57 / 76
第五十七章
しおりを挟む
世にも奇妙な世界は昭和の激動期にあった。
わたし達日本人は、激動の昭和期を決し
て忘れてはならない。何故なら昭和は二つの世界大戦を経験し、しかも敗戦国となった日本はアメリカ占領下のもと様々な苦難を余儀なくされた。
それは日本を再生させる為の試練であったのかもしれない。
抑々この昭和は大正の後、平成の前の時代であり大化以降230番目、246個目の元号であった。
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。
日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占めている。
以下の文章は高市首相の年始の国民に向けたメッセージである。
この国家元首のメッセージから貴方達は何を感じとったのだろうか?
また、貴方はこれからの日本はどうあるべきだと思っているのだろうか?
読者の皆さんにお伺い申し上げます。
ー(高市首相の年始メッセージ)ー
web上からの引用です。
ご了承願います。
あけましておめでとうございます。
本年は昭和元年から起算して満百年を迎えます。
「山やまの 色はあらたに みゆれとも
我まつりこと いかにかあるらむ」
御即位後初の歌会始での昭和天皇の御製です。
昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有の変革を経験した時代です。まるで昭和が激動の時代となることを見通していたかのように、移り変わっていく山々の色を詠まれています。
令和の現在も、日本と世界は大きな変化を迎えています。
日本においては、静かな有事とも言うべき人口減少や、長期にわたるデフレから一転して国民の皆様が直面されている物価高、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています。
昨年十月の内閣総理大臣就任以来、高市内閣では、今の暮らしや未来への不安を希望に変え、強い経済を作るとともに、世界が直面する課題に向き合い、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を実現するため、絶対に諦めない覚悟をもって、国家国民のために懸命に働いてまいりました。
なかでも、国民の皆様が直面しておられる物価高への対応を最優先に取り組んでまいりました。昨年の臨時国会では、「補正予算の成立」という形で、国民の皆様とのお約束を果たすことができました。そして、「責任ある積極財政」に基づき、強い経済、強い外交・安全保障の実現についても、政権として一定の方向性を出すことができたと考えています。
また、ASEAN関連首脳会議、AZEC首脳会合、日米首脳会談、APEC首脳会議、G20、「中央アジア+日本」対話・首脳会合等、数々の機会を通じ、国際社会の中で日本のプレゼンスを高めるための外交にも積極的に取り組んでまいりました。
しかし、高市内閣は始動したばかりです。これから取り組むべき課題は山積しています。
「歴史の中に未来の秘密がある」
日本美術を世界に紹介した岡倉天心の言葉です。
昭和の多くの時代には、「今日より明日はよくなる」という「希望」がありました。日本と日本人の底力を信じてやまない者として、激動の昭和を生き、先の大戦や幾多の災害を乗り越えて今の日本の礎を築いた先人の叡智と努力に学びたいと思います。その上で、変化をおそれず、必要な改革を断行していきます。
今年初めて投票する十八歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、次の時代を担っていかれる方々です。彼らに、日本の未来を信じてほしい。「希望」を抱いてほしい。今の時代をお預かりしている私達には、「日本列島を、強く豊かに」して、次世代に贈る責任があると考えています。
日本列島を、強く豊かにしていくこと、そして、そのことを通じてこの国に「希望」を生み出していくことを、国民の皆様への新年の誓いといたします。
本年が、皆様一人ひとりにとって、幸多き一年となりますことを祈念申し上げます。
令和8年1月1日
自由民主党総裁
高市 早苗
ー(メッセージ終わり)ー
わたし達日本人は、激動の昭和期を決して忘れてはならない。
何故なら昭和は二つの世界大戦を経験し、しかも敗戦国となった日本はアメリカ占領下のもと様々な苦難を余儀なくされた。
それは日本を再生させる為の試練であったのかもしれない。
抑々この昭和は大正の後、平成の前の時代であり大化以降230番目、246個目の元号であった。
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。
日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占めている。
歴史を振り返ってみると、大正天皇の崩御に伴い、皇太子裕仁親王が皇位を継承し、即日『昭和』と改元された。昭和天皇(裕仁親王)の崩御に伴い、皇太子明仁親王(現上皇)が皇位を継承し、『平成』と改元されることとなって幕を閉じた。
最も長く続いた日本の元号で64年を数えるが、『元年』と『64年』は共に7日間しか使用されなかったため実際の期間は62年と14日(22,660日)となる。
外国のものを含めても最長の元号であり、歴史上60年以上を数えた元号は、昭和の他には、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
最長の元号である上、この期間は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日や終戦記念日の同年8月15日を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、
社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の時代区分もそれぞれ近代・現代と別になっており、一体的に捉えることは難しい。
昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされる。
「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和万邦」(百姓昭明にして、万邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。
なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年~1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和万邦」)。
国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日に皇太子(摂政宮)裕仁親王の践祚を受けて直ちに改元の詔書が公布されて昭和に即日改元し、1926年の最後の1週間(12月25日 - 12月31日)だけが昭和元年となった(西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある[注 5])。なお、この際に東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。
昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)
朕󠄂皇祖󠄁皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵󠄁ヒ元號ヲ建󠄁テ大正十五年十二月󠄁二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)
終了
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御。
これに伴い1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の定めるところにより明仁親王(昭和天皇第1皇男子)が皇位を継承し、第125代天皇となった。そのため、1979年(昭和54年)に施行された「元号法(昭和54年法律第43号)」の規定に基き「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が7日中に公布・翌8日に施行されて、平成と改元した(戦後初の改元)。これに伴い、1989年の最初の1週間(1月1日 - 1月7日)だけが昭和64年となった。
元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)
内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
元号を平成に改める。
この政令は、公布の日の翌日から施行する。
ー(昭和の激動を振り返る)ー
第一次世界大戦後金融恐慌
田中内閣と山東出兵
普通選挙
世界恐慌の影響
満洲事変
日中戦争
第二次世界大戦
ー(戦後のGHQによる占領時代)ー
占領期間は1945~1952まで。
太平洋戦争後、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、アメリカ政府による直接的な統治があった沖縄・奄美群島・トカラ列島の下7島・歯舞群島・小笠原諸島と、ソ連によって占領された歯舞群島・千島列島・南樺太を除き日本国政府が行う間接統治が行われた。出版停止やプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。
第一復員省や第二復員省などの復員組織が設置された。日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。
外地から引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争や国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満洲国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地側に管理が引き継がれた。
第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。
その内容は、象徴天皇制の下に主権は国民に存するとした『国民主権(主権在民)』法の下の平等および自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する『基本的人権の尊重』、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない『平和主義』を三大原理とした。
このため現在の日本では自衛隊への徴兵制度は憲法違反として実施されない。
また、天皇は『日本国および日本国民統合の象徴』とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた。これを、象徴天皇制という。
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月にかけて昭和天皇は沖縄県を除く46都道府県を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が1946年(昭和21年)の流行語となった。
しかし、その後昭和天皇が政治的発言をした事例がある。1947年(昭和22年)9月19日にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望した。
また、マスメディアからも昭和天皇に対して意図的に政治的な質問をし、昭和天皇がこれに回答する場合もあった。1975年(昭和50年)10月31日には、記者からの質問に答える形で「(戦争責任をどう考えているかについて)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と回答した。
さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。
農地改革の実施。
財閥解体の実施。
結党の自由・結社の自由を保証させた。
日本共産党などの政治犯の釈放をする。
保守政治家の公職追放を行う。
レッドパージなどの政治介入の実施。
神道指令の実施。
特別高等警察が廃止される。代わりに内務省によって公安警察が設置される。
内務省の解体。
労働組合の結成を促進する。
婦人の解放と婦人参政権の寄与。
華族制度・家制度の廃止と貴族院(帝国議会上院)の廃止など封建制度の撤廃。
シャウプ勧告による税制改革。
新しい教育制度の6・3・3・4制を導入するアメリカ教育使節団報告書に基づいた学制改革の実施。
旧教育基本法の制定。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復した。
7年間に及ぶGHQの進駐が終わった。
また、日本国憲法第9条では軍隊を保持しないことを定めたが、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ軍の駐留を在日米軍としてそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には警察予備隊から改称した保安隊(その後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行った。冷戦期にはアメリカと同盟してソ連に対抗したのである。
ー(GHQによる占領)ー
駐日米大使館に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問した昭和天皇。
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南洋群島、日本本土(内地)の一部であった南樺太・千島列島および色丹島・歯舞群島・小笠原諸島・南西諸島の北緯30度以南を失った。
このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカから返還された。千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は現時点では千島列島のうち、南千島の国後島・択捉島の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞群島および色丹島の2島は北海道に属すると説明している。
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 (GHQ) に占領され、最高司令官としてマッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化はそれ東久邇宮内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は民主化の進展に対応できず総辞職し、歴代内閣の中で最短政権を記録している。
アメリカの占領下で幣原内閣(幣原喜重郎首相)、次いで吉田内閣(吉田茂首相)を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革(労働者の権利を擁護するための立法措置・労働組合運動の育成)の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。
また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層20万人が軍国主義者として公職からの追放処分となったことに加えて被選挙権が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文部相(現在の文科相)であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級・B級・C級とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)。
連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、トルーマンがこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。
1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。
日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。
第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。
しかし在日米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。
日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約や自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが1949年10月1日に国共内戦に勝利した中国共産党により中華人民共和国が建国されたことと朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した。
アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行われた。
1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され、翌年には竹島を軍事占領された。
文化面においては日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。
またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい・当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
ー(日本社会党政権による社会主義政策)ー
1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第1党となり片山哲が総理大臣となった。
右翼過ぎず、左翼過ぎない内閣の性格から「中道政権」と呼ばれた。GHQのチャールズ・L・ケーディスも民主化推進の立場からこの中道路線を支持していた。
昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、キリスト教徒である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。
民主党・日本社会党・国民協同党の連立政権である片山内閣と芦田内閣が以下の経済政策を実施した。
労働組合法を成立させて、教育委員会の公選投票制度や日本教職員組合など複数の労働組合を結成させた。定時制高校や社会科学系公立短大夜間部の設置など社会人教育の充実。
天皇の官吏から国民への奉仕者としての国家公務員法を制定させた。
内務省を解体させて、都道府県知事・市町村長の公選制度(直接選挙)やリコール制度を規定した。
自治体警察を創設するなど警察制度の改革を実施。
労働問題を扱う省庁として新たに労働省を設置。
職業安定法を公布させた。
社会保険制度として、失業保険法と失業手当法を成立させて失業保険を創設した。
国民健康保険法を改正した。
児童福祉法を公布させた。
学校給食制度を創設した。
戸主制度・家督相続など封建的な家族制度の廃止や婚姻の自由、男女平等の相続の創設を目標とした改正民法の制定。少年法の制定と家庭裁判所の創設。
夫婦平等の概念と夫婦共同財産制度の創設、妻の能力権と配偶者として相続する権利、子供全員が均等に相続する制度が新設されて、富裕層の相続税が増税されるなどの相続法改正。
既婚女性に対する姦通罪の廃止・皇室に対する大逆罪及び不敬罪の廃止など刑法の大幅改正。
令状主義、黙秘権を認めるなど刑事訴訟法の改正。
裁判所法を制定して、日本国憲法で定められた最高裁判所や下級裁判所についての組織や権限を明記した。
炭鉱の国有化を目的とする臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)を制定させた。
優生保護法を成立させて人工妊娠中絶を合法化。
芦田均が関与して逮捕された昭電疑獄で1948年10月、中道政権は崩壊する。
ー(生活保護)ー
1946年(昭和21年)生活保護法を成立させて、1950年(昭和25年)に全面改正。同年生活保護制度の運用を開始するなどの政策が行われた。
ー(部落解放運動)ー
昭和20年代に全国水平社が改組して部落解放同盟となった。日本社会党と協力して部落解放運動を行い、格差改善と集落の改良事業を行った。
ー(労働運動の興隆と沈滞)ー
東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。
しかし戦後混乱期の頃は、1949年(昭和24年)の国鉄三大ミステリー事件(下山事件、三鷹事件、松川事件)などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時期にレッドパージが行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。
ー(騒乱事件)ー
1948年(昭和23年)4月に阪神教育事件、独立回復後の1952年(昭和27年)には5月1日に血のメーデー事件、同年6月に吹田事件、続く7月には大須事件があった。
ー(講和後・高度経済成長期)ー
米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代に続く驚異的な高度経済成長(昭和30年代~昭和40年代の名目経済成長率が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だったGNP(国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の経済大国となる)を遂げるに至る。
都市部には高層ビルが立ち並び、鉄筋コンクリートのアパートや郊外の建売住宅に住む人が急増した。
日本中から蒸気機関車が消えて、電車やディーゼルカーが走り回るようになった。
主要道路はアスファルトで舗装された。寛容と忍耐の池田の哲学思想で数字に強い経済通の内閣総理大臣池田勇人の低姿勢の経済成長政策で新幹線(東海道新幹線)と高速道路(東名高速道路・名神高速道路)が完成した。平田佐矩(四日市市長)や大野伴睦(自民党の国会議員)などによって東海地方と日本海を結ぶ日本横断運河の建設が計画された。
ほぼ全ての家庭にテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫・電話が普及して、自家用車も珍しくなくなった。
デパートやホテルに行ったり、特急列車に乗れば冷房の恩恵を受けられるようになった。パンや肉・ケーキといった洋食や洋菓子も普段食べるようになった。平均寿命は世界有数となり、大学進学率も激増した。そのかわり大都市部では人口過密、農村部では過疎という現象が生じて、公害や交通戦争が社会問題となった。
敗戦直後にはインフレーション(戦後インフレ)に見舞われた。傾斜生産方式 を採用して、ドッジ・ライン(安定恐慌)が起こる。
朝鮮戦争勃発で朝鮮特需(特需景気)が起こる。
1954年(昭和29年)から高度経済成長が開始されて、ガチャマン景気による繊維産業の好景気があり、好景気と不景気を繰り返しながら日本経済は順調に成長した。
1955年(昭和30年)に社会党右派と社会党左派にが再統一された日本社会党と自由党・日本民主党が合同した自由民主党が結成されたことで、自民党政権時代になった。自民党保守勢力に対抗するため革新労組勢力の日本社会党を支持するマルクス主義の左派労組政党が組織された。ソビエト連邦社会主義政策のマルクス左翼福祉思想の安保闘争過激派の社会党左派と対立したアメリカ合衆国寄りのキリスト教労組右派思想の社会党右派議員が離党して民主社会党が結成された。右派キリスト教勢力によって、その後の民社党組織の右派労組政党が組織された。労働組合及び創価学会支援の野党と資本主義政党の自民党が対立する55年体制が成立した。
ー(戦後経済史の流れ)ー
神武景気。1954年(昭和29年)12月から~1957年(昭和32年)6月までの好景気を指す。
なべ底不況。1957年(昭和32年)7月から~1958年(昭和33年)6月までの不況を指す。
岩戸景気。1958年(昭和33年)7月から~1961年(昭和36年)12月までの好景気を指す。
所得倍増計画。1961年(昭和36年)から~1971年(昭和46年)までの経済計画を指す。
オリンピック景気。1962年(昭和37年)11月から~1964年(昭和39年)10月までの好景気を指す。
証券不況(構造不況)。1964年(昭和39年)11月から~1965年(昭和40年)10月までの不況の時代。
いざなぎ景気。1965年(昭和40年)11月から~1970年(昭和45年)7月までの好景気を指す。
日本万国博覧会は1970年(昭和45年)の出来事で通称は大阪万博である。
ニクソン・ショック(円切上げ) は1971年(昭和46年)の経済ショックを指す。
日本列島改造論(列島改造景気)によって1972年(昭和47年)に大型公共事業とインフレーション(物価上昇)があった。
ー(家電ブーム)ー
昭和20年代以降、次の家電製品がヒット商品となった。
三種の神器と呼ばれ、一般家庭の主婦たちの憧れの的となった。
①白黒テレビ
②電気洗濯機
③電気冷蔵庫(他に炊飯器・掃除機)
高度経済成長期には新三種の神器として
次の家電が3Cと呼ばれて憧れのヒット商
品となった。
❶カラーテレビ
❷クーラー
❸自家用自動車(カー)
三種の神器以外に都市部を中心に普及し
た家電である。
○レコードプレーヤー
○電気炊飯器
○トースター
○電気コタツ
ー(昭和元禄文化)ー
昭和元禄と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創
刊が目立った。手塚治虫・石ノ森章太
郎・藤子不二雄・長谷川町子・水木しげ
る・赤塚不二夫などの漫画を原作とした
アニメなどの作品や黒澤明・円谷英二が
映画監督となった邦画などの昭和文化や
大衆文化が生まれた。
流行歌が普及して美空ひばり・藤山一郎
などの歌手や石原裕次郎や渥美清などの
俳優がスターとなり芸能界で活躍した。
漫画・映画と並んでテレビ放送も普及し
た。昭和40年代はプロ野球のV9時代で
あり、大相撲は昭和30年代から昭和50
年代にかけて、力道山がプロレスで活躍
するなど格闘技人気があった。「巨人・大
鵬・卵焼き」などの流行語が誕生した。
東海道新幹線開業(1964年〔昭和39
年〕)名神高速道路開通(1963年〔昭和
38年〕)東京オリンピックの開催(1964
年〔昭和39年〕)[50]日本万国博覧会
(1970年〔昭和45年〕の大阪万博)の成
功によって最高潮を迎えたが、中東戦争
がもたらしたオイルショックによって高
度経済成長が終わる。
ー(防衛問題)ー
敗戦国である日本の奇蹟の復興は、アメ
リカの戦略上の必要から国内治安と国土
防衛のために微小な規模で警察予備隊(後
に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では
戦力の保持を禁じていたことにより、完
全に国防費負担から解放されているとい
うに等しい財政上の僥倖が大きく寄与し
ている。その反面、日米安保条約と日米
地位協定によってアメリカ軍が日本各地
に残されており、駐留国負担(後の思いや
り予算)の出費も大きく、アメリカ軍犯罪
時の裁判や事故などを巡ってトラブルも
絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした
問題がしばしば起こった。また、「核兵器
を持たず、作らず、持ち込ませず」という
非核三原則が国是とされた一方で、日本
政府とアメリカ政府との間で、有事にお
ける日本国内への核持ち込みを黙認する
密約が結ばれたことも、明らかにされつ
つある。
ー(日本人の食生活)ー
若者の農家離れによって、農民(特に青壮
年の男性)が農家から会社員になるように
なり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」
のいわゆる「三ちゃん農業」が急増して、
機械化が進んで専業農家より兼業農家の
方が多くなった。
学校給食がパン食になって育った戦後世
代の主食が米からパンとなり、米余りに
なると減反政策を行い、転作によって小
麦の輸入が増加し、その結果日本の食料
自給率が低下した。戦後期は捕鯨が盛ん
で鯨肉が主流の肉食であったが、昭和50
年代以降、IWC(国際捕鯨委員会)で商業
捕鯨が禁止されたことによって牛肉・豚
肉・鶏肉が主流の肉食となった。
高度経済成長期に調理の熱源が薪や炭か
ら電気・ガスに変わった。
昭和30年に東京芝浦電気が電気炊飯器を
発売したことが発端となり、竈などを使
用する炊飯方法から炊飯器を使用したも
のに変化した(当時は電気炊飯器とガス炊
飯器がほぼ互角だった)。
炊飯の調理から副食中心の料理に主婦の
仕事が変化した。ガスコンロの普及で洋
食や中華料理の調理が容易となった。
昭和40年代の冷蔵庫の普及で生鮮食品が
登場した。昭和35年ごろから米の消費量
が減少してパン・麺類・肉・乳製品・魚
介類・野菜の消費量が増加した。
昭和42年から米余りになり昭和45年か
ら米の生産調整が実施された、昭和40年
頃に日清食品のインスタントラーメンな
どインスタント食品が多数開発された。
昭和43年には初のレトルト食品、昭和
46年にはカップ麺が開発された。
昭和45年以降ファーストフード店やファ
ミリーレストランやコンビニエンススト
アが普及した。
ラーメンやコーヒーやコロッケやハンバ
ーグが国民食となった。
ー(住宅医療などの生活問題)ー
戦後の住宅事情は、戦災による住宅焼失
と復員や引揚げによる人口増加で住宅が
不足する住宅難となっていた。
1950年(昭和25年)には、持ち家建設を
支援するために住宅金融公庫が創設され
た。
1951年(昭和26年)には田中角栄を中心
とする議員立法で地方自治体が住宅を建
設する公営住宅法が成立した。
1955年(昭和30年)には、第2次鳩山一
郎内閣によって日本住宅公団が創設され
た。昭和31年から昭和33年頃にかけて
アジア風邪が流行したが厚生省が創設さ
れた影響で国民の医療条件が改善され
た。戦後期に死亡要因1位が結核から癌に
なり、日本は1年間の死亡者が急減する少
死社会になった。高度経済成長期には、
昭和一桁世代の夫婦2人と新人類世代の
子供2人の合計4人の家が平均家族モデル
となった。ダイニングキッチンと和室2
つと水洗トイレが完備された団地で洋風
生活をする団地族が出現した。
都市部では銭湯が多かったが下町の銭湯
が減少した。
ー(日本女性の女性史)ー
昭和戦前期に婦人参政権獲得は貴族院で
否決された女性差別の歴史がある。
しかし、男性に限定されていた女子の大
学入学は昭和11年から昭和14年頃に明治
大学女子部や早稲田大学の女子学生の入
学許可がされた。女性弁護士になる権利
は昭和11年に弁護士法が改正されて
1940年(昭和15年)に日本初の女性弁護
士3名(三淵嘉子・久米愛・中田正子)が
誕生するなど一部女性に開放されて女性
に市民権が認可されていた。1948年(昭
和23年)に優生保護法が成立して人工妊
娠中絶が合法化された。民法が改正され
て遺産相続が男女平等となった。
参政権を獲得した女性が、更なる地位向
上を目指して女性解放運動が活発化し
た。
1970年(昭和45年)にウーマンリブ運動
が開始されたことに続いて、1975年(昭
和50年)が国際婦人年とされて女性の地
位向上が人類的な課題となった。
1956年(昭和31年)に売春防止法が成
立、1958年(昭和33年)4月1日にはが
施行され公娼制度が完全に廃止、赤線が
消滅した。
1947年(昭和22年)10月26日の刑法の
改正で姦通罪が廃止された。
1947年(昭和22年)には民法の大幅な改
正で家制度が廃止された。
昭和20年代に主流だった産婆の補助によ
る出産から、昭和30年代には産婦人科
の出産が増加した。
昭和45年頃にお見合い結婚が減少して急
増した恋愛結婚と婚姻数が逆転して社内
結婚が主流の社会となった。
昭和50年代からバブル期に学生結婚が急
増した。
ファッション面では、パンティーやブラ
ジャーなどの洋風下着類やナプキンやタ
ンポンなどの生理用品が普及した。
昭和30年代にアッパッパと呼ばれる筒型
のワンピースが普及した。
昭和40年代には団塊の世代の女性を中心
にミニスカートブームがあり、スカート
や着物以外に女性がズボンを着用するこ
とが公認された。女性が肌を露出する水
着の着用が認知されて、若い女性の間で
水着が普及した。髪型ではショートカッ
トが社会的に認知されて、化粧品や美容
院・美容整形などの女性ビジネスが普及
した。
生活面では、昭和30年代にミシンが普及
して経済面では個人店や百貨店主流のシ
ョッピングから主婦が買い物しやすいス
ーパーマーケットが普及した。
男女平等や高学歴化が進んでいなかった
戦後世代の昭和一桁世代からしらけ世代
の女性は、夫がサラリーマンで子供が平
均2人の家族が平均的なモデル家庭とさ
れた。
戦後世代の女性は専業主婦が主流だっ
た。高等教育を受ける女性が急増した新
人類世代以降の20代の高学歴女性では
OLが増加するなどの変化があった。
ー(金の卵の時代)ー
急速な高度経済成長に合わせて高齢化の
進行と乳児死亡率など病死の減少が進
み、都市の人口の急増が進んで日本の人
口はさらに増加した。
戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、
昭和40年代には日本の総人口が
ついに1億人を超えた。
ベビーブームで生まれた世代は団塊の世
代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な
世代人口の中で勝ち残るための競争に身
を捧げることになり、自己主張はどの世
代よりも激しくなった。
地方出身者は口減らしのために都市部へ
集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは
「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行
された。
都市部の中小企業に就職したかれらの豊
富な労働力が日本経済を支えた。
ー(左翼運動)ー
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある
者は高校と大学へ進学して、高等教育の
大衆化が進んだ。「60年安保」では国会議
事堂にデモ隊が集結し岸内閣退陣運動が
あった。
1960年代(昭和35年)頃に浅沼稲次郎暗
殺事件など暴力事件による右翼テロが相
次いだ。
1970年(昭和45年)の70年安保闘争を
ピークとする左翼運動の高潮があり、欧
米のベトナム戦争反対闘争や五月革命な
どと期を一にしていた。
全共闘世代と言われる若者たちの一部
は、「既成左翼」(日本共産党および日本社
会党)の平和革命路線に反発した新左翼運
動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、
右翼系の若者と衝突を繰り返した。
日本の学生運動の挫折を経て、新左翼運
動は孤立化し、日本赤軍・連合赤軍・よ
ど号グループなどは過激化して内ゲバや
一般市民を巻き込む日本赤軍事件・あさ
ま山荘事件・成田空港管制塔占拠事件・
連続企業爆破事件・よど号ハイジャック
事件などのテロ活動へと追い込まれてい
った。
彼らの起こした数々の事件は、それまで
比較的同情的な面もあった世論の反発を
引き起こした。若者たちの多くも東大紛
争が失敗に終わると過激化した学生運動
から距離を置くようになり、都市部の市
民の多くは支持政党を持たない無党派層
となった。
ー(高度成長経済の裏側。社会問題(公害・福祉・交通戦争))ー
昭和30年代には、国民皆保険体制が整備
されて高度経済成長の弊害として、4つの
公害裁判となった公害病を指す『四大公害
病』と言う言葉が誕生した。
昭和30年代から昭和49年頃にかけて三
重県四日市市で発生した四日市ぜんそく
(別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・神
奈川県川崎市で発生した川崎公害(主な公
害病名は川崎ぜんそく)など工業地帯や都
市部での大気汚染が深刻化した。
熊本県水俣市で発生した水俣病(別名は熊
本水俣病)・新潟県阿賀野川流域で発生し
た新潟水俣病(別名は第二水俣病・阿賀野
川水銀中毒)などの水銀中毒が発生し、ま
た、富山県神通川流域で発生したイタイ
イタイ病も問題化した。
深刻な公害に対応するために公害対策基
本法が成立した。
鉄道中心の交通から自動車中心の社会と
なり日本国有鉄道はローカル線を中心に
赤字経営となった。
昭和30年代から昭和40年代にかけて鉄
道の電化工事が行われて、蒸気機関車が
全廃された。モータリゼーションにより
交通事故による死者が激増して、交通戦
争と言われるようになった。
こうした時代状況で野党は、日本社会党
や日本共産党が社会主義革命を唱える労
働者政党から都会住民を支持基盤とする
革新政党に変化して、中道政治を唱える
民社党や創価学会を支持基盤とする公明
党は都市部で支持者を増やして、労働者
の地位向上や公害対策や高齢者などの福
祉政策に積極的に取り組んだ。
野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、
サラリーマンなどの都市住民に支持を広
げた。
大企業優先の成長路線だった自由民主党
も、佐藤栄作首相の強力なイニシアチブ
の下、1971年(昭和46年)に環境庁を新
設した。
ー(復帰)ー
臨時北部南西諸島政庁が設置されてい
た南西諸島地域は、1952年(昭和27年)
2月10日にトカラ列島が、奄美群島が
1953年(昭和28年)に12月25日アメリ
カから日本に返還された。
1968年(昭和43年)6月28日に南方諸
島及びその他の諸島に関する日本国とア
メリカ合衆国との間の協定により小笠原
諸島が返還された。
1972年(昭和47年)5月15日に、琉球政
府が設置されていた沖縄県が日本に復帰
した。
県民の祖国復帰運動が実った結果だが、
沖縄のアメリカ軍基地がそのまま残され
たことは後に禍根を残した。
ー(エネルギー問題)ー
高度経済成長の進展とともに燃料が石炭
から石油へ転換するエネルギー革命が開
始されて、これまで有力産業の一つであ
った炭鉱業界の合理化が迫られて1959年
(昭和34年)~1960年(昭和35年)に三
井三池争議があった。
1973年(昭和48年)の第一次オイルショ
ック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制の
ための総需要抑制策が執行されて、高度
経済成長は終焉することとなった。
田中角栄内閣は石油や天然ガスなど海外
からの資源に依存する火力発電から脱却
して原子力発電を推進するために、電源
開発促進税法・特別会計に関する法律・
発電用施設周辺地域整備法の電源三法を
成立させた。
わたし達日本人は、激動の昭和期を決し
て忘れてはならない。何故なら昭和は二つの世界大戦を経験し、しかも敗戦国となった日本はアメリカ占領下のもと様々な苦難を余儀なくされた。
それは日本を再生させる為の試練であったのかもしれない。
抑々この昭和は大正の後、平成の前の時代であり大化以降230番目、246個目の元号であった。
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。
日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占めている。
以下の文章は高市首相の年始の国民に向けたメッセージである。
この国家元首のメッセージから貴方達は何を感じとったのだろうか?
また、貴方はこれからの日本はどうあるべきだと思っているのだろうか?
読者の皆さんにお伺い申し上げます。
ー(高市首相の年始メッセージ)ー
web上からの引用です。
ご了承願います。
あけましておめでとうございます。
本年は昭和元年から起算して満百年を迎えます。
「山やまの 色はあらたに みゆれとも
我まつりこと いかにかあるらむ」
御即位後初の歌会始での昭和天皇の御製です。
昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有の変革を経験した時代です。まるで昭和が激動の時代となることを見通していたかのように、移り変わっていく山々の色を詠まれています。
令和の現在も、日本と世界は大きな変化を迎えています。
日本においては、静かな有事とも言うべき人口減少や、長期にわたるデフレから一転して国民の皆様が直面されている物価高、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています。
昨年十月の内閣総理大臣就任以来、高市内閣では、今の暮らしや未来への不安を希望に変え、強い経済を作るとともに、世界が直面する課題に向き合い、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を実現するため、絶対に諦めない覚悟をもって、国家国民のために懸命に働いてまいりました。
なかでも、国民の皆様が直面しておられる物価高への対応を最優先に取り組んでまいりました。昨年の臨時国会では、「補正予算の成立」という形で、国民の皆様とのお約束を果たすことができました。そして、「責任ある積極財政」に基づき、強い経済、強い外交・安全保障の実現についても、政権として一定の方向性を出すことができたと考えています。
また、ASEAN関連首脳会議、AZEC首脳会合、日米首脳会談、APEC首脳会議、G20、「中央アジア+日本」対話・首脳会合等、数々の機会を通じ、国際社会の中で日本のプレゼンスを高めるための外交にも積極的に取り組んでまいりました。
しかし、高市内閣は始動したばかりです。これから取り組むべき課題は山積しています。
「歴史の中に未来の秘密がある」
日本美術を世界に紹介した岡倉天心の言葉です。
昭和の多くの時代には、「今日より明日はよくなる」という「希望」がありました。日本と日本人の底力を信じてやまない者として、激動の昭和を生き、先の大戦や幾多の災害を乗り越えて今の日本の礎を築いた先人の叡智と努力に学びたいと思います。その上で、変化をおそれず、必要な改革を断行していきます。
今年初めて投票する十八歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、次の時代を担っていかれる方々です。彼らに、日本の未来を信じてほしい。「希望」を抱いてほしい。今の時代をお預かりしている私達には、「日本列島を、強く豊かに」して、次世代に贈る責任があると考えています。
日本列島を、強く豊かにしていくこと、そして、そのことを通じてこの国に「希望」を生み出していくことを、国民の皆様への新年の誓いといたします。
本年が、皆様一人ひとりにとって、幸多き一年となりますことを祈念申し上げます。
令和8年1月1日
自由民主党総裁
高市 早苗
ー(メッセージ終わり)ー
わたし達日本人は、激動の昭和期を決して忘れてはならない。
何故なら昭和は二つの世界大戦を経験し、しかも敗戦国となった日本はアメリカ占領下のもと様々な苦難を余儀なくされた。
それは日本を再生させる為の試練であったのかもしれない。
抑々この昭和は大正の後、平成の前の時代であり大化以降230番目、246個目の元号であった。
昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日まで。
日本史の時代区分上では、元号が昭和であった期間を昭和時代といい、グレゴリオ暦(西暦)において20世紀の大半を占めている。
歴史を振り返ってみると、大正天皇の崩御に伴い、皇太子裕仁親王が皇位を継承し、即日『昭和』と改元された。昭和天皇(裕仁親王)の崩御に伴い、皇太子明仁親王(現上皇)が皇位を継承し、『平成』と改元されることとなって幕を閉じた。
最も長く続いた日本の元号で64年を数えるが、『元年』と『64年』は共に7日間しか使用されなかったため実際の期間は62年と14日(22,660日)となる。
外国のものを含めても最長の元号であり、歴史上60年以上を数えた元号は、昭和の他には、清の康熙(61年)と乾隆(60年)しかない。
最長の元号である上、この期間は第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結した1945年(昭和20年)9月2日や終戦記念日の同年8月15日を境に、それ以前の約19年間は戦前(および戦中)、以後の43年余は戦後と、
社会の価値観・諸制度や政治体制が大きく異なる時代に分かれ、世界史上の時代区分もそれぞれ近代・現代と別になっており、一体的に捉えることは難しい。
昭和は登極令(皇室令の一部)による制度での最後の元号であり、1979年(昭和54年)の元号法制定の際、同法附則第2項により、「本則第1項の規定に基づき定められたもの」とされる。
「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和万邦」(百姓昭明にして、万邦を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。
なお、江戸時代に全く同一の出典で「明和」(1764年~1772年)の元号が制定されている(「百姓昭明、協和万邦」)。
国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。一方、内閣では「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日に皇太子(摂政宮)裕仁親王の践祚を受けて直ちに改元の詔書が公布されて昭和に即日改元し、1926年の最後の1週間(12月25日 - 12月31日)だけが昭和元年となった(西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある[注 5])。なお、この際に東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。
昭和改元の詔書(1926年〔大正15年〕12月25日)
朕󠄂皇祖󠄁皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵󠄁ヒ元號ヲ建󠄁テ大正十五年十二月󠄁二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)
終了
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇が崩御。
これに伴い1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び皇室典範(昭和22年法律第3号)第4条の定めるところにより明仁親王(昭和天皇第1皇男子)が皇位を継承し、第125代天皇となった。そのため、1979年(昭和54年)に施行された「元号法(昭和54年法律第43号)」の規定に基き「元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)」が7日中に公布・翌8日に施行されて、平成と改元した(戦後初の改元)。これに伴い、1989年の最初の1週間(1月1日 - 1月7日)だけが昭和64年となった。
元号を改める政令(1989年〔昭和64年〕1月7日)
内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
元号を平成に改める。
この政令は、公布の日の翌日から施行する。
ー(昭和の激動を振り返る)ー
第一次世界大戦後金融恐慌
田中内閣と山東出兵
普通選挙
世界恐慌の影響
満洲事変
日中戦争
第二次世界大戦
ー(戦後のGHQによる占領時代)ー
占領期間は1945~1952まで。
太平洋戦争後、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) の軍政は布かれず、アメリカ政府による直接的な統治があった沖縄・奄美群島・トカラ列島の下7島・歯舞群島・小笠原諸島と、ソ連によって占領された歯舞群島・千島列島・南樺太を除き日本国政府が行う間接統治が行われた。出版停止やプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。
第一復員省や第二復員省などの復員組織が設置された。日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍占領地域となった内地(樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。
外地から引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争や国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満洲国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地側に管理が引き継がれた。
第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。
その内容は、象徴天皇制の下に主権は国民に存するとした『国民主権(主権在民)』法の下の平等および自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する『基本的人権の尊重』、戦争を放棄し、国際紛争を武力による威嚇または武力の行使によって解決しない『平和主義』を三大原理とした。
このため現在の日本では自衛隊への徴兵制度は憲法違反として実施されない。
また、天皇は『日本国および日本国民統合の象徴』とされ、立憲君主国として皇室は維持されたものの天皇の国政への関与は禁じられた。これを、象徴天皇制という。
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月にかけて昭和天皇は沖縄県を除く46都道府県を訪問した。昭和天皇が回答する「あっ、そう」の言葉が1946年(昭和21年)の流行語となった。
しかし、その後昭和天皇が政治的発言をした事例がある。1947年(昭和22年)9月19日にはGHQに対して「沖縄メッセージ」で沖縄の長期軍事占領を要望した。
また、マスメディアからも昭和天皇に対して意図的に政治的な質問をし、昭和天皇がこれに回答する場合もあった。1975年(昭和50年)10月31日には、記者からの質問に答える形で「(戦争責任をどう考えているかについて)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが止むを得ない事と私は思ってます」と回答した。
さらに、GHQの主導により以下の改革が断行された。
農地改革の実施。
財閥解体の実施。
結党の自由・結社の自由を保証させた。
日本共産党などの政治犯の釈放をする。
保守政治家の公職追放を行う。
レッドパージなどの政治介入の実施。
神道指令の実施。
特別高等警察が廃止される。代わりに内務省によって公安警察が設置される。
内務省の解体。
労働組合の結成を促進する。
婦人の解放と婦人参政権の寄与。
華族制度・家制度の廃止と貴族院(帝国議会上院)の廃止など封建制度の撤廃。
シャウプ勧告による税制改革。
新しい教育制度の6・3・3・4制を導入するアメリカ教育使節団報告書に基づいた学制改革の実施。
旧教育基本法の制定。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)の発効により日本国は主権を回復した。
7年間に及ぶGHQの進駐が終わった。
また、日本国憲法第9条では軍隊を保持しないことを定めたが、サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ軍の駐留を在日米軍としてそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には警察予備隊から改称した保安隊(その後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行った。冷戦期にはアメリカと同盟してソ連に対抗したのである。
ー(GHQによる占領)ー
駐日米大使館に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥を訪問した昭和天皇。
終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南洋群島、日本本土(内地)の一部であった南樺太・千島列島および色丹島・歯舞群島・小笠原諸島・南西諸島の北緯30度以南を失った。
このうち、南西諸島と小笠原諸島は後にアメリカから返還された。千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は現時点では千島列島のうち、南千島の国後島・択捉島の2島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞群島および色丹島の2島は北海道に属すると説明している。
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国 (GHQ) に占領され、最高司令官としてマッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化はそれ東久邇宮内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は民主化の進展に対応できず総辞職し、歴代内閣の中で最短政権を記録している。
アメリカの占領下で幣原内閣(幣原喜重郎首相)、次いで吉田内閣(吉田茂首相)を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革(労働者の権利を擁護するための立法措置・労働組合運動の育成)の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。
また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放によって、社会の指導者層20万人が軍国主義者として公職からの追放処分となったことに加えて被選挙権が停止処分となった。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文部相(現在の文科相)であったことから、政治的活動が制約された。また、占領軍によって検閲が徹底され、連合国や朝鮮人について批判する報道は禁止された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級・B級・C級とは罪の大小を表すものではなく、分類するものである)。
連合国の日本占領政策は、ソ連が自国領に編入した南樺太・千島列島を除き事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて政策が実施された。占領を巡って、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、スターリンは北海道の北半分のソ連占領を提案したが、トルーマンがこれを拒否した。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。
1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。
日本では、表面的にはソ連占領地域(南樺太、千島列島)およびアメリカ占領地域(琉球列島、小笠原諸島)を除く日本政府統治地域(北海道、本州、四国、九州、伊豆諸島およびそれらの付属島嶼)では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。
第1次吉田内閣下の1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法が公布、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行され、1951年(昭和26年)9月8日調印の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して翌1952年(昭和27年)4月28日に日本は主権を回復した。
しかし在日米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。
日本国憲法第9条は、国権の発動である戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としては放棄する平和主義を定めている。そのため、日米安全保障条約や自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが1949年10月1日に国共内戦に勝利した中国共産党により中華人民共和国が建国されたことと朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。朝鮮戦争には、占領軍の要請の下で官民8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、多くの犠牲者を出した。
アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中華人民共和国が成立すると対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置付け、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行われた。
1952年(昭和27年)1月18日に韓国が竹島の領有を主張する李承晩ラインを宣言すると、数千人に上る漁民が抑留され、翌年には竹島を軍事占領された。
文化面においては日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。
またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカを初めとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい・当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法を初めとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
ー(日本社会党政権による社会主義政策)ー
1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党が第1党となり片山哲が総理大臣となった。
右翼過ぎず、左翼過ぎない内閣の性格から「中道政権」と呼ばれた。GHQのチャールズ・L・ケーディスも民主化推進の立場からこの中道路線を支持していた。
昭和天皇は社会主義による急進的な変革は望まなかったが、キリスト教徒である片山の人柄に好感があり、労働問題で日本社会党が支持を得た民意に一定の理解を持っていたとする宮内庁の文書の記述がある。
民主党・日本社会党・国民協同党の連立政権である片山内閣と芦田内閣が以下の経済政策を実施した。
労働組合法を成立させて、教育委員会の公選投票制度や日本教職員組合など複数の労働組合を結成させた。定時制高校や社会科学系公立短大夜間部の設置など社会人教育の充実。
天皇の官吏から国民への奉仕者としての国家公務員法を制定させた。
内務省を解体させて、都道府県知事・市町村長の公選制度(直接選挙)やリコール制度を規定した。
自治体警察を創設するなど警察制度の改革を実施。
労働問題を扱う省庁として新たに労働省を設置。
職業安定法を公布させた。
社会保険制度として、失業保険法と失業手当法を成立させて失業保険を創設した。
国民健康保険法を改正した。
児童福祉法を公布させた。
学校給食制度を創設した。
戸主制度・家督相続など封建的な家族制度の廃止や婚姻の自由、男女平等の相続の創設を目標とした改正民法の制定。少年法の制定と家庭裁判所の創設。
夫婦平等の概念と夫婦共同財産制度の創設、妻の能力権と配偶者として相続する権利、子供全員が均等に相続する制度が新設されて、富裕層の相続税が増税されるなどの相続法改正。
既婚女性に対する姦通罪の廃止・皇室に対する大逆罪及び不敬罪の廃止など刑法の大幅改正。
令状主義、黙秘権を認めるなど刑事訴訟法の改正。
裁判所法を制定して、日本国憲法で定められた最高裁判所や下級裁判所についての組織や権限を明記した。
炭鉱の国有化を目的とする臨時石炭鉱業管理法(通称「炭坑国家管理法」)を制定させた。
優生保護法を成立させて人工妊娠中絶を合法化。
芦田均が関与して逮捕された昭電疑獄で1948年10月、中道政権は崩壊する。
ー(生活保護)ー
1946年(昭和21年)生活保護法を成立させて、1950年(昭和25年)に全面改正。同年生活保護制度の運用を開始するなどの政策が行われた。
ー(部落解放運動)ー
昭和20年代に全国水平社が改組して部落解放同盟となった。日本社会党と協力して部落解放運動を行い、格差改善と集落の改良事業を行った。
ー(労働運動の興隆と沈滞)ー
東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。
しかし戦後混乱期の頃は、1949年(昭和24年)の国鉄三大ミステリー事件(下山事件、三鷹事件、松川事件)などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時期にレッドパージが行われ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。
ー(騒乱事件)ー
1948年(昭和23年)4月に阪神教育事件、独立回復後の1952年(昭和27年)には5月1日に血のメーデー事件、同年6月に吹田事件、続く7月には大須事件があった。
ー(講和後・高度経済成長期)ー
米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要の増大も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代に続く驚異的な高度経済成長(昭和30年代~昭和40年代の名目経済成長率が世界1位の15.4%だった。昭和30年度の8兆5000億円だったGNP(国民総生産)は昭和45年度には70兆円となり、15年間に8.5倍以上の規模となり世界第2位の経済大国となる)を遂げるに至る。
都市部には高層ビルが立ち並び、鉄筋コンクリートのアパートや郊外の建売住宅に住む人が急増した。
日本中から蒸気機関車が消えて、電車やディーゼルカーが走り回るようになった。
主要道路はアスファルトで舗装された。寛容と忍耐の池田の哲学思想で数字に強い経済通の内閣総理大臣池田勇人の低姿勢の経済成長政策で新幹線(東海道新幹線)と高速道路(東名高速道路・名神高速道路)が完成した。平田佐矩(四日市市長)や大野伴睦(自民党の国会議員)などによって東海地方と日本海を結ぶ日本横断運河の建設が計画された。
ほぼ全ての家庭にテレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫・電話が普及して、自家用車も珍しくなくなった。
デパートやホテルに行ったり、特急列車に乗れば冷房の恩恵を受けられるようになった。パンや肉・ケーキといった洋食や洋菓子も普段食べるようになった。平均寿命は世界有数となり、大学進学率も激増した。そのかわり大都市部では人口過密、農村部では過疎という現象が生じて、公害や交通戦争が社会問題となった。
敗戦直後にはインフレーション(戦後インフレ)に見舞われた。傾斜生産方式 を採用して、ドッジ・ライン(安定恐慌)が起こる。
朝鮮戦争勃発で朝鮮特需(特需景気)が起こる。
1954年(昭和29年)から高度経済成長が開始されて、ガチャマン景気による繊維産業の好景気があり、好景気と不景気を繰り返しながら日本経済は順調に成長した。
1955年(昭和30年)に社会党右派と社会党左派にが再統一された日本社会党と自由党・日本民主党が合同した自由民主党が結成されたことで、自民党政権時代になった。自民党保守勢力に対抗するため革新労組勢力の日本社会党を支持するマルクス主義の左派労組政党が組織された。ソビエト連邦社会主義政策のマルクス左翼福祉思想の安保闘争過激派の社会党左派と対立したアメリカ合衆国寄りのキリスト教労組右派思想の社会党右派議員が離党して民主社会党が結成された。右派キリスト教勢力によって、その後の民社党組織の右派労組政党が組織された。労働組合及び創価学会支援の野党と資本主義政党の自民党が対立する55年体制が成立した。
ー(戦後経済史の流れ)ー
神武景気。1954年(昭和29年)12月から~1957年(昭和32年)6月までの好景気を指す。
なべ底不況。1957年(昭和32年)7月から~1958年(昭和33年)6月までの不況を指す。
岩戸景気。1958年(昭和33年)7月から~1961年(昭和36年)12月までの好景気を指す。
所得倍増計画。1961年(昭和36年)から~1971年(昭和46年)までの経済計画を指す。
オリンピック景気。1962年(昭和37年)11月から~1964年(昭和39年)10月までの好景気を指す。
証券不況(構造不況)。1964年(昭和39年)11月から~1965年(昭和40年)10月までの不況の時代。
いざなぎ景気。1965年(昭和40年)11月から~1970年(昭和45年)7月までの好景気を指す。
日本万国博覧会は1970年(昭和45年)の出来事で通称は大阪万博である。
ニクソン・ショック(円切上げ) は1971年(昭和46年)の経済ショックを指す。
日本列島改造論(列島改造景気)によって1972年(昭和47年)に大型公共事業とインフレーション(物価上昇)があった。
ー(家電ブーム)ー
昭和20年代以降、次の家電製品がヒット商品となった。
三種の神器と呼ばれ、一般家庭の主婦たちの憧れの的となった。
①白黒テレビ
②電気洗濯機
③電気冷蔵庫(他に炊飯器・掃除機)
高度経済成長期には新三種の神器として
次の家電が3Cと呼ばれて憧れのヒット商
品となった。
❶カラーテレビ
❷クーラー
❸自家用自動車(カー)
三種の神器以外に都市部を中心に普及し
た家電である。
○レコードプレーヤー
○電気炊飯器
○トースター
○電気コタツ
ー(昭和元禄文化)ー
昭和元禄と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創
刊が目立った。手塚治虫・石ノ森章太
郎・藤子不二雄・長谷川町子・水木しげ
る・赤塚不二夫などの漫画を原作とした
アニメなどの作品や黒澤明・円谷英二が
映画監督となった邦画などの昭和文化や
大衆文化が生まれた。
流行歌が普及して美空ひばり・藤山一郎
などの歌手や石原裕次郎や渥美清などの
俳優がスターとなり芸能界で活躍した。
漫画・映画と並んでテレビ放送も普及し
た。昭和40年代はプロ野球のV9時代で
あり、大相撲は昭和30年代から昭和50
年代にかけて、力道山がプロレスで活躍
するなど格闘技人気があった。「巨人・大
鵬・卵焼き」などの流行語が誕生した。
東海道新幹線開業(1964年〔昭和39
年〕)名神高速道路開通(1963年〔昭和
38年〕)東京オリンピックの開催(1964
年〔昭和39年〕)[50]日本万国博覧会
(1970年〔昭和45年〕の大阪万博)の成
功によって最高潮を迎えたが、中東戦争
がもたらしたオイルショックによって高
度経済成長が終わる。
ー(防衛問題)ー
敗戦国である日本の奇蹟の復興は、アメ
リカの戦略上の必要から国内治安と国土
防衛のために微小な規模で警察予備隊(後
に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では
戦力の保持を禁じていたことにより、完
全に国防費負担から解放されているとい
うに等しい財政上の僥倖が大きく寄与し
ている。その反面、日米安保条約と日米
地位協定によってアメリカ軍が日本各地
に残されており、駐留国負担(後の思いや
り予算)の出費も大きく、アメリカ軍犯罪
時の裁判や事故などを巡ってトラブルも
絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした
問題がしばしば起こった。また、「核兵器
を持たず、作らず、持ち込ませず」という
非核三原則が国是とされた一方で、日本
政府とアメリカ政府との間で、有事にお
ける日本国内への核持ち込みを黙認する
密約が結ばれたことも、明らかにされつ
つある。
ー(日本人の食生活)ー
若者の農家離れによって、農民(特に青壮
年の男性)が農家から会社員になるように
なり、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」
のいわゆる「三ちゃん農業」が急増して、
機械化が進んで専業農家より兼業農家の
方が多くなった。
学校給食がパン食になって育った戦後世
代の主食が米からパンとなり、米余りに
なると減反政策を行い、転作によって小
麦の輸入が増加し、その結果日本の食料
自給率が低下した。戦後期は捕鯨が盛ん
で鯨肉が主流の肉食であったが、昭和50
年代以降、IWC(国際捕鯨委員会)で商業
捕鯨が禁止されたことによって牛肉・豚
肉・鶏肉が主流の肉食となった。
高度経済成長期に調理の熱源が薪や炭か
ら電気・ガスに変わった。
昭和30年に東京芝浦電気が電気炊飯器を
発売したことが発端となり、竈などを使
用する炊飯方法から炊飯器を使用したも
のに変化した(当時は電気炊飯器とガス炊
飯器がほぼ互角だった)。
炊飯の調理から副食中心の料理に主婦の
仕事が変化した。ガスコンロの普及で洋
食や中華料理の調理が容易となった。
昭和40年代の冷蔵庫の普及で生鮮食品が
登場した。昭和35年ごろから米の消費量
が減少してパン・麺類・肉・乳製品・魚
介類・野菜の消費量が増加した。
昭和42年から米余りになり昭和45年か
ら米の生産調整が実施された、昭和40年
頃に日清食品のインスタントラーメンな
どインスタント食品が多数開発された。
昭和43年には初のレトルト食品、昭和
46年にはカップ麺が開発された。
昭和45年以降ファーストフード店やファ
ミリーレストランやコンビニエンススト
アが普及した。
ラーメンやコーヒーやコロッケやハンバ
ーグが国民食となった。
ー(住宅医療などの生活問題)ー
戦後の住宅事情は、戦災による住宅焼失
と復員や引揚げによる人口増加で住宅が
不足する住宅難となっていた。
1950年(昭和25年)には、持ち家建設を
支援するために住宅金融公庫が創設され
た。
1951年(昭和26年)には田中角栄を中心
とする議員立法で地方自治体が住宅を建
設する公営住宅法が成立した。
1955年(昭和30年)には、第2次鳩山一
郎内閣によって日本住宅公団が創設され
た。昭和31年から昭和33年頃にかけて
アジア風邪が流行したが厚生省が創設さ
れた影響で国民の医療条件が改善され
た。戦後期に死亡要因1位が結核から癌に
なり、日本は1年間の死亡者が急減する少
死社会になった。高度経済成長期には、
昭和一桁世代の夫婦2人と新人類世代の
子供2人の合計4人の家が平均家族モデル
となった。ダイニングキッチンと和室2
つと水洗トイレが完備された団地で洋風
生活をする団地族が出現した。
都市部では銭湯が多かったが下町の銭湯
が減少した。
ー(日本女性の女性史)ー
昭和戦前期に婦人参政権獲得は貴族院で
否決された女性差別の歴史がある。
しかし、男性に限定されていた女子の大
学入学は昭和11年から昭和14年頃に明治
大学女子部や早稲田大学の女子学生の入
学許可がされた。女性弁護士になる権利
は昭和11年に弁護士法が改正されて
1940年(昭和15年)に日本初の女性弁護
士3名(三淵嘉子・久米愛・中田正子)が
誕生するなど一部女性に開放されて女性
に市民権が認可されていた。1948年(昭
和23年)に優生保護法が成立して人工妊
娠中絶が合法化された。民法が改正され
て遺産相続が男女平等となった。
参政権を獲得した女性が、更なる地位向
上を目指して女性解放運動が活発化し
た。
1970年(昭和45年)にウーマンリブ運動
が開始されたことに続いて、1975年(昭
和50年)が国際婦人年とされて女性の地
位向上が人類的な課題となった。
1956年(昭和31年)に売春防止法が成
立、1958年(昭和33年)4月1日にはが
施行され公娼制度が完全に廃止、赤線が
消滅した。
1947年(昭和22年)10月26日の刑法の
改正で姦通罪が廃止された。
1947年(昭和22年)には民法の大幅な改
正で家制度が廃止された。
昭和20年代に主流だった産婆の補助によ
る出産から、昭和30年代には産婦人科
の出産が増加した。
昭和45年頃にお見合い結婚が減少して急
増した恋愛結婚と婚姻数が逆転して社内
結婚が主流の社会となった。
昭和50年代からバブル期に学生結婚が急
増した。
ファッション面では、パンティーやブラ
ジャーなどの洋風下着類やナプキンやタ
ンポンなどの生理用品が普及した。
昭和30年代にアッパッパと呼ばれる筒型
のワンピースが普及した。
昭和40年代には団塊の世代の女性を中心
にミニスカートブームがあり、スカート
や着物以外に女性がズボンを着用するこ
とが公認された。女性が肌を露出する水
着の着用が認知されて、若い女性の間で
水着が普及した。髪型ではショートカッ
トが社会的に認知されて、化粧品や美容
院・美容整形などの女性ビジネスが普及
した。
生活面では、昭和30年代にミシンが普及
して経済面では個人店や百貨店主流のシ
ョッピングから主婦が買い物しやすいス
ーパーマーケットが普及した。
男女平等や高学歴化が進んでいなかった
戦後世代の昭和一桁世代からしらけ世代
の女性は、夫がサラリーマンで子供が平
均2人の家族が平均的なモデル家庭とさ
れた。
戦後世代の女性は専業主婦が主流だっ
た。高等教育を受ける女性が急増した新
人類世代以降の20代の高学歴女性では
OLが増加するなどの変化があった。
ー(金の卵の時代)ー
急速な高度経済成長に合わせて高齢化の
進行と乳児死亡率など病死の減少が進
み、都市の人口の急増が進んで日本の人
口はさらに増加した。
戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、
昭和40年代には日本の総人口が
ついに1億人を超えた。
ベビーブームで生まれた世代は団塊の世
代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な
世代人口の中で勝ち残るための競争に身
を捧げることになり、自己主張はどの世
代よりも激しくなった。
地方出身者は口減らしのために都市部へ
集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは
「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行
された。
都市部の中小企業に就職したかれらの豊
富な労働力が日本経済を支えた。
ー(左翼運動)ー
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある
者は高校と大学へ進学して、高等教育の
大衆化が進んだ。「60年安保」では国会議
事堂にデモ隊が集結し岸内閣退陣運動が
あった。
1960年代(昭和35年)頃に浅沼稲次郎暗
殺事件など暴力事件による右翼テロが相
次いだ。
1970年(昭和45年)の70年安保闘争を
ピークとする左翼運動の高潮があり、欧
米のベトナム戦争反対闘争や五月革命な
どと期を一にしていた。
全共闘世代と言われる若者たちの一部
は、「既成左翼」(日本共産党および日本社
会党)の平和革命路線に反発した新左翼運
動に身を投じ、機動隊や日本共産党系、
右翼系の若者と衝突を繰り返した。
日本の学生運動の挫折を経て、新左翼運
動は孤立化し、日本赤軍・連合赤軍・よ
ど号グループなどは過激化して内ゲバや
一般市民を巻き込む日本赤軍事件・あさ
ま山荘事件・成田空港管制塔占拠事件・
連続企業爆破事件・よど号ハイジャック
事件などのテロ活動へと追い込まれてい
った。
彼らの起こした数々の事件は、それまで
比較的同情的な面もあった世論の反発を
引き起こした。若者たちの多くも東大紛
争が失敗に終わると過激化した学生運動
から距離を置くようになり、都市部の市
民の多くは支持政党を持たない無党派層
となった。
ー(高度成長経済の裏側。社会問題(公害・福祉・交通戦争))ー
昭和30年代には、国民皆保険体制が整備
されて高度経済成長の弊害として、4つの
公害裁判となった公害病を指す『四大公害
病』と言う言葉が誕生した。
昭和30年代から昭和49年頃にかけて三
重県四日市市で発生した四日市ぜんそく
(別名は塩浜ぜんそく・四日市公害)・神
奈川県川崎市で発生した川崎公害(主な公
害病名は川崎ぜんそく)など工業地帯や都
市部での大気汚染が深刻化した。
熊本県水俣市で発生した水俣病(別名は熊
本水俣病)・新潟県阿賀野川流域で発生し
た新潟水俣病(別名は第二水俣病・阿賀野
川水銀中毒)などの水銀中毒が発生し、ま
た、富山県神通川流域で発生したイタイ
イタイ病も問題化した。
深刻な公害に対応するために公害対策基
本法が成立した。
鉄道中心の交通から自動車中心の社会と
なり日本国有鉄道はローカル線を中心に
赤字経営となった。
昭和30年代から昭和40年代にかけて鉄
道の電化工事が行われて、蒸気機関車が
全廃された。モータリゼーションにより
交通事故による死者が激増して、交通戦
争と言われるようになった。
こうした時代状況で野党は、日本社会党
や日本共産党が社会主義革命を唱える労
働者政党から都会住民を支持基盤とする
革新政党に変化して、中道政治を唱える
民社党や創価学会を支持基盤とする公明
党は都市部で支持者を増やして、労働者
の地位向上や公害対策や高齢者などの福
祉政策に積極的に取り組んだ。
野党は昭和40年代に主婦層や商工業者、
サラリーマンなどの都市住民に支持を広
げた。
大企業優先の成長路線だった自由民主党
も、佐藤栄作首相の強力なイニシアチブ
の下、1971年(昭和46年)に環境庁を新
設した。
ー(復帰)ー
臨時北部南西諸島政庁が設置されてい
た南西諸島地域は、1952年(昭和27年)
2月10日にトカラ列島が、奄美群島が
1953年(昭和28年)に12月25日アメリ
カから日本に返還された。
1968年(昭和43年)6月28日に南方諸
島及びその他の諸島に関する日本国とア
メリカ合衆国との間の協定により小笠原
諸島が返還された。
1972年(昭和47年)5月15日に、琉球政
府が設置されていた沖縄県が日本に復帰
した。
県民の祖国復帰運動が実った結果だが、
沖縄のアメリカ軍基地がそのまま残され
たことは後に禍根を残した。
ー(エネルギー問題)ー
高度経済成長の進展とともに燃料が石炭
から石油へ転換するエネルギー革命が開
始されて、これまで有力産業の一つであ
った炭鉱業界の合理化が迫られて1959年
(昭和34年)~1960年(昭和35年)に三
井三池争議があった。
1973年(昭和48年)の第一次オイルショ
ック(石油危機)に伴い、狂乱物価抑制の
ための総需要抑制策が執行されて、高度
経済成長は終焉することとなった。
田中角栄内閣は石油や天然ガスなど海外
からの資源に依存する火力発電から脱却
して原子力発電を推進するために、電源
開発促進税法・特別会計に関する法律・
発電用施設周辺地域整備法の電源三法を
成立させた。
20
あなたにおすすめの小説
神典日月神示 真実の物語
蔵屋
歴史・時代
私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。
この方たちのお名前は
大本開祖•出口なお(でぐちなお)、
神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。
この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。
昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。
その神示を纏めた書類です。
私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。
日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。
殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。
本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。
日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。
そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。
なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。
縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。
日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。
この小説は真実の物語です。
「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」
どうぞ、お楽しみ下さい。
『神知りて 人の幸せ 願うのみ
神のつたへし 愛善の道』
歌人 蔵屋日唱
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
神戸三宮割烹料理 武田 女料理人物語
蔵屋
キャラ文芸
神戸北野にある活きた食材の調理をカウンター越しに楽しむことが出来る。特別な日に大切な方と一緒に日本料理の味を楽しむ。
割烹武田は神戸ならではの鮮魚と神戸牛を中心とした旬の高級食材を使用している。
都会の喧騒を離れ、ゆったり美味しい食事を愉しむことが出来る。
情緒溢れる佇まいで店内に入ると洗練された上質な和の空間が広がる。
カウンター席からは今までの神戸にはない全く新しいダイナミックで繊細な調理の様子も愉しんむことが出来るのだ。
この小説は、実際に神戸北野にある割烹武田をモデルに私が脚色した物語である。
この物語に登場する人物、団体など、同一の物があっても一切関係ありません。但し、割烹武田は、実際に神戸北野で営業されています。
プロローグでご紹介している内容は、全て真実です。
割烹武田のweb上から引用しました。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
あやかし警察おとり捜査課
紫音みけ🐾書籍発売中
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
新春を迎えて、貴方は何を考える? 令和8年の希望と光
蔵屋
キャラ文芸
新春とは、新しい年を意味する言葉です。旧暦では正月を春の始まりとしていたため、新春も「春」という文字が使われるようになりました。
旧暦では、正月は春の始まりとされていました。そのため、新春と正月は、ほぼ同じ意味として使われていたことから、簡単にいうと、新春は「正月」と同じような意味です。
現在使われている暦は「太陽暦(新暦)」ですが、かつて使われていた「太陰暦(旧暦)」は、現在の暦と1ヶ月ほどずれています。そのため、当時の正月は現在の2月頃にあたり、ちょうどこの頃「立春(春の始まり)」を迎えます。
つまり、かつては1年の始まりと春の始まりが同じ時期だったため、「新年」「正月」とほぼ同じ意味で「新春」という言葉が使われるようになったと推測されるのです。その結果、暦が変わった現在でも、新春という言葉はお正月の賀詞(お祝いの言葉)として定着しています。
私はこの小説を執筆するに当たり、読者の皆さんの『幸せ』だけを願っています。
ただ、純粋な気持ちだけです。
どうか、今年一年を無事に過ごして下さい。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神のつたへし 愛善の道』
歌人 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる