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施設に入ったヘンリーには『リリー』という名を与えられた。施設にはアルファから多額の寄付が集まっているらしく、内観も想像よりもずっと綺麗だった。一人ずつに個室が与えられ、妊婦のヘンリーは医師が待機しているエリアに部屋をもらった。
施設の中に不便なんてなく、三食食事を与えられ、服は支給されている。育児用品も全て支給品に含まれる。嗜好品だけは自分のお金で買う必要はあるが、仕事が欲しいと頼めばすぐに斡旋してもらえる。暇な時間に求人本を見せてもらったのだが、学園にあった求人よりも数が多かった。といっても学園卒業後に就職する生徒が少なかったからかもしれないが。
金額は低め。企業側から入る収入の四割ほどは施設の取り分になるらしい。求人本の表紙に書いてあった。収入が一定額を越えた場合は割合が少し低くなるらしいが、そのお金は支給品や食事代、施設外にいるオメガへの支援に充てられる。文句を言う者はおらず、ヘンリーも文句を言うつもりなんてなかった。
妊娠中から落ち着いたら身体の負担が少ない仕事を受けるつもりで、子供が生まれて半年が経った頃、ヘンリーはとある仕事を受けた。他国の新聞記事を翻訳するという仕事だ。新聞のスクラップブックが送られてくるので、そこから好きな記事を選び、一つの記事を翻訳するごとにお金がもらえる。達成報酬形式で、受けてから十日以内に提出すればいい。学園でいくつかの言語を学んでいたヘンリーにはピッタリの仕事だった。その中で最も得意としていた言語で書かれた記事を選んだ。辞書も貸してもらえるので、心配なところを引きながら進めていく。施設の職員はヘンリーの仕事の速さに驚いていたが、すぐに元々その国にいたのだと勘違いしてくれたようだった。翻訳の依頼はそういうオメガのために用意されていたのだと後で知った。幸い、ヘンリー以外に翻訳の依頼を受けているオメガはおらず、引き受ければ受けるほど喜んでもらえた。ヘンリーとしてもお金が貯まれば家族への仕送りも出来るので助かった。
初めは翻訳の仕事をしていたヘンリーだが、そんなに数がある訳でもない。一年とせずに量はガクッと減った。彼が古代魔術の勉強を再開したのは手が空いたから。その時は新しい古代魔術を解き明かすつもりなんてさらさらなかった。
新しい魔術に手を付けたのは、翻訳の仕事を依頼していた人がいつものお礼だと一冊の本をくれたからだった。何度か古代魔術についての記事を翻訳していたからだろう。ヘンリー以外のオメガも報酬でお金以外を受け取ることはあるらしい。なのでありがたく受け取ることにした。もちろん断ることも出来るが、ヘンリーはその本に興味をひかれた。顔も名前も知らぬ依頼人が送ってくれたその本は、古代魔術の構造についてより詳しく描かれた本だったのだ。
『いつもお世話になっているお礼にこの本を贈ります。これは私がとある小国で買い付けてきた本です。古代魔術に詳しいリリーも初めて見るようなことが書いてあるでしょう。楽しんでもらえたら嬉しいです』
添えられたメモの通り、どれもヘンリーが初めて見るようなものばかりだった。こんなに勉強が楽しいと思うのは初めてで、子供が寝ている時間は食い入るように繰り返し読んだ。
楽しくて楽しくて楽しくて。読んでいるうちに新しい魔術が完成した。魔法を応用したもので、古代魔術でなくとも再現できるものである。それでもヘンリーは嬉しくて、たまらずペンとインク、それから大量の紙を買った。そして一晩で論文をしたためて魔術協会に提出した。
しょうもないと切り捨ててもらっても構わなかった。たった一人でもいいから、自分の他にもこんな古代魔術が存在することを知っていて欲しかった。
一度論文を完成させたヘンリーは学生時代を思い出した。
毎日が楽しくて幸せだったあの頃を。
本をくれた依頼者に手紙を出し、こんなに素晴らしいものが出来たのだと伝えた。
再びあの本を手に取り、ひたすらページを捲った。ヘンリーには子供がいたが、施設内は外よりもずっと環境が整っていた。初めはちゃんと子供の世話をしていたヘンリーだったが、三本目の論文をあげた頃から施設の職員に預けてしまった。というのも発表した論文が評価を得たらしく、古代魔術のライセンス使用料ががっぽりと入ったのだ。仕事以外の収入なのでヘンリーは全額受け取ることが出来たのだが、施設にお世話になっているからと一割ほどを寄付した。すると施設の職員はますますヘンリーの勉強に好意的になった。子供を見てくれる時間が増え、ヘンリーはますます本を読む時間が増えた。
評価自体にあまり興味はないヘンリーは論文の批評が書かれた魔術専門誌など手に取ることはなかったが、手元に入るお金は増えていった。同時に子供の顔を見る時間は減った。
「勉強に集中したいんです」
そう告げれば職員は喜んで世話を引き受けてくれる。だがそんなのはただの言い訳に過ぎなかった。本に集中している間は学園生活の中で育てた淡い恋を思い出さずに済むから。あの時間は勉強に捧げたのだと思い込みたかった。自然とガインを思い出してしまう子供の顔を見るのが辛かった。
だから勉強に没頭していたヘンリーだったが、ようやく決断を下すことにした。この先ずっと自分の中にへばりついたままであろう記憶を忘れることにしたのだ。ガインに関することと、自分がベータだったことを。そのための古代魔術を完成させた。忘れるといっても暗示をかけて記憶に蓋をするだけだ。すでに五つの古代魔術を完成させたヘンリーには難しいことではなかった。なにより、これ以上無邪気に笑う子供のことを嫌いになりたくなかった。
「僕は生まれた時からオメガだった。学園入学試験失敗後、名前も知らないアルファと一夜を共にし、子供が出来た。一人では子育てが難しいから施設に来たのだ」
これはどこにも発表してはいけない魔術だ。ヘンリーがヘンリーのためだけに編み出した古代魔術。辛い思いと一緒に自分の時間をなかったことにしてしまう魔術。ボロボロと泣きながら考えた設定を繰り返す。そして忘却魔術を展開させた。
施設の中に不便なんてなく、三食食事を与えられ、服は支給されている。育児用品も全て支給品に含まれる。嗜好品だけは自分のお金で買う必要はあるが、仕事が欲しいと頼めばすぐに斡旋してもらえる。暇な時間に求人本を見せてもらったのだが、学園にあった求人よりも数が多かった。といっても学園卒業後に就職する生徒が少なかったからかもしれないが。
金額は低め。企業側から入る収入の四割ほどは施設の取り分になるらしい。求人本の表紙に書いてあった。収入が一定額を越えた場合は割合が少し低くなるらしいが、そのお金は支給品や食事代、施設外にいるオメガへの支援に充てられる。文句を言う者はおらず、ヘンリーも文句を言うつもりなんてなかった。
妊娠中から落ち着いたら身体の負担が少ない仕事を受けるつもりで、子供が生まれて半年が経った頃、ヘンリーはとある仕事を受けた。他国の新聞記事を翻訳するという仕事だ。新聞のスクラップブックが送られてくるので、そこから好きな記事を選び、一つの記事を翻訳するごとにお金がもらえる。達成報酬形式で、受けてから十日以内に提出すればいい。学園でいくつかの言語を学んでいたヘンリーにはピッタリの仕事だった。その中で最も得意としていた言語で書かれた記事を選んだ。辞書も貸してもらえるので、心配なところを引きながら進めていく。施設の職員はヘンリーの仕事の速さに驚いていたが、すぐに元々その国にいたのだと勘違いしてくれたようだった。翻訳の依頼はそういうオメガのために用意されていたのだと後で知った。幸い、ヘンリー以外に翻訳の依頼を受けているオメガはおらず、引き受ければ受けるほど喜んでもらえた。ヘンリーとしてもお金が貯まれば家族への仕送りも出来るので助かった。
初めは翻訳の仕事をしていたヘンリーだが、そんなに数がある訳でもない。一年とせずに量はガクッと減った。彼が古代魔術の勉強を再開したのは手が空いたから。その時は新しい古代魔術を解き明かすつもりなんてさらさらなかった。
新しい魔術に手を付けたのは、翻訳の仕事を依頼していた人がいつものお礼だと一冊の本をくれたからだった。何度か古代魔術についての記事を翻訳していたからだろう。ヘンリー以外のオメガも報酬でお金以外を受け取ることはあるらしい。なのでありがたく受け取ることにした。もちろん断ることも出来るが、ヘンリーはその本に興味をひかれた。顔も名前も知らぬ依頼人が送ってくれたその本は、古代魔術の構造についてより詳しく描かれた本だったのだ。
『いつもお世話になっているお礼にこの本を贈ります。これは私がとある小国で買い付けてきた本です。古代魔術に詳しいリリーも初めて見るようなことが書いてあるでしょう。楽しんでもらえたら嬉しいです』
添えられたメモの通り、どれもヘンリーが初めて見るようなものばかりだった。こんなに勉強が楽しいと思うのは初めてで、子供が寝ている時間は食い入るように繰り返し読んだ。
楽しくて楽しくて楽しくて。読んでいるうちに新しい魔術が完成した。魔法を応用したもので、古代魔術でなくとも再現できるものである。それでもヘンリーは嬉しくて、たまらずペンとインク、それから大量の紙を買った。そして一晩で論文をしたためて魔術協会に提出した。
しょうもないと切り捨ててもらっても構わなかった。たった一人でもいいから、自分の他にもこんな古代魔術が存在することを知っていて欲しかった。
一度論文を完成させたヘンリーは学生時代を思い出した。
毎日が楽しくて幸せだったあの頃を。
本をくれた依頼者に手紙を出し、こんなに素晴らしいものが出来たのだと伝えた。
再びあの本を手に取り、ひたすらページを捲った。ヘンリーには子供がいたが、施設内は外よりもずっと環境が整っていた。初めはちゃんと子供の世話をしていたヘンリーだったが、三本目の論文をあげた頃から施設の職員に預けてしまった。というのも発表した論文が評価を得たらしく、古代魔術のライセンス使用料ががっぽりと入ったのだ。仕事以外の収入なのでヘンリーは全額受け取ることが出来たのだが、施設にお世話になっているからと一割ほどを寄付した。すると施設の職員はますますヘンリーの勉強に好意的になった。子供を見てくれる時間が増え、ヘンリーはますます本を読む時間が増えた。
評価自体にあまり興味はないヘンリーは論文の批評が書かれた魔術専門誌など手に取ることはなかったが、手元に入るお金は増えていった。同時に子供の顔を見る時間は減った。
「勉強に集中したいんです」
そう告げれば職員は喜んで世話を引き受けてくれる。だがそんなのはただの言い訳に過ぎなかった。本に集中している間は学園生活の中で育てた淡い恋を思い出さずに済むから。あの時間は勉強に捧げたのだと思い込みたかった。自然とガインを思い出してしまう子供の顔を見るのが辛かった。
だから勉強に没頭していたヘンリーだったが、ようやく決断を下すことにした。この先ずっと自分の中にへばりついたままであろう記憶を忘れることにしたのだ。ガインに関することと、自分がベータだったことを。そのための古代魔術を完成させた。忘れるといっても暗示をかけて記憶に蓋をするだけだ。すでに五つの古代魔術を完成させたヘンリーには難しいことではなかった。なにより、これ以上無邪気に笑う子供のことを嫌いになりたくなかった。
「僕は生まれた時からオメガだった。学園入学試験失敗後、名前も知らないアルファと一夜を共にし、子供が出来た。一人では子育てが難しいから施設に来たのだ」
これはどこにも発表してはいけない魔術だ。ヘンリーがヘンリーのためだけに編み出した古代魔術。辛い思いと一緒に自分の時間をなかったことにしてしまう魔術。ボロボロと泣きながら考えた設定を繰り返す。そして忘却魔術を展開させた。
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