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第二十八章 変わりゆく関係
イケメン教師、麓戸の手料理に癒される
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泣き疲れたように、小坂はソファの端に座ったまま、何も言わずにぼんやりとしていた。
麓戸は一度も何かを尋ねることはなかった。
ただ無言で、キッチンの方へ向かう。
引き出しを開ける音、冷蔵庫の扉が開く音。
どれも静かで、日常の生活音だった。
やがて、野菜を刻むリズムが聞こえてくる。
小坂は顔を上げた。
あんなに泣いたあとなのに、涙の余韻がまだ喉に残っていた。
麓戸は、冷凍していたバゲットをオーブンに入れ、スープを鍋で温めると言っていた。
スープの香りが、部屋に広がる。
小坂の胃が、小さく鳴いた。こんな時でも、お腹は空くんだよな。
「……何か、手伝いましょうか」
テーブルを整えに来た麓戸に、小坂が、そう言うと、麓戸は、ちらとだけ振り返った。
「座ってろ。……泣いたやつに包丁持たせたくない」
その言葉に、小坂は少しだけ笑った。
◆
テーブルには、バジルの香りが立ち上るトマトのスープと、オーブンで焼いたバゲットの香ばしい香り。
生ハムとルッコラのサラダが彩りを添えていた。
手の込んだものではない。
けれど、心が落ち着くようなものばかりだった。
ふたりは向かい合って座り、しばらく無言でスプーンを運ぶ。
小坂はスープを一口含んで、そっと息を吐いた。
「……しみますね」
それだけ言うと、麓戸は「そうか」と短く返した。
言葉はそれだけで十分だった。
静かな夜。
温かいものを食べられるという、それだけで――小坂は少し、安心していた。
◆
夕食後、食器を片付けたキッチンに、食洗機の音だけが、響いていた。
何か話そうとして、やめたような空気が、ふたりの間に長く流れていた。
小坂は、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、僕、悪照君って、苦手です」
麓戸は答えた。
「それは、当然だよな。悪照は、オデトに許されないような酷いことをしたんだから。それで……俺のことまで、嫌いになったか?」
その声は、冗談のように低く、でも本気を試すような響きが感じられた。
小坂はすぐには答えられなかったが、静かに言った。
「そこは、分けてます」
「……そうか」
沈黙が降りた後、ようやく、麓戸が続けた。
「……でも、心のどこかで、“血がつながってる”って思ってないか? あいつの中の狂暴性と、俺の残忍さや冷たさ、嗜虐性……」
「違います」
小坂は遮った。
「彼は母親に似てると思うんです。……顔も、気配も」
「だからって俺に責任がないわけじゃない」
「たぶん、僕のことは、父か兄代わりにしてただけなんじゃないかな、と思うんです」
「いや、父や兄と、そういうことはしないだろ」
麓戸が否定した。
小坂は目を伏せて言った。
「確かにそうですね……。それに関しては、僕の感覚がおかしいのかも……。僕、母にも……と言っても義理の、ですけど、無理やりされたことがあるんです」
麓戸が、小さく息を呑む音が聞こえた。
「父親のことは、よく覚えてないし。育てられた祖父とも義母とも血がつながってなかったし。親って思える安心できる人、いたことなかったから。だから、あなたのことは……別なんです」
それは本当だった。
小坂の中で、麓戸は「血」でも「親」でもなかったけれど、でも、“信じてみたい男”だった。
「神崎……校長に対しても、そうだったんだろう?」
「そうかもしれませんけど……」
麓戸は、何も言わずに小坂の方へ歩み寄り、そっと背中に手を添えた。
「……毎日、加害者である悪照と顔を合わせて、平気なわけがない。自分の息子のことを、こんな風に言うのも変だが、オデトの立場に立ってみたら、そう思う」
「ええ。平気じゃないです。……担任ですから。進路指導もあるし、授業もしてます。
でも、やめるわけにはいかないんです。自分のためにも。生徒のためにも」
「……休めと言ったら?」
麓戸は、ただ、小坂をそっと抱き寄せて、額を重ねた。
「俺はいつでも、ここにいる。逃げたくなったら……俺のとこに来い。俺はお前の味方だ」
その言葉に、小坂はようやく、ほんの少しだけ力を抜いた。
――選ぶのは一度ではない。選び続ける。
毎日が傷口に触れるような日々でも、それでも、生きていくことを。
麓戸は一度も何かを尋ねることはなかった。
ただ無言で、キッチンの方へ向かう。
引き出しを開ける音、冷蔵庫の扉が開く音。
どれも静かで、日常の生活音だった。
やがて、野菜を刻むリズムが聞こえてくる。
小坂は顔を上げた。
あんなに泣いたあとなのに、涙の余韻がまだ喉に残っていた。
麓戸は、冷凍していたバゲットをオーブンに入れ、スープを鍋で温めると言っていた。
スープの香りが、部屋に広がる。
小坂の胃が、小さく鳴いた。こんな時でも、お腹は空くんだよな。
「……何か、手伝いましょうか」
テーブルを整えに来た麓戸に、小坂が、そう言うと、麓戸は、ちらとだけ振り返った。
「座ってろ。……泣いたやつに包丁持たせたくない」
その言葉に、小坂は少しだけ笑った。
◆
テーブルには、バジルの香りが立ち上るトマトのスープと、オーブンで焼いたバゲットの香ばしい香り。
生ハムとルッコラのサラダが彩りを添えていた。
手の込んだものではない。
けれど、心が落ち着くようなものばかりだった。
ふたりは向かい合って座り、しばらく無言でスプーンを運ぶ。
小坂はスープを一口含んで、そっと息を吐いた。
「……しみますね」
それだけ言うと、麓戸は「そうか」と短く返した。
言葉はそれだけで十分だった。
静かな夜。
温かいものを食べられるという、それだけで――小坂は少し、安心していた。
◆
夕食後、食器を片付けたキッチンに、食洗機の音だけが、響いていた。
何か話そうとして、やめたような空気が、ふたりの間に長く流れていた。
小坂は、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、僕、悪照君って、苦手です」
麓戸は答えた。
「それは、当然だよな。悪照は、オデトに許されないような酷いことをしたんだから。それで……俺のことまで、嫌いになったか?」
その声は、冗談のように低く、でも本気を試すような響きが感じられた。
小坂はすぐには答えられなかったが、静かに言った。
「そこは、分けてます」
「……そうか」
沈黙が降りた後、ようやく、麓戸が続けた。
「……でも、心のどこかで、“血がつながってる”って思ってないか? あいつの中の狂暴性と、俺の残忍さや冷たさ、嗜虐性……」
「違います」
小坂は遮った。
「彼は母親に似てると思うんです。……顔も、気配も」
「だからって俺に責任がないわけじゃない」
「たぶん、僕のことは、父か兄代わりにしてただけなんじゃないかな、と思うんです」
「いや、父や兄と、そういうことはしないだろ」
麓戸が否定した。
小坂は目を伏せて言った。
「確かにそうですね……。それに関しては、僕の感覚がおかしいのかも……。僕、母にも……と言っても義理の、ですけど、無理やりされたことがあるんです」
麓戸が、小さく息を呑む音が聞こえた。
「父親のことは、よく覚えてないし。育てられた祖父とも義母とも血がつながってなかったし。親って思える安心できる人、いたことなかったから。だから、あなたのことは……別なんです」
それは本当だった。
小坂の中で、麓戸は「血」でも「親」でもなかったけれど、でも、“信じてみたい男”だった。
「神崎……校長に対しても、そうだったんだろう?」
「そうかもしれませんけど……」
麓戸は、何も言わずに小坂の方へ歩み寄り、そっと背中に手を添えた。
「……毎日、加害者である悪照と顔を合わせて、平気なわけがない。自分の息子のことを、こんな風に言うのも変だが、オデトの立場に立ってみたら、そう思う」
「ええ。平気じゃないです。……担任ですから。進路指導もあるし、授業もしてます。
でも、やめるわけにはいかないんです。自分のためにも。生徒のためにも」
「……休めと言ったら?」
麓戸は、ただ、小坂をそっと抱き寄せて、額を重ねた。
「俺はいつでも、ここにいる。逃げたくなったら……俺のとこに来い。俺はお前の味方だ」
その言葉に、小坂はようやく、ほんの少しだけ力を抜いた。
――選ぶのは一度ではない。選び続ける。
毎日が傷口に触れるような日々でも、それでも、生きていくことを。
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