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真実と終わる恋
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暖房で温まる部屋の中へ、底冷えするような寒さが漂い始める。その異様な気配に気づき、ベッドに横たわっていた俺はまぶたを上げた。
背後に何か気配を感じる。それはどこか懐かしいようであり、しかしおぞましい何かであることは間違いのない慄然とするものだ。
「……びゃく、や……」
若い女の声が俺の名を呼ぶ。少しトーンの低い声だが、俺はこの声に覚えがある。ついさっきまで話していた女の声だ。
「奇子、か」
ベッドから起き上がり、振り返る。明かりはついていたはずなのに、どこのライトも消えている。月明かりだけの薄暗い部屋の中に、ぼんやりと浮かぶ黒い影。ベッドから少し離れた場所で佇んでいる。それは、女の姿をした黒い影。
以前、俺の首を絞めた女だ。そう直感する。夢の中に現れた女だとばかり思っていたが、今俺ははっきりと目覚めている自覚がある。これは夢ではない。
「奇子だな?」
黒い影は問いかけに頷きはしないが、そうだと認め、静かに俺を見つめているかのようだ。
「恨みがあるのは、俺が橘白夜だったからか。だからって俺には関係ない話だ。橘白夜が奇子を捨てた恨みを俺に向けるのは無駄だ」
そう言うと、黒い影が揺らぐ。ゆっくりと近づいてくる。
まばたきをした瞬間、シルエットだった女の姿がはっきりと若い女の姿へと変わる。美鈴には似ても似つかないが美しい女だ。
俺は眉をひそめる。女の体の奥に壁が透けて見える。一真は美鈴の体に取り憑く奇子の姿が見えるようだったが、目の前の女はそれとは別の奇子のようだ。奇子が二人いるのかと、奇異な眼差しで俺は彼女を見つめる。
「美鈴じゃないんだな」
確信しながらそう言う。女から相変わらず返事はないが、安堵に似た思いが浮かぶ。これは奇子だろう。だが、美鈴ではない。
美鈴であり、美鈴ではない奇子へ複雑な思いがあるのは間違いないが、目の前の奇子も美鈴に取り憑いた奇子も、全て過去のものであり、俺には何の感傷も生まない相手だ。
「俺に何を望む? やすやすと命を捧げる気はないが」
「……なぜ、私を、捨てたの」
奇子は突然ほろほろと涙を流して泣く。しかし、その涙も幻のように、床に落ちる前に消えていく。
「それを知りたいだけか? あいにく、何も覚えてない」
「白夜を愛して、いたのに……」
「だからまたやり直そうと首を絞めたか? あの世で結ばれようなんて夢物語だ。それをよくわかってるのは奇子の方じゃないのか」
会話になっているだろうか。俺は俺の、奇子は奇子の言い分を話しているだけのような気がする。俺の思いは奇子へ届いているだろうか。
そう思う俺の前で、奇子はうな垂れた。そして、短い沈黙の後、顔を上げたかと思うと彼女はひどく醜い形相で俺のベッドに手をかけていた。
「白夜も、苦しめばいい……」
「千年前、橘白夜は苦しんだかもしれない」
「……あぁ」
奇子は苦しげに髪をかき乱すと、いきなり俺に襲いかかる。勢いで後ろへ倒れた俺の首に手をかける彼女は冷たく。
「美鈴の中の奇子でなければ……、おまえはなんだ……」
奇子の手首をつかもうとするが、俺の手はするりと突き抜ける。それなのに、女の指は俺の首に食い込んでくる。
「私は、苦しかったのに……、白夜は別の女と、結婚した……」
奇子の切れ長の瞳から涙が溢れている。
「白夜が来るというから、待っていたのに……」
俺はかすかに息をしながら、奇子を見上げる。声が出せず、苦しくて体をよじれば、次第に奇子の指から力が抜けていく。
「待っていたのに……、待っていたのに、来たのは……安哉だった……」
「……安哉?」
奇子はしゃくり上げて泣き、俺の胸に伏す。
「安哉は私を……、私を。わたしを……っ」
「奇子? 大丈夫か、あや……」
「ああああぁーっ……」
体を仰け反らした奇子は、天井を見上げて髪をつかみ悶える。
身がちぎれんばかりに苦しむ奇子に俺は触れることが出来ない。してやれることは尋ねることしかない。
だから俺は聞いた。それが彼女の苦しみをより強くしてしまうかもしれないが、聞くことが俺の罪を償う足がかりになる気がした。
「安哉が何を?」
奇子は急に動きを止め、ベッドへ手をつき、低い声を吐き出す。
「だから死を選んだのよ……。もう二度と安哉が私を抱けないように……」
「……」
「だから、体を燃やした……」
「……奇子」
「私はここで、死んだ……」
俺は絶句する。奇子の苦しみを美鈴の苦しみに重ねたら、俺は呆然とするしかない。
「白夜……、私はあなたを、愛していたのよ……」
安哉に抱かれている間もずっと、あなたを想っていたの……。
俺の心に奇子は話しかけてくる。それは口に出すのもおぞましい出来事だったからか。
気を失ったように奇子はベッドから転がり落ちていく。とっさに手を伸ばすが、俺の手は彼女の手をすり抜ける。そして、床へ落ちる前に、奇子は消えた。
暖房で温まる部屋の中へ、底冷えするような寒さが漂い始める。その異様な気配に気づき、ベッドに横たわっていた俺はまぶたを上げた。
背後に何か気配を感じる。それはどこか懐かしいようであり、しかしおぞましい何かであることは間違いのない慄然とするものだ。
「……びゃく、や……」
若い女の声が俺の名を呼ぶ。少しトーンの低い声だが、俺はこの声に覚えがある。ついさっきまで話していた女の声だ。
「奇子、か」
ベッドから起き上がり、振り返る。明かりはついていたはずなのに、どこのライトも消えている。月明かりだけの薄暗い部屋の中に、ぼんやりと浮かぶ黒い影。ベッドから少し離れた場所で佇んでいる。それは、女の姿をした黒い影。
以前、俺の首を絞めた女だ。そう直感する。夢の中に現れた女だとばかり思っていたが、今俺ははっきりと目覚めている自覚がある。これは夢ではない。
「奇子だな?」
黒い影は問いかけに頷きはしないが、そうだと認め、静かに俺を見つめているかのようだ。
「恨みがあるのは、俺が橘白夜だったからか。だからって俺には関係ない話だ。橘白夜が奇子を捨てた恨みを俺に向けるのは無駄だ」
そう言うと、黒い影が揺らぐ。ゆっくりと近づいてくる。
まばたきをした瞬間、シルエットだった女の姿がはっきりと若い女の姿へと変わる。美鈴には似ても似つかないが美しい女だ。
俺は眉をひそめる。女の体の奥に壁が透けて見える。一真は美鈴の体に取り憑く奇子の姿が見えるようだったが、目の前の女はそれとは別の奇子のようだ。奇子が二人いるのかと、奇異な眼差しで俺は彼女を見つめる。
「美鈴じゃないんだな」
確信しながらそう言う。女から相変わらず返事はないが、安堵に似た思いが浮かぶ。これは奇子だろう。だが、美鈴ではない。
美鈴であり、美鈴ではない奇子へ複雑な思いがあるのは間違いないが、目の前の奇子も美鈴に取り憑いた奇子も、全て過去のものであり、俺には何の感傷も生まない相手だ。
「俺に何を望む? やすやすと命を捧げる気はないが」
「……なぜ、私を、捨てたの」
奇子は突然ほろほろと涙を流して泣く。しかし、その涙も幻のように、床に落ちる前に消えていく。
「それを知りたいだけか? あいにく、何も覚えてない」
「白夜を愛して、いたのに……」
「だからまたやり直そうと首を絞めたか? あの世で結ばれようなんて夢物語だ。それをよくわかってるのは奇子の方じゃないのか」
会話になっているだろうか。俺は俺の、奇子は奇子の言い分を話しているだけのような気がする。俺の思いは奇子へ届いているだろうか。
そう思う俺の前で、奇子はうな垂れた。そして、短い沈黙の後、顔を上げたかと思うと彼女はひどく醜い形相で俺のベッドに手をかけていた。
「白夜も、苦しめばいい……」
「千年前、橘白夜は苦しんだかもしれない」
「……あぁ」
奇子は苦しげに髪をかき乱すと、いきなり俺に襲いかかる。勢いで後ろへ倒れた俺の首に手をかける彼女は冷たく。
「美鈴の中の奇子でなければ……、おまえはなんだ……」
奇子の手首をつかもうとするが、俺の手はするりと突き抜ける。それなのに、女の指は俺の首に食い込んでくる。
「私は、苦しかったのに……、白夜は別の女と、結婚した……」
奇子の切れ長の瞳から涙が溢れている。
「白夜が来るというから、待っていたのに……」
俺はかすかに息をしながら、奇子を見上げる。声が出せず、苦しくて体をよじれば、次第に奇子の指から力が抜けていく。
「待っていたのに……、待っていたのに、来たのは……安哉だった……」
「……安哉?」
奇子はしゃくり上げて泣き、俺の胸に伏す。
「安哉は私を……、私を。わたしを……っ」
「奇子? 大丈夫か、あや……」
「ああああぁーっ……」
体を仰け反らした奇子は、天井を見上げて髪をつかみ悶える。
身がちぎれんばかりに苦しむ奇子に俺は触れることが出来ない。してやれることは尋ねることしかない。
だから俺は聞いた。それが彼女の苦しみをより強くしてしまうかもしれないが、聞くことが俺の罪を償う足がかりになる気がした。
「安哉が何を?」
奇子は急に動きを止め、ベッドへ手をつき、低い声を吐き出す。
「だから死を選んだのよ……。もう二度と安哉が私を抱けないように……」
「……」
「だから、体を燃やした……」
「……奇子」
「私はここで、死んだ……」
俺は絶句する。奇子の苦しみを美鈴の苦しみに重ねたら、俺は呆然とするしかない。
「白夜……、私はあなたを、愛していたのよ……」
安哉に抱かれている間もずっと、あなたを想っていたの……。
俺の心に奇子は話しかけてくる。それは口に出すのもおぞましい出来事だったからか。
気を失ったように奇子はベッドから転がり落ちていく。とっさに手を伸ばすが、俺の手は彼女の手をすり抜ける。そして、床へ落ちる前に、奇子は消えた。
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