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第三話 筍の炊き込みご飯
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しおりを挟む「ひぇぇえ……うまそぅ!」
「美味しいです。見ただけで僕には分かります」
城井が完成を上げ、千春がまだ食べてもいないのにうんうんと頷く。
紗和子は、それぞれの前に茶碗蒸しを置きながら「熱いですからね」と声を掛ける。
応接間の長机の上には、土鍋に筍ご飯、筍とアスパラとタラの芽の天ぷら、筍の刺身、そして、菜の花の酢味噌和え、茶碗蒸し、と春らしい料理が並んでいる。
全てがいきわたったのを確認して、千春が手を合わせ紗和子たちもそれに倣う。
「では、いただきます」
「いただきます!」
千春は真っ先に、御所望の炊き込みご飯を口いっぱいに頬張る。するとふにゃんとした笑みが彼の顔いっぱいに広がる。
「紗和子さん、とても美味しいです」
「ありがとうございます」
「うまっ、なにこれ、さくさくでめっちゃうまい!」
城井が筍の天ぷらを頬張り、歓声を上げる。
「たくさん食べて下さいね」
ほっと息をついて、紗和子は袖を引かれて顔を向ける。薫が茶碗蒸しを指差している。
「まだ熱いですから、他の……まあ、ふふっ」
あーんと口を開けた薫に紗和子は、思わず笑ってしまう。
蓋を取りスプーンを入れて、ふーふーと息を吹きかけ冷まして、薫の口へ運ぶ。薫は、ぱくっと食べて、美味しい、と言わんばかりにほっぺを両手で抑える。
「紗和子さん、紗和子さん、僕もやりたいです」
千春がキラキラした顔で言うので、スプーンを渡すと茶碗蒸しを掬って、ふーふーして薫の口へ運ぶ。薫は、それも嬉しそうにぱくんと食べる。
「薫、美味しいですか?」
うんうんと薫が頷く。
「うっ、僕の薫が、今日もこんなに可愛いです……っ」
可愛いと言われて薫が喜んでいるのが分かり、紗和子もにこにこしてしまう。
「幸せが俺のほうまで染み渡って来る……な、春ノ助」
城井の隣に座っていた春ノ助が、こてん、と首を傾げている。
「お前には、分かんないかー」
わしゃわしゃと撫でられて、春ノ助は嬉しそうに尻尾を振る。
「てか、千春、二杯目いくの速すぎない⁉」
「食卓は戦場です。全て早い者勝ちです」
千春が土鍋からどっさりとご飯をよそおうとしながら言った。
「千春さん、残ったご飯を焼きにおにぎりにして、出汁茶漬けが出来る支度もしてありますよ」
しゃもじを持つ手が止まり、茶碗に行こうとしていたご飯が土鍋に戻される。
「何それ絶対、うまいやつじゃん!」
「ここからこっちは出汁茶漬け用にします」
千春が鍋の中を勝手に区切り始め、城井が「待って、残りのエリアから持っていきすぎじゃない⁉」と城井が抗議の声を上げる。薫は、そんな二人に構わず黙々と箸を動かして、せっせとご飯を食べている。
紗和子は、賑やかな光景を眺めながら、筍ご飯を頬張る。筍の香りがふわっと広がり、出汁と油揚げの旨味がご飯の甘みを引き立てる。
美味しく炊けました、と紗和子は心の中で自画自賛する。
紗和子は、自分が作った料理を誰かが美味しそうに食べる姿が好きだ。千春も薫も城井もそれはそれは美味しそうに食べて、城井もいつの間にかにこにこしている。
ゆっくりと瞬きをして彼の「糸」を見る。
彼の心をぐしゃぐしゃになって覆っていたライトグリーンのキラキラしたテープは、ゆるゆると解け、どこかへ伸びていたそれも少しだけ短くなっていた。
紗和子はまた瞬きをして「糸」を見えないようにする。
「賑やかですねぇ」
ふふふとついつい笑いを零しながら、紗和子は楽しい夕食の時間を堪能するのだった。
賑やかな夕食を終え、皆で後片付けをして、春ノ助にもご飯をあげて、紗和子は薫と一緒に入るために一番にお風呂を貰った。そのあと、城井、千春と順番に入る。
それから、居間でテレビを見ていると薫が船を漕ぎ始めたので、眠る仕度をする。
薫は、紗和子と寝たり千春と寝たり、その日の気分で決める。今日は、紗和子を指名してくれたので、春ノ助も一緒に布団に入り、寝かしつける。
「ふふっ、可愛いですねぇ」
すやすやと寝息を立てる薫は、とても可愛らしい。目にかかっている前髪を指先でそっとはらって、紗和子は起こさないように気を付けながら布団を抜け出す。
「春ノ助、お願いしますね。炊飯器を予約したか自信がないので見てきます」
春ノ助の頭を撫でて、慎重に部屋を後にする。
後ろ手に襖を閉め、ほっと息をつく。台所へ行って、炊飯器を見れば、やっぱり予約ボタンを押していなかった。気付いて良かったとボタンを押して部屋へと戻る。
ふと、縁側に浴衣姿の千春が一人で座っているのを見つける。不意に振り返った彼が紗和子に気づいて、おいでおいで、と手招きされる。
そっと音を立てないように近づいていく。
千春の隣には、空の座布団があり、お盆の上には徳利と猪口が二つ並んでいる。お風呂上りに晩酌をしていたらしい。傍らに千春が寝室で使っている行灯型の証明が置かれて、縁側を橙色に柔く照らしている。
「どうしました? 薫に何か?」
「いえ、薫ちゃんはぐっすりです。炊飯器の予約を忘れてしまったので。今、きちんと予約をしてきました」
「でしたらよろしければ、少し付き合って下さい。恵太は飲む前に潰れて寝ました」
その言葉に腰を下ろしながら振り返れば、座敷に敷かれた布団にこんもりと山ができていた。よく見ると規則正しく上下している。
「飲んでないのに、潰れたんですか?」
「泣くだけ泣いて寝ましたよ」
苦笑を零しながら千春が、お猪口にお酒を注いでくれる。ほんのりとぬるいお酒は、お米の甘さが柔らかく口に広がる。
「美味しいです」
「それは良かった。恵太はこの猪口に二杯も飲むと酔っぱらってしまうんですが、紗和子さんはどうです?」
「私はほどほどに嗜む程度なら」
城井は本当にお酒に弱いと、心のメモに書いておく。お酒関連のものは、出来るだけ出さないようにしたほうがいいだろう。
「……城井さんに目を冷やすもの、お持ちしましょうか?」
「いえ、いいんですよ。腫れたままのほうが、泣いて全てを流したんだと実感するでしょうから」
そう言って千春は猪口を口に付け、傾ける。
紗和子は、もう一度、城井を振り返る。
「あんなに泣くほど好きになれる方がいるというのは、素敵ですね」
「そうですね……僕も三十ですから恋人の一人や二人、過去にはいましたが、フラれても泣いたことはないですねぇ」
「千春さんがフラれるんですか?」
優しい彼がフラれるなんて、と思わず紗和子は首を傾げる。千春は、くっくっと喉で笑って「フラれるんですよ」と猪口を置く。
「僕は大学二年生の時に作家としてデビューしたんです。僕は集中するとのめりこんで生活というものを全て後回しにしてしまうタイプで、大学も単位が足りず一年ほど留年してしまいました。心配した兄や姉、恵太がちょくちょく様子を見に来てくれましたよ。でも、恋人という立場からすると電話に出ない、メールも返さない、家に行っても出て来ない。その上、デートにも行ってくれない相手というのは、捨てたくもなるでしょうねぇ」
千春はまるで人ごとのように言う。
「僕はね、紗和子さん。この一週間、驚きと感動の毎日です」
夜闇に包まれた庭を見つめながら千春が、ぽつりと零す。紗和子は、黙ってその先を待つ。ざわざわと吹く風が、庭の大きな松を揺らす。
「薫は本当に良い子です。喋れないのもあるでしょうが、我が儘なんてほとんど言わず、僕の不味い料理も可愛くもないお弁当も食べてくれる良い子です。今と同じように手伝いをしたがってはいましたが、僕には紗和子さんのように応えられませんでした」
彼の手が徳利に伸びたのに気付いて、紗和子は先に手に取り、彼のお猪口にお酒を注ぐ。彼はお礼を言って、猪口をまた口元へと運ぶ。
「余裕が、なかったんです。僕は家事が苦手で、最低限の暮らしを取り繕うのに精いっぱいで……。僕でさえ時間がかかる工程を、薫に任せればもっと時間がかかります。その時間を待つ余裕が、僕にはなかった」
ふと彼のまつ毛が伏せられる。大きな手が小さな猪口をゆらゆらと揺らす。
「……でも紗和子さんは、薫に上手にお手伝いを任せられます。今日だって、あれだけの料理を作りながら、薫もきちんとお手伝いが出来ていた。それに薫は紗和子さんにあれが食べたい、これがしたい、と意思表示をします。僕にはしてくれなかったことです。今日のあーんだって、僕は初めてしました。あの子が……姉と義兄にねだっている姿は何度となく見たことはありましたが」
薄い唇が微かに歪む。
紗和子は、はらりと落ちた髪を耳に掛けながら口を開く。
「薫ちゃんは、優しい子です」
猪口をゆらゆらと揺らす大きな手が止まる。
「千春さんが一生懸命、自分を大切にして愛してくれていることをきちんと理解しているんですよ」
「そうでしょうか」
「そうです。だって、薫ちゃん、笑っているじゃないですか」
千春が顔を上げ、紗和子を振り返る。紗和子は、小さく笑って自分の猪口にお酒を注ぐ。
「ご両親を亡くした薫ちゃんが、今、笑っているのは千春さんの愛情の賜物です。私に甘えることができるのは、その基盤を千春さんが整えてくれていたからです」
「……そう、でしょうか」
「そうですよ」
同じ言葉を重ねる千春に紗和子も同じように返す。
千春は、ふっと表情を緩めると猪口に残っていた酒を喉に流し込む。紗和子も猪口に口を付ける。やっぱりお米の好い香りがする。
「紗和子さんが来てから、僕は本当に久しぶりに薫と食事を楽しめるようになりました。紗和子さんのご飯は、魔法みたいですね。いつも僕を幸せにしてくれます」
「ふふっ、私も美味しそうに食べてくれる千春さんや薫ちゃんを見ていると、とても幸せだなと思うんですよ」
ぱちり、と目を瞬かせた千春が、数拍の間をおいてくしゃりと笑う。
その笑顔は少し不器用で、けれど、心からの安堵が滲んでいるような気がした。
「紗和子さんと結婚してよかったです」
低く静かに染み渡るような声が、心からの安堵ともに告げる。
その言葉が嬉しくて、誇らしくて、紗和子は笑みを返す。
だが、ふと心に影が差す。
綾小路は、きっともう釈放されている。紗和子への異常とも言える執着心が、消えたとは到底思えない。
「……紗和子さん?」
千春の掛け声にはっと我を取り戻す。
「すみません、少しぼうっとしてしまって……お酒が回ったのかもしれません」
笑って誤魔化そうとしたが、千春はそれを許してはくれない。ふわりと風が吹いて、白檀の香りが鼻先を優しく撫でていく。
「あの男は、今、実家に連れ戻されたと聞いています」
「え……」
「紗和子さんに言うべきかどうか悩んだのですが、もっと早く伝えておけばよかったですね。怖がらせるかと思って黙っていましたが、知らないほうが怖いこともあるのを失念していました。すみません」
「あ、謝らないで下さい。でも、どうして……」
「言ったでしょう? 僕は警察には少々ツテがある、と」
そう言って千春は、居住まいを正す。
「なかなかお迎えが来なかったそうですが、二日ほど前にようやく迎えが来て、実家に連れ戻されたそうです。今回のような騒ぎが初めてではなかったようで……父親がかなりお怒りのご様子だったそうですよ。国外に追い出すとまで言っていたそうなので、当分は紗和子さんには構えないんじゃないでしょうか。実は周辺のパトロールも回数を増やすようにお願いしているんですよ」
そう言って千春が優しく笑う。
「そう、ですか」
紗和子は、ほっと胸を撫で下ろす。確実に安全と決まったわけではないが、それでも少し心が楽になる。
「紗和子さん。明日から、幼稚園が始まって生活が更に賑やかになりますね。基本的に幼稚園の送迎は僕がします。でも紗和子さんに頼む日もあると思うので、明日は、園の先生に紗和子さんを紹介させてください。朝は忙しいと思うので、帰りのお迎えに一緒に行きましょう」
「はい」
お酒のおかげか、体がぽかぽかしてくる。
「紗和子さん。改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
笑いあって再び、二人は握手を交わし合ったのだった。
応援ありがとうございます!
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