黄昏時の街

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第6話

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柳が事務所に戻ってこれたのは日付も変わってしばらく経った頃だった。
片手に猫が入ったペットキャリーバッグを持って。
明らかに疲労困憊している柳を見て、黒井は一瞬言葉に詰まった。
「珍しいな、お前がそこまでなるなんて」
「・・・」
柳はデスクにキャリーバッグを置くと、簡易応接室のソファーに座り込んだ。そして、そのまま横になる。
普段、飄々としている風な柳が露骨に疲れを見せているのは珍しい。
黒井は横目で窓の外を見た。
大荒れの天気にでもなるのかと懸念したからだった。
「どうした。愚痴なら聞くぞ」
黒井が声をかけるが柳はなんの反応も見せなかった。
仕方が無いので、柳は何かリアクションするまで放置しておいて見つけてきた猫の世話をすることにした。
猫を見たところ、そわそわしているが暴れてはいない。事務所内に放つわけにもいかないので、飼い主から預かった猫缶と水皿を用意する。缶を開けた音で猫が鳴きだしたのには黒井も驚いた。
今にも脱出しそうな勢いで爪を立てるので、布製のキャリーバッグが破かれるのではないかといらぬ心配をするほどだった。
チャックを缶が入るギリギリまで開けて、猫缶を入れると猛烈な勢いで猫は食べ始めた。いや、猫缶の端がバッグ内に入った瞬間から食べていたが。
これはもう一つ与えて良いものかと黒井は迷いつつ、猫が出入り口に見向きもしないうちに水皿をキャリーバッグの中に入れる。
それて並行して、ソファーに倒れこんでいる柳にも水分を与えるべきだろうと黒井は考えた。
給湯室まで足を運んで、冷蔵庫にあるスポーツドリンクを手にして事務所に戻ってくると猫缶を食べつくした猫が足りないと訴えていた。そして、柳は全く変わらぬ姿で横たわっていた。
黒井は猫の様子から居なくなってからほとんど食べていないのだろうと思ったが、もう少し様子見て追加を与えるか考えることにして柳の方にやってきた。
「飲むか?」
柳が眠っていないのはわかっていたので、ペットボトルを差し出した。柳は無言で手を伸ばして受け取る。
ゆっくり身を起こした柳はペットボトルを開けると、その流れで飲みだして、瞬く間に飲み干した。
「いい飲みっぷりだな」
「飲まなきゃやってられねぇよ」
空になったベッドボトルの蓋を閉めないまま柳はまたソファーに横になった。
「なにか食べたか?」
「無い。いらない」
柳は体力的な疲れを知らない。そんな柳が参っているのは精神的な疲労が溜まった時なのだが…。
「お前が浮気調査でそんなになるなんて珍しいな」
意外そうに黒井が言うのを柳は目を閉じて聞いていた。柳が無反応なので黒井は続ける。
「代り映えが無くてくだらないと言っていたお前はどうした?」
「・・・」
あえて煽ってみたがそれでも柳は無反応だったので、黒井は僅かに眉をひそめた。ローテーブルを挟んで黒井もソファーに腰を下ろした。
猫はまだ追加の猫缶を求めているが、それはそのままにしておく。
「本当にどうしたんだ?」
拗ねたり、不貞腐れたりすることもある柳だが、今回は本当に疲れているようだった。柳が精神的にダメージを受けることなんて数えられるほどしかないが、黒井には思い当たらなかった。
「いや…」
口を濁す柳だが、黒井は割らせることにした。
「じゃあ、とりあえず、口頭で良いから調査報告をしてみろ」
「…ん」
柳の報告はまずは迷い猫の確保ができた事。これに関しては言われなくてもわかる。怪我も無く健康状態は良好。明日にでも飼い主に渡せると。
そして、浮気調査。
今日の分の証拠写真は申し分ないものが撮れた。デジタルとフィルムカメラでも撮れていると。
そこまでは問題ない。
「相手の女の身元は分からないまま…」
聞けば、相手の女はターゲットとの情事を済ませた後、4人の男と順にホテルに入ったと言うのだ。それも比較的短い時間で。
最後に家に向かうと思ってとあるマンションまで尾行したが、そこでは男が迎え出てきた。同居相手の可能性もあったが、わかりやすく女を来客扱いしていたのでそこが女の家である可能性は低い。
「なかなか強烈だな…」
なんとなく黒井は柳が弱った理由がわかった気がした。
「女の身元…わかる気がしねぇ…」
「商売…よりは依存症なのかもしれないな」
その両方という可能性もあるが、推理はしなくても良いだろう。
黒井は少しだけ考えると柳に伝えた。
「とりあえず、女の身元は後にしよう。ターゲットの動向を引き続き追ってくれ。また、同じ女と接触しているなら、俺も身元を調べてやるさ」
その言葉に柳は黒井に視線を向けた。
「黒井だけでやってくれよ」
ここまで弱ることがあるものかと思わず黒井は失笑してしまった。
「嫌だね。俺も楽できるのなら楽をしたいのさ」
薄く笑みを浮かべて言われたそれは、黒井の嘘偽りのない言葉だった。

柳に黒井が同行したのは翌々日だった。
厳密に言えば、話をしていた時に日付は変わっていたので翌日である。
あれだけ弱っていた柳も寝て起きたらすっかり回復していた。だが、ターゲットに動きがあった時は若干躊躇していた。
そんなにその女か怖いのかと思って黒井は面白かった。
「…マジか」
柳が心の声をそのまま声にした。
場所は再びホテル街。
そして、ターゲットは前と同じ女と合流していた。
柳の言葉に黒井は女を注意深く観察した。
年頃は柳とさほど変わらないだろう。平均より少し低めの身長は高校生かと思わせるが、立ち振る舞いから幼さは感じられず、そうではないと推測できる。
暗めの茶髪のロングヘアーは腰まではあるのにサラサラとしていてつややか。目鼻立ちはくっきりしていているが、派手と言うよりは可愛いという印象がある。やや垂れた眼は大きいが、瞳も大きく魅力的だ。
パステルカラーのサマーワンピースはいかにも男が好きそうな清楚さを醸し出している。
体系に特筆すべき点は見当たらないが、露出している範囲で見える色白の肌にはそそられる何かがある。
「人は見た目によらんな」
黒井がそう呟くが、今更である。
善人の皮を被った悪人の多いことは黒井自身が身を持って知っている。
この後、あの女は何人と情事を重ねるのかはわからない。ただ、今回は前回より遅い時間の合流なのでまだマシだろう。
及び腰な柳に黒井は苦笑しつつ、言葉をかける。
「今日は対策をしているんだろ。意識しすぎるな」
黒井のその言葉に柳は返事をしなかった。その代わり、視線を自分の手首に落とした。柳は黒い石でできた数珠を左手につけている。
これはファッションとしてではなく、護符として身に着けている。
先日、柳がグロッキーになったのは体力ではなく、精神的なものが原因だと考えられた。
柳は精神面が決して強いと言えない。本人は否定も肯定もしないが、黒井はそう認識している。
ホテル街と言う場所は、人の欲や念が一般的な街並み以上に渦巻いている。その質は良くないことが多い。
黒井は霊感と言うものと縁が全くない人間だが、それでも「なんとなく空気が悪い。雰囲気がおかしい」と感じたことはある。ただの人間でもわかるのだから、柳はそれ以上に感じてしまうのだろう。
そんな場に長くいた事、気構えや苦手意識などが相まって柳は疲労困憊となったと思われる。
いわゆる「あてられた」のだ。
そんな柳に黒井は数珠を着けるように言った。
黒い石は世間に出回っているパワーストーンで、不浄のものを跳ね返すと言われている。どこまで本当かはわからないが、それで柳が精神的に強くなれるのなら安いものだと思える。
「しっかし…」
黒井は柳に視線を向けて言葉を口にしかけたが、それ以上は言わなかった。不自然に止まった言葉に柳が怪訝な顔をする。
その視線に気が付いて黒井は意味ありげに口元を歪めた。
こういう場所であてられてしまう柳はまだまだ子供だと思ったのだったが、それを口にしたところで何も利はないだろうと言う事で胸中にとどめることにした。
「いや?」
黒井が短く言うと柳は何か言いたそうではあったが、黒井がターゲットたちへ視線を向けると柳もそれに習った。ちょうど、2人揃ってホテルに入る所だった。
柳が新たな証拠のための写真を撮って、しばらくの待機となる。
深い溜息を吐きながら柳はデジカメで撮った写真を確認する。ピントはあっていて申し分ないの写真が撮れている。
しかし、気になるところがあった。
「黒井…」
呼ばれて黒井は柳に顔を向ける。
柳は黙ってデジカメを差し出していた。黒井は無言でそれを受け取るとディスプレイに表示されている画像を見て目を細めた。
「ほぅ…?」
ホテルの壁の向こう側に行く直前の1枚。
女の視線がカメラ目線になっていた。
ホテル街に男二人がいれば違和感はあるかもしれない。
しかし、肉眼では相手の顔をはっきり判別できるか怪しい距離だ。
よほどの視力があれば話は別だが、確実に女はこちらを見ている。
一応、今夜で最初の調査期間は終わるのだが、面倒なことにならなけれは良いと思いつつも、色々と知りたいことが多くなりそうな予感がする黒井だった。
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