司祭の国の変な仲間たち

ひしご

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第三章

白の騎士

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 剣技会の優勝者は、外部からやってきた旅の武術者の勝利に終わった。勝ち残っていたヴェスカは、いい線まで行ったが何も無い所で意味不明に躓き転んで隙が出来てしまい、そこを付け込まれ失格という間抜けな終わり方で準決勝敗退になった。
 その情けない負け方はこの先延々と語り継がれるようになる。
 ロシュから司聖を守る役割を命じられたリシェは、内部にある裁縫室に居た。
 白い騎士専用の服の採寸を済ませ、裁縫師の着せ替え人形のような扱いを受け続けうんざりした後、眠い目を擦りつつロシュと共に剣の製作の為鍛冶場へ向かう。
「あの、武器は剣なら何でもいいんですが…大剣以外なら扱えますし」
 剣士の宿舎からの引越し、在籍の変更、新しい服の採寸と工程をこなしていたが、さすがにもう疲れ果てていた。剣は持っているものをいつも磨いているし、使いこなしていたから少し愛着もある。何の変哲のない一般の剣だが悪い所は無いのだ。
 それに採寸時に全く関係の無い試作ドレスを数着着せられ、精神的にダメージを食らっていた。また来てねと言われたものの、二度と来るかと思った程だ。
 ロシュは「私もあなたとお揃いで杖を作りたいのです」と微笑む。早朝から一緒に動いていたのに、彼は物凄く元気そうだった。やたら体力があるので、慣れない事ばかりで疲れ果てているリシェは不思議に思う。
「え?」
「それが終われば、もう今日は終了にしましょう」
「は…はあ」
 大聖堂の後方、金属類を扱う鍛治場は、音や独特な匂いなどを配慮して少しだけ離れに存在していた。金属のぶつかり合う音と、切断時の慣れない音が混じり合う中、ロシュは入口へひょいと足を踏み入れる。内部は金属や焦げ臭い匂い、薬品の匂いが入り混じり、高温で苦しさを感じる。
 ツンと鼻につく匂いにリシェが呻いていると、中から野太く荒々しい声が飛んできた。
「お待ちしてましたロシュ様!」
「こんにちは。今日は宜しくお願いします」
 真っ白さを失ったタンクトップを身に付けた恰幅の良すぎる男はロシュと挨拶を交わし、紹介を受けたリシェも頭を下げる。
 鉄をひたすら打ち込んでいると、自然と筋肉もついてくるのだろう。鍛冶場の職人達は皆、剣士と同じような筋肉質だった。
「今日はわざわざお時間を割いて頂いてありがとうございます」
 ロシュは深々と頭を下げた。司聖自ら現場に出向いて、こちらに礼を尽くすなど、職人側にとって逆に申し訳ない気持ちになる。
「とんでもない!頭を上げて下さい、ロシュ様」
「いえ、お忙しいのにこちらの我儘で作業を中断させてしまっているので…」
 むしろ有り難いですよと熱気と汗でむさ苦しい中、爽やかな笑みをしながら、男はリシェに目を向ける。ぴくりと反応するリシェ。
 男はニヤッと笑うと、「剣技会見たぞ」と言った。
「こんなちびっこいのに、よく頑張ったもんだ、白騎士様」
 …ちびっこいは余計だと思う。
 複雑な気持ちで、リシェはありがとうございますと返した。
「ロシュ様はなかなか専属の剣士を付けなかったから、どうしたものかと思っていましたが…まさかこんな若すぎる子をお選びになるとはねぇ…。でもこの子は伸びしろがありそうだ。いい剣を作らせて貰いますよ」
「ありがとうございます!良かった、ぜひリシェには使いやすい武器を作ってあげて下さい」
「お二方のご要望と、扱いやすさを突き詰めて作らせて貰いますよ。あとは魔力をどのタイミングで込めるのか、ロシュ様に聞いておかないと」
 武器に魔力を込める?
 刀鍛冶の男の言葉を聞きながらリシェは目を丸くする。そんな彼の様子を見たロシュは、クスッと上品な笑みを浮かべる。
「武具に魔力を詰め込むと、更に武器の能力が強化されます。リシェ、あなたにも魔力がありそうだ。後程、オーギュにあなたの奥底に眠る能力を引き出して貰いましょう」
「え!?俺、魔力があるんですか?」
「はい。鍛え方によって、それを実戦に生かせますよ。あなたなら大丈夫だ」
 自分が、魔法を使える。リシェは意外な話に目を輝かせる。どんな魔法を使えるのだろう。自分に使いこなせるだろうか。
 わくわくするリシェの横で、ロシュは「デザインの案も考えて貰いました」と話を続けた。
「どれも素敵で迷ってしまいます」
「二つセットで作るのなら、似通ったデザインが良いでしょう。似せる事で、お互いの忠誠も深いものになる」
 二人は突き詰めた話をした後、デザインや要望を伝えてようやく内容を纏める。
 魔力を込めるのは武器が仕上がった後になり、さすがに疲れと熱気でくらくらするリシェを支えながらロシュは鍛冶場を後にした。

 ぶつかり合う金属の音を背に、司聖の塔へ戻る道でロシュは不意に口を開いた。
「これからは、私と寝食を共にします。…リシェ、もし あなたが窮屈に感じたのなら、すぐに言って下さいね」
 優しい言葉に、リシェは礼を告げる。
「窮屈なものか。俺はあなたを目指して来たんです。遠くからお守りするだけでも満足だったのに、こんなにお側に居られるなんて。これ以上幸せな事なんてありません。あなたの為に、もっと強くならなきゃ」
 健気な発言に、ロシュは心の底から嬉しく幸せを感じてしまう。夕暮れを過ぎ、暗くなる路地を進みながら、彼は心の中であなたがもっと強くなる方法もあるのですと呟く。
 その方法は、強さの他にお互いをより強固にする。
 しかし、まだそんなに親密になった訳ではない。
 無理強いはしたくないし、その前に彼が受けてくれるかどうかだ。
「私も、あなたが強くなるのを楽しみにしていますよ。ですがあまり気張らないようにして下さいね」
 はい、と力強く頼もしい返事。
 ロシュは愛おしい目をしながらリシェの背中を優しく叩く。ようやく手に入れる事が出来た少年を、ひたすら大切にしたいと思った。
「今日はあちこち回って疲れたと思います。帰りましょう、リシェ。私の塔の温泉でゆっくり体を休めて下さいね」
「ありがとうございます、ロシュ様」
「あなたとこれから一緒に過ごせるなんて、とても嬉しく思います。もっとあなたを知りたいし、私をもっと知って欲しい」
 まだ夢を見ているような気分だとリシェは思う。
 雲の上をほわほわと歩いている感覚。すぐ側にあのロシュが居て、一緒に暮らすのだと甘い言葉を放ってくる。
 信じられなくて、ぺしんと自分の顔を叩いた。
「り、リシェ?」
「夢なんじゃないかと思って」
「夢じゃないですよ。ほら」
 彼はそうリシェに告げると、目線に合わせるように屈んだ。そして柔らかく微笑むと専属の小さな剣士の手を取る。
「傷ももう痛くないでしょう?」
 剣技会で負った腕の怪我はロシュによって完治していて、もう痛みは無かった。彼の魔法の凄さに感服し、感謝してもしきれない。
 間近にロシュを感じながら彼の手を握り返し、「本当だ。夢じゃない」とその温もりを確かめる。
「あんなに遠かったのに、今はこんなに近くに感じるなんて」
「さあ、帰りましょうリシェ。あなたのお部屋も少しずつ片付けていかないとね」
「あまり物を持ってないから、すぐに片付きます」
 宮廷剣士用の宿舎から、司聖の塔の空き部屋に住む事になったリシェの荷物は、旅行用の大きな鞄に詰め込める程度のものだった。あとはロシュから貰った柔らかいぬいぐるみ。
 空き部屋は代々の白騎士に命じられた者に与えられていたがしばらく誰も使わずにいた為、埃まみれのままだった。
 リシェが入る事でロシュは急遽清掃を頼み、家具も新しい物に取り替えてすぐに入れるように準備だけされている。
 これからリシェが入る部屋は、ロシュの部屋がある少し手前。外側から見ると、塔の上付近に出っ張った箇所があり、その部分に当たる。頂上にあるロシュの部屋より手狭だが、一人で住むには丁度いい広さ。
 ロシュの部屋は逆に仕事場を兼ねる為に一人では広すぎる大きさで、浴室ですら広さを誇る。
 塔が大きいせいもあり、無意味に広いので一人暮らしにしては寂しい場所だった。
「誰かが近くに居てくれるなんて、何だか心が暖まりますね。ふふ、嬉しい」
「俺が居る事でロシュ様が寂しい思いをしなくて済むのなら、ずっとお側に居させて貰います」
 嬉しい事を言ってくれる健気な新しい騎士に、ロシュはつい彼を抱きしめたくなった。胸がきゅうっと甘く締め付けられてしまう。顔が勝手に綻び、幸福感に押し付けられそうだ。
 ダメだ、堪えなきゃ…と首を振り、「ありがとうございます」と微笑んだ。

 リシェが少しずつ新しい部屋に慣れてきた頃。
 ロシュは昔から懇意にしている貴族の息子達が遊びに来るのを知り、頭を抱えていた。
「もう少し先になりませんかねぇ…リシェがこちらに来て、それ程経っていないのですよ」
「なりませんね。何しろ、学校がお休みなのですから。あの子達が来るには今の時期が丁度いいのでしょうし」
 オーギュはロシュ宛に届いた手紙に目を通すと、我慢するしか無いですねと冷静に告げる。
「遊びに来てくれるのは嬉しいんですよ。賑やかでいい事ですし。ただやんちゃ過ぎるので」
「早かれ遅かれ、リシェも顔を合わせなきゃならないのです。いい機会だ、年も近いから仲良くなるかもしれません」
「リシェの性格では、彼らとは確実に合わないと思いますけど…ルイユはやんちゃだし、ルシルは年齢にしてはませてるし」
 ごにょごにょと書斎机で頭を垂れるロシュを真正面で見下ろし、オーギュははあ…と溜息をつく。
 …しかもいつ来るのか手紙には書かれていないし。
「慣れると人懐っこいですから、どうにかなるもんじゃないんですか」
「他人事みたいに言わないで下さいよ…」
「他人事ですから」
 諦めなさいとしか言えない。
 彼らは来ると言ったら来るのだ。お気に入りの服が無かろうが自分らが骨折しようが、アストレーゼンが天変地異に見舞われようが彼らはとにかく来るだろう。
 その位の勢いで楽しみにしている。
「そういえば、リシェは?」
「宮廷剣士のお仕事をしていますよ。こちらに居て欲しいですが、特にする事が無いと向こうに行ってしまうんですよ。体が鈍るからって言って」
 基本的にロシュの護衛役なので、塔にロシュが篭っていれば宮廷剣士の仕事をしに行った方がいいのだろう。オーギュは懸命ですねと納得する。
 新しく支給された白騎士用の制服も、宮廷剣士内では目立ってしまうからと今までの服を着て任務についているようだ。
 置かれた環境が突然変化しても、周囲からの目線を変えないようにしたいのもあるかもしれない。
 少女のようにも見えるリシェがロシュの騎士になったとなれば、迂闊に手を出してくる輩も居ないだろう。
「あなたの事だから側に居てくれなきゃ嫌だとゴネそうですが、意外にリシェには好きな事をさせているんですね」
「そりゃ…くっついて欲しいですが、窮屈にさせたくないですし。それに、リシェにはのびのびと自分のしたいようにして貰った方が良いと思って。籠の中の鳥にするには勿体無いですからね」
 あれだけ恋い焦がれていたリシェを手に入れ、ロシュは満足しているようだ。
 元々リシェを彼の側に置くのは反対していたが、お互い納得の上ならば口を出せない。後に困る事が起こるかもしれないが、それは承知の上だろう。
「とにかく…あの双子がリシェと上手くいってくれれば、何の心配も無いですがねぇ…」
 考えるだけで不安になるロシュに、オーギュはとりあえず目の前の仕事を片付けて欲しいと切に思うのだった。

 城下街の巡回を完了させ、リシェが所属する第二班のメンバー達はようやく兵舎へと戻ってきた。
 リシェがロシュの元に行くと告げて以来、ラスはリシェに対してあまり口を聞かなくなっているのをヴェスカは不審がったが、波風立てないように普通に振る舞っていた。
 剣士達はそれぞれの荷物を解き、疲れたとそれぞれ座り込んで休憩する。
 動き回ってきた為に喉が渇いていたリシェは、すぐさま自分用の水を飲み干していた。よく冷えていたので体内へ一気に染み渡っていく。
「おう、リシェ。新しい部屋はどうよ?」
 屈強な同僚が、リシェの隣にどっかりと座り込む。小柄なリシェと並ぶと、第三者からは遠近感が分からなくなる程相手がやたら大きく見えてしまった。
 丸坊主の剣士はリシェの肩をぐっと引き寄せ、にやけながら問う。
「さぞかし良くして貰ってんじゃねえの?」
「特に何も無い」
 住居が変わったのみで、ロシュからは今まで通り普通にしてくれて構わないと言われていた。
 不都合な事など何も無い。
「またまた」
 軽く揺さぶり、意味深に笑った。不愉快そうなリシェの表情を知ってか知らずか、彼は尚も突き詰めて話を進めてくる。
「ああ見えても司聖様は男だからな」
「?」
「そのうちお前が喰われちまうんじゃないかって心配なんだよ、リシェ」
 任務完了の事務作業を済ませたヴェスカは、休憩室に戻ると変に絡まれていたリシェに気付いた。またかよ…とげんなりする。
 何かあれば絡まれるという彼の無駄スキル。まだ若いうちは仕方ないだろうが、こう何度も何度も目にすると可哀想になる。
「言ってる意味が分からん」
 それにしても、こんな時はラスが上手くリシェを引き剥がしにかかるのに今回はそれをしないのが気にかかる。
 たまにちらりちらりと目を向けるが、動こうとはしない。こりゃ何かあったな…と思った。
 ヴェスカが二人に話し掛けようとすると、リシェが同僚からサッと離れる。どうやら上手いこと躱したのだろう。
 …お、やれば出来るじゃん。
 短気を起こして乱闘になったり言い争いが起きたりするのを不安視していたが、前回から少し大人になったのかもしれない。
 休憩室から荷を持ってリシェが立ち去ると、ヴェスカはラスに視線を向ける。彼はヴェスカの視線に気付くと、軽く頭を下げた。
「ラス」
「はい」
「ちょい、話いいか?」
 ラスは不思議そうな顔をヴェスカに向けたが、すぐに「はい」としっかりした返事をした。
 人の姿が目立つと、話もしにくいだろうと思い、休憩室を避け、離れた場所に位置する用具室の近くへ進む。用具室は大聖堂内を整備する為の道具や自分達で土を慣らす際に使う器具が詰め込まれ、その時にならなければまず立ち寄らない。
 雑草処理された後の、独特の青臭い匂いを感じつつ、ヴェスカは自分の大きな体を両手を上げて伸ばした。
「悪いな、任務終わったのに」
「いえ…宿舎に戻ってもやる事無いし」
 苦笑しつつラスは愛想良くヴェスカに応じる。
「回りくどいのは面倒だから要件だけ聞くわ。リシェと喧嘩でもしたのか?」
 いきなり要件を聞かされるのも驚いたものの、ラスはヴェスカらしいと思いついふっと笑う。
 まだあどけなさを残し、大人びた彼は「ふられちゃったのかなあ」と呟いた。
「んあ?」
「俺がどれだけ先輩を好きでも、先輩はロシュ様しか見てないんですよ。あれだけ一緒に居たのに」
「へえ…何だ、ラスはリシェが好きなのか。それは何か?先輩として尊敬する意味でか」
 あんな無愛想で小さくて、ツンツンしていても、慕う物好きも居るものだ。
 ヴェスカにとっては、リシェは短気で怒りっぽい印象しかない。だが、ヴェスカの見解とは全く違う意味でラスはリシェを慕っていた。
 彼は違いますよと言うと「尊敬なんかじゃない」と続ける。
「俺、先輩が欲しかった。まだ先輩を自分のものにしたくて堪らない。でも、無理なのかな」
「え?それって…」
いきなりぶっとんだ発想に、ヴェスカは徐々に頭が混乱してくる。リシェがあんななりでも、一応男だ。さすがに女だと認識しているはずはない。
 宮廷剣士は男子のみと決められているのだから。
「はい。友達になりたかった訳じゃないんです。異性が気になるって感情をそのまんま先輩に向けてた。尊敬っていうより、好きで好きで堪らなくて」
「ま、マジで?」
「本当です。先輩と出会う前、普通に学生だったし…武術とか習っていたから、宮廷剣士になれる位の体力はあった。先輩を見てから、ずっとずっと追いかけてた。なのに」
 …それでは今まで、彼はリシェと共に居てずっと好きだという感情を持っていた訳か、とヴェスカは唸る。人間の心は本当に分からない。
「ロシュ様に持っていかれてしまった。せっかく仲良くなれたのに、あっさりと向こうに行っちゃうんだもん。辛くて悔しくて、つい先輩に暴言吐いちゃったんです。無理矢理犯しとけば良かったって」
「極端だなあ」
 同時にやるなあ、とヴェスカは変な事を考えてしまう。確かにあれだけ誤解されそうなリシェの容姿を見続けていれば、普通の仲間として付き合うのは難しいのかもしれない。ましてや女日照りの環境なのだから。
 リシェはリシェで、外見とは裏腹に男らしい性格をしているせいで、余計女扱いされるのを嫌がる。
「練習相手になった時に、つい悪戯心を起こしちゃって。押し倒してキスしたら物凄く怒られちゃった。…当然ですけどね。本音を言えば、その先もしたかった。先輩が欲しかったから。でも嫌われたくないのが一番頭にあったし、強がる割には怖がって震えてたから出来ませんでした」
 ラスの脳裏に、あの暗がりで目にしたリシェの様子がまだこびり付いている。長い睫毛を震わせ、羞恥と嫌悪が入り混じった苦しそうな表情。
 時折見せてくる色気を感じてしまい、全身が熱くなっていた。普段は絶対見せないリシェの顔をもっと見たくなり悪い癖が出てしまったのだ。
「…そっかあ。だからいつもベタベタしてたのにやけによそよそしいはずだわ。なら、少しの間でも他の班に移動するか?気まずいだろ?」
 お互いやりにくいのではないだろうかと判断し、ヴェスカはラスに問う。だが、ラスは首を振った。
「お気持ちは嬉しいんですが、先輩を余計に困らせそうで。俺も正直間を置きたいけど、先輩と離れたくない。まだ好きだから、側に居れないのは辛い。離れても辛いし、近くに居ても辛い。それならこのままでいいやって。ごめんなさい、ご迷惑かけて」
「お前がそれでいいならいいよ。ま、困ったら話聞いてやるからよ」
 ラスは気を使ってくれる上司に礼を告げる。
 周りから散々弄られるタイプだが、強さも本物だし本当に頼りになる男だ。
 所構わず脱ぎ出す癖を止めてくれればの話だが。
引き止めて悪かったなとヴェスカは手を軽く振って宿舎へ一足先に帰っていく。
 ヴェスカを見送り、ぼんやりとラスは晴れない気持ちを持て余していた。
 大層な事を言って退けたが、完全に割り切れてはいないのだ。散乱している雑草にへたりと座り、自分の頭をガシガシと掻き毟る。
「勝手に期待して先走って。ほんと馬鹿みたいだ」
 好きなくせに我慢するとか、出来もしないのに。
 悩みすぎて、顔に出来物も作ってるくせにと自分の馬鹿さ加減に嫌気が差す。
 しばらくその場を動かずにいると、背後からガサガサと草をかき分ける音が聞こえてきた。ラスは頭を上げ、くるりと振り返る。
 こんな誰も寄り付かない所に来る物好きが居るのか…と思っていると、同じ宮廷剣士の制服を身に付けた少年がぼうぼうの草叢からいきなり飛び出してきた。
「ああ!もう信じらんない。何で俺がこんな事しなきゃならない…ん?」
 一人で何かに罵倒しながら姿を現す少年は、ラスを目にすると何故か舌打ちする。
「ねえ、こっちにボール飛んで来なかった?」
「へ?知らないけど」
「まさか隠してる訳じゃないよね?むさ苦しい男ばっかの場所のくせに新入り苛めなんてどんだけ暇なんだよ…ああ、ムカつく」
 口汚く吐き捨てて全身に付着した草を払っていた。
 ラスは眉を寄せながら「新入り?」と問う。
「数日前に来たばっかだよ」
 そういえば新入りが数人入ったんだっけ、と自分も似たようなものだが思い返す。最近自分の周囲の事で精一杯で他の事には興味を持てなかった。
 しかし、この新人もやけに肌が白く綺麗な顔だ。ふんわりした明るい茶色の髪に同じ色の瞳、細身の体型。垂れた優しげな目をしているが、その口調と強気な物言いのせいでキツそうな印象。
 どこかで見かけたような顔をしている。
「そっか。…俺も似たようなもんだよ」
「へえ。少し先輩なんだ?年は同じ位みたいだけど」
「ここ、あまり似たような年の子は居ないからね」
 ようやく雑草を払い終えた少年は、不機嫌そうな顔のままラスに近付いた。
 折角綺麗な顔なのに怒りっぱなしは勿体無い。
「ああ、しんどい。自立しようと思って宮廷剣士になったのに、入ったら入ったで変な目を向けて来るのが居るし、新人だからって見下してつまらない嫌がらせされるし。ここの人間はみんなそうな訳?」
「いや…誰しもそんなのばっかりじゃないと思うけど。どこから来たの?」
 まるでこの国以外から来たような偏見の塊のような口ぶりに少しだけ気分を悪くした。
 彼が他人から今までされてきた結果なのだろうが、そんなに全員悪い人間ではないのだ。
 童話の世界から来た王子様を彷彿とさせるその綺麗な少年は、まだ不機嫌そうに答える。
「シャンクレイスから来たの。ここは暖かいし、俺を知ってるのが居ないだろうしね」
 シャンクレイス。
 その地名を、昔リシェから聞いた事があった。ラスは勢い良く立ち上がり、彼に詰め寄りながら問う。
「じゃあ…じゃあ、リシェ先輩と同じだ!シャンクレイス出身なんだろ?」
 急に近付かれ、少年はたじろぎながら頷いた。そしてラスの言葉の一部に反応する。
「リシェ?…今、リシェって言ったの?」
「え?う、うん。リシェ先輩…知ってるの?」
 意味深に少年はラスの質問に微笑むと、するりと彼の腕を掴んだ。
 魅惑的な少年の、大きなクルミのような瞳が怪しく輝く。
「知ってるも何も…ふぅん…そっか。そういう事ね。ねえ、君の名前は?」
「ラス=フラロ=アシェンディール。ラスでいいよ。俺もまだ新入りみたいなもんだから」
「俺はウィスティーレ=ライ=エルシェンダ。言いにくいだろうからスティレンでいいよ。同じ年位だろうし」
 お互い年の近い剣士が居る事で安心したようだ。
 二人はすぐに打ち解けた気がした。
 宮廷剣士は年齢層が高く、遊びたい盛りの若い者はまず入って来ない。その見た目の格好良さに惹かれるものの、度重なる剣の稽古や様々な場所への遠征、大聖堂内外の任務、更にがんじがらめのスケジュールがある事を知れば、興味があっても躊躇ってしまうのが大半。
「良かった。厳ついのばっかりだったから分かり合えるのが居ないって諦めてた」
「そんな事無いだろ、だってリシェ先輩も居るから。先輩もシャンクレイスから来たから、スティレンとは話も合うんじゃないかな」
 ラスの嬉しげな言葉に、スティレンはふっと再び意味深に口元を緩める。ラスに隠れて見せなかった表情は、嗜虐的にも見えた。
 …そうだね、楽しみ…と。

 大聖堂内の図書館へ寄って興味を誘う本か無いかを確認してきたリシェは、荷物を抱えながら司聖の塔に向けて歩いていた。
 空は既に暗くなっていて、来訪者を遮断しているので出歩く人間は内部の関係者しか居ない。内部を照らしている照明も、数ヶ所の仄かなオレンジ色の明かりのみ。
「おや、白騎士様。今お帰りですか?」
 唐突に飛んでくる声。
 自分が白騎士と呼ばれる事にまだ慣れず、リシェは戸惑いながら「あ、は、はい」と返事をする。
「遅くまで働いてたらロシュ様が心配するよ!」
「今、帰る所です。図書館に居たら時間経つのが早くて」
「勉強好きなんだねぇ。あまり無理するんじゃないよ!」
 リシェは声をかけてきた大聖堂の関係者に頭を下げると、ずっしりとする分厚い本を持ち直し歩きだす。シャンクレイスに居た時はあまり本を読みたくても読めない環境だったから、離れた今の環境は大変有難く感じる。ただ、任務やら何やらで少しずつのペースでしか読めないのが難点だった。
 幸いカティルの好意で、通常の期間より長くレンタル期間を設けてくれるので助かっている。
 リシェ君は何でも興味を持ってくれるからつい色んなジャンルの書物を取り寄せちゃうよと軽く言ってくれるが、稀におかしげな本が混じっているのが気になった。
 聞けばオーギュ用に取り寄せた物のようだが、到底彼が好んで読みそうなジャンルではないのだ。そこは敢えて突っ込まないようにしている。
 大聖堂から司聖の塔までの距離は中庭や多様な施設を通過しなければならない程長く、塔に着いたら更に螺旋階段を上らなければならない。防犯上致し方無いのだが、これではオーギュが面倒がる気持ちも分からなくは無かった。
 まだ慣れないリシェは、ぜいぜい言いながら階段を上がっている。それ程この螺旋階段はきついのだ。
 塔の入口は宮廷剣士が見張り番を交代制でこなしていた。ここの任務はとにかく何も無い時は暇で、苦行任務と呼ばれている。
 しかも厨房も近いので空腹時は気が狂いそうになると評判だ。要領の良い者は何かしらご馳走にありつけるようだが、遠慮がちな性格の剣士は本当に辛いらしい。
「よう、リシェ。お疲れ」
 ズルズルと麺を啜りながら監視役の同僚がリシェに声をかけてきた。
 この日は大変要領の良いタイプの見張り番のようで、休憩なのか仕事をしているのか分からない様子だ。
「休憩中か?」
「いいや」
 大盛のパスタを頬張り、同僚は答える。
「腹減ったからそこの厨房に頼んで食わせて貰ってんだ。ただでさえここは苦痛だし、いい匂い漂わせてるからな。汗水垂らして働いてるのに精神衛生上良くない」
 汗水垂らしてはいないと思うが。
「ほう」
「まあ、この塔の見張り番ももうすぐ無くなるらしいしな。今のうちに食っといた方がいい。退屈だけど何もしなくても良かったしな」
 口の周りにケチャップを満遍なく付けて食べる様子を、リシェは黙って見ていた。同時に空腹になっているのを自覚する。
 図書館に行く前には空腹を感じていたが、夢中になって本を探していたら忘れていた。
「無くなるのか」
「白騎士の任命があったからな。ロシュ様の側で護衛する奴が居れば、もう見張り番も必要無いだろ。ま、頑張れよリシェ」
 あんたのパスタが美味そうだから、晩ご飯はパスタにするよとリシェは彼に告げた後、螺旋階段をゆっくり上る。
 石造りの塔内は常に暗く、常に魔力の込められた石が点々と置かれていて足元を照らし続けている。
 杖などを作る際に利用する魔法石は、照明器具にもよく活用されている。その効力は数十年と長く、大切な資源として扱われていた。
 柔らかなオレンジ色を頼りに上まで上がっていくと、やがて重みのある扉に突き当たった。
 扉は重厚過ぎる鉄扉で、普段は簡単に開閉出来るようにしていた。鍵をかけるのは就寝時のみ。
 鉄扉を開ける先には赤いカーペットが敷かれた廊下が出現し、奥に向かって真っ直ぐ歩いた先にロシュの書斎兼私室。リシェの部屋は鉄扉から数歩進んだ右側に部屋の入口があった。
 木製の扉を開き、照明を点けて荷物を床に置く。疲れがドッと全身を包む中、部屋の窓を少しだけ開けて外の空気を室内に取り込んだ。
 真新しいベッドには、以前ロシュから買って貰ったクマのぬいぐるみが置かれている。
 今戻ってきた事をロシュに知らせる為、リシェは部屋を出て彼の私室の扉をノックした。
「ロシュ様、失礼致します」
「はあい」
 いつものほんわかした返事を受け、リシェは観音開き型の扉を開いた。
「リシェ、お帰りなさい!随分遅かったですね」
「すみません。帰りに図書館に寄っていたのです」
 真っ白な法衣の天使は、書斎机から腰を上げリシェの側へと駆け込む。
 まるで夫を迎える新妻のようだ。
「疲れたでしょう。先にお風呂に入りますか?」
「ロシュ様もお疲れではないですか?俺は大丈夫ですから、ロシュ様がお先に」
 ロシュの前に入るだなんて、リシェには考えられない。いくら疲れていても、自分は後でも構わなかった。
「ふふ、それなら一緒に入りますか?」
 悪戯っぽい目をしてロシュは提案した。リシェは「えっ!?」と過剰な反応をすると、次第に俯き耳まで真っ赤にしてしまう。
 クールなリシェがこんな反応をしてしまうとは。
 何と純粋なのだろう、とロシュは楽しくなる。
「ろ…ロシュさま、それ、は、さすがに」
 いきなり口調がかくかくしだした。
「おやおや…ふふ、照れ臭いですか、リシェ?同じ男性同士ではないですか?」
「ですが、恥ずかしいです」
「私は平気ですがねぇ…ほら、司祭だと無闇に人に肌を出してはいけない決まりがあるので、浴室専用のローブかありますし」
「ロシュ様はローブがあって、お体を隠せるからいいでしょうけど、俺にはありません!」
 真っ赤にしながら反論する。めちゃくちゃ本気にしてしまったようだ。
 ロシュはくすくすと笑い、動揺しながら俯くリシェの頭を撫で、冗談ですよと言った。
「私はお先に入りましたから、ご遠慮無く入って下さい。あっ、ご飯はまだでしょう?下に頼んでおきましょう。リクエストはありますか?」
 冗談だと言われて安堵しつつ、リシェは真っ直ぐな視線を投げかけてくるロシュを見上げながら「ナポリタンのパスタを…」と返した。
「分かりました、リシェ。とびきり美味しいのを注文しましょう」
 ロシュは少し意地悪を言うけれども、とても優しくしてくれる。
 側に付く事を許されてからまだ数日しか経過していないが、リシェは充実していた。今まで遠い存在で、憧れだったロシュがこんなに近く、そして共に生活出来るなんて想像すらしなかったのだ。
「ありがとうございます、ロシュ様」
「疲れをゆっくり癒してきて下さいね」
 物腰柔らかで、端正な美しい顔のロシュは優しくそう告げると、リシェの為に夕食の注文を始めた。

 城下街にある酒場通りは、連日様々な客で賑わいを見せている。軽装の旅人や、武装した剣士、一般の住民が酒を酌み交わし、笑い合う。
 日常を忘れ、ひと時の現実逃避に酔いしれ、また次の日からの糧にするのだ。
 濃いアルコールを喉に通し、魔導師のローブ姿のオーギュは久しぶりの酒にほうっと一息つく。
 喧騒を避けるように端のカウンター席に腰かけ、一緒に注文していたナッツを口にしていると、正面で酒を作っていた老齢の主人が「随分久しぶりですね」と笑った。
「そうですね。忙しくて、行きたくてもなかなか行けなくて。時間にもっと余裕が出来ればいいんですけど」
「司聖様の補佐役を兼ねてると休む間も無いでしょう」
 グラスの中のロックアイスが緩やかに回転するのを眺める。グラスとぶつかる音が心地良く感じた。
「時間を忘れちゃう時がありますね。目まぐるしくて。あの人も司聖になったらがらりと変わりましたから」
「あれだけ敵対していたのにねぇ…ロシュ様はあなたを心の奥底から認めていたんでしょう。お互い切磋琢磨してたんだからね。果ては弱いのに酒の飲み比べをするんだから」
「私があの人に勝てるのはお酒の強さ位ですよ。知識も魔法使いとしての能力も、あの人の方が上だ」
 未だに魔法や知識の能力に関しては、ロシュに敵わない。
 過去に一度のみ彼に勝つ事が出来たが、それ以降は全く勝てずにいる。ロシュは常に自分より上に居た。いつかは負かしてやろうと思うが、その機会は一体いつになるだろうか。
 主人はオーギュに酒を作ると、「どうぞ」と手渡す。目を丸くしながらまだ追加注文してないですよと不思議そうに言うと、主人は穏やかに微笑んだ。
「久しぶりに来てくれたからね。一杯サービスしますよ」
「…ありがとうございます」
 サービスして貰った酒は、少しピリッとした。
 ほろ苦い味を堪能していると、人波を掻き分けてカウンター席にどっかりと腰かける大男の姿。
「親父ー、ビール頂戴」
 オーギュはその男を目にすると、つい声を上げた。
「あ」
 浅黒い肌に真っ赤な短髪。筋肉質で、粗野な仕草の図体の大きな男。
「あ」
 彼もまたオーギュに気付き声を上げ、彼の隣に移動する。
 オーギュとしては静かに飲みたかったのに、喧しいタイプに再会してしまい顔を曇らせた。
「ほー!いっがーい!あんたもこういう所に来るんだ、オーギュ様」
「失礼な人ですね。来たくてもなかなか来れなかったんですよ」
 私服姿のラフな出で立ちでも、ヴェスカの筋肉質の体はすぐに分かる。隣に居ると暑苦しく感じた。
「おや、ヴェスカもオーギュ様とお知り合いだったのか」
 どうやらヴェスカも主人と顔馴染みのようだ。
「そうそう!こないだホームランボールぶつけちゃってさ」
 あまりにもけろっとしたヴェスカの言葉だが、あの時の痛みを思い出しオーギュは呻いた。
 こいつは本当に反省しているのだろうか。
「あれから野球のような飛びやすいボール遊びは禁止させて貰いましたよ」
「わ、悪かったよ」
 ヴェスカは冷や汗をかきながらも、受け取ったビールジョッキを片手にしつつ「とりあえず飲もうか」とオーギュに言った。
 カチン、と小さなグラスと大きなジョッキがぶつかり合う。
「これを頂いたら私は帰ります」
「っはぁああ?まだこれからでしょ、オーギュ様」
「…あなたが来る前から私長居してるんですよ」
「まだ帰るには早いよ」
「私はあなた程暇じゃないんです」
「俺だって明日早ぇえわ!」
 アストレーゼンの最高権威の一人と、民間出身のベテラン宮廷剣士の謎の組み合わせの言い合いを目の当たりにする主人は、目を細めながらまあまあと宥める。
「久しぶりだからこそ、この時間を楽しむといい。オーギュ様、たまには羽目を外してもいいと思いますよ」
 ああ…とオーギュはぐったりする。
下手すればヴェスカの介抱をしなければならない気がして、それだけは避けたいと思っていたのだが。
「分かりましたよ。少しだけなら」
「やった!」
「でもあなたが酔い潰れても、私は無視して帰りますからね」
 大丈夫大丈夫!とヘラヘラするヴェスカ。オーギュは胡散臭そうな目線を向ける。
 流石にこんなデカい男を抱えて歩きたくない。
 切に彼は思っていた。

 酒場の二階は休憩室が数部屋。
 飲み疲れた客の為に用意された場所で、基本的には寝泊まりは出来ないのだが、ただ休む分には利用を許可されていた。
 …あれから二時間超えただろうか。
 オーギュはヴェスカの重過ぎる体を支え、階段を上がり空室の部屋の扉を開けていた。
「何で先に来た私よりあなたが酔い潰れてるんですか!」
 計画性もなく飲み過ぎてしまうヴェスカに、オーギュは呆れ果てる。
 したくなかったヴェスカの介抱。このまま部屋に突っ込んで帰るつもりだが、とにかく重過ぎる。
「ええ…だってさぁ、飲んじゃうじゃん」
「身の程を知りなさいよ!」
 ヘラヘラと笑うヴェスカがとにかく癪に触る。
 飲んじゃうじゃん、とか同意を求めないで欲しい。計画的に飲まない、理性の効かない人間の思考回路など理解したくもなかった。
 簡易的なベッドに無理に放り出すと、体力の無いオーギュはその場にぺたりと座り込んではあはあと息を整える。ヴェスカが重過ぎて、無意味な体力を消耗してしまった。
「…ここまでしてあげたんだから、後は自力でどうにかしなさいよ」
「優しく、してくんねーの?オーギュ様」
「残念ながら、私はそこまで優しくしてやれません。恋人でも呼んだらどうです?」
「居ねーし。…なあ、聞いてくれる?俺、こう見えてなかなか女に困らねぇけど、大概同じ理由でフラれるんだよ。何だか分かる?」
 いきなり何を聞き出すのか。
 オーギュには意味が分からなかった。聞いたとしても、到底分かち合える気も無い。
「知りませんよ…」
 安っぽいパイプ式のベッドに横になるヴェスカは、相変わらずヘラヘラしながら答えた。
「イッてもすぐに勃つからしんどいんだってよ」
「凄くどうでもいい情報ですね」
 オーギュは興味無さげにヴェスカを突き放した。同じ男相手にそんな話をして一体何になるのか。あまりにも品の無い話をする男だと思った。
 モテ自慢なんぞ聞きたくも無い。
 呼吸を整えていると、不意に隣の部屋から変な声が聞こえるのに気がつく。
「……?」
 激しい息遣いに、重なるような喘ぎ。
 軋むベッドの音。
 まさかと知った瞬間、オーギュは恥ずかしさに顔が熱くなった。逆に慣れているのか、ヴェスカはけろっとしている。
「ほー、よくやるなあ。お盛んな事で」
「あっ…有り得ない」
「別に珍しくもないだろ」
 珍しくもない、と言って退けるあたり、彼もまた経験者なのだろう。ざわざわと嫌悪感が湧き上がる。
「ここは休憩室でしょうが!私は帰りますよ、後はあなたがご自分でどうにかしなさい!」
「えぇ…帰んの?介抱してくんねーの?」
「何で私が!ここまでしてあげたんだからむしろ感謝するべきじゃないですか」
 立ち上がり、ベッドに横になっているヴェスカを残し部屋を出ようと彼に背を向けた。
 だが、ぐぐっと後ろに体が引っ張られてしまう。
 振り返ると、法衣のベルトにごついヴェスカの手が伸びていた。前に進もうとするが彼の強い力がそうさせてくれない。
 心底嫌そうな顔をするオーギュ。 
「帰んなよ!」
「何なんですかあんたは!」
 大の男が寂しがる様子など、オーギュにしてみれば暑苦しくて見たくもない。どうにかしてベルトを離して貰わないと、と彼の手を引き剥がそうとしたその時、物凄い力で体が引っぱられた。
 うああ!と情けない声と同時に、ヴェスカが横になるベッドに倒される。
「このっ…」
 野蛮人!と罵倒しようと口を開きかけたが、覆い被さってくる重みで声が出ない。
「何をするんですかっ…重いっ」
「だって帰るって言うからさあ」
 寂しくなるじゃん、と拗ねた口調で言う。
 隣ではひたすら喘ぎ声が聞こえてくる。聞きたくなくて、オーギュは首を振った。
「変に感化されたんでしょうが、残念ながら私は男なのでお相手出来ませんよ、ヴェスカ」
「相手して欲しかったの?俺はただ帰んなって言っただけだよ」
 ヤリたいなんてひとっことも言ってねえじゃん、と無邪気に笑う。
 揚げ足を取るヴェスカを、忌々しげに見上げた。
 身動き取れず、ずれた眼鏡のままのオーギュは羞恥で顔を赤くしたままヴェスカの下でもがいていると、彼は子供のような顔で言う。
「おおっ、何だろ。凄く爽快な気分」
「な、何がですか」
「いや、ほら。お偉いさんをこうして下にしてるのを見ると何ての?征服してるみたいでさ。ゾクゾクしてくる」
 その言動に、無駄にプライドの高いオーギュはカッとなった。こんな粗暴な男の下に居たくないと腹の底から思い、さっさと帰らなければと苛立つ。
 離しなさい!とひたすら抵抗を繰り返した。
「まだ見てたいからだーめ」
 酒のせいもあってか、酔いが回り更に疲れてきた。初めは勢いがあった抵抗も、次第に弱くなる。その様子を見下ろしているヴェスカは、「可愛い」と耳元で囁いた。
 ぞくりと体が震えてくる。
「ふざけっ…ふざけるなっ」
「普段ツンツンしてるけど、案外綺麗な顔してんのね。眼鏡取ってみよっかな」
 ズレた眼鏡を寄せ、邪魔にならない場所に置く。
苦しくて呻くオーギュを見下ろしたまま、ヴェスカは感嘆の声を漏らした。
「いいねえ」
「もうっ…離しなさ…」
 真っ白なシーツの上で乱れる黒髪と、キツい目付きと称される切れ長の目、端正な顔を羞恥と屈辱で歪ませるオーギュをまじまじと見下ろしていると、ヴェスカの中で何かが目覚めそうになった。
 あの司聖補佐役で、魔導師のエリートと言われる人間をこうして無理矢理押し倒している、という事にやや興奮しそうになる。
「痛っ…ヴェスカ、手首痛いっ」
「ああ、ごめん。いい眺めだからつい」
「帰らせて下さい」
 抵抗に疲れ、オーギュはヴェスカからの視線を避けるように顔を反らして訴える。
「やだっつったら?」
 やけに色気のあるオーギュをこのまま見逃してたまるかとヴェスカは悪戯心を起こしていた。このお偉いさんの痴態を拝んでみたくなったのだ。
 別に弱味を握りたい訳ではない。単に興味を持っただけ。
「隣、気になるだろ」
 優しく耳元で囁いてみた。出来るだけ甘く。
 オーギュはぎゅっと目を閉じ、ぶんぶんと首を振る。
「嘘つけ」
 やたらと優しい声に、ぴくりと身を震わせた。
 すぐ近くにヴェスカを感じ、オーギュはよく分からない危機感を覚える。このまま彼に主導権を握られるのは癪だった。
 どうにかして離れて貰わないと…と身動ぎしていた彼の首筋にヴェスカの指が触れてきた。
「ひ…っ!!」
 ゾクゾクッ!と全身が強張る。はあっと吐息を漏らしながら、オーギュは憎々し気に相手を睨んだ。
「おっ…ほ、凄い反応。なあ、オーギュ様。あんた実はめちゃくちゃドMなんじゃね」
「はあ!?馬鹿にするのもいい加減にっ…!」
 言いかけたオーギュの首筋に、またするりと指を触れてやると、彼は悲鳴を上げた。
「はあっ…やっ、やめなさ」
 慣れぬ感触に体が勝手に震え、オーギュは戸惑いながら呻いた。
「首筋に指走らせただけなのに、まさか全身感じてんの?」
 そんな訳あるか、と反論しようと口を開く。
 だがヴェスカの指は、彼の法衣の中を探り始めていた。
「ちょっと!何をするんですかっ」
「少し可愛がってやろっかなあって」
「結構です!!やめなさい、やめろってば!!」
 ぐいぐいと押し気味のヴェスカの手を掴み、離そうと試みる。だが屈強な彼の腕と、鍛錬しないオーギュの力では差があり過ぎてほぼ効き目が無い。
「ふっ…あ!く、くふっ」
 隣の部屋の秘め事の音が気になってくる。自分らも、何故こんな事をしているのだろう。
「どうよ?気持ちいい?」
 法衣の下のシャツを開いて更に悪戯をしつつ、オーギュに優しく囁くと、触れる度にびくびくと反応を見せてくる。
 首を振って侵入してくる腕を引き剥がそうとするオーギュは、声を出さないようにもう一方の手で口を押さえていた。それがまたヴェスカには刺激的に見え、ぞわぞわと欲が増してしまう。
 ふ…と押さえた手から吐息を漏らし、体を少しだけくねらせながらもオーギュは意地を張って反論した。
「気持ち…悪いっ」
「素直じゃねえなあ」
 そう言うなり、彼は服の中にある胸元の出っ張った部分をきつく抓る。小さく尖るそれは、ヴェスカの指にしっかりと掴まれていた。
 意地っ張りなタイプは、素直に体に聞くしかない。
「…ひいっ!!?」
 初めて口から突いた声に、オーギュは自分でも驚いた。抓られた場所から、まるで電流を流されたかのように全身を甘い感覚が走っていく。
 甘く痺れ、下腹が熱くなるのを感じた。きゅうっと強張り、張り詰めていく。はあっ、と吐息が唇から漏れた。
 しばらく欲求を発散させていないせいで、久々の感触に狂いそうになる。それなのに、ヴェスカの指は軽く優しく、意地悪く捏ねてきた。
 このままでは、自分が自分でなくなっていきそうで怖い。
「ヴェスカ、やめて下さい!」
 必死の懇願を受け、ヴェスカは捏ねた指を止めた。
「あ?やめちゃうの?いいとこなのに?」
「もう嫌です、嫌だ、離して下さい!」
 しきりに首を振り拒む。それを見たヴェスカは、なあんだとがっかりした。
「めちゃくちゃ可愛い反応だったよ、今の。…ま、仕方ないか。あんま苛めちゃ気の毒だし…なっ!」
 再び同じ場所を抓られてしまう。
 先程よりも、強く。途端に襲いかかるあの甘い感覚。
「あ…っ、やあっ、ああ…っ!!」
 オーギュはまた声にならない声を上げた。そして体をぴくぴくと仰け反らせた後、間を置いてヴェスカにしがみついてきた。
「あっ…あああ…っ…う、嘘…なん、で」
 強気なオーギュが脱力した声を漏らす。
 ヴェスカは「ん?」と彼を見下ろした。彼は全身を強張らせ、呼吸を荒くして今にも泣き出しそうな顔をしている。
「何だよ、オーギュ様?」
「み、見ないで…下を見るな!!馬鹿!!」
 その言葉で、ヴェスカは察した。同時に、まずったなと思ってしまう。軽く悪戯する程度のつもりだったのに。
 二度目の悪戯で、まさか彼が射精するとは思わなかったのだ。どれだけ敏感な体なのだろう。オーギュにしても、これ程恥ずかしい事は無い。
 しかも、胸しか触っていない。そして脱がせてもいないのだ。
「ご、ごめんオーギュ様!シャワー室あるからさ、どうにかなるって!」
「うるさい!!」
 凄まじい勢いで怒鳴り、ヴェスカを押し退ける。幸い法衣で下半身は隠れるのでバレたりはしないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「シャワー室どこですか!」
「そ、そっち」
 起き上がり、ヴェスカを一瞥すると彼は舌打ちしてシャワー室へ入っていった。

 …やっばいなあ…まずい事になった。
 シャワーの音を耳にしながらヴェスカはベッドの上で頭を抱える。
 責められている時のオーギュの顔がヴェスカには酷く官能的に見えてしまい、つい意地悪をしたくなったのだ。
 まさかあんなに簡単に達するとは思わなかった。
 それとも溜まりに溜まっていたのかと。
 痴態どころの話ではない。オーギュにしては失態だろう。
 さて、どう謝ろうか…と思っていると、シャワーの音が止まり再びオーギュが姿を見せる。完全に怒っているのが丸わかりだ。
 ヴェスカは「だ、大丈夫?」と恐る恐る問う。
「大丈夫だと思いますか」
「いや、その」
「私が魔導師で良かったですよ。服をすぐに洗って乾かせられますからね。そうじゃなかったら、誰かさんのせいでみっともない状態のまま帰らなきゃならなかった。だ、れ、か、さ、ん、のせいで!!」
 完全にキレていた。
 オーギュは冷静さを無くしたままベッドの隅に置いてある眼鏡をひったくると、いつものように掛け直す。
恥じらいをひた隠しにするには、怒り狂わないとやっていられないのだろう。
「すみません、マジで。まさかすぐにいくとは思わなかったんだ。感度良すぎだよオーギュ様。もしかして溜めまくってた?」
 ヴェスカの謝った感の無い言葉に、オーギュは顔を真っ赤にした。
「反省してるのか馬鹿にしてるのかどっちなんですか!?私はあれだけやめてくれって言ったにも関わらず悪戯してくるから、あ、あんな事になったんじゃないですか!」
「いやほら、すっきりしただろ?この事は誰にも言わないでおくからさあ…」
「…当たり前じゃないですか!!もし誰かに言いふらしたら殺しますからね!!」
 自分の失態を目の当たりにしたヴェスカの顔をまともに見れない。オーギュは彼の側から一刻も早く消えたくて、部屋の出口に向かう。
「オーギュ様、帰るの?」
「帰るんですよ!見送りは結構です、あなたの顔なんか見たくない!」
 酷く嫌われたものだ。
 ヴェスカは傷付くなあと苦笑いする。
「オーギュ様ー」
「うるさい!」
 ベッドにあぐらをかいたままヴェスカは、オーギュに対して少年のような無邪気な顔をしてにっこり笑った。
「溜まったらいつでも抜いてやるよ。オーギュ様綺麗だし、もう遠慮する事無いだろ?恥ずかしがってる顔、凄げぇ良かったよ」
 こいつ、絶対反省していない。
 むしろ楽しんでいる。
 顔を引きつらせ、オーギュは返事をせずに部屋を出ると、勢い良く扉をバン!と閉めた。
 一方で、ヴェスカはオーギュが何故か可愛く見えてしまい、笑い声を漏らす。泣きそうな顔をしながら怒るとか、かなり恥ずかしかっただろう。
 おかげで酔いも覚めてきた。
 とりあえずオーギュの痴態を思い出しながら、自分も抜いて帰ろうかな、と下品なヴェスカは思った。

 次の日は公休で、リシェはクマのぬいぐるみを抱き締めながら昼近くまで寝入っていた。
 寝転がると、柔らかなクマの手がリシェの頭にぺしんと当たる。しかしリシェは全く気付かずに、静かな寝息をたてていた。
 しばらくして、階下からドタドタとけたたましい足音。だが彼はそのまま夢の世界に居た。
 やがてロシュの制止の声と同時に、部屋の扉の外から騒音が発生する。
 ドンドンとヒステリックな音が、部屋中に響いた。
「もう昼近けーんだから起きろよ!おーい!!」
 激しいノック音。
 リシェはようやく目を開けると、ゆっくり体を起こす。ぼんやりした頭を振り、目覚めの一発の騒音に眉を寄せた。
「誰?」
 ベッドから降り、寝巻姿のまま扉を開いた。
 眼前に見知らぬ金髪の少年。リシェは首を傾げる。
「何だお前」
「お前こそ何だよ?こっちは来客だぞ、来客ー」
「……」
 困ったように眉間に皺を寄せていると、ロシュがすかさず謝ってきた。
「ごめんなさいねリシェ。彼らは私の昔からの知り合いなんですよ」
「ロシュ様」
 そんな彼の背後にも、目の前の金髪の少年によく似た別の少年が貼りついていた。訳が分からず、「二人?」と問う。
「お前がその部屋に住む前は、元々俺らが遊びに来た時に使ってたんだよ。お前が居るせいで俺達が違う所で寝る羽目になったじゃねーか」
「そんな事知るか」
「ほら、ルイユ。リシェは今日お仕事はお休みなのです。ゆっくりさせてあげて下さい」
 生意気そうな顔の少年は、リシェを上から下からじろじろと見回した後、はっきりした口調で言った。
「うーわ弱そう。今まで無いくらいに弱そう」
 それまで頭が回らなかったリシェは、それで一気に目を覚ました。
「何だと!!」
「ロシュ様、なぁんでこいつ選んだんだよー」
白騎士の選出に彼は文句を言いたいだけなのか。
 こんな子供が一体何を知っているだろう。リシェは苛々しながら黙した。
「リシェはとても強いですよ。私が保証します。彼の能力はちゃんと目の当たりにしてますからね」
「こんな女みたいなのがあ?」
「俺に文句つけるためにお前はわざわざ起こしに来たのか?」
 不愉快な事ばかり言ってくる来客に、リシェは次第に感情を露わにする。
 それを知ってか知らずか、全く悪びれない彼はやっとロシュ様が選んだ騎士を見たかったのにさ、と前置きした上で続けた。
「俺的にはガチムチでパンツ一丁の壁みてーなの期待してたんだよ。肩車とか余裕だろ?なのにさー、出てきたのは俺と身長変わんない貧弱そうな奴じゃん。年だって同じ位だろー?」
 悪かったなとリシェは呟く。
「これで分かっただろ。俺は眠いんだ、帰れ」
「来客に帰れっての?」
「こら!ルイユ、もうおやめなさい。さあ、お部屋に戻りますよ!リシェ、ごめんなさいね。ちゃんと注意しておきますから」
 痺れを切らし、ロシュは少年の腕を引っ張る。もう一人の似た少年は、やけにませた様子で「ごめんねぇ」とリシェに微笑む。
「ルイユったらすっごく口が悪いの」
「だろうな」
 反射的にリシェは返事をする。
「誰に向かって口聞いてんだバーカ!」
「ルイユ!いい加減にしなさい!」
 厳しい口調で注意すると、ルイユを強制的に引きずりロシュは自室へと戻っていった。リシェはその様子を見送った後、深い溜息をつく。
 …何だあいつ。
 まだ眠気がぬけずにあくびをすると、部屋の扉を閉めた。ぺたぺたと裸足で再びベッドへ戻り、ぬいぐるみを抱きしめながら瞼を伏せる。
 もう少し寝てよう。
 そう思う前に、彼は寝息を立て始めていた。

 少し苛々しつつも、自室へ戻ったロシュは来客の少年達に懇々とリシェへの態度をきちんとしなさいと説明をしていた。
 上質なソファにだらしなく腰をかける強気な少年、ルイユは口を尖らせながら「だってさ」と口答えを始める。
「これからこっちに来る度に、あいつが居るんだろ?ロシュ様を独り占めする気なんだ、民間人の癖に。だったら俺が白騎士になりたかった」
 向かい合って小さなソファに腰をかけていたロシュは、気力を失うような声を漏らす。昔からの馴染みだが、よくここまで元気なものだと感心した。
 齢十四辺りならそろそろ落ち着いてもいい頃なのではないだろうか。
 そして、自分にべったり貼り付いたままのルイユの双子の弟、ルシルも。
「ロシュ様を独り占めなんてずるいよねぇ」
「ルシル…あなたも私から少し離れなさい」
 首に腕を巻きつかせ甘える彼もまた、難しい性質をしていた。子供らしいルイユとは全く違い、彼はとにかくませている。
 興味のある勉強はと問えば、性教育と即答し周囲を混乱させる位。
「やぁだ!ロシュ様にキスマーク付けたいのー」
「駄目です」
 首元に顔を寄せてくるルシルを、ロシュはぴしゃりとはねのけた。
 双子とはいえ、タイプが違うのですぐに見分けがつく。ルイユは短い髪をトゲトゲに少し立てたヘアースタイルで、ルシルはふんわりと波打った、緩やかな髪質。
 見比べるのが難しそうな双子だが、性格と雰囲気、そして髪型も違うので判別は楽だ。
「私が選んだんですから、いくらあなた方がどう思おうとリシェへの文句は許しませんよ」
「ね、ロシュ様ぁ。じゃああの子とどこまで進んだの?エッチした?ねぇねぇ」
「してませんよ、もう!」
 ルイユも活発過ぎるが、このルシルもなかなかのくせ者だった。色気のある目線で変な話ばかり持ち掛けてくる。
 その愛くるしい顔で言いだすので、人によっては変な誤解をされそうだ。
「ふぅん…そうなんだぁ」
 なあんだ、とつまらなそうに呟くルシル。何を期待していたのだろうかとげんなりする所で、階下から暴風が巻き上がった。
 その正体をあらかじめ知っている二人は、ぱあっと表情を明るくする。
「オーギュー!!」
 薄手の白いカーテンの奥から長身の青年がいつものように部屋へ足を踏み入れると、久方ぶりに目にする双子に「おや」と声を上げた。
「いらっしゃっていたんですね」
 ロシュに絡みついていたルシルは、真っ先にオーギュに駆け寄り腰元に抱きつくと、オーギュは甘え上手な彼のふわふわした頭を撫でた。
「久しぶりぃ、オーギュ。相変わらずイケメンだね、うふふ」
「あなたもお変わりありませんね、ルシル」
 人が寄り付かない雰囲気を見せるオーギュに対して、このように抱き着いて甘える芸当が出来るのはルシル位だろう。
 ロシュは「おはようございます、オーギュ」といつものように微笑む。
「朝から賑やかですね」
「元気なのはいい事です。まあ…元気過ぎるのもあれなんですけど…そうだ、ルイユ。クラウス殿はどちらへ?」
 ロシュは二人の世話役の名前を出してルイユに問う。この二人をまとめるにはかなりの労力が必要だろうが、その世話役のクラウスには良く懐いているらしい。
 今まで特徴のありすぎる双子によって世話役をかって出た者達はあまりの横暴さに泣かされ、固定した適任者は居なかった。
 だが数年前に採用された世話役の青年には、二人の度を越した悪戯は効き目が無かったらしく、逆に手荒く反撃されてしまったようだ。
 あまりの世話役の離職っぷりに困り果てていた双子の親のランベール氏に対し、「今までは甘過ぎたんでしょうが、私は遠慮なくやられたら息子さん達をぶん殴りますけど構いませんか?」と所見で言い放つ程、現在の世話役のクラウスは度胸があった。
 原因は両親と周囲の甘やかしだと断言し、殴ってくるルイユには怪我をしない程度のビンタ、色目を使ってくるルシルには徹底したスルーを決め込み、それではまともな大人にはなりませんと厳しく接してきた。
 しかしその影で、彼らが困った際にはしっかり助言や手助けを怠らない。
 厳しくも優しいクラウスを二人が信頼を寄せるのはそう時間も掛からなかった。
「んー、まだ寝てるのかなあ。俺ら早く起き過ぎちゃったしな」
「昨日いっぱい城下街で遊んだからねえ」
 要するに連れ回してきたという事か。
 ロシュとオーギュはお互い顔を見合わせた。
「クラウス殿はまだお若いんでしたっけ?」
「私らとそれ程変わりませんよ。まだ二十六、七位じゃないですか?」
「まあ…この子達に合わせて回るのも大変でしょうし…」
 これだけ元気だと疲れも半端ないだろう。
「ゆっくり休んで貰って、懇親会では沢山美味しい物を食べて貰いましょうか。その前に」
 ロシュはソファから立ち上がると、昔馴染みの双子達にいつもの優しい口調で声をかける。
「朝一番で来てくれましたからご飯、まだでしょう?」
 ぱあっと二人は目を輝かせ、無邪気な笑顔で「まだ!」と同時に叫んだ。

 注文していた新書を次々と館内に詰め込む作業をしていたアストレーゼン図書館司書のカティルは、久しぶりの来客におや、と表情をぱっと変えた。
 紺色のスーツに身を包む目鼻立ちのはっきりした青年は、カティルの声に気付き静かに頭を下げる。
 やり手の教師を思わせるその青年は、いつ不審な輩が襲ってきても対応出来るよう腰に革の鞭や伸縮性のロッドを身に着けていて、少し物々しい雰囲気を醸し出していた。
「やあ、クラウス殿!久しぶりだねえ」
「カティル様」
 青年…クラウスはスッと頭を下げる。
 その些細な体の動きも、洗練されている為かやけに美しく見えた。
「クラウス殿が来ているって事は、子供達も来てるって事だね。ああ、そういえば懇親会があるんだったかな?」
「ええ。ランベール様の代理でこちらに」
「賑やかになるねぇ。…おっと」
 カティルが両手に抱えていた新書の一部が、クラウスの前に落下してしまった。
 真新しい本を拾い上げ、クラウスはふっと微笑む。
「いやあ、すまないねぇ」
「魅力的な本を探しに来たんですが、また前回より増えましたね」
「ええ、ええ。お陰様でお客さんが増えたりしてねぇ。とてもいい事ですよ。読書は想像力を高めてくれる。ジャンル問わず、書物は知識も増やしてくれますからね、うふふ」
 図書館内の窓は普通の窓に加えステンドグラスも嵌め込まれてあり、満遍なく暖かな色味の光が入り込んでくる。
 湿気や乾燥しないように温度の調節も抜かりないので、常に心地良い空気が流れ込んでいた。来客もその居心地の良さの為に、勉強道具を持ち込んでは学問に励んでいるようだ。
「クラウス殿の好きな愚息紳士シリーズもありますよ」
「良かった。続きを読みたくて堪らなかったんですが、新刊は入っていますか?」
「勿論ですとも!見る度に展開にドキドキしてしまう。紳士が縄でギッチリと筋肉男を縛り付ける所なんかもうね。自分もしっかりと局部に縄を縛ってしまうからどうなるものかと」
「気弱な紳士ががらりと変化するから堪りませんよ。基本はMなはずが恐る恐るSになる所がまた…」
顔に似合わずとにかく酷い会話をしているが、嬉々として語り合う辺り似た者同士のようだ。
 要望の本をカティルから受け取ると、クールな顔をしていたクラウスは少しだけ恍惚とした表情を見せる。
「ああ、良かった。楽しみにしていたのです」
「私は読んでしまったのでネタバレはしないでおきましょう。今回もまたいい。肉欲と愛憎が入り混じる話は滾るものがありますよぉ。ぜひ私も試してみたいものだ、オーギュにね」
「ふむ…カティル様はオーギュ様がお気に入りなんですね」
「それがアプローチしても全く効き目が無くてねぇ。物凄くキレられて殴られたり。照れ臭いのかな?あはははは」
 全力で拒否されている事に、本人は全く気付いていないらしい。
 彼が冗談で言っているのか本気なのか、クラウスには判別も付かないが、社交辞令としてとりあえず一緒に笑っておいた。

 存分に睡眠を取ったリシェがロシュの部屋に足を踏み入れると、まだ例の双子の姿があった。
「やっと起きたな白騎士のチビ」
 性懲りもなくルイユが減らず口を叩く。
 リシェはムッとしながら「お前も同じ位じゃないか」と反論した。
「俺はそのうち伸びるんだからな」
「俺だってお前より伸びるよ」
「俺は毎日牛乳飲んでるんだよ」
「は、毎日牛乳飲んでそれかよ」
 カチンとするリシェは、ルイユに今に見てろよと苛立ちながら言った。
 同じレベルの言い争いを見ていたロシュ達は、笑い出したくなるのを必死に堪える。
 リシェと双子は同じ位の背丈だが、まだ少しリシェの方が高く見える。身長を伸ばす為に牛乳を毎日飲んでいるという事は、リシェはかなり気にしているようだ。
「おはようございます、リシェ」
「おはようございますロシュ様、オーギュ様」
リシェはロシュと、仕事をしていたオーギュに挨拶をした。
 おはようと言うには少し遅すぎる時間だが。
「おはようございます、リシェ。私を呼ぶ時は別に様を付けなくても構いませんよ」
「…言いにくいです」
「これからは長い付き合いで、お互い対等の方がやりやすいでしょう?それに私は面倒なのは嫌いです」
 彼は柔和な表情でリシェに告げた。最初は言いにくいでしょうがすぐに慣れますからと気にしない様子だ。
「僕もルシルって呼んでね、リシェ。ルシル=クラリス=ランベールっていうの」
「あ…ああ、よろしく」
 ふんわりした方の双子はまだ話せるタイプのようだ。やけに色気のある微笑み方をするのが気になるが。
「ほら、ルイユもきちんとご挨拶なさい」
 ツンとする兄は、ロシュに促され渋々自己紹介をする。
「ルイユ=クラリス=ランベール。言っとくけど、俺はお前が白騎士だって認めた訳じゃねーからな。こんなガキみたいなのがロシュ様を守れるもんか」
 膨れっ面のルイユを、ロシュが窘めた。
「一言多いですよ、ルイユ!もう、仕方ない子ですね」
 こいつはどうしようもないと理解したリシェは、溜息混じりに自分の名前を告げると、ルイユは何歳だよと問う。
「十六」
「は?」
 仏頂面でリシェは続ける。
「十六」
 ふっとオーギュが微笑んだ。
「リシェの方が年上ですね。二人は十四歳ですから」
 不服そうにルイユはリシェをじろじろと見る。
「これが俺らより年上ぇ?」
「何でやたら上に立とうとするんだ」
 謎の闘争心を湧かせるルイユ。
 逆に冷静なリシェ。
「頼りなさそうだもん」
「勝手にそう思えばいい」
 同じ事を何回言う気だとうんざりするリシェは、ルイユから離れた。
「リシェ、お腹空いたでしょう?」
「まだ平気です、ロシュ様。起きたばかりだし…空いたら、自分でどうにかします」
「ありゃ…遠慮しなくていいんですよ」
 ロシュの申し出を、リシェは首を振って大丈夫だと微笑んだ。
 彼は兵舎内では滅多に笑顔を見せたりはしないタイプだった。敬愛するロシュだからこそ引き出せる表情なのだろう。
「リシェ」
 ルシルにべたべたと貼り付かれているオーギュが口を開いた。とにかくルシルは他人にくっつくのが好きなようだ。
「?」
「明日、アストレーゼン界隈の貴族や大商人などの貴賓を集めた懇親会の予定です。まあ、そこまで大規模なパーティでは無いので意気込まなくても大丈夫ですが…そこでロシュ様の警護をお願いします」
「はい」
 白騎士を命じられてからの初任務という事になる。
来賓達の手前で、指名してくれたロシュの面目を潰したりしないようにしなければ。
 ルイユは「出来るのかぁ?」と茶々を入れてくるが、出来るよと強気な返事を返す。
「お、言ったな」
「お前みたいな素人には務まらないからな」
 ツンとした新しいロシュの騎士に、ルイユは本当に生意気な奴だとむっとした。
 そうなれば、剣士長に連絡しに行かなければならない。どちらにしろ、こちらからの依頼が無ければ宮廷剣士としての警備に付くだろう。
班の欠員補充の事もあるだろうから、早めに知らせた方が良さそうだ。
「ロシュ様」
「はい、リシェ?」
「士長に連絡しに行ってもいいですか?明日、何もなければ懇親会の警護任務に着くと思ってたから…俺が抜けたら班の欠員の補充もしなきゃならないだろうし、早めに手配して貰った方がいいと思って」
 ロシュはきょとんとした顔をしたが、すぐにふんわりした笑みを浮かべた。
 彼はとにかく無駄に外見が良すぎるせいで、周囲の人間を魅了してしまう。
 昔から知っているオーギュにしてみれば、成人男性で中性的なその容姿に皆騙されているようにしか見えないようだ。
「ええ、ええ!構いませんよ」
「ありがとうございます」
 許可を得たリシェは、ロシュに頭を下げるとすぐに室内から去っていった。
 窓から入ってくる心地良い風を受けながら、ルイユは何だよと不満そうに呟く。
「いい子ちゃんぶってんじゃねーよ」
「やけにリシェに噛み付きますねぇ、ルイユ…」
 無意味な事はやめて欲しいのだが、彼はそうもいかない様子だ。
「だって俺がなりたかったんだもん」
「大切な知り合いの息子さんに、そんな簡単に危険な役割を与えられませんよ。私達がランベール殿に怒られてしまいます。護衛は怪我や死を覚悟しなければならないのです。あなたには無茶な事をして欲しくありません」
 ぶーぶーと文句を言うルイユに対しオーギュが最もらしい説明をすると、上手いこと言うよなあと溜息をついた。
 再び柔らかなソファにぼすんと座り、「まあいいや」とようやく理解したようだ。
 …どうせ大人になれば俺が強くなるし。
 全く根拠のない自信で、ルイユは一人で納得していた。

 螺旋階段を下り、リシェは兵舎へ向かう。
 大聖堂は相変わらず吹き抜けの天井から日の光が差し込み、暖かく落ち着いた様子だった。
 散歩に立ち寄った一般人や司祭の見習い、武装した旅人など多岐にわたる人種が賑やかさに彩りを添えている。
 それらを目に写しながら、風によって土埃が付着した階段を駆け下り、いつも通う兵舎の道を辿った。
 兵舎は大聖堂の石段を数十段降りた右側に存在し、練習場や休憩所、武器庫等の倉庫、更には事務所などの施設がある。
 以前剣技会が行われた屋外のグラウンド型練習場は石段から左手に位置し、ごく稀に剣士らが野球で遊んだりしていた。しかし、最近何が原因か分からないが飛びやすいボールを使った遊びは全面禁止されたらしい。
 だが上から禁止されても、娯楽らしい娯楽があまり無いのでそれをしっかり守る者は少ないだろう。
 石畳に足音を響かせて真っ直ぐ兵舎の中の事務所へ向かう。
 いつもの汗と土の混じった匂いを感じつつ、兵舎の古びた扉を開けると、汗だくの数人の剣士達が短い休憩を取っていた。
「おう、白騎士様。兵舎が恋しくなったか?」
からかう口調で、低く野太い声が飛んで来た。リシェは眉を寄せ、違うと返す。
「士長に用事があるんだ」
「事務所に居るぞ。さっき俺らと行動してたからな」
「そうか」
 宮廷剣士を取り纏める剣士長のゼルエは、剣士の任務に帯同して付いて回るのでなかなか顔を合わせる事が無かったが、リシェが白騎士になる前は、剣士用の宿舎において同じ部屋を利用していた。
 少女のような容貌のリシェが同じ部屋になると、間違いを起こそうとする剣士が多く、仕方無しの苦肉の策のようなものだった。
 だが、ゼルエの士長としての任務はほとんど遠征中心で、あまり部屋に居る事が無かった。
 たまに二人で居る時は、よく彼の作る料理を口にして、慣れない剣士生活に温かさを与え、暇があれば剣技の稽古をして貰っていた。
 ゼルエはリシェの身の上話を良く知った上で、アストレーゼンで宮廷剣士を希望した彼の面倒を見てくれている頼もしい存在だ。
 事務所の扉をノックした後で建て付けの悪いスライド式の扉を開く。ガタガタと音を立てつつ、リシェは室内へ足を踏み入れた。
「失礼します」
「ん…?ああ、リシェ。どうした?」
 事務所の中は、入口手前の黒板に予定表を書き混んでいたゼルエのみだった。黒くトゲトゲの短髪の、筋肉質の体を剣士用の制服でガッチリ固める頼もしい剣士長は、リシェの姿を見るなり作業していた手を止めてリシェに向き直る。
 胸元には多数の勲章が付けられていて、過去に何度も手柄を貰っていたのを物語っていたが、本人は邪魔で邪魔で仕方無いらしい。
 賜った手前、着けない訳にはいかないようだ。
「どうだ、白騎士としての生活は?ロシュ様に良くして貰っているか?」
「はい。まだ、なかなか慣れないけど…」
「そうか。良かった、お前の信頼するロシュ様と一緒なら特別心配は無い。こっちは少し寂しい気もするけどな。…それはそうとして、どうした?何か困った事でもあるのか?」
 ヴェスカよりも年上のゼルエは、本気でこちらを心配してくる。
 リシェは彼を見上げ、「次の大聖堂の懇親会の予定なんですが」と話を切り出した。
「ロシュ様の護衛を、と補佐役のオーギュ様から頼まれたのです」
「ああ、その事か。第二班と第三班が懇親会の警備に着く予定だ。お前の空きは…そうだな、今回入ってきた新人に任せておこう。…リシェ、お前と同じ出身地の新人が入って来たんだが、さすがに顔見知りではあるまいな?」
「え?」
 丸く大きな目をゼルエに向ける。
彼は自分のデスクの上にあった新人剣士の一覧表を探し、「ああ、あった」と呟くとその新人の名を口にする。
 それは、リシェにとってあまり耳にしたくない名前。聞いた瞬間、小柄な体が強張ってしまった。
「…士長…いま、何て?」
「ウィスティーレ=ライ=エルシェンダ。隣のシャンクレイス出身で、ちょっとした貴族の息子だそうだ」
喉が緊張で一気に乾いた。
 忘れようとしているのに、何故また忘れたい記憶の断片がここで現れるのか。
 動揺するリシェを、ゼルエは不審に感じて彼の目線に合わせ屈むと、彼の肩に触れた。
「リシェ?」
「あ…」
「知り合いか?」
「俺の、従兄弟です」
「ウィスティーレが?」
「はい」
 ゼルエは分かったと彼の頭を撫でると、「お前はしばらくロシュ様にお仕えしろ」と告げる。
「お前の宮廷剣士の任務はしばらく外す。向こうはまだ見習いの立場だから、本任務は任せない。第二班への編入は避けておくが、今回はお前の穴埋めとして臨時で追加させて、お前とは顔を合わせないように手配しておくから」
「ありがとうございます。でも、いずれ顔を合わせるから大丈夫です。向こうも俺に会いたくないだろうし」
 事情を良く知るゼルエは、隣国からやってきたリシェに気を配ってくれる。ありがたい思っているが、かえって申し訳無い気持ちがあった。
 頭を下げ、「ありがとうございます」と礼を告げる。
「お前はロシュ様の側に居ろ。まだ慣れない事もあるだろうし、お前の手を借りたい時はこちらからオーギュ様に伝えるようにするから」
 低く、穏やかな声は動揺していた心を落ち着かせてくる。
「はい。そうします」
 宮廷剣士の任務から少し遠ざかるのは寂しさを感じるが、まだ自分はロシュの騎士としては未熟だ。知らぬうちにアストレーゼンに来ていた従兄弟から避ける為にも、大人しく今出来る事をしなければ。
困った事があればすぐに言えと、頼もしい言葉と共にゼルエは微笑んだ。

 司聖の塔でロシュと共に仕事をこなしていたオーギュは、目の前にある作業を片付けながらさて…と一息つく。
「ロシュ様、これからちょっと懇親会の概要をゼルエ殿に渡して来ますので、席を外しますよ」
 ファイルに綴じられた書類を手にすっくと立ち上がり、彼は書斎机に向かうロシュに告げた。
 やや疲れ目になっていた彼は、両目の瞼を指で押さえマッサージしながら「はあい」と返す。
「オーギュ、どこ行くの?」
「宮廷剣士の兵舎ですよ。会場と、ご来賓がどのように動くかを把握して頂く為には良く知って貰わないとね。安全を確保しないと」
 本音はあまり行きたくないのだが。
 行けば、あの胸糞悪いヴェスカに遭遇してしまうかもしれない。あんな恥ずかしい経験は真っ平だ。
 いくらそっちがご無沙汰でも、胸だけで達してしまうとか、自分が本当に情けなくて嫌になる。
かといって、ロシュに行かせる訳にもいかない。彼に行かせると、頼んでもいないのに必ず寄り道をする。遠征で共に同行する度に何度も予定の無い道へ進もうとする事もしばしば。
 無駄にストレスを貯めるより、自分が動いた方が早い。
「兵舎に行くのか!?いいな、俺も行きたい!」
 剣士に憧れを抱いているルイユは、身を乗り出して声を上げた。オーギュはふっと微笑むと、わざと「リシェとご一緒に行けば良かったんじゃないですか?」と言った。
「折角仲良くなれるチャンスだったのに」
「やだよ!意地悪言うなよ、オーギュと行く!」
「仕方無い人ですねえ」
 オーギュはロシュの隣で大人しく座るルシルに目を向けた。
「ルシル、あなたは?」
「僕はここに居る。怖いもん。ロシュ様の側に居たいから残るね」
 活発なルイユとは違い、ルシルは剣には興味が無いようだ。子鹿のような足をぷらぷらさせながら、大人しく本を読んでいる。
 ロシュは優しい笑みを浮かべながら、勉強好きのルシルの頭を撫でた。
「そうですか。では、ルイユを連れていきますよ」
「はあい」
 ルイユはオーギュにぴったりくっついた。
 塔から魔法で飛び降りるので、しっかりくっつかなければならないのを理解しているのだ。
 下降する時の怖さがまたルイユ的にはいいらしい。
「ううう、早く行こうぜオーギュ」
「分かりましたよ。…では、行ってきますね」
 オーギュは自分にしがみ付いてくるルイユを促すと、いつものようにベランダへ出る。緩やかな風が吹く下界を見下ろしながら、ルイユの体を両腕でしっかりと支えた。
「は、離さないでくれよぉ」
「大丈夫ですよ。降りますよ」
 そう言うと、オーギュは塔からルイユを支えて飛び降りた。足元が急激に不安定になる恐怖と、危なっかしいスリルがルイユを襲う。
 全身に重圧がのしかかった。
 うぐ、と小さく呻くルイユを、オーギュは少し我慢なさいと励ました。更に、下からの激しい風圧を受けながら、彼はオーギュに必死にしがみつく。落下速度が速く、息が苦しくなった。
 地上が近くになると、徐々に落下の速度を魔力で緩ませていく。目を閉じて耐えていたルイユは、ほうっとしてオーギュを見上げた。
 ほわああ、と脱力する少年に、ベテランの魔導師は苦笑する。怖いのは一瞬だけです、と。
「ほら、大丈夫でしょう」
「すっ…げぇ…」
 真っ白な石畳に足を着ける。
 かくりと膝の力が抜けそうになった。
「魔法いいなあ」
「便利ですよ。あなたが魔力の耐性があれば教えてあげられるんですけど」
 しきりに羨むルイユの頭を撫でながら、オーギュは言った。無いもんなあと彼は残念そうに表情を暗くする。
 魔法の使い手になるには、知識の他に体が魔力に耐えられるかどうかを問われる。影響が無ければ次のステップへ進めるが、適さない場合は全身が痛みだしたり、息苦しくなる等の身体的影響を受けてしまうのだ。
 軽度であれば体を少しずつ慣らしていくやり方もありそこまで悲観的にならなくてもいいが、完全に適さない者は、無理に魔力を宿すと高確率で体に後遺症を残してしまう。
 中には最初に魔力の耐性があったが、成長するにつれて体が耐えきれず魔導師になれないパターンもあったが、それはごく稀。
 健康を害する場合もある為に、アストレーゼンでは適応者ではない者の魔力継承は禁止されている。
 ルイユは初めから、魔力に耐えられない体質だった。
 逆にルシルは魔法使いとしての才覚があり、軽い魔法ならば見事に使いこなす事が出来る。
「その代わりに俺、剣士になってオーギュとかロシュ様を守ってやるよ」
「ふふ。頼もしいですね」
 二人は大聖堂の中心部に向けて歩き始めた。
 通路沿いに真っ直ぐ並ぶ植栽は、つい最近庭師が整備しに来たのか綺麗に仕上がっている。大聖堂内は緑をふんだんに取り入れてるせいもあり、内側からの見栄えも良かった。
 司聖の塔から大聖堂にかけて繋がるこの小さな路地も、真っ白な石畳の中にビー玉が埋め込んでいて、夜になれば灯りに反射し美しく映える。
「大聖堂はやっぱでけぇなあ」
「ちゃんと真っ直ぐ歩かないとぶつかりますよ」
 空を見上げながら口を間抜けっぽく開いて歩くルイユを、オーギュは注意しながら足を進める。
 すると、外側で並んで歩いていたルイユがうわ!と声を上げてがくんと体を崩した。
 同時に「あっ、痛い!」という小さな叫び声。それは明らかにルイユと違う声だった。
 ほら言ったでしょうとルイユに呆れるオーギュ。
「違うって、ちゃんと前見てたんだよ…何か柔らかいの踏んで躓いて…うわあああ!!!」
 素っ頓狂な悲鳴を上げ、ルイユは足元にあった物体を見下ろし飛び退いた。
 植え込みの下で這いつくばる白衣姿の男が、呻きながら体を動かしている。
「どうかしましたか?トーヤ」
 慣れているオーギュの様子。ルイユは良かった、死んでないと胸を撫で下ろす。
 薄い水色のロングヘアーを土埃で汚したまま、男は顔を上げた。牛乳瓶の底のような分厚いレンズが入る眼鏡を掛け、いかにも胡散臭さ満載の彼は「やあ、オーギュ様」とヘラっと笑う。
 彼はトーヤ=アムザ=エルクリットといった。
 アストレーゼンの国内外の草木や、天候などの環境の調査を請け負っている学者の一人で、よく助手を引き連れて研究をしている。
 とにかく好奇心と研究心の塊なのだが、趣味で物凄くどうでもいいものを作り、実験台として他人を巻き混み、いらない迷惑をかける事で有名だった。
「何故植栽の下に滑り込んで寝ていたのです?危ないじゃないですか…」
「寝てた訳じゃないんだけどねぇ。探し物をしていただけなんだよ。特定の光を当てると巨大化するショクダイオオコンニャクの苗を探してて」
「…元々巨大な花を更に巨大化させてどうする気ですか?すぐに探して下さい」
 それがねぇ…と彼は俯せになりながら参ったように呟く。
 遠くからだと、まるで植え込みにトーヤの体が突き刺さったようにも見えてしまう。彼はずっと這いつくばって探していたのだろうか。
「うっかり指の先のサイズに魔改造しちゃってね。一つだけなんだけど…ほんと、分かりにくいレベルの小ささなんだよ。困ったなあ、軽いからもっと別に飛んじゃったかもしれないなあ」
「特定の光って何の光なんです?」
「大したもんじゃないよ。魔力と太陽光で立派に育つからね」
「余計ダメじゃないですか!大聖堂は魔力の流れが激しい場所なのに。しかもショクダイオオコンニャクってあなた、強烈な匂いするんじゃないですか?そんなのが大聖堂に生えたら騒ぎになりますよ!」
 せめて香りの良い花にして欲しかった。
 ただでさえ大きな花らしいのに、更に巨大化させたいとは、彼は一体何がしたいのだろう。
 しかもキツい匂いを放つのだ。巨大な花を巨大化、そうなれば当然匂いも倍増になるのは容易に想像できる。
 ルイユは「どんな匂いなんだろ」と興味有り気だ。
「えっとねぇ、図鑑によると、七年に一度咲くみたいなんだよ。それも二日しか咲かないとか。開花のピークだと色々腐ったような匂いがするらしいんだけど、何だか巨大な割には儚いよねぇ。一度見たら気になって気になって眠れなくてね。苗を譲り受けて色々改良してみたら、どうやら大聖堂に漂う魔力の影響で余計変になったみたいで、苗の形も若干おかしくなったんだよねえ…」
 そう言い終わると、トーヤはあっ!と声を上げ、ガサガサと手探りしだす。
 ルイユはトーヤの前に屈むと、無邪気に「見つけたか?」と笑った。
「あったあった!ありました!いやあ、良かったぁ…これで安心だよオーギュ様」
 小さい苗を掴み、トーヤはようやく植え込みから這い出てきた。よっこいしょと年寄り臭い声を上げて服に付着した土を払う。
 オーギュは「どんなのですか?貸して下さい」と彼に無表情で手を差し出した。
「苗ですか?小さいですよ…あっ、まだ研究中なので燃やしたりしないで下さいね」
 見つけた事で安心しきったトーヤは、喜んでオーギュに小さな苗を手渡す。
 手の平に小さく乗る苗。
 ルイユはほー…と目を丸くして眺めていると、その苗は手の平で突然火が立ち上りメラメラと燃えてしまった。うわっ、とルイユは身をのけぞらせる。
「ああぁあああ!!」
 トーヤはショックを受け悲鳴を上げた。無言で魔法を放出させるオーギュに非難の目を向ける。
「燃やしたりしないでって、言っ、た、じゃない、です、かっ!!」
 ショックのあまり上擦った声だった。
「苗、高かったんですよぉ…しかも無詠唱でいきなり燃やすなんて…」
「安全を考えた結果です。巨大化して大聖堂が壊れたらどうするんですか?しかも異臭を放つとなれば、周囲の健康被害も懸念されます。なら元をさっさと消した方がいい」
 非情なオーギュの言葉に、トーヤはがくりと膝を地に落とした。まさか燃やされるとは思わなかったのだろう。
 見ていて何故か哀れに思ったのか、ルイユは凹むトーヤの背中をぽんぽん叩いた。
「もし植えるならさ、広いとこでやろうぜ。苗はまたいつか買えるよ!」
「か、買わなくてもいいですよ!色んな物が腐り果てた匂いなんて嗅ぎたくもない」
 ルイユは慰めのつもりで言うだろうが、トーヤに関しては真に受けて本気で買い直しそうで怖い。
がくりと肩を落とすトーヤは、「そうですよね…」と残念そうに呟いた。
「今度は強化に強化を重ねて改めて」
 強化して更に巨大化させたいというニュアンスで言い出した。
 こんなに危険を孕むのに、まだやろうとするのか。
オーギュは咄嗟に「やめて下さい!!」と怒鳴っていた。

 胸を張って休めるというのに、ヴェスカは兵舎の屋根に上がって黒くなり過ぎた煙突の磨き上げをしていた。
長年の埃や煤が溜まりすぎて、最近煙の通りが悪く室内に異臭がする程酷くなっていたらしく、する事がないからと磨き上げを買って出たのだ。
 下見の段階で厄介だと思っていたが、やはり少し磨いただけでも着ていた白いシャツが真っ黒にされてしまった。
「酷いなこりゃ」
 第一声がこれ。
 ブラシを手に、筋肉隆々の腕を動かしてひたすら磨くと大分マシになってきたものの、長年の煤は強敵だった。
 中に色んな物が詰まっていたらしく、少しずつ棒でかき回したらやたらと大きなゴミが湧いて来た。うわ、とつい声が漏れる。溜まり切ったゴミを袋に詰めて下に放ると、わあ!と悲鳴が聞こえた。
 まずい事をしたと慌てるヴェスカ。
「あっ、ごめんごめん。びっくりした?」
「何だ…あんたか、ヴェスカ」
 私服姿のリシェが、こちらを見上げている。
「おう、リシェ。今日休みじゃなかったっけ」
 高い場所から見下ろすと、彼が余計小さく見えた。
「士長に用があったから」
「へぇ。用事は終わったのか?」
「ああ」
「そっか。なら上がって来いよ、ここから見る城下は最高だぞ」
 用事を終えたらさっさと帰るつもりだったが、彼の言う城下の景色が気になった。リシェは周囲を見回し、ヴェスカが使っていた梯子に手をかける。
 若干古びていて不安定だが、まだ大丈夫そうだ。
カシャカシャと軽い音を立てながら上がりきると、まばらに散らかった掃除用具が目に映った。
「何してたんだ?」
「ああ、煙突掃除」
「休みなのにか」
 浅黒い肌を汗で輝かせながら、「おう」とヴェスカは頼もしく笑った。太陽の下が良く似合う男だ。
 風で揺れる髪を押さえるリシェに、ヴェスカは見てみろよと促す。
 上がりきった屋根に腰をかけて景色に目を向けると同時に、リシェは眼前に広がるアストレーゼン全景に息を飲み込んだ。
 緑に囲まれた城下街。見慣れている街並みが、大パノラマとなって映り込む。まるで生きた箱庭を眺めているような、不思議な感覚だった。
 ロシュと遊びに行った大通りの公園や時計塔、馬車のターミナル、露店が並ぶ通りが、緑に混じって良く見える。行き交う人の流れも所々に見受けられた。
 見るもの全てに生を感じる。
 更に街の遠くは、牧歌的な平野や河川。アストレーゼンを抱くような山の連なり。鳥が悠々と羽ばたいて空の自由を謳歌する。
 そこにあるのは、平和そのものの優しい風景。
 リシェはあぁ、と感嘆の声を漏らす。
「凄いだろ、これ。街が近いから良く見渡せる」
「こんなに綺麗な所だったんだな」
「だろ?煙突掃除してた俺に感謝しろよ」
 ブラシを片手にヴェスカは白い歯を見せた。
 リシェはしばらく景色を眺めていたが、酷く真っ黒になっている彼に目をやると「あんたは酷い有様だけどな」と普通の感想を述べる。
「仕方無いだろ、煙突詰まってたんだからさ。ゴミ取り除くの大変なんだぞ。何年物のゴミなんだか…とりあえず煙はちゃんと通せるようにしたから、まだマシになった方だな」
 二人で煉瓦造りの煙突の中を見下ろす。内部は真っ黒だが、下が少しばかり覗ける程度になっていた。掃除前は詰まりに詰まっていたのだろう。
 通りで火を起こす度に、異臭がしていたはずだわとヴェスカは笑った。
「向こうの煙突はやったのか?」
 煙突はもう一つあった。ヴェスカはああ、と返す。
「あっちはあまり使ってないやつだったから楽だったよ。とにかくこっちが厄介だわ」
 兵舎の練習場側の暖房設備は、体を常に動かしている剣士達は滅多に利用しない。使うとなれば事務室周辺。
 アストレーゼンは普段は暖かいせいもあり、利用するとなれば雨で冷え込んだ日位のものだ。
 煤塗れの腕でひたすら磨き上げていくヴェスカの様子は、職人そのものだ。リシェはそんな彼を見て掃除業者に再就職も出来るなと言った。
「まあな。でもお前は害虫駆除の業者になれるぞ」
「なる気は無い」
「はは、だよな。今は白騎士様だもんな」
 汚れも次第に綺麗になっていく。
 磨き上げ、満足したと同時に彼は疲れた!と叫びながら額の汗を拭う。シャツから薄く垣間見える逞しい体が汗ばんでいるせいで、余計暑苦しさを感じさせた。
 リシェもその出来映えに「やるじゃないか」と上から目線で褒めると、ヴェスカは両手を上に伸ばして体の疲れをほぐす。
「やり切った感が半端ねぇや。さて、片付けておく前に景色でも見ておくかな」
「普通片付けてからじゃないのか、そういうのは」
「疲れたし、片付けはすぐに終わるよ」
 煙突の隣にどっかりと腰を掛けると、リシェも彼の隣に座った。
 風がそよぎ、二人を撫でていく。
「シャンクレイスも暖かい場所か?」
「シャンクレイス?…そうだな、ここよりは寒い。アストレーゼンだって山側に寒い場所があるだろ」
「アゼラフィア辺りはそうだな、寒い」
 場所によっては、暖かいアストレーゼンでも寒気が入り込んで寒い地域もあった。
 特に山側の一部では、風雪入り乱れる気候の厳しい地形で、余程の物好きでなければ立ち入る者も少ない。
 人があまり踏み入れない場所には、普段目にしないような草木が存在するらしいが、持って帰る者も居ないのが現状だ。
「お前の家族とか、心配しないのか?単身でここに来たようなもんだろ?」
 まだ若過ぎるのに、離れて暮らす事にヴェスカは素直な疑問を感じた。自分の生い立ちを進んで話す訳でもなく、ただロシュに憧れただけでアストレーゼンの剣士になったというのは不思議でしかないのだ。家族は何も言わないのかと。
 リシェはぼんやりと遠くを見つめながら、「邪魔者は居なくなった方がいい」とぽつりと呟いた。
「あ?」
 我ながら間抜けな返事だとヴェスカは思う。
「俺は正規の家族じゃないから。衣食住は最低限出来ても、それだけの場所だった。それに」
「………」
「物扱いされる事に我慢出来なかった」
 黙ってストレスや欲の解消の出来る便利な物になり切れれば、気持ちも楽だったと思う。だが、リシェはそれが我慢出来なかった。
 だが我慢出来なかった結果、今は自由を得られた。
「…そっか。何か、悪かったよ聞いて」
「アストレーゼンはいい所だな」
「だろ。いつか俺の故郷に連れて行ってやるよ。田舎だけど空気が美味いし飯も美味い」
「ここで生まれたんじゃないのか」
「俺はリンデルロームから来たんだよ。革細工職人の村なんだけど、俺不器用でさ。跡取り候補なのに向いてねぇって親父に言われた訳よ。他に職人はめっちゃ居るから、それなら別で働こうってな」
 候補のはずが向いてないと断言されるとは、とにかく不器用なのだろう。彼の事だから持ち前の馬鹿力で素材を破いてしまうのは容易に想像出来た。
「村か。あまり寄った事がないな」
「都会育ちなんだな、リシェ。ちっこい村もいいもんだぞ?牛やら豚やら普通に居るし、鶏も全然落ち着かねーし。独特の匂いするから田舎の香水って呼ばれるんだぞ」
「田舎の…香水…」
 全く想像つかない。
「ま、行けば分かるよ。そのうち行こうな」
軽めにリシェの背を叩いた。
 そろそろ片付けるか…と面倒そうに腰を上げたヴェスカは、不意に下に目を向ける。
「お、自らまた出向くとはね」
 思っていた事がつい口に出てしまう。リシェはきょとんとしながらヴェスカの視線の先を見た。
 流れ落ちる額の汗を拭い、ヴェスカは下の路地を歩いていた二人組に「よう」と話しかける。
 上から声が降り、二人組の一人であるオーギュは涼しげな顔のままその方向を見上げ、ヴェスカの姿を見るなり反射的に呻き声を漏らしていた。
「あ!何サボってんだよリシェ!」
 隣のルイユはリシェに噛み付いたが、リシェは冷静に「俺は元々休みだ」と返した。
「ご機嫌麗しゅう、オーギュ様ー!先日はお世話になりました!またお会いできて嬉しいよ!」
 手を振り話しかけてくるヴェスカ。その一方で、オーギュは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、私は会いたくありませんでしたよと嫌味を呟く。
 ヴェスカとオーギュのやり取りを見ていたリシェは、「仲が良いのか」と驚いた。性格が全然合わなそうで、意外だったようだ。
 掃除用具をまとめ、ヴェスカは荷物を背負って下へと降りる。リシェも彼に続いた。
「こないだ一緒に飲んだんだよ。偶然会ったんだけどさ。…楽しかったなあ。なっ、オーギュ様?」
 意味深に微笑むヴェスカに、オーギュは引き気味になってしまった。あの時の大失態を嫌でも思い出してしまい、怒りが込み上げてくるのを押し留める。
「近付かないで下さい、馴れ馴れしい!」
 その姿を見ると、あの時密着された重みと優しく囁かれた記憶を嫌でも思い出してしまう。そしてその後の思い出したくもない大失態。
 いくらなんでも、恥ずかし過ぎる。
「…その割には随分と嫌われてる感じがするけど」
 オーギュの拒否っぷりに、ルイユは首を傾げていた。彼はそこまで人を嫌ったりはしないので、ここまであからさまに嫌がるのは珍しいらしい。
「そ、そんなにキレる事無いだろ!そりゃやり過ぎた気もしなくは無ぇけどさ、酔っ払ってたしよ!」
「酔っ払ったら何してもいいのですかこの変態!大体顔も見たくないと言ったのに、何故のうのうと姿を見せてくるんです!?」
「ばっ…!馬鹿言え、ここは宮廷剣士の兵舎だ!ここで俺は仕事してんの!のうのうと顔見せに来てんのはあんただっての!」
「それなら私が来たらあなたが避けなさいよ!」
「はぁあ!?頭いいくせに、頭の悪い言い草だなあんたは!何で俺が気を使わなきゃなんねえんだよ!大体人を変態扱いしてるけどな、あんただって気持ち良かっただろうが!」
 余計な発言に、オーギュはかあっと顔面を真っ赤にした。
「き、き、気持ち…そんな訳ないでしょうが!」
 言い争いを目の当たりにするリシェとルイユは、ぽかーんと口を開きながら大人達を見上げている。
 しばらくしてからポツリとルイユが呟いた。
「この二人、エッチしたな」
「え?」
 リシェは隣のルイユの言葉に困惑する。まさか、そんなはずは無いだろうと。
「会話で分かるだろ普通」
「ええ…」
「酔っ払ってとか、変態とか、気持ち良かったとかさあ…どう考えてもエッチな事したような会話だろ?したよ絶対さあ」
 早熟な推理を耳にした瞬間、ヴェスカとオーギュは同時にこちらに顔を向ける。
 びくりと体を強張らせるリシェとルイユ。
「「…してないっ!!!」」
 余計怪しまれるだけなのに、何故か躍起になって否定されてしまった。

 その日の晩。
 日中あった出来事をリシェがロシュに説明すると、彼は声に出して笑い転げていた。
 晩御飯を食べて湯を浴び、少しばかりのお茶の時間。お互い寝巻に着替えたリラックスタイム。
 上質の革を使った白いソファに向かい合うように腰をかけてゆったりとした時間を愉しむ。
「あはははは!オーギュが慌てるなんて、本当に珍しい事ですよ!見たかったなあ、凄く見たかった!ふふ、あっはははは」
「そ、そんなに珍しいんですか?」
 笑い過ぎて涙を出しながら、ロシュは「珍しいも何も、滅多に無いですよ」と息絶え絶えに返す。
「あの人、昔から表情をあまり変えないから」
「そうなのか…かなり慌ててたから」
「オーギュをそこまで動揺させるとは、その彼もなかなか強者ですねぇ」
 ようやく落ち着いてきたようだ。
 ロシュは冷めてきたカップに再び熱いお茶を注ぐと、「ぜひお話したいものです」と笑った。
 常に、夜の自室は静かで退屈だった。広い部屋に一人で居る事が寂しくもあったのだ。
 だが念願のリシェがやって来た事で毎日室内が賑やかで楽しくて、ロシュは幸せを噛み締めていた。
 それはまるで新婚生活を満喫するかの如く。
「ヴェスカですか?あいつはとにかく下品で、ロシュ様に失礼を働かないか不安です」
「下品?」
「あいつ、暑い時ならまだいいけど、場所選ばないで所構わず脱ぐ癖があるんです」
「ふふ。なかなかワイルドな方ですねぇ…リシェは所構わず脱がないんですか?」
「ぬ、脱ぎませんよ!」
 かあっと顔を真っ赤にして否定するリシェを見て、ロシュは声を上げて笑うと、冗談ですよと宥めた。
 同じ男性にも関わらず、ロシュは少しの造作にも品位が出る。
 女性的な外見に見える為なのか、育ちのせいなのか。リシェは彼の優しい中身は勿論だが、そのふんわりした容姿にも惹かれていた。
 遠くで見ていた頃が懐かしい。
「あっ、そうだ…リシェ」
「は、はい!ロシュ様」
 少しだけぼうっとしていたリシェは、話を切り出されて身を正した。
「後程オーギュに魔力の移植をお願いしましょう。魔法の使い方は覚えると楽になりますから、耐性がある人はすぐに使いこなせますよ」
「魔法…俺が魔法だなんて考えた事無かった。でも、ロシュ様をお守りする為には力が欲しいです。ぜひお願いします」
「ええ、勿論。ですがその前に私があなたにしておきたい事があります」
 向かい合って一人掛けのソファに腰を掛けていたロシュはすっと立ち上がると、リシェの隣へと腰を下ろす。
きょとんとした顔でロシュを見上げるリシェは、「何か…?」と不思議な顔を見せた。
 邪気の無い微笑みをするロシュは、さらりとしたリシェの髪に指を絡め、そして柔らかい顔に手を滑らせる。
 温かなロシュの体温がリシェに伝わってきて、ついリシェはその近さに目眩がしそうになる。
「これは司聖として授ける力。少し我慢なさい、リシェ。恥ずかしいでしょうが、オーギュから魔力を授かる前に」
「へ…?」
 どういう意味ですかと口を開くリシェに、ロシュはその美しさを誇る顔を自ら寄せてきた。
「え!?…ろ、ロシュ様!?何を」
 急な展開に動揺し、リシェは身を後ずさりさせつつ回避しようとした。いくら近くなったからといっても、あまりにも性急だ。
 しかしそれをロシュは許さず、がっちりと力強く押さえ込んできた。微かに暴れる小さな彼の背に腕を回し、更に密着すると、脱力し抵抗する力を失うリシェをゆっくりソファへ押し倒す。
「あ…あぁ」
 ギシ、と軋む音が体の下で聞こえる。
 真上に居るロシュを見上げ、リシェは若干怯えた顔をした。一方のロシュは、大丈夫ですからと優しい口調で囁く。
 人形を愛撫するように頭を撫でるものの、リシェの体は次第に震えだしてしまう。
 反射的に、体は他者との密着を拒否しだしていた。
 全身を覆う影を目の当たりにすると、昔の記憶がフラッシュバックしてしまう。呼吸が出来なくなりそうになり、呻き声を発した。
「ろ、ロシュさ…ま」
「ん?」
「俺、ほんとに、こういうの」
 撫でている手を止めると、心配そうな顔をしてリシェを見下ろす。
「リシェ、私が怖い?」
 震えが止まらず、恐怖を感じてしゃくり上げるリシェを落ち着かせようとロシュはゆっくりした声音で問いかけた。
 …この子は、何かを抱えているのだろうか。
「ごめん…なさい」
「ここには、あなたを傷付ける人間は居ませんよ。大丈夫ですから」
 その背中を撫で、ロシュはリシェに言い聞かせていく。やがて安心してきたのか慣れてきたのか、震えが落ち着いていく。
 まだ表情は不安がっていたが、ロシュは目を合わせにっこりと微笑むと、よしよしと彼の頭を撫でる。
 その手は優しくリシェを覆い、外敵から守るかのようにしっかり抱き止めていた。
「少しだけ、我慢して。目を閉じても構いませんから…これは私からのお守りのようなものです。最初に私があなたにしてあげられる事。怖いかもしれませんが、もっと強くしてあげる」
「お、お守り…?」
「はい。…その理由は、まあ…言いにくいのですけど…私の体液を受けた者は祝福を得られると」
「へ?」
 ロシュに抱きしめられ、まだ僅かに震えるリシェは実に間の抜けた返しをする。その様子に、ロシュは自分も何を言っているのかと恥ずかしくなってきた。
 真っ赤になりながら説明をする。
 その様は思春期を迎えた子供のように初々しい。
「わ、私もこんな事しにくいのですよ!でもっ、私を守ってくれるあなたになら」
 最終的にはしどろもどろになっていた。
「全然…いいのではないかって、その」
 自分より大人で、経験豊富のはずのロシュがあわあわと照れているのが、リシェの目には滑稽に見えてしまった。
「あの、俺…」
「はい!」
「お、お願いしま、す」
 覚悟を決めたのか、リシェはぎゅうっと目を閉じた。ロシュはどくんと胸が高鳴る。
 多分、この押し倒した姿勢がいけないのかもしれない。押さえつけられているという状態では、リシェが却って怖がらせているのだろう。
 ロシュは反省し、そして体を起こす。同時にリシェを支え起こした。
「ロシュ様?」
「ち、ちゃんとした姿勢でしようかと思って…ほら、覆い被さられると怖いでしょう、リシェ?」
 個人的には、押し倒して心ゆくまで彼の唇を堪能したいという欲望もあったが、怖がられては困る。
 細身の体を優しく引き寄せ、ロシュはリシェにそっと密着する。すぐに、ふるりとその儚げな体が反応を見せた。
 すぐに終わりますからねと囁き、彼の顎を軽く掴んで上へ向けると、その唇が微かに開いた。まだ怖がっているようだ。
「私はあなたを守り、あなたは私を守る。司聖としての僅かばかりの魔力と加護を騎士であるあなたに授けます。唇を開いて」
 心臓が張り裂けそうになっていたリシェは、言われるままロシュに顔を向ける。
 日焼けのしない白い肌が、うっすらとピンクがかるのが分かった。加護を貰い受けるとはいえ、お互いの唇を重ねる事自体、恥ずかしさを感じているのかもしれない。
 緊張と恐怖で長い睫毛が震え、リシェはぎゅうっと目を閉じた。
 ロシュは優しくその唇を自らの唇でそっと塞ぎ、柔らかさを探るかのように少しずつ舌先でなぞる。リシェの体はぴくんと反応し、震えが強くなった。
「は…っ」
 唇を塞がれ、呼吸がままならずリシェは微かに呻く。滑らかな舌が絡み合うと、小さく水音が耳に届き羞恥心が更に増幅した。
 必死で我慢しているのか、リシェはロシュの寝巻のローブをきゅうっと掴んで耐える。
「ん、ふ…っ」
「…リシェ、もっと舌を絡めて」
 そんな難易度の高い事は恥ずかしくて出来ない。
 頭がぼんやりとして、体が熱くなる。
 まだ年若く、それ程経験豊富ではないリシェは、相手が恋い焦がれていたロシュとの口付けに混乱していた。
 他者とのキスは、ラス以外では苦い経験しかない。
 過去の相手とこなしてきたキスとは違う。
 抵抗すると殴られ、不必要に体を触られた時とは違い、今は甘く全身が痺れ、幸福感が脳内を占め、口付けを嫌だと思わない。
「あ…っあ、ロシュ、さま」
「リシェ。もっとあげる」
 室内に響くキスの音。
「もっと沢山、あなたにあげたいです」
 それを聞いて、おずおずとリシェは舌をゆっくり絡めてみると、ロシュもそれに応じた。
 小さく開いた唇から絡み合った唾液が溢れるが、ロシュはすかさずそれを舌で舐め取り再び唇を塞ぐ。気が付けば、ソファの背もたれにリシェを押し付け、強く激しいキスを繰り返していた。
「私の、です」
「ロシュ様…?」
 呼吸を荒げ、ぼうっと濡れたような目を向けるリシェの頭を、愛おしそうに撫でながらロシュは微笑む。
「ずっと私のものだ、リシェ」
 そう言い放つと、彼は再びリシェの唇を奪った。

 翌日。リシェは何故かルイユに呼び出され、大聖堂の中心部に引っ張られていた。
 意図が全く分からないリシェは、不満そうに我儘極まりないルイユに問う。
「お前、俺が嫌いじゃないのか?」
「嫌いだけど使えるもんは使わなきゃ勿体無いだろ?」
「俺は道具じゃないんだ。用が無いなら戻る」
 来た道を引き返そうとするリシェの手を、ルイユはすかさず掴んで「お前に拒否権なんてある訳ねーだろ、平民!」と怒った。
 ぴくりとリシェの口角が引きつる。
「何がしたいんだよ」
「中庭に露店あるじゃん!何か食いたいんだよ」
「勝手に食えばいいじゃないか」
 苛立ちながら吐き捨て、また戻ろうとする。ルイユは更に掴んだまま引っ張ってきた。
「俺より大人なのに、俺を飢え死にさせる気か!」
「知るか!!都合のいい時だけ大人扱いするな!」
「腹減った!何か食わせろ!」
 ぎゃあぎゃあと叫ぶルイユを、リシェは本気で嫌そうに見ていた。周辺に居る人々も、何事かと注目してくる。
 まるでこちらが悪い事をしているみたいに思われるではないか。
「お前は馬鹿にしている平民から物乞いをするのか!いい加減にしろ!」
「物乞いじゃねーよ!」
「じゃあ何だって言うんだ、欲しいなら自分の小遣いで買え!」
 すると彼は口を尖らせながら「あんま持ってないから使えねーんだよ」と困った顔で愚痴った。
 貴族の息子の癖にお金が無いとはどういう訳なのか。
「父様に頼めば沢山貰えるけど、クラウスがうるさいんだ。子供のうちに大金を使いまくるとろくな大人にならないってさ」
 今でもろくな子供じゃないと思うのだが、違うのか。しかし物事の善悪をきちんと教えてくれる大人が身近に居ながら、人を平民扱いしてくるとは、何と性格が歪んでいるのだろう。
 ルイユはがっちりとリシェの腕を掴むと、「だからさあ」とけろっとして可愛いらしい笑顔を向けてきた。
「何か食わせろ!」
 とてもしつこい。
「じゃあそのクラウスとやらに食わせて貰え!」
「怖いから嫌だ!奢れ平民!」
 どうしても自分では出さずに他人に奢って貰いたいらしい。いっそのこと、彼が恐怖の対象としているクラウスという人物が通過してくれないだろうか。
 中庭の手前で押し問答を繰り返していると、やがてリシェの耳に聞き慣れた声が入ってきた。
「あれ…先輩?」
「!」
 二人の動きはぴたりと停止し、一緒にその方に顔を向けていた。
 息がぴったりする彼らに、声をかけてきた剣士…ラスは内心驚く。
「ラス」
「先輩…誰ですか?その子」
 リシェにへばりついている少年を怪訝そうに見下ろした。
「ロシュ様の知り合いなんだけど…こいつがとにかく厄介で」
 新たな獲物発見とばかりにルイユはラスに「よう!」と満面の笑みで挨拶。あまりの馴れ馴れしさにラスは一瞬躊躇した。
 見習いたくなる位、物怖じしない。
「あんたからも言ってやってよ、こいつ全然奢ってくんねーんだよ」
「だから自分の小遣いで」
「だーかーらー!あんま無いんだってばー!」
 堂々巡りの会話をひたすら繰り返している気がする。ラスは困っているリシェに救いの手を差し伸べるように、「俺が出しましょうか?」と申し出た。
 ルイユはぴくりと即座に反応。
「本当か!?」
 ぱあっと笑顔になった。
「甘やかすなよ。このパターンだとすぐ調子に乗って、また飯食わせろって言い出すぞ」
 リシェは無表情のままラスに言う。
「リシェがくっっっそケチなのが分かったわ!本当使えねーな!」
 この口の悪さはどこから習ったのだろう。リシェはうんざりしながら溜息をついた。彼がロシュの古くからの知り合い繋がりで無かったら、とうの昔に殴りつけていた所だ。
 ルイユはラスにくっつくと、「あの店のサンドイッチセットがいいんだ!」と要求する。
「お前の頭の中には遠慮って言葉は存在しないのか?」
「リシェになんか遠慮したくねーよ!生意気に文句ばっか垂れやがって!」
 完全に下に見られている発言。
 ラスは内心ヒヤヒヤしながら、「一度だけだからな」とくっついてくるルイユに忠告する。
「ラス」
「はい」
「あまり甘い顔すると要求が激しくなるぞ」
「大丈夫ですよ。先輩もどうですか?」
 剣技会以降、ラスとは会話も無く、お互い少しばかり気まずい雰囲気だった。
 一方ラスも気まずいまま過ごしていた所で、リシェが変な子供に絡まれているのを見てつい声をかけたのだが、彼はいつものように普通に会話をしてくれたのでホッとしていた。
 ある意味、ルイユがきっかけをくれたようなものだ。
「金ねーなら付き合わなくてもいいんだぜ、貧民」
 ルイユの嫌味にカチンとするリシェ。
「馬鹿にしてる平民から奢らせようとする癖に、どの口でほざくんだ!恥ずかしいと思わないのか!」
 再び怒り出すリシェに、ラスは「まあまあ」と宥める。真っ当な発言をしているのだが、あまりにも短気すぎてせっかくの美少年っぷりが損なわれてしまう。ラスはそんな残念なリシェに親近感を感じるのだった。
「先輩、行きましょう」
 ラスに促されて、苛々していたリシェは渋々中庭の露店へ足を進めた。
 柔らかい日差しが差し込む中庭は、いつものように小さな噴水や咲き誇る花々で華やかな様子を見せている。
 ルイユは嬉しそうに目的の露店の前へ駆け込むと、ラスに向かってメニューボードを指差した。
「これ!美味そうだろ!?」
 彼のお目当てはウィンナーと野菜、そして沢山の卵が挟まったサンドイッチと、フルーツと生クリームが入っているサンドイッチの組み合わせに小さなコーンスープ、そして牛乳のセット。
 見るだけで空腹になりそうなメニューだ。
「へえ、美味しそう」
「だろ!?」
「俺も頼もうかな。先輩もどうですか?」
「俺はサラダセットでいいや」
 そこまで空腹ではないリシェは、ローストビーフ入りのサラダと牛乳を選んだ。
 だが、それすらルイユは文句を垂れてくる。
「そんなんだから背伸びねーんだよ」
「うるさいな!」
 余計なお世話だと言い返しながら注文を済ませるリシェの側で、ラスは自分のとルイユの分も頼んだ。
 財布を手に、ラスは出しますよと申し出るが、リシェは彼を見上げ「いや、いいよ」と止める。
「俺がまとめて出すから」
「でも」
「分けるのも面倒だし。…それに、お前には悪い事したから」
 ふいっとラスから目を背け、リシェは言った。
 彼の気持ちに全く向き合えなかったのが、リシェの心にまだ引っかかっていた。
 ラスがどうアピールしようとも、どうしてもリシェの心はロシュに向いてしまう。こればかりはどうしようもなかった。
「そんな」
 剣技会の終盤の出来事を思い出し、ラスは言葉を詰まらせる。
 あの時、悔しさの余り自分の都合だけを考えてリシェに感情をぶつけていた。なのに、リシェはそれを責めたりはせずに受け止め、冷静な言葉を使って説明し、謝ってくれたのだ。
 リシェは自分に対し紳士的で大人の対応をきちんとした。それにも関わらず、自分は大人になり切れていない。現にまだ納得していないのだ。
「俺、まだ諦めてない」
「ラス」
「まだ気持ちは変わってないから。簡単に諦められない」
 緩やかな風が二人を撫でていく。
 少しの間、無言の時間が流れた。
 やがて注文した物が出来上がり、ラスは自分の分とルイユの分が乗った大きなトレーを受け取ると、自然にリシェに笑いかける。
「とりあえず、食べましょうか」
「あ…うん」
 席で首を長くして待っていたルイユは、目的のセットを目の前に顔を綻ばせる。
「うおー!美味そう!!」
「先輩が出してくれたから、ちゃんとお礼言いなよ」
 ラスの言葉に、ルイユはきょとんとする。
 あんた出すって言ってなかったっけ?と。
「出すつもりだったんだけど、俺がまとめて払うって出してくれたんだよ」
 サラダセットをトレーに乗せ、リシェが無言でルイユの隣の席に腰をかけた。
「何だよ、リシェのくせにカッコつけやがって」
 素直に言いにくい代わりに憎まれ口を叩く。リシェは反射的に言い返した。
「黙って食え!」
 作りたてのサンドイッチに視線を落とし、ルイユはリシェに渋々と「…いただきます」と呟いた。
「やけに先輩を敵視してるなあ。何かあるのか?」
 手を合わせ、いただきますとラスは礼儀正しく頭を下げた。
「ふん。こんな小さくて女みたいなのがロシュ様の白騎士だなんて認めたくねーだけだ」
 ぷいっとルイユはリシェから顔を反らすと、未練がましく俺がやりたかったのにと愚痴る。
 確かに、彼の言いたい事も理解できなくはない。これだけ頼り無さそうな見栄えの剣士はなかなか居ないのだから。
 だが、リシェの能力はラスでも良く分かる。
 力は物足りないが、彼には素早く粘り強い性質なのだ。大の大男が息切れする時こそ、彼の力が引き出される。
「まだ分からないからそう言えるんだよ」
「どうだかね」
 リシェは黙々と牛乳を口に運んでいた。
「そのうち分かる時が来るよ。先輩に助けられたら、ちゃんと素直に礼を言いなよ?」
 一口、二口と新鮮なサラダを口にしていたリシェは、ラスに「そういえば」と話を切り出した。
「何でお前がこっち方面に?」
 何かしら用事が無い限り、宮廷剣士は大聖堂に寄り付かない。彼らにとって、こちらはそれ程興味を示すものが無いのだ。
 文化系の剣士が居れば話は別だが、それは少数派だろう。
 ラスはサンドイッチを頬張り、中のウィンナーの熱さにはふはふと息詰まらせた。
「熱っ、あつい…こっちに来た理由ですか?いや、単に散歩です。先輩居ないから、あまりやる事無いし」
「?」
「話す相手っていうか、近い年の人居なくて…あ、そうそう!最近新入りでシャンクレイスから来た剣士が居たっけな」
 ぴくりとリシェは体を強張らせる。
「スティレンって言うんだけど、先輩の知り合いかなあって思って。まだ研修の剣士だから、班にはまだ入らないけど。同じ国出身だから、話合うかなあって。そのうち顔を合わせるかも…先輩?」
 新入りの話をすると、リシェの様子が先程とは違う感じがした。それはサンドイッチを口に詰め込んでいたルイユにも分かる程。
「もしかして、知り合い…?」
 牛乳を飲み終え、あまり手を付けていなかったサラダをルイユの前に置くと、伏し目がちにそうかとだけ呟く。そしてすっと立ち上がった。
 ルイユは席から立ち上がったリシェを見上げ「残すのかよ」と眉を寄せた。
「用を思い出した。ルイユ、これは食べていい」
「先輩?どうかしたんですか?」
 リシェは髪の色と同じ瞳をラスに向けながら、ふっと力無く微笑む。
「ラス」
「はい」
「俺はしばらく宮廷剣士側には顔を見せられない。それは士長にも了解を得てる。今日の晩の懇親会はロシュ様の護衛に着く事になっているから、任せたぞ」
 そう言い放つと、リシェはその場から去ろうと体を翻した。ラスはすかさず彼の右手に手を伸ばし、しっかりと掴む。
「知り合いなんですね、先輩?」
 ラスは若干詰問気味に食いついた。
 スティレンの話を聞いた時の彼は、不自然な反応を見せ過ぎる。
「意味ありげに席立つなよ、リシェ。感じ悪いし意味が分かんねーだろ」
 ルイユもラスを援護するように続けた。
 リシェは掴まれた手を優しく解くと、そうだと答える。
「知ってるも何も、従兄弟だからな」
「は…?」
「何故あいつがここに来たのかは知らないが、あいつは俺を心底嫌っている。俺もあいつの事は好きになれない」
 知り合ったばかりの仲良くなれそうな同僚。
 似たような年だから、身近な存在になれるのかもしれないと楽しみだった。
 だがリシェは彼を好きになれない、と。思ってもみなかった評価に、ラスは言葉を失う。
「何が、あったんですか?」
 向こうもリシェを嫌っているその根拠も分からない。お互い顔を見合わせたら、喧嘩をする程嫌い合っているのだろうか。
「それは本人から聞けばいい。あいつにとって俺は厄介者だったんだからな。俺にとっても、スティレンは近付きたくない相手だ。宮廷剣士の任務からしばらく離れるのはそれが理由だ」
「スティレンが、先輩を…?」
 存分に理解出来そうな答えだけを告げ、リシェはその場から去って行った。
 リシェから貰ったサラダをもぐもぐと口にするルイユは、あまり興味無さげに「訳ありな奴がこっちに来ると面倒臭ぇなあ」と呆れる。
 従兄弟同士なのに、お互い嫌い合う仲。
 どういう意味なのか分からないラスは、そのままリシェの後ろ姿を見送るだけだった。

 晩の懇親会の打ち合わせの為、再び宮廷剣士士長ゼルエに会いに来ていた司聖補佐オーギュは話し合いを終えて塔へ戻ろうとしていた。
 いつもと変わりない汗臭さと砂埃の独特な臭いは、不潔感満載でとにかく好きになれない。アストレーゼンの安全を担ってくれる大切な機関の一つだが、潔癖な性格のせいなのか個人的には受け付けなかった。
 手には多数の書類が詰まったファイル。
 懇親会の打ち合わせ用の他、諸々の案件が入った物も含まれている。大聖堂からの依頼もついでに頼んでいると、予定よりも更に時間もかかってしまった。
 この後は塔に戻って打ち合わせの結果報告をして、事務作業を軽く済ませて…と考えていると、不意に空腹感に襲われてしまう。
 そういえば昼御飯をスルーしていたのだ。
 一旦部屋に戻って何か食べてこようかと、頭の中で計画を立て直しながら茶色く汚れた通路を進んでいると、目の前がふと真っ暗になった。
 眼鏡の奥の、細い目で改めて下から上へ見遣ると、宮廷剣士の黒い制服を身に付けた巨漢の坊主頭がニヤニヤしながらこちらを見ている。
 背は同じ位だろうが、横にも太い。
 下品な笑い方をする人だとオーギュはやや不快に思っていた。だが、改めて自分の状態を見る。
 …相手の道を完全に塞ぐ状態だった。
普通はお互い避けて通るのだろうが、これではお互い端に寄って歩かなければならない。
「ああ、すみません。考え事をしてたもので」
 通行の邪魔をしてしまったのだろうと思っていた。オーギュは素直に頭を下げると、右側に寄ってやり過ごそうとした。すると、男は避けようとしたオーギュの左手首をがっしりと力任せに掴む。
 痛みが軽く走り、端正な顔が少し歪んだ。
「何をするんですか」
 巨体を誇るせいか、掴んでくる手の大きさもオーギュの手より大きく見える。力では完全に負けてしまうだろう。
 彼はオーギュの細身の体を舐め回すように見ながら、下卑た笑いを表情に表し「お一人かい、司聖補佐様?」と見下ろしてくる。
「見りゃ分かるでしょう」
「そりゃあちょうどいい。あんたみたいなのは滅多にお目にかかれねぇからな」
「…何が言いたいんです?この手を放しなさい」
 また面倒なのが出てきたと言わんばかりに、オーギュは相手の視線から目を逸らす。近付く度に、不愉快な熱量と汗臭さを覚える。ただ不快。
 そのニヤニヤする笑い方ですら、汚らしく感じてしまった。
 彼はいきなりオーギュの腰に手を当て、いやらしい手つきで撫でながら壁へと押し付けてきた。
「なっ…!」
 完全に男の巨体に覆われ、オーギュは不愉快を露わにした。鼻息荒く、相手は更に近付いてくる。
「ちょっと付き合え、な?ほら、大聖堂は男所帯が多いだろ?あんたも相当あれなんじゃないのか、ん?良くしてやるからよ」
 いやらしさを全面に出す男はオーギュの顔を撫で、逃げ出さないように彼の体を壁に押し付ける。
「あなたに付き合っている暇はありません!ちょっと…何を!」
 足の間に男の足が割り込み、密着を迫られてしまった。ググっと相手の膝が上がり、軽く跨がる形を強いられる。
「はは、女みたいに細いなあんたは?」
「このっ…無礼な!」
 かあっと全身が屈辱感で熱くなった。ヴェスカといい、こんな人間しか居ないのかと情けなくなってくる。
 顔を近くに寄せられ、オーギュは不愉快さを前面に引き出し男が迫ってくるのを押し返した。
「お偉いさんで見目麗しい貴族様をこんなに間近に眺める事は無ぇからな。可愛がってやったらどんな顔すんのかね」
「私を可愛いがる気ですか。言っておきますが、私はかなり暴れ馬ですけどよろしいですか?」
「あ?何だ、こんな細っこい腰で暴れ馬だと?」
 彼は腰を撫でていた手を更に下へ向けると、臀部をいきなり鷲掴みにしてきた。オーギュの体はすぐに反応する。
 ギッと彼を睨んだその瞬間、微弱な魔力を男に向けて放った。
 キツめの電流が全身を駆け巡り、男はぎゃっと情けない声で叫んでオーギュから離れる。ビリビリと麻痺する感覚に耐えきれず、彼は地面に膝をついた。
 呻き、激しい咳に見舞われる相手の様子を静かに見下ろす。
「だから言ったんです、暴れ馬だってね。ご安心して下さい。人間に辛うじて耐えきれる位の魔力ですからしばらくすれば勝手に治りますよ」
 大男が自分の目の前で悶絶する様子を見るのは爽快だが、このような者の相手をする暇は無い。法衣についた埃を払うと、「では」とその場から去ろうとした。
「…待てや!!」
 苦悶に満ちた顔で、男はオーギュの足を掴む。
「何ですか?あなたの相手をする暇は無いんです」
「馬鹿にしてんのか、お前は」
 坊主頭に血管を浮かべ、汗だくで睨んでくる。どうやら怒らせたらしい。
 自分から喧嘩をふっかけておきながら、何故怒るのかと疑問を覚えたオーギュは、掴んでくる手を蹴飛ばしたくなる衝動に駆られていた。
「では馬鹿にされないように努力して下さい」
「…あんま舐めんじゃねぇ…ぞ!!」
 彼は掴んでいたオーギュの足を力一杯引っ張り、バランスを崩させる。がくりと均衡を失う体は、地面に叩きつけられてしまった。
 衝撃で尻餅をつき、ついオーギュは呻く。
 しかし痛がる暇は無い。ぐっと上体を起こそうとするも、しつこい剣士は這い寄り、その大きな体で強引にオーギュを押さえつけてきた。
 ゼイゼイと呼吸を荒くし、「手こずらせやがって」とオーギュにのしかかる。
 ようやく獲物を捕まえたと言わんばかりに、男は自分のベルトに手をかけた。
 こんな目立つ通路で恥ずかしい行為に及ぼうとするのかと、冷静なオーギュは眉を顰めてしまう。
「ボロボロに犯し尽くしてやるからな」
「…あなた、そんなにまで欲求不満ですか」
 人を女代わりにする程、切羽詰まっているのだろうか。こんなに欲望をむきだす様子では、完全に異性にモテないと思わずにはいられない。
 ムードもあったものではない。これは無理だ。
「うるせぇ!特殊階級だからって調子乗ってんじゃ…」
 男がファスナーを開けながら怒鳴ると同時に、ビュンと眼前に何かが通過するのが見えた。
 ガツンと激しい音が響く。金物のバケツが地面に落下し、役目を果たしたとばかりに寂しく転がっていく。
 オーギュはその隙を見逃さず、男の力が緩んだ瞬間を利用し思いっきり腹を蹴飛ばし離れた。
 いきなり何が起きたのか分からない状態の彼は、日光に輝いていた頭を押さえ何だ!?と叫び声を上げる。
 どうやら先程の電撃の魔法の余韻と、頭に打撃を受けた事で視界がぐらついているようだ。
「ここの奴らは本当下品だね!やる事なす事醜いったらありゃしない!」
 聞き慣れぬ暴言が飛んで来る。
「…あなたは?」
 同じ宮廷剣士の制服を身に付けてはいたが、まだ若い少年だった。見慣れない姿だったが、彼の左胸には見習いの印が付いている。
 少年剣士はオーギュを見上げ、「あの色情魔が気付かない内に逃げなきゃ、ほら!」と促し手を掴んできた。
「は、はあ」
 どうやらこの少年に助けられてしまったようだ。
 その場から逃げ、人の目に付きやすい兵舎の練習場の近くに抜けると、少年はようやくオーギュの手を離す。
 柔らかい波打った茶色の髪を整え、乱れた服を直すと、彼は改めてオーギュを見上げた。
「助かりましたよ。あの人、魔法を放ってもしつこくてね」
「自分がされるのはもっと嫌だけど、目にするのも気色悪いものだね。相手が汚らしいなら余計にさ」
 宮廷剣士の割に、彼はやけに綺麗な顔をしていた。
 細身の体と白い肌。髪はロシュと同じ茶色だが、彼の方が明るめに見える。
 大人びた雰囲気で、毒舌を吐くにも関わらずその顔は垂れ目で柔らかな印象を与えてくる。どこかで見た気がするが、誰かに似ているのだろうか。
 お互い、顔を合わせるのは初めてのはず。
「でも…まあ、未遂で良かった。もうああいうの見たくないし」
「ありがとうございます」
「こうして恩を売っとかないと、この先やっていけないだろうしね。ああ、でも期待はしてないから安心して。ここでは気楽にやりたいからさ」
 なかなかさっぱりした考えをしていて、個人的には好感が持てる。
「ここでは…とは?」
 砂埃が風に舞い、地面を擦り抜けていくと、少年は神経質そうに軽く咳き込んだ。
「隣の国から来たの。心機一転ってやつさ。しがらみとか環境が嫌になったからね…生まれ変わった気持ちで一からやり直してみたくなった訳」
 隣の国、というフレーズにオーギュはぴくりと反応した。まさかというのか、やはりというのか。やけに肌が白いと思っていたが、シャンクレイスから来たと聞いて納得した。
「シャンクレイスですか?」
「え?うん。そうだけど…」
「肌が綺麗だからそうだと思いました。同じくシャンクレイスからこちらに来て頑張って下さってる子がもう一人居ますから」
 涼しげな笑みをしながらオーギュが少年に言うと、彼は「あぁ」と理解した様に返す。
「リシェでしょ。知ってるよ、従兄弟だし」
「あなたが…なるほど」
 先程、宮廷剣士長ゼルエから聞いていた『もう一人のシャンクレイス人』の話を思い返す。
 …リシェが自国から逃げるきっかけとなった人物の一人だ、と。
 彼を初めに預かっていたゼルエは、今までの生い立ちを全て本人から聞いていた為に、オーギュに二人がお互い顔を合わせぬよう打診してきたのだ。
 リシェの母違いの兄と結託し、口では言えない嫌がらせや性的な悪戯を繰り返してきたと。
 こうして見ると、素直な少年に見える彼がそのような愚行をするとは思えないのだが。
「リシェから聞いてたの?」
 見た目が華やかなのはリシェと同じようだ。
「いえ…彼はご自分の事をあまり言わないので。従兄弟のあなたがこの国に居るのも知らないでしょうし」
 敢えて嘘を言ってみる。
 恐らく、リシェはゼルエから聞いているのだろう。できるだけ二人を遠ざけようと配慮しているのだから。
「ふうん…そっか。それにしても、人前でブルブルしていたあいつがこっちにね…。本当腐れ縁を感じるよ」
 やや意地悪そうに見える表情を浮かべた後、彼は上品に微笑んでオーギュを見上げる。
「ま、そんなに会う事も無いでしょ?この国の司聖様をお守りする大層なお役目を貰ってるんだからね。せいぜい頑張ってって位だね。貧弱なあいつに務まるかどうかは知らないけどさ」
「あなたはリシェがお嫌いなんですか?」
 不意に湧いた疑問。
 彼の言葉には、リシェを完全に見下しているような節があった。お互いに何かがあったのだろう。
従兄弟同士で、まだこんな年齢なのに仲違いとか考えにくい。
「嫌いも何も…汚点だからね。あいつの母親はろくでもない女なのさ。あいつの家…ウィンダートのおじ様が、その売女に騙されて出来た子供。その女はリシェを産んだらさっさと死んじゃって、いきなりおじ様が屋敷に連れてきた訳。勝手に浮気して、勝手に子供連れてこられた側はたまったもんじゃ無いよ。当の本人は仕事であちこち駆け回ってて留守ばっかりなのに。こんな事、他に言えやしないでしょ?ましてや本家なんだしさ」
「………」
「しかも成長したらその女にそっくりなんだもんね。写真見たけど、あいつ、母親の生き写しみたいにそっくり。おば様がヒスる訳だよ。それも、おば様と知り合う前からの付き合いだったっていうから余計嫌われてた。視界に入れたくない、同じ場所で呼吸したくないってね」
 本人には何の責任も無い話だが、振り回される側にはたまったものでは無いのだろう。
 リシェは浮気相手の子供という立場で、今まで肩身の狭い思いをしてきたようだ。そして、何らかのきっかけで彼はアストレーゼンへ逃げて来たという訳だ。
「リシェが突然消えたのは、あなたはご存知だったのですか?」
 少年は眉を寄せ、そうだねと軽く返す。
「居なくても困らないし。ただ、リオデルは悔しがってたけど」
「リオデル?」
「あいつの母親違いの兄さんだよ。どうしようもない奴だけど、えらくリシェにご執心だったから…俺もあいつに嫌がらせしたけど、リオデルはもっとえげつなかったな」
 兄弟が居たのも初耳だ。
 だが、その兄弟からの扱いも想像に絶するのか。それにしても、やけに平然としながら自分も悪戯をしてきたと言えるものだ。
「兄弟なのに…ですか」
「リオデルにとっては、リシェが兄弟だからって頭は無いんだよ。あいつはリシェを慰み物にしてたんだから。まあ、男同士でやるにしても痛いのが大っ嫌いだから、最後まではしなかったけど」
 それがどんな意味を示すのか、その先を聞かずともオーギュは理解した。
 それ以上聞くのは、精神衛生上良くない気がして「もう結構です」と彼に向けて軽く手を振った。
 ただ、聞きたい事は一つだけある。
「あなたはもうリシェに危害を加える気は無いのですか?」
 オーギュの質問に、彼はふんわりした髪をかきあげるとふんと鼻を鳴らした。
「ガキじゃあるまいし…。俺は向こうに居たら世間知らずのままで終わっちゃうのが嫌だからこっちに来たの。悪いけどあいつに構ってる余裕は無いんだよね。それに、リオデルみたいに親のお金に甘え切ってるクズにはなりたくないし」
「アストレーゼンにおいて、リシェの立場はロシュ様によって完全に守られています。何かしら危害を与えると、ロシュ様に危害を与えるのと同じ事。どうか気をつけて下さい」
「…分かってるよ!ここじゃ俺は一般民なんだから、リシェがどうなろうと知った事じゃない。どうなろうが知らないし。あいつはあいつで、勝手にやっとけば?…っていうか、助けてやったのにさ、あんたは何なの?」
 説教なんて聞きたくないんだけど、と不愉快さを全面に出し、少年は言った。
 そういえば彼に助けられていたのだとオーギュは今更思い出すと、失礼と前置きした上で自己紹介をする。彼の言う通り、助けた相手に説教紛いのことを言われれば、言われる側は面白くないだろう。
「オーギュスティン=フロルレ=インザークです。アストレーゼンの司聖ロシュ様の補佐役をしている宮廷魔導師です」
 丁寧に相手に頭を下げ、すっと姿勢を正す。
 少年は目を丸くして「え?」と口を開いた。
「先に名乗るべきでした…すみません。助けて頂いて感謝しています」
「じゃあ、リシェにも近いんだ?そっか。そういう訳ね…まあいいや。安心しなよ、別に何かしたいとも思わないしさ。顔を見ればムカつくかもしれないけど」
 まだ、二人の間に確執があるのは仕方無いが、それを聞いてオーギュはホッとした。
「じゃあ俺は行くよ。まだやる事あるし」
「はい。先程はありがとうございました」
 上の立場である自分にも、物怖じしない性格のようだ。相手に拘らず普通の態度をするという事は、シャンクレイスではそれなりの家柄の出なのだろう。
 噎せそうな空気の中で彼を見送っていると、まるで彼の代わりのように何者かが背後から声をかけてきた。
「お?何でここに居るんだ、オーギュ様?」
 その声にオーギュはびくりと体をびくつかせる。
 ゆるゆると後ろを振り返ると、たちまち嫌そうに舌打ちをした。
 赤い髪の筋肉質の大男が、ヘラヘラしながら近付いてくる。全身が拒否反応を起こしていくのを、オーギュは感じていた。
 彼の顔を見ると、あの時の屈辱が嫌でも思い起こされてしまう。
「またあなたですか。出てくるのが遅いんですよ」
「何がだよ…ああ、そっか。俺に会いたくてここに来たの?」
 ヴェスカはオーギュをにこにこと笑いながら見下ろしてきた。彼の恵まれた体格は身長にも出ていて、上から見られるのすら嫌な気分にさせられる。
「そんな訳無いでしょうが。ゼルエ殿に用事があったんですよ。もう帰りますけどね」
「何だ、終わったのかあ。てっきり俺に会いに来たのかと思ったのにさ」
「思い上がりも程々にして下さい」
 吐き捨てるようにヴェスカに言うと、オーギュは大聖堂へ戻ろうと歩き出した。
「オーギュ様ぁ」
 ヴェスカは離れていくオーギュの背に話しかける。
「あんたさぁ、俺にすんごい色気出してくるぞ。もしかしてあれから意識してんじゃねえのかあ?」
 おかしげな発言にオーギュは足を止めると、ぐるりと振り返り、きつく睨みながらヴェスカに向けて魔力を放出した。
 びゅんと風の鳴る音と共に、ヴェスカは腹部から思いっきり強い力で押し込まれる感覚を覚える。同時にふわりと足元が浮き、強引に全身が吹き飛ばされてしまった。
 うわわわわ!!と情けない悲鳴を上げる彼の巨体は、突き当たりの壁に叩きつけられてしまう。
 ヴェスカは背中を打ち叫び声を上げた。
「痛っだぁああああ!!」
 ドシン、と建物が揺れる。かなり重みのある振動だった。
 遠くで壁にぶつかり落下したヴェスカに対し、オーギュはゴミを見るような目を向ける。
「調子に乗るな」
 遠くからでもその見下す様子は分かった。
 ヴェスカは尻餅で痛めた尻を撫でながら立ち上がると、埃を払いながら無邪気に笑って言う。
「ひぇえ…怖い怖い。でもな、あんたのあの時の顔思い出すとさ、逆にゾクゾクしちゃうんだよな。何でだと思うー?」
「あんたが変態だからでしょう」
 懲りないヴェスカは警戒心を剥き出しにするオーギュに近寄ると、苦笑いしながら「それならさ」と言った。
 打たれ強いのは鍛え抜かれた肉体を持つ故か。
 強めの魔力の衝撃波を打ったのに、打ちつけられても普通にしているのが腹立たしい。
「確かめさせてよ。俺があんたに惚れてるからそう思うのか、それともあんたが俺に惚れてんのか」
 足を止め、オーギュの前に立つとヴェスカは彼のシュッとした顎を強引に掴む。唐突にそのような所作を見せられ、抵抗が遅れた。
「何…!」
 腰に手を回されてグイッと引き寄せられる。
「黙ってろ。見られたら困るのはあんただろ?」
 動けないように固定された事に気付き、抗議しようと口を開いたその瞬間、ヴェスカの口が自分の唇を塞いでいた。
「!!?」
 何が自分の身に起きたのか、オーギュはしばらく理解出来なかった。すぐ目の前には浅黒い肌のヴェスカの顔がある。そして温かく柔らかな唇の感触。
 頭が混乱しどうにか意識を保とうとすると、唇をぬるりと滑らかな物体が割り込んできた。
「ふ…っ、んくっ…」
 乱暴で下品な口付けだと思った。口内を遠慮なく侵食する容赦の無さ。逃げようにも、力の差がはっきりしていて動けない。
「や、はっ…!やめなさ…」
 舌を吸われ、力ががくりと抜けそうになる。
 呼吸を荒げ、全身がゾクゾクと震えてくるのを感じながら、オーギュはヴェスカにしがみついていた。
 全てが熱い。逃げようとしてもまた塞いでくる。
「もうっ…しつこいっ」
 腹が立ってきた。
 体を押し付けながら止めないヴェスカの胸を何度か殴打するが、一向に効き目がない。
 力の無い自分を恨めしく思う。
「…ああ、分かった。俺があんたに夢中なんだ」
 ぴちゃ、と唾液の音を鳴らし、ヴェスカは呟く。
 お互いの吐息がすぐ感じる距離のまま、オーギュは彼に拒絶の言葉を放った。
「私はあなたに全く興味はありませんよ、残念ながらね!分かったら離しなさい!」
「それだよ、それ。あんたのその強情で傲慢な態度を見ると逆が見たくなるんだよ。オーギュ様さぁ、ドSっぽいけど実はめちゃくちゃドMだろ?」
「知るか!!」
 何故人の性癖まで知りたがるのか。
 オーギュは力一杯腕を伸ばし、ヴェスカから離れようともがいたが、このままでは埒があかないと判断する。
 同じ男としてはあまりやりたくは無かったが。
 いい加減に離れてくれないとこちらが困る。
 止むを得ず、オーギュは右足をひと思いにヴェスカの股間目掛けて蹴り上げた。
「っは!!」
 …壮絶な鈍痛にヴェスカの巨体は沈み込む。
 オーギュは隙を見て離れると、股間を押さえ膝をつき、苦悶する彼を忌ま忌ましげに見下ろして口付けされた唇を手の甲で拭った。
「恥を知れ、変態!!」
「…蹴るか普通っ…俺デカいんだぞ!その分痛みが半端無ぇんだからっ…」
「自分で言うな!」
 よく自分で言えたものだ。
 しばらく体を丸めて痛みを落ち着かせていたが、やがて彼はヨロヨロと立ち上がる。
「はあ…痛ぁあ…余計あんたを崩したくなってきた」
 これだけ罵倒しても引き下がらないヴェスカが薄気味悪く感じてきて、オーギュは「気色悪い!」と怒鳴った。
「馬鹿だなあ、あんたがどんだけ罵ろうが悪態垂れようが、俺は逆に燃えてくるんだよ。その分倍以上に崩してやりたくなる」
「………」
 ヴェスカは離れようとするオーギュの左腕を掴むと、強気な目を向けながらやけに優しく囁いた。
「覚えとけ、そのうちあんたは俺の事で頭いっぱいになる。ずっと俺の事ばっかり考えて、俺の全てを欲しがるようにしてやるよ。そうなったら思いっきり可愛がってやる。なあ、司聖補佐オーギュスティン=フロルレ=インザーク様?」
 暗示のように耳の奥に響くセリフに、かあっとオーギュの全身は熱くなる。
 何故こんな反応をするのか、自分でも分からなかった。まさか、本当に相手の言う通りの性癖なのか。
 そんな訳あるか、と自身を叱責するように気を取り直すと、近すぎるヴェスカを力一杯押し退けて「くだらない!」と怒鳴った。
「それには及びませんよ。私はあなたに二度と関わらないようにしますからね。あなたのその無礼さには本気で反吐が出る!私があなたを嫌いになる事はあっても、好きになる事など一切ありません!」
 今までこのように暴論を言い放った事など無かったが、あまりの無礼さに本気で頭にきていた。
 ヴェスカはヴェスカで、これだけ罵倒され拒否されても全くダメージを受けてないようだ。
相変わらず無邪気な子供のようにころころと表情を変化させてくる。
「俺を見ると過剰に反応するくせに。あんた、俺が宮廷剣士だっての忘れてんだろ。そのうち嫌でも俺に守られる事になるぞ?あんたが嫌でも、俺はあんたを守ってやるお役目を持ってんだからな」
「…これ以上は時間の無駄ですね。帰ります」
 相手にするのですら無意味だと思った。
 ヴェスカはにっこりと「おっ、そうだな」と笑う。
 何のつもりなのか、オーギュにはさっぱり分からなかった。
「今にあんたの鼻っ柱バッキリ折ってやるからさ、楽しみにしとけよな」
 最後まで胃をムカムカさせてくるヴェスカを睨み、オーギュは突き放す言葉を放った。
「あなたに会う位なら別の事をした方がマシです。そのような楽しみを持つなら別の楽しみを見つけて下さい」
 ああ言えばこう言う。
 足早に去っていくオーギュの残り香を感じながら、ヴェスカは沸々と湧いてくるサディスティックな愉悦を覚えていた。

 上空が深い闇に包まれる頃、大聖堂内の大広間には様々な来賓客が足を運んできた。
 有事の際にすぐ駆けつけられるように宮廷剣士らが配置され、外部は物々しい警戒態勢を強いられていたが、大広間は来賓客は和やかなムードでそれぞれの談義に花を咲かせている。
 新調されたばかりの真っ白くしっかりした生地で作られた白騎士用の服を身に付けたリシェは、ロシュから賜った新しい剣の具合を確かめながらその見事な扱いやすさに感嘆の声を漏らす。
 宮廷剣士の先に使いこなしていた一般の剣より軽量で、製作時に自分の手の中でしっくりくるように設計された持ち手の部分は、滑らないように加工されている。
 鞘は白を基調としながら、豪奢な金の装飾が縁取りされ、高級で高品質な様相を物語っていた。刃はうっすらとしたピンクゴールドの色合いで、柔らかな光を称えている。
「凄く扱いやすい」
 その出来栄えにリシェは満足していた。
「でしょう?私の杖もあなたの剣とデザインがほぼ同じなのです。杖は魔石の関係でやや豪奢な感じがしますけど…」
 似たような色合いの杖を手にしたロシュも、その見事な出来栄えに満足げだ。錫杖の上部に羽根を模した装飾が付いているだけで、持ち手の部分もリシェの剣と同じ。
 しっかりと魔力の増幅が出来るよう柄に紋様が彫られていて、膨大な力に耐えられる造りを施している。
「ああ、でもあなたとお揃いなのが嬉しい」
 ロシュは嬉しそうに言いながら、手にしていた杖を魔法の力で消してしまう。
 リシェはその不思議な様子を目の当たりにし、驚いて光の粒になってかき消える杖の行方を気にした。
「ろ、ロシュ様…杖は?」
「ああ、大丈夫ですよ。私が魔法で作り上げた空間に一時収納しただけですから」
「そんな事が出来るのですか?」
「はい。魔法は何でも応用が利きますよ。火を起こしたり、洗濯をしたり…旅路だと尚更ね。お風呂代わりに水を浴びたりも出来ます。私はあまり実用性のある魔法は使えませんが、オーギュのような魔導師なら何でも出来ますよ」
 魔法は邪気を払ったり魔力に支配された動植物をあしらう為の手段だと思っていたが、日常にも使えるのだとリシェは知る。同時に、更に魔法への興味が湧いてきた。
「俺もぜひ、使ってみたいです」
「本来なら懇親会が始まる前にオーギュにお願いしたかったんですが…取り込み中でなかなか塔に戻られなかったですからねぇ」
 兵舎に懇親会の打ち合わせに行くと告げて出て行ったオーギュはなかなか塔へ戻らず、結局時間が押し迫った時にようやく顔を見せてきた。
 やけに遅かったですねと問うと、彼は苛々している様子で邪魔が入ったの一言のみ。
 あまりにも苛々しているのが分かってしまい、ロシュは「はあ」としか言えなかった。
 普段自分に対して怒る事はあったが、あんなに彼がキレるのも珍しいのだ。
 そこからまた準備をしに大広間へ姿を消してしまったので、頼み事をする余裕が無かった。
「いえ、そんなに急がないので…」
「時間に余裕があって、あの人の機嫌がいい時にお願いしましょう」
「はい」
 現在二人は大広間に隣接されていた小部屋に居る。準備と来客が揃う時間がくるまで、控室として利用していた。
 騒めきが止まらない大広間とは違って、防音もされていて比較的静かだ。
 ロシュは窓辺へ近付き、上空を見上げる。
 深い闇に包まれた空は、無数の星が宝石のように散りばめられている。そして、その星を統べるように鎮座する満月。
 ほう、と柔らかな表情をしながらロシュは目を細めた。
「満月ですね。魔力の流れが一番濃くなる時だ」
 夢中になって新しい剣を眺めていたリシェは、彼の隣に着くと同じように見上げる。
「流れが濃いと、何か違う事があるのですか?」
「そうですねぇ…何の影響も受けない人ならいいんですが、マイナスの意思を持っている人で魔力の障りに弱い人は何かしら影響があるかもしれません。そこまでは酷く陥る事は無いと思いますけど、変に拗らせると他者に危害を与えてしまうとかね」
「…大聖堂は強固な警備をしていますから、もし怪しい者が来てもすぐに排除出来ます」
 ロシュに危害を与える者が居たとしても、必ず自分が守ってみせる。リシェは自分が、一番大切なロシュの盾になれる喜びを感じていた。
 痛みを伴おうとしても、ロシュに血を流させはしない。
「ええ、ですから私も安心出来ます。勿論、あなたもいて下さいますから」
 ロシュはリシェの目線に合わせて屈むと、彼の滑らかな額を優しく撫でる。
 リシェは彼が望むまま、額や?に触れさせながら、若干くすぐったそうにしていた。
「ロシュ様の手、温かくて優しいです」
 この少年は、まるで猫みたいだとロシュは思う。
 小さくて幼いくせに、必死に自分を大きく見せようとする猫。手を差し伸べれば遠慮がちに甘えてくる。
「あなたが望めばいつでもこうして差し上げますよ、リシェ。沢山甘えて下さい」
「何かくすぐったいです…」
 首筋に軽く触れると、リシェはひくひく震えながら髪と同じ色合いの大きな瞳を少し潤ませていた。
 触れる度にロシュはリシェが欲しくなり、またキスしてあげたいと欲が出てしまう。
 抱きしめて自分の腕の中に閉じ込めたい、と。
「はあ…リシェは可愛いですねぇ」
 もっと近くに居たいと徐々に近付き、すべすべした額に軽く唇が触れようとしたその瞬間。
 バターン!と部屋の扉が開かれた。
「ロシュ様ーぁ!!」
 元気な双子が突如姿を見せてきた。反射的に、ロシュはばっと体をリシェから離す。
 その早さはリシェですら驚いた位だ。
「居た居た!探したんだよぉ」
 大輪の花のような華やかな笑みをするルシル。
「めっちゃ美味そうな飯並んでた!早く食おうぜ、ロシュ様!…んん?ロシュ様?」
 ルイユは泣きそうなロシュの顔に気付き、首を傾げどうしたのか問う。いい所を邪魔され、リシェに接近していたのを誤魔化そうと必死な彼はふるふると切なそうに首を振った。
「いえ、いいのです、何でもありません…」
 がっかりするロシュ。
 あわよくばリシェにキスしたかったと、司祭の頂点らしからぬ欲望をぐっと堪えた。
 すると間を開けて、きょとんとする双子の後を追うようにして黒いスーツ姿のバリッとした青年が開かれた扉から姿を見せる。
「ルイユ様、ルシル様!!また勝手な行動をなさって!!あちこち動き回るのはやめなさいと言ったでしょう!」
 オールバックの髪型をやや崩し、縦横無尽に走り回る二人を叱咤した。部屋の中でロシュの姿を見つけると、ハッと我に返って「すみません!」と頭を下げる。
「まさかロシュ様が既にお越しとは」
「この子達が突然来てくれるのには慣れてますから、大丈夫ですよ」
 畏まる二人の世話役と向かい合うロシュの笑顔は、やや悲しげだ。リシェはいそいそとそんな彼から離れ、何事も無かったように振る舞う。
 半ば怒りながら世話役のクラウスは最初にルシルを引っ張ると、「これ以上は暴れさせません」と捕獲する。
 年齢の割に大人びた彼は、じゃあ何かしてくれる?と見返りを要求してきた。
「いいから黙ってなさい!」
 ルシルを捕まえたクラウスは、今度は兄のルイユに目をつけた。ルイユはリシェの影に隠れ、彼を盾にしながら捕まんねーぞと張り合う。
「クラウスに捕まったら確実にゲンコツ食らうからやだ!」
 真っ白い礼装の後ろでルイユは喚いた。
「ゲンコツ食らうような事をするからだろ」
「うるせー!リシェのくせに文句垂れんな!」
 リシェのくせに、とは何なのか。
「ルイユ様、あなたは本当に言葉遣いがなってませんね!お父上が悲しみますよ!」
「父様は慣れてるから問題ねーよ!」
 怒り心頭状態のクラウスに向け、リシェをぐいぐいと押し出している。困った顔のリシェ。
「クラウスしつこい!俺はロシュ様の側に居たいんだよ!」
「いつでも近くに居れるでしょうが!今日位は大人しくしてなさい!」
 リシェは面倒になり、嫌だ嫌だと喚く背後のルイユを掴むと、そのまま彼をクラウスに突き出した。華奢な体から想像もしない強い力に驚きながら、ルイユは「リシェ!お前!」と怒り出す。
 リシェは無表情のまま彼に非情な言葉を投げた。
「ちょろちょろ動いて煩わしい」
 クラウスはふっと不敵な笑みを浮かべながら、ルイユの襟足に手を回して掴む。そしてリシェに礼を言った。
 ようやく探す手間が省けて安心したようだ。
「ありがとうございます」
「くっそ!リシェのバーカ!!役立たず!!」
 更にエスカレートするルイユの悪態に、にこやかにクラウスは容赦無いゲンコツを与えた。ごつりと重たい音と共に、動きは停止する。
 あいた!!と頭を押さえるルイユだが、される事にはすっかり慣れた様子だ。
 彼らの世話役という雇われの立場だが、容赦無く躾をするクラウスはベテランの域を超えている。
「ロシュ様、大変失礼致しました。では後程」
「は、はあ…」
 二人の少年らをしっかり掴んだクラウスは、元の冷静さを取り戻すとすぐに部屋から出て行った。
 …再び室内は落ち着きを取り戻す。
 勢いに圧倒され、ロシュは脱力していた。
「ロシュ様?」
「…いやあ、元気ですねぇ…」 
 まだ始まる前なのに、どっと疲れたようだ。
「お疲れになったら、挨拶だけで後はこの部屋で休むのもいいと思います。見た感じ、懇親会は割と人数も居るみたいだし」
 大広間の方へ顔を向け、リシェはロシュを気遣う。
 個人的には人が混み合うのを見るだけでも億劫だが、ロシュの護衛という願ってもない役目にリシェは心踊る気持ちだったが、最愛のロシュは日頃から疲れているに違いない。
 毎日のデスクワークや祈りの時間に加え、週に一、二回行われる司祭同士の勉強会などのスケジュールをこなしてきた上での懇親会は、いくらロシュといえどもしんどさが増えるだろう。
 加護を受けた身だとしても、体力には限度がある。
「私はリシェと二人っきりだと元気になりますよ」
「…またそんな、ご冗談を」
「本当ですってば」
 ほんわかした柔らかな表情をリシェに向けた後、ロシュは「さて」と一息つく。
「時間なのでちょっとご挨拶に行ってきます。あなたのご紹介も兼ねておきたいのですが、一緒に参りますか?無理にとは言いませんが…」
「いえ…俺はあなたの後ろで控えるべき人間です。それに、目立つのは苦手で」
 ロシュはリシェの頭を優しく撫でた。
 子供扱いされている気分になり、リシェはつい困った顔を露わにする。
「ご挨拶に回った後は、すぐにあなたの元へ戻ります。退屈かもしれませんが少しの間我慢して下さい。あっ、ご馳走も用意されていますから遠慮なく食べても構いませんからね」
「ありがとうございます」
 そうは言うものの、さすがに任務中に食べる気にはなれなかった。会の最中はロシュを見守りながら、部屋の隅で待機しておこうとリシェはぼんやりと考える。
 部屋からロシュが出て行くと、騒めいていた会場はぱっと静かになるのが分かった。そして間を開けて、盛大な拍手が沸き起こる。
 アストレーゼンの象徴と言われるロシュの存在は、ここでは絶対的なものとして他者の目に映るのだろう。
 拍手の最中、リシェはそっと部屋から会場へ抜けた。晩餐会に参加している関係者は全て正装をしていて、眩く見える位華やかだ。
 地味な性質の自分には場違いな気もしなくはないが、ロシュの為に出来るだけひっそりと見守らなければと角へ寄った。
 大広間の天井には豪奢なシャンデリアが輝く。年代物で、大聖堂らしからぬ派手なデザインだが、沢山の来賓を持て成す場に相応しいのかもしれない。
 夜風に揺れる金縁のベルベットのカーテンに包まれた会場内。料理の香りに加え、香水や花の香りが入り混じった不思議な匂いが漂ってくる。
 ロシュの軽めの挨拶の後は、和やかな懇親会の始まりを告げた。
 真っ白なクロスに覆われた円形の大きなテーブルには有り余る程の豪華な食事が所々に置かれ、貴族らはそれぞれの料理に舌鼓を打っている。
 ビュッフェ方式で好きな物を摘む来賓達の中、リシェは人酔いしそうになり冷たい水を貰ってグラスを傾けた。
 …やっぱり、こういう所には慣れないな。
 リシェはシャンクレイスに居た時の事を不意に思い出していた。
 親族を呼び寄せたささやかなパーティをよくやっていた。とはいえ自分は参加する資格は無く、絶対に顔を出すなと釘を刺されていたが、楽しげな笑い声や食欲をそそる料理は魅力的に感じていた。
 何故自分は表に出られないのか、幼い頃は分からず寂しい気持ちだったのを覚えている。
 その理由を教えてくれたのは、自分の母親だと思っていた『義理の』母親からだった。
 汚らしい忌み子、憎い憎いと罵られ首を絞められた時から、自分の心は枯渇してしまった。
 その理由を聞いて以来、リシェの目に見えていた景色は彩りが消えた。華やかな場面を見ても何も感じない。例え賑やかな場面に遭遇しても、「ああ、何かしているな」という味気ない感想しか出てこなかった。
 シャンクレイスでの自分は死んだも同然だった。
 故郷を捨てた今は、きちんと色が見える。少しずつだが、ゆっくりと生きているのを感じている。
 生きる意味がある事が、これほど幸せなのかと思えるようになっていた。
「リシェ」
 自分を呼ぶ声がし、ハッと我に返る。
「どうしてこんな端に居るのです?お腹空いたでしょう」
「あ…オーギュ、さま」
 普段の魔導師の法衣姿のオーギュは、ワイングラスを手にしながらこちらを見下ろしていた。
「オーギュで結構です。これだけご馳走があるのですから、遠慮なく食べてもいいんですよ」
 目立たないように隅で水を飲んでいたのがかえって不自然に見えたオーギュは、リシェを引っ張り中へ進む。
「任務中だから」
「ロシュ様はそんな事気にしません」
「後で頂こうかと思ったんです」
「終わる頃には無くなってますよ。こういうのはさっさと食べた方がいいんです。それとも遠慮していたんですか?」
 遠慮というか、何というか。
 任務中に食事をするのは抵抗があった。
「俺は食事しに来たつもりは」
「いいから食べなさい、ほら」
 彼は酔っているのだろうか。
 オーギュは側にあった厚切り肉をフォークで突き刺すと、強引にリシェの口に押し込む。むぐぐと呻きながらも濃厚な味付けをされた肉を頬張った。
 意外にも柔らかく、肉汁が口内に染み渡る。
「あなたはまだ子供だからアルコールが無い方がいいでしょうね」
 その辺を歩いていた給仕役からソーダ水を受け取るなり、「ほら」とシャンパングラスを肉と同じように押し付けてきた。慌てて飲み込んだせいか、少し息詰まる。
「んぐ」
 口内の油分を、弾けたソーダ水がさらりと流す。爽快な感覚を覚えた。
「お給料から天引きされる訳じゃないんですから、こういう時はきちんと頂いてしまいなさい。でないとあなたが損をします」
「こういう場に慣れてないんです」
「それなら今から慣れていきなさい。ロシュ様と一緒に居る事になると、このような会合に参加せざるを得ないですから。大人達の他に、あなたと変わらない年齢の方もいらっしゃいますから親しくなって教えて貰うといいでしょうし」
 確かに、来賓客の中には自分と変わらない年齢の者も居た。かと言って、親しくなる程リシェは社交的ではなかった。
 向こうは親達の連れ合いで、自分はそうではない。
 彼らも性格は様々で、給仕役を顎で使う者も居れば、丁寧に礼を告げて頭を下げる者も居る。
 身分が違いすぎて、到底仲良くなれる筈もない。
「オーギュ様!お久しぶりです」
 来賓の一人がオーギュに話しかけて来る。でっぷりと肥えた恰幅のいい中年は、彼に対し終始にこやかにして挨拶をしてきた。
 奇抜な色を取り入れたスーツを着ているくせに、更に宝石を沢山身に付けているせいで目にうるさい。
「お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「そちらも変わらないご様子で何より。どうです、まだ独り身かな?今日は娘を連れて来たのだよ」
 お互い握手を交わし、久しぶりの再会を喜ぶ様子をリシェはぼんやりと眺めていた。
 色々な人間と顔合わせも大変だな、とリシェはソーダ水を口に含む。
 人酔いしそうだと思っていると、不意に「やあ」と声が聞こえてきた。
 臙脂色の小綺麗な礼装姿の少年がリシェに笑いかけてくる。どこかの貴族の息子なのだろう。
「君、初めて見かけるね」
「俺の事か?」
 リシェから放たれた『俺』という発言に、少年は一瞬眉を寄せたが、すぐに表情を戻すとそうだよと笑った。
「どこから来たの?その白い服、男装してる訳?」
「男装って…」
 上から下からじろじろ見られ、リシェは困惑する。
 少年はフッと口元を緩ませた。
「君に似合うのはドレスだと思うけどなあ。黒髪で色白だから、明るい赤色とか似合いそう。ああ、でもシックなワインレッドとかもいいかもね」
リシェはムッとしてその少年を見上げると「何の勘違いをしているんだ」と反論する。
「男装なんかするものか。女装はもっと御免だ。俺はこれが普通なんだ」
「へ?」
 リシェの言っている事が分からずぽかんと口を開いていると、ようやく挨拶回りを済ませたロシュが戻ってきた。
「リシェ、お待たせしました!」
「ロシュ様」
 少し心細かったリシェは、内心ホッとする。ロシュは対峙していた少年と交互に見比べると、いつものようにほんわかした微笑みを見せ、平和的な発言をしてくる。
「もうお友達が出来たのですか?」
 しかし、リシェは「声をかけられただけです」とあっさり否定した。
 向き合っていた少年は、ロシュの突然の出現に驚いて口をぱくぱくさせている。
「ロシュ様…?」
「はい。…ごめんなさい、初めて来て下さった方でしょうか?」
「初めてです!今日は父様にお願いして連れてきて貰いました。大聖堂の宴に興味があって」
 緊張からか、彼は姿勢が正しくなっていた。
 アストレーゼンの象徴がすぐ目の前に居るのが信じられないのか、カチコチになっているのが分かる。
 中身はどうあれ、見た目が無駄に華やかなロシュは、そこに居るだけで周囲の目線を惹きつける。
「お父様とご一緒なのですね。ふふ、お顔で何となくお父様が分かりましたよ」
「あの、ロシュ様?この子は一体」
 少年はリシェに目をやり、ロシュに問う。
 やはり彼の近くに置く人間にしては若過ぎて不自然に見えるのか、少し異質に感じたらしい。
「この子ですか?」
 ロシュはリシェの頭を愛玩動物のように優しく撫でると、「リシェは私の白騎士です」と答えた。
 まさかの人選に、周囲の人々はどよめいてしまう。
「ロシュ様!」
 知り合いとの会話を切り上げてきたオーギュが慌てて戻って来た。手にはしっかりとワイングラス。
 せめてリシェを紹介する時は最初の挨拶で大々的にやって欲しかったと思いつつ、「きちんと改めて皆様に伝えて下さい」と困り顔を見せる。
「いや、俺があまり目立ちたくなくて紹介しなくてもいいって言ったのです」
 リシェはロシュを庇うと、彼は照れ臭そうにリシェの手を取った。
「えへへ…すみません。こういう事はちゃんと知らせなきゃいけませんよね」
 アストレーゼンの司聖を守る役割を持つ騎士。
 それは国内の誰もが気になる役目。今まで誰になるのかと噂をしていたものの、当のロシュはなかなか決めていなかった。
 決めていないというか、面倒だったのが正直な話。
 相応しい者が見つからなかったのもある。
 白騎士の人選という事自体に、人々の興味が薄れてきた今こそ、改めて知らせる必要があった。
「ロシュ様?」
「リシェ、恥ずかしいでしょうが少しだけ我慢して下さいね」
 ロシュは最初に挨拶をした真っ赤なカーペットが敷かれている壇上にリシェを連れて上がると、改めて会場内に頭を下げる。
「皆様、お伝えしたい事がもう一つございます」
 照れ臭そうな表情から一変させ、ロシュは大広間の来客者に語りかけていた。
 隣国から来た小さな少年剣士の存在を知らせる為に。

 大聖堂の警備を任された宮廷剣士達は、不審者が侵入しないよう強固な警備態勢を敷いていた。
 国内の来賓が集まる場は、不遜な輩が狙って来る可能性が高く普段より警戒を強めなければならない。
「寒いな、今日は」
 宮廷剣士を総括するゼルエは、冷えた二つの手を擦り合わせながら呟いた。
 日中は暖かいものの、夜は急激に寒さを増し、防寒具が必要は時がある。
 肝心な時に剣を扱えなくては困るという事で、各自支給された軍手を嵌め、腰まである外套を纏いながらの警備。
「満月だなぁ」
 ヴェスカは冷えた空を見上げた。
 外套の襟を立て、寒さを凌ごうとするラスは彼の隣で上空を仰ぎ見る。
 どこからか、寂しげなフクロウの鳴き声が聞こえていた。しんとした静かな夜に良く響き、満月の夜に味わいを添えて居る。
「やけに綺麗に見えますね。空気が澄んでるからかな?」
「こういう日はやけに血気盛んなのが居たりするからな。気ぃつけないと」
 ゼルエの指示によって剣士らは大聖堂の周辺を囲むように散開していった。人の入りようの無い壁がある場所以外に剣士らを配備し、不審者が入らぬように目を光らせる。
「緊張してるのか、新入り?」
 第二班の班長のヴェスカは、緊張した面持ちで任務に臨む見習いの剣士に声をかける。
 内心の動揺と初々しさをひた隠しにする少年剣士は、冷たく乾燥気味の空気に軽く咳をしてから「いえ」とだけ返した。
「警備だけなら、俺でも出来ますし」
「それでもちゃんとした任務だからな。今日はこの国のお偉方が集まる大事なイベントだ。粗相の無いようにしないと」
 自分達の立ち位置から高い場所にあるオレンジ色にライトアップされた大聖堂を見上げ、ヴェスカは彼に軽めの檄を飛ばす。
 たかが警備といっても馬鹿に出来ない。
 これだけ万全な態勢で警備を強化しているのにも関わらず見逃してしまうと、アストレーゼンの誇る宮廷剣士の恥になってしまう。いくら簡単な任務だからといって甘く見てはならないのだ。
「分かってます。しっかり警備任務をこなします」
 ツンとした表情のままだが、上下関係はきちんと把握しているようだ。会話がやや面倒そうにしている様子が見えたが、辛うじて受け答えをしてくれる。
 ゼルエから聞いていた話だと、シャンクレイス出身でリシェと従兄弟だというが、タイプは全然違う。
 しかし、雰囲気は何となく似ていた。
 シャンクレイスの若者の間では、他国で腕試しみたいな事が流行っているのだろうか。
「お前はまだ見習いだし、近くに俺が居るから侵入者を見つけたらすぐに知らせろよ。…えっと、名前はウィスティーレだっけ?」
「スティレンで結構です」
 似たような雰囲気でも、このスティレンはとっつきにくい気がしてきた。
 これがリシェなら普通にからかう事が出来るが、スティレンは変な目で見てきそうだ。
「そっか。じゃあスティレン、異変に気付いたらすぐ俺に知らせるようにしろよな。まだ場慣れしていないだろうから怪我しないようにしとけ」
「はい」
 スティレンの返事を受けたヴェスカは、良く手入れされた彼の柔らかな髪を軽くわしゃわしゃと掻き乱すように撫でるとその場から離れていった。
 一方。
 うるさい上司が去っていくのを見届けるスティレンは、乱されたヘアースタイルを溜息混じりに直す。
 …きちんと整えてるのに。
 この国に居る剣士らはガサツな人間ばかりなのは良く分かったから、自分への扱いも雑なのは諦めていた。
 前線に立てるのかと思いきや地味な大聖堂の警備とは、馬鹿にしているにも程があると正直感じていた。もっと活躍して、上に上がりたい彼はやっと抜擢されたのがこの役目だと知って落胆したのだ。
 このような収穫も無い仕事だと、自分の力を発揮出来ないではないか。
 出来ればもっと派手な仕事で手柄を取りたかった。
 刃物を扱うのには慣れていたし、どちらかと言えば身軽な方だから、例え変な暴漢が来ても容易にあしらう事は出来る。
 シャンクレイスでは似たようなゴロツキと行動を共にしていたので相手をするのは慣れていた。
 多少危険が襲いかかってきたとしても、慣れている分大丈夫なのだ。
 持ち前の自意識過剰な性格のせいなのか、スティレンは自分の力を他人に見せてやりたいと日頃から思っていた。
 地味な仕事は華やかさを好む自分には向いていない。派手な場面で活躍するからこそ、自分の存在する意味がある。こんな任務やる事自体、無意味だ。
 はあ…と不満な気分を吐き出すように溜息をついた。
 寒さのせいで、吐く息も白い。余計憂鬱な気分にさせられてしまう。
 周辺は静かで、たまに虫の音が小さく耳に届く程度。
 このように平和そのもので、特別に警備せずとも夜間は正門が閉ざされている堅固な大聖堂に侵入する者など居るはずがないのだ。
 どうせならパーティが見える場所で警備がしたいと欲を出す。
 寒空の下、少し震えながら辺りを見回すと不意に気配を感じた。
 静かだが、闇夜の奥で蠢く影が見える。
 砂利を踏み締める音と、こちらに近付く様子に、スティレンは「班長?」と声をかけた。
 しかし返事は無い。
 無い代わりに、足音だけが近くなっていた。
 ヴェスカなら必ず返事をしてくるはずだ。
「何か言いなよ。もしかして、ラス?」
 宮廷剣士になった時に友達になった少年の名で問いかけるも、やはり返事が無い。
 ごくんと生唾を飲み込む。まさか、本当に不審者が近くに居るのだろうか。
 スティレンの手が、剣の取手に触れる。
 怪しい者が居たらすぐに俺に知らせろと言うヴェスカの言葉を思い出したが、自分が単独で不審者を捕らえる事が出来たら大手柄ではないかと思い上がった感情が湧いていた。
 …それは新人剣士にはあまりにも危険で、愚かな考えだった。
 身の程知らずという言葉は、今までの優雅な生活を享受してきた世間知らずのスティレンの頭には無い。
「黙ってないで、何か喋ったらどう?それとも新手の先輩方の嫌がらせ?」
 闇に向かって軽く挑発してみる。しかしやはりというか、返しが無い。
 不気味な感覚をその身に覚える。
 スティレンは地味に迫り来る異様な感触に、つい腕をさすった。
 まるで虫が足元から這い寄ってくる嫌悪感。じわりじわりと近付く不快さに、強気な彼は舌打ちする。
「何なの…早く出てき」
 出てきな、と最後まで言葉が出なかった。
 それは本当に一瞬。彼の横を何者かが遮り、視界が真っ暗になると同時に右腕が熱くなった。
「……っあ…?」
 自慢の綺麗な顔に、熱い液体が飛び散る。
 下から抉られるように右腕を斬られたと頭が理解するまでに時間がかかった。一瞬過ぎて、思考が追いつかない。
 スティレンは横切った影を睨むと、まだ無事である左手で自前のナイフを投げつける。
 空を裂き影に向けて一直線に飛ぶが、弾かれたのか冷たい金属音が響いた。
 充満する血生臭い匂いに、目眩を感じた。
「…ヴェスカ班長…!!」
 傷を負った身ではこちらが不利だ。悔しいがヴェスカを呼ぶ事が最善の方法だと奥歯を噛み締める。
 仲間を呼んだのを理解した影は、監視の目が届かないうちに大聖堂の方へ向けて去ってしまった。
「しまっ…」
 切り裂かれた腕の感覚が、熱いを通り越して痛みを発してきた。血が溢れ、どくどくと流れ落ちていく。脂汗が湧き出し、遂には膝が地面にがくんと落ちた。
 …何も出来ないですぐに見逃すだなんて!
 痛みを堪え、彼はギリギリと拳を握る。
「スティレン!!どうした!?」
 ヴェスカはすぐに駆け付けて来た。
 早めにそうすれば良かったのだろうか。スティレンは呻き、頭を垂れた。
「な…!!何だ、何があった!?」
 血溜まりの中で膝を着いた彼を見るなり、ヴェスカは問い質す。
「すみません…怪しい奴なんか来る訳ないって、高を括ってしまいました…大聖堂の方に、多分曲刀を持った奴が行ったかもしれない」
 ヴェスカはあらかじめ持っていた止血帯を用いて応急処置を済ませると、「起きてしまったのは仕方無え」と一言告げた。
「ラス!!ラス、二番地点に来い。…緊急事態だ、スティレンを兵舎に連れて行ってやれ。そんで、行きがけに士長に報告しろ。賊紛いが大聖堂に侵入した可能性があるってな」
 近場を見ていたラスに声をかけると、彼はその異様な光景に息を飲んだ。
「スティレン!」
「くそ、不意打ち喰らったよ。俺の綺麗な顔を汚しやがって」
 強がる若い見習い剣士の発言に、ヴェスカはついふっと笑う。
「それだけ強がり言えるなら大丈夫だな。とにかくその怪我をどうにかしてこい。…マクヴィティ、二番地点の警備を頼むわ」
 同じ班の別の剣士を呼びつけると、ヴェスカは高い位置に存在する大聖堂を見上げた。
「ヴェスカ?」
「部下の失敗は俺が補わなきゃな。責任取って行ってくるよ。士長にはそう言っといてくれ」
「ばっ…!危ねぇぞ、単独で行く気かよ!?」
「逆に大人数だと物々しいし、肝心な大聖堂の警備も薄くなる。それに向こうにはリシェが居るし大丈夫だろ。いざとなったら近くにも護衛が居るだろうさ」
 中にも守れる人間が居なきゃおかしいだろと鼻で笑う。
 確かにそうだけどよ…とマクヴィティは言うものの、単独で動いていいものなのか。
 思い悩んでいる彼をまるで気にしないように、行ってくるわと軽くヴェスカは告げ、大柄な体を揺らしながら大聖堂へ向け一直線に走り出した。

 ロシュから会場内の人々に紹介され、慣れない挨拶を済ませたリシェは、疲れ果てながら大広間に併設されているテラスに出る。
 会場内は人の熱気の為に暑く感じ、白騎士の制服の襟を少し開けていると、暇を持て余していたルシルが近付いてきた。
「んふ。リーシェ!」
「…何だお前か。うるさいのはどこに行ったんだ?」
 ヒラヒラしたレースをあしらった服を身に纏うルシルはリシェの腕に抱き着いて、くりっとした丸く潤んだ目を向けながら「分かんなーい」と可愛いらしく返事をする。
 ルイユも彼の様な姿をしたら多少は可愛げがあるのだろうか。
「探してるんだけど、見つけても気付いたらあちこち行っちゃうの」
「そうか」
 鉄砲玉みたいな奴だなとリシェは笑う。
「リシェは一人でボーっとしてて平気なの?ロシュ様と一緒に居なくて大丈夫?」
「冷たい風に当たりたくなったから許可を貰って離れてるんだ。同じ空間に居る事には変わりないからな」
「そうなんだぁ。ロシュ様はモテるからちゃあんと監視しといた方がいいよぉ。ご婦人方が蛇みたいな目をして狙ってたりするからね」
 ルシルはぴったりとリシェにくっつきながら忠告してきた。同じような背丈の為に顔が近くなりやすく、お互いの吐息が触れるのを感じる。
 毎日の手入れの賜物なのか、ルシルは滑らかなきめ細かい肌で睫毛も長く、月明かりに映える金色のカールした髪も相まって人形のような愛らしさだ。
 つんとした唇はルイユと似ていたが、早熟した性格のせいで魅惑的にも見えてくる。
「お前はルイユと全然性格似てないな」
「そーお?んふふ、でも同じ性格が二人居たら大変だと思うよぉ。ね、リシェはロシュ様が好きなの?」
「唐突に話を変えてくるな」
 話題の方向が途中からバッキリと折れ曲がり、リシェは脱力しかけた。
「好きじゃなきゃここまで来れないか。じゃあさ、ロシュ様とエッチした?」
 バッキリと折れ曲がってきた話に、更に鉄球を打ち込むような状態にしてくる。かあっとリシェは顔を真っ赤にし、くっついたままのルシルに「アホか!!」と怒鳴った。
「あれ?何でそんなに真っ赤になるのぉ?」
「いきなり変な方向に持っていくからだ!」
「そんなに慌てるって事は、エッチしたんだぁ?」
「違う!!」
 ムキになって否定した。
 思い出すのは、司聖としての力を与えたいと言われて口付けしたあの時の記憶。ロシュと交わしたキスは甘くて、何とも言えない感情が込み上げていた。
 薄い唇からの熱い吐息で頭がくらくらして、胸の奥がきゅうっと締め上げてくる感触。
 あんな体験はした事が無かった。
 あれはロシュ様から力を貰うための物だ、と頭では分かっていても。
「リシェったら分かりやすいなぁ」
「お前は年の割にませ過ぎだ!」
 ルシルはリシェの反応が面白いのか、やけに色気を放つ目線をしながら彼の?を突く。
 鬱陶しそうに顔を反らすと、リシェはふっと変な気配に気付いた。
 ぞわりと肌を逆撫でる感触と、嫌な予感が襲う。
 甘えてくるルシルの腕を解き、「室内に戻れ」と小さく囁いた。きょとんとした顔のルシルはどうしたのと不思議そうにリシェを見上げる。
 間を挟み、ルシルは足音がするとぽつりと呟いた。
 出来るだけ危険から遠ざけようとルシルを背後に押し込んでいると、ドカドカと近付く足音と共に大きな影が暗闇からやって来る。
 反射的に剣の柄に手をかけていたリシェは、「誰だ!!」と怒鳴った。
 宮廷剣士が大聖堂に配置されていたにも関わらず、隙間を見つけて侵入するとは、さぞかし手練れの者なのだろう。
 だが容易に侵入しやすい状況を作った剣士側にも落ち度がある為きちんと報告をしておかなければならない。
「…リシェ!!」
 その怪しい影がようやく明確に姿を見せてきた。
 飽きる位見慣れたその巨体。
 真っ赤な短髪の、背が高く筋肉質の大男。
「ヴェスカ!?何でお前が」
 妙に鬼気迫った顔で、彼はリシェに詰め寄った。
「こっちに侵入者が来なかったか!?」
「侵入者はお前だ!何しに来た!?」
 言われ、ヴェスカは周囲を見回した。見る限り、煌びやかで和やかな懇親会の様子が目に映る。
 彼は緊張し、ごくりと喉を鳴らした。
 まだスティレンを襲った侵入者がここまで来ていないらしい。
 いつ、どこで仕掛けて来るのか。
「お前の代わりに臨時で班に入った見習いが襲われた」
「…スティレンの事か?」
「知ってたのか?」
 リシェは軽く頷くと、「スティレンは?」と逆に問う。彼には嫌な目に合わされたが、顔見知りなだけに少し心配だった。
「応急手当して、ラスに頼んで兵舎に戻したよ。まだ見習いだってのに、危険な目に合わせちまった。見逃した俺の責任だ」
 悔しそうに吐き捨て、ヴェスカは首を振る。
「まだこちら側には誰も来てない。でも、大聖堂に入ったのは確実なんだな?」
「来るとすればこっちに来るだろうよ。何せ来客が来客だからな。しかもお偉いさんも集中してんなら尚更だろうよ」
 リシェの背後にくっついていたルシルは、ふと勘付いたかのように彼の腕を引っ張った。
「ルイユが…」
「え?」
「ルイユが、危ない」
 リシェとヴェスカは不穏な気配に気付く。それと同時に、大広間から何かが弾ける音と共に悲鳴が聞こえた。
 三人は慌てて大広間へと駆け込む。
「ルイユ!!」
 予感を的中させたルシルは、悲痛な声を上げた。
 派手なクラッシュ音と共に目に映ったもの。
 …血に塗れた曲刀がギラギラと光を放つのが見える。
 急激な殺伐とした状況に、来客達は恐慌し怯えた様子を露わにしていた。
 凶器を手にした侵入者は、ルイユを脇に抱え大広間の来客を威嚇する。顔を布で覆い、目だけぎらつかせながら「司聖を出せ」と要求してきた。まだあどけない子供を盾にするあたり、彼の狡猾さを感じる。
「おいこら!離せ!うぜーんだよ馬鹿!」
 危険な状況下に置かれても、変わらないのはルイユのみ。足をばたばたさせ、口汚く男を罵っていた。
「聞いてんのかてめー!離せっつってんだよ!」
 その威勢の良さに、ついヴェスカはすげえなと呟く。その横でリシェは余りの緊張感の無さに内心呆れ果てていた。
 割れたグラスの破片を踏み締め、男はじりじりと刀を手に大広間の中心へ進んでいく。同時に、懇親会の参加者は後ろへ少しずつ下がった。周囲に輪を作る形で、楽しかった会場は異様な雰囲気に包まれる。
 リシェとヴェスカは華やかな参加者の波を掻き分けて輪の中へ進むと、それぞれの剣をすらりと抜くと、不埒な侵入者を睨み据えた。
 あまりこのような場で血を流したくはないのだが、緊急時であればやむを得ない。
「んあっ!?リシェ、来んの遅せぇよ!!」
「何でそいつに引っかかったんだ」
「はあ?俺が聞きてーよ!いいから早く助けろ!」
 何故か怒られてしまい、助ける気が失せそうになったが彼も一応大聖堂の来客だ。仕方無しに侵入者の前に立つ。
 鋭い眼光を一身に感じながら、冷静に対峙する。
 その一方、緊迫した空気の中、ロシュとオーギュは職員らに頼んで来客らを安全な場所へ誘導するように頼んでいた。
「ロシュ様。あなたも下がって下さい」
「いえ、私は残ります」
「相手はあなたを狙っています。邪魔なので下がっていて下さい」
 邪魔だとはっきり言われ、ロシュは少しだけショックを受けるが、すぐに「いえ」と反論した。
「私まで避難したらあの人は私を追ってくる可能性もあります。大切なお客様を危険な目に晒したくは無い」
「それならあなたは部屋の隅に引っ込んでて下さい。迂闊に飛び出したりしないように」
「ええ…あのう、リシェが心配で」
 どうしても前に出たいらしいロシュに、オーギュは駄目だと釘を刺した。
「ご自分で選んだ護衛剣士を信用してないのですか?黙って待機してなさい」
「わ、分かりましたよ…」
 ロシュは立場上、他者を傷付ける行動が出来ない。
 飛び出されても足手まといになるだけなのは、本人もよく分かっていた。
 しぶしぶ引き下がるロシュを見届け、オーギュは侵入者に向き合うリシェとヴェスカに視線を戻した。
 散乱した会場内。役目を果たせぬまま無駄に散らかされた料理や食器が物悲しい。
「お前は子供を盾にしないと動けない口か?」
 リシェは軽蔑を露わにしながら男に話しかける。
 男に抱えられたままのルイユは、相変わらず元気に手足をばたつかせていた。絶え間なく動く様子に、ヴェスカは元気だなあと感心する。
 曲刀を数度鳴らしながら、侵入者は魔法の詠唱を始めた。文言を呟く度、刀が魔力に応じて反応を見せ、不気味に青白い光を放つ。
「どうやら満月のせいで、変な魔力に当てられたようですね」
「オーギュ」
 カツンと靴音を響かせ、オーギュはリシェの左側に立った。ヴェスカはちらりと彼に視線を向けた後、少し小馬鹿にした風に話し掛ける。
「宮廷魔導師様の手を煩わせるのは申し訳無えから、下がってくれてもいいんだぜ」
 彼の裏側…心の声を聞いたのか、オーギュはぴくりと眉を寄せる。
「手を煩わせるような問題を持ってきたのはそちら側でしょうが。万全の警備態勢を敷いていたんじゃないですか?」
「馬鹿言え、不慮の事故を被ってんのはこっちなんだよ。貴族様がぺちゃくちゃ喋るだけの会合如きに引っ張られて、挙句には怪我人出されてんだ。俺だってこんなクソみてーな任務、馬鹿らしくてしてらんねえよ」
「警備も剣士の仕事でしょう」
「あんたらの気まぐれで作ったイベントの警備なんかしたかねえんだよ。お気楽なもんだよな、お貴族様はよ。分かったら引っ込んでろ」
 大切な部下を傷付けられ、少しヴェスカは気が立っているようだ。
 誰しもが好き好んで、大聖堂の警備任務をしている訳では無かった。上流階級の楽しみの為だけに、何故無駄に時間を費やさなければならないのかと不満を抱く剣士も居るのだ。
 リシェはいがみ合う二人を交互に見上げ、こんな時に何を言い合うのかと呆れる。
 こうなったら自分だけで相手をするしかない。
「あんたら、痴話喧嘩するなら引っ込んでくれないか。こんなもの俺一人で充分だ」
「これが痴話喧嘩に見えるかよ?…あいつにはしっかり借りを返さなきゃなんねえからな。絶対捕まえてやる」
ヴェスカはリシェの前を塞ぎ、剣を男に向ける。
 目の前の図体のデカい彼の背中を見上げ、リシェはわなわなと震え「邪魔だ!」と怒鳴った。
 彼の身長は百八十超え。対してリシェは成長期にも関わらず百六十も超えていない。そのせいか、余計なコンプレックスに苛まれてしまうのだ。
「人の目の前に立つな!!」
 物凄くどうでもいい事で、物凄く怒りだした。

 遠目で様子を見ていたロシュは、はらはらしながら何を言い合っているんだろうと呑気に待機する。
 近付けばオーギュが怒るしなあ…と悶々としていると、騒ぎを聞きつけクラウスがようやく姿を見せてきた。
「凄い物音がしたかと思えば…!」
 周囲を見回した後、自分が責任を持って世話をしなければならないルイユが危機的状態に陥っている事に愕然とする。
 クラウスは、己の不甲斐なさを悔やんだ。
「クラウス殿」
 ロシュは護身用に常に携帯する伸縮式のロッドを手にしていたクラウスに声をかけた。
「!!……ロシュ様?何故こちらに隠れているのです?」
 倒されたテーブルの山の影で、ロシュはクラウスに向けて小さく手招きした。割れた食器に気を使いながら、二人は物陰にそっと身を隠す。
「私も出たいと申し出たんですが、逆に危ないからダメだとオーギュが止めてきたのです」
「そ、そうだったのですか。あちこち走り回るルイユ様を探していて、全然捕まらなくて参っていたんですが、まさかこんな風になっていたとは」
 折角の懇親会を壊され、ロシュはがくりと頭を垂れる。しかもこの騒ぎを抑えられないという立場。
 来賓客にもお詫びに回らなければならない。
「はあ…お手伝いが出来ないのがもどかしい」
「では私が行きましょう。うちの子に危害を与えられてはたまったものではないですからね」
「相手はどうやら魔法を使うようです。どうかお気をつけて」
 スッと立ち上がるクラウスにそう言うと同時に、二人の目の前に大きな物体が突っ込んできた。派手なクラッシュ音と、豪快な突っ込みっぷりだ。
 ひえぇ!とロシュは情けない声を上げ、眼前に飛び込んできた物を恐る恐る覗き込む。
 椅子やテーブルが乱雑に投げ込まれた所に全身を打ち付けられた宮廷剣士の黒い制服姿の男は、頭を押さえてすぐに上半身を起こした。
「痛ってぇ」
「大丈夫ですか?お怪我は?」
 吹っ飛んできたヴェスカは、ロシュの声に気付きようやく彼に目を向けると「おおっ!?」と変な声を上げた。
 見目麗しいその中性的な姿を真近で見るヴェスカは、つい「女子じゃねえよな?」と空気の読めない発言をしてしまう。それ程ロシュは綺麗な顔立ちをしていた。
「女子ではありませんねぇ」
 つい苦笑い。
「お怪我はございませんか?」
 優しく問いかけてくるロシュに、ヴェスカは体を起こしながら「何て事無いですよ」と返す。
 毎度鍛えられている彼の頑丈な体は、打たれる痛みには慣れきっていて余程の事が無ければすぐに動き回れる。
 ロシュはふっと視線を侵入者の男に向けると、魔法が厄介そうですねと呟いた。
「あの武器に絡まってる火みたいなやつがなぁ」
 男が曲刀で空を斬ると絡まっている炎の熱気が襲いかかるせいで、なかなか近付けられないようだ。リシェが先程から何度か攻撃を仕掛けるものの、同じく近付くことすら困難だった。
「オーギュの魔法だと、元々の力が強くて人体に耐えられるように力を緩める事が困難でしょうし…」
 ロシュはちらりとオーギュに目を向ける。
 彼が魔法の詠唱を始める毎に、男からの制御をかけられるのか、なかなか発動までには至らない状態になっていた。
 中断される度に苛立っているのがよく分かる。
 満月の影響下にあるせいか、相手の持つ力が異常に変異を起こして暴発しているようだ。
「まあ、とりあえずあのお子様を助けなきゃな」
 割れた皿の欠片を踏みしめ、ヴェスカは再び走り出した。
「ロシュ様、私も行って参ります。ルイユ様の事で、皆様の手を煩わせるのも申し訳無い」
 何やら考え込んでいるロシュにクラウスが一言告げると、彼は「はい」とにこやかな顔を向けた。こんな状況下でゆったりとした余裕のある様子を見せるロシュに違和感を感じたものの、クラウスは黙って頭を下げる。
 彼が離れた後、ふいにある事に気付く。
「ああ、天井が割れているのですね」
 不意に流れてくる風を感じ、ロシュは空を仰ぎ嘆いた。大聖堂も老朽化が進んでいたせいで、ある意味二次災害を引き起こしたのかもしれない。
 天井は丸くぽっかりと穴が開いている。彼はそこから入って来たのだろう。
 月の光が男に向かって降り注いでいるのに注目し、ふうん…と目を細める。
 よし、塞ごうとロシュは立ち上がると、彼らに気付かれないように殺伐とした大広間からテラスへ抜け出した。

 繰り出される炎の勢いが強くなってきた気がする。
リシェは焦げ付いた匂いに軽く咳込みながらそう感じていた。
「あいつ…」
「あ?」
 呼吸を整えながらリシェがぼやくと、横のヴェスカは反応した。
「あの位置から何であまり動きが無いんだ?腹立つ」
「そりゃあ、動くまでも無ぇって事だろ。あんだけ火を振り回してりゃ近付けねぇよ。しかもあのお子様抱えてりゃ動いたら体力削られるし」
 いい加減この膠着状態にもうんざりしてきたヴェスカは、ちらりとオーギュの方向に目を向ける。彼は魔法の詠唱を所々で無理矢理中断され、体力を消耗していた。
 自前の杖を支えにしながら、汗だくになっている。
 魔法の発動を寸前で制御されると、魔力が発動されない反動が術者に跳ね返る為だった。
「オーギュ様よ、魔法使えねえなら休んでろよ。何やっても無力化してんだろ?顔が真っ青だぞ」
 オーギュはヴェスカの声に疲労困憊しながらも強気に舌打ちする。
「冗談じゃない」
 彼はとにかく負けず嫌いだった。
 ヴェスカは溜息を吐くと、すぐに敵に目を向ける。
 ルイユは暴れ疲れたのか、手足をばたつかせるのを諦めていた。
「おい、お前少しは動けよー。それにくっそ暑いんだけど!火ばっか振り回してんじゃねえよ。たまには氷出せ氷!!火傷する!!」
 暴言は安定して口から出ている。平気で暴言を吐き出す位ならまだ大丈夫そうだとリシェは安心した。
「どうにかあの邪魔な武器を外させたいな」
「ヴェスカ、お前正面から行け」
「えー熱いじゃん!あのねリシェさん、あなた私に火傷しろと?」
 冗談めかしながらリシェに非難するが、彼は至って普通に返事をする。
「正面から行って避けろ」
 無茶苦茶言うなよと苦笑いした。
 ヴェスカは自分の手に持つ宮廷剣士用の剣に視線を落とす。
 相手の曲刀は、自分の手にした武器より長さがあった。うーん、と唸りどうやってこの状況を打破するか無い頭で考える。
 元々剣は、彼の得意に扱える武器ではない。
 もう少し尺があればいいのになあ、と大広間を見回すと、広間の展示された鎧に視線を止めた。
「あれだ…!」
「え?…ヴェスカ、どこに行く!!」
 どかどかと猛ダッシュするヴェスカは、弱るオーギュの前を通過した。
 リシェがぽかんと口を開けてその様子を見ていた時、男の方から突風が巻き起こる。
「ルイユ様!!」
 背後からロッドを用いて攻撃しようとしたクラウスが、ルイユの名を叫んでいた。乱雑にされたテーブルや食器類が、その風に巻き込まれ飛び散っていく。あらゆる物が壁にぶつかり、けたたましい音が広間内に広がった。
 外部に避難していた来賓客の悲鳴が上がり、職員がもっと退くように呼びかける声がした。
 風に煽られつつ、攻撃の隙を狙うリシェ。
 とにかく魔法が邪魔でどうにか止められないかと悩んでいると、
「リシェ!」
 不意に自分を呼ぶ声がし、リシェはその方向に目をやった。ヴェスカが手にする物を見て、リシェは怪訝に眉を寄せる。
「何だその重そうな槍は」
「あの甲冑からかっぱらってきたんだよ!よし、これで行くぞ!」
 装飾物として展示されていた古めかしい銅像の一つから無理に引っ張ってきたようだ。見事に槍がすっぽりと抜けている。
「よく取れたな」
「意外に取れやすいぞ。元から掴む所が緩いんだろうよ。よし、行くか」
 尺の長い武器が使えるようになったヴェスカは、真っ正面から男へ向け走り出した。
 重い素材でも軽々と振るえるヴェスカを羨ましく思いながら、リシェも死角から攻めようと動き始める。
 さっさと片付けてしまいたい。
 ヴェスカが男に向けて槍を薙ぎ払うと、彼は曲刀から再び炎を出現させ応戦してくる。
 武器同士がぶつかり、熱気がヴェスカを襲うと同時に炎の熱が鉄の槍に浸透し始めた。
「熱ぁああああっ!!やべえ、これがあったか!」
 …銅像の為の槍なので、武器用ではない。
 柄が無いので、鉄そのものを素手で持っているようなものだった。
「ああ、くそっ!いい方法だと思ったんだけどなあ!!」
 嘆く頭の悪いヴェスカ。
 その時、ふっと槍を掴む手に冷気を感じた。熱い感覚が徐々に抜けていくのが分かる。
「んあ?」
 見れば、両手に細やかな光の粒子が纏わり付いている。何だこれ、と防戦しながら考えていると、背後から声が聞こえた。
「本当にあなたは頭が悪いのですね、ヴェスカ」
 消耗しきっていたオーギュは呆れながら、彼をサポートする為に魔法を使っていた。
 どうやらオーギュによる痛みを軽減させる補助魔法のようだ。
「あくまでも装飾物なんですから、武器にもなりゃしませんよ。ただ、打ち付ける分には使えます。私の魔法が弱くなる前に片付けて下さい」
「あんた、魔法きついんじゃねえの?」
「きつくありません」
 制御されているのを無理に捻り出している様子だが、彼は普通を装っている。体力を奪われ、足元も限界なのかがくがくと軽く震えている程に。
「痩せ我慢しやがって」
「…いいから早くやりなさい!!」
 はいはい、と槍を持つ手に力を込めた。

 一方で。
 大広間の天井に上がるロシュは、よいしょと軽く掛け声をしながら下界の眺めを楽しむ。闇夜に輝く城下の光に目を細めた後、開けられた穴に近付いた。
「あったあった。これですね」
 ぽっかりと綺麗な穴。下を覗き込むと、リシェ達が応戦している。そして、上空を仰ぎ見た。
 美しい満月の輝きがいつになく妖しく見える。
「満月の光を吸収してるとすれば、遮断すればどうにかなりますかねえ」
 緊張感の欠片も無いへらへらした笑みを浮かべながら、ロシュは詠唱を始めた。足元には真っ白な光の円陣が浮かび上がる。
 詠唱を続けると円陣は彼の足元で回転し、ゆるやかな速度で上昇した。
 ふわりふわりと白い法衣が、魔法により発生した風で揺れる。
 やがて光はロシュの手元へと移動していき、彼の唇が詠唱を終えた瞬間、天井の穴に向け放出された。
光が吸着し、空洞化していた天井には魔法による薄い膜が貼りつく。
 久しぶりに魔法を使ったのか、ロシュはやや疲れを見せながら満足したように仕上がりを確認した。そしてよしよしと天使の如く微笑む。
「防御用の壁ですが、まあ上からの光は防げるでしょう」
 あとは何とか騒ぎを抑えないと。
 ロシュは再び来た道を引き返していった。

「あー!!おっさん、俺この状態飽きたよ!」
 ルイユが相変わらずいつもの調子で喚いた。
「いつまで抱えてる気だよ!」
 ずっと移動する訳でもなくただ魔法を放っているような状態が続き、さすがのルイユも飽きたらしい。移動しない為に景色は固定されたままだと、やはり辛いのだろう。
「…てか早く助けろ!使えねーなリシェ!!」
 何故矛先がこちらに来るのだろう。
「ルイユ様、言葉を慎みなさい、品の無い!」
 常日頃からそう叱っているのか、今はそんな状況では無いのにクラウスの口から叱咤する言葉が放たれていた。
 ヴェスカは槍を振るい、男が手にする武器目掛けて叩き付けた。焼け付く熱さに呻き声を漏らすが、最初の頃よりは火の勢いと熱量があまり感じない。
 ん?と殴打している時にその違和感に気付く。
 また、同じようにリシェも感じていた。
「魔力が尽きたか」
 弱まる炎の勢い。
 ヴェスカが正面から攻めている間、リシェは背後に回り込むと、相手の背中に向け走り出す。
 すると気付いていたのか、男は剣の切っ先を向け攻撃しようとしたリシェの目の前に抱えていたルイユを突き出した。
 …こいつ、子供を盾に!!
 リシェは奥歯を噛みながら、斬りつけようとしていた腕をどうにか止める。
「ぐっ!!」
「ぎゃあああ!!何すんだリシェ!!」
 剣を突き付けられたルイユは、被害者意識丸出しで叫び声を上げる。
 直前でどうにか剣を収め踏みとどまった瞬間、男は突き出したルイユをリシェに向けブンと放り投げた。
「うぎゃああああ!!」
 リシェはルイユの体を受け止めながら床に転がってしまう。背中に激しい衝撃を受けながらもどうにかルイユを守る事が出来た。
「あだだだだ…あ、やっと解放された!」
 久しぶりの自由にルイユは嬉しそうにはしゃいだ。下敷きになったままのリシェは苦悶の表情を浮かべながら早く退けと呻く。
「お?」
「退け…」
「おう、リシェ!何してんだよそこで」
「お前を支えてたんだよ!早く退け!」
 吹っ飛ばされた時に頭を打ったのか、やけにくらくらした。
「ルイユ様!こちらに来なさい!!」
 ここぞとばかりにルイユの安全を確保しようと、クラウスは動いた。
「うああ!クラウス!」
「あなたは本当にもう…!!いつになれば落ち着いてくれるんですか!」
 呑気なルイユをクラウスが強引に引っ張り引きずって部屋の角に撤収させていく。
 ルイユの安全が確保されるのを見届け安心すると、リシェはぐらぐらする頭を押さえて立ち上がった。
 まだ終わりではない。
「司聖はどこだ」
 ロシュの姿を求めながら男は武器を鳴らす。
「ロシュ様には手出しさせない」
 男は再び詠唱を開始する。曲刀が鈍い輝きを増すのを目にすると、リシェは改めて剣を構えた。
 引き出される炎の勢いが、やはり弱まっている。
「もう一度聞く。司聖はどこだ」
 眼光鋭く、彼はリシェを睨んだ。
「言わない」
 負けじと、リシェも強気に返す。
「なら死ね」
 そう言い刀をリシェに振り上げると、彼の背後からヴェスカは刀目掛けて槍を力一杯振り下ろした。
 広間に響く金属音。
 全身が少し痺れた感覚に陥るが、しっかり足に力を込めながら槍を押し付ける。
「さっさと刀から手ぇ離せっての…!!」
 襲う熱気と焼け付く匂いが煩わしい。
 オーギュの魔力もやはり限度を超えているのか、保護されている両手が先程より弱まっているのが分かった。更に長期戦になるならば、槍を捨てなければならない。
 リシェはヴェスカに集中するその間に、男の懐に潜り込んで相手の腹へ柄打ちを試そうとした。
 しかし男は逆にリシェの腹部目掛け左膝で蹴り上げてくる。重苦しい痛みにリシェは呻き声を上げよろめいた。
 相手もそれ程馬鹿ではないようだ。
「自分から攻撃されに行くな、リシェ!」
「お前がもっと注意を引かないのが悪い…!」
 ヴェスカの手に纏わりつく魔法に気付いたのだろうか。
 男はその魔法を放つ主にふっと目を向ける。忌々しい補助魔法に、彼は邪魔だとばかりにターゲットを変えた。杖をつき、魔力が底をつく寸前のオーギュに向け光弾を放つ。
「…なっ…!?くそっ!!」
 彼の次の手を察したヴェスカは、攻撃の手を止め一直線にオーギュに向かって走り出す。
 オーギュは光弾に気付いて微弱な魔法壁を張るが、同時にヴェスカが自分に飛び付いてきた。
「間に合っ…!!」
 爆音が周囲を轟かせる。避難していた来賓客が、また悲鳴を上げまばらに散っていく足音が聞こえた。
 もうもうと立ち込めていく埃。
 衝撃で割れた壁がぱらぱらと落下する中、オーギュはふっと目を開けた。
「ヴェスカ」
「ああ…痛え。良かったあ、間に合ったわ」
 埃が舞う中、軽くオーギュは咳込む。
「何も私の盾にならなくても」
「こういう時は素直に礼を言えよ、可愛くねえな」
 へへっと笑い、背中に乗っていた銅像を押し退けた。打ってしまったのか、左肩に若干の痛みを感じ、ぴくりと眉を動かす。
「大丈夫ですか?」
「意外に銅像は重かった…まあ、何とか。あんたはもう魔法使わなくていい。槍は捨てたしどうにかしてくる」
 スッと立ち上がると、再び自前の剣に手をかけた。
「あんたが危なくなったらまた来る」
 あれだけ爆風に巻き込まれたくせに、やたら元気だ。オーギュは呆れつつ、魔法壁を解いた。
 …そういえばあの人はどこに行ったんだろう。
 ロシュの姿が先程から見えないのが気になった。
 動くなと言っても彼はこそこそ動くタチだから仕方が無いとは思うが。
「はあ、只今戻りました」
 気が抜けそうな、呑気な声が飛んできた。
 オーギュの考えていた事をまるで読んだかのようにロシュが歩いてくる。ここまで騒ぎが広まっているのに何をそんな平和そうにと苛立つが、彼が無事なら言う事は無い。
「今までどこをほっつき歩いていたんです」
「穴を塞ぎに上がっていたんですよぉ」
 相変わらずにこやかに笑う。
「穴?」
「そう、穴。ほら、今日は満月ですから」
 彼はそう言うと、侵入者をちらりと見遣った。
 相手もようやくロシュの姿を確認出来たらしく、今度はこちらに向けて魔法を放とうと準備を始めていた。
「ロシュ様!下がりなさい!」
 オーギュはそれに気付いて力無く立ち上がり、彼の前に出る。
 例え自分が再起不能になっても、決して国の象徴を傷付ける訳にはいかないのだ。
 リシェはその間、魔法の詠唱を始める男の背中に向け一気に剣を振り下ろした。ざくりと嫌な感触が全身を駆け巡ると共に、男の背から血が噴出する。
 生温く鉄臭く、どす黒さのある赤色がリシェの白い生地の服に付着していく。
 自分の手を汚してでも、ロシュにだけは近づけさせたくない。それが自分の存在する意味だ。
 彼の代わりに、自分が血を浴びる事に抵抗はない。
 男は背後のリシェをゆっくりと振り返った。
「このガキ」
 負傷しているのに、彼は至って普通だった。
返り血を浴びたままのリシェは、無表情のまま数歩後退する。
「ロシュ様には指一本も触れさせない」
 ヴェスカはロシュの前に立とうとするオーギュに駆け寄ると、「あんたは退がれ」と忠告する。
「は…?何を馬鹿な」
「俺の為に無茶してんだ。あんたの代わりに俺がロシュ様を守ってやる」
「それには及びません!まだ大丈夫ですから」
 オーギュはムキになりヴェスカに言い返した。
 まだ自分も対処出来る、と。少し消耗した位でどうってことは無いのだと。
「あなたはご自分の身を守ってなさい」
 しかしヴェスカの目には、オーギュは明らかに無理を押している様子にしか見えない。
「あのなあ、あんたはどっから見てもフラフラだっての!大人しく俺に守られてろ!」
 二人の言い争いをにこやかに聞いていたロシュは、まあまあと宥めると「それならここからは私に」と華やかな顔で言う。
 ぐるりと同時にロシュに顔を向けると、絶妙なタイミングで拒否する。
「「…余計ダメです!!」」
 見事にハモった。
 二人に押されつつ、ロシュは「大丈夫ですから」と苦笑いした。
「私は傷付ける魔法は使えませんが、相手を止めさせる程度にはどうにかなりますよきっと」
 彼はそう言うと、魔法で自分の新しい杖を出現させた。淡い光に包まれきらきらと輝き、ロシュの手の内に収まっていく。
 リシェと似たデザインの、まだ真新しい杖。
「元々彼の目的は私でしょうしね。大丈夫です」
 ふわりと法衣を翻し、ロシュは男に近付いていった。
 オーギュはヴェスカを見上げ、改めて頼む。
「私はいいからロシュ様を守って下さい」
「分かった。あんたは安全な場所に退がってな」
 役に立てない悔しさもあるが、力を使い果たした自分ではどうしようもなかった。
 オーギュが安全な場に引き下がるのを確認すると、ヴェスカは一息ついた。
「ロシュ様」
「ん?」
「俺らに任せて下さい。命に代えても守りますんで」
 ロシュは前に出ようとするヴェスカに、「私、あの方の力の供給源を遮断して来たのですよ」と穏やかな口調で言った。
「え?」
「彼、あの場から動いてないでしょう?満月の光を浴びたままなんですよね」
 言われ、ヴェスカは天井を見上げた。
 …確かに、男は穴の下にずっと定着している。同時にリシェの言葉を思い出した。
 何の動きもない、と。
「満月の下に居るので、変に魔力が膨大化していたんですよ。あなた方が太刀打ち出来なかったのはその為です。オーギュが魔法を何度も無効化されていたのも、結界の他に魔力封じの力が強かったのでしょう。二つの魔法が一気に反射して自身に返るのですから、いくらあの人でも消耗が早くなります」
 魔法の事はさっぱり分からないが、天井を見る限り蓋をされて、やりやすくなったというのだろう。
「さあ、この騒ぎの責任を取らないとね。来て下さった方々に申し訳ない」
 ロシュは杖を手に男に近付くと、声を張り上げる。
「あなたの目的はこの私でしょう。もうこれ以上好きにはさせません。お相手します」
 刃物を持っている相手に、ロシュのような司祭が通用するとは思えなかった。魔術師の見習いから転向したロシュが、万が一禁忌である攻撃の魔法を使ってしまえば一大事になる。そんな事をさせる訳にはいかなかった。
 ヴェスカは急いで彼の前に立とうとするが、ロシュは大丈夫ですよと微笑む。
「私はこれでもオーギュより戦士向きですから」
「いや、だけどよ」
「危なくなったらお願いします、宮廷剣士さん」
 いつものように柔らかな笑みをした後、ロシュは男に向き直った。
 杖にぶら下がる小さな装飾物を鳴らしながら、ロシュは攻撃の体勢を取る。
「お望み通り、あなたが勝てれば私の命をあげましょう」
「思い上がるな司聖。守られてばかりのお前など、弱い赤子そのものだ。その血を貰い受ける」
 にっこりとロシュは微笑む。
「では、そうなさい。…出来るものなら」
 いつもの柔らかな微笑みから、ロシュはギリっと鋭く厳しい目線に変わった。
 男の眼前に素早く移動し、彼は杖を武器に殴りかかる。相手は曲刀に魔力を込めて再度炎を絡めさせるが、ロシュに無効化の魔法を使われ、先手を打たれてしまった。
 無詠唱で即座に魔法を止められ、男はやや焦りを見せる。
 杖と刀が激しくぶつかり合った。
 お互いの眼前にお互いの武器を重ね、ギリギリと擦れる音を響かせる。
 その姿からは予想もつかない強い力を受けながら、男は呻いた。
「優男が…!」
「ふふ。外見に惑わされないようにしなさい。私はこう見えて中身は獣ですよ。飼い鳴らすには相当時間がかかる」
 曲刀を弾き、男はやや後退した。
「あなた、満月の恩恵に預かっていたでしょう。もう無意味ですよ。私が塞いできましたから、安心して動き回って下さい」
 その発言を受け、彼は天井を見上げた。
 ちょうどぽっかりと空いた部分は、青白い光を放つ蓋で塞がれ月明かりが差し込まなくなっている。まさかのアクシデントに、彼はロシュに視線を戻した。
「司聖…!お前!!」
「ですから、もうその場から離れていてもいいのです。私は姑息ですから、あらかじめ自分が有利に立てるように準備を怠らないのですよ」
 ぱあっと開花した花のように笑った。
 男は不愉快そうに舌打ちをし、ロシュに向け刀を薙いだ。杖でそれを受け止め、衝撃に耐えながらもロシュはいつもの調子で続ける。
「良かったじゃないですか。やっとご自由に動けるんですから」
「余計な事を」
「どちらが?」
 両者睨み合いをする中、リシェは男の隙を突こうと動いていた。
 ロシュはそれに気付き、彼に忠告する。
「リシェ、私に任せて。最初から私が責任を取れば良かったのです」
 血に塗れたリシェは、「長引かせたのは俺らだ」と呟く。
 ロシュの手を汚させる訳にはいかないのに。
「大丈夫ですよ。少し手荒な事をする位ならね」
 彼の罪悪感を払拭するかのようにロシュは微笑むと、それにねと続ける。
「大切なお客様に迷惑を被られて黙っていられる程、私は優しくはありませんから」
 押し合っていた杖を弾く。
 男はすかさずロシュに斬りかかるが、彼は杖を地面にガツンと勢い良く立てた。
「甘い!!」
 突如前方に暴風が巻き起こる。
 男は自分だけに直撃する強力な風と天井から落ちてきた瓦礫の粒に体勢を崩しそうになっていた。
「満月の力に頼らなければ動けませんか?」
「黙れ」
 曲刀を構え、男は殺気を放つ。
 ロシュは目を細めると、再び杖を手に迎撃の体勢を取った。

 力技でぶつかり合うロシュと男の交戦を離れた場所で見守りながら、消耗しきったオーギュは居たたまれぬ気持ちに陥っていた。
 …あの一瞬放出した魔力。
 あの力の勢いは、自分には到底引き出せぬものだ。
 自分は魔導師だから、その凄まじさは感覚で分かる。
 全身が硬直する勢い。圧倒される力。
 追い求めても追い求めても、ロシュにはいつも叶わない。何故あそこまで強い魔力が備わっているのだろう。彼の凄さを知る度、自分がいかに無力かを思い知らされる。
 常に知識を蓄え魔力を上げようと鍛錬を続ける自分とは、レベルがまるで違うのだ。
 昔から彼の事を見ていた。その能力の差を見せつけられてきた。
 オーギュはぐっと拳を握る。
 羨ましい。羨ましいし、同時に妬ましい。
 普段はぼんやりしていてサボり癖もある。へらへらして、仕事中も現実逃避したがる位どうしようもないのに。
 彼は本当に、自分など足元にも及ばぬ天才なのだ。

 ガシン、と杖と刀が激しくぶつかり合う。
 打ち合うのは何度目だろうかと男は思っていた。
 刀に魔法を絡めようにも、相手は詠唱の隙を与えてくれない。しかも彼はここまで動いているにも関わらず、まだ余裕の顔を見せていた。
「どうしました?もう疲れましたか?」
 そのしれっとした顔が苛立ちを増幅させてくる。
「お前を殺して血を貰うまでは死ねるものか」
 司聖の血。
 彼の身体を循環し続けるその血を得た者は、人間としての力を超える能力が芽生えるという。
 彼の体に流れる血だけではなく、その身から分泌する体液も。
「私は易々とあなたに殺されはしませんよ」
 ロシュはふふっと優雅に笑った。
「あなたに殺される程、柔ではありませんから」
「お前のような力を持たない奴が、どうやって太刀打ち出来る?身を守る事で精一杯だろうが。お前は無力だ。黙って死ね」
 ギラつく曲刀。その鈍い輝きは、確実にロシュに向けて狙いを定めていた。
 身を守る事が最良の攻撃ですよと穏やかにロシュは呟き、杖を軽く振った。
「お前を殺して血を頂く」
 その言葉を受け、ロシュはふんと鼻を鳴らす。そして低い声で呟いた。
「…無礼者が」
 叩き付けるような曲刀の動きを、ロシュは素早く杖で受け止める。瞬時にそれを一気に払いのけると、男に強い力で殴りつけた。
 刀で殴打を受け止めるものの、その押し付ける力が想像以上に強い。
 ギリギリと歯を食い縛りながら、男は辛うじて押し返した。
 今まで加減していたのかと疑念を抱く程に、ロシュの殴る力が増えている。
「弱い」
 ロシュは無表情で男に囁いた。それは、やけに冷たく彼の耳の奥で響く。
「…っぐ!!」
 跳ね返され、一旦退いた。こんな弱そうな優男に押されるとは思えず、焦りを押さえて刀を構える。
「あなた、この程度で私と戦っているんですか?」
 呆れと落胆が混じり合ったような声音で、男を挑発する。本気でがっかりしている様子だ。
「折角この私がお相手しているんですから、ちゃんと真剣にやって下さいよ」
 リシェは目を丸くしていた。
 何かいつものロシュ様とは違う、と。
 それは同じように対峙していたヴェスカも感じた。
「ふざけやがって」
 男は曲刀に炎を絡めようと出来る限りの魔力を放出させる。
 轟音を響かせ、刀が赤く染まった。
 その威力は最初よりもやや強めに見える。意地になっているせいだろうか。
 ロシュは興味なさげに彼を真っ直ぐ見つめると、「まだそれに頼る気ですか?」と聞いた。
「あ…?」
「天井は塞ぎました。満月の魔力の恩恵も無く、今のあなたの魔力はリシェ達との応戦で使い切っているも同然。そもそもあなたには彼らや私を倒せる力が元々無いのです。恩恵が無いと力を出せない程度ですからね」
 言い終わると、男の刀を纏う炎の勢いが少しずつ減っていく。彼は弱まる炎に気付き、無理矢理力を放出させていた。
 ロシュはその様子を見ながら目を細める。
「ですから無意味ですって。今、誰と対峙していると思っているんですか?」
 意地悪い言葉を投げ付けながら、ロシュは徐々に相手の魔力を封じ込める魔法を放っていた。最後まであがいて魔力を引き出そうとする為に、彼は次第に消耗していく。
 足元がおぼつかない男は憎々しげにロシュを睨む。
そして魔法を諦め、彼は武器を握りながら一直線に斬りかかった。
「死ね、司聖!」
 これで終わりだ。
 男には確信があった。かなり近い距離まで詰めた。詰めて、刀を振るった。
 自信を持って薙いだ切っ先を前にし、ロシュは突如姿を消す。
 確かに目の前の人物を斬りつけたはず、と彼は思っていた。確実に居た。…消えるなど馬鹿な事が起こる訳が無い。
 息を飲み、荒ぶる心臓を押さえるように胸元を掻きむしる。ドクドクと、体内にある鼓動はやかましく鳴り響いていた。
 しばらく間を置いた後、ふっと湧いたような気配を感じた。頭上か背後か、その辺りに。
「無駄」
 そして、ぞくりとした声が頭の上で降り注ぐ。
 非情に響く司聖の声が。
「諦めなさい」
 背中に鈍い鈍痛がしたかと思ったと同時に、彼は弾かれたようにテーブルや瓦礫が密集した場所に勢い良く突っ込んでいた。
 何が起きたか分からない男の耳に、次に聞こえたのは「捕らえて下さい」の声だった。

 リシェとヴェスカが二人掛かりで瓦礫に埋もれた状態の侵入者を引っ張り起こす。ガラガラと崩れる音と共に、彼は力無く膝をついていた。
 魔力を使い果たした状態で全身を叩き付けられ、もう抵抗する余力も無いのだろう。しかも流血しながら動いていたのだから。
 床には少しずつ、血の色の水滴が落ちていた。
「はあ、手間かけさせやがって。リシェ、ちょっとこいつ頼むわ。縄探してくる」
「ああ」
 ヴェスカが男の手を縛る縄を探しに離れた後、ロシュはリシェに「大丈夫ですか?」と問う。
 リシェはやや疲れたように頷いた。
「折角新調したのに、服が汚れてしまいました」
 不可抗力とはいえ、ロシュが用意してくれた真っ白い白騎士の服を汚してしまった。
 頭を垂れ、申し訳なさそうにしょげる。
「大丈夫ですよ。すぐに綺麗に出来ますから。…ちょっとオーギュの所に行って、それからご来賓の方々に声をかけてきます」
「はい」
 背を向け、歩き出すロシュ。リシェが男を掴みながら彼を見届けていると、捕らえていた彼が動きを見せた。いきなり立ち上がり、手前に落ちていた刀を手にロシュに向けて走り出してしまう。
 どこにそんな体力があったのか。
 武器を最初に処分すれば良かったと思ったが、既に遅い。
「…お前っ!!」
 リシェは素早く反応すると、身軽な為に男より早くロシュに追いついた。
 彼がロシュ目掛けて刀を振り上げると、リシェは両腕を交差し、受け止める体勢を整える。
 その捨て身の姿勢に、男は一瞬躊躇いを見せた。
「リシェ!?」
 ロシュは驚愕の叫びを上げた。
「何のつもりだ?」
 細身の左腕に食い込む刃は、冷たく全身に浸透していく。
 男が振り下ろした刀で更に自分の血を浴びる事になった騎士は、無表情のままで返した。
「俺はロシュ様をお守りする役目を持っているんだ。お前がどう足掻こうが、ロシュ様を傷付ける事は俺が絶対に許さない」
 凛としたその姿を目の当たりにした暴漢は、覆っている顔を引き吊らせている様子だ。その切羽詰まった視線で感じ取れた。
 ロシュは無言で血塗れのリシェを抱き留め、持っていた杖の上部を男に向ける。
「見苦しい」
 疲労と失血でゆるゆると動いていた男は、魔法で全身を硬直させられた。呻き声を上げながら再びがくりと膝を着き、彼はロシュを睨みつける。
「ぐ…優男が、何をしやがった」
 がちがちに身を固められ、反撃出来ないまま悪態をつく。
「何って、あなたと私の力の差を思い知らせてやっただけですよ。ご理解頂けましたか?」
 ロシュもまた男を厳しい視線を投げつけていた。
「ああ、くそっ!やっと見つけて来たわ…なかなかいい縄が無えんだもんよ…って、何それ!?リシェ!?」
 縛るのに丁度良い縄を手にしながらヴェスカがようやく戻って来たが、知らぬうちにまた血だらけのリシェを見て目を丸くしていた。
「お前が遅いから無駄に怪我をした」
「…っはー!?俺のせいかよ!」
 ロシュの腕の中でふっとリシェは表情を緩ませた。
「リシェ、ごめんなさい。すぐ回復しますから」
 その小さな体を抱き締め、ロシュはリシェの傷を魔法を用いて即座に癒していく。 
 初めて受ける回復の魔法に、リシェは勿論、ヴェスカも目を止めてしまった。今まで怪我をしても、その恩恵を受けず自然治療をしてきた彼らには魔法による治癒は本当に珍しいものなのだ。
 ロシュの手の平から放たれる柔らかで温かい光は、負傷する左腕を包みこんだ後、裂かれた傷口へ優しく吸い込まれる。
 裂かれた感覚が完全に消え失せ、リシェは不思議そうに腕を動かした。
「動ける」
「へええ…俺も怪我しときゃ良かった」
 回復が終わったものの、ロシュはリシェを抱き締めたまま離さずにいた。ん?ん?とリシェはロシュの中で蠢く。
「ようやく落ち着きましたね」
「オーギュ」
「折角の懇親会が台無しだ。仕切り直しするにも、これじゃあ時間がかかりそうですね。…ご来賓の方々にはとりあえずお部屋をご案内してお休み頂けるよう手配しました。しばらく大広間は使用禁止ですね」
 あんなに疲労していたのに、彼は後始末やケアも抜かりない。ロシュは自分には勿体無い位の相棒に向けて礼を言った。
「あなたには頭が下がります、オーギュ」
「…結局、騒ぎはあなたがどうにか抑えてくれましたからね。私じゃなくて悔しいですよ」
 本当に悔しいと思っていた。だが、力の差は昔から良く知っていて今更どうこう言うのも愚かな話だ。
オーギュは視線を捕らえた男に向ける。だが、即座に顔をしかめた。
「ヴェスカ」
「あ?」
「何してるんですか?」
「何って…逃げねえように亀甲縛りしてんだよ」
 どこで覚えたのか、見事な縛りっぷりを見せつけていた。
 普通に出来ないのかと呆れてしまう。
「早く連れて行きなさい!!」
 ヴェスカと近付いたロシュは、リシェを抱き締めながらぱっと表情を明るくした。
「あなたがリシェから良くお話を聞くヴェスカなんですね!」
 先程とは全然違う雰囲気に押され、ヴェスカは「はあ」とやや抜けた返事をする。何回か会ってるはずだが、彼は恐らくリシェしか目に入っていなかったのだろう。
「私のリシェをこれからもどうかよろしくお願いしますね!」
「あの、ロシュ様」
 ロシュの腕の中でひたすらリシェは蠢いている。
「離してあげなさい」
 見兼ねたオーギュがロシュに注意した。ようやくリシェは解放され、ヴェスカと同じように侵入者の男を縛っている縄を握る。
 目を合わせた男は、忌々しげにリシェに向け舌打ちすると「生意気なガキが」と暴言を吐いた。
「お前から殺しておけば良かった」
 邪魔をされ、目的を果たせなかった恨み言を言う。
「お前に殺される前に、俺がお前を刺している」
 無機質さを感じさせるリシェの目。まるで機械人形のような印象を与えてくる。
「くそったれ」
 ヴェスカは縄を引き、「さっさと歩け」と彼を小突いた。大切な部下を傷付けた張本人に対し、覚えとけよと低い声で忠告する。
「きっちり借りは返させて貰うからな。お前は俺の部下を血で汚した。必ずきつい罰を与えてやる」
 連絡を受けた宮廷剣士らが、捕まえた男の身柄を引き取りに姿を見せ始める。彼は数人の剣士達に大人しく連行されていった。
 その後、士長であるゼルエがすぐロシュ達に近付き、その場に跪き頭を下げる。
「この騒ぎの原因は、我々の甘い認識と警備の不備が引き起こしたものです。誠に申し訳ありませんでした」
 剣士らは揃えて跪き、同じように頭を下げる。
 人数を多めに投入して警備を強化していたのに、易々と潜り抜けられ大惨事となっては宮廷剣士の面目が立たない。
 厳罰を受けても文句は言えない失態だった。
 ロシュは困った顔をして壊れた天井を見上げる。
「…いやあ、あれは誰にでも防ぎようがありませんよ。だって、あの人飛んできたんですからねぇ」
 跪いていたゼルエは、頭を上げて眉を寄せた。
「え?」
「満月の力は凄いですよ。人間の底に眠る力を一気に引っ張り上げる時があるんですから。天井を見て下さい。彼はあそこから入って来たんです。いくらあなた方のような剛腕揃いでも、引き止めるのは不可能です」
 宮廷剣士らは一様にロシュが指し示した天井を見上げ、その状況に絶句する。
 面白い位に、全員同じ表情をしていた。
 その反応を見て微笑むと、「ですから謝る事はありませんよ」と不問の意を口にする。
 オーギュもまた、瓦礫と化した壁を見回しながら老朽化してますねと溜息をついた。天井やら壁、調度品は元より、昔から丁寧に保管されていた絵画まで壊滅的な被害を被ってしまった。
 中には外部から贈られた貴重な物もある。
「改築しなきゃなりませんね。ここまで良く持ちました。色々考えなければなりません」
 変わらぬポーカーフェイスだが、また費用が掛かると彼は心の中で嘆いていた。
 リシェは完治した自分の体を不思議そうに見ていたが、やがてハッとある事を思い出す。
「ロシュ様」
「はい、リシェ?」
 彼はお願いが、と改めてロシュに話を切り出した。

 …数日後。
 宮廷剣士の兵舎内にある練習場にスティレンが姿を見せると、ラスは驚いて彼の名を呼んでいた。
「スティレン!?出てきて大丈夫なの?」
「大丈夫。もう傷跡も無いし」
 かなりの傷を負った筈だ。だが、スティレンは練習場の中をつかつかと靴音を立てながら木の剣を手にする。
 そして健康そのものの動きをしていた。
「ラス、手合わせ付き合ってよ」
「手合わせって…傷口開いちゃうじゃないか」
 むしろ何故動けるのか不思議だった。
 あれだけの傷を負い、出血も凄まじかったのに。自分もあれだけの怪我をした人間を見るのは初めてで、下手をしたら卒倒しそうだったのだ。
 その位の酷い状況だったのに。
 スティレンは不愉快そうな顔をし、小さく悔しさを滲ませる。
「もう傷は無いんだよ」
「え?」
「あいつの世話になりたくなかった」
「何?どういう事?」
 あの大怪我の後。救護室のベッドで出血と傷口からの熱に魘されていた際に姿を見せたのは、真っ白な法衣姿の見た事の無い司祭と、聡明そうな魔導師だった。
 うっすらとした意識の中であまり覚えていなかったが、記憶していた言葉がある。
『ああ、リシェと似ていますね』
 あんな奴と一緒にするな、と口を開きたかったが。
 痛くて熱くて、声が出なかった。
『リシェにお願いされて参りました。あなたが一刻も早く傷を癒せるようにと』
 …あいつが?嘘だ。
 信じ難い言葉だ。自分が今まで彼にやってきた事は、到底許されるものではないのに。
 本当は嫌いで堪らないであろう相手に、情けをかけるのかと。
『嘘…だ…』
 柔らかな輝きと心地良さを感じる。
 暖かい陽だまりに居るような不思議な感触が全身を取り囲んだ。優しく撫でられた感触。安らかでずっとこのままでいたいと思えた。
 そこからもう意識は途切れていて、目を冷ますと痛みが無くなり、体の裂傷も消え失せていたのだった。
「あいつ…リシェがロシュ様に頼んだみたいなんだ。まさかあいつの世話になるなんて。俺の美しい体に傷が無くなったのは嬉しいけど…あいつの施しを受けたみたいで不愉快だ!」
 なるほどね、とラスは吹き出した。
「別にいいじゃないか、傷が治ったんだろ?何が不満なんだよ」
「あいつの差し金なのがムカつく」
 ぷいっと彼は不機嫌な顔。
「体に傷が残っても良かったの?」
「そんなの良くないに決まってるだろ!」
 じゃあ素直に喜べばいいのに、とラスは思った。
 リシェの助けは受けたくないのだろうが、結果オーライなら別にいいではないか。
 スティレンは心の引っ掛かる部分を吐き出せてすっきりしたのか、木剣を軽く振るいながらラスに言った。
「黙って寝てたら体が鈍るし太りそうだから、軽く手合わせしてよ、ラス」
 彼の仕草は、白騎士に任命される前のリシェにそっくりに見えた。ラスはふふっと笑顔になる。
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 …スティレンは彼の軽い挑発に、当然でしょと強気に返事をした。
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