降ってきた結婚

文月 青

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お風呂を済ませて寝室に入ると、拓海がベッドに寝転がって雑誌を読んでいた。彼は人の気配がすると熟睡できない性質なのだそうで、さすがに部屋は一緒でもベッドは別々だ。だからその日によって眠りにつく順番はまちまちだが、大抵私が先に寝落ちしてしまう。

「また髪を乾かしてこなかったのか。タオルを貸せ」

軽く雫を拭ったものの、濡れた髪をそのままに肩からタオルを下げていた私に、体を起こした拓海が手を差し出す。ここ数日の恒例行事だ。どうせ大丈夫だと断っても勝手にタオルを取り上げるので、私は大人しく拓海のベッドに浅く腰かけた。

「ったく、世話の焼ける。二瓶のばーさんもあの世ではらはらしてることだろうよ」

がしがしと乱暴に水分を吸い取りながら、説教も忘れない。さして長くもないのに、甲斐甲斐しいのか煩いだけなのか。

「じゃあ王子様にお礼を」

使い終わったタオルを洗濯機に放り込みに行った後、キッチンから持ってきたパピコの半分を渡す。我が家の冷凍庫には必ずこれがストックしてある。もちろん茶色い味。

「お前馬鹿にしてるだろ。しかも自分も食ってるし」

ベッドの上で胡坐をかく拓海が、大人なんだから丸ごと寄越せとぼやいた。私は自分のベッドでちゅーちゅーやりながら、人差し指を左右に振る。

「三船のおばあちゃんが分け合いなさいって言ってたもん」

ふふっと小さく笑うと、お祖母ちゃん子の拓海はぐうの音も出ない。不貞腐れつつパピコに口をつける。そういえば当初お祖母ちゃん達の写真は、寝室に飾る予定だった。

「見られていると落ち着かない」

よく分からない理由でそれを却下したのは拓海だが。

「あのう」

「何だ」

「どうして何もしないの?」

単なる質問をしただけなのに、拓海は驚いてパピコを落っことした。慌てて拾い上げたせいか、幸い布団に妙な色のシミはつかずに済んだ。

「いきなり変なことを口走るな、この馬鹿女」

「素朴な疑問なんだけど。もうこの先ずっと、一生私とはしないの?」

「つい最近まで生娘だった奴の台詞か」

憮然とする拓海に私は瞬きを繰り返す。男の心理も生態も詳しくは知らないが、それでも閨事抜きの生活はきついのではないだろうか。同期のかすみも結婚したばかりの頃は、常にいちゃいちゃしていたというし、旦那さんも隙あらばという感じだったらしい。

「もしかして性欲ないの?」

「俺を幾つだと思ってやがる」

「だよね」

他の女性とは交渉があるんだから当然だ。ということは私じゃその気にならないってことで……いやその前に、今も数多の女性と関係を持っているんだろうか? 愛が無くてもそれはさすがにルール違反では?

「だよねとはどういう意味だ」

「お盛ん。遊ぶ女とやらと続いてるのは反則でしょ?」

「おい、ちょっと待て。何の話だ。女なんかいないぞ」

「じゃあやっぱり私の体に不満が」

「ますます分からん。しかも不満なんかない!」

喚く拓海にパピコを咥えて首を捻ると、彼は苛々と布団に潜り込んだ。

「もう寝る」

怒らせるようなことをしたかなと考えつつ、私もごみを回収して少し離れた拓海に背を向けて横になる。

「人がせっかく我慢してるのに、この馬鹿女が。これでも痛い目に合わせたこと後悔してるんだぞ。第一詩乃には惚れた男がいるんだろうが」

隣からぶつぶつと念仏が聞こえてきたけれど、既に眠気を催していた私はそれを子守唄代わりに、穏やかな眠りに落ちたのだった。




自覚したのは大学卒業後に就職した会社で、まもなく一年を経過する頃だった。その人は同じ部署に勤務する二期上の先輩で、入社した頃は妙に調子が良いおちゃらけた男だと、なるべく関わらないどころか、必死に避け捲っていた。

「相変わらずお前は鈍だな」

でも私がミスをする度、わざと馬鹿にしたようなことを抜かしながらも、一緒に遅くまで残業して最後まで見届けてくれたのは、いつも先輩ただ一人だった。

「失敗しないで仕事を覚えられるか」

尊敬する上司の受け売りだというこれが持論で、私に限らず他の後輩のこともよく助けては鍛えていた。

「分からなかったら、分かるまで聞け」

時間が経てば経つ程、初めに教えられたことは確認しづらい。けれど先輩は放っておけばやがて大きなミスに繋がると、恥ずかしくても仕事は漏らさず覚えるよう、こちらの下らないであろう質問にさえ何度でも答えてくれた。

「仕事は仕事。遊びは遊び」

そう言ってお酒の楽しみ方を教えてくれたのも先輩だ。実は結構いい人なのかもしれない。そんなふうに考えを改め始めた矢先のことだ。

「先輩、本当は優しいですよね」

飲み会で同期の女子が何気なく言った台詞に、まだビールに口をつけたばかりの先輩が、びっくりするくらい真っ赤になった。

「ば、馬鹿たれ。んなわけあるか!」

周囲からは可愛いと声が上がり、ますます茹で蛸状態になる先輩。そのときようやく分かった。この人は途轍もなく照れ屋なのだと。だからふざけて誤魔化しているのだと。

「たまには素直になればいいのに」

揶揄うとやかましいと怒鳴りつつ、私の頭をぽかっと叩く。痛さの欠片もなければ、手首まで顔と同じように染まっている事実に、もはや先輩と関わらずにいる理由は無くなった。何より照れ隠しとはいえ、先輩の手が自分の一部に触れたことが不思議に嬉しかった。

「結婚、するんだ」

冬の寒さが一段と厳しかった日。仕事帰りに数人で立ち寄った居酒屋で、先輩が髪を掻きながらぽつりと呟いた。相手は同期の女性らしいのだが、それまで恋人のこの字も匂わされたことがなかった私達は更にびっくりした。

「おめでとうございます!」

お祝いムードで盛り上がる中、私は意外な程胸を抉られている自分にショックを受けた。これまでただの一度も男として意識したことはない。そんな先輩の結婚に。やはり私は鈍だったのだ。気づいたところで時既に遅し。私はこれまで通り後輩としての態度を崩さずに日を送り、そして久慈さんはその年の六月に結婚式を挙げた。



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