奴隷になったお姫様は、バイオリンを弾くだけで全てを取り戻す〜囚われの王女アストリアと追憶の旋律〜

けんゆう

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第八話 少しずつ、出来ることを

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 夜も更け、ほの暗い部屋の片隅で、アストリアは疲れ切った身体を休めていた。

 彼女の心は相変わらず、不安と孤独に満ちていたが、掃除や洗濯をこなす日々の中で、慣れないながらも、少しずつ出来ることは増えていった。だが、体力不足は相変わらずだった。

 その夜、 娼館の主が数日ぶりに店にやってきて、リサに言った。

「あの新入りに、そろそろ客を取らせようぜ」
「まだ無理だよ」

 リサは止めたが、娼館の主は聞かなかった。
 
「いいから、次の客を当てがうんだ」

 リサは溜め息をつきながら、なるべく上品そうな待合中の客を見つくろうと、アストリアを呼んだ。詳しい説明は何もせずに、アストリアを送り出す。
 
「アスタ、三番の部屋にいるお客様と、少し話をしてきなさい」
「はい……」 

 アストリアは、うつろな目で命令に従った。

 数分ほどで、三番の部屋の客が飛び出してきた。

「この子、すごい熱じゃないか! この店は客に病気をうつすつもりか?」

 そう言って、金も払わずに怒り心頭で出て行った。部屋の中では、アストリアが高熱を出して倒れていた。

 こんな調子で週に一度は熱を出して寝込むので、もう少し体力がつくまでは接客に出せないと娼館の主も考えを改めた。かくして、アストリアの脆い身体は辛うじて守られることになった。

 そんなある日、先輩娼婦のルシアが、アストリアの部屋に入ってきた。彼女は艶やかな黒髪をゆるくまとめ、経験を感じさせる落ち着いた態度で、アストリアに声をかけた。

「ねえ、新入りちゃん。今日も頑張ってたみたいね。」
 
 ルシアは微笑みながら近づいてきた。

「え?あっ、はい……」

 アストリアは驚きながらも、小さく返事をした。ルシアは隣に腰を下ろし、親しげに声をかける。

「私の名前はルシア。あんた、ここに来たばっかりでしょ?」

アストリアは首を縦に振りながら答えた。

「はい……私は、アス……アスタって言います。」

「アスタね。いい名前じゃない」

 ルシアは微笑んだ。

「どう?ここの生活。慣れた?」

「正直、まだよくわからなくて……」
 
 アストリアは俯いて、小さな声で答えた。

「そりゃそうよね」

 ルシアは軽く笑いながら肩をすくめた。

「最初はみんなそうよ。私だって、ここに来たときは怖くて毎日泣いてたんだから」

 アストリアは驚いてルシアを見上げた。

「ルシアさんも、そうだったんですか?」

「そうよ。昔のことだけどね……」

 ルシアは遠い目をした。

「それでも、時間が経つにつれて少しずつ慣れていったの。慣れるしかないからね。あんたも焦らなくていいよ。」

「でも……」

 アストリアは何か言いたげに口を開いたが、言葉が出てこなかった。

 ルシアは優しい声でアストリアを促した。

「どうしたの? 何か不安なことがあるなら、話してみなさいよ。誰かに話を聞いてもらうだけでも、少しは楽になるものよ」

「私、自分が誰なのか、よくわからなくて……」

 アストリアは小さな声で呟いた。

「ここに来る前のことが、どうしても思い出せないんです」

「そうなんだ」

 ルシアはしばらく考え込むようにしてから言った。

「辛いね。でも、それならなおさら、今の自分を大事にするしかないでしょ」
「今の、自分……」

 アストリアはその言葉をぼんやりと繰り返した。

「そうよ」

 ルシアは彼女の肩にそっと手を置いた。

「過去が思い出せなくたって、あんたは今、ここにいるじゃない。そして、これからどう生きるかは、あんた自身が決めるのよ」

 アストリアは目を見開いてルシアを見た。

「でも、私は何もできないですから」

「みんな、そんなふうに感じるものよ」

 ルシアは微笑んだ。

「でも少しずつ、出来ることが増えてくでしょ。掃除でも、誰かの手伝いでもそう。ちょっとしたことから始めればいい」

アストリアはその言葉に少し考え込んだ後、小さく頷いた。

「ありがとうございます、ルシアさん」

「どういたしまして」

 ルシアは立ち上がり、軽く手を振った。

「困ったことがあったら、いつでも私に聞きなさいよ」
「はい。本当に、ありがとうございます」

 アストリアは深く頭を下げた。

 数日後、アストリアが黙々と掃除をしていると、ルシアがまた声をかけてきた。

「アスタ。今日も頑張ってるじゃない」

アストリアは手を止め、少し照れくさそうに笑った。

「ルシアさんが言われた通り、出来ることから始めなきゃって思って……」

「いい心がけね」

 ルシアは親しげに微笑みながら、自分も一緒に掃除を始めた。

「そうやって、少しずつでいいのよ」

「でも私、本当にこれでいいんでしょうか……」

 アストリアは自分の手元を見つめながらぽつりと言った。

「ここにいることが良いことなのかどうか、わからなくて……」

ルシアは立ち止まり、アストリアの目をじっと見つめた。

「ねえ、アスタ。良いことかどうかなんて、誰だってすぐにはわからないものよ。あんたは今ここで、自分にできることをしてる。それだけで十分じゃない?」
「そうでしょうか」
 
 アストリアは首をかしげた。

 「そうよ」

 ルシアは断言した。

「無理して、今すぐに全部を解決しようとしなくていい。ただ、少しずつ前に進むの。それがあんたにとって一番大事なことなのよ」

 アストリアはその言葉にしばらく考え込み、やがて小さく微笑んだ。

「少しだけ、わかったような気がします。ありがとうございます、ルシアさん」

「いいのよ。私も同じだから」

 ルシアは軽く肩をすくめて笑った。

「何かあったら、また声をかけてね」
 
 その夜、アストリアはベッドに入る時、そっと窓を見上げた。外の夜空には、星が瞬いていた。

 彼女はまだ、自分が誰なのか、なぜここにいるのかは思い出せなかった。しかしルシアの言葉が、彼女の心に小さな光を灯していた。

「少しずつ、出来ることを」

彼女は自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
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