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第十二巻 真田一族と真田忍者
ー(真田一族)ー
真田の家紋である六文銭
小田原征伐に際しては、天正18年(1590年)1月8日に秀吉から3か条の条目を与えられている。
3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めた。
この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に
「上野国中に悉く放火仕る」
と報告している。
松井田城攻略後は上野に於ける北条家の属城を次々と落とし、4月29日付の秀吉の昌幸宛書状では北条属城の攻略を受けてその仕置を命じられて、武器・兵糧・弾薬の没収を務めている。
以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下する。
石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。
北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。
やっと昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。
昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無いのだ。
なお、安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立したのであった。
文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した。
昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成されたのである。
昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂城に帰陣したのである。
この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は全く無く上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。
大坂城に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられたのである。
その為昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれた為、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。
昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。
ただし扶持米は豊臣家から支給された。
また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。
この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあったのだ。真田忍者も幸村の配下となった。特に女忍者オコウは幸村と恋愛関係にあり男女の関係を持っていたのだ。
また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)。
慶長2年(1597年)10月、秀吉の命令で昌幸は下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を浅野長政と共に担当した。
時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。
ー(真田忍者)ー
真田忍者は、戦国時代に真田家に仕えて活躍した忍者忍者である。
後世には、真田忍者をモデルとした、真田幸村の名で知られる真田信繁と、その真田幸村に仕える|真田十勇士》さなだじゅうゆうし》が創作されている。大河ドラマでもこの幸村と真田忍者の物語は面白い。私はこの真田忍者が大好きなのだ。
お茶の間のテレビに登場する忍びは、私達視聴者に不思議な忍術を使い、披露する。手裏剣や飛んだり跳ねたり、また、バク転する。なんとも言えない爽快感だ。その人気は今も昔も変わることがないのだ。
さて真田忍者が活躍したのは戦国時代中頃である。真田忍者の仕える真田家の領地があった信濃国や上野国を本拠地として活躍しました。
真田家領地の中に修験道の聖地として有名な四阿山、群馬県吾妻郡嬬恋村があり、伊賀や甲賀と同様に修験道を極める修行僧達から忍術が発展したのである。
また真田家の主君・武田家も忍者を重用していた。情報収集を重視する武田信玄は忍者集団を組織。透破と呼ばれる忍者の養成に力を入れ、育った忍者を全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせていたのである。信玄は諸国の状況を他の諸国の大名よりも早く知っていたのだ。
そうして全国に散らばった忍者からあがってくる各国の様々な情報を総合することで、武田家は相手の弱点を熟知し、戦を有利に進められていたのだ。
また、当時多くの忍者が育成され、その数は1,000人を超えていたとされる。そんな透破の頭領が出浦盛清と呼ばれる忍者である。
忍者として卓越した技術を持つ出浦盛清が、透破の活動や育成を重ね、戦国の世で常勝を誇った武田信玄を影から支えていたのである。
信濃国埴科郡の一族であった出浦盛清は、武田家滅亡後も信濃を本拠として、織田信長の家臣・森長可や真田家など、同地を治める大名に仕えながら忍者の育成を一手に任されていた。
真田家も出浦盛清を家臣に迎え入れたことで、本格的に忍者集団を従えるようになった。1582年(天正10年)には、真田信之」が北条家が陣取る手子丸城に攻め入る。
この時5,000人で城内にこもる北条軍に対し、真田信之の兵力はわずか800人。圧倒的不利な真田信之軍であったが真田信之の家臣の忍者唐沢玄蕃が城外で北条軍を挑発して城の外へと誘い出し、伏兵を使って出陣してきた北条軍を撃破した。
そして敵の戦力を削ったうえで、城の後方に回った出浦盛清ら忍者達が城内に侵入し、あちこちに放火して回った。北条軍が「城内に内通者が出た」と勘違いし、その混乱に乗じて真田信之軍が突入し北条軍を殲滅した。この城攻めは、僅か1日で手子丸城の奪取に成功したのである。
以降も、出浦盛清と横谷幸重という真田忍軍の頭領2人を始め真田忍者の中で実力者として活躍した唐沢玄蕃、割田重勝らの名前が、小田原征伐に参加する真田家の武将として記録に残っているなど、真田家の重要な戦力として活躍したのであった。
まさに真田忍者、恐るべし!
ー(真田信繁)ー
真田 信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田 幸村の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になることもあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。家系は源氏(清和源氏海野流)。
永禄10年(1567年)又は元亀元年2月2日(1570年3月8日)のいずれかの年に生まれている。
死没は慶長20年5月7日(1615年6月3日)と言われる。
享年48歳。しかし、定かではない。
大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、死を厭わない決死の魂で本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、日本一の兵とも評され、日本の国民的ヒーローともされている。
後世に軍記物、講談、草双紙(絵本)などが多数創作され、更に明治から大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、甲賀忍者である猿飛佐助を筆頭とした真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となっている。
ー(真田幸村の由来)ー
真田幸村の名が広く知られているが、諱は信繁であって幸村ではないことが明らかになっている。
その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で幸村の名が使われているものは全く無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる。
また、「幸村」と署名した文書の写しが2通伝わるが(正本は伝わらず)、いずれも偽文書と判明しているのだ。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であると言われる。
『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いているのだ。
かなり時代は降るが馬場政常『滋野通記』という史書では、兄・信之が生前、近習に「信繁は高野山に入った際、幸村に改名したと聞いている」と語ったという話も載せられていた。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字である。また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていたのだ。
その為元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既に、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しいと書き記したほどである。
時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着した為江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる。
大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張しているのである。
信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えているのだ。
源氏(清和源氏海野流)の家系であり、自身が仕えた武田氏と豊臣氏も源氏(武田氏は甲斐源氏、豊臣氏は宇多源氏佐々木流)であったという説が存在する。
旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。
これを旗印にする事は死を受け入れる「不惜身命」を意味するといわれている。
家康を追い詰めた勇猛な名将として語り継がれた。
夏の陣の戦功に於いては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、更に
「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、
毛利勝永の活躍を記している。
幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていったのであった。
徳川に敵対したにも関わらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。
これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされている。
他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在している。
信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。
また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。
「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる。
このことには諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも言われている。
大坂の陣に於いて後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。
『真武内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高いと言えるのだ。
大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある。
史実は小説より、奇なりである。
真田の家紋である六文銭
小田原征伐に際しては、天正18年(1590年)1月8日に秀吉から3か条の条目を与えられている。
3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めた。
この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に
「上野国中に悉く放火仕る」
と報告している。
松井田城攻略後は上野に於ける北条家の属城を次々と落とし、4月29日付の秀吉の昌幸宛書状では北条属城の攻略を受けてその仕置を命じられて、武器・兵糧・弾薬の没収を務めている。
以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下する。
石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。
北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。
やっと昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。
昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無いのだ。
なお、安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立したのであった。
文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した。
昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成されたのである。
昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂城に帰陣したのである。
この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は全く無く上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。
大坂城に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられたのである。
その為昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれた為、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている。
昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている。
ただし扶持米は豊臣家から支給された。
また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている。
この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあったのだ。真田忍者も幸村の配下となった。特に女忍者オコウは幸村と恋愛関係にあり男女の関係を持っていたのだ。
また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)。
慶長2年(1597年)10月、秀吉の命令で昌幸は下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を浅野長政と共に担当した。
時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている。
ー(真田忍者)ー
真田忍者は、戦国時代に真田家に仕えて活躍した忍者忍者である。
後世には、真田忍者をモデルとした、真田幸村の名で知られる真田信繁と、その真田幸村に仕える|真田十勇士》さなだじゅうゆうし》が創作されている。大河ドラマでもこの幸村と真田忍者の物語は面白い。私はこの真田忍者が大好きなのだ。
お茶の間のテレビに登場する忍びは、私達視聴者に不思議な忍術を使い、披露する。手裏剣や飛んだり跳ねたり、また、バク転する。なんとも言えない爽快感だ。その人気は今も昔も変わることがないのだ。
さて真田忍者が活躍したのは戦国時代中頃である。真田忍者の仕える真田家の領地があった信濃国や上野国を本拠地として活躍しました。
真田家領地の中に修験道の聖地として有名な四阿山、群馬県吾妻郡嬬恋村があり、伊賀や甲賀と同様に修験道を極める修行僧達から忍術が発展したのである。
また真田家の主君・武田家も忍者を重用していた。情報収集を重視する武田信玄は忍者集団を組織。透破と呼ばれる忍者の養成に力を入れ、育った忍者を全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせていたのである。信玄は諸国の状況を他の諸国の大名よりも早く知っていたのだ。
そうして全国に散らばった忍者からあがってくる各国の様々な情報を総合することで、武田家は相手の弱点を熟知し、戦を有利に進められていたのだ。
また、当時多くの忍者が育成され、その数は1,000人を超えていたとされる。そんな透破の頭領が出浦盛清と呼ばれる忍者である。
忍者として卓越した技術を持つ出浦盛清が、透破の活動や育成を重ね、戦国の世で常勝を誇った武田信玄を影から支えていたのである。
信濃国埴科郡の一族であった出浦盛清は、武田家滅亡後も信濃を本拠として、織田信長の家臣・森長可や真田家など、同地を治める大名に仕えながら忍者の育成を一手に任されていた。
真田家も出浦盛清を家臣に迎え入れたことで、本格的に忍者集団を従えるようになった。1582年(天正10年)には、真田信之」が北条家が陣取る手子丸城に攻め入る。
この時5,000人で城内にこもる北条軍に対し、真田信之の兵力はわずか800人。圧倒的不利な真田信之軍であったが真田信之の家臣の忍者唐沢玄蕃が城外で北条軍を挑発して城の外へと誘い出し、伏兵を使って出陣してきた北条軍を撃破した。
そして敵の戦力を削ったうえで、城の後方に回った出浦盛清ら忍者達が城内に侵入し、あちこちに放火して回った。北条軍が「城内に内通者が出た」と勘違いし、その混乱に乗じて真田信之軍が突入し北条軍を殲滅した。この城攻めは、僅か1日で手子丸城の奪取に成功したのである。
以降も、出浦盛清と横谷幸重という真田忍軍の頭領2人を始め真田忍者の中で実力者として活躍した唐沢玄蕃、割田重勝らの名前が、小田原征伐に参加する真田家の武将として記録に残っているなど、真田家の重要な戦力として活躍したのであった。
まさに真田忍者、恐るべし!
ー(真田信繁)ー
真田 信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田 幸村の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になることもあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。家系は源氏(清和源氏海野流)。
永禄10年(1567年)又は元亀元年2月2日(1570年3月8日)のいずれかの年に生まれている。
死没は慶長20年5月7日(1615年6月3日)と言われる。
享年48歳。しかし、定かではない。
大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、死を厭わない決死の魂で本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、日本一の兵とも評され、日本の国民的ヒーローともされている。
後世に軍記物、講談、草双紙(絵本)などが多数創作され、更に明治から大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、甲賀忍者である猿飛佐助を筆頭とした真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となっている。
ー(真田幸村の由来)ー
真田幸村の名が広く知られているが、諱は信繁であって幸村ではないことが明らかになっている。
その証明として、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で幸村の名が使われているものは全く無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる。
また、「幸村」と署名した文書の写しが2通伝わるが(正本は伝わらず)、いずれも偽文書と判明しているのだ。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であると言われる。
『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いているのだ。
かなり時代は降るが馬場政常『滋野通記』という史書では、兄・信之が生前、近習に「信繁は高野山に入った際、幸村に改名したと聞いている」と語ったという話も載せられていた。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字である。また、「村」については村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたという話があり、これらに尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていたのだ。
その為元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既に、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しいと書き記したほどである。
時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着した為江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる。
大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。
篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張しているのである。
信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えているのだ。
源氏(清和源氏海野流)の家系であり、自身が仕えた武田氏と豊臣氏も源氏(武田氏は甲斐源氏、豊臣氏は宇多源氏佐々木流)であったという説が存在する。
旗印である六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれている。冥銭とは本来古代中国の習俗で日本ではとくに亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことである。
これを旗印にする事は死を受け入れる「不惜身命」を意味するといわれている。
家康を追い詰めた勇猛な名将として語り継がれた。
夏の陣の戦功に於いては、自らも参戦した証人とも言える黒田長政は生前に、大坂夏の陣図屏風を描かせ、右隻中央に信繁軍の勇猛果敢な姿を配している。江戸時代中期の文人・神沢杜口は、自身の著した随筆集『翁草』のなかで、「史上、単独一位は真田、第二の功は毛利」と記し、更に
「惜しいかな、後世、真田を言いて、毛利を言わず」と、
毛利勝永の活躍を記している。
幕府・諸大名には当然ながら知られていたが、庶民には夏の陣から後、主に軍記物や講談等でその名将ぶりが知られていったのであった。
徳川に敵対したにも関わらず幕府側は、真田の名将ぶりの流布を敢えて禁ずることはなかった。
これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされている。
他に「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在している。
信繁の人柄は、兄・信之の言葉によると柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いという、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。
また、信之は『幸村君伝記』において「左衛門佐は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある」とも語っている。
「台徳院殿御実紀」に記述されている逸話として、家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁に脅威を覚え、大坂冬の陣の後には信繁の兄・真田信之に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしているが、この破格の条件に興味を微塵も見せず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通しているとされる。
このことには諸説があり叔父真田信尹に命じて上田10万石とも言われている。
大坂の陣に於いて後藤基次の近習を務めた、長沢九郎兵衛という者が後年に口述筆記させた『長沢聞書』によると、「真田左衛門佐(信繁)は四十四、五にも見え申し候。ひたひ、口に二、三寸の疵跡あり小兵なる人にて候」とあり、年齢相応(大坂入城時、信繁48歳)の容姿をした小男であったと想像される。
『真武内伝追加』によれば、九度山幽閉中の信繁は日頃から地域の人々や老僧と深く交わり、狩りをしたり寺に遊びに行っては囲碁や双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたという。また、父昌幸生存中は、兵書の問答を欠かさず、欠けていた知識を教え込まれ、常に武備を怠ることは無かった。心中に蟠竜を保ち近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたとされる。これがどこまで真実であるかは定かでは無いが、信繁のその後の戦歴と活躍を見ると極めて蓋然性が高いと言えるのだ。
大坂の陣の後、秀頼と嫡男の大助(幸昌)とともに薩摩国に落ちのびたとする俗説がある。
史実は小説より、奇なりである。
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と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
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