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第一話 甘い夫婦生活とはなりません
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「もう少し休んでください」
俺はそう言って、わずかに躊躇しながら千鶴さんの肩に触れた。
千鶴さんは俺の妻である。それなのに、キスどころか、抱きしめたこともない。
家事手伝いのように彼女を働かせていることに罪悪感を覚えたわけではない。それでも、気づいたらプロポーズしていた。
隠し通せない本音が漏れ出たのかもしれない。しかし、意外にも千鶴さんはすんなりと結婚を受け入れてくれた。
俺のことが好きなんだろうか?
何度も自問した。
結婚してくれたのだからそうだろうと思いながらも、いまだに彼女とはそういう関係になれていない。
両親を10代で亡くした彼女が、俺に父親のような親しみを感じていたとしても不思議ではない。
だからこそ、彼女に触れることに躊躇している。
「誠さん、ご迷惑になってはいませんか?」
布団に身体を横たえて、千鶴さんは申し訳なさそうに言う。
「ええ、この辺りは昔から不可思議なことが起きるとして有名な土地柄です。千鶴さんが住むべき土地ではないかもしれません。それでもここにいて欲しいと思っています」
千鶴さんはうっすらと涙を浮かべて、目元をぬぐう。そのまま気恥ずかしそうに、窓の外へと視線を移す。
いつの間にか、外は暗くなっていた。
千鶴さんの部屋からは中庭が見える。
暗いはずの庭に、キラキラとした光の玉が現れては流れていく。毎夜、流れ星のように飛ぶ無数の光は、オーブだ。
死者が漂う庭。
そんな風に言ったら千鶴さんを怖がらせてしまうと真実を話したことはない。しかし、人を害することのない優しいオーブは、むしろ彼女を癒している。
見慣れてしまったオーブから目をそらし、千鶴さんは少しばかり疲れた様子で目を閉じた。
「では仕事場にいます。ミカン、千鶴さんについていてあげなさい」
千鶴さんの額に手のひらを当てる。熱はない。安堵しつつ、枕元にちょこんと座るミカンに命じる。
ミカンは賢い猫だ。人間の言葉をまるで理解しているかのように忠実だ。
ゆるりとしっぽを振るミカンの頭をなで、立ち上がる。その頃には千鶴さんからは寝息が聞こえていた。
俺は彼女を見ることなく立ち上がる。
新妻の寝顔を見ながら、やましい心をもたない夫はいないだろう。
さて、俺にどんな愛情を感じているのかわからない若い娘と、どうやって距離を縮めたらいいだろう。
恋の一つもしたことのない少年でもあるまいが、少々欲深な心を持て余しながら、事務所にしている和室へ向かった。
しばらくして、ひたひたという足音と、背後に気配を感じて振り返る。
「千鶴さん、休んでいていいと……」
てっきりミカンがついてきたのかと思ったのだが、廊下に立っていたのは千鶴さんだった。
そのまま事務所の中へ入ってきて、無言でローテーブルの前へ腰を下ろす彼女を視線で追う。
奇妙だ。不意にそんな言葉が胸に浮かぶ。
暗い横顔に困惑する。こんなにも深刻そうな表情をする千鶴さんを見るのは久しぶりのことだ。
そう、一度目は彼女が初めてここを訪れた時だった。
なかなか仕事が長続きせず、新たな職が見つからないと嘆く彼女はひどく必死だった。
こんな辺鄙な場所に就職などしなくても、千鶴さんのように可愛らしい女性ならいくらでも仕事はあるのにと内心驚いた。
住み込みで働きたいと言ったのは、明日から来なくていいと言われないための自衛本能の表れだったのか。
住み込みは基本男性のみと決めていた俺だったが、彼女の熱心な訴えに折れた。あれももう二年前のことで、懐かしい出来事だ。
「これを片付けたら俺も休みます」
テーブルの上に広がる書類を集め、ファイルに戻していると、千鶴さんがうつむく。
結い上げた髪はわずかに崩れている。その後れ毛がやけに色っぽくてどきりとする。
「あ、……千鶴さん、もう部屋へ戻ってもいいですよ。あとは俺がやりますから」
千鶴さんにそう告げた時、彼女はうっすらと唇を開き、言葉を発した。
「お願いが……あります。主人が浮気していないか、調べて欲しいのです」
「え……?」
ファイルを整えていた手が止まる。耳を疑う。しかし目の前の千鶴さんは深刻げなままだ。
確かに千鶴さんの声で、主人の浮気、と言った。それは俺の浮気を疑っている、ということだろうか。
抱きしめたことすらないから、不安に思ったのだろうか。だとしたら俺のせいか。
いや、そもそも俺の浮気を疑うなら、俺に調査して欲しいなどと言わないだろう。
「ちづ……」
千鶴さんの肩に触れようとした時、彼女がまっすぐ俺を見上げた。その瞳は虚ろで、ハッと息を飲む。
可愛らしくてあどけないキラキラとした彼女の瞳は今、どこにもない。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
目の前にいる千鶴さんは、俺の知る千鶴さんではないのではないか。
ふとそんな思いが湧き上がる。
調査中の書類を片付け、代わりに真新しい申込書をテーブルの上に置き、千鶴さんと向かい合って座る。
ボールペンを手に取り、静かに虚ろな瞳を見つめながら問いかける。
「あなたの名前は?」
「もう少し休んでください」
俺はそう言って、わずかに躊躇しながら千鶴さんの肩に触れた。
千鶴さんは俺の妻である。それなのに、キスどころか、抱きしめたこともない。
家事手伝いのように彼女を働かせていることに罪悪感を覚えたわけではない。それでも、気づいたらプロポーズしていた。
隠し通せない本音が漏れ出たのかもしれない。しかし、意外にも千鶴さんはすんなりと結婚を受け入れてくれた。
俺のことが好きなんだろうか?
何度も自問した。
結婚してくれたのだからそうだろうと思いながらも、いまだに彼女とはそういう関係になれていない。
両親を10代で亡くした彼女が、俺に父親のような親しみを感じていたとしても不思議ではない。
だからこそ、彼女に触れることに躊躇している。
「誠さん、ご迷惑になってはいませんか?」
布団に身体を横たえて、千鶴さんは申し訳なさそうに言う。
「ええ、この辺りは昔から不可思議なことが起きるとして有名な土地柄です。千鶴さんが住むべき土地ではないかもしれません。それでもここにいて欲しいと思っています」
千鶴さんはうっすらと涙を浮かべて、目元をぬぐう。そのまま気恥ずかしそうに、窓の外へと視線を移す。
いつの間にか、外は暗くなっていた。
千鶴さんの部屋からは中庭が見える。
暗いはずの庭に、キラキラとした光の玉が現れては流れていく。毎夜、流れ星のように飛ぶ無数の光は、オーブだ。
死者が漂う庭。
そんな風に言ったら千鶴さんを怖がらせてしまうと真実を話したことはない。しかし、人を害することのない優しいオーブは、むしろ彼女を癒している。
見慣れてしまったオーブから目をそらし、千鶴さんは少しばかり疲れた様子で目を閉じた。
「では仕事場にいます。ミカン、千鶴さんについていてあげなさい」
千鶴さんの額に手のひらを当てる。熱はない。安堵しつつ、枕元にちょこんと座るミカンに命じる。
ミカンは賢い猫だ。人間の言葉をまるで理解しているかのように忠実だ。
ゆるりとしっぽを振るミカンの頭をなで、立ち上がる。その頃には千鶴さんからは寝息が聞こえていた。
俺は彼女を見ることなく立ち上がる。
新妻の寝顔を見ながら、やましい心をもたない夫はいないだろう。
さて、俺にどんな愛情を感じているのかわからない若い娘と、どうやって距離を縮めたらいいだろう。
恋の一つもしたことのない少年でもあるまいが、少々欲深な心を持て余しながら、事務所にしている和室へ向かった。
しばらくして、ひたひたという足音と、背後に気配を感じて振り返る。
「千鶴さん、休んでいていいと……」
てっきりミカンがついてきたのかと思ったのだが、廊下に立っていたのは千鶴さんだった。
そのまま事務所の中へ入ってきて、無言でローテーブルの前へ腰を下ろす彼女を視線で追う。
奇妙だ。不意にそんな言葉が胸に浮かぶ。
暗い横顔に困惑する。こんなにも深刻そうな表情をする千鶴さんを見るのは久しぶりのことだ。
そう、一度目は彼女が初めてここを訪れた時だった。
なかなか仕事が長続きせず、新たな職が見つからないと嘆く彼女はひどく必死だった。
こんな辺鄙な場所に就職などしなくても、千鶴さんのように可愛らしい女性ならいくらでも仕事はあるのにと内心驚いた。
住み込みで働きたいと言ったのは、明日から来なくていいと言われないための自衛本能の表れだったのか。
住み込みは基本男性のみと決めていた俺だったが、彼女の熱心な訴えに折れた。あれももう二年前のことで、懐かしい出来事だ。
「これを片付けたら俺も休みます」
テーブルの上に広がる書類を集め、ファイルに戻していると、千鶴さんがうつむく。
結い上げた髪はわずかに崩れている。その後れ毛がやけに色っぽくてどきりとする。
「あ、……千鶴さん、もう部屋へ戻ってもいいですよ。あとは俺がやりますから」
千鶴さんにそう告げた時、彼女はうっすらと唇を開き、言葉を発した。
「お願いが……あります。主人が浮気していないか、調べて欲しいのです」
「え……?」
ファイルを整えていた手が止まる。耳を疑う。しかし目の前の千鶴さんは深刻げなままだ。
確かに千鶴さんの声で、主人の浮気、と言った。それは俺の浮気を疑っている、ということだろうか。
抱きしめたことすらないから、不安に思ったのだろうか。だとしたら俺のせいか。
いや、そもそも俺の浮気を疑うなら、俺に調査して欲しいなどと言わないだろう。
「ちづ……」
千鶴さんの肩に触れようとした時、彼女がまっすぐ俺を見上げた。その瞳は虚ろで、ハッと息を飲む。
可愛らしくてあどけないキラキラとした彼女の瞳は今、どこにもない。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
目の前にいる千鶴さんは、俺の知る千鶴さんではないのではないか。
ふとそんな思いが湧き上がる。
調査中の書類を片付け、代わりに真新しい申込書をテーブルの上に置き、千鶴さんと向かい合って座る。
ボールペンを手に取り、静かに虚ろな瞳を見つめながら問いかける。
「あなたの名前は?」
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