深夜カフェ・ポラリス

秋川滝美

文字の大きさ
上 下
2 / 16
1巻

1-2

しおりを挟む
 火を通したことでさらにニラの緑色が冴えている。早速食べてみると煮えすぎることもなく、シャキシャキした歯触りが心地いい。反対に人参や白菜は噛む必要がないほど柔らかく、野菜そのものの甘みを感じる。なにより素晴らしいのは鶏団子だ。ずっと火にかけられていたはずなのに、型崩れしていないしあぶらも抜けきっていない。きっと胸肉と腿肉の挽肉を合わせて使っているのだろう。
 有名焼き鳥店のつくねのような味わいが淡泊になりがちなスープに膨らみを持たせていた。
 さらにこのスープは舌だけでなく目も楽しませてくれる。ニラの緑、人参のオレンジ、そして白菜や鶏団子の白……こんな色の国旗があったはずだと思っていると、店主が話しかけてきた。

「コートジボワールって国を知ってる?」
「聞いたことはあります」
「アイルランドは?」
「知ってます。イギリスの隣の国ですよね?」
「そうそう。じゃあ、コートジボワールとアイルランドの国旗が同じ色を使ってることは?」
「え……?」

 ついさっき、こんな色の国旗があったはずだと思っていたところに国旗の話題が出てきて驚いた。おそらく美和が無意識に口に出していたのだろう。
 美和はシングルマザーなので家では話し相手がいない。正確には智也がいるのだが、彼との会話が成り立つようになったのはここ二年ほどのことで、それまでは一方的に話しかけるだけだった。そのせいか美和はひとり言が多い。おそらく今も自分では気づかないうちに考えを口に出していたようだ。

「緑、オレンジ、白の縦縞。一番左が緑なのがアイルランドで、オレンジがコートジボワール」
「へえ……もしかしてこのスープはどっちかの国旗を意識して作ったんですか?」
「結果としてそうなっただけ。で、あなたはこのスープ、どっちの国の国旗だと思う?」

 スープは中深皿に入っている。出されたとき、ニラと人参と鶏団子がどこか一箇所でも国旗のように並べられていたのだろうか。あまりにも美味しそうで、じっくり見る間もなく食べ始めてしまったけれど……
 答えに困る美和に、店主はふふっと笑って言う。

「直感でいいから、どっちか選んでみて」
「じゃあ、コートジボワール」

 なぜコートジボワールを選んだのか、自分でもわからない。コートジボワールなんてせいぜいサッカーで名前を聞いたぐらいで、アフリカのどこかにある国だという認識しかない。それなのに、反射的に答えが口から飛び出していったのだ。
 店主は軽く目を見張ったあと、なぜか満足そうに頷いた。

「いいね! どっちの国も白は調和だけど、コートジボワールの国旗の緑は希望、オレンジは情熱を意味してるらしいよ」
「希望と情熱……じゃあアイルランドは?」
「アイルランドの国旗の緑はカトリック教徒のケルト系住民、オレンジはプロテスタント教徒のイングランド系住民、白は調和と協調、信教が異なる人たちが仲良く暮らしていけるようにって願いが込められてるんだって」
「同じ色でも意味が違うんですね」
「面白いよね。そして、コートジボワールを選んだあなたには希望と情熱があるってこと」
「そうなんでしょうか……」

 今の自分には希望はもちろん、情熱の欠片かけらすらない。あるのは疲労と不安だけだ。
 智也のためにももっと頑張らなければと思うけれど、自分を鼓舞する力すら残っていない気がする。それでも店主はにっこり笑って続けた。

「見えないものがないとは限らない。ただ、あなたがいる場所から見えないだけで希望も情熱もちゃんとある。だって、あなたは希望と情熱の旗を選んだんだもの」

 屁理屈へりくつだと思った。今の美和は見えないものを探し求めるゆとりはない。目に入らなければないも同然だった。不満そうな美和に気づいたのか、店主がまた笑って言う。

「希望や情熱に形なんてない。夢だって同じ。こんな希望あります、こんな夢を見てます、って語ることはできるけど、それが本当にあるかどうかなんて他人……ううん、本人にだって確証は持てない。それなら、あるって信じたほうがお得じゃない?」
「そうかも……」

 同じ希望や夢でも、語る人によって現実味があったり絵空事だと思われたりする。今の自分に希望はまったく見えず、夢なんて語ることすらできない。なにせ、自信たっぷりに語る店主に反論する力すらなく曖昧あいまいに頷いてしまうほどなのだ。
 一生懸命目をらせば、どこかに明かりが見えるのだろうか。そうであってほしい、と思いつつまたスープをすくう。皿の底まで突っ込んだせいか、持ち上げたレンゲにはたくさんの春雨はるさめが絡んでいて始末に困る。どうしよう……と思っていると、目の前に箸が置かれた。

「忘れてた! これ、使って」

 普段ならフォークやスプーンは大小、ナイフや箸まで入れたカトラリーボックスをセットして自由に使ってもらっているが、今回は春雨スープだけだったので出し忘れてしまったと店主は説明した。

「ありがとうございます」

 レンゲを左手に持ち替え、箸で掬った春雨からたれるスープを受け止めつつ口に運ぶ。入れたときはほんのちょっとに見えたのにこんなに膨らむんだ……と思っていると、店主の声がした。

「けっこうたくさん入っているでしょ?」

 とりあえず、口に入れた分をよく噛んで呑み込む。
 こんなに話しかけられたら食べる暇がない。さっさと食べて戻らなければと思うけれど、保育園の先生や保護者ではない人と話すのは久しぶりだし、目を輝かせて話しかけてくる店主を無視することはできない。なによりいきなり言葉遣いの相談を受けた上に、旗を思い浮かべたら旗の話、春雨のことを考えたら春雨の話、と絶妙のタイミングで話しかけられ、俄然がぜん店主に興味が湧いてきたのだ。

「本当、春雨ってこんなに膨らむんですね。家では使わないから知りませんでした」
「水を吸うとびっくりするほど増えちゃう。スープに紛れて見えなくなることもあるけど、ちゃんとそこにあるのよ。ちょっと希望と似てない?」
「似ているんでしょうか……」
「周り中は敵だらけ、助けてくれる人は誰もいなくてお先真っ暗に思えても、どこかにきっと希望はある。今はただ見えないだけ」
「見えなければないのと同じじゃないかしら……」
「あるのとないのとでは大違いよ。希望や夢はとってもかくれんぼ上手。なかなか見つからないことも多いし、見つけたと思ってもよそ見をしてたらすぐに見失う。でも、消えちゃったわけじゃないの」

 店主はきっぱりと言い切った。せいぜい美和と同年配、もしかしたら少し下かもしれないのになんという自信に満ちた態度だろう。ファンタジー小説ではないけれど、人間何回目? と訊ねたくなるほどだった。

「本当にそうだったらどれほどいいか……」

 とてもそこまで前向きにはなれない、とため息をつく美和に、店主はひどく優しい眼差しで訊ねた。

「ご家族が入院中なんだよね。たぶん……小さい子?」
「はい……五歳の息子が。どうしてわかりました?」
「病院を除けば、このあたりにあるのはコンビニか居酒屋ぐらいでしょ? この時間にお財布とエコバッグだけを持って出歩くのは、ほとんどが付き添いの人。この時間まで買い物すらできないのなら、つきっきりじゃないとぐずり出すぐらい小さい子。やっと寝てくれたから買い物に来た、ってところかなと……」
「そのとおりです」
「入院は長いの? あ、答えたくなければ……」

 分け隔てないのは口調だけで、プライバシーに踏み込んではいけないことは心得ているらしい。
 否応なく根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だけれど、こんなふうに選択の余地を残されると逆に話したくなるのは不思議だ。きっと自分の中に、誰かに頼りたい、それが叶わなければせめて聞いてほしいという気持ちがあったのだろう。
 早く戻ったほうがいいことぐらいわかっている。でも、せめてスープがなくなるまで、と自分を許し、美和は口を開いた。

「今日で五日になります」
「まだ続きそう?」
「わかりません。……でももしかしたら長引くかも」
「五歳って言ってたよね。ある程度大人の話もわかってる感じか……。それだと、かえって大変だね」
「そうなんです。親馬鹿を承知で言えば、うちの子はけっこうしっかりしてるんです。私がそうさせちゃったところがありますけど」

 保育園に通うと、幼稚園よりも身の回りのことができるようになるのが早いと聞いたことがある。
 美和自身は個性の問題ではないかと思っていたが、保育園のほうが園で過ごす時間が長く、給食やお昼寝もある。保育士の先生方はどうしても小さな子に手を取られがちだから、年が上になればなるほど自分のことは自分で……となるのかもしれない。
 ただ、それを割り引いても智也はしっかりしすぎている。ただでさえ着替えや給食用の食器、水筒にタオルなどといった持ち物が多いのに、週末はさらに上履きや寝具が増える。そして週明けにはそれらをすべてまた持っていかなければならず、全部入れたつもりでもなにかが足りないことが多かった。
 そんなとき、智也が『お母さん、お昼寝布団のシーツが入ってないよ』とか『お食事セットのフォークが足りないよ』とか言ってくれる。智也に言われなければ、週明けは忘れ物多発になっているに違いない。
 同年齢の子を持つお母さんに聞いてみても、親の代わりに忘れ物チェックをしている子はいなかった。あまりにも美和に失敗が多くて、智也がしっかりするしかなかった――つまり美和の責任だ、と自分では思っていた。
 だが、美和の話を聞いた店主は首を傾げて言った。

「うーん……それってやっぱり個性のような気もするなあ……。忘れ物をして困るのは息子さん自身だろうし」
「だからこそ、なんですよ。私の忘れ物は今に始まったことじゃありません。息子が赤ん坊のころから、あれこれやらかしては先生方にご迷惑をおかけしてばかり……」
「え、子どものころから忘れ物が多かったの?」
「いいえ……学生時代は忘れ物なんてほとんどしませんでした。ただ今はあまりにも忙しくて手が回りません。やっぱりワンオペは大変で……」
「なるほど……」

 美和が口にした『ワンオペ』という言葉の意味を、店主は瞬時に察したらしい。それに触れることなく、美和の前に置いてあったグラスに水を足した。

「じゃあ息子くんはますます頑張っちゃうよね。赤ちゃんのころならまだしも、四歳、五歳になったら忘れ物をしたことぐらいわかるし、お母さんが謝るのも見たくない。自分が気をつければ済む、って思っちゃったとか」
「そうだと思います。家にいても、けっこうお手伝いをしてくれます。保育園でも自分から小さいお子さんたちのお世話をしてるみたいで、先生からもよく褒められるんです」
「おー頼もしい! それなら病院でもお利口さんなんじゃない?」
「それがうちの子、病院が大の苦手で……」

 智也の入院は、夜中の咳から始まった。
 明け方近くになるとコンコン……という乾いた咳が始まる。秋から冬に変わるころ、急に寒くなって保育園でも風邪で何人もお休みしていたから、智也もそうだとばかり思っていた。発熱したら保育園には預けられないし、病院にも連れていかなければならない。ちょうど美和は締め切りが重なって動けない時期で、今はちょっと勘弁してほしいと思っていた矢先、保育園から連絡が来た。
 智也が救急車で運ばれたというのだ。咳がひどくなってきたからお迎えに来てもらおうと思っていたら、どんどん顔色が悪くなってきた。智也の担任はまだ若く、不安になって経験豊富な先生を呼んだところ、これは一刻を争う事態だとなって救急車が呼ばれたそうだ。

「もしかして、ぜんそく?」
「そうなんです。病院では少し前から咳が続いていたはずだって言われました。ただの風邪だとばかり思ってたのに……」

 そのまま入院になって今に至る。
 そして智也はいわば『赤ちゃん返り』状態、あの聞き分けのいいしっかり者はどこに行ったの? と訊ねたくなるほど……おそらくそれほど発作は苦しく、入院に対する不安も大きかったのだろう。

「風邪とぜんそくがどう違うかなんてわからないよね。初めてなんだし」
「私が不勉強すぎたんですよね。ぜんそくなんて疑いもしませんでした」
「不幸中の幸いは五歳だったってことかな……。このあたりの地域なら六歳までは医療助成とかあるんでしょ?」
「よくご存じですね」
「夜間外来入り口が近いし、コンビニの真ん前ってこともあって病院関係の人がけっこう来てくれるの」

 夜勤明けやこれから勤務に就く医療関係者が立ち寄ってくれる。大抵みんなひとりでやってくるから、いろいろな話をしてくれるのだと店主は言う。そして、慌てたように付け加えた。

「もちろん、患者さんの個人情報に関することなんて言わないよ。私が医療制度とか行政のことを全然知らないから、呆れて教えてくれるだけ。でも、長引くと付き添うほうも大変だよね」
「そうなんです。最初は入院して動揺してるだけで、すぐに聞き分けのいいあの子に戻ってくれると思っていたんですけど、全然……」
「入院して治療が続いているんじゃ、そう簡単にはいかないよ。活発な男の子なら一日中ベッドにいろって言われるだけでも苦痛だよね。ましてや初めての入院でしょ?」
「とにかく帰りたがって大変でした。『でした』っていうより現在進行形ですね。それに、ちょっとでも私の姿が見えないと泣いたり喚いたり……」
「じゃあ食事もままならないね」
「ええ……交替してくれる人がいる方がうらやましいです。せめて近くに親でもいれば……」

 店主がわずかに目を細めた。実家が遠いことが伝わり、美和が言った『ワンオペ』により現実味が増したのだろう。

「大変そう……あ、でも治療は順調なんだよね?」
「それが……先生方が思うよりうまくいってないみたいで。明日、入院を延ばすかどうかの判断をするそうです。一週間だって大変なのに」

 店主の眼差しがさらに痛ましそうになる。けれど、しばらく宙を見つめていたかと思った次の瞬間、彼女はぱっと笑顔を咲かせた。

「大丈夫、最初の予定どおりに家に帰れるよ」
「本当に?」
「きっと。だって明日は大安だもの」
「大安……?」

 大安はすべての人に平等にやってくる。同じ日であっても、運のいいことが起こる人もいればその逆だってあるだろう。無責任に言い切らないでよ、と腹が立ちかけた。
 けれど、さっきまでの彼女の発言を考えれば、今の流れは当然だ。見えなくても希望はある。だから大丈夫。たとえそうではなかったとしても、結果が出るまでは思いわずらうよりも大丈夫だと信じているほうがいい――店主はきっとそう言いたいに違いない。
 この店主は、人生をとても楽しんでいるように見える。こんなに小さな店で看板だってあんなに目立たないのに立ちゆくと思っているところからして、かなり楽観的な性格なのだろう。あらゆることを前向きにとらえていれば、こんなふうになれるのかもしれない。だったら、今夜だけでもいい結果が出ると信じてみようか……
 そう思いつつスープ皿に目を落とす。店主とやり取りしている間にも食事は進み、スープ皿はすっかり空になっている。お腹はほどよく満ちて、身体も温まった。気持ちもほんの少しだけ前向きになった。もうすぐ日付が変わりそうだし、ここらが潮時だろう。

「ごちそうさまでした」

 そういえば値段も確かめずに頼んでしまった。支払いはいくらになるのだろう、と思いながら財布を取り出す。
 驚いたことに、店主が告げたのはカフェチェーン店のコーヒーにいくつかトッピングを加えたぐらいの金額だった。
 さすがに安すぎる。なにかの間違いでは、と訊ねると、彼女は肩をすくめて言った。

「いいの。それ、本当は売るつもりじゃなかったから」
「どういうことですか?」
「もともとうちのメニューは和食セットと洋食セットの二種類だけ。汁物をつけることはあるけど、ここまでボリュームたっぷりのスープは出さない。これは私のまかないよ」
「賄い!? それなのにどうして……」
「このスープが、今のあなたにぴったりだと思ったから。口に合わなかった?」
「すごく美味しかったです。量もちょうどよかったし」
「ならよかった。じゃあこれおつりね」

 数枚の硬貨を渡し、店主は入り口に向かった。向かうといってもほんの二歩で辿り着き、木製のドアに手をかける。ただ、そのまま開けるのかと思いきや、彼女はいきなり声を上げた。

「あ、そうだ!」

 そこできびすを返し、店主はカウンターの中に入っていく。作り付けの食器棚の引き出しをごそごそやったあと戻ってきた彼女の手には、黒っぽい小袋があった。ちょうどインスタントラーメンに添えられている薬味ぐらいの大きさだ。

「これ、どうぞ」
「なんでしょう?」
「黒七味」
「七味って赤いとばかり思ってました。黒いのもあるんですね……」
「珍しいでしょ? まぜるときによく揉むので穏やかな辛さだし、青海苔あおのりが入ってて風味も抜群。お味噌汁に入れるととっても美味しいの。よかったら使ってみて。外、ますます冷えてきたみたいだから気をつけて」
「ありがとうございます」
「それからこっちは息子さんに」

 そう言いながら店主が差し出したのは手のひらにのるぐらいの大きさのパッケージで、美和にも見覚えがあるものだった。

「トレーディングカード……ですか?」
「そう。息子さん、たぶん好きなんじゃないかなって」
「大好きです。お誕生日にスターターセットをプレゼントしたんですけど、あれはトランプみたいに一セットあればいいってものじゃないらしくて……」
「なんだってね。次々新しいシリーズが出てくるみたい。追っかけ出すときりがないって聞いたわ」

 子どもばかりではなく大人も熱中しているトレーディングカードゲーム用のカードパックは、一袋三百円にも満たない金額で買える。だが、その三百円をおもちゃにかける余裕がない。智也も美和のふところ事情が豊かではないことを察しているらしく、誕生日プレゼントをもらったあと、それ以上にねだることはなかった。ただ、ときどきスーパーやコンビニで売られているのをじっと見ている。
 欲しいとも言えずに我慢している息子を見るたび、切なさと不甲斐なさが募っていたのだ。
 店主は、美和の気持ちを察したようにカードパックをエコバッグの中に落とした。

「じゃあ、これ息子さんにあげて」
「いいんですか?」
「いいの。だってそれ、景品でもらったやつだもの。私はトレカの趣味はないし、パックひとつだけあったって仕方ないし。欲しがってる子にあげるのが一番」
「ありがとうございます!」
「そんなに喜んでくれて、私も嬉しいわ。気が向いたらまた寄ってね」
「あの……こちら、何時までやってるんですか?」
「朝まで」
「え!?」
「夜の十時から朝の六時までがうちの営業時間なの」
「そうなんですか……じゃあもっと遅い時間でも大丈夫なんですね」
「もちろん。晩ご飯を食べ損ねた人のため、って言ったでしょう? 次はまかないじゃなくてちゃんとしたご飯を食べに来てくれると嬉しいわ」

 店主の言葉に軽い会釈えしゃくを返し、美和は店を出た。
 カラン……というベルの音に送られ、狭い階段を下りる。外に出てもそれほど寒さを感じないのは、お腹の中からしっかり温まったからに違いない。
 次の機会があるかどうかわからない。ただ、またここに来て、洋食でも和食でもいいからセットを食べたいという気持ちになったことだけは確かだった。


 それから三日後の夜、美和はまた狭い階段を上がっていた。
 今日はコンビニには行かず、最初から『ポラリス』を目指してやってきた。時刻は午後十時になるかならないか、前よりも一時間以上早い時刻である。
 さらに前とは違って手にはなにも持っていない。ポシェット型のスマホケースを斜めがけにし、財布をポケットに突っ込んでやってきた。冬は寒さが辛いけれど、コートが着られて便利だ。コートの大きなポケットは、レシートで膨らみがちな美和の財布をすっぽり収めてくれる。ひとりでなにもかも抱えなければならない美和にとって、たとえ短くても手ぶらで歩ける時間は貴重だった。
 カランコロン……というベルに迎えられ、美和は小さなカフェのドアをくぐる。
 三日前とまったく同じ強さ、同じ調子の店主の声が聞こえてきた。

「いらっしゃいませ! カウンターへどうぞ!」

 前に来たときはエコバッグを持っていたが、今回は手ぶらだ。足下のカゴを使うこともなく、前と同じ席に腰掛ける。
 水のグラスを出しながら、店主が話しかけてきた。

「息子くん、今日はすんなり寝てくれたみたいね?」
「あ……」
「そんなにびっくりした顔しないで。三日前に来てくれたばかりなんだから、覚えてるわよ」
「そうですか……。実は、お訊ねしたいことが……あ、でも、注文を先にしたほうがいいですね」
「そのほうが作りながら話せて、息子くんのところに早く戻れるかな」
「じゃあ……」

 そこで美和はちょっと考える。前に来たときに、この店の食事メニューは和食セットと洋食セットの二種類しかないと聞いた。一般的なカフェであれば、どこかにセットの内容が書いてありそうなものだが、建物の入り口の看板はもちろん、壁にも貼り出されていないし、メニューも置かれていない。
 なにを基準に『和』と『洋』を選べばいいのかわからず戸惑っていると、店主がきっぱり言った。

「今日は洋食セットがおすすめ。いろいろ盛り合わせてあってお皿の上がすごく賑やかだから、お祝い気分にぴったり」
「お祝い気分って……」
「退院が決まったんだよね?」
「ええ。前回ここに来た翌日の診察では、入院を延ばすかどうか微妙なところ、もうちょっと様子を見ましょうってことになったんですけど、そのあとぐんぐんよくなって、明日の午後、退院できることになりました」
「やっぱり。前に来たときよりも表情が明るいし、階段を上がってくる足音もすごく軽く聞こえたもの」

 美和は思わずドアに目をやった。
 古びているが厚みは相当あるし、造りもしっかりしているように見える。てっきり一枚板かと思っていたが、階段を上がってくる足音が店主に聞こえるとしたら中は空洞かもしれない。それなのにこんなに重々しく見えるなんて、うまく作ったものだ。
 ところが、感心している美和に、店主はクスクス笑いながら答えた。

「私、耳には自信があるの。それに、この建物って、昼間は出入りが多いんだけど、夜になると階段を上がってくるのはうちに来るお客さんだけ。だから今みたいにお客さんが誰もいないときは、ついつい耳を澄ませちゃう。誰か上がってこないかなーって」

 お馴染みさんなら、足音だけでわかるぐらいだと店主は笑う。耳がいいとか悪いとかのレベルじゃない、とは思ったが、耳の聞こえ具合よりも訊きたいことがある。店主はすでに『洋食セット』の支度を始めているし、さっさと話を進めるべきだろう。
 ちょうどそのタイミングで、店主が訊ねてきた。

「黒七味、食べてみてくれた?」
「もちろん。とっても美味しかったです」

 春雨はるさめスープを飲んで帰った翌日、智也の朝食を済ませたあと、美和はロッカーに入れっぱなしにしていたエコバッグを取り出した。いつもなら朝ご飯はパンかおにぎりを買って食べるのだが、昨夜遅かったせいか寝過ごしてしまった。もうすぐ診察なので売店に行く暇がない、せめて味噌汁だけでもと思ったのだ。
 ちなみにトレーディングカードはまだ智也に渡していなかった。診察のあとにしよう、もしも退院が延びても少しはなぐさめになるだろう、と考えていたからだ。うっかり一緒に出てきて見つからないように、カップ味噌汁だけをそっと取り出すと、上に黒七味の袋がのっていた。
 味噌汁にもよく合うと言っていたな、と思い出しつつ、小袋の口を切って味噌汁のカップに入れる。黒七味がどんな味なのか知りたいし、袋は小さいからどこかに紛れてしまいかねない。忘れないうちに食べてしまったほうがいいと思ったのだ。
 初めて食べた黒七味はすっかり美和を魅了した。美和だけではなく、智也をも……
 カップ味噌汁を食べる姿なんて何度も見ているだろうに、その日に限って智也が訊ねた。

「お母さん、それなあに?」
「なにって……お味噌汁よ?」
「じゃなくて、なにか入れたでしょ?」
「ああこれ、七味よ。辛いやつ」
「七味ってそんな色だっけ? 赤いんじゃなかった?」
「黒いのもあるんだって。珍しいよね」
「ふーん……美味しい?」
「うん。風味がいいし、なんか赤いのより優しい感じ」
「僕も食べてみたい」
「え……大丈夫?」


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

居酒屋ぼったくり

大衆娯楽 / 連載中 24h.ポイント:596pt お気に入り:2,747

家賃一万円、庭付き、駐車場付き、付喪神付き?!

ライト文芸 / 連載中 24h.ポイント:7,895pt お気に入り:953

イエス・キリスト

現代文学 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

きよのお江戸料理日記

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:830pt お気に入り:338

死ぬまでにやりたいこと~浮気夫とすれ違う愛~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:50,921pt お気に入り:6,932

かすみcassette【完】

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

女子中学生ロリコン

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。