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03.首輪の理由
しおりを挟む朦朧とする意識の中、自分の家までナビできたのは奇跡だった。
夢うつつのような状態で部屋番号を告げたことまでは覚えている。そこからの記憶がない。
気がつくと達真の体は見慣れた部屋にあって、粗末な布団に横になっていた。
去年穴が空いてしまって、これまで持ったこともなかった縫い針で必死に塞いだシーツのあて布をぼうっと見つめる。
「気がついた?」
やけに霞む視界に黒っぽい影が入り込んできた。
「ひとつ、ばし」
「名前覚えててくれたんだ、嬉しいな。ごめんね、ポケットから鍵を借りたよ。布団も勝手に敷かせてもらった」
力なく首を振って咎める意志がないことを示す。
差し出されたペットボトルには冷えた水が入っていた。震える腕で起き上がり、目の前で開けられたキャップを外して一口含む。
一ツ橋の気配は離れていかなかった。真剣な表情でこちらを見つめている気がして顔を上げられない。
「皆本くん、症状から見てきみがヒートに入っているのは間違いないと思う。でも僕はきみの匂いを感じない。……その首輪の下に噛み痕が、あるよね?」
「……あぁ」
追求を嫌味や恫喝で遮る気力すらなかった。
ここまで症状が出揃えば、達真自身もさすがに自覚していた。今まで周期が乱れたことなどほとんどなかったヒートが突発的に起こってしまったことに。
しかし達真のオメガの体は、その暴力的なまでにアルファを引きつけるフェロモンを無差別に撒き散らしたりしない。
オメガの唯一を縛るアルファ───番がいるからだ。
一ツ橋の顔は見なかった。ショックを受けているか、もしくはアルファらしく傲慢に、達真の首輪に騙されたと憤っているかも。
しかし続いた一ツ橋の声からは、激しい感情を読み取ることはできなかった。
「わかった。それなら早めに番に来てもらいなさい。電話はできる? 鍵はポストに入れておくから……」
「番は、来ない」
「え?」
「俺に、番はいない。……もういない」
指紋と声紋による認証を経なければ外せない強力な首輪をはめておきながら、噛んだオメガを手元に置かない意味。
これまで動揺を表に出さなかった一ツ橋が息を呑む音が、どこか遠くに聞こえた。
「番がいるのに、そばに置いてもらえないオメガはやがて心を病んで、狂い死ぬ。肉体的な負担も計り知れない……何度も聞いた、言葉だ。つくづく反吐が出る。自分の体が嫌になる」
「皆本くん……」
熱に浮かされて呂律も回らなくなってきている。
すべてを諦めた苦笑いを零す達真に、一ツ橋は絶句するしかなかった。
「連れ帰ってくれたこと、礼を言う。だがおキレイな、アルファ様の出る幕は、ねぇよ。ここには……少しずつ壊れていくオメガが、いるだけだ。関わったって、ロクなことに、ならねぇ……出ていってくれ」
背骨が力を失って崩れるように倒れ込む。
枕に顔を埋め、一ツ橋の気配が去るのを待った。
発情期のとき、オメガはアルファを誘うためのフェロモンを放出する。それは無差別に、ときにベータをも引き寄せる。
一方、項を噛まれ番を得たオメガは、唯一のアルファだけをその香りで誘う。
唯一に愛されることだけが幸せであるとでも言うように、ただ一心に己のアルファのためだけの体に作り変わる。
ヒートのとき番が長時間オメガの元を訪れないと、オメガは非常に厳しい状態でヒートを過ごすことになる。いつまでも冷めない熱を持て余し、埋まることのない空洞を涙と慟哭で埋めようとする。
そしてそんなつらいヒートが何回も繰り返されれば───やがて心を病み体を壊し、オメガは死に至る。
達真の首を噛んだ男は、達真の唯一になる気など初めからなかった。
嫌々引き取ったオメガなのに、何度ヒートを経験しても孕む気配がない。
達真の項に噛み痕があれば、男のオメガであることがくっきりと示されてしまう。だから首輪で隠すように言われた。
普通の首輪には、装着するオメガの意志で外せるよう処置がなされる。それ以外で首輪を外せるのは家族や番など、オメガを守る人間だ。
達真の首輪には、達真を捨てたアルファのデータしか登録されていない。
オメガを殺すのに殺意はいらない。
ただゆるやかな無関心だけがあれば、そのうち必ず花は萎れる。
これから襲い来る、死んだほうがマシだと思えるほどつらい時間を達真が覚悟している横で、一ツ橋は動こうとしなかった。
フェロモンが出ていないから、オメガのヒートに引きずられたアルファの興奮状態───ラットが引き起こされることはないだろう。
それでも目の前で、オメガとはいえ可愛くもない男が身を捩って熱情に身を焼かれるのを見るのは良い気分ではないはずだ。
「てめ、ぇ。出てけっつった、よな」
「行かないよ。きみが苦しんでいるのを放っておけない」
「ハ……苦しむオメガを鑑賞、したいって、ワケか。お偉いアルファ様は、随分と高尚なご趣味をお持ち、で」
「憎まれ口を叩く余裕があるんだね。それならまだ、大丈夫か」
「何……?」
一ツ橋の腕が伸びて、小さく丸まろうとする達真の体を仰向けにした。
力づくというには優しい手が、しかし有無を言わさず達真を絡め取る。Tシャツの裾から入り込んできた手のひらが冷たくて、達真はびくりと体を跳ねさせた。
「なに、す……っ」
「触れるだけだ、それ以外はしないと誓う。薬を飲んで一人で耐えるより、アルファが触った方が治まるのが早いはずだ。……吐き気や、強烈な不快感はある?」
「ね、けど……触っていいとは、言ってね、ぇ……っ」
「はは、本当に元気だね。つらいはずなのに、きみは強いオメガだ。そういうところを僕は……好きになったんだ」
吐息のように零れた言葉を押し込むように一ツ橋の唇が達真の口腔を塞ぐ。
抵抗するために伸ばした舌を絡め取られ、反抗の意志が一気に霧散した。
達真は今突発的なヒートの波に飲み込まれ、頭が働かない。体もちっとも言うことを聞かず、一ツ橋に柔らかく押しつぶされて逃げ場がない。
だから目の前のアルファを拒めなくても、誰に文句を言われることもない。
(なんでこいつのこと、嫌じゃないんだろうな……)
悲しくもないのに流れた涙を意識から締め出し、おずおずと持ち上げた腕で目の前の男に縋った。
包み込まれる安堵感と、オメガとしてしか生きられない自らへの絶望が達真の心中で複雑な模様を描きながら、混ざって消えていく。
次に目が醒めた時、達真は一人で眠っていた。
急いで体を起こしても上体が崩れることはなく、頭も視界もはっきりしている。どうやらヒートの熱は去ったようだ。
見下ろすと、裸に下着だけはつけている自分の体が目に入る。
ヒートを起こして下着が無事なままとは考えられないので、新しいものをあの男が穿かせたということだろうか。意識のない達真に。なんて忌々しいアルファだ。
薄ぼんやりと、薬を水で流し込んだことを思い出す。あの男に執拗に情交の痕を残されたことも。
手首にまで噛みつかれた痕跡があることにげんなりしながら、さらに体中を検分する。
どうやら本当に最後まではしなかったようだ。
番がいるオメガに番以外のアルファが触れると、拒否反応が出るのが一般的だ。
具体的には頭痛や吐き気、手足の痺れや痙攣、意識の混濁など。
強い拒絶を示したオメガを強引に暴行しようとすれば、ショック死するケースもあるほどだという。
達真も人並みにアルファへの拒否感はあったが、単純にアルファという種自体をすべて嫌っている上に、達真のようなワケありそうで見目が優れているところもないオメガに触れようとするアルファはこれまでおらず、拒絶反応の実在を感じたことはなかった。
しかし、一ツ橋が触れた場所に嫌な感覚はない。
自分は比較的拒絶反応が出ないタイプのオメガなのかもしれない。
そう結論づけて布団から抜け出す。
汚れのないシーツを見下ろして舌打ちしてから部屋のドアを開くと、目の前にあのアルファが立っていた。ノックしようとしていたらしい、持ち上げた手を挨拶の形にして微笑む。
「おはよう。気がついてよかった。気分はどう?」
「……てめぇ、まだいたのかよ」
「ご挨拶だなぁ。きみんち食べ物が全然ないから、朝ごはん買ってきた。飲み物はお茶と水どっちがいい?」
「水」
ビニール袋をガサガサ言わせている一ツ橋はシャツとスラックス姿で、本当に買い物に行っただけのようだった。
「達真くん、サンドイッチはタマゴとチキンどっちが良い?」
「……とり」
「はーい」
鼻歌など鳴らしながら小さなキッチンに立つ男を無性に殴りつけたい衝動に駆られ、なんとかそれをやり過ごす。
いつのまにか下の名前で呼ばれていることに違和感があるが、そういえば昨日行為の最中に呼び名を変えると言われた気がする。
つついたら余計に厄介なことになりそうなので無視を決め込んだ。
達真はアルファが嫌いだが、彼は一応、押し売りみたいなものではあるが、恩人だ。
番の元を離れてからこっち、三ヶ月に一度のヒートは地獄の苦しみを伴った。数日苦しんで、終わった後はげっそりと痩せ食事が喉を通らないほど心身共に負担が大きい。
それが今は、何事もなかったかのような心地だった。
悔しいが、一ツ橋の助けがあったからこの程度で済んだのだろう。
オメガのヒートを決定的に治めることができる性器の挿入がなかったのにこれほどまでに落ち着いたのが薄気味悪いものの、助けられたことは事実だ。
「悪かった、な。俺のヒートに付き合わせちまって」
背を向けていた一ツ橋が振り返る。
殊勝な言葉を口にしたせいで驚かれるかと思いきや、その表情はどこまでも穏やかだった。
「困っている子を助けるのは当然だよ。それが好きな子なら尚更」
「好っ……」
初対面で恥ずかしげもなく告白しキスしてきたことといい、昨夜達真の皮膚を辿りながら何度も「可愛い」と言っていたことといい、こいつは俺に惚れているとでもいうのだろうか。
勝手に赤くなる頬をごしごし擦って誤魔化し、達真はつとめてぶっきらぼうな声を出した。
「おまえ、アレ冗談じゃなかったのかよ」
「アレって?」
「す、好き、とか……番になれとか」
「あぁ、もちろん。冗談であんなことは言わない。すべて僕の本心だ」
「信じられねぇな。昨日の時点で初対面だろ俺ら。それとも一目惚れだとでも言う気か?」
達真には一生縁がない単語を鼻で笑う。
オメガは男も女も美しいものが多い。顔の系統に違いはあるが、みな整った容姿を持って生まれ、外見とフェロモンを武器にアルファを誘う。
達真も容姿が崩れているわけではない。ただし人並みだ。
零れそうなほど大きな瞳や吸いつきたくなる蠱惑的な唇などは持ち合わせていないし、どちらかといえばベータに近い容姿だと思っている。
この首輪さえなければ、ベータに紛れて人生を再出発できたかもしれないというのに。
「ダメだよ、引っ掻いたら」
知らずのうちに首元に爪を立ててしまい、一ツ橋にやんわりと手を外された。
達真より少し大きい両手のひらに包み込まれ、じんわりと体温を移される。
いたずらが見つかった子供のようにバツが悪く感じられて、達真は悪態をつくことも忘れて俯いた。
こんな接し方をしてくるアルファは初めてだ。調子が狂う。
「この首輪の下には噛み痕があるんだったね。本当に首輪は外れないの?」
一ツ橋の指先が無機質な首輪に触れ、表面をなぞった。
ちょうど指紋認証の接触部分に触れたのか、なにもないはずの表面に赤い点が灯る。認証に失敗したという証だ。鏡越しに何度も見た忌々しい光。
「あぁ。何度も外せないか試したが、見るからに硬そうだろ。緩めることもできない。工具とか使って試したけど、最後には首ごとへし折りたくなっただけだ」
「きみの首が折れてしまわなくて本当によかった。でもそれなら、僕にもまだチャンスがあるね」
「は?」
首輪を離した一ツ橋が微笑んだ。
慈愛に満ちたものばかりだった笑みに今は、挑戦的な光が宿っている。
「僕はまだきみの首筋に噛み痕を見ていない。番も近くにいないから見ていない。観測されない事象は存在しないのと同じ……そう思わない?」
「はぁ?」
まるで小中学生のような詭弁を突然捲し立てた一ツ橋に、達真は目を見開いて驚いた。
観測もなにも、達真に番がいることは事実だ。
「でも達真くん自身、噛み痕はしばらく見てないんでしょ? 首輪の下で消えてるかもしれないよ」
「……ふっ」
「達真くん?」
「はははは! こんな馬鹿げたアルファに出会ったのは生まれて初めてだ! ふ、あはははは」
腹の底から湧き上がってくるおかしさに任せて声を上げて笑う。
一ツ橋が困惑し、次第にちょっと拗ねたような表情を浮かべるのがまたおかしい。ひとしきり笑って、ついでにおかしなアルファの肩をバンバン叩いて、やっと笑いがおさまった。
「ま、そうだな。俺ももう一年は首の痕を見てねぇ。傷は癒えるもんだよな」
「そう、そうだよ!」
「はは。まぁコイツがはまってる以上それを確認することすらできねぇけど」
「そういうことなら、行こう」
「あ? どこに」
急にまた手を取られ、達真は首を傾げる。
一ツ橋の双眸がきらきらと輝いた。
「首輪を外しに!」
応援ありがとうございます!
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