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二十一粒目 ゴーストバスターズ
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午後四時五十分の『しまうま』には客がいない。食器の片づけもシンクの掃除も全て終えた馨は、カウンター席で頬杖を突いてこっくりこっくりうたた寝をするマスター室藤を眺めながら、時間が過ぎるのだけをぼぅっと待っている。
コーヒーの香りは眠気覚ましになるとは言うが、眠いものは眠い。思わずあくびをこぼした馨が、「欠伸してもひとり」と尾崎放哉的自由律俳句を謳ったその時、店の扉が勢いよく開き、真鍮製のベルがキンキンと高い声を上げ、驚いたマスター室藤が体勢を崩してカウンターにあごをぶつけ、「ぬぅぅ」と悶絶した。
店に現れたのは香である。「お疲れお疲れ」とやや適当に馨を労う彼女の恰好は、薄汚れたねずみ色のツナギという熟練の配管工的ファッション。昼間に彼女が述べていた〝用意〟とは、どうやらこれのことらしい。
お洒落にしては上級者向けすぎると思った馨が、「なんです、その格好は」と呆れつつ訊ねれば、香は「なんだと思いますぅ?」とクイズ番組の司会者風に返す。
「いや、そういうのいいですから」
「まったく。せっかく用意したのに、カオルくんたら遊び心が無いねぇ」
香は残念なものを見る眼を馨へ向ける。
「ゴーストバスターズだよ、ゴーストバスターズ。知らないの?」
『ゴーストバスターズ』とは、一九八〇年代に公開されたハリウッド映画である。四人の冴えない中年男性が街にはびこる幽霊を退治するという内容で、当時一大ヒットを飛ばした作品だ。
世代ではない馨とて、この名作を知らないわけではない。まだ小学生の頃、父親が借りてきたBlu-rayを共に観た記憶すらある。しかし、それゆえに彼女の言葉を聞いて余計に混乱した。
「……あの、今から俺達は幽霊を探しに行くわけですよね? 退治(バスター)しに行くわけじゃないんですよね?」
「当たり前でしょ。それとも、退治したいわけ?」
「いえ。退治しないんだったら、その恰好にはなんの意味があるのかなと思いまして」
その問いを聞いた香は、あまりに不出来な生徒を前にした教師のように肩を落として息を吐いた。
「カオルくん、いい? わたしたちは幽霊を探さなくちゃいけないの。普通の人が『幽霊について知りませんか?』なんて訊いて周ったら、頭がおかしい人に思われるでしょ?
「まあ、そりゃそうでしょうね。俺なら逃げます」
「でしょ? でも……ゴーストバスターズの恰好をしてれば?」
「……もっと頭のおかしい人に思われる、とか?」
「違う。テレビかなんかの撮影だと思われて、おかしい人だと思われなくなるの」
馨は至って冷静に、「いやそんなことは無いと思うんですが」と正直な意見を述べたが、香は「いやそんなことあるよ」と自身の理論を信じて疑わない。決して意見を曲げぬ彼女に、馨はある種の感心すら覚えるほどであった。
「ほら。さっさと準備する。わたし、外で待ってるからね」と彼の背中を叩いた香は、探検家の如き足取りで店の外へと歩み出していく。店内には途端に静寂が戻り、なんだか嵐が過ぎ去ったような静けさすらあった。
「窪塚くん、大変だね」とマスター室藤は呟き、「もう慣れました」と返した馨はエプロンを外した。
〇
『しまうま』を出たふたりは最寄りの駅まで向かって歩く。コンクリートの道路は昼過ぎに降った豪雨の影響でテラテラと輝いている。見る分にはわりと綺麗だが、高い湿度のせいでいつもに比べてなお空気が重苦しい。必然、馨の足は靴の裏に強力な粘着テープでも貼ってあるかのように重くなった。
一方、水溜りをぴょんと飛んで避けるなど軽やかな足取りの香は、今日の未来の詳細を説明した。
曰く、幽霊を見たのは池袋駅周辺にある神社仏閣の境内。場所の詳細はわからないが、大まかな住所はこれで間違いないとのこと。それで、肝心の幽霊の見た目は――。
「全身びしょ濡れで、おまけに泥だらけで、髪はべたーっと顔にくっついた、ボロボロの格好した女の人の幽霊。間違いなく地縛霊ってヤツだね、アレは」
香の目撃証言に首を傾げた馨は、「ですかねぇ」と怪しんでいるのを隠さずに返す。
「なに。その不満そうな顔」
「いやそもそも、それって本当に幽霊なんですかね? たとえば、ただ全身びしょ濡れで、泥だらけになった、生きてる女の人だったりしません?」
「あのさあ……全身びしょ濡れで泥だらけになった女の人が、その恰好のまま外歩いていると思う?」
「それを言うなら、幽霊が本当にいると思いますか?」
「思う」と即答されてしまえば、馨としてはもう何も言えない。
「……わかりました。じゃ、捜しましょう」
「最初からそう言えばいいの。カオルくんは、わたしの〝道連れ〟なんだから」
そう言うと彼女は馨の手を引いた。予期せぬ行動に脈拍が高まり、心臓が跳ね上がるような衝撃を覚えながら、彼はされるがまま引っ張られた。
コーヒーの香りは眠気覚ましになるとは言うが、眠いものは眠い。思わずあくびをこぼした馨が、「欠伸してもひとり」と尾崎放哉的自由律俳句を謳ったその時、店の扉が勢いよく開き、真鍮製のベルがキンキンと高い声を上げ、驚いたマスター室藤が体勢を崩してカウンターにあごをぶつけ、「ぬぅぅ」と悶絶した。
店に現れたのは香である。「お疲れお疲れ」とやや適当に馨を労う彼女の恰好は、薄汚れたねずみ色のツナギという熟練の配管工的ファッション。昼間に彼女が述べていた〝用意〟とは、どうやらこれのことらしい。
お洒落にしては上級者向けすぎると思った馨が、「なんです、その格好は」と呆れつつ訊ねれば、香は「なんだと思いますぅ?」とクイズ番組の司会者風に返す。
「いや、そういうのいいですから」
「まったく。せっかく用意したのに、カオルくんたら遊び心が無いねぇ」
香は残念なものを見る眼を馨へ向ける。
「ゴーストバスターズだよ、ゴーストバスターズ。知らないの?」
『ゴーストバスターズ』とは、一九八〇年代に公開されたハリウッド映画である。四人の冴えない中年男性が街にはびこる幽霊を退治するという内容で、当時一大ヒットを飛ばした作品だ。
世代ではない馨とて、この名作を知らないわけではない。まだ小学生の頃、父親が借りてきたBlu-rayを共に観た記憶すらある。しかし、それゆえに彼女の言葉を聞いて余計に混乱した。
「……あの、今から俺達は幽霊を探しに行くわけですよね? 退治(バスター)しに行くわけじゃないんですよね?」
「当たり前でしょ。それとも、退治したいわけ?」
「いえ。退治しないんだったら、その恰好にはなんの意味があるのかなと思いまして」
その問いを聞いた香は、あまりに不出来な生徒を前にした教師のように肩を落として息を吐いた。
「カオルくん、いい? わたしたちは幽霊を探さなくちゃいけないの。普通の人が『幽霊について知りませんか?』なんて訊いて周ったら、頭がおかしい人に思われるでしょ?
「まあ、そりゃそうでしょうね。俺なら逃げます」
「でしょ? でも……ゴーストバスターズの恰好をしてれば?」
「……もっと頭のおかしい人に思われる、とか?」
「違う。テレビかなんかの撮影だと思われて、おかしい人だと思われなくなるの」
馨は至って冷静に、「いやそんなことは無いと思うんですが」と正直な意見を述べたが、香は「いやそんなことあるよ」と自身の理論を信じて疑わない。決して意見を曲げぬ彼女に、馨はある種の感心すら覚えるほどであった。
「ほら。さっさと準備する。わたし、外で待ってるからね」と彼の背中を叩いた香は、探検家の如き足取りで店の外へと歩み出していく。店内には途端に静寂が戻り、なんだか嵐が過ぎ去ったような静けさすらあった。
「窪塚くん、大変だね」とマスター室藤は呟き、「もう慣れました」と返した馨はエプロンを外した。
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『しまうま』を出たふたりは最寄りの駅まで向かって歩く。コンクリートの道路は昼過ぎに降った豪雨の影響でテラテラと輝いている。見る分にはわりと綺麗だが、高い湿度のせいでいつもに比べてなお空気が重苦しい。必然、馨の足は靴の裏に強力な粘着テープでも貼ってあるかのように重くなった。
一方、水溜りをぴょんと飛んで避けるなど軽やかな足取りの香は、今日の未来の詳細を説明した。
曰く、幽霊を見たのは池袋駅周辺にある神社仏閣の境内。場所の詳細はわからないが、大まかな住所はこれで間違いないとのこと。それで、肝心の幽霊の見た目は――。
「全身びしょ濡れで、おまけに泥だらけで、髪はべたーっと顔にくっついた、ボロボロの格好した女の人の幽霊。間違いなく地縛霊ってヤツだね、アレは」
香の目撃証言に首を傾げた馨は、「ですかねぇ」と怪しんでいるのを隠さずに返す。
「なに。その不満そうな顔」
「いやそもそも、それって本当に幽霊なんですかね? たとえば、ただ全身びしょ濡れで、泥だらけになった、生きてる女の人だったりしません?」
「あのさあ……全身びしょ濡れで泥だらけになった女の人が、その恰好のまま外歩いていると思う?」
「それを言うなら、幽霊が本当にいると思いますか?」
「思う」と即答されてしまえば、馨としてはもう何も言えない。
「……わかりました。じゃ、捜しましょう」
「最初からそう言えばいいの。カオルくんは、わたしの〝道連れ〟なんだから」
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