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第二巻
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この章では神功皇后の三韓征伐について、記述します。
夫である仲哀天皇が死去すると、皇后でありながら朝廷を主導した。
神のお告げで、新羅遠征を命じられると、軍勢を整えて大海に飛び出した。
すると大小の魚たちが集まり船を運んだ。
更には強い神風が吹き、その勢いのまま、新羅へと進軍した。
大波を立て上陸すると、その様子を見た新羅の国王は、震え上がり、戦わずして降伏したのである。
神功皇后を架空の人物どうする説のあるが、その勇ましい女傑の活躍には古代のロマンがあると言えるのだ。
神功皇后は三韓征伐に際して、鎧や兜、太刀を携えて船に乗り朝鮮半島を目指した。
海を渡った勇ましき女傑として有名な
神功皇后は
成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后です。
『日本書紀』での名は気長足姫尊。
夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として、三韓征伐の実施など約70年間統治したとされます。
在任は神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)の68年間です。
仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮へ。3月、天皇が紀伊国の德勒津宮に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征を開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安か
という。
3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部も大和王権の支配下になり、ここに大和王権の全国制覇が完了したとされる。
ー(三韓征伐)ー
仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には筑紫夜須にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見に航海の無事を祈らせた。
10月、住吉三神の託宣によりお腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦は微叱己知という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。
帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。
ー(忍熊王との戦い)ー
新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。
忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。
彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な
忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。
同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明は西暦368年と比定)である。
摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。
摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都した。
摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝した。
笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
ー(新羅再征)ー
摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣した。
斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。
摂政47年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。
摂政49年、新羅を再征伐した。
将軍として派遣された荒田別、鹿我別は百済の木羅斤資、沙々奴跪と共に七つの国を平定した。
以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらしたのである。
摂政62年、新羅が朝貢して来ないので葛城襲津彦に征伐させた。
摂政69年、4月に崩御した。
夫である仲哀天皇が死去すると、皇后でありながら朝廷を主導した。
神のお告げで、新羅遠征を命じられると、軍勢を整えて大海に飛び出した。
すると大小の魚たちが集まり船を運んだ。
更には強い神風が吹き、その勢いのまま、新羅へと進軍した。
大波を立て上陸すると、その様子を見た新羅の国王は、震え上がり、戦わずして降伏したのである。
神功皇后を架空の人物どうする説のあるが、その勇ましい女傑の活躍には古代のロマンがあると言えるのだ。
神功皇后は三韓征伐に際して、鎧や兜、太刀を携えて船に乗り朝鮮半島を目指した。
海を渡った勇ましき女傑として有名な
神功皇后は
成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后です。
『日本書紀』での名は気長足姫尊。
夫の仲哀天皇の崩御から息子の応神天皇即位まで初めての摂政として、三韓征伐の実施など約70年間統治したとされます。
在任は神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)の68年間です。
仲哀天皇2年1月11日に立后。2月、天皇と共に角鹿の笥飯宮へ。3月、天皇が紀伊国の德勒津宮に向かうが皇后は角鹿に留まる。同月、天皇が熊襲再叛の報を聞き親征を開始。穴門で落ち合うよう連絡を受ける。7月、穴門豊浦宮で天皇と合流。仲哀天皇8年、天皇と共に筑紫橿日宮へ移動して神託を行い神懸った。託宣の内容は「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」というものだった。天皇はこの神を信じず熊襲を攻めたが空しく敗走。翌年〔仲哀天皇9年〕2月に天皇が橿日宮(現・香椎宮)にて急死。『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
仲哀天皇9年3月1日、小山田邑の斎宮で武内宿禰を審神者として再び神託を行い、前年に託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)、事代主神、住吉三神などであることを確認した。しかしひとまずは目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別を派遣して熊襲を従わせた。3月17日、皇后自ら松峽宮(福岡県筑前町)に移動し、20日に層増岐野で羽白熊鷲という者を討った。そばの人に「熊鷲を取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安か
という。
3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部も大和王権の支配下になり、ここに大和王権の全国制覇が完了したとされる。
ー(三韓征伐)ー
仲哀天皇9年4月、松浦郡で誓約を行った皇后は渡海遠征の成功を確信し、神田を作ったのちに橿日宮へ戻った。そして角髪を結って男装すると渡海遠征の全責任を負うことを宣言した。9月には筑紫夜須にて大三輪神を祀り矛と刀を奉し船と兵を集めた。また草という海人を派遣して新羅までの道を確かめさせた。さらに軍規を定めて略奪、婦女暴行、敵前逃亡などを禁じ、依網吾彦男垂見に航海の無事を祈らせた。
10月、住吉三神の託宣によりお腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
その勢いは船が山に登らんばかりだったという。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓った。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示した。新羅王の波沙寐錦は微叱己知という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も朝貢を約束した。
帰国した後の12月14日、皇后は筑紫で誉田別尊を出産した。出産した土地を「生み」から転じて「宇美」という。そして穴門の山田邑で住吉三神を祀った。
ー(忍熊王との戦い)ー
新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。
忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。
彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は
皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。
いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な
忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。
同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明は西暦368年と比定)である。
摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。
摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都した。
摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝した。
笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
ー(新羅再征)ー
摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。
摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣した。
斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。
摂政47年4月、新羅と百済が朝貢してきた。百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、新羅に貢物を奪われたと訴えた。
摂政49年、新羅を再征伐した。
将軍として派遣された荒田別、鹿我別は百済の木羅斤資、沙々奴跪と共に七つの国を平定した。
以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、百済から宝物をもたらしたのである。
摂政62年、新羅が朝貢して来ないので葛城襲津彦に征伐させた。
摂政69年、4月に崩御した。
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