司祭の国の変な仲間たち

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第十四章

初恋薬の哀れな被害者達

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 大聖堂内にある図書館内でルシルは一冊の本を見つけると、これだぁと満足げに微笑んで貸出の窓口に居るカティルに「これ、貸して欲しいのぉ」と許可を得ようと声をかける。
 新作の官能小説を読んでいたカティルは、意外そうに大きな本を持って来た彼を見る。
「おやおや…珍しい。お勉強ですか?」
 いつもはいやらしい本は置いてないのぉ?と聞いてくる相手が、真面目な薬品系統の本を自ら持って来た事に驚きを隠せなかった。
 ルシルは小悪魔的な笑みをしながら「お薬を作ってみたいんだぁ」とカティルを見上げた後で、差し出された貸出帳に自分の名前を記入する。
 これまた珍しい、と思った。
「何を作ろうとしているんです?」
 色気づいた彼が何かを作るとなれば、大体は予想出来るのだが。
「んふふー、面白そうなお薬!」
 彼が笑うと華やかさが増す。
 ぱっちりした丸く透き通った水色の瞳と、白い肌にピンク色の頬紅を乗せたような綺麗な顔。汚れを知らなさそうな天使の様相だが、残念な事に考えている事といえばほとんどいやらしい事だ。
 明確な回答を得られず、カティルはきょとんとした顔でルシルを見ていた。
 彼が借りたのは魔術系の薬の本なので、自分では一切関わらないジャンルのものだった。一体何をする気なのだろう。
 じゃあねぇ、とふわふわした金髪を揺らしてルシルは大きな図書館を後にする。カティルはどこか楽しそうな彼の後ろ姿を見送った後、妙に嫌な予感がしていた。

 …次こそは、リシェともっといちゃいちゃしたい。
 真っ白な法衣に身を包むロシュは、その外見からは想像もつかない欲情に苛まれていた。
 あれからリシェといい雰囲気になってもどういう訳なのか、ことごとく他から邪魔が入ってしまう。
 キスをして、ベッドに寝かせた瞬間に届け物やら仕事関係の呼び出しやら、緊急の仕事が入ったりとか様々な事で結局未遂に終わってしまうのだ。
 リシェも宮廷剣士の任務が立て込んだりすると、疲れ果てていちゃいちゃどころでは無い。
「はあぁあ…もう…」
 したいよう。したくてたまらないよう…。
 中性的な美しさを保つ顔の割には、やたら欲望たっぷりなロシュは自室の書斎机に突っ伏しながら苦悶していた。
 あのさらさらした黒い髪に触りたい。
 あの柔らかな頰に触りたい。
 あの華奢な体を抱き締めたい。
 抱き締めて、欲望が果てるまで堪能したい。
 ぐねぐねと理性と欲望の合間で揺れながら、どうしようもない大人のロシュは呻いていた。
「ロシュ様」
 苦悩し過ぎる余り、オーギュが来ている事すら気付かなかった。彼の冷静な声を聞いた瞬間、ロシュは「はい!!」と返事をしながらガバッと頭を上げる。
 オーギュは眉を寄せながら「…どうかしましたか?」と怪しんだ。
「あ…うう、オーギュ…来ていたのですね…」
「私が来たら何か不都合でも?」
「いや、そんな意味で言った訳じゃなくて…」
「何ですか、ジメジメと気持ち悪い」
 特有の毒吐きにも慣れているのだが、今回はずしりと心に言葉がのし掛かる。
「ああぁあ…ふうぅう…」
 溜息を吐き散らすロシュ。
「鬱陶しいですね。やめて貰えませんかね、それ」
「最近リシェと触れ合えないんですよ」
 原因を吐露すると、オーギュはまたかと言わんばかりに頭を掻いた。
「リシェと触れ合わなきゃ死ぬ病気なんですか?」
 毎度のように耳にするオーギュの嫌味も、既に慣れきっているロシュには効果は無い。
 大抵の人は、冷たい印象を与えてくる彼からの突っ込みを受けると気持ちが萎えてしまう。その切れ長の目で返される言葉が怖い、と。
 だがロシュは机にぐったりと突っ伏しながら「はい。死ぬ病気です」と素直に返事をする。
「タイミングがどうしても合わないのです。まるで私とリシェがいちゃいちゃするのを神がお許しにならないように…はあぁ、辛い」
「司祭が言うセリフだとは思いたくないですね」
 神様のせいにするとは。
「何でもいいので仕事してくれませんか」
 オーギュはロシュに直球で言いたい事をぶつけた。気を抜けばすぐに現実逃避をする癖のあるロシュは、一旦仕事から手を離せばなかなかそこから戻らないのだ。
 今は休憩中でも何でもない。
 頭を机上に乗せ、手をだらりとぶら下げたままのロシュは、有り余る欲求不満に苛まれながら「うぁああい」と返事にならない声を出す。
『(何だ、だらしない)』
 ロシュの司聖らしからぬ姿を主人の視線を通じ目の当たりにしたファブロスは、ついオーギュの中で呟いてしまう。
 この人はたまにこうなんです、とファブロスへの返事を頭の中で返した後、「仕事に没頭すればリシェの事を考えなくて済みます」とロシュに対して事務的に告げた。
「正直に言うとですね、オーギュ」
 ぐったりしながらロシュはオーギュに言う。
 オーギュは全く興味無さげな表情を隠しもせずに、無機質に何ですかと書斎机にあった書類の束をめくっていた。
「未だにリシェとセックスしてません」
 いきなりの告白に、潔癖症であるオーギュは露骨に引いた。そして思いっきり嫌そうな顔をする。
「何で私があなたとあの子の性事情を聞かされなければならないんですか?」
 知りたいとも思わなかったのに不意に聞かされるこちらの身にもなって欲しい、と言わんばかりに不満を伝える。
 しかしロシュは全く意に介せず、自分の気持ちを普通に喋りだす。
「目の前に美味しそうなケーキがあるのに、食べようとするたびにお預けを食らっている気分なんですよ。それが毎回あるのです」
「知りませんよそんなの…」
 リシェはケーキと同じなのか。
 欲求不満な状態なのは理解出来たが、自分には全く関係無い。それよりも早く目先の事を済ませて欲しい。
 未だに机に突っ伏したままのだらしない姿勢のロシュに対し、オーギュはいい加減になさいと叱咤すると山積みの仕事をするように促した。

 アストレーゼン大聖堂、特別魔法研究室。
 魔導師の中でも特に魔力が秀でた五名のみが出入り出来る室内で、分厚い本と材料を手にしたルシルは嬉々とした表情で薬品の調合をしていた。
 部屋に入れるのは選出された魔導師…宮廷魔導師のみ。
 その中の紅一点であるエルレアリ=レイリア=フェルネルは、ルシルが楽しそうに材料をフラスコに入れるのを微笑ましそうな表情で見ていた。
 柔和な性格を思わせる垂れ目がちの目で、優しげだがやけに間延びした口調で「楽しそうねぇ」と言う。
「遊びにいらっしゃいと言ってもなかなか来てくれなかったのに、珍しくこっちに来たかと思ったら…」
 ルシルが調合している間、彼女は彼の頼みで椅子に腰掛けながら向き合い様子を見ていた。
 何かあればすぐに対処出来る様に見守っているのだ。
 調合の度合によって危険な状態になる可能性もある。いきなり爆発もあり得るので、力のある魔導師が近くに居れば安心して作業が出来るのだ。
「んふふ、面白そうな材料とか集めたから何か楽しいのを作ろうと思ったの!ここでも色々な材料とかあるでしょ?足りない物は少し貰えるからね」
 ランプの火で湯煎されている薬品を眺め、ルシルはにこにこしながら事切れていた蝙蝠の羽根の一部を刻んだ。
 可愛らしい顔をしながら怖い事をしている。
「何を作ろうと思ってるの?」
「んー、一時的に性格が変わる薬とか楽しそうじゃなぁい?怒りっぽいのはやだけどぉ…」
「そうなのねぇ…一時的なら体にも負担は掛からなそうだけど…」
 腰まで長い銀髪を少し揺らしながら、エルレアリはルシルの話を聞く。
 灰色のすらりとした宮廷魔導師専用の法衣姿は、彼女の髪の色と良くマッチしてとても良く似合っていた。貴族出身でもあるエルレアリはその儚そうな容姿に似合わず攻撃的な魔法を使いこなせる。
 一番得意な魔法はオーギュと同じく氷の魔法だが、元々勉強好きな事もあり他のジャンルにも手を伸ばしていた。
 穏やかそうな性格に見えるが、下心を持って近付いて来る人間には容赦無く目を覚まさせるだけの大胆さも持ち合わせている。
「うまくいったらエルレアリにもあげるよぉ」
「ふふ、でもどなたに試そうかしら…」
 コポコポと心地良い音を研究室内に響かせていると、外から同じ宮廷魔導師のリューノが戻って来る。
「あら、リューノ。お帰りなさい」
「お、珍しいのが居るな」
 魔導師にしては大柄なリューノは、部屋に入るなり煙草を口に咥えて火をつけながらルシルに言った。その瞬間、彼の眼前で何かが素早く過ぎり、先程咥えていた煙草が消える。
「んあ?」
「子供の前で煙草はお止めなさいな、リューノ」
 エルレアリはにこにこしながら注意した。
「どこ行ったよ、俺の煙草」
「その辺に飛ばしたわ」
「もう…砕かれたかと思ったわ。あったあった」
 吹っ飛ばされた煙草を探し当て、床に転がった煙草を拾い上げる。
「何作ってんだ?」
「んー?面白そうなのを作ってみたくて。だからね、エルレアリに見て貰いながら色々調合してるのー」
「研究熱心だな。いい事だ」
 既に癖なのだろう。リューノはまた口に煙草を咥える。
 その瞬間、それは勢い良く燃えた。
「んああっ!!?」
 鼻先で燃え上がる煙草の火に驚き、リューノはつい口から煙草を離してしまう。服に付きそうになって慌てて床に払い落とした。
「だから、お止めなさいって言ってるでしょう」
 優しく微笑みながらも、強烈な非難の念を感じる。変な圧を感じ、リューノは「分かりました…」と呟いた。
 はぁあ、と溜息を吐くと、彼は自分専用の座席に着く。
「あなたがひたすら煙草を吸うから、研究室の壁だって変色しちゃうじゃないの」
 指摘されて壁に目を向けると、確かに煙草の煙で壁が黄ばんでいる。所々に拭き上げの後のようなものが残っていて、その努力の跡が物悲しさを感じさせた。
「次の壁紙は分かりにくいようにクリーム色にするか」
 何の反省も無くリューノはくくっと笑う。
「そんな問題じゃないでしょう。オーギュに煙草を止めたくなる薬でも作って貰うといいわよ」
「ええ…あいつ忙しいだろうよ」
「部屋が隣同士なんだからすぐに会えるでしょう?」
 確かにそうだけどよ、と複雑な表情を見せる。エルレアリはリューノの顔を見て不思議そうに何か?と聞いた。
「増えたろ、住人が。銀色の髪をしたガタイのいいイケメンがさ。人に姿を変えられる召喚獣」
「ああ、あの…」
 一緒に住み着くようになった召喚獣を不意に思い出す。
 庭先で良く獣姿でごろごろ転がったり、ボール遊びをしているのを良く見かけていた。
 最初は野生の動物が侵入してきたと思った。しかし野生の動物にしては見慣れない姿で普通にオーギュの部屋に入って行ったので、何らかの魔法を組み合わせて作り上げたのだろうと勝手に結論付けていた。
 それでもやはり気になって、どういう事なのかと聞けば彼が契約した召喚獣だと言うではないか。
 大聖堂の外に出ない自分達にとっては、そういった類のものは神話の中の話だと思っていた。まさか神話の話に出てきそうな獰猛そのものの獣が、目の前の庭先でボール遊びをするなど、一体誰が想像出来ただろう。
 リューノは頭をガリガリ掻きつつ「あいつがやたらと塞いでくるんだよ。オーギュに何の用事だ、とか変な事を企んでるのではないかとか」と困った顔で言った。
「あら。…別に何をする訳でも無いでしょう?」
「しねぇよ。最近やたらとオーギュに依存してるしよ。主人だから仕方無いのかもしんないけど」
 相当オーギュに惚れ込んでいる様子だが、単なる同僚なのにそこまで警戒しないで欲しい。
「私、まだそんなにお話した事が無いのよ」
 エルレアリは遠くから見た程度だったのでオーギュが招いた召喚獣の性格を把握していなかった。リューノが話す程度では、かなり嫉妬深そうにも感じさせられるが。
 今度声をかけてみようかしら、と微笑む。
「ファブロスはいい子だよぉ」
 ルシルは薬品の沸騰を見つめながら訂正した。
「何だ、ルシル。会った事あるのか」
「あるよぉ。ロシュ様のお部屋に行くと必ずオーギュが居るから…いつもはオーギュの中に居るみたいだけど、たまに外に出たくなるらしいの。んでね、オーギュの手からふわあっと出て来るの。凄いよね、召喚獣って本の中の世界かと思ったのに」
 リューノやエルレアリですら召喚獣を身に宿すという概念が無かった。身の負担を考えると、自分に取り込んでも構わないというオーギュはかなりの変わり者だと思うのだ。そこまでして魔法を追求したかったのかもしれないが。
 昔から彼は魔法の勉強に関してはかなり貪欲だった。
 休憩時間ですら本を読むという徹底ぶりだったのだから。
「俺は自分の体に別の物を宿すのは無理だわ」
「ふふ、そもそもああいうのって、召喚獣と波長が合わなければ声をかけて来ないみたいだから…相性もあるのよ。オーギュとの相性が抜群に良かったのもあるんじゃないかしら」
「条件、ねぇ…」
 ルシルが作り出す薬品が沸騰し、フラスコの口から円形を描いた白い煙が空中に浮かび上がった。
「んふふ、もう少しぃ」
 こちらはこちらで、一体何を作成しているのだろう。
「何の薬なんだよ。おかしげなやつじゃねぇだろうな」
 リューノは古びた椅子に座り直して宙に浮かび上がる煙を眺め、思い出したかのように煙草の箱に手をかけた。だがエルレアリの冷ややかな視線を感じ取り、結局やめてしまう。
 魔導師にしては大柄な体格を持ち、力も強そうに見えがちなリューノだったが、何故か彼女の非難の目線には弱かった。
「あっ、あまり近付かない方がいいよぉ。さっきより濃度が濃くなってきたから。ふふ、聞きたかったら教えたげるよぉ。これ、恋の薬だよリューノ」
「あ?こい?」
「そう。この前ね、リシェの任務について行った時にいい材料が手に入ったからさあ…」
 可憐な笑顔を浮かべてルシルが説明すると、やはりエルレアリは女性ならではの反応を見せた。
「まあ…素敵ね」
 色恋ネタに興味があるようだ。
「珍しいな、お前がそんな話に食いつくなんて」
「あら」
 リューノがまるで意外なものを見るかのようにエルレアリに言った。
「私も興味が無い訳ではないわよ、単に相手が居ないだけで…」
「お見合い話を山程断っといてか?」
 その間、ルシルは小さな瓶に出来上がった薬を詰める作業を始めている。無色透明の温かい液体は、栄養ドリンクサイズの瓶にゆっくりと注がれていった。
 目をキラキラさせながら出来栄えに満足げだが、彼の目の前には蛇の皮や蝙蝠の羽根、数種類の謎の魔草と、研究室に保存されていた謎の液体などが並んだままだ。
「だって、私の好みじゃないんですもの。紹介される方、とても良い条件なんだけど私の性格には合いそうにも無いの」
「はあ、貴族様は大変だねぇ」
「あなたみたいな雑な人が近くに居ると、男性にも色んなタイプが居るんだというのがよく分かったわ」
 サンプルみたいに言うなよな…とリューノは呆れる。
「ま、お貴族様みたいにナヨナヨしたタイプはお前の趣味じゃねぇってのが良く分かるわ。机周りを見るだけでもな」
 指摘を受け、エルレアリは自分専用の机に目を向けた。
 彼女の机にはやたら黒光りした筋肉質の男の写真や雑誌が綺麗に並び、厳ついポーズを決めた小さなフィギュアも飾られている。
 彼女はとにかく逞しい筋肉質の男性に心惹かれるらしく、雑誌があればすぐに買い、好みの筋肉質の男性のブロマイドを見つければどんな手を使ってでも必ず収集する程のマニアだった。
 その為に、エルレアリの机周りはやたらと影が乗っているかと思わせるレベルで黒と茶色が多い。
 彼女が稀に大聖堂の前に集まる宮廷剣士達を眺める為に、わざわざ近辺まで立ち寄っている事を良く知っている。
 普段冷静なタイプのくせに、その時ばかりは彼女の目の中にはハートマークが出ているのだ。
「筋肉って素敵だと思うのよ」
 何かを思い出したかのように、彼女は溜息混じりに言った。
「良く分かったよ…」
 その様子を見れば。
「でーきたっ!!」
 同時に、ご機嫌な調子のルシルの声が室内に響き渡った。
「エルレアリ、ありがとう!お蔭でいいのが出来たよぉ!うふふっ」
「あら、もういいの?」
「うん!お片付けするねぇ」
 整理整頓をする事をきちんと躾けられているようで、ルシルは使っていた器具の洗浄を始める。
 そんな彼に、リューノは「その出来上がった薬品は誰に使う気だ?」と疑問を投げつけた。ルシルはんんっ?と大きな瞳をリューノに向ける。
 確かに滅多に寄らないルシルがこの場所で、魔法関係の器具や材料を用いて何かを作る事自体珍しいのだ。そこまでして一体誰に作った薬品を試す気なのだろう。
 ある意味嫌な予感もしてくる。
 ルシルは首を傾げながらどうしよっかなあ、と勿体ぶった言い方をした。
「実はまだ誰に試そうかなあって考えてないの。いい材料を見つけたから、どんなものが作れるかなって図書館で調合の本を借りたんだぁ。そしたら面白そうなのが出来そうだったから」
「何となく変なものを作るなよ…」
「エルレアリにもあげるよぉ、手伝ってくれたから!ちょうど二本あるからさ!」
 好意でそう言ってくれるのは嬉しいのだが、エルレアリは少し考えた後に気持ちだけ頂くわと微笑んだ。
「誰に試したらいいのか分からないもの」
「んー、好きな人とか居ないのぉ?」
「今の所は居ないわね…」
 理想が高いんだろ、とリューノは突っ込みを入れた。
「間違ってはいないけど…」
 綺麗に片付けたルシルは、満足げに笑いながら「ありがとう」と摩訶不思議な薬を大事に抱えてエルレアリに礼を告げる。
 もう帰っちゃうの?と寂しそうなエルレアリ。
 まだ双子が小さい頃からの知り合いの為か、用事が終わるとあっさりと離れていくのが寂しいようだ。
「また遊びに来るよぉ。今度はルイユも一緒にね」
「そういえば、ルイユはどこに居るの?」
「ルイユ?んんっと、どこだろ?分かんないや」
 気がついたらどこかに行っちゃうから、と笑う。
 一定の場所にはずっと居られないタイプで、ルシルが大人しく本を読んでいると彼は暇だと言って部屋から飛び出してしまうのは良くある事のようだ。
 多分そのうち戻ってくるんじゃないかなあ、とけろりとして言い放った。
 常に一緒という訳では無いらしく、特に気にもしていないのが窺える。
「そうなのね。今度は一緒に遊びにいらっしゃいな。いつでも待っているわ」
「うん!ありがと、エルレアリ」
 どうやら彼女は双子が相当好きらしい。ルシルを見る目からして、心の底からの優しさを感じさせてくる。
 ルシルはエルレアリとリューノに挨拶をし、意気揚々と魔法研究室を後にした。

 一方、ルシルの双子の兄であるルイユは。
「なああ、遊んでってば!スーティレーン!!」
 大聖堂内のカフェテラスで紅茶を嗜んでいたスティレンを再び見つけて、構ってくれと喚いていた。
 当然スティレンは拒否感を剥き出しにしながら「嫌だって言ってるでしょ!」と怒鳴る。
 リシェの従兄弟というだけでよく分からない親近感を得たらしく、ルイユは彼に対してリシェ同様の扱いをしていた。
 また面倒な奴に懐かれたと言わんばかりのスティレンは苛々しながらルイユに対してしつこいね!と離れようとする。大してそんなに仲良くも無いのに、何故ひっついてくるのだろう。
 スティレンは馴れ馴れしく近付いてきたルイユに、半ば引き気味になっていた。
「俺は忙しいんだよ!他の暇そうな奴に当たりな!」
「お前、暇そうに茶を飲んでんじゃねーか!お前のどこが忙しいんだよ!」
 お前だぁ?とスティレンはひくりと顔をひくつかせた。
 品が無いね、と小さく吐き捨てる。
「そもそもあんた、リシェと仲が良いんでしょ!?俺はあんたと会うの二度目なんだけど?そこまで知り合ってないのに、何馴れ馴れしくしてくるのさ!」
「んー、リシェと似てるからどんな奴かなあってさあ。でもあれだな、あまり話し方は似てないな!」
「当たり前でしょ!あんな根暗と一緒にしないでくれる!?」
「リシェ、根暗か?」
「分かるでしょ!?俺みたいに美しくて華やかで気品のあるタイプと比べるだけ無意味なんだよ!」
 やはりスティレンは自分を上げる言葉を放つ。
 ルシルは一瞬、きょとんとした顔をして彼を見上げてしばらく無言のままだったが、やがてふふっと吹き出した。
 やがてお坊ちゃんらしくない爆笑っぷりを披露する。
「ばははははは!!自分で自分を美しいとか!!言うかよ普通!?おっもしれー!!面白れぇなスティレン!!」
 その笑いは美意識の高いスティレンを不満にさせるには十分だった。
「何が面白いんだよ!?」
 そして彼は自分の自意識過剰さに全く気付いていなかった。
 自分が美しいのは当然の事なのだと思っているからだ。第三者側にしてみれば、相当な変わり者にしか見えないのに。
「本当…あのリシェの従兄弟かお前?はあっ、はあ…あぁ、面白かった…」
「俺もあんなのとは従兄弟だと思いたくないんだけど!」
「性格は違うな。うん、違う。でも何か似てるんだよなあ…顔かな?雰囲気かな」
 どちらにせよ、リシェと似ていると言われたくないスティレンは不満そうな顔を露わにしてどっかに行きなよとルイユに対しぶっきら棒に言った。
「暇なんだよー」
「俺は別に暇じゃないって言ってるでしょ」
「今のお前のどこに忙しいって言葉が当て嵌まる訳?」
 あまりにも食い付いてくるルイユに、スティレンはしつこいなあと嫌そうに手を振る。
 いい加減に離れて欲しいんだけどと文句を言っていると、図書館方面からルイユとよく似た少年がひょこひょこと近付いて来た。
「あっれー?ルイユ、どうしたのぉ?」
 ルイユはハッとそのゆったりした口調の声に気付くと、自分の弟の名を呼ぶ。
「ルシル!どこに居たんだよ」
「ん?宮廷魔導師の研究室だよぉ。面白い薬を調合して来たの!」
 ふんわりした髪を揺らし、華やかに頰を紅潮させながら手にした小瓶をルイユに見せる。彼とは対照的に活発なルイユは「何の薬だよ?」と興味深くその瓶を見た。
 ルシルは勿体振る様子で気になるぅ?と笑う。
「これを口にするとねっ、最初に見た人間をどうしようもなく好きになっちゃうお薬だよぉ」
「!!!」
 いかにも彼が作りそうなタイプの物だ。
 ルイユはルシルからその小瓶を受け取ると、近くに居るはずのスティレンの方に目を向ける。…だが。
 彼は忽然と姿を消していた。
「ああっ!!またかよあいつ!!」
 やはり隙を見計らってさっさと退散する辺り、厄介ごとはなるべく避けたいという宮廷剣士らしい。
 ルイユは試してみたかったのに、とがっかりした。
「ルイユはスティレンに試してみたかったのぉ?」
 目を丸くするルシル。
「いや、あいつ世界で一番自分が好きみたいだから、この薬を試したらどうなるかなーって」
「どうなるんだろ?あまり、世界で一番自分が好きな人なんて見た事無いからなあ…」
「な?気になるだろ?」
 興味を惹くネタを振られ、ルシルはどうなるのかなあと気になったものの、既にスティレンはそこには居ない。
 ざんねーん、と肩を落としてしまった。

 只今戻りました、とリシェが司聖の塔へ戻って来た。
 要人の護衛の任務を済ませ、体が汗と埃だらけの状態だったがロシュは全く気にもせずに彼を抱き締め迎える。
 膝立ちして、ひしっとホールドしてきた。
「リシェ、おかえりなさい!」
「ロシュ様」
 すりすりと頬擦りをして彼の感触を楽しんでいると、オーギュは呆れながら「人の目も全く気にしないんですから」と言葉を投げ付けた。
「オーギュ様」
「丸一日、あなたの事ばっかりですよこの人」
 仕事になりゃしないと愚痴を放つ。
それでも無理に尻を叩き、さっさとやれと促し続けた結果、溜まっていた分をどうにか捌けさせる事が出来た。
「ううう、リシェ…もう幸せ…」
 困った様子のリシェは、救いを求めるかのようにオーギュを見上げる。
「…ああ、私はそろそろ帰りますから後はよろしくやってなさいよ。一応今日の予定分は終わりましたからね」
「あ、あの、オーギュ様」
 ひたすら自分を抱き締めながら、幸せの余韻に浸るロシュに対して困惑してしまうリシェはどうにかならないものかと言わんばかりにオーギュを呼んでいた。
 だがオーギュはロシュの相手はもううんざりだと言わんばかりに後はお任せしますよとだけリシェに告げる。
「では、また明日」
「お、オーギュ様!」
 リシェは慌てて彼を呼ぶが、さっさと窓から出て行かれてしまった。
 結局二人っきりになってしまう。
「あのう、ロシュ様…」
 目の前で自分を抱き締めるロシュに向け、リシェは困った様子で話しかけた。
「はい…リシェ」
「えっと…俺、今凄く埃っぽいので…ロシュ様が汚れてしまいます」
 湯を浴びないと、と言葉を選びながらロシュから離れようとした。しかし彼はリシェに抱き着いたまま、一向に離れようとはしない。
「あの」
「うう…やっとゆっくり二人だけで過ごせるなんて」
 ぎゅうっとリシェの黒い制服に自分の頰を擦り付ける。
 しばらくまともに一緒に居れなかった為か、ロシュはロシュなりに欲求不満に陥っていたようだった。
 リシェは自分の目線の下に居るロシュの頭を優しく撫でると、少し屈んで彼の額に口付ける。
 口付けに気付いたロシュは、膝立ちしたままリシェを見上げた後に頰を紅潮させて更にきつく抱き締めてくる。
 わわっ、と体が傾いたリシェの細身の体をかき抱いて「やっと触れました」と嬉しそうに感情を吐露した。
「あなたも最近忙しくてお疲れのようでしたから…」
「ロシュ様」
「私も色んな用事が重なってしまいましたからね」
 やや照れ臭そうに微笑むと、ロシュはリシェの制服のボタンを外していく。
「へ…あっ、ロシュ様!」
「一緒にお風呂に行きましょうか、リシェ」
 一緒に、というフレーズについドキンと心臓が高鳴りを始めた。リシェは急過ぎる展開に慌ててしまう。
 心の準備がまるで出来ていないのに。
「お、お風呂、ですか」
「大丈夫ですよ。何もしませんから…いきなりはあなたも困るでしょう?」
 そうは言うものの、やはり一緒に肌を見せ合うとなれば正気ではいられなくなりそうな予感がしてくる。リシェは戸惑いながらも次々とボタンを外していくロシュの指先を見ながら「それはそうですけど…」と言葉を濁した。
 ロシュはリシェの頰に手を当て、ゆっくりと撫でる。
 怖い訳ではないが、リシェは反射的にぴくんと反応すると軽く吐息を漏らした。
 彼から与えられる刺激は危険な甘さを感じてしまうが、やけに心地良い。
 しなやかな指先はリシェの喉をつうっと撫で、やがてシャツのボタンを軽く弾いた。んんっと声を上げてしまう。
「ろ、ロシュさま…」
 再びロシュの額にキスをすると、彼はそれに呼応するかのように首筋に口付けを返す。
「は…っ」
 全身が熱くなってしまう。
 両足が体を支えきれなくなり、がくりとロシュにもたれてリシェは彼の背中に腕を回してしまった。
「ああ、リシェ…これはいけません。いけませんよ…私、あなたをめちゃくちゃにしたくなってしまう」
 顔を真っ赤にするリシェは「あなたから仕掛けたくせに」と切なげに呟いた。
 まだ若過ぎる彼には、僅かな刺激ですら全身に即座に回ってしまうのだ。しかも感じやすいとなれば。
 ロシュはリシェの腰に腕を回すと、しっかりと抱きとめながら彼の開かれたシャツの胸元に顔を埋める。
「ひゃ…!!」
「ん…リシェ、駄目。止められない」
「あ、あっ!ロシュ様っ、俺っ…いま、汗臭いからっ」
 平気ですよとロシュは言うと、リシェの胸でもそもそと顔を動かしていった。
「あ…っは、んんっ…ロシュ、さまぁ…」
「あなたの匂いを感じる…ああ、凄くいい」
「駄目っ…やああ…」
 恥ずかしさに耐えきれなくなりそうになっていたその時。
 遠くから近付いてくる足音のようなものが聞こえてきた。
 …こちらに向かって駆け上がってくるような。
 ロシュは夢中になって気付いていないのか、リシェの乳首に吸い付いてくる。
「んああっ!!あ、ろ、ロシュさま!だめ!!だめっ」
 がくりと脱力しそうになるのを踏ん張り、リシェはロシュから離れようともがいた。
「リシェ、無理…吸いたいんです。あなたの乳首を沢山吸ってあげたい」
 やはり切羽詰まると語弊力が乏しくなるのか、第三者が引く位の言葉責めをしてしまうロシュ。
 …リシェの事が好き過ぎる為に、そう言ってしまうのかもしれない。
 ちゅうっと吸い付き、リシェの体に刺激を与えていく。
「誰か…誰か来ます!!やめて下さいっ」
 足音は確実にこちらに向かっていた。リシェは残る理性を押し上げ、彼の名誉の為にとにかく自分が退かなければと動いた。
 ロシュを押し除け、慌てて身を離す。
「そ、そんなあ!!」
 足音にようやく気付いたロシュは悲しげに叫んだ。
 何故またここでお預けを食らってしまうのか。
 本当に神が自分に罰を与えているかのように、煩悩を断ち切られる。
 リシェが乱された制服を慌てて着直していると、無遠慮に扉が開かれた。
「ロシュ様ー!!」
 それまでの欲望が吹っ飛ばされてしまうような素っ頓狂な明るい声が室内に響く。
 邪魔をされ泣きそうなロシュは、突然やってきたお騒がせな二人組をげっそりしながら迎えた。そして一方ではリシェが先程のロシュの行為の余韻にドキドキしながら制服のボタンを隠れて止める。
 内心、ほっと胸を撫で下ろしながら。
 ロシュの事を敬愛し、一番大切に思っているのだが触れられるのは心の準備が必要になるのだ。自分にはまだ早いのではないかと葛藤してしまうのもある。
 自分の恥ずかしい場所を見られたくない。恥ずかしい姿を大好きなロシュに見せたくないのだ。
 大好きなのに触れられたくないという謎の矛盾がリシェを締め付けてくる。
「良かったあ、起きてた!」
 悪びれない様子のルイユは、嬉しそうに笑う。
「お邪魔じゃなかったぁ…?ロシュ様」
 まさかそうですなんて言えない。
 苦笑いしつつも、一言欲しかったですよぉと軽く返した。
「何か御用が…?」
「ううん、何してるかなって思ってさあ」
 ルイユは背中を向け、ごそごそしているリシェをちらりと見た。
「あれ、リシェ。今帰ってきたばっかなのかよ」
 声をかけられ、リシェはくるりと振り返った。
 制服のボタンを締め終えると、もう夜も近いんだぞと紅潮したままの顔で嗜める。
「疲れてんのか、リシェ」
「任務が終わったばかりなんだ。疲れてない訳ないだろう」
 ルイユは一緒にやってきたルシルにちらりと目配せし、その後に「そっかあ」と自分のポケットを漁りだした。
 何だ?ときょとんとするリシェの目の前に、ルイユは「ほれ!」と一本の小瓶を突き出す。
 自分の赤い瞳の中に映し出されるいかにも怪しげな瓶に、リシェは何なんだと眉を寄せた。
「これ、疲れが吹っ飛ぶやつなんだ!お前に飲ませてやるよ!」
 茶色い小瓶の蓋をキュコキュコと開け、ルイユはリシェの口元にほれと手渡した。いきなり突き出され、胡散臭そうに相手を見る。
 だが、すぐに「はい分かりました」と口には出来ない。
 いかにも怪しく、警戒せざるを得ないのだ。
「買ってきたのか?その割にはラベルも無いけど」
「ううん、これルシルが作った!」
「は?」
 余計不安になっていくリシェに、ルイユは「いいから飲め!!」と半ば強引に瓶の口を彼に押し当て飲ませる。
 ぐぐっとルイユの腕を離そうともがくが、彼の強引な力には咄嗟に対処出来ずについ小瓶の中の液体を口に含んでしまった。
 急に入り込む液体が喉に通ると同時に、異様な味覚に襲われてしまう。
 不味い。とにかく不味い。
 こんな不味いものをよくも飲ませてくれたな、とリシェはきつく目を閉じながら恨みに思った。
「ああぁっ、リシェ!?る、ルイユ…本当に大丈夫でしょうか?」
 あまりの強引さに止めるに止められずにいたロシュは、慌ててリシェに近付くと彼の身を抱きとめながら不安そうな顔を向ける。
 その手前でやけに期待を込めた目線のルイユ。
「う…うう…にがい」
 抱き締めてくるロシュの法衣の袖を握りながら、リシェはゆっくりと瞼を開いた。ロシュはリシェを見下ろすと「大丈夫ですか?」と彼に問う。
 瞼を開き、声をかけてきたロシュと目線がぶつかり合ったその瞬間だった。
 リシェはたちまち顔を真っ赤にして身を震わせ、ロシュからすぐに目を逸らしてしまう。そして熱くなった顔を両手で押さえて叫びだした。
「あっ…や、やだ…やだあああ」
「え!?」
 いきなり拒否され、ロシュはショックを受けた。逃げようと腕の中でもがく小さな体を必死に抱き締めながら「どうしたんですか!?」と問いただす。
 リシェはまともにロシュの顔を見れず、ひたすら首を振る。
「み、見ないで、下さ」
「そんな、リシェ…!!」
「恥ずかしい…恥ずかしい!!ロシュ様!」
 泣き出しそうなリシェに戸惑うロシュは、謎の薬を作ったルシルに「これ、何ですか!?」と悲壮感たっぷりな表情で聞いた。
 彼もまた泣きそうになっている。
 折角久しぶりにリシェとゆっくりいちゃつけると思っていた矢先に邪魔が入り、謎の薬のせいでリシェから拒否されてしまうとなれば無理も無い。
 膨らみ、爆発寸前の欲求の柱をいきなり根本から折られた形になったのだから。
 ルシルはえへへっと照れ笑いしながら、全く悪びれずにロシュの質問に答えた。
「それ、恋のお薬だよぉ★飲んだら最初に目線を合わせた相手が大好きになるの!この前、石取りに行った時に色んな材料拾って帰ってきたから面白い物が作れるんじゃないかって思って!でもリシェはロシュ様が大好きだからあまり問題無かったかなぁ…?」
「問題っ、あるじゃないか!お前っ、どうしてくれるんだ!これじゃまともにロシュ様が見れない…!」
 顔を真っ赤にし、かたかたと震えて胸を押さえて床に座り込むリシェ。
 ふうふうと呼吸を荒げ、恨むようにルシルを見るが当の本人は「ん?」と首を傾げている。
 何が悪いのか全く理解していない様子だ。
「お互い好きなら問題無くなぁい?」
「そういう問題じゃない!!」
 すぐその場にロシュが居るだけで、耐えきれない位に緊張してしまう。胸はバクバクと激しく鼓動し、甘過ぎる締め付けに苛まれていた。
 これではロシュの近くに居られないではないか。
「そ~ぉ?好きなんでしょ?」
 むしろルシルは自分が作った薬の劇的な効力に、相当嬉しい様子だ。
「あの、どうすれば治るんです?」
 困惑するロシュの声を聞くだけでも、リシェは切なそうな吐息を漏らしていた。
「うう…」
 優しく落ち着いた声音が耳の奥に届き、ぞくりと身が震えた。
「解毒剤的なものとか…」
 どうにかリシェを楽にさせてあげたい。ロシュは胸を押さえ俯く彼を心配し、ルシルに問う。だが彼はけろりとして作ってないよ!と返した。
「一過性のものだと思うの!だから作ってないよ」
「アホか!!」
 リシェは咄嗟にルシルに半泣きになりながら叫んだ。
 では解けるまでひたすらこんな状態なのかと絶望的になる。ロシュが近くに居るだけで、こんなに緊張を強いられてしまうのではまともに生活が出来ないではないかと。
 ロシュは自分の専属の騎士に近付くと、彼の肩に手を置いた。
「ひっ」
 びくりと華奢な体を縮めるリシェ。
「明日、オーギュに解毒剤みたいなものを作れるかどうか聞いてみますから、今回はどうにか我慢して下さい」
 なるべく目を合わせないように俯いていたリシェは、こくこくと主人の言葉に頷いた。羞恥と切なさが入り混じり、明らかにこちらに好意を見せている様子だが、流石にこれでは色々と支障が出てしまう。
 だがあまり感情を出さないタイプの彼が、湧き上がってくる甘い感情を押さえきれない様子は新鮮だった。
「ロシュ、様」
「?」
「そんなに見ないで下さい…!お、俺っ…どうしたらいいか分からない…!」
「大丈夫。大丈夫ですからね、リシェ。まずはお風呂に入って来なさい」
 本当なら、今頃リシェと浴室で甘い時間を過ごしているはずだったのに。
 残念に思いながらロシュはリシェに安心させるように一先ず風呂に入るように告げた。彼はすぐに自室に着替えを取りに向かう。
「意外にあいつ可愛いな」
「んふ、こんなに効き目があるなんて」
 怒るにも怒れない。
 ロシュは溜息を吐いた。
「…結局、これを試したかっただけですか?ルイユ、ルシル…」
「うん!最初スティレンに試したかったんだけどなあ。あいつすぐに逃げちゃうし。他に面白そうなのは誰かなーって考えたらさ、あっ!リシェが居るじゃん!ってさ」
 何という流れ弾的な。
 ロシュはかくりと頭を垂れた。そこに追い討ちをかけるようにルシルが微笑む。
「でも、リシェの違う一面が見れたでしょ?」
 確かにそうなのだが、彼には災難が降りかかってきたようなものである。恥ずかしさにこちらと会話が出来なくなるのでは、全く意味を成さないのではなかろうか。
「あのですねぇ…」
 ロシュが口を開くと同時に、再び部屋の扉が開かれた。
 着替えを手にリシェが入って来るが、ロシュの視線を避けるかのようにそそくさと浴室へと向かう。
「リシェ」
 声をかけると同時に、彼はぴくりと身を震わせた。
「は…はい…」
 あの瓶の中身を飲む前は普通だったのに、今では頰を赤らめて戸惑い、困惑の表情でこちらを見ようともしない。
 こちらが何をした訳でもないのに。
 ロシュはぐぐっと胸を押さえる。
「まず落ち着いて、ゆっくり体を休めてきなさい」
 彼はこくんと頷くと、まるで逃げるように浴室へと姿を消した。
 あまりの変化に、ルイユは「凄っげぇ」とはしゃぐ。
「リシェが違う人になったみたいだな!」
「こんなに効いてくれるなんて思わなかったぁ」
 いちゃいちゃが遠ざかってしまった事で、行き場の無い欲望を持て余してしまいそうだった。
 今日こそは、と思ったのにと残念な気持ちになるが、とりあえずこの問題児二人をどうにか退出させなければならない。
 ロシュは軽く咳払いをし、「さあ」と二人に声をかけた。
「後は私がどうにかしますから、あなた方はクラウス殿の所へ戻りなさい。遅くまでここに居ると、あの方が心配されますから」
「あー」
 ルイユは窓の外の様子を見る。
 外はすっかりと夜の暗さに覆われ、塔の部屋から見える時計も夕刻を知らせる針が進んでいた。
 やばいな!と口走る。
 彼は弟に「やばいぞ、真っ暗だ!」と声をかけるとロシュを見上げてじゃあ帰るよ!といつもの様子で笑った。
 ルシルもこくんと頷く。
「じゃあ、ロシュ様!またな!」
「んふ、またねぇ」
 大人しく双子は部屋から出て行ってくれたが、まだ問題が済んだ訳では無い。一過性のものであってくれればいいのだが、リシェの具合をどうにかしなければならなかった。
 一体何を混ぜてきたのだろう。
 ロシュは床に転がっていた瓶を拾うと、軽く中身の匂いを嗅いでみる。同時に異様な臭覚に眉を寄せた。
 …これ、飲み物として作られたにしては凄い匂いだなぁ。
 けほりと咳込んだ。
 やや獣臭さを感じる中で、謎の清涼感が入り混じる形容し難い匂いがした。リシェもよく喉に通したものだ。
 解毒剤でもあればすぐに飲ませられるのだが、流石に惚れ薬の解毒など考えた事も無い。
 オーギュに頼むしか無さそうだなと瓶を片手に瞼を伏せて一息吐いていると、浴室からリシェが姿を見せてきた。
 まだまだ効力が続いているのか、彼は自分を見るなり切なそうな表情をする。
 普段のリシェとは想像もつかない顔に、ロシュはついきゅうっと胸が締め付けられてしまう。
「く、薬のせいとはいえ…あなたがそんな顔をするなんて…こちらまでドキドキしてしまいます」
 いっその事、自分も同じ薬を飲めばいいのだろうかと思った。それなら苦しむのはリシェだけではなくなる。
 リシェは床に視線を落とし、身を小さくしたままロシュに謝った。
「ごめんなさい…ロシュ様」
「何を謝るのですか、リシェ。あなたは全く悪くなんか」
「あなたの顔をまともに見れない。この場に居るだけで緊張してしまう…胸が苦しい」
 濡れた黒髪がやけに艶かしい。
 ロシュは彼に近付いた。だがリシェはびくんと身を竦ませると後退りを始める。
「や…だ、ロシュ様」
「明日、あなたの症状を見てからオーギュに解毒剤になるような物が無いか聞いてみましょう。今は我慢するしか」
 ううっと目をきつく閉じるリシェ。
 そんな彼の前に膝を付き、ロシュは固まったリシェの頰に優しく触れた。ひ、と小さく悲鳴を上げるのをスルーし、指先で軽くつつく。
「うう…だめ、ロシュさま」
 心臓が爆発しそうになる。ロシュが好きで好きでたまらなくて、頭がおかしくなりそうだった。緊張で喉がからからに乾き、湯を浴びたにも関わらず全身に汗が吹き出してしまう。
 そんなに近付かないで欲しいと心の中で願っていた。
 眼前に居る最愛の相手に粗相は出来ないのに、体が言う事を聞かなかった。
「大丈夫ですから、リシェ」
「ごめん、なさい…」
 ひたすら謝り続ける彼がまた愛おしくなる。
 大きな赤い瞳が潤ませて頬を紅潮させ、弱々しく震えているのを見ると、堰き止められた欲望がまた再燃しそうになった。
 …抱きたくて抱きたくて仕方ない。
だがこんなにも弱ってしまった彼を抱くのは気が引けてしまう。弱みに付け込んでリシェを自分の思いのままにするのは、流石に外道過ぎやしないかと。
 ロシュはふう、と呼吸を整えた。
「今日はゆっくり眠りなさい、リシェ」
「………」
 小動物のような彼を落ち着かせるように、紳士的に命じる。リシェは意外そうな顔でロシュの端正な顔を見た。
「大丈夫、夜中に襲い掛かったりしませんから…心配なら、お部屋の鍵を掛けておきなさい」
 本当は寝入った時を見計らって悪戯をしに行きたいのだが、大人として我慢しようと思った。
 頭の中では恥ずかしさと薬の効果で弱るリシェを、自分の手によって好き放題に苛める妄想が湧いては消えていく。
 全身が熱くなりそうだ。
 未だにリシェを自分と繋げていないから、尚更この状況はきつい。あらぬ欲望だけが頭を支配してしまう。
「…ごめんなさい、やっぱり私も大好きなあなたのその状況に耐えきれない。だからしっかり鍵を掛けて」
 優男風のロシュの口から想像も付かない肉食的な発言を受け、リシェはこくんと頷いた。
 心の底の悪魔が自分に対して意気地なしと罵倒する声がする。ロシュはうぐぐと唸りながら首を振り、その内心の悪い心を振り払った。
 愛するリシェを傷付ける位なら、いくら意気地なしと罵られても構わない。
 とにかく今は我慢の時だ。
 リシェに嫌われたくないから、紳士的に振る舞わないと。
「晩ご飯、どうします?」
 なるべくロシュと目を合わさないようにしていたリシェは、混乱する自分の気持ちで空腹どころでは無い事に気付く。
 彼が好き過ぎて、食欲すら沸かないのだ。
「大丈夫です…お腹減ってない…」
「リシェ」
 ロシュは苦笑いするといけませんよと嗜める。
「少しは何かを口にしないと、明日に差し障ります。そうですね…軽めにリゾットでも作りましょうか。お部屋でお待ちなさい」
「でも、あの」
 彼の手を煩わせる訳にはいかない。リシェは大丈夫ですからと言いかけたが、ロシュはいいんですよと制した。
「手元にいい材料があるんですよ。ふふ、送られてきた物ですけどね、いつか食べよう食べようって。少しお時間頂きますね。あなたはお部屋で本でも読んでなさい」
 未だに心臓はドキドキしている。
 彼の優しい笑顔を見るだけで、心が甘く甘く締め付けられてしまい、結局分かりましたと了承した。
 …俺はずっとこのままなのだろうか。
 リシェはふらふらとした足取りで自室へと戻る。
 ああ、と溜息を吐いた。
 ロシュが自分を好きでいてくれているのは分かっていて、自分も彼が大好きだ。それなのにどうして苦しくなるのだろう。
 彼に見つめられると照れ臭いのと恥ずかしいのと、見られたくないのと色んな感情が湧いてくる。それをどう表現したらいいのか分からない。
 嬉しいくせに見られると嫌だ。自分が見られて、一体どんな顔になっているのだろう。
 こんな状態だと、二人で同じ部屋に留まれば全く気持ちが休まらない。そしてロシュと密着しようものなら、幸せの一方で、恥ずかし過ぎて死ぬかもしれない。
 普段なら大丈夫なのに…とベッドに正面から倒れ込んだ。
 柔らかな布団に顔を埋め、彼は頬を赤らめたまま「ロシュ様」と甘い吐息を漏らす。
 ああ、好き。好きだ。大好きだ。
 なのに彼の顔を見れない。
 意味の分からない薬を無理矢理飲まされたせいで、リシェの頭の中はロシュ一色になってしまう。
 ぼんやりしていると、部屋の扉がノックされる。
 リシェはガバッと起き上がり、はいと返事をした。
 厚みのある扉がゆっくり開かれ、湯気の立つ器をトレーに乗せてロシュが姿を現す。
「リシェ、出来ましたよ」
 ふわりと食欲をそそるサーモンの匂いが鼻腔を刺激した。
「きのことサーモンが入ったクリームリゾットです。少しは食べておかないとね」
 いつも本を読む際に使っている机にトレーを置くと、ロシュはリシェの頭を優しく撫でた。
「ありがとうございます」
「いいえ…さあ、冷めないうちに食べておきなさい」
 そう言ってロシュは部屋から立ち去ろうとした。
「ロシュ様」
 部屋から出て行こうとする彼の背中が、やけに寂しそうに見えてしまう。ロシュは振り返り、いつも通りの優しい笑みを浮かべながらどうしましたか?と問う。
 彼と目を合わせると、つい逸らしたくなる。だがひたすら我慢しながら「あっ…あの」と言葉を詰まらせた。
「お、俺っ…あなたを決して嫌な訳じゃ、ないのです」
「………」
「こう、胸がドキドキして…呼吸がっ」
 ロシュはリシェに向け近付くと、反射的に身を構えた彼に腕を回し抱き締めた。
「あ…っ!!や、だめ…」
 心臓が激しい鼓動を始める。喉が渇き、呼吸もままならない。ロシュに抱き締められるのには慣れているはずなのに、甘過ぎる感情に押し潰されそうだった。
 反面、嬉しくて幸せな気持ちになる。
 逃げ出したくなるが、このままでいたい。
「分かっていますよ、リシェ。分かってますからね」
「は…っ、はあっ…ロシュさま…」
 ロシュの胸元に顔を埋め、リシェは甘い苦しさを感じながら彼の白い法衣を掴む。
「本当はこのままずっと抱き締めたいんですがねぇ…この様子だと、キスですら卒倒しそうで。私もあなたに負けてしまいそうになりますから」
 胸元にひっついているリシェのさらりとした黒い髪に指を絡ませながら名残惜しげに囁く。
 夢見心地な自分の護衛騎士に、さあと背中を軽く叩いた後で「リゾット、熱いうちにお食べなさい」と命じた。ずっと抱き締めたままだと、自分はリシェに牙を剥いてしまいそうだ。
 自分も正気ではいられなくなる前に離れておかなければと危機感を覚え、ロシュは扉に向かう。内面に巣食う淫らな獣を押し込みながら。
 そんな事を知らないリシェは改めて頭を下げる。
「いただきます」
 素直に自分の言う事を聞いてくれるリシェ。ロシュは「はい」と愛情溢れる笑みを向けた。

 翌日。
 リシェがいつものように兵舎に向かった後、入れ違いでオーギュがロシュの元へ姿を見せていた。
「あの、オーギュ」
「何ですか?」
「惚れ薬的なものを緩和するような薬ってありませんかねぇ?」
 書物や書類をテーブルに置いて仕事に取り掛かる準備をしていたオーギュは、突然何の話をしているのだろうと不思議そうな表情を浮かべていた。
 最近伸びて気になってきた前髪を軽く寄せながら「どうしたんです?」と問う。
「ええっと…」
 ロシュは簡単にだが、昨日の出来事を自分の補佐役に説明した。事故というか突然湧いてきたアクシデントだが、リシェの症状をどうにかして緩和させたい。
 ルシルの事だから魔草の類もあのドリンクに混入しているはずだ。
 話の内容を理解したオーギュは、眉を顰めてまた面倒な事を、と嘆く。
「リシェはどちらに?」
「普段通り、任務に向かいましたよ。私が姿を見せなければ恐らく普通でしょうから…」
自分でそう言いながら、ロシュは寂しい気持ちになってしまった。
 仕方無いとは言え、現時点でリシェは自分を拒否している状況だ。嫌われていないのは分かっているものの、目を合わせてくれないレベルなのが堪える。
 はあ、とオーギュは頭を掻いて突き放す言葉を放った。
「むしろそのままの方が、あなたもリシェ離れしやすいのではないですか?」
「何て事を言うのですか!!嫌ですよそんなの!!」
「…ああ、分かりましたよ。で、ルシルの作った薬品の瓶はどちらに?」
 泣きそうな顔で引っ付いてくるロシュをオーギュは投げやりに払うと、面倒臭そうに原因の物を要求した。
 はぁあ、と嘆いている昔馴染みから薬品が入っていた空っぽの瓶を受け取る。
「全部飲んだんですか?」
「ルイユに飲まされたのですよ。結構匂いもきつくて味も美味しくはないだろうに、よく飲んだものです」
 オーギュは蓋を開けて中身を覗き見た後、試しに匂いを嗅ぐ。ロシュが言った通り、あまり宜しくない香りがした。
 何を混ぜたのだろう。
「これが惚れ薬なんですか」
「飲んだ後に目を合わせた相手に対して恋焦がれるらしいです。実際、リシェは恥ずかしがってしまって私と顔を合わせてはくれません」
 まるで別の人格が彼に入り込んできたかのように、リシェは自分と目を合わせるだけで顔を真っ赤にして逃げ出さんばかりの反応を見せていた。
 あれだけの反応をするリシェも可愛くてつい抱き締めたくなるが、会話すら成り立たなくなるのも困る。
「…研究室で保管されている薬草の匂いもしますね」
「向こうで色んな道具もありますから、あちらで作ったのかもしれません」
 オーギュは仕方ありませんねと嘆息する。
受け取った瓶を手に、彼は「これ、借りますよ」とロシュに許可を求めた。
 どうにかしてくれるのか、とロシュは救いを得たかのようにぱあっと表情を明るくする。顔が良すぎるせいか、やたらと華やかさが強調された。優しい雰囲気を持つロシュとは逆に外見で損をするオーギュは、内心その恵まれた容姿に嫉妬しながらちょっと席を外しますとだけ告げる。
 信頼する優秀な魔法使いである彼に頼めば、リシェの症状の解決も早くなるだろう。
 ロシュは嬉しそうに「はい!」と叫ぶように返した。
「あなたはその間、しっかり仕事をしていて下さいね」
「わ、分かりましたよ」
 サボるのではないかと思われたのだろうか。
 信用されてないなぁ、と少しだけ膨れるロシュが仕事に取り掛かるのを見届けると、オーギュは瓶を手にベランダへと出る。
 完全に彼の玄関口となったベランダから、爽やかな風が入り込んでいた。真っ白なレースのカーテンが舞う奥で、オーギュは一旦部屋の中を振り返って念を押すようにロシュに告げる。
「私が見ていないからといって、手を抜いたりしないようにして下さいよ、ロシュ様」
「分かりましたってば!リシェの件、お願いしますよ!」
 まあ、これだけ押せば大丈夫だろう。
 オーギュは再び塔からひらりと魔法の力を使って飛び降りて行った。
 ひゅうう、と風が鳴る音が聞こえる。
「………」
 本当ならサボりたいんだけどなぁ。あの人が怒るととにかく怖いし…。
 頭の中に住み着いている怠け癖をどうにか押さえ、ロシュは目の前に置かれた書類に手をかけた。

 …良くもまあこんなに災難が降りかかってくるものだ。
 オーギュは地面に着地し、思わずリシェに同情する。
 そしてこのような厄介な薬を作ったルシルにも、こんなものを作る能力をもっと別に移してくれたら良かったのにと複雑な気持ちを持ってしまう。
 結局面倒な尻拭いをする羽目になるなんて。
『(心底面倒そうだな、オーギュ)』
 自分の中に棲みつく召喚獣は、内部の居心地の良さに眠気に満ちた声を上げる。オーギュはそりゃそうですよと不満そうに返した。
 尻拭いには慣れているが、全く自分には関係無い事で手間を取らされてしまうのはどうにも納得出来ない。
「(あの人に頼まれたらね)」
『(ロシュか。奴も自分でどうにかするという意識は無いものなのか)』
 …ごもっともな意見である。
 どうにかしたいものの、彼の場合はどうにも出来ないのもある。
 魔導師が扱う物の中には一般の身では触れない危険物も含まれていたり、魔草や薬品の組み合わせによっては爆発する可能性も含んでいた。多くの司祭の上に立つ彼のレベルならば、多少書物を読み扱いに気をつければ何の問題も無さそうに思えるが、結局はあのロシュである。
 いらなく別の事をしそうで逆に不安になってしまうのだ。
「(あの人が単独で解決するより、私が解毒剤を作った方が早いです。別の変な薬品を調合されたりすると余計面倒になりますし)」
『(そうか。それもそうだな)』
 とりあえず図書館で解毒剤に関する本を借りなければ。
 中庭を早足で進み、大聖堂内部の図書館を目指した。普段と代わり映えの無い中庭は、やはり観光客や巡礼客が往来している。
 武装した冒険者の姿も見かけるが、武具の類は大聖堂に入る前に一旦預けられる為、装備を外す手間を面倒がる者も多い。冒険者の姿は前者よりは少なめだった。
 途中、ふわりと甘い匂いが鼻を掠める。
「ん?」
 あまり馴染みの無い香りに、オーギュは不意に足を止めた。
 よくお茶をするカフェの看板に、ビターで仕上げたホットココアに細かく砕いたナッツを含んだ生クリームを乗せました、という文言が分かりやすいイラスト付きで紹介されている。
 新商品のようだ。
 それを見るなり、オーギュは目を細める。
『(オーギュ)』
 ファブロスが先を促すように彼を呼んだ。
『(今はそれにうつつを抜かしている場合では無いだろう)』
 分かっている。分かってはいるが。
 オーギュはキツい印象を他者に与えるが、その外見からは想像も付かない程甘いものが好きだった。
 甘いケーキと、逆のブラックのコーヒーや熱いお茶の組み合わせがとにかく好きなのだ。
『(…オーギュ)』
「(わ、分かっていますよ。少し気になっただけで)」
 新商品となれば、飲まずにはいられなくなる性分なのだ。
 ちらりと看板を見た後、軽く首を振る。駄目だ、と。
 今はやる事がある。誘惑に負ける訳にはいかないのだ。
 数歩進んだ。しかし、急激に足取りは重くなる。
 ファブロスはそれが分かり、すぐ主人に再び声をかけた。
『(お前はするべき事があるだろう)』
「(ええ。大丈夫です。大丈夫)」
 さぞかし甘いに違いない。
 魅力的な香りに引き寄せられそうになるのを、どうにか押し留める。
 きつく目を閉じ、図書館へと歩き始めた。しかしどうしても、脳にこびりついた香りに惹かれそうになってしまう。
『(オーギュ!いい加減にするのだ)』
 誘惑に負けそうな主人を察したのだろう。別に今飲まなくてもいいだろう、とファブロスが呆れた。
「(ああ、もう…あれだけ甘い香りだと心が揺らいでしまいます。我慢すればいいんでしょう、我慢すれば)」
 …まさか自分が嗜められる側になるとは。
 オーギュはファブロスに促されるまま、カフェの前を通過した。

 はあ、とリシェは切なげに溜息を吐いた。
 何度目の溜息なのだろう。
 作業をしていても、とにかくロシュの事が頭から離れない。気を抜けば彼の事ばかり思ってしまう。
 またロシュの目線が届くあの部屋に戻らなければならないのかと思うと、どうしても憂鬱な気分になった。
 彼の前に居るだけで、緊張と羞恥心に襲われ、そして好きだという気持ちがごちゃまぜになってしまう。確かに彼の事を敬愛しているが、まさかここまでソワソワした気分に陥ってしまうとは。
 何十と回数を重ねてきた溜息に、同じ班の班長であるヴェスカは「なあ」とリシェに話しかけた。
「えっ」
「やたら溜息吐くよな。どうした?」
「…別に、何でも…」
 現在、彼らは班ごとに行われる勉強会の真っ最中。
 班内の剣士達もテーブル越しにこちらを見ていた。
「先輩、何かあったんですか?」
 ラスも心配そうにリシェに話しかけてきた。
「悩みとか」
「…いや、そんなんじゃないんだ。こればかりは自分ではどうしようも…」
 度々襲ってくる甘い感情に、リシェはううっと顔を歪める。
「具合悪いなら休んでもいいぞ。ロシュ様に見て貰った方がいいんじゃないのか?」
 ヴェスカの口からロシュの名を放たれた瞬間、リシェは顔を真っ赤にしながら首をぷるぷると振った。
「や、いや、いい。ここに居る」
「何だよ?喜んでロシュ様の側にいるくせに」
「いいんだ。放っておいてくれ」
 年齢の割には冷静なタイプのリシェが顔を赤く染めながら今にも泣きそうな顔をしているのがやけに印象的で、ヴェスカは不自然さを感じてしまう。
 喧嘩でもしたのだろうか。
「何かあったのか?」
「特に無い、無いよ…いいから、続きをやれ」
「今日のお前、変じゃね?」
 常に変なヴェスカに言われたくない、とリシェは反抗的な気持ちに陥るが。
「へ、変じゃない…変なものか…!」
 否定するだけで精一杯だった。
 すぐ近くで様子を見るスティレンは、リシェに対し「おかしいよお前」と冷めたように言う。
「てか、続けたいならそのおかしげな溜息止めてくれない?いい加減ウザいんだよね」
「う…」
 はっきり鬱陶しいと言うのは、彼がリシェの従兄弟という近い立場の為だろう。他人にとっては、絶えず聞こえてくる溜息など邪魔以外の何でも無いのだ。
 彼の言う通り、原因の分からぬ溜息は心象も悪くなる。
 リシェは俯き、「しばらく治りそうにない」と呟く。
「なら出ていきな、リシェ」
「スティレン」
 言葉がきついよとラスは嗜めた。それでも、スティレンは邪魔だろと綺麗な顔で毒を吐いていた。
「で、何がどうしてそうなったんだ、リシェ?」
 ヴェスカはすっかりしょげているリシェに聞く。
 今まで見た事の無い表情で、彼は「変な薬を飲まされた」と返事をする。
「あんん?変な薬?」
「そう、変な薬…ほら、石掘りに行っただろ。ルイユとルシルがくっついて来たあの時」
「ああ、あの時な」
「ルシルが持って帰った材料で作った液体を、ルイユが疲れを取る薬だって瓶を口に突っ込まれたんだよ。そしたら急におかしくなってしまった。ロシュ様を見ただけで、好きで好きで切なくなる。だからあまり戻りたく無いんだ」
 話す度にリシェの頭の位置が低くなっていく。
 ヴェスカは合点がいったように「そっか」と彼の頭に手を置いた。
「それ、ロシュ様が特効薬みたいなのを作ってくれるんだろ?」
「オーギュ様に頼んでみるって…」
「ああ、なるほど…なら、医務室にでも行ってくるか?別に俺の部屋に泊まっても構わないけど」
 どうしよう。
 リシェはヴェスカの顔を見上げると、困ったように「嫌われないかな?」と問う。その顔が迷子になった子供の不安げな顔そのもので、妙に可愛かった。
「大丈夫だろ。状況が状況だし」
 とりあえず今は医務室で休めとリシェを促す。
 ぽうっとしたままの彼は素直にヴェスカに従う事にした。
 椅子から立ち上がり、ふらふらした足取りで室外へ出ようとする。途中、がしゃんと音を立てて机にぶつかってしまう。
 …かなりの重症だ。
 ヴェスカは「そこまでかよ?」と驚いてしまった。
 あまりの酷さに見かねたラスは、自ら世話を申し出る。
「班長、良かったら俺、医務室まで連れて行きます」
「お…ラス。じゃあ頼もうかな」
「はい」
 ラスはリシェの側に駆け寄ると、彼を優しく支える。
 間近に見る彼の顔に浮かぶ憂いを帯びた表情に、まだ慕い続けているラスは思わずドキンとした。
「先輩、大丈夫ですか?」
 リシェはラスに悪いなと小さく呟く。
 自分でも情けないと思う。だが、薬の効果は絶大過ぎて耐え切れるものでは無かった。
 ううっと呻きながら胸元を押さえる。
「俺に掴まって、先輩」
 周りにこんなに迷惑をかけてしまうなんて。
 黙って部屋で休めば良かったと後悔した。
 廊下に出たすぐ先に医務室があるものの、担当医は一週間程研修の為、怪我人が出てもすぐ入れるように開けられていた。一日の終わりに兵舎を閉める際には、士長であるゼルエが施錠を任されている。
 具合が悪くなった場合などは、城下街の病院へ直行か自宅療養の方法を取っているが、リシェの場合はどちらの方法も生かせない。
 ラスに支えられながら医務室に連れられたリシェは、勧められるまま簡易ベッドに寝かされた。
 薬品臭い室内で、横になって毛布を包むリシェを見下ろし「大丈夫ですか?」と顔を覗き込む。
「ああ。…大丈夫…」
「ゆっくり休んで下さい」
 恋煩いの薬なんて存在するのかと、頰を赤らめソワソワする彼の様子を見ながらつい感心してしまう。もし手元にあったなら、自分がリシェに使ってみたかった。
 黒い髪が白い枕の上で乱され、頰を紅潮したまま切ない吐息を吐く珍しい彼の姿を見下ろしていると、やはり甘くときめいてしまう。
 同性とは思えぬ程の細さで、この荒々しい男所帯には似つかわしくない容貌を持つリシェは非常に魅力的だ。そして顔に似合わないストイックな性格も。
 …支配したくなってしまう。
 ラスはリシェから顔を逸らすと、心の底に渦巻く劣情を押さえながら「じゃあ俺、戻ります」と呟いた。
 長居すると、彼を襲いそうだ。
 自分はまだ彼の事が好きで、少しの望みがあれば入り込みたかった。
「…ああ。悪いな」
「先輩」
「………?」
 気を抜けばロシュを思い出し呻きながら、リシェはラスを見上げた。不安げな表情がまたラスの気持ちを揺るがした。だが、手を出せば嫌われてしまうだろう。
 まだ未練があるから、嫌われたくない。
 ラスは苦笑いを含めつついつもの無邪気さで話を続ける。
「今の先輩の状況、俺が先輩を思う時の感覚と多分同じですよ。少しは理解してくれました?」
「………」
「まだ好きですよ。それだけは忘れないで下さいね、先輩」
 彼はこちらに手を軽く振り、座学室へと戻って行った。

 新商品を泣く泣くスルーしたオーギュは、目的の図書館で薬剤や魔草の専門書などを持ち出し読書スペースで読み漁っていた。
 早々に解毒剤を作らなければならない。
 ファブロスはオーギュの中から人化して外に飛び出し、その様子を眺めていた。
『よくそこまで分厚いのを読めるものだ』
「慣れていますからね」
『手に持つには重過ぎる』
「そうですね。ここのテーブルは厚い本を読むにはちょうど良い高さなのですよ。持たなくてもいいですからね」
 ファブロスは真剣に本を読み続けている主人をじっと眺める。
 オーギュの姿から滲ませる知性といい、ストイックな雰囲気といい今までの主人とは別格だ。他者を跳ねつけるような冷静さがまたファブロスには堪らなかった。
 精を貰い受ける際に見せてくる余裕の無い表情を思えば、この冷静の塊がいかに性欲に弱過ぎるのかが窺えた。
 そのうちまたこいつを自分のやり口で存分に満たしてやろうと邪心を湧かせていると、不意に軽快な声が飛び込んで来る。
「やあやあ、オーギュにファブロス君!向こうで君達が来てるって聞いたから挨拶をしに来たよ!」
 静けさを要求する図書館の司書のくせに、自ら決まりを破る。
 あまりにの矛盾に顔を上げ、オーギュは「やかましいですね」と不愉快そうに読んでいた本から視線をカティルに向けた。
「何かお探しで?」
「解毒剤を作ろうと思いましてね」
「解毒剤?」
 再び書物に視線を落とす。
「ちょっとリシェの具合がよろしくないので」
 カティルはへえ、と腕組みをして何かを考え込んだ。ううんと顔を上げると、照明の光が眼鏡に反射し眩しく輝く。
 やがて「あっ」と思い出し、ぽんと手を叩いた。
「それって、あれですか?」
「ん?あれ?」
「あれですよ、あれ」
「具体的に言って下さい」
「前にルシル君が薬品系統の本や魔法関係の本を借りに来てくれてねぇ。何かを作る気満々だったからね。解毒剤で思い出したんだよ、結局何だったのかなあって」
 ファブロスはページをめくる手を止めた主人に、『ルシルが借りた本も目を通してみたらどうだ?』と告げた。
「カティル」
「ん?何だい?」
「あの子が借りた本のタイトル、教えて下さい」
 何か関係あるのかい?ときょとんとした。
「ああ、構わないよ。ちょっと台帳持って来るから待ってておくれ…お礼は君の体で構わないよ、オーギュ」
『ふざけるのも大概にしろ』
 どさくさに紛れおかしげな事を言いだすカティルに対し、ファブロスはすかさずキツい一言を投げつけていた。
 息をするようにおかしげな事を言う奴だと呆れる。
『オーギュ。あいつには気を付けた方がいいぞ。何をされるのか知れたものではない』
「その点なら大丈夫ですよ。彼が変な事をしてきたらすぐに振り払えるように体が反応しますから」
 スキンシップというにはあからさまなセクハラな行為を受けてきたせいか、オーギュも撃退に慣れてしまった。
 前に尻を鷲掴みにされた時は、勢い余って彼の顔面にパンチして昏倒させた事もあったが、彼は懲りもせずに繰り返すので諦めて半分流している。
 だが彼はこれだけダメージを受けても全くへこたれる事は無いのだ。むしろ今まで通り、カティルはオーギュに対して完全に間違った求愛方法をし続けていた。
 挙句には痛みですら愛情だと言う始末なのだから、もう何も言う事はない。
 しばらくして、台帳を手にカティルが戻って来た。
「やあ、待たせたね!体は疼いてないかい?」
「いちいち変なフレーズを入れなくても結構ですよ」
「いや、疼いてないかと思ってねぇ」
『………』
 ファブロスの冷たい視線をかわすようによっこらしょー!と言いながら長方形の使いこなされた古く厚い台帳をオーギュの前に広げると、ちょっと待ってねとページをめくる。
 過去の履歴からルシルが借りた書物のタイトルを探し当てると、カティルはえっとと呟いて該当する本棚から本を取りに向かった。
 余計な事を言わなければ普通の職員なのに、とオーギュは思う。外見は自分と似通った感じで司書用の法衣を身につけていたが、彼は魔法が全く使えなかった。
 護身用に剣技を嗜んでいるよと本人は言うが、表立ってその腕は見た事は無い。あまり出る必要はないのだろう。
「すぐに返却してくれたからね、見つけたよ」
「ああ、それなら良かった。二冊ですか」
「魔法関係はあまり知らないけど、この本は色んなジャンルが凝縮されているからね」
 カティルから本を受け取ったオーギュは、ゆっくりとそれを開いた。
「借りて行ってもいいよ、オーギュ。読むには時間がかかるだろう」
「…そうですね。興味がある内容も含まれてるし…」
『ん?読み飛ばしているのか?』
 変な見方をしている主人に、ファブロスは訝しんだ。
「惚れ薬に関係ありそうな場所を目次から選んで読んでいます」
 そう言いながら胸ポケットから付箋を取り出し、気になるページに次々と貼り付ける。その手際の良さにカティルは感心した。
 ある程度貼り付けた後、カティルが持ってきた台帳に自分の名前と本のタイトルを慣れたように記す。
「お借りしますよ」
「ああ、勿論構わないよ、オーギュ。君と私との仲じゃないか。濃密にねっとりとした関係だしね」
 他人から見れば完全に誤解を招く言い方に、ファブロスは憮然とした様子を見せている。
「おや…怖い顔をしないでおくれよ、ファブロス君。君がオーギュを慕っているのは良く分かったからさ」
『冗談を言っているようには見えないのだ。オーギュは私の主人だぞ』
「ううん、君はかなり彼が好きなんだねぇ…」
 多少の冗談ですら怖い顔をするのだ。
 相当強烈な召喚獣を手懐けたものだと感心してしまう。ここまで心酔させてしまうなんて。
「…よし、とりあえずこれをお借りして読み漁りましょう。仕事もありますからね」
 ガタンと椅子から立つと、書物を手にカティルに礼を言った。
「どうにか解毒剤を作ってリシェに飲ませないと」
「かなり重症なんですか?」
「ロシュ様の顔を恥ずかしがってまともに見られないレベルのようです。あの子の事が大好きなロシュ様が嘆いて嘆いて鬱陶しいのでね。さっさと解毒剤を作ってしまおうと思いますよ」
「顔を見れないレベルって…ふふ、その薬をロシュ様も飲んでしまったら更に面白い事になりそうだねぇ」
 余計な妄想に、オーギュは反射的に嫌ですよ!と拒否感を剥き出しにした。
 今ですら面倒な状況なのに、更に人数が増えたら余計おかしくなる。想像するだけでも恐ろしい。
 仮にロシュが飲んだとなれば感情に振り回されて仕事すら出来なくなりそうだ。
 とりあえず。
 再び仕事に戻る為に、オーギュはファブロスを連れて図書館から出ようとする。
 カティルは二人の青年を見送りながら「またいつでも借りに来るといいよ!」とにこやかに言った。
「オーギュ、君さえ良ければ私はいつでも君を受け入れてあげるからね!」
 どうしても言わなければ気が済まないのか。
 ファブロスはぎろりと鋭い目線でカティルを振り向き睨む。
『また、お前という奴は!』
 そして人が集まっている図書館であまりにも堂々と言い放つカティルに、オーギュは「必要ありません!!」と怒鳴っていた。

 はぁ、リシェ。
 ロシュは仕事の手を止めてはあっと溜息を吐いた。
 ただでさえリシェと触れ合っていないのに、こんなにも悶々としなければならないとは。
 彼が悪いのではないのは分かっているのだが、とにかく変なストレスでどうにかなってしまいそうだった。
 オーギュはまだ戻って来ない。
 自分でも出来る事なら何でもしたかった。何かを用意しろと言われたら自分で探しに飛び出しても構わない。
 うううと机の上で苦悶していると、扉からノックする音が聞こえてきた。
「ロシュ様」
 小さくあまり聞き取りにくかったが、それは兵舎に行ったはずのリシェの声。ロシュはがばりと顔を上げる。
「は、はい!お帰りなさい、リシェ!」
 ロシュは書斎机から飛び出し、開かれた部屋の扉に駆け寄る。リシェは顔を真っ赤にしながらロシュを見上げ、ふるふると怯えていた。
 安心させるように優しく微笑むと、リシェの目線に合わせて屈む。
「どうしましたか?今日は早かったですね」
「…あ、あの…向こうでも、全然気が休まらなくて」
 彼は俯き、動揺しながらロシュに言う。
 美少女のような顔で恋する表情を目の当たりにしてしまうと、ロシュの心臓は甘く締め付けられそうになった。
 …はぁあっ…!リシェってば…!そんな顔をされると私も死にそうになってしまうじゃないですか!
 全身に熱が入り、ロシュは落ち着けと自分に言い聞かせる。
「ロシュ様の事ばかり考えてしまうと、俺っ…」
「ああああ…だ、だめです、私もあなたを抱き締めたくて仕方無いのに!嬉しい言葉をかけられてしまうと欲望に忠実になっちゃいます…い、いけません」
 ロシュはリシェの目を切なげに見つめると、彼の頰に触れた。ひ、と小さな声を出すリシェ。
 縮こまる華奢な体を抱き締めると、はあっと幸せそうに吐息を漏らした。
「捕まえた、リシェ」
「う、う…だめ、ロシュ様」
 リシェの全身は痺れた感覚に陥ってしまう。
 ドキドキと鼓動が激しさを増し、きゅうんと胸が締め付けられていた。間近で大好きなロシュが居る事に、嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになってくる。
 しなやかなロシュの指先が自分の頭を撫で、髪に触れた。
「は…ぁああっ…」
 力が抜けそうだ。頑張って両足に力を入れ、どうにか体勢を保っているのに。
「リシェ」
「あ!!」
 ひいっ、と情けない悲鳴が口を突いて出てくる。
「キスしましょう」
 いつもしてるでしょう、とロシュは耳元で囁く。その優しく低い声はリシェの耳で完美な響きを与え、更に彼を弱らせていった。
首を振り、泣きそうになりながら「恥ずかしい」と呟く。
 ロシュはそんなリシェを抱き締め、半ば強引に唇を奪った。
 …なかなかさせてくれないから、少しは強めにいった方がいいと思ったのだ。
 んん!と軽く声を上げるリシェは一瞬目を丸くしたが、すぐ眼前にあるロシュの美しい顔を見て状況を把握する。同時に顔と体の熱が更に上昇した。
「んん!んーっ!!」
 このままでは死んでしまう!!恥ずかしくて死んでしまう!!
 リシェはロシュから逃れようと彼の腕の中でもがいたが、やはり大人の力と脱力しきった自分の力では敵わず、されるがままになってしまった。
 時折唇が離れるが、すぐに塞がれてリシェを混乱させてくる。
「は、あぁ…!ん、ふうっ」
 押しのける力が出ない。
 舌が入り込み、深く深く口付けされるとたちまちリシェの意識が飛びそうになった。
 恥ずかしいし嬉しいし、自分が蕩けそうだ。そしてその訳の分からぬ感覚が怖い。
「うううっ…ロシュさま…こわい」
「こわい、ですか?私の事…リシェ?」
 しゃくり上げ、リシェは小さく頷く。
「ドキドキし過ぎて死んでしまいそうです…!」
 ロシュはそんな彼の胸に耳を当て、心臓の音を感じた。
 …相当早い鼓動がする。薬の効果か、いつもより辛いのだろう。そんなリシェに無理を言う自分は、何と酷い人間なのか。…でも。でも、だ。
 それでも彼に触れたい。
 リシェは口元に手を当て、声が漏れないようにしていた。だが、それはあまりにも無意味。
「あ!!ろ、ロシュ様!?」
 自分の主人の手が荒々しく体を撫で始める事に気付き、リシェは焦りを見せる。
「リシェ、私として下さい…!もう我慢出来ない!!」
「や…っ、駄目です!やだぁ、あうっ」
「ごめんなさい、出来るだけ紳士になろうと決めたのに!!やっぱりあなたが好きだから無理です!!」
 大好きなロシュに触れられるだけで気持ち良くなるのに、今の状況だとすぐに達してしまうのではないかとリシェは首を振った。
 リシェの制服のベルトのバックルを外し、シャツをたくし上げながらロシュは彼の首筋にキスをする。
 部屋の扉を背にした状態で、完全に逃げ場を無くしてリシェを自分のものにしようと忙しなく動いた。
「はぁっ、いや…!!ロシュ様、恥ずかしい!!」
「恥ずかしくない!リシェ、恥ずかしくないです!あなたをいつも見てるじゃないですか…!」
 早急に乱されていく服がまたロシュを燃えさせる。
 お堅い制服から覗く幼さの残る体を扉に押し当てながら、ロシュはリシェの胸元にキスした。唇で優しく触れた後、舌先を出して軽く潰すように押し当てていく。
「は…ぁ、あああああ!!」
 ロシュの腕を掴みながら激しくのけ反った瞬間、リシェは背後の扉に頭をごつりとぶつけてしまった。
 痛っ!と続けて声が部屋に響く。
「あ!!リシェ、大丈夫ですか!?」
 あまりの鈍い音に、ついロシュは我に返った。
 ずるりと体勢を崩し、痛そうに顔を歪めて頷く。
 少しは逃げ場を与えた方が良かったと後悔し、ロシュは抱き締めていた彼の体を扉から離す。ぶつけてしまった頭を優しく撫でながら。
「ごめんなさい、夢中になってしまって…」
 すっかり怯えるリシェを床に寝かせ、自らの法衣のボタンを外していく。逸る心を押さえきれずに、整い過ぎる顔を恍惚の表情に変えて相手を奪おうとしていた。
 野獣になりきるかの如く。
「はあ…リシェ、大好き。離したくない…」
 観念したのか、小さな体は荒く呼吸をしながら自分の目の前で無抵抗を決めていた。きゅうっと両目を閉じながら。
「優しくしますから…うう!?」
 何かを察知したロシュは思わず手を止める。
「ろ、ロシュ様?」
 何故か動きを止める主人に、リシェは不思議がった。
 彼の性格ならばすぐにがっついてきそうだからだ。
 ロシュは不穏な雰囲気に呻き声を上げる。
 今の自分にとって、非常に嫌な気配が近付いて来た。ぞわりぞわりと全身に冷や汗が湧いてくる。
 …同時に室内に風が舞い上がり、いつもの風圧が全身を襲った。
 そ、そんなあ…まだ、まだ満足してないのに…!!
 怯えながらも肌をさらけ出したままのリシェの体を目の当たりにするロシュは絶望感に苛まれた。
 何故このタイミングで。
 ベランダに着地する足音を聞きながら、ロシュはがっかりとうなだれた。
 とにかく怖い鬼がやって来る。
「ロシュ様?仕事はちゃんと」
 図書館から戻って来たオーギュは、ロシュが書斎机に居ない事に気付くと室内を見回す。そして入り口付近に座り込んでいる彼に気付いた。
 眉を潜め、オーギュは彼に近付く。
「してま…」
 言いかけて止まった。
「何してるんですか、ロシュ様?」
 非常に冷た過ぎる声音。熱く滾っていた体も急激に冷め始める。
 また欲の行き場を失ってしまうのかと嘆かずにはいられない。もう、ここまでくるとわざとなのだろうか。
 自分達の様子を確認したのか、相当低い声で「ロシュ様」とオーギュは呟いていた。
「あ、あの…オーギュ?」
「何してるのかって聞いてるんですよ」
 その怒りを押さえ込んでいる様子が存分に理解出来てしまい、ロシュはオーギュの顔をまともに見れずにいた。
 彼が怒るのも無理も無い。仕事をしろと言われていたのに、リシェに対して変な事をしようとしていたのだから。
 しかも彼は半分制服を剥かれている。
 いくら我慢出来ないとはいえ、恥ずべき行為だと分かっていた。
 あわわ、と慌てるロシュにオーギュはゆっくり近付く。
「あんたって人はもう…」
 あんたというフレーズに、ロシュは余計恐怖を感じた。
「お、オーギュ!落ち着いて」
 思わず早口になってしまう。
 ロシュの慌てっぷりを無視するかのように、彼の補佐役はいつも冷静な顔に青筋を立てながら罵倒の言葉を放っていた。
「…落ち着いてられるか!!この変態!!」
 司聖の部屋に怒号が響き渡った。

 泣きそうな表情で乱された服を直していたリシェに、とりあえず湯を浴びて冷静になって来なさいと告げる。
「う…うう、ロシュさま…ロシュさま…」
 ロシュの事で頭が一杯のリシェはよろよろと立ち上がると大人しく浴室へと向かおうとする。
「着替えは大丈夫ですか」
「予備が置いてあります…」
「そうですか」
 この状態は流石にリシェも辛そうだ。
 どうにか緩和させてやらなければ、と思いながら改めてソファに固まったまま座っているロシュに目を向ける。
「何か言い訳はありますか」
「言い訳の仕様が無いと思いますけど…」
 どちらにしろ、何か言おうものなら咎められてしまうのは分かっているのだ。
 欲の行き場を完全に失い、ロシュは悶々としながら呻く。
「あなたにも困ったものですね」
「健康な成人男子そのものですから」
 開き直るな!と突っ込まれる。
「悶々としている時にあれだけ恋するようなリシェの顔を見てしまったら、そりゃ抱き締めたくもなりますよ。あまり感情を見せなかったあの子が、我慢出来なくなる程可愛い顔をするんです」
 オーギュが来なければめちゃくちゃベロベロに可愛がっていただろう。あんな事とか出来たはずだ。
 欲望に塗れたロシュは頭を下げ、ううと唸り声を上げた。
 そんな彼に対し、呆れ過ぎて返す言葉も無くなってきたオーギュは「そうですか」とだけ告げる。
 今はロシュの近くに、迷子の仔羊のようなリシェを側に置いていくのは非常に危険なのではないかとすら考えてしまったのだ。
 あれだけ不満だと訴え続けていたのだ。
 彼は完全にリシェを抱こうとする。現に自分が来なければいやらしい行動をしていたに違いない。
 全く、品性を疑う。
 オーギュは頭をがりがりと掻いた後、深く息を吐いた。
『(余程辛いのだな、ロシュは)』
「(リシェには毒になりますよ。恥という概念も、節度を知らないんですから、この人は)」
 リシェが浴室から再び姿を見せると、ロシュは切なそうな表情で彼を迎え入れた。
「リシェ」
 リシェはリシェで、ロシュを見るなり顔を真っ赤にしながら俯く。やはりまだ、まともに顔を見られないのか。
「湯上りのあなたもまた…ああぁあ…」
 ぶかぶかのバスローブ姿に感化されたのか、ロシュは恍惚感に満ち溢れた顔をしながら脱力する声を上げていた。
「ロシュ様…うう、好き…」
「どうしてそんなにエッチなんですか。はあぁ…もうどうしたらいいのか分からなくなってしまいますぅ…もう、とにかく可愛い…エッチだ…」
 苦悩し、悶えるロシュ。
 黙っていれば文句無しの美貌の持ち主なのに、中身がどうしようもない。
 二人揃って頭が混乱し過ぎていて、会話が変な方向に飛んでしまう。しかも全くそこに自覚が無かった。
『(ロシュがついにおかしくなりだしたが、こいつは本当に大丈夫なのか?)』
「(おかしいのは元からですよ。リシェに関してはね)」
『(欲求不満を拗らせると人はこうなるのか)』
「(いえ、誰しもがこうではありませんよ…)」
 駄目だこいつら、とオーギュは心の中で毒づいていた。

 …数分後。
 止む無く告げたオーギュの非常采配に、ロシュは半泣きで「嫌だー!!!」と涙目で叫んでいた。
 それはリシェが治るまでしばらく彼を別の場所で生活させる、というもの。
 ちょうどヴェスカがリシェに自室を解放してくれるらしいというのを知った上で、オーギュが彼の言葉に甘えてはどうかと乗ったのだ。
 だがロシュはひたすらそれに反対する。
「わ、私一人で過ごせと!?」
「今までもそうだったでしょう、リシェを迎えるまでは!」
「で、ででですが!!いっ、いいいきなり別れて過ごせだなんて!!」
 動揺し過ぎてまともに声を出せない。
 オーギュはソファでちょこんと座って小さくなったリシェをちらりと見た後、今のあなたは危険過ぎますとはっきり告げた。
「そ、そんなに私信用無いですか!?」
 ロシュがオーギュに悲痛な表情で訴えるものの、彼は胡散臭そうな顔ではっきりと返す。
「全くありません」
「長い付き合いなのに信用得られないなんて!!」
「それとこれとは話が別です。あなた、さっきまでこの子に何をしてましたか?」
 痛い所をここぞとばかりに突かれ、ロシュは胸を押さえた。こればかりは言い逃れが出来ない。
 オーギュは更に続ける。
「言っちゃ悪いですが、あなたはリシェに関しては発情期の猿以下です。この子が不慮のアクシデントで苦しんでいるのにそこにつけ込んで自分の欲望を発散させようとか、大人としてではなく人類として恥ずかしいと思わないんですか?むしろ畜生の部類ですよ。こんな事を言ったら畜生の皆さんに無礼かもしれませんがね。はあ、情けないったらありゃしない。よくもまあそんな行為に及ぼうと考えましたね、大体私が戻って来る事は想定していませんでしたか?」
 針で突くどころか、鋭利な槍で数度に渡って刺すレベルの罵倒を受けてしまった。
 ロシュは半泣きになりながらそこまで言わなくても…と弱々しく言い返す。
『(いつからそんなに口が悪くなった?オーギュ)』
 オーギュの中のファブロスですら引くレベルの罵倒だ。それ程呆れているのだろう。
「とにかく、なるべく早くリシェを戻す為に努力をしますからその間我慢しなさい。…リシェ、あなたは数日分の着替えを持ってヴェスカを頼る事。私の部屋でも構いませんが、流石に三人は狭いですしね」
「三人?」
「私とファブロス。獣姿だと更に狭くなりますから、部屋に居る間は人化して貰っているんですよ」
 なるほど…とリシェは納得した。
 人格を否定される程のハイレベルな罵倒を受けてしまった司祭の頂点ロシュは、遂に分かりましたよぉ…と未練がましそうに了承する。
「ロシュ様…ごめんなさい」
 リシェもまた、しょぼんとした顔で肩を落とした。
「俺がもっと気をつければ良かったんです」
「リシェ、そんな!!あなたは何も悪くないんですよ。ですから気にしないで下さい」
 沈み込むリシェに、ロシュは慌てて宥めた。
 不慮の事故なのだ。完全に被害者はリシェ。
 ルシルの作成した薬品が、こんなにも周囲を振り回してしまうなど誰も想定しなかったのだから。
 仕方ない、とロシュは腹をくくった。
「が、我慢します。ですが離れる前に、リシェを抱きしめたいです…構いませんか、リシェ?」
 その申し出を受け、リシェはぴくりと身を緊張させた。
「どさくさに紛れておかしげな事をしないで下さいよ、ロシュ様」
「分かってますよ…」
 ロシュはソファに座るリシェの前に出ると、湯で火照っている彼の頰に優しく触れる。
 今にも恥ずかしさと緊張のあまり泣き出しそうな自分の騎士の身を優しく両腕で抱き締めながらその感触を味わった。
「ああ、リシェ。少しの間あなたに触れられないのは寂しいけど我慢しますね」
 リシェもまた、真っ白で上質な法衣姿のロシュに抱き締められながら静かに頷く。胸がきゅんきゅんと締め付けられるのを感じながら「おっ、俺も…」と小さく呟いた。
 欲求不満過ぎておかしくなってしまったロシュの目に映るリシェは、まだ十六歳にも関わらずやけに色気を増して見えていた。
「ロシュ様…ロシュ様」
「リシェ。私のリシェ」
「好きです、ロシュ様…苦しい…好きです」
「はあぁ、嬉しい…私も好き…」
 その熱っぽい様子を黙って見ていたオーギュは、段々恥ずかしくなってしまう。
 …何故ここで彼らのいちゃいちゃっぷりを目の前で見せつけられているのか、と。
「もういいですか」
 早く離れて欲しい。
「見てて恥ずかしくなるからもうやめて下さい。今生の別れでもないのに」
 お互い顔を赤らめながら甘い言葉を言い合っている様子に耐えきれず、オーギュは眼鏡の奥の細い目を更に細くさせていた。
 名残惜しそうにロシュはリシェから離れる。
「リシェ。着替えて数日分の荷造りをしてからヴェスカの元へ向かいなさい」
「は、はい」
 ソファからすっくと立ち上がると、促されるままリシェは部屋から出て行った。
 一瞬、彼が主人を見た際に向けた眼差しは、完全に恋する乙女のようにも見えた。
 しばらく間を置いた後でロシュは深く溜息を吐き、首を振ってぼろっと本音を零す。
 欲に塗れた情けない声が室内に響いた。
「あー!!リシェとねっとりしたセックスがしたい!!うあー!!あー!!」
 座りながらじたじたと足を踏み鳴らす。それは完全に、司祭として駄目な発言。
 オーギュは即座に彼を罵る。
「馬鹿!!!」
『(どうしようもない…)』
 ファブロスでも呆れて返す言葉を失っていた。
「図書館でルシルが薬を作成する際に借りた本をカティルから教えて貰いました」
 違う話を持ち出せば、こちらに興味が湧くだろうとオーギュは思った。案の定ロシュは涙目のままこちらの話に耳を傾ける。
「ちらっと流し読みした位ですが、解毒に関して少し気になる物がありましてね」
「な、何ですか?」
「媚薬の一種を口にしたなら完成された解毒剤を買えばいいのですが物が物ですから、買うにしてもレアな薬品なので高額になってしまうんですよ。作る人間も限られてしまいますし。…ですから自前で作ろうと思ってるんですが、それに当たって分解剤が必要なのです」
「研究室には置いてないのですか?」
 オーギュは腕組みをしながら考える。
「あったらすぐに作りますよ。無いから考えているんです」
「分解剤かあ…あれ…うぅん、ダメかなああの水」
 何らかの手掛かりがあればいいと思っていたオーギュは、悩むロシュに対して何ですかと聞いた。
 しかしあまり自信が無いのか、ロシュは眉をハの字にしながら返す。
「私の実家の敷地内に小さな鍾乳洞みたいなのがあるんですよ。そこでね、ずっと鍾乳洞から不思議に湧いてくる水があるんですけど…それがまあ二日酔いとかにばっちり効力があるみたいで。体内のアルコールとか分解してくれたりするなら、リシェの体の毒も分解してくれるのかなあとか思ったりもして」
「単なる水ではないんですか?」
「いえ、やたら効き目があるから調べて貰った事がありまして。どうやら魔力を含んだ鍾乳石みたいで何らかのきっかけで治療に適した水らしいのですよ。だって目薬にも使えますからねぇ」
 何と都合が良い。
 オーギュはつい軽く笑い声を上げてしまった。
「物は試しですよ。ロシュ様」
「……へ?」
 惚けた顔でロシュはオーギュをソファから見上げる。
「リシェを助けたければ、あなたが直接ご実家でその水を貰って来て下さい」
 それでいいんですか?とロシュは目を丸くする。
 オーギュは珍しく満面の笑みを彼に向けて頷いた。
「それであの子が助かるかもしれないのですから、安いものでしょう」
 まさかの実家行き。
 しばらく顔を出して無かったので、ロシュはむず痒い気持ちに陥っていた。
「あの」
「何ですか?」
「変装しちゃいけませんかねぇ」
 おかしげなロシュの質問に、オーギュは自然と何故ですか?と逆に問う。
「ほら、久しぶりだから…」
「ん?気まずいんですか?変装すると、かえって不自然だと思いますけど」
 誰もがそう思うであろう突っ込みに、ロシュは目を覚ましたように「そうですね…」と言った。そしてスッと立ち上がりいそいそと手土産の用意を始める。
「行ってきます。何か持ち寄らないとうるさいのでね、何かしら持っていかなければ…」
 外部から送られた献上品の中から良さげな物を選別していく。
 自分達で飲んでもなかなか減らない紅茶の葉のセットを選ぶと、こちらで大丈夫でしょうと満足そうに手にした。
「おや、美味しそうですね」
 高級茶葉のアソートの箱を見てオーギュは言う。
「あっ、宜しければ持って帰ります?実家には他のを」
「いや、大丈夫ですよ。それを持って行きなさいよ」
 手早く箱を包んだ後、水を入れる為の容器も用意する。
「水、多ければ多い程良いですか?」
「そうですね、まあ無理の無い程度に」
「それなら瓶に詰めて来ましょう」
 少し大きめの瓶を手にした。栓も付いているし大丈夫か…と瓶を確認する。
「私が無事で帰る事を祈って下さいね、オーギュ」
「ですから、何か後ろめたい事でもしたんですか?」
「いえ、特に…ほら、久しぶり過ぎるので」
 ロシュは手土産と瓶を抱えると、実家に向かう為に外出用の外套を引っ張り出した。
 クリーム色のフード付きの外套は、すらりとしたロシュの体型をすっぽりと隠すには丁度良い大きさだ。
 アストレーゼンでは知られた顔となっている為に、ちょっとした外出ではこれを利用している。
 あまり向こうへ行く気が湧かないのだが、リシェの為ならば仕方無い。
「では、頑張ってきます!」
 外套のフードをがっつりと被り、ロシュはオーギュに告げると部屋から出て行った。
 階段を降りる音を聞きながら、オーギュの中に居るファブロスは不思議そうに何を頑張ってくるのだと問う。
「まあ、あの人のご実家も少し変わってますからね…」
 果たして今日中に帰って来れるかどうか。
 とりあえずその不思議な水をちゃんと持ち帰ってくれるなら、特に言う事は無いのだ。
 まず目の前の仕事の続きをしますか…とオーギュは気持ちを切り替えていった。

 リシェは久しぶりの寮に足を踏み入れ、やや緊張気味にヴェスカの部屋の扉をノックした。寮は完全個室で見た目は頑丈な煉瓦造りだが、かなりの年季の入った建物で老朽化も進んでいる。
 そろそろ改築を、という話も最近出ていた。
 ただでさえ力のある剣士達が住む場所なのだ。粗暴に扱う者も居る為、どこかしら壊れっぱなしの状態で見るに耐えない。
 暑苦しさも相まって、無料だとしても寮部屋に住むのを嫌がって街で住居を借りる潔癖症も居た。
「おう、リシェ。来たな」
「部屋散らかってるんじゃないだろうな」
 既に今日の分の任務を終えたヴェスカは、玄関先のリシェの頭をわしゃわしゃと笑いながら撫でると今掃除をしてた所だと言った。
「とりあえず入って休んでおけ」
 ラフな部屋着姿のヴェスカだったが、大きめのシャツにも関わらずその隆々とした筋肉質の体は隠せていなかった。
 リシェは大人しく室内に入る。
 部屋中の空気の入れ替えをしていた最中だったらしく、ややひんやりとした空気が入り込んで来た。
 やはりヴェスカらしさを感じる室内。
 特に洒落たものは無く乱雑に物が置かれている。誰かを連れ込んだ形跡も無い、地味な部屋。
 見事に衣類やら雑誌やらが散らかっている。筋肉を作る為のフィットネス系の器具も床に転がっていた。
「どこに座ればいい?」
「ベッドでいいよ」
 とりあえず荷物を床に置く。
「久しぶりだろ、この寮」
 ロシュの住む司聖の塔に住むまでは、リシェは剣士長のゼルエと一緒にこの寮に住んでいた。士長であるゼルエの利用していた部屋は一般の部屋よりは広さがあってそれなりに快適に過ごせたが、ヴェスカの使っているこの部屋は大柄な男にはやや手狭にも見えてくる。
 お偉いさんになれば少しはマシな部屋に移動出来るのか、とリシェは思っていた。
「いくらでも居ていいからな」
「…ああ」
 ヴェスカは床に散らばる物を回収すると綺麗に片付けていく。普段でもそうしたらいいのにと口に出しそうになるが、泊めて貰う手前そんな風には言えなかった。
「飯はどうする?俺、作ってもいいけど」
「任せるよ」
 食費はちゃんと出すし、とベッドにあった雑誌を見つけて開いた。
 筋肉隆々の男が鍛錬の仕方を延々と説明する内容で、彼の逞しすぎる体に目が行きすぎて全く中身が入って来ない。
「これを読めばこんな体を目指せるのか」
「んあ?」
 リシェが手にしている雑誌に、ヴェスカは「あぁ、それね」と理解する。
「鍛え方とか書いてるからな。休んでる時とか暇な時とかやれば大分いいぞ。動かないとすぐに弱まるし」
 興味深そうに雑誌を眺めるリシェに、ヴェスカはついふっと目尻を緩ませた。
 よいしょ、と粗方片付いた所で彼は雑誌を読み続けるリシェにじゃあ買い物してくると言う。
「お前はとりあえず休んでろ。何か欲しいものはあるか?」
「特に無い。お金渡すよ」
 荷物から自分の財布を引っ張り出そうとするリシェの頭に大きな手を置くと、ヴェスカはいらねぇよと返す。
 一人位は普通に養えるぞ、と。
 だがリシェにしてはいきなり転がり込んだのに何も返さぬ訳にはいかないと紙幣を取り出す。
「それなら」
「んん?いいって」
「お前の酒の足しにしろ」
 健気なのか可愛くないのか。
 齢十六の言葉とは思えない。ヴェスカは苦笑いしながらも、分かったよと言い紙幣を受け取った。
「お前の分のジュースも買ってきてやる」
 兄貴分的な笑みを見せた後、行ってくる!と彼は部屋を後にした。
 ヴェスカの足音が遠ざかっていく。
 しばらくベッドの縁で足をぷらぷらさせていると、変な場所で隠されている本に気が付いた。
 そこはベッドの下。ちらりと見える厚みのある本。
 片付け忘れたのだろうか、と引っ張り出して中身を開いた。
 開いた瞬間、リシェの体は硬直する。
 同時に顔が真っ赤になっていくのが分かった。
「なっ、何だこれっ!!」
 肌色満載、裸体の女性の写真がほぼ全ページにパターンを変えながら掲載されている。それは思春期真っ最中のリシェにとって、あまりにも刺激のあるものだ。
 …こんなものを普通に投げておくなんて!!
 今まで読んだ事のない過激な内容の雑誌を、リシェは目を閉じて咄嗟に放り投げてしまった。

 リシェがヴェスカの寮部屋に赴いた時間から更に一時間経過した頃、ロシュは実家があるアストレーゼンの高級住宅地であるラントイエ地区へと足を踏み入れていた。
 地区内の路地はきちんと舗装整備され、街路樹や植え込みも地区内を覆うように美しい形に仕上がっていて、一般の住宅地と一線を画している。
 そしてこの地区内一帯の警備員も数カ所に配置されていて、いつ何時不審な輩が出現しても即座に対処出来る様になっていた。
 だが、それは一般民は入ってはいけないのだと暗に言われているような気がするのかもしれない。警戒し過ぎるやり方に対して冷ややかな目を向ける人間も居た。
 このラントイエ地区内に入るには正門を必ず潜らなければならず、地区内に住居を構える者のみ貰える住民章を見せないと中には侵入出来ないのだ。
 その住民章を胸ポケットに仕舞い込み、自宅がある方向に向けて足を進めていく。
 街路樹の緑が緩やかな風に揺れ、さわさわと優しい音を立てるのを耳にしつつ、久方振りの近所の光景を目に焼き付けた。どこかで子供達の笑い声も聞こえてくる。
 ロシュはその笑い合う声にどこか懐かしさを感じながら、自分が子供の頃の事を思い出してふっと口元に笑みを浮かべた。
 真っ直ぐ自宅へ歩く最中、不意に女性の声がかかる。
「あら、ロシュ?ロシュじゃないの」
「へ!?」
 あまりバレないようにフードを被っていたのに、何故か普通にバレてしまった。
「ああ、やっぱり。こっちに戻る事ってあまり無さそうに思ってたから珍しいって思って。どうしたの?」
 ラントイエ地区内の住民の交流は密な為か、住んでいる人間の顔は良く知られてしまうようだ。自分はあまりこちらに戻る事が出来ないせいか、ひょっこり出てくると珍しく思われるらしい。
 ロシュは仕方無く被っていたフードを外し、にっこりと微笑んで一礼する。
「お久しぶりです」
 相手の貴婦人はドレスを揺らしながら眩しそうにこちらを見ると、「お休みでも貰ったの?」とにこやかに問う。
「いえ、ちょっとした用事で」
「まぁ、そうなの?それじゃああまり長居も出来ないのね…お家の人も積もる話も多いでしょうに」
「時間があれば泊まりでゆっくりしようとは思ってるんですけどねえ…」
 今回、まさか実家に戻るという頭が無かったのである。
 戻ったら戻ったで周りからあれこれ言われてしまうのがどうも苦手で、出来れば避けたいと思う程だ。
「まあ…忙しいのねぇ。体には気をつけてね、ロシュ。あなたはこの国に居なくてはいけない立場なんだから」
「はい。ありがとうございます」
 和やかな会話をした後で貴婦人と別れ、再び家に向けて足を進めた。
 実家の屋敷の一部が見えて来た時、次第に懐かしさがこみ上げてくる。一時期家を継ぐ話も出ていたものの、結局自分は司聖の道を選んだ事で候補から外されていたが、将来の目的も無く生きていれば確実に継いでいただろう。
 緩やかな坂道を上り、美しく輝くガラス玉入りの煉瓦の道を進んでいく。
 屋敷を囲む真っ白な格子や、その奥に点在する手入れ済みの庭木も変化が無い。真っ白な大理石の噴水や、神話の神々をモチーフにした石像は敷地内の平穏を見守るように佇んでいた。
 いつかリシェを連れて来れたら。
 ロシュは彼を自分を護衛する白騎士だと家族に紹介したかった。彼が他国の出身でも関係無い。
 自分を慕ってくれる彼に応えてあげたい。
ラウド家正門まで辿り着くと、大きな門を前に警備員が二人配置されていた。
 警備員はこちらを見ると、フードを被っていたロシュを見て警戒する。
「お疲れ様です。私、この家の者です。開けて頂けませんか?」
 外套のフードを取り、改めて頭を下げる。一目見ただけで印象付けられるロシュの美しい顔を見るなり、警備員達はすぐに警戒を解き跪いた。
「あっ…!あ、あの、そこまでしなくても大丈夫です!開けて下されば…!」
「し、失礼しました、ロシュ様!」
「今開門します!」
 まさか近くでロシュを目の当たりにするとは思わなかったのだろう。まずこのラントイエには戻る事が無い彼がいきなり戻って来るというアクシデントに、警備員らは慌てながら、聳え立つ門扉を開く。門扉は錆びにくく加工された鉄柵に、豪華なオーナメントをふんだんに取り付けている為にやや重々しさを感じさせた。
 ふんわりと優しく笑みを浮かべ、ありがとうございますと頭を下げてするりと奥に入り込む。
「ああ、久しぶりだなあ…えっと、長居はしませんのでまた帰る際には宜しくお願いしますね」
「は、はい!」
 営業スマイルばりのいい笑顔を見せた。
 大抵の人間はそれでロシュに対する印象は一気に上がる。
 一礼する彼らに軽く手を振り、再び屋敷に向けて進んだ。
 良く手入れが行き届いた庭を見回し、懐かしさを感じながら屋敷に近付いていると、突然「ロシュ!?」と声が飛び込む。
 ライトグレーのシンプルなドレスを身に付けた貴婦人が、ロシュに向かって小走りで駆け寄って来た。
 同じ明るめの茶色の髪、同じ色の瞳。
 顔立ちもロシュに似ている女性は、自分より背の高いロシュを見上げると込み上げてくる喜びを隠しきれない様子で抱きついてくる。
「まあ…!!何て!何て幸運かしら!なかなか来てくれなかったのに、突然ぽんと現れてくれるなんて!!」
 綺麗に編み込まれた美しい髪は変わらないが、前に会った時よりも彫りが深くなった顔でロシュを迎える母親に、ロシュは困ったように微笑む。
「只今戻りました、母様」
「連絡くらいしてくれたら良かったのに…!そしたら、あなたの大好きなアップルパイを作って待っていたわ!」
「ごめんなさい…今回は緊急の用件があったので」
「まあ…急いでるの?すぐに帰っちゃうの、ロシュ?」
 う…と返答に詰まってしまう。
 この母親は極端に寂しがる傾向にあるから、返事を選ばなければならないのだ。返す言葉を考えていると、彼女はじわじわと悲しそうな顔をしだす。
「すぐに帰っちゃうのぉおお!?ロシュったらああ」
「いっ…いえ、すぐには!帰りませんよ!!」
 本当はすぐに戻りたいのだが、この母親の泣き落としのような訴えには昔から勝てない。
 たじたじになりながらロシュは母親を宥めていた。

 今日は恐らくこちらには戻らないでしょうね、とオーギュは呟く。夕刻過ぎても戻らないという事は、彼の母親に完全に捕捉されたのだと察した。
 オーギュから分離したファブロスは、床に敷かれた柔らかなカーペットでゆったりと獣の身を伸ばし軽くあくびをする。
『何故戻らないと分かる?』
「お母様の性格が今のあの人にそっくりなんですよ」
『………』
 何となく理解した。
 散らばっていた書類の束を片付け始めるオーギュ。
「折角なのでお風呂でも頂きましょう。着替えを持って来れば良かったのですが…まあいいか。飛べばすぐに取りに行ける。ファブロス、良かったら先にお湯を頂きなさい」
 循環、洗浄されながら常時入れるので、ここでは好きな時にいつでも湯を浴びる事が出来る。
 オーギュは荷物を手にしながら「着替えとタオルを持ってきます」とファブロスに告げた。
『すぐに戻れ』
「分かっていますよ。人の姿で入るようにしなさい。入り方は分かりますよね?」
 ファブロスは言われるまま人間の姿になると、自分の身に付ける服をいきなり上着を脱ぎ始めた。
 何故そこで!と慌てたオーギュは彼の背中を押し、浴室に押し込むとこちらで脱ぐのです!と説明する。まだまだ人間としての生活には慣れない様子だ。
『手間のかかる』
「いきなり脱ぐ人が居ますか!…とりあえず、ゆっくり浸かりなさい」
 ようやく脱ぐ事を許され、ファブロスは浅黒く筋肉質な肌を晒した。
『オーギュ』
「冷えますから湯船に入りなさい。私は着替えを持って来ますから…」
 やはり相手の肌を見るのは抵抗を感じてしまうのか、オーギュはファブロスから目を逸らす。しかしそんな彼を、ファブロスの太い腕は完全に捕らえていた。
 う、と呻くオーギュ。
『帰ってから着替えればいい。タオルは借りればいいだけの話だ』
「ふ…ファブロス!?何」
 ファブロスはオーギュを強引に座らせると、彼の顔面に自分の下腹を突き出した。いきなり眼前に生々しいものを突き付けられ、オーギュは反射的に身を引きそうになる。
それは激しく猛り狂いそうになっていた。
 大きな手の平が、オーギュの端正な顔を優しく包み込む。だが言葉は正反対に、厳しく命令してきた。
『舐めろ』
「………!?」
 それは決して、主人に向けて言う言葉では無い。
 オーギュはファブロスを見上げ、何を言うのですかと強い口調で言った。
「場所を考えなさい!」
『…ヴェスカのは舐めたのか?』
「は…!?」
『いいから口を開け』
 半ば強引にファブロスに口を指でこじ開けられ、先端を突き入れられる。彼の体温を口先で感じながら、オーギュはどうにか押し戻そうと身動ぎした。
「や…っあ、や、め」
 抵抗を繰り返す主人に、ファブロスは無言のまま腰を彼に向けて押し込んだ。
「ぐぅうううっ!?」
 びくん!と身をびくつかせるオーギュ。
 咥内に入り切れぬ質量のそれは、熱く滾りながら暴れ始めた。
「…っんん!!ふ…ぐぅう」
 逃れようとする舌の動きがいいのか、ファブロスはつい快感の吐息を漏らす。
 乱暴にオーギュの頭頂部の髪を掴み、そのまま腰を動かしていく。
『久しぶりだからな。沢山出そうだ』
「は…んんっ、んー!!」
『逃げるな。ちゃんと咥えろ』
 強制的に口淫をさせられる形になってしまったオーギュは、不安定な体勢をどうにか保とうとファブロスの腰にしがみつく。
 苦しさに呻き、口の端から涎を溢して咥内の粗暴なファブロスを押し返そうとしていた。
『…っ…!!』
 久しぶりだと本人が言う通り、限界も早くなったらしい。
 彫りの深い美しい顔を軽く歪ませると、びくりと屈強な身を震わせた。その瞬間、オーギュの咥内で熱い体液が噴出されてしまう。
 大量の液が喉奥を突き、咄嗟にオーギュは口を離した。
「か…!!かはっ、う…あっ、うあぁあっ」
 ファブロスが放った白濁は咥内だけではなく、宮廷魔導師の法衣まで汚してしまう。
 苦しさに悶えるオーギュの体を、ファブロスは優しく背後から抱き締めた。
『飲んだか?』
 味を感じる間も無く咳込んでいるオーギュは、涙目になりながら飲めるわけないでしょう!と怒った。
 飲んだのかどうかも分からないが、喉元に違和感を感じる。多少は飲んだのかもしれない。
「いきなりこんな事をするなんて…酷過ぎますよ!」
『悪かった、オーギュ。私はずっと嫉妬していたのだ』
「は…?」
『お前がヴェスカに抱かれていた記憶を見れば見る程、私のものなのにと余計な事を考えてしまう。私もお前を抱いて、その記憶を上書きしたい』
 ごそりと法衣のベルトにファブロスの手がかかる。
「そんな」
 びくんと体をびくつかせると、同時にオーギュは変な感覚に陥っていた。
「あ…!?熱…っ、あつ…んっ」
 まさか、とオーギュは背後のファブロスを恐る恐る振り返る。彼の姿は、半獣と変化していた。
 半獣のまま咥内に射精したのだ。
 オーギュは激しい全身の疼きを感じながら「あなたという人は!」と強く抗議する。半獣の精液は媚薬にもなると言っていたのを思い出したのだった。
『やはり飲んでくれたのだな?』
「はあっ、はあ…っ、さ、触らないで!!」
 全身がおかしい。ざわざわと甘くこみ上げるものがオーギュの体内を襲い、体を支える力が失われていく。
『駄目だ。お前が激しく乱れる様子が見たい』
 …自室では無い場所で何を考えているのか。
 そこまで激しい嫉妬心を沸かせていたのかとファブロスを見上げる。
『私のだ』
 彼は自由の効かなくなった主人を優しく支えた。
 脱衣所で法衣を強引に剥かれ、全身の力を奪われたオーギュはファブロスに抱えられて浴室の奥へ移動する。
 シャンプー類が置かれているエリアでオーギュを寝かせ、ファブロスは『体を洗ってやろう』と言った。
 眼鏡を外され、湯気と自分が発する熱によってファブロスが良く見えないまま、オーギュは丸裸で寝かされて彼を見上げる。
『お前が私に教えた通りに』
 ボディーシャンプーを手に取り、ファブロスはオーギュの体に塗り始める。ぬるりとした液体に、研ぎ澄まされたオーギュの身は敏感に反応を繰り返した。
 自分が教えたのは直接塗りたくる方法では無い。
 そして、愛撫するやり方は教えてもいなかった。ファブロスの手、そして指先。しなやかで細身の肉体は、彼の指によって激しく乱されていく。
「ひ!!…っはあっ、あああ…っ」
 ヴェスカに対抗心を燃やしているのだろうか。
 やけに執拗にファブロスはオーギュを責め立てていた。
『感じているのか?オーギュ。洗っているだけだぞ』
「そ、それは…っ!洗って、るなんて!!言わなっ」
 優しく撫でるような手つき。全身に満遍なく塗られながら体を重ねていく。
「やめなさいっ、やめっ…」
『体を洗うだけなのに感じてしまうとは』
「ち、違っ…はあっ、いっ…やああっ」
 触れられる度に感覚が敏感になる。
 正気を取り戻そうにも、その意気込みは相手の愛撫で萎んでしまうのだ。
 まさかここで、こんな恥ずかしい行為をされてしまうとは思わなかった。きつく両手を閉じながら首を振り、嫌がる素振りを見せる。
『気持ちいいのか?オーギュ。正直に言うんだ』
 それなのに、耳元で優しく囁かれる声はオーギュの全神経を揺るがした。
 全身が性感帯になったかのような甘過ぎる刺激。オーギュはみっともなく涎を垂らしながら、ファブロスからの愛撫を受け続けていた。
 やがてファブロスの指が弱い場所へと進む。ハッと一瞬我に返ってその手を掴むが既に手遅れだった。
 下半身同士を密着させ、上下に擦りつけながら胸に指先が進んだ瞬間、オーギュは激しく体を逸らし絶叫した。
「ひ…っ、ぃいいいいいっ!!」
 体の間で熱い液体が弾け飛ぶ。
 ファブロスは少し体を離し、それを確認した。
『…早いな』
 鼠蹊部に吐き散らかすようにちらばる液体。ボディーシャンプーと混じり合いながらぬらぬらと光るもの。
 …それは彼の大好物だった。
 まだ余韻が残るオーギュの体は、更に追い討ちをかけられてしまう。ファブロスは体をずらし、オーギュの放った体液をじゅるじゅると音を立てて啜り出したのだ。
 舌先が肌を滑ると、細身の体はびくんと激しい反応を見せる。
「ちょ…ま、待って!!いやだ、待ちなさいっ」
 余韻に浸るのを許されないまま、更に激しすぎる快楽を植え付けられてしまった。
「ひぎっ…!!あ、ぁあああああ!」
『やはり上質だ』
「はひっ…や、やめ…」
 かなりの快感なのだろう。始めたばかりにも関わらず、呂律が回っていない。がたがたと震えながらオーギュは泣き喚いていた。
 ファブロスはオーギュの吐き出した残滓を全て舌先で掬い舐め、ふっと微笑んだ。
「駄目っ、だめだ!!おかしく…ぁあああっ」
『好きなだけ狂うといい。お前は私の精液を喉に通したのだ。体から湧き出す快楽からは逃げられないぞ』
 赤い舌がオーギュの視界に映る。
 また嫌という程狂わされるのかと彼は身震いするが、心のどこかでうずうずと燻る物を感じずにはいられなかった。
 …逃げられない。
 その屈強な肉体に押さえつけられ、快楽の坩堝に絡まれていくのだ。じわじわと目が熱くなり、酷い責め苦に頬を涙が伝い落ちる。
「はぁっ…く、ふ…っんん」
 ファブロスは体を起こし、再びオーギュと顔を見合わせると目を細め低い声で囁いた。
『嫉妬させた罪は重いぞ。…気が済むまで抱き潰してやる。私好みに育ててやるからな』
 ずっと激しい嫉妬に駆られていたのだろうか。
 深々と口付けを受けながら滾る感覚に襲われていく。
 その言葉を全身に浴びたオーギュは、欲に忠実なファブロスの前で激しく乱されていった。

 アストレーゼン、ラントイエ地区ラウド邸。
緊急で来たとはいえ、息子が久しぶりに帰って来た事で家人は喜んでご馳走の準備をしていた。
 使用人達の静止を振り切り、うきうきしながらお手製の料理を振る舞う母親。家を出るまでは毎日食事をしていた広間のテーブルで大量のご馳走を前に、ロシュは困惑しながら「母様」と声を上げた。
「あら、なあにロシュ?」
 にこやかに笑う母アイリアの笑顔は、やはりロシュと似ていた。
「父様は帰ってこられるのですか?」
 その間にも食事が並べられていく。
 あまりにも用意された食事が多過ぎて自分だけでは食べきれない。温かく美味しそうな匂いが立ち込めてくる中、ロシュは私一人では到底食べきれませんよと困惑した。
「もうそろそろ戻って来るんじゃないかしら?あの人もあなたが帰って来たって知ったら喜ぶわよ」
「はぁ…」
 早めに帰る気満々だったのだが、ここまで歓迎されてはすぐに戻る気ですとは言いにくくなった。
 綺麗に並べられたステーキや魚のソテー、チーズ類やサラダの列を見ながら、ぼんやりとリシェに食べさせてあげたいなあと思っていると遠くから鐘の音と共におかえりなさいませという使用人の声が聞こえる。
「あらっ、噂をすれば帰って来たわ!」
 一家の主の帰宅を知ると、彼女はぱあっと表情を明るくして広間から飛び出して行った。間を開けて、母親のお気楽な声と同時に低い声も耳に入ってきた。
「あなた、お帰りなさい!今ね、ロシュが居るの!もう久しぶりに戻って来てくれたからお料理奮発してるのよ!」
「ん?ロシュ?」
「そう、ロシュよ!ほらほら、早くいらっしゃって!しばらく見ない内に随分大人になっちゃってるんだから!」
 騒がしい会話も久しぶりに聞いたような気がする、とロシュはつい苦笑してしまった。
 この家はアイリアの明るさで全てが回っているようなものだった。時には相当振り回されてしまうが、常に笑いと明るさがついて回る。
「珍しいな…だからそんなに浮かれているのか」
 騒々しい母親とは対照的な、落ち着いた声の父。
 次第に会話が近付いて来ると、ロシュは母親から強引に座らされた席から立ち上がる。
 こげ茶色のコートを脱ぎ、同系色のスーツを身に纏う白髪混じりの紳士が広間に足を踏み入れる。そして懐かしい息子の姿を確認するや、彼は老眼鏡の奥にある優しげな目で「おお」と感嘆の声を上げた。
 ロシュは頭を下げると、父と似た瞳で笑みを浮かべながらお久しぶりですと挨拶する。
「ロシュったら来てくれる事を言わなかったのよ、もう。でも嬉しいわ!突然来てくれた方が喜びも倍になるものね。さあ、あなたも席に着いて!沢山ご飯を作ったのよ」
 一家団欒なんていつぶりかしら、と揚々と彼女は自分の夫を促す。そして準備をしていた使用人達にも食卓の座に着く事を命じていた。
「みんなで食べましょう。折角こんなに沢山あるんですもの!さあ、座って!ええっと、まだ仕事中の人は居るかしら?居たら呼んでちょうだい」
 使用人達は最初遠慮がちだった。
 主人と同じ食卓に着くなど、まず有り得ないのだから無理も無い。
「奥様」
 ロングスカートのメイド服を着ている数人の中で、きっちりと長い黒髪を丁寧に編み込んで引っ詰めた若い使用人が前に進み出る。
「流石に奥様方と同じ食卓に着く訳には参りません」
「あなたは相変わらず固いわねぇ、セルシェッタ」
 まだ二十半ば程だが、使用人としてはかなりのスキルを持つ彼女は幼い頃からこのラウド家で過ごしていた。
 セルシェッタと呼ばれた彼女は、主の子息のロシュをちらりと見た後にアイリアへと目線を向ける。
「折角のご一家団欒をお邪魔するのは私の本意ではありません。私は遠慮させて頂きます」
 広間に漂う料理の混じり合った匂いはひどく魅力的なのだが、彼女は全く興味が無いように事務的な言い方をしていた。
 困った顔のアイリア。
 リアクションがあまりに薄過ぎて、どうやら対応しきれない様子だ。見かねたロシュが彼女に声をかける。
「セルシェッタ」
「はい」
「私達では食べきれません。あなたも席に着きなさい」
 ほぼ命令のように告げられれば従わざるを得ない。
 セルシェッタは「…はい」と大人しく席に着く。その後を追うように他の使用人達も椅子に手をかけ、次々と座席に着いた。
 他にまだ来てない人は居ないかしら?とアイリアは周囲を見回す。ラウド家に居る住み込みの使用人の数は八人程度で、外回りの作業に関しては外注で賄っている。
 使用人の数は屋敷の広さの割には少人数だった。
 仕事量は決して少なくは無いが、一日毎に決められた内容をこなすだけで構わないという大らかな方針なのでこの屋敷に勤めたい者は後を絶たない。
 小さな頃から屋敷で生活し、今や使用人らをまとめるセルシェッタの厳格さに我慢出来ればの話だが。
 ベテランであるセルシェッタは同じように使用人仲間を見回した後、落ち着いた表情で「全員です」と答えた。
「それなら良かったわ。では早速頂きましょう、食前のお祈りをしてからね」
 毎度食事の前には、生きている全てのものに対して祈りを捧げなければならないのはこの家の決まり事の一つ。
 それを怠ると、たちまちアイリアの雷が落ちてしまう。祈りに若干の時間を費やした後、ようやく食べる事を許されるのだ。
「さあ、お食べなさい」
 頂きますと一言添えた後、各々ご馳走に手をつけ始めていく。普段あまり口にしない珍しい料理を楽しむ使用人達の笑い声が満ちる中、ラウド家の当主であるヴィクトールは久しぶりに戻って来た息子に目を向けた。
「ロシュ」
 母親が作ってくれたほうれん草とベーコンのキッシュを味わっていたロシュは、んん?と父親の声に反応する。
「何か用事があったのか?」
「んん」
 口の中に広がるベーコンの味を堪能し、ゆっくりと飲み込むとロシュはこくこくと頷いた。
「あっ…そうだ、そうなんですよ。父様が良く使う酔い覚ましの水。あれを分けて欲しいのです」
「酔い覚まし…ああ、あの湧き水か。何故それが今必要なんだ?」
 すぐに理解するあたり、まだ枯れてはいない様子だ。
 ロシュはホッと安心する。
「ちょっと私の護衛騎士の具合が良くなくて…オーギュに特効薬を作って貰う為にどうしても必要なのです」
「護衛…ああ」
 国内で大々的に広まった白騎士の話は、ヴィクトールやアイリアの耳にも入っていた。
「会ってみたかったわ、あなたが選んだ騎士様に…」
 残念そうにアイリアは少し膨れる。
「それはそのうちに」
 人形好きでもある彼女にリシェを見せれば、格好の着せ替え人形にさせられる予感しか無い。ロシュは言葉を濁しながら父親に伺いを立てる。
「まだ水はあるのでしょう?父様」
 ワインを口にしていた彼は、息子の問いを受けてグラスを一旦テーブルに置く。
 穏やかな顔をややアルコールで赤く染め、優しい眼差しを息子に向けると「まだある事にはある」と微妙な言い方をした。
 ある事にはある。
 どういう意味なのだろう。ロシュは彼の次の言葉を待った。
「ただ、中に入りにくいだけで」
「何かあるのですか?」
 ヴィクトールは低い声で唸ると、再びグラスの中でゆっくりと弾けるワインを数口飲み込んだ。
「中に巨大な蜘蛛が巣を作ってしまった。どうやら外部から入り込んで来た魔力と鍾乳洞の中の魔力が混ざってしまって、それに当てられた蜘蛛が変異を起こしたようなんだ。魔法の力が絡むとなれば、私達は専門外だからどうしようも無くてな」
「はあ…」
「それを取り払わないと水は取れないぞ」
 オーギュも連れてくれば良かったかな、とロシュは悩んだ。果たして自分一人で対処出来るかどうか。
 うーん、と考えていると意外な場所から反応があった。
「旦那様」
「ん?どうした、セルシェッタ」
「私で宜しければ、ロシュ様のお手伝いをさせて頂きます」
 え、とロシュは驚く。
 使用人としての腕は分かるが、明らかな魔物退治に対処出来るのだろうかと疑問を抱いてしまう。しかも戦士向きでも無さそうな体型だ。
 身長は高い方だが、どちらかと言うと華奢なセルシェッタに巨大蜘蛛をどうにか出来るとは思えない。
「構わないが…大丈夫なのか?」
 セルシェッタは口元をナプキンで軽く押さえ、こくりと静かに頷いた。
「単独であの巣の処理は厳しかったので」
 その口調は、今まで何度か試みた様子だ。
 アイリアも若干戸惑いながらセルシェッタを見る。
「処理してくれるなら有難いけど…でも、あなた大丈夫?」
 やはり女性だからなのか心配らしい。
「私もロシュ様とご一緒なら心強いです。安心して下さい、必ず処理します」
「えええっと…あ、あの、セルシェッタ?わ、私…魔法は使えますが、燃やすとか凍らせるとかは出来ませんよ?」
 不安に駆られ、ロシュは予め自分はあまり役に立てない事を伝えようとする。
 しかし彼女は目を細めながら「ええ」と冷静に返した。
「私が前に立って、ロシュ様は魔法で壁を作って頂ければ良いのです」
 前に立ってどう退治するのだろう。
 昔から知っているが、彼女が武具を持った所など見た事が無かった。
 本当に大丈夫なのか。
 …不安を感じながらも、今はセルシェッタに頼るしか無い。

 翌日。
 ラウド家の地下通路前でセルシェッタと待ち合わせていたロシュは、不安を抱きながら彼女を待っていた。
 屋敷の最奥には鍾乳洞に繋がる狭い道が繋がり、屋敷からの入口は湿気を遮断する為に頑丈な鉄扉で塞がれていた。
 寒気を感じるのは日が入らない地下の為か。
 持ち出した発光石に魔力を込めると、石はぼんやりと暖かな色合いで周囲を照らし出した。
 鍵はあらかじめアイリアから借りて来たのでセルシェッタが来ればすぐに解錠出来る。冷たくなりつつある手指を揉みながら待っていると、カツンカツンと足音を立ててセルシェッタの姿が見えてくる。
「おはようございます、セルシェッタ」
「おはようございます。お待たせしました」
 いつものメイド姿の彼女は、ぺこりと頭を下げる。
「あの…本当に大丈夫ですか?」
 やはり不安で仕方無いロシュ。
 自分は戦闘に関して全く役に立てないだけに、彼女を前に立たせてしまうのは忍びないのだ。
 だが彼女は真っ直ぐにロシュを見ると大丈夫ですと言う。
「その前に」
 セルシェッタは腰に着けていた小さなケースから何かを探し始める。
「このカプセルの中に少しだけ魔力を入れて頂きたいのです。お願いします」
 手の平にちょうど入るサイズの小さなカプセル、三つ程。
 ロシュは変に思いながらセルシェッタを見た。
「蓋の上に小さな石がありますので、そこに入れて下されば」
 コルク製の栓の真ん中に、小さな石が詰められていた。中身は見えず、何が入っているのかは分からない。
「これは?」
「普通の薬剤です。投げ付けるだけでは巣を除去出来ないので、魔力の力で分散させたいのです」
「は、はあ…それなら構いませんけど」
 彼女は本気で前線に立つつもりなのだろうか。
 だが、例の巣がどのレベルなのかも分からない。もやもやしながらロシュはセルシェッタに言われた通りにカプセルの石部分に魔力を込めていく。
 全てに注入した後、どうぞと彼女に手渡した。
「ありがとうございます」
 再びケースに仕舞い込むと、セルシェッタはでは…と扉の前に立った。
「ロシュ様、解錠をお願いします」
「は、はい」
 重く塞がれている鉄扉を解錠し、よいしょと開く。奥から土臭さと湿気の混ざる匂いが鼻を突き抜けてきた。
 セルシェッタは自分で用意したランタンに火を灯す。
「では、私が先導致します。しばらく来て無かったので、もしかしたら巣が増えているかもしれませんが」
「あのう…何かしら武器などは?退治するには道具とか無いと大変なのでは…」
 地面は硬い土で慣らされており、泥に塗れなくても済んでいた。歩く度に二人の足音が狭い壁にぶつかり反響する。
 長きに渡り保存された洞内は、稀に天井から水滴が漏れてくるものの頑丈に固められていて、崩れる不安も無さそうだった。
 セルシェッタはロシュに背を向けたまま「常に用意しております」と返事をする。
 …そうは言うものの。
 今のメイド姿のどこに武器を隠しているのだろう、と不思議だった。しかもロングスカートなのだ。動こうにも動きにくそうではないか。
 いざとなれば自分が前に立つべきだろうなとロシュは考えながらセルシェッタの背後に付いていくと、やがて彼女の足が止まってしまう。
「は…っう!ど、どうしましたか!?」
 考え込んでいて、彼女が足を止めた事に気付かずにいたロシュはびくりと歩くのを止めた。
 セルシェッタは警戒しながら、近いですと言葉少なめに返す。
「やはりしばらく来ないうちに巣も増えているようですね。薬剤、もっと作った方が良かったかもしれません」
「そうなのですか?」
「…メインの巣よりは、手前側はそれ程大きくは無いでしょう。力技でどうにか致します」
 力技、とは。
 余計不安に駆られるロシュを余所に、セルシェッタはいきなりスカートを太腿までグイッとたくし上げた。
 大胆に剥き出しにされた白い左脚に、ベルトで括った鞭が見える。同時に黒レースのガーターストッキングがちらりと見えてしまい、目のやり場に困惑した。
 ついロシュはあわわ!とたじろぎ顔を逸らす。
 彼は母親から常に異性と一緒に居る際、必ず紳士的な態度をするべきなのだと教え込まれていた。だがいきなり肌の一部を目の前で露出されてはどう対処すれば良いのか分からなくなってしまう。
 顔を逸らしながら「い、いきなり何なんですー!?」と慌てながらセルシェッタに叫んでいた。
 しかし彼女は左脚に隠していた鞭を手にした後、再びスカートを直してけろりとしている。
 むしろ眉を寄せ「何がです?」と逆に問う始末。
「女性が急に素足を出されると、目のやり場に困りますから!!」
 おずおずと前を見ながらロシュは言った。
「はぁ、そうですか」
 全く表情を変えないセルシェッタは、鞭を手にそのまま前を進み始める。
「ロシュ様」
「は…はい」
 何とも頼りない返事をするロシュ。
「中の蜘蛛は刺激を受けると毒を含む糸を吐き出します。魔法で私の前に防御壁を作って頂ければ、退治も大変やりやすくなります」
「あ…はい!壁ですね!分かりました」
 自分に出来る事があれば喜んでやるつもりだったロシュは、魔法の詠唱を始めた。詠唱が進む度、セルシェッタの全身を細やかな魔力の粒子が包んでいく。
 目には見えない魔力の流れと周囲に存在する協力的な精霊の力を絡ませ、そしてロシュの聖なる力で更に後押ししながら徐々に光の粒状の魔法のバリアが完成する。
 自分の体を包み込む魔力のベールを初めて肉眼で確認したセルシェッタは、その美しさに一瞬見惚れてしまいそうになるのを押し留めるとロシュにありがとうございますと例を告げた。
「では、退治して参ります。ロシュ様は鞭が当たらない場所へご移動を」
「い、いや…私もお手伝いを」
 ロシュの申し出に、前方に居る彼女はちらりと振り返ると「慣れておりますから、大丈夫です」と止めた。
 向こうの動きも把握しているのだろうか。
 すると彼女は鞭をしならせた後、進行方向目掛け勢い良く叩き付けた。強く張り詰める音が空洞内に響き渡る。
 同時にギギィッという細い鳴き声が聞こえ、空気が抜けたような音がした。
 更に鞭の手を緩めないセルシェッタ。
 仲間が攻撃されたのを知るや、隠れていた蜘蛛達がガサガサと近くを這ってきた。
「ん?」
 ロシュは自分の近くに近付いてくる物体を確認する。不意に頭上を見上げると、二十メートル程の蜘蛛が背中部分を開くのを見つけた。
 かぱりと開かれた背から、噴射口のようなものが剥き出しになる。噴射口はやけに黄色や黒、ピンクなどの色が混ざり、やけにグロテスクだ。
「うひゃあああ」
 彼は反射的に体を逸らした。噴射口から勢い良く糸玉が放たれ、地面をばしゃりと汚す。同時に玉は広がり、真っ白な巣を作り始めた。
 ああ、なるほど…こうして増えるのかぁ、とロシュは妙に納得する。
 普通の虫退治という訳にはいかないようだ。
「ロシュ様!」
 前方は粗方片付いたのだろう。
 セルシェッタの声が響いた。進路を巣を作られ、立ち往生のような状態にされていたロシュは「すみません」と彼女に謝る。
「いいえ。このレベルなら想定内です」
 凛とした声が巣の向こう側で聞こえた。その後、発生源である蜘蛛が鞭のしなる音と共に処分されていく。出来立ての巣は、彼女が持って来た薬剤の頒布によって回復不能レベルまで規模を縮小された。
 それを見届けながら、ロシュはセルシェッタに問う。
「随分慣れているようですが、何度かお一人でこちらに来ていたんですか?」
 薬剤をポーチに片付け、彼女は無表情に返した。
「ええ」
「あなたも水が欲しくてですか?」
「何度も繰り返す旦那様の二日酔いをどうにかしたかったのです。奥様もお困りでしたから」
「………」
 何だか申し訳無い気持ちになった。
「父様にお酒を少し控えめにするように伝えます…」
 元々そこまで強くないのに、ガバガバと飲む傾向にある父親の為に、彼女はわざわざ骨を折らなければならないのかと。
 セルシェッタは生真面目な表情をやや緩ませた。
「ええ。ぜひそうして下さい」
「…情けないです。はあ…とりあえず、先に進みましょうか。安全に水を確保出来るようにしないと…」
 複雑な気持ちになりながら、ロシュは魔法で自分の愛用する杖を出現させる。
 単純な虫退治ではないと思い、最低でも自分の身は自分で守らなければならないと判断したのだ。
「ロシュ様、その杖は?」
「ああ、何かあった時に対応出来るようにしたいだけですから…気にしないで下さい」
素手では魔力を引き出しにくいのだ。
 再び洞内の奥へと足を進めていくと、どこかで水が滴る音が聞こえてきた。
 ヒヤリとした風が微かに二人の頰を掠める。
「この先は外にも繋がるので、向こう側からの通路も確保しなければなりません」
「抜けた先はどこに出ますか?」
「レーゼンドロイ平野に出ます。ラントイエ地区はアストレーゼンの中心街から離れてますし、ラウド家も地区から端に位置していますので割と街の外部に近いのですよ」
 外部にあまり出る機会が少ないロシュは、自分の家の敷地内から外部に出られるとは、と今更ながら少しだけ感動した。
 やがて道が広がりを見せ、開けた場所に入り込んだ。
 鍾乳石から伝い落ちる水の音も聞こえる。どこかの溝を使い、絶えず外部へと流れ続けているのだろう。
 セルシェッタはふう、と一息つく。
「ロシュ様」
「は、はい」
「着きました。まずは、大元のボス蜘蛛を処分します」
 彼女は内部に設置されていた二つの燭台にランタンの火を分ける。周囲が明確に判別されると、ロシュは内部の異様な光景に言葉を失う。
 天井から吊り下がるように存在する巨大な石。
 見る者を圧倒させる大きさの石は、絶えず水を流し続けていたが、それを阻害するかのようにびっしりと蜘蛛の巣が包み込んでいた。
 石だけでは無い。周囲の壁にも巣らしきものが張り付いている。さすがにこれは不気味な様相だ。
 ついロシュは「ひぇええ…」と呟いてしまう。
 セルシェッタは洞内に入る前に、ロシュから魔力を詰めて貰ったカプセルを一つ取り出した。
「ロシュ様、お下がり下さい」
「は、はい!」
「まずは石に張り付いている巣を取り除きます。巣を破壊しようとすると、大元が出てきますので一気に叩きます。先程のよりは凶暴なので、気を付けて下さい」
 セルシェッタはカプセルを巣に向けて投げつけた後、自前の鞭を駆使しそれを割った。
パリーン!と激しい破裂音が鳴り響き、中身が一気に分散する。
 込められた魔力と、鞭による衝撃を受けた中身は巣に降りかかり、もうもうと煙が湧き上がった。薬剤のツンとした匂いを撒き散らされ、ロシュは軽く咳き込んでしまう。
 かなりきつめの薬品なのだろう。
 あまりの匂いと煙たさで、手でぱたぱたと周りを払っていると、すぐ右横で風を鋭く裂く音がした。
「……っ!!」
 軋むような音を響かせ、巨大蜘蛛の肢の一部がロシュの真横の柔らかい土壁にめり込んでいる。薬剤を避けてこちら側に避難したのだろう。
 天井を見上げれば、シャリシャリと異音を立てながら蠢いているのを確認する。自分の身の周りに魔法壁を作り上げ、同時に素早い蜘蛛の動きを弱めようと魔力の放出を始めた。
「ロシュ様、回避を!」
 セルシェッタが叫び、手持ちの鞭をしならせる。
 ロシュは数歩後退し、彼女の攻撃を待った。
「動きを弱めました!私に出来る事をしますから安心して退治して下さい!」
「ええ、そうします!」
 激しく外皮を打ちつける音。
 巨大蜘蛛は動きを制限されながらも、攻撃を仕掛けてくるセルシェッタに焦点を当てて毒液を吐き出す。予め防御壁を作り上げていた効果もあり、数度となく吐き出された液体は彼女の手前で壁にぶつかり地面に染みを作った。
 …これはとても楽だわ、と彼女は口角を僅かに上げる。
 今まで個人で赴いて苦戦してきたのが嘘のようだ、と。
 魔法の力をあまり信じていなかったセルシェッタは、ロシュの魔法によって作られた壁に内心感謝する。
 真横に鞭を払った後、蜘蛛の肢の一部を激しく打つ。鞭の先端が驚異的な速さでそれを吹き飛ばすと、やがて胴体を支えきれなくなった相手はドスンと地に落下した。
 胸部を剥き出しにしたまま、蜘蛛は残った肢をばたつかせている。ひたすら空を掻くかのように。
 ひっくり返り、鈍い光を放った眼球をギョロギョロと動かすが、その動きも徐々に遅くなった。
 自らの城とばかりに巨大な寝ぐらを作り上げ鎮座していた割には、あまりにも悲しい終わり方だ。
「意外に呆気ないものね」
 セルシェッタは無表情のままで再びカプセルを取り出すと、弱点である胸部目掛けてそれを放り投げる。後を追うように鞭を一発打ちつけると、可燃性の薬剤を含む中身が勢い良く爆発した。それに伴って、眩い光が目を刺し込む。
 ひぇえっ、と避難していたロシュは身を縮ませながら視界を守った。
 粉っぽさと火薬の焦げた匂いが充満し、土埃が舞っていく。
 間を置き、カサカサと何かが走り抜ける音が聞こえた。まだ残っている蜘蛛の音だろうか。
「ロシュ様。大元は焼き尽くしました。後は細かい蜘蛛を退治するだけです」
 離れた方向からセルシェッタの声。
 ロシュはそろりと再び石のある広間へ足を踏み入れると、残りの蜘蛛をセルシェッタが退治している最中だった。
「あまりお役に立てませんでした」
 不甲斐無さを感じ、ロシュは苦笑いする。
「いえ、大変助かりました。私は魔法が使えませんから、防御する方法を知らないのです」
「ふふ…私は守る手段しか持てませんから。少しでもお役に立てて嬉しく思いますよ、セルシェッタ」
 最後の一振りを残った蜘蛛に放った後、彼女は乱れた髪を軽く耳にかける。その女性的な仕草が妙に美しかった。
 ようやく静寂が戻る洞内。ロシュは焦げ付いた匂いの中、ああ!と何かを思い出したように何かを探し始める。
 セルシェッタは鞭をロングスカートの中に収めた後、不思議そうな面持ちで石を拾うロシュに目を向けた。
 手の平サイズの角張った石を数個拾い集め、彼は満足した表情で魔法の詠唱を始める。
「何をされるのです?」
 ロシュは彼女の質問をそのままに、地面に置いている石の周りに魔法陣を描き始める。司祭のみが扱える神聖魔法の円陣は、ロシュの言葉と連動して青白く美しい輝きを放ち始めた。
 詠唱が終わると、輝きは拾い集めた石に吸い込まれていく。その石は満遍無くロシュの魔力を吸収し、内側から青白い輝きを放っていた。
「気休めにしかなりませんが、即席で邪気を跳ね除ける結界鋲を作りました。これで多少は魔力の淀みが起きにくくなるでしょう」
 彼はそう言うと、せっせと石をあちこちに埋め込んでいく。
「これでお水も手に入りやすくなります」
 魔力の淀みによって、それに感化された内部の生態系が激しく狂うのがそもそもの原因なのだ。
 なるべく淀まぬように先手を打てば面倒な事は起きにくい。またお世話になる可能性もあるしね、とロシュは微笑む。
 セルシェッタはロシュに頭を下げ礼を告げる。
「これで奥様も安心出来ると思います」
「いえ…それはこちらが申し訳無いですよ…」
 彼女が自分の身内の為に動いてくれているのは大変有り難いが、流石に恥ずかしくなる。
「はあ、良かった…これでオーギュに持って帰れます」
 巨大な鍾乳石を見上げる。
 蜘蛛の巣で覆われていた石は、その窮屈さから解放されたかのように美しく水で洗われて本来の自然体の姿を剥き出しにしている。
「リシェも楽になれるはずです」
 絶え間無く流れ落ちる恵みの水をようやく集め瓶に詰めると、使命をクリアしたロシュは胸を撫で下ろしていた。

 鍾乳洞の水を受け取った後、オーギュは「それでは」と切れ長の目をロシュに向けて話を切り出す。
「ルシルからあの薬品の材料を聞き出して来たので、中和する薬を作ってきます」
 大聖堂の自分の部屋に戻り、疲れと眠気が湧いていたロシュはあくびを噛み殺しながら「ん?」と疑問を抱く。
「材料って、あなたはまた同じ薬を作るのですか?」
「違いますよ。使った材料によって中和する材料も違ってくるんです。どうしてまた同じ薬品を作らなきゃならないんですか」
 さっさとこんな状況を終わらせましょう、とオーギュが水の入った瓶を手にして室外から出ようとしたその時。
 階下から思い切り駆け上がってくる元気な足音が聞こえてきた。
「おや」
 目を細めるオーギュ。
 扉をノックせずに突然部屋に入って来た元気な双子の兄弟は、「ロシュ様ー!!」と大声を上げた。
 あまりの頓狂な声に眠気が飛びそうだ。
「ああ…おはようございます、ルイユ、ルシル。今日もお元気ですねぇ…」
「ロシュ様はあまり元気そうじゃねーな!」
 能天気なルイユに、そんな事ありませんよと苦笑する。
「少し眠いだけですからね」
「そうなのぉ?あっ、リシェは?あれからどうしちゃったのぉ?」
 ふわふわとした口調のルシルは、ロシュの体にくっついて甘えながら問う。元々彼はスキンシップが激しいタイプなせいか、他者の体に触れる事は日常茶飯事だ。
 そのせいで稀に誤解されてしまう場合もあるようだが。
「リシェは任務中で部屋を留守にしています」
 その言葉に、ルイユはつまらなそうに呟いた。
「何だ、真面目な奴だなー。ん?オーギュ、どっか行くのか?」
 ベランダに出ているオーギュを目敏く見つけたルイユ。
「ええ。ちょっと研究室に行ってきます。あなた方はロシュ様とお話でもしていなさい」
「分かった」
 近付いてきたルイユの頭を優しく撫でると、オーギュはひらりと飛び降りて行った。
 塔から下へ降りて行く彼の姿を見届け、あまりの高さにルイユは足が竦みそうになってしまう。
「ひゃああ、怖っ!良く飛び降りられるなあ」
「ふふ、オーギュはもう慣れっこですからね」
 単に階段の上り下りが面倒なだけだが。
 とにかく後はオーギュを待つだけだ。自分にじゃれてくる双子を相手にしながら、ロシュは急ぎたくなる気持ちを抑えていた。

 悶々としていた時間を過ごし、オーギュが完成した特効薬を手に司聖の塔へ戻って来たのはその日の夕方だった。
 茶色い栄養ドリンクのような瓶に詰めた薬をロシュに手渡し、リシェには薬が出来たのでいつでも戻って来なさいと伝えてある事を告げた後、オーギュは心底疲れたからもう仕事はしませんとすぐに帰ってしまう。
 流石に仕事の続行を強制出来ないロシュは、礼と共にゆっくり休んで下さいと彼を労った。
 …これで、またリシェとゆっくりと過ごせる。
 瓶を手に、ロシュははあっと吐息を溢した。
 空が宵闇に染まりかけ、窓から見える時計塔が夜を告げる鐘を鳴らしていると同時に、部屋の扉からノック音が聞こえる。
「はい!」
 ゆっくりと開かれる重厚感のある扉。
 その奥から、そうっと滑り込むようにして小柄な少年が姿を見せてきた。ロシュは胸の奥底からの幸せな気持ちが湧いてくるのを感じ、愛する少年の名を呼ぶ。
「リシェ」
「ろ、ロシュさま…」
 まだ効き目が強いらしく、戸惑いを見せるリシェ。
「お帰りなさい」
 ロシュの声を聞くだけでも切なくなる。リシェは胸を押さえながら俯き、顔を真っ赤にしていた。
「お、オーギュ様から特効薬が出来たからって…だから、いつでも戻っていいと」
「はい。おかげ様で完成しました…良かったです。あなたはいつでも元に戻りますよ、リシェ。オーギュに感謝しなければなりませんね」
「………」
 リシェは扉を背に、恥ずかしくてロシュが見られず顔を逸らしてしまう。緊張してドキドキする胸を押さえ、萎縮していた。
 ロシュはそんな彼が愛しくなる。
 受け取った瓶を机に置き、まだ怯えが残るリシェに近付いて膝を床に落として向き合うと、顔を逸らす彼の頰に優しく触れた。
「ひ…」
 小さな声を上げて身をびくつかせるリシェ。
 ロシュは苦笑いしながら「リシェ」と呼びかける。
「私、存分に待ちました。このままあなたが私の事で頭がいっぱいなうちに、あなたを私のものにしたい」
「………!!」
 その言葉の意味を、リシェは理解出来た。
 すぐに彼は反応し、顔を真っ赤にして首を振る。そんな事をされれば、自分はおかしくなってしまうと。しかしロシュはリシェを求めるのを止めない。
 ロシュは逃げようとするリシェを抱き締めると、端正な顔を彼の首元に埋めながら逃しませんと囁く。
「ロシュさ、ま」
 いやだ、と目を潤ませる。
「だめ。リシェ、待てない。もう待てない」
 しなやかな腕を伸ばしてリシェを抱き締めるロシュは、彼の身に着けている服を剥がし始めた。
 それでも逃げようとする彼の唇を奪い、強引に体を抱える。リシェと一つになりたくて堪らない。
「ロシュ様!お願いです、やだ…!やだ!!」
 向き合うだけで心が乱されてしまうリシェは首を振って嫌がる素振りを見せた。
「駄目、リシェ!私もあなたに酷い事はしたくないんです。…ですから、大人しくして」
「う…うう…恥ずかしい…恥ずかしいです…やだぁあ…」
 今更、と思えるのだがリシェにしては薬のせいもあって死ぬ程耐えられないのだろう。
 心情を汲み取りたいが、ロシュももう限界なのだ。
 顔を手で覆い、首を振り恥ずかしがるリシェの服を全て剥ぎ取る。
「…リシェ」
 真っ白なシーツの上で体を縮めようとする彼を組み敷き、ロシュは自らの法衣に手を掛けた。
 剥き出された中心部も、これから起きる事を予想するかのようにひくひくと脈打っているのが分かる。一瞬指先を掠めさせれば、そこはぴくりと反応を示した。
「や、やだ…っぐ、ロシュ様…おっ、俺…体、汚れてるから…見ないでくださ…」
「どうして汚れてるって言えるんです?」
 ひくひくと震える裸体。華奢な体型だが、剣士なだけあり筋肉もそこそこ付いていた。
 ベッドは窓辺にあり、月の光も差し込んでくるせいか妙にその身がロシュの目に艶かしく映える。
 今まで多くの美術品を見てきたが、今目の当たりにしているリシェの裸身が一番美しく見えていた。
「あいつに、沢山汚されてきたから」
「………」
「だからっ…」
 まだ気にしているのか。
 追い払ったにも関わらず、義理の兄にされていた事が引っかかっているようだ。
 ロシュはリシェを組み敷いたまま、ふっと目を緩ませた。
「私はあなたじゃなきゃ嫌なのです。汚されていようが関係無い。あなたは綺麗だ。あなたの嫌な記憶は、これから私が上書きします。それならいいでしょう?リシェ」
 怯えていたリシェは、ロシュのその言葉を受けると僅かに態度を軟化させる。
「お願い」
 小さな体に少しずつ自分の身を乗せ、優しく抱き締めた。
「私のものになって下さい。リシェ」
 あなたの心も全て溶かしてあげます、とリシェの手を取り口付ける。
 そんなにも自分を想ってくれているのか。
頑なになっていたリシェは言い様の無い感情に押し潰されてぼろぼろと涙を零すと、ロシュの背中に腕を回した。
 溜め込んでいた気持ちが溢れ出す。
「お…俺っ、俺…あなたが!」
 愛おしい。愛おし過ぎて、切ない。
 胸がきゅうっと甘く締め付けられてしまう。これでロシュを否定したら、確実に後悔する。
 自分は、彼と出会う為に生まれてきたのに。
 何の為にロシュを求めてきたのか、自分を否定する事になる。差し伸べられた手を離すわけにはいかない。
 ロシュに対する今までの想いが込み上げてきた。
「大好きです…ロシュ、さま…!!」
 彼の全てが好きだとリシェも一歩踏み出す。
 一つのベッドの上に、二人の影が重なった。
「私も、大好き」
 お互い剥き出された想いはもう止められない。
 ロシュもまた、溢れ出す感情を止められずリシェを激しく抱き締め、貪っていく。
 ようやく願いが叶ったその夜から、二人は空が薄らと明るくなるまで求め合っていた。

 夜が明ければ、柔らかな日差しが溢れ出す暖かい一日が始まる。結局朝早く起きれないまま、半日を過ごす事になってしまった。
 体の奥が痛い…とリシェはようやく目を覚ますと同時に、体にある違和感を感じて呻く。ふわりと窓の隙間から風を感じつつ、夢見心地で隣に居るはずのロシュの姿を探した。
「…ロシュ様?」
 いつの間にか、着た覚えの無い寝間着を身に付けている。
 風邪を引くからとロシュが着せてくれたのだろう。
「ロシュ様…」
 彼の姿が見えない。ごしごしと目を擦りながら上体だけ起こす。
「リシェ、もう起きたのですか?」
 不意に飛んできた優しい声に、リシェの胸はドクンと強く脈打つ。同時にきゅう、と甘い締め付けを感じた。
 耳に届いたその声は、全身をくすぐるように駆け抜けていく。
「お…おはようございます」
 昨晩の激しい熱を思い出し、リシェは全身を固くさせた。
 いつもと変わらない笑顔を見せながら、ロシュはベッド上のリシェに近付き縁に腰掛け、リシェの寝乱れた髪に優しく触れる。
「お体は大丈夫ですか?」
 少しだけ恥ずかしそうな、そして遠慮がちな様子でロシュは問う。自分でもリシェを激しく求めていたのを自覚していた様子だ。
 大人気なく夢中になり過ぎて、彼を傷付けたのではないかと内心ハラハラしていた。
「はい」
「多分、かなり傷付いたと思うのです。えっと…少し膝立ちして貰えますか?」
 言われるまま、リシェはロシュの前で膝立ちする。ロシュは彼を抱き締め、臀部に触れると回復の魔法を施した。ぼんやりと明るい光と、温かい感触がリシェの体を包み込んでいく。
 同時に体内から熱い何かが溢れ出してきた。
 リシェはそれが一体何なのかを理解すると、途端に顔を真っ赤にして身悶えする。
「ろ、ロシュ様」
「ん?どうしましたか?」
「痛みは消えてきたけど…えっと」
 言いにくそうにもじもじするリシェ。
「何か、溢れて来ましたっ…」
 一瞬きょとんとしたが、意味が分かった。自分が放ったものが、リシェの体内から出てきたのだと。
 回復も半端無かったから、量も多かったはず。
 くすりと苦笑いし、お風呂に入って来なさいと彼に優しく告げる。むしろ指で優しく掻き出してあげたいが、自分の欲望もまた復活しそうで止めた。
 顔と体が熱くなったリシェはこくんと頷くと、ベッドから降りて浴室へ駆け出す。
 彼が浴室から出てきたらすぐに口に出来るよう、温かいスープを準備しておこう。…ロシュはそう思い立ち準備に取り掛かった。
 この上無い程の幸福感を覚える。
 やっとリシェを愛せた事が嬉しくて、ロシュの心の中は非常に満たされた気分になっていた。
 背中に刻まれたリシェの爪痕の小さな痛みですら愛おしい。それは相当キツかった事を物語っていた。
 苦痛に苛まれていた表情が、次第に快楽に緩み最終的には甘く切なげに苦悶する顔に変化していくのを思い出し、再びロシュの体が熱くなった。
 今まで知らない味を知り、愛する彼が大人に変化していく様子を目の当たりにしたロシュは充実感を覚えたのだ。
 それは、最高の達成感ではないだろうか。
 テーブルに存分に温まったスープの器を置いていると、風呂上りのリシェが姿を見せてくる。
「十分に温まりましたか?」
「!…は、はい!」
 オーギュが作ってくれた解毒剤は、情事の後に口移しでリシェに飲ませていた。
 重ねたリシェの体から激しい鼓動を感じ、恥ずかしくて耐え切れない様子を見せていて、それがまたロシュを刺激してしまったがあまり苛めると可哀想だと思ったのだ。
 思い出せばまた抱き締めたくなる。
「さあ、リシェ」
 ひたすら欲が湧くのをぐっと堪え、紳士的にリシェをスープの前に座らせた。同時にロシュもすぐに右隣に腰を下ろす。
「あまり食欲は沸かないかもしれませんが」
「いえ…いい匂いです」
 特効薬が完全に効き、いつもの状態にようやく戻ったリシェは間近に居るロシュを見上げると、昨晩の事を思い出してしまったのか再び顔を真っ赤にしてしまう。
 ふふ、とつい吹き出すロシュ。
「顔、真っ赤」
「う…」
「昨日は沢山可愛いリシェを見る事が出来ました」
 言葉を失い、ロシュの前で縮こまるリシェの頭を優しく撫でた後にふわりと抱き締める。
 びくと反応する彼の左耳に触れた後、顔を首元に埋めてキスをすると、リシェはふぁあっと小さな声を上げた。
思い出してしまう。
「ろ、ロシュ様っ…」
 ロシュのしなやかな体に抱かれ、熱い吐息を感じ、やがて体内に入り込んだ感触が蘇り、猛烈に恥ずかしくなった。
「ひ…っんんっ」
「リシェ。…大好きですよ。堪らない」
 まるで小動物を愛でるようなロシュの愛撫を受けた後、ようやくリシェは解放される。
「さあ、リシェ。スープが冷めないうちに」
 びくびくと敏感になっている彼をまた追い詰めたい気持ちがあるものの、やはり今はいけないとロシュは退いた。
 昨晩の名残が再燃寸前だったリシェは、思春期特有の性の衝動を持て余しつつ、大人しく「はい」と答える。
 甘くドキドキする胸の高鳴りを押し込めるように、リシェは温まったコーンスープを飲み込んでいった。
 あの感覚を知ってしまった今では、ロシュともっとキスしたい、抱き合いたいと求めたくなる。だが求めれば求める程貪欲になりそうで怖い。
「どうですか、リシェ?美味しい?」
「はい。温かくて美味しいです」
「良かった。えっと…今日は兵舎に行かれるんですか?」
 温かいスープには気持ちを落ち着かせる効果があるのか、次第に欲求も収まっていく。
 リシェは一口飲み込んだ後に、こくりと頷いた。何かしら行けばやる事があるだろうと思う。
「着替えたらちょっとだけ行ってきます」
「そうですか…で、でも今日は早く戻って来て下さいね」
 やや照れ臭そうな顔でロシュはリシェに言う。
 中性的な彼の顔は、表情によって急激に守ってやりたくなるような印象を与えてくるので不思議だ。
「もっと、もっと一緒に居たいですからっ…」
 少し離れていただけでも寂しくて堪らなかった。そんな素直なロシュの言葉を受け、リシェはふわっと笑顔を浮かべる。
 それは今まで見た事がない程の自然な笑顔だった。
「はい。ロシュ様」
 カップを置き、リシェはロシュと向き合うと両腕をゆっくり伸ばす。わっ…と軽く声を上げる主人の顔を撫でながら、リシェは大人びた表情をした。
「俺もずっと一緒に居たい」
 大きな一歩を踏み出した事で、リシェはまた大人になる。
「リシェ」
 ロシュは近付いて来るリシェの唇に再びキスしようと動いた。柔らかな唇の感触をまた感じたくて、少し焦らすようにスローで歩み寄る。
 お互いドキドキする胸を押さえながら、その瞬間を待ち望んでいた。
 そして数ミリの差にまで近付いたその時。
「ロシュ様!!遊びに来たぞ!リシェ居るよなー!?」
「おっはよー、ロシュさまぁ★」
 バターン!!と扉が勢い良く開かれ、双子が室内にドカドカと突入してきた。
 何故このタイミングなのか。
「!!!」
 リシェとロシュは二人同時に我に返り、勢い良くお互い身を引いてしまう。何もしていないと言わんばかりに。
 焦り過ぎて、リシェは何故か立ち上がりロシュから体を背けていた。
 その様子はかなり不自然で、早熟なルシルはにんまりしながら「あっれぇ~?」と声を上げた。
「何してたのぉ?もしかして朝からエッチな事しようとしてたのかなぁ~?」
「ええ!?何だよ、ロシュ様、朝からエロい事してたのか!?」
 ルシルにかかれば、全て卑猥な方向に話が向かってしまう。そしてそれに乗るルイユ。
「そ、そんな訳無いでしょう!」
 慌て過ぎて、リシェは感情が追いつかないまま二人に向けて泣きそうな顔をした。
 ふるふると震えて顔を引きつらせるリシェに、ルイユは近付いて小生意気な表情で「ははぁん」と呟く。
「お手つきされた顔じゃね?リシェ」
 何故分かるのか。嗅ぎつける能力があるのだろうか。
 その意味を理解し、リシェは顔を真っ赤にした。
「うるさい!!黙れ!!何だお前らっ!!」
「あぁんリシェ、元に戻ったみたいね★良かったねぇ」
 リシェの様子を観察していたルシルは他人事のようにそう言うと、いつものように無邪気に微笑む。
 元々は彼らのせいで自分が被害を食らってしまったのだ。せめて一言謝って欲しかったが、この件が無ければロシュとの仲は進まなかったかもしれない。
 ぐぐっと言いたいのを堪える。
 ルイユはひょこひょことロシュの前に回ると、慌てる彼の様子を楽しむように意味深にニヤニヤした。ううっと唸り、ロシュも挙動不審になる。
 彼らには全部お見通しなのだろうか。
「ローシュ様っ」
「は…っ、はい!?何ですか…」
 次の発する言葉が怖い。びくびくと年甲斐も無く怯えるロシュに、ルイユはへへぇと笑いかける。
「お楽しみだったろ?」
「なっ…ななな何ですか、何もありませんよ!!」
 半ばムキになりながら釈明していると、室内に激しいノック音が響き同時に勢い良く扉が開けられた。
 新しい来訪者を見るなり、双子は「げ!」と叫んでびくりと驚く。
「失礼致します、ロシュ様!!…やっと見つけましたよ、ルイユ様!ルシル様!!」
 かなり捜索して来たのだろうか。クラウスの表情からは怒りの感情を読み取れた。ひえっ…とルイユが反応するのが何よりの証拠だ。
 ルシルも近くに居たリシェの影に隠れてやり過ごそうとしている。
「く、クラウス殿…?この子達が何か…」
「私の鞄に蝙蝠の玩具を仕込んでいたのですよ。それがまぁ精巧に出来ていましてね…本物かと思った位です。私だけで止まってくれたら別に文句は無いのですが、調理場にまで仕込むとはタチが悪い。こってり絞らなければいけません!」
 かなりのご立腹だ。
 調理場に置くとはかなり悪質なので無理も無い。現場はさぞかし大騒ぎだっただろう。
 彼らの世話役である故に、説明と共にひたすら頭を下げてきたはずだ。
 リシェはからかわれた事でまだ顔を真っ赤にしたまま、自分の背後に居るルシルの首根っこをむんずと掴むと容赦無くクラウスに強引に突き出した。まさかリシェが自分を突き出すとは思いもしなかったらしく、ルシルは可愛らしい顔を歪めながら「いやー!!」と喚いた。
 リシェは「黙って絞られていろ!」と飲まされた薬の恨みを込めて怒鳴る。
 無事にクラウスの手元に戻されたルシルは、がっしりと怒り心頭の世話役に抱えられた。
「リシェ、お前裏切ったな!」
 それを見るなりルイユは怒鳴る。
「裏切るも糞もあるものか!お前も黙って捕まれ!」
 室内を逃げ回るルイユだったが、素早さには定評のあるリシェによって呆気なく捕まってしまった。
「おやおや…」
 ムキになってルイユを捕まえるリシェに、ロシュはつい苦笑いしてしまう。今回は彼らにかなり振り回された分不満をぶつけたくてうずうずしていたのだろう。
 床を引きずられる形で無事にルイユもクラウスの手に渡ると、彼はやや疲れた顔をして礼を告げる。
「ありがとうございます。この機会に少しはマシになるように撤退的に叩き直しますので、今回のご無礼はどうかお許し下さい」
 がっちり捕まってしまった二人の暴れっぷりを見守りながら、ロシュは「え…ええ…」とだけ返事をした。
 二人の世話はとにかく大変だろう。
「では、失礼致します」
「いやーん!!やだやだぁ」
「くっそ!!リシェ、お前マジで覚えてろよ!!」
 この期に及んでまだ暴れる二人に、クラウスは「黙りなさい!!」と両脇に抱えながら部屋から出て行ってしまった。
 騒がしい足音が遠ざかり、聞こえなくなるとしばらく黙っていたロシュはくすりと吹き出す。
「あの子達は絞られても変わらないでしょうねぇ…」
「………」
 少しはマシに成長して欲しい。
 リシェは起床したばかりにも関わらず、何故かどっと疲れてきた。
「リシェ」
「は、はい」
 改めてロシュはリシェに声をかけた。柔らかな日差しに暖められた風が室内を通り過ぎていく中、彼は最愛の恋人に微笑む。
「スープ、温め直しますね」
 二人の関係が一歩進んでも、ロシュは変わらない態度のままだった。
 リシェもまた、彼を守る気持ちはこれまで以上に深まる。
「ありがとうございます、ロシュ様」
 彼にしか見せない、とびきりの笑顔を溢す。
 共通の想いが重なり、再び強く絆は繋がり合った。
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