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01.訳ありのオメガ
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人通りの少ない商店街の一角に、一際元気な声が響く。
「店長! 水槽の水洗い終わった!」
南北に長い十字状の商店街、その南端に程近い店。
連なるテナント同様、良く言えば歴史を感じさせる建物の入り口に、ピンク色のポップな字体で「ペットショップ タナカ」と看板が掲げられている。
汚れた水槽を軽々と持ち上げて店から出てきた青年は地面にしゃがみこみ、ホースから出る水とタワシでガラス面を磨き上げた。
藻と水汚れで濁っていた水槽は、瞬く間に本来の透明感を取り戻し清潔になっていく。
最後の一つを洗い終え、大声を上げた青年の後ろでドアが開いた。
裏口から首だけ出した、気難しそうな老年の男が青年に怒鳴り返す。
「大声出さんでも聞こえるよタツ! こっちのも頼む」
「う~い」
通行の邪魔にならない場所に洗い上げた水槽を片付け、青年は立ち上がって腰を反らせうんと伸びをした。
つんつんと四方八方に突き出している髪はくすんだ金色。
染めてから日が経って、根本から地毛の黒色が覗く。
袖から覗く腕は日に焼け、細身ではあるものの筋肉がついている。
ペットショップのロゴが印刷された黒いエプロンの下には、ダボついた迷彩柄のカーゴパンツとグレーの半袖Tシャツ。エプロンで覆われていない背面には、トライバル柄と謎の英文がプリントされている。
履き古したスニーカーのつま先を地面に擦りながら店内へ戻る。
いつも気怠げな青年はよく働くが、その派手な見た目と素行から「不良」やら「ヤンキー」やら呼ばれることが多かった。
老人と、真面目で大人しい人間ばかりの商店街界隈で青年は浮いていたが、本人はそんな評判を気にする素振りもない。大あくびをしながら、怠そうに襟元を掻きむしる。
彼の異質さは素行だけではない。
青年の首には、およそ雰囲気に似つかわしくない、白く硬質なベルトが巻かれていた。
よく引っ掻くせいで表面は傷だらけだが、壊れたり外れたりはしそうにない。指先に伝わる忌々しい感触に、自然と舌打ちがこぼれた。
この世界には男と女という性別以外に、第二性と呼ばれる分別が存在する。
第二性はアルファ、ベータ、オメガの3つ。
アルファは生まれながらに優秀で、人の上に立つことを宿命付けられているという。上流階級に生まれることが多く、企業のトップや有名人はアルファで大半が占められる。その代わりのように、生殖しにくく出生率が低い。
ベータは労働者から中産階級の大半を占める、最も一般的な性だ。
そしてオメガは、子を孕み産むことに特化した性である。
男女ともに子を産む器官があり、アルファの出産率が安定して高い。首にある腺からフェロモンを放つことでアルファを誘う性質から、長く蔑まれ迫害されてきた。
近代頃から法整備によって保護されるようになってもオメガは数が増えず、また人々の意識の根底にある差別感情も消えてはいない。
ここ日本ではベータが人口の7割程度を占め、残り2割がアルファ、オメガは1割に満たない。
オメガであるというだけで生きにくい社会。
その中で生まれた青年───達真もまた、オメガだった。
「タツ、これ……あーあー。また引っ掻いたのか」
「うるせ」
「うるさく言われたくなけりゃ触るなよ。首輪、自分で外せないんだろ?」
「……」
店内に戻って早々、達真は引っかき傷を見咎められ、事務所に引きずり込まれた。
ぶすっとした顔で渋々パイプ椅子に座る。その前に老店主が陣取る。
店長は慣れた手付きで戸棚から絆創膏を取り出し、達真の首にそっと触れた。
以前は店主ですら、手を伸ばしただけで強く振り払われ睨みつけられたものだが、今では手当てくらいならさせてくれる。顔を背け、嫌そうに下唇を尖らせはするが。
年老いた手が首輪を軽く持ち上げ、日焼けの境目で赤く染まった引っかき傷にテープを貼り付ける。
ずっと付けているせいか、望まぬ装飾品だからか、達真はよくこうして首輪を爪で引っ掻いては傷を作っていた。ひどいときは血が出るほど抉ってしまい、シャツを血に染めながら店に来ることもある。
その度店長は悲鳴と怒鳴りを混ぜた奇妙な声を上げ、達真の手当てをしてやっていた。
「これでよし。引っ掻くなよ」
「……」
「返事は?」
「……ん」
首の絆創膏に触れた達真はすぐに腰を上げ、作業の続きをするために外へ出ていった。店長は座ったままそれを見送る。
無愛想で見た目にも難ありだが、首輪のこと以外では愛嬌もある、心根は素直な青年だ。
それがあれほどまでに拒否感を示すもの。
無機質な、自分では外せない首輪が表すのは、装着者が「誰かの」オメガであるということ。
そして達真は、もう長いことその「誰か」に首輪を外してもらえていない、ということでもあった。
さまざまなバイトを掛け持ちする達真にとって「ペットショップ タナカ」の仕事は金銭の対価という以上に、癒やしの時間でもある。
この店は哺乳類の生体販売を行っていない。犬やネコのフードや衛生用品、リードなどが売られている。
メイン業務は爬虫類および魚類の販売、そして併設されているトリミングルーム。
口うるさく心配性の店長は販売側を、店長の妻で十以上も若いという副店長がトリマーとしてこの店を回している。
他の従業員はアルバイトである達真一人だ。
小さなスペースに棚と品物を目一杯詰め込んだ店内を縫うように歩き、数歩先のトリミングルームを横目にする。
店舗に面した一面がガラス張りのそこでは、利発そうなスタンダードプードルがきりりとした面持ちでカットされていた。いつの間にか客が来ていたらしい。
(……デカくてかわいい)
トリミングのために店を訪れる犬猫を見るのが達真は好きだった。
ブラウンカラーのもふもふした毛を刈られている「お客」は、黒々とした大きな瞳をぱちぱち瞬かせるだけで、微動だにしない。見るからに躾の行き届いた利口そうな犬だ。
商店街の一角という立地柄、店の客は常連が多い。しかし達真の知る限りブラウンのプードルを連れてくる客はいない。新規だろうか。
平日昼ということで客は数えるほどしかこない。
水槽だらけの魚類販売スペースは特に閑古鳥が鳴いていて、モーター音と水音だけが満たす中で過ごすことも達真のお気に入りである。
今日は在庫の整理や商品の確認、パソコンを使った事務作業で終わりそうだ。
どうせ客が来てもほとんどは店長が対応するので、達真は無理に店頭に立つことはないし愛想も振りまかなかった。
なにより、隠す手立てのない無骨で異様な白い首輪を見られるたび、ぎょっとするベータ客たちにはうんざりさせられる。
気まずそうにするベータ相手に愛想笑いを浮かべることは達真にとって極めて苦痛な時間だった。
「……」
「あ、タッちゃんいた」
知らずのうちに手が止まってしまった達真に、横合いから声がかけられる。
今作業を終えたらしい副店長が事務所に顔だけ見せていた。
達真と目が合うと、人好きのする笑顔を向けてくる。
「悪いんだけど、今預かってる子の受け渡しお願いできないかな?」
「受け渡しって……さっきのプードルの客ッスか?」
「そうそう。すぐ来られると思うから、店で待っててくれればいいよ。次のお客さんもう来てて、立ち会いできそうになくてさ」
「……ッス。わかりました」
「ありがと~!」
笑みを深めた副店長は弾むように達真の前に立ち、引き渡しのための伝票を置いていった。
規定通り料金をもらい、処置の説明をして犬を引き渡すだけの仕事だ。これなら過剰な愛想は必要ないだろう。
いつも元気で明るく笑顔を絶やさない副店長は、若く少女のような外見であるが男のオメガだ。年上でベータである店長ともう十年以上連れ添っているという。
ベータとオメガの恋。
世間的には悲劇に終わるか、アルファとオメガの断ち切れない絆物語に巻き込まれ舞台装置として消える定めという描かれ方をするその関係性は、達真には眩しく理想的に映る。
すべての性別を乗り越え、愛情と思いやりで添い遂げる二人はとても幸せに見えた。
トリミングルームから出たプードルは店内を颯爽と横切り、店の前に陣取った。
達真は中で待とうと促したが、ちらとこちらを伺うだけですぐに目を逸らし真っ直ぐ道の先を見据える。
リードは達真の手に握られているが、走って逃げ出す素振りはない。ただ主の帰りを待ちわびる、珍しいほど落ち着いた忠犬の姿。
まるですぐに主人が迎えに来ることを分かっているかのようだ。
(これだけ好かれてる飼い主、嫌でも期待しちまうな)
ペットに信頼されている人間に悪いやつはいない。達真の自論だ。
これほどまでにプードルが慕う新規客は、さぞ犬好きで人柄も良いのだろう。
てこでも動かない構えのプードルを無理に移動させることはせず、達真も店の前の塀に凭れて周囲を見渡す。
カラフルなタイルを敷き詰めた商店街のメイン通りには、平日昼でもちらほらと人通りがある。
数年前までは典型的なシャッター商店街で、この「ペットショップ タナカ」もあわや閉店寸前というところまで行ったらしい。
しかし少し前に興った地元商店街ブームと呼べる波に若者を中心とした商店街運営組合が便乗し、テナントの誘致と客の引き込みが上手く行った結果が、活気のある今の商店街だという。
達真がこの店で働き始めたのは商店街興しが成功して軌道に乗った後だったので、侘びしかった頃の話は店長たちからの伝聞だ。
達真はバイトの身分のため運営組合には加わっていないが、近くの公園で催されるイベントや祭の手伝いには積極的に参加するようにしている。
首輪を見られるまでは、オメガだと気づかれないことも多い。力仕事を任されることは達真にとって喜びだった。
(世間ってのはもっとアルファだオメガだって、こだわってるもんだと思ってたがな)
傷んだ金髪を指先に巻きつけて引っ張る。
首輪のせいで客から不躾な視線を浴びることはあるが、それも想像していたよりは少なく控えめで隠されたものだった。
むしろ「以前」の方が、そういった含みのある目に晒される機会は多かったように思う。
アルバイトを掛け持ちしなくては苦しい生活ではあるが、なんのしがらみもなく、望んだ通りの希薄な人間関係に、理想的な夫夫が経営するあたたかみのある職場、なにより癒やしを与えてくれる動物たちとの触れ合い。
達真の望んだものはすべてここにあると言っても良い。
そしてその環境を壊しかねないものが、ゆっくりと通りを歩いて向かってくることに達真は直前まで気づいていなかった。
「こんにちは、うちの子を引き取りに……」
「……あ、あぁ」
リードを手に思案に耽っていた達真は、掛けられた柔らかい声にはっと顔を上げる。
昼の光を背にして立つのは、背の高いスーツの男だった。
細身だが設えの良さがひと目で分かるストライプのジャケットに、遊び心のあるブルーのシャツ。裾から覗く手は意外に大きい。つやつやと光る革靴はポップでチープな商店街のタイルから完全に浮いているが、男の醸し出す雰囲気がミスマッチを失笑するには厳かに感じられた。
思いがけずしっかりとした首筋と喉仏の上には、期待を裏切る優男風の美貌が乗っかっている。
よく見れば男だが、一瞬性別を忘れさせる美しさがある。細いが女性的ではない輪郭を飾るのは、達真の偽物など遠く及ばない本物の金糸。
同じ色のまつ毛が縁取る双眸は吸い込まれそうなほど澄んだアイスグレーで、瞬きする度に世界が止まりそうだと思った。
頭を駆け巡った数々の容姿への賛辞にはっとする。
(なに見惚れてんだ、こいつは客だぞ。しかも……)
本人に確かめなくとも達真には分かる。
彼はアルファだ。しかも相当に上質の、アルファをも従わせるアルファ。
引き剥がすように顔を背けると、足元を茶色の塊がぐるぐる回っているのに気づいた。
犬の喜びようから見て、このアルファが飼い主と見て間違いないだろう。
「……チッ」
嫌悪感を隠すことができず小さな舌打ちで散らし、達真は努めて冷静にエプロンのポケットから伝票を取り出した。
「えーと、一ツ橋様……デスカ」
「あ、はい」
「お手数ですが店に入ってもらえます? 会計しちゃうんで」
「えぇ……」
男がおずおずと差し出してきた受け取り用の伝票を半ば引ったくるように受け取って、店内へ促す。
目を逸らしても、背を向けても、焼け付くような視線が達真を突き刺すのが感じられた。全身を彷徨ったそれが最後に集中したのは当然のように達真の首輪だ。
(くそ、動揺するな……アルファなんてなんでもねぇ)
首を焼き切られそうな圧力に首輪へ手が伸びそうになり、意志の力でなんとか押さえつける。
これだからアルファという生き物は───大嫌いだ。
「店長! 水槽の水洗い終わった!」
南北に長い十字状の商店街、その南端に程近い店。
連なるテナント同様、良く言えば歴史を感じさせる建物の入り口に、ピンク色のポップな字体で「ペットショップ タナカ」と看板が掲げられている。
汚れた水槽を軽々と持ち上げて店から出てきた青年は地面にしゃがみこみ、ホースから出る水とタワシでガラス面を磨き上げた。
藻と水汚れで濁っていた水槽は、瞬く間に本来の透明感を取り戻し清潔になっていく。
最後の一つを洗い終え、大声を上げた青年の後ろでドアが開いた。
裏口から首だけ出した、気難しそうな老年の男が青年に怒鳴り返す。
「大声出さんでも聞こえるよタツ! こっちのも頼む」
「う~い」
通行の邪魔にならない場所に洗い上げた水槽を片付け、青年は立ち上がって腰を反らせうんと伸びをした。
つんつんと四方八方に突き出している髪はくすんだ金色。
染めてから日が経って、根本から地毛の黒色が覗く。
袖から覗く腕は日に焼け、細身ではあるものの筋肉がついている。
ペットショップのロゴが印刷された黒いエプロンの下には、ダボついた迷彩柄のカーゴパンツとグレーの半袖Tシャツ。エプロンで覆われていない背面には、トライバル柄と謎の英文がプリントされている。
履き古したスニーカーのつま先を地面に擦りながら店内へ戻る。
いつも気怠げな青年はよく働くが、その派手な見た目と素行から「不良」やら「ヤンキー」やら呼ばれることが多かった。
老人と、真面目で大人しい人間ばかりの商店街界隈で青年は浮いていたが、本人はそんな評判を気にする素振りもない。大あくびをしながら、怠そうに襟元を掻きむしる。
彼の異質さは素行だけではない。
青年の首には、およそ雰囲気に似つかわしくない、白く硬質なベルトが巻かれていた。
よく引っ掻くせいで表面は傷だらけだが、壊れたり外れたりはしそうにない。指先に伝わる忌々しい感触に、自然と舌打ちがこぼれた。
この世界には男と女という性別以外に、第二性と呼ばれる分別が存在する。
第二性はアルファ、ベータ、オメガの3つ。
アルファは生まれながらに優秀で、人の上に立つことを宿命付けられているという。上流階級に生まれることが多く、企業のトップや有名人はアルファで大半が占められる。その代わりのように、生殖しにくく出生率が低い。
ベータは労働者から中産階級の大半を占める、最も一般的な性だ。
そしてオメガは、子を孕み産むことに特化した性である。
男女ともに子を産む器官があり、アルファの出産率が安定して高い。首にある腺からフェロモンを放つことでアルファを誘う性質から、長く蔑まれ迫害されてきた。
近代頃から法整備によって保護されるようになってもオメガは数が増えず、また人々の意識の根底にある差別感情も消えてはいない。
ここ日本ではベータが人口の7割程度を占め、残り2割がアルファ、オメガは1割に満たない。
オメガであるというだけで生きにくい社会。
その中で生まれた青年───達真もまた、オメガだった。
「タツ、これ……あーあー。また引っ掻いたのか」
「うるせ」
「うるさく言われたくなけりゃ触るなよ。首輪、自分で外せないんだろ?」
「……」
店内に戻って早々、達真は引っかき傷を見咎められ、事務所に引きずり込まれた。
ぶすっとした顔で渋々パイプ椅子に座る。その前に老店主が陣取る。
店長は慣れた手付きで戸棚から絆創膏を取り出し、達真の首にそっと触れた。
以前は店主ですら、手を伸ばしただけで強く振り払われ睨みつけられたものだが、今では手当てくらいならさせてくれる。顔を背け、嫌そうに下唇を尖らせはするが。
年老いた手が首輪を軽く持ち上げ、日焼けの境目で赤く染まった引っかき傷にテープを貼り付ける。
ずっと付けているせいか、望まぬ装飾品だからか、達真はよくこうして首輪を爪で引っ掻いては傷を作っていた。ひどいときは血が出るほど抉ってしまい、シャツを血に染めながら店に来ることもある。
その度店長は悲鳴と怒鳴りを混ぜた奇妙な声を上げ、達真の手当てをしてやっていた。
「これでよし。引っ掻くなよ」
「……」
「返事は?」
「……ん」
首の絆創膏に触れた達真はすぐに腰を上げ、作業の続きをするために外へ出ていった。店長は座ったままそれを見送る。
無愛想で見た目にも難ありだが、首輪のこと以外では愛嬌もある、心根は素直な青年だ。
それがあれほどまでに拒否感を示すもの。
無機質な、自分では外せない首輪が表すのは、装着者が「誰かの」オメガであるということ。
そして達真は、もう長いことその「誰か」に首輪を外してもらえていない、ということでもあった。
さまざまなバイトを掛け持ちする達真にとって「ペットショップ タナカ」の仕事は金銭の対価という以上に、癒やしの時間でもある。
この店は哺乳類の生体販売を行っていない。犬やネコのフードや衛生用品、リードなどが売られている。
メイン業務は爬虫類および魚類の販売、そして併設されているトリミングルーム。
口うるさく心配性の店長は販売側を、店長の妻で十以上も若いという副店長がトリマーとしてこの店を回している。
他の従業員はアルバイトである達真一人だ。
小さなスペースに棚と品物を目一杯詰め込んだ店内を縫うように歩き、数歩先のトリミングルームを横目にする。
店舗に面した一面がガラス張りのそこでは、利発そうなスタンダードプードルがきりりとした面持ちでカットされていた。いつの間にか客が来ていたらしい。
(……デカくてかわいい)
トリミングのために店を訪れる犬猫を見るのが達真は好きだった。
ブラウンカラーのもふもふした毛を刈られている「お客」は、黒々とした大きな瞳をぱちぱち瞬かせるだけで、微動だにしない。見るからに躾の行き届いた利口そうな犬だ。
商店街の一角という立地柄、店の客は常連が多い。しかし達真の知る限りブラウンのプードルを連れてくる客はいない。新規だろうか。
平日昼ということで客は数えるほどしかこない。
水槽だらけの魚類販売スペースは特に閑古鳥が鳴いていて、モーター音と水音だけが満たす中で過ごすことも達真のお気に入りである。
今日は在庫の整理や商品の確認、パソコンを使った事務作業で終わりそうだ。
どうせ客が来てもほとんどは店長が対応するので、達真は無理に店頭に立つことはないし愛想も振りまかなかった。
なにより、隠す手立てのない無骨で異様な白い首輪を見られるたび、ぎょっとするベータ客たちにはうんざりさせられる。
気まずそうにするベータ相手に愛想笑いを浮かべることは達真にとって極めて苦痛な時間だった。
「……」
「あ、タッちゃんいた」
知らずのうちに手が止まってしまった達真に、横合いから声がかけられる。
今作業を終えたらしい副店長が事務所に顔だけ見せていた。
達真と目が合うと、人好きのする笑顔を向けてくる。
「悪いんだけど、今預かってる子の受け渡しお願いできないかな?」
「受け渡しって……さっきのプードルの客ッスか?」
「そうそう。すぐ来られると思うから、店で待っててくれればいいよ。次のお客さんもう来てて、立ち会いできそうになくてさ」
「……ッス。わかりました」
「ありがと~!」
笑みを深めた副店長は弾むように達真の前に立ち、引き渡しのための伝票を置いていった。
規定通り料金をもらい、処置の説明をして犬を引き渡すだけの仕事だ。これなら過剰な愛想は必要ないだろう。
いつも元気で明るく笑顔を絶やさない副店長は、若く少女のような外見であるが男のオメガだ。年上でベータである店長ともう十年以上連れ添っているという。
ベータとオメガの恋。
世間的には悲劇に終わるか、アルファとオメガの断ち切れない絆物語に巻き込まれ舞台装置として消える定めという描かれ方をするその関係性は、達真には眩しく理想的に映る。
すべての性別を乗り越え、愛情と思いやりで添い遂げる二人はとても幸せに見えた。
トリミングルームから出たプードルは店内を颯爽と横切り、店の前に陣取った。
達真は中で待とうと促したが、ちらとこちらを伺うだけですぐに目を逸らし真っ直ぐ道の先を見据える。
リードは達真の手に握られているが、走って逃げ出す素振りはない。ただ主の帰りを待ちわびる、珍しいほど落ち着いた忠犬の姿。
まるですぐに主人が迎えに来ることを分かっているかのようだ。
(これだけ好かれてる飼い主、嫌でも期待しちまうな)
ペットに信頼されている人間に悪いやつはいない。達真の自論だ。
これほどまでにプードルが慕う新規客は、さぞ犬好きで人柄も良いのだろう。
てこでも動かない構えのプードルを無理に移動させることはせず、達真も店の前の塀に凭れて周囲を見渡す。
カラフルなタイルを敷き詰めた商店街のメイン通りには、平日昼でもちらほらと人通りがある。
数年前までは典型的なシャッター商店街で、この「ペットショップ タナカ」もあわや閉店寸前というところまで行ったらしい。
しかし少し前に興った地元商店街ブームと呼べる波に若者を中心とした商店街運営組合が便乗し、テナントの誘致と客の引き込みが上手く行った結果が、活気のある今の商店街だという。
達真がこの店で働き始めたのは商店街興しが成功して軌道に乗った後だったので、侘びしかった頃の話は店長たちからの伝聞だ。
達真はバイトの身分のため運営組合には加わっていないが、近くの公園で催されるイベントや祭の手伝いには積極的に参加するようにしている。
首輪を見られるまでは、オメガだと気づかれないことも多い。力仕事を任されることは達真にとって喜びだった。
(世間ってのはもっとアルファだオメガだって、こだわってるもんだと思ってたがな)
傷んだ金髪を指先に巻きつけて引っ張る。
首輪のせいで客から不躾な視線を浴びることはあるが、それも想像していたよりは少なく控えめで隠されたものだった。
むしろ「以前」の方が、そういった含みのある目に晒される機会は多かったように思う。
アルバイトを掛け持ちしなくては苦しい生活ではあるが、なんのしがらみもなく、望んだ通りの希薄な人間関係に、理想的な夫夫が経営するあたたかみのある職場、なにより癒やしを与えてくれる動物たちとの触れ合い。
達真の望んだものはすべてここにあると言っても良い。
そしてその環境を壊しかねないものが、ゆっくりと通りを歩いて向かってくることに達真は直前まで気づいていなかった。
「こんにちは、うちの子を引き取りに……」
「……あ、あぁ」
リードを手に思案に耽っていた達真は、掛けられた柔らかい声にはっと顔を上げる。
昼の光を背にして立つのは、背の高いスーツの男だった。
細身だが設えの良さがひと目で分かるストライプのジャケットに、遊び心のあるブルーのシャツ。裾から覗く手は意外に大きい。つやつやと光る革靴はポップでチープな商店街のタイルから完全に浮いているが、男の醸し出す雰囲気がミスマッチを失笑するには厳かに感じられた。
思いがけずしっかりとした首筋と喉仏の上には、期待を裏切る優男風の美貌が乗っかっている。
よく見れば男だが、一瞬性別を忘れさせる美しさがある。細いが女性的ではない輪郭を飾るのは、達真の偽物など遠く及ばない本物の金糸。
同じ色のまつ毛が縁取る双眸は吸い込まれそうなほど澄んだアイスグレーで、瞬きする度に世界が止まりそうだと思った。
頭を駆け巡った数々の容姿への賛辞にはっとする。
(なに見惚れてんだ、こいつは客だぞ。しかも……)
本人に確かめなくとも達真には分かる。
彼はアルファだ。しかも相当に上質の、アルファをも従わせるアルファ。
引き剥がすように顔を背けると、足元を茶色の塊がぐるぐる回っているのに気づいた。
犬の喜びようから見て、このアルファが飼い主と見て間違いないだろう。
「……チッ」
嫌悪感を隠すことができず小さな舌打ちで散らし、達真は努めて冷静にエプロンのポケットから伝票を取り出した。
「えーと、一ツ橋様……デスカ」
「あ、はい」
「お手数ですが店に入ってもらえます? 会計しちゃうんで」
「えぇ……」
男がおずおずと差し出してきた受け取り用の伝票を半ば引ったくるように受け取って、店内へ促す。
目を逸らしても、背を向けても、焼け付くような視線が達真を突き刺すのが感じられた。全身を彷徨ったそれが最後に集中したのは当然のように達真の首輪だ。
(くそ、動揺するな……アルファなんてなんでもねぇ)
首を焼き切られそうな圧力に首輪へ手が伸びそうになり、意志の力でなんとか押さえつける。
これだからアルファという生き物は───大嫌いだ。
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