中に、まだ少し……神の気配が残っているのかもしれないな」
「……は?お前はもう人間だろ?」
「そのはずなんだが。動物は人間よりも敏感だから、何か感じたのかもしれない」

 ひそひそと話をする大和の足元で、コタロウがきゅうんと小さく鳴く。そんな中、陸人はキラキラとした目で霧生を見上げていた。

「なあ、兄貴」
「なんだよ」
「この人、兄貴の友達?すげぇ雰囲気あるイケメンだな!」
「あー……まぁ……」

 大和はため息をつきながら、ようやく家の中へと足を踏み入れた。霧生と陸人と、神に怯える小型犬と一緒に。



 先に部屋に入っていた母がキッチンから顔を出す。

「ああ、大和、お父さんは今日仕事の人と出かけてるのよ。来るって連絡くれてたら出かけなかったでしょうに」
「……まぁ、急だったし」

 大和が肩をすくめると、母は霧生をちらりと見た。

「それにしても、霧生くんてば本当にかっこいいわね!モデルとかしてるの?」
「していない」

 霧生が無表情で即答する。大和はまたも感じた違和感にやや首を傾げた。

「で?近くまで来てるって言ってたけど、どこに行ってたの?」
「あー……白霧神社」
「ああ、あんたあそこ好きね」
 昔からよく行ってたでしょう、と続けられて、大和が少しだけ目を見張る。

「……母さん、知ってたのか?」
「そりゃあ、気づくわよ。帰ってくるのが遅いと思って探しに行ったら、いつもあそこにいたから」

 霧生がじっと大和を見つめる。なんだか居心地が悪かった。一人、神社で時間をつぶしていたことが母に知られていたことも、心配して自分を探してくれていたことも、今初めて知ったのだ。

「それにしても、大和にこんなイケメンの友達ができたなんて、びっくりしたわ」
「ほんとだよな。なんでヤンキーの兄貴とこんなイケメンが友達になったんだろ」
「俺と大和は友達ではなく——」
「ま、まあ成り行きで!」

 霧生の言いかけた言葉に慌てて被せる。

(今こいつ、何て言いかけたんだよ……!)

 どんな説明でも、母と弟に誤解される気がする。家族にしても、恋人にしても——。

 恋人……。

(いやいやいや、そうじゃなくて!!でも、あいつこれから俺と一緒に生きるとか言ってたし……いや、待て、それってつまり……)

「うわああああ!!!」
「何よ急に!」
「びっくりしたあ!!兄貴どうしちゃったの!?」

 大声を上げると、母と陸人が二人して飛び上がった。霧生は、自分の言葉を遮られたのが不服なのか、少しだけ眉間にしわを寄せている。

「ってかそもそも、霧生と両想いっ?!そのうえずっと一緒に生きるとか、恋人ってか伴侶?!そっちの意味で家族ってこと?!」
「ふ……」

 二人には聞こえないほどの大和の小さな独り言が聞こえ、霧生はふっと目を細めた。まるで「気づくのが遅い」とでも言いたげに。

「……っ!!!」

 霧生の笑った声が耳に入り、大和はハッと口を押えた。今自分は何を口にしたのか。自分の行動が信じられず、真っ赤になって硬直する。そんな彼を、三人がじっと見つめた。

「なんか、兄貴雰囲気変わったね」
「ええ、こんな大和見たことないわ。霧生くんのおかげかしら」
「大和はいつも可愛いぞ」

「可愛い?」

 陸人が訝しげに霧生を見上げる。大和は、ようやく意識を取り戻したように、勢いよく霧生の方に振り向いた。

「……今、何つった?」
「可愛い、だ」

 さらりとした言葉に、大和の動きが完全に止まる。

「お、お前……っ!!」

 母と弟が興味津々に二人を見つめる中、大和の顔はさらに赤くなっていくのだった——。





 母が夕食の準備をすると言うので、霧生と大和は、コタロウの散歩をすることにした。元々動物は大好きだが、中でも犬が好きだ。コタロウは愛らしくくるまった尻尾を揺らしながら、大和のペースに合わせて歩いている。

「いい子だなー、コタロウ」

 名前を呼べば顔を上げ、真ん丸の目が大和をじっと見つめた。

 さっき色々と自覚してしまったからだろう。今霧生と並んで歩くのは、やたらと気恥ずかしかった。必死にコタロウに集中し、意識を逸らせようとする。

「……大和は」
「ん?」
「大和は、まだ母や弟と話すのが嫌か?」

 霧生が静かに問いかける。大和は、ふっと軽く息を吐き、空を見上げた。

「いや……そうでもないかもな」

 夕焼けが西の空を染め上げ、橙色の光が二人の影を長く伸ばしていた。コタロウは軽快に歩きながら、時折振り返って大和の様子を伺う。風がそっと頬を撫でるたびに、心の奥に溜まっていたわだかまりが少しずつ溶けていくような気がした。

「俺は、ただ家に一緒に住んでるだけだと思ってた。俺だけ血が繋がってなくて、俺だけ家族じゃない。父さんと母さんは、しょうがなく俺を育ててくれてるんだって、思ってた。でも、俺が帰ってこない時、母さんは心配して探してくれてたんだな」

 大和の声が、茜色の空気に混じっていく。

「陸人が酷いアレルギーって知って、俺本当は犬が飼いたかったけど、絶対無理だと思って言えなかった。俺より陸人の方が当然優先されるだろうって。でも、言ってみたら違ったのかもな。俺が高校で寮に入りたいって言っても、こんな格好をしてバイクを乗り回し始めても、二人とも何も言わなかった。でもそれは、俺のことがどうでもよかったんじゃなくて、尊重してくれてたからなのかなって。俺は自分だけ家族じゃないって悲観してたけど、俺の方が勝手に線引きしてたのかなって、今はそんな気がしてる。ちょっとだけど」
「そうか」

 霧生の相槌は柔らかく、大和の胸にすっと染み込んだ。こんな風に思えたのは、紛れもなくこの男のおかげだと、思う。

 突然、霧生が不思議そうな顔で腹を撫でた。

「……腹から変な音がした」
「あはは!腹が減ったんだな」
「これが、空腹か」

 霧生は本当に人間になったのだ。そして、大和と一緒にこれからも生きてくれるのだ。どうしようもなく嬉しい。胸が一杯になって、大和は歩みを速めた。

「霧生、早く帰ろう」



 家へ戻る道すがら、ふと父の姿が目に入った。夕食前に帰ると言っていたが、用事は済んだらしい。

「父さん」

 大和が声をかけると、父は一瞬驚いたような表情を見せた。

「散歩か」
「ん。夕飯ができるまでの間に」
「そうか。君が霧生くんだね。母さんから聞いてるよ」
「はい」

 短いやり取りの中に、じんわりとした温かさを感じた。

(俺のこと、話してたんだ。)

 大和の知らないところで、父も母も彼を気にかけてくれていた。

 霧生が横で静かに佇んでいる。ふと目が合うと、霧生はただ静かに頷いた。それだけなのに心が軽くなる。

(……ああ、やっぱこいつのおかげだ。)

 玄関のドアを開ける。

 家の中には、いい匂いが漂っていた。





「おかえりー!ご飯もう出来てるわよ……って、お父さんと会ったのね」
「……ただいま。そこで会った」

 コタロウのリードを外し、足を拭いてやる。

「先に手を洗ってらっしゃい」

 母の声に、大和と霧生、そして父は洗面所へ向かう。三人で順番に手を洗うのがなんだか擽ったかった。霧生も自分も、家族の一員として馴染んでいく感じがして。

 リビングに入ると、食卓に母の手料理が並び、陸人は先に席についていた。お箸もお椀も、大和と霧生の分が用意されていて、見慣れたテーブルは少し窮屈になっている。

 席に着く。霧生も、陸人も、肘が当たりそうなくらいに近い。けれど、もう不安も緊張もなかった。家族の一員として、ちゃんとここに座っていると、そう思えた。



 テーブルには白米に味噌汁、焼き魚に煮物、漬物までついた、どこか懐かしい雰囲気の和食が並んでいる。

「霧生くん、ごめんなさいね。私、おしゃれな料理とか作れなくて」

 少し申し訳なさそうに手を合わせて言う母に、霧生はゆっくりと首を振った。

「いや、和食は好きだ。大和が作るのもいつも和食だから」
「お、おい!いらんこと言うな!」

 大和が慌てて霧生を睨むが、霧生はどこ吹く風とばかりに「いただきます」と言ってから味噌汁を啜っている。

「あら、あなたたち一緒に住んでるの?」

 母が興味深そうに目を輝かせながら尋ねる。大和は口に含んだご飯を吹き出しそうになりながら慌てて飲み込み、赤くなった顔で反論する。

「ち、違うから!こいつが勝手に転がり込んできただけで!」
「ふーん……?」

 陸人が箸を動かしながらニヤリと笑う。

「それで?霧生さんは何してる人なの?学生?それとも社会人?」
「んん……社会奉仕、か……?」
「えっ、ボランティア?!」

 陸人が驚いた声を上げる。元々神様だったのを知っている身としては、言い得て妙だな、なんて思っていた。

「でもボランティアってお金にならないじゃん」
「大和が養ってくれている」
「してねぇよ!!」

 大和が勢いよく突っ込みを入れるが、霧生はまったく気にしていない様子で煮物を口に運ぶ。気に入ったのか、里芋ばかりを選んで食べ進めていた。

「じゃあ、霧生さんは兄貴のどこが好きなの?」
「おまっ、何……ッ!?」

 陸人が面白がるように問いかけると、大和はガタンと椅子から立ち上がる。

「大和は優しい。何も覚えていない時も俺を追い出さなかったし、俺が倒れている時も毎日看病してくれた。飯も美味いし、可愛いし、いい匂いもする」
「ギャアアアアアア!!お前!何!ハァアアア?!」

 当たり前のように答える霧生に、大和がじたばたと暴れる。三人は「へぇ~」と意味ありげな表情を浮かべ、大和を見つめた。「食事中なんだから座りなさい」と言う母に、顔を真っ赤にしながら椅子に座って俯く。

「もう飯が喉を通んねぇ……」

 その言葉に、家族の笑い声が響いた。

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