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05.探り合い

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 一ツ橋と連れ立って雑居ビルを後にする。
 外れた達真の首輪は、宇佐見へ譲ることになった。内部構造やセキュリティをさらに細かく解析したいとのことだった。
 見るのも触るのも嫌だった首輪を、達真は快く進呈した。

「あ~~……」

 何度目かわからないほど首に触れてしまう。
 硬質な感触はなく、引っかかりのない皮膚と喉仏、張り出した筋、ごつごつと触れる頚椎の骨。それだけが達真の首のすべてだった。
 なにもないことを確かめるたびに喜びが込み上げる。
 しかし、触ってもわからない痕跡がまだ一つだけ、達真の心を縛っていることも事実だった。

「一ツ橋。俺の項、どうなってる」

 コインパーキングに戻り、シートに座った達真は後ろ髪を掻き上げて一ツ橋に背を向けた。
 普段は飄々としたアルファが驚き慌てる声がする。

「わ! オメガのうなじをアルファにそんな簡単に晒しちゃダメだよ!」
「ンなもん別に……なにやってんだ」
「オメガの項をじろじろ見るなんて、マナー違反だから」

 一ツ橋は顔を手で覆って、しかし開いた指の隙間から大きな目を覗かせていた。
 女子供がやればかわいいかもしれないポーズが、この男がやるとこんなにもイラつく姿になる。
 達真は恥じらう手をべりっと引き剥がし、威嚇するように首を一ツ橋の目の前に突きつけた。

「いいから見ろ! 消えてるかもしれないとか言ったのはてめぇだろ!」
「ひゃ~怖い、こんな恫喝のされかた初めて……ん、う~ん……」
「どうだ?」
「ごめん、やっぱりあるね。噛み痕」

 予想していた答えだった。それでもどこかで落胆する自分がいる。
 軽く息を吐いて達真は姿勢を戻した。シートを緩慢に締めて、窓の外へ視線を逃がす。

「そうだよな。世の中そう都合よくはいかねぇな」
「達真くん……」
「まぁでも、あのクソ忌々しい首輪がなくなっただけで上出来だ。借金は背負っちまったが」
「あぁ、首輪外しの代金なら僕が払っておいたよ」
「ハァ!?」

 勢いよく振り向いた先の一ツ橋は、ハンドルを小刻みに動かしながら路地を進みつつ、笑みを浮かべた。

「僕の未来の番が他人の首輪をしたままなんて、我慢できないからね。あれを不愉快に思っていたのはきみだけじゃないってことさ」
「いや、だから俺には噛み痕が」
「番がいたってそれがなんだ。彼は達真くんを手放した。誰かに横から掻っ攫われても文句なんか言えないはずだよ。達真くんも僕を受け入れてくれてるし」
「はぁー!?」

 今まで以上の呆れた物言いにさすがに手が出そうになり、運転中ということを思い出して寸前で止めた。そうじゃなければ確実に殴っていた。

「誰が誰を受け入れたって!?」
「達真くんが、僕を」
「俺がいつそんなんしたってんだよ!」
「そりゃもう、あの熱いヒートの夜さ。頬を真っ赤に染めて、舌っ足らずに僕の名を呼ぶ達真くん……震える腕が僕の背に縋って、唇を突き出してキスをねだって、奥に秘された蜜壺はぐっしょり濡れて」
「あぁあああやめろ馬鹿! 死ね、いっぺん死ね!」
「運転中にやめてよ、縁起でもない」
「運転中に官能小説みたいなこと言うてめぇが悪いんだろが!」
「達真くん、硬派で清純と見せかけてそういう小説も読むの? 意外だなぁ、もしかして結構エッチなこと好き?」
「ああ言えばこう言う……ッ!」

 口先では分が悪いと悟った達真は、苛立ちを舌打ちに変えて無理やり窓の外に意識を向けた。
 黙っていれば極上の容姿に秘めた力を感じさせる上位アルファのはずなのに、口を開くとダメだ。落差がありすぎる。
 今までもこうやってオメガを引っ掛けて遊んできたに違いない。オメガ相手の慣れた振る舞いには、噛み痕のある傷物のオメガを一途に慕うアルファとはとても言えない手管を感じさせた。

 番に捨てられたオメガを珍しがって近寄ってきたやつはこれまでもいた。
 大抵は達真が威嚇し、追い払い、たまに実力行使で排除してやればすぐにいなくなった。しかし稀にしつこいやつがいて、振り払うのに難儀することがあった。
 一ツ橋もたぶんそのタイプだろう。おまけにアルファなので執着心が強い。
 狙ったおもちゃを手に入れるためにどこまでする人間か、早急に見極める必要がある。
 最悪体は許しても構わない。今更貞操などと気取るつもりはない。
 むしろ体を明け渡せば放り出す飽き性であれば、対処も楽だ。心を望まれるより余程いい。
 流れていく景色を瞳に映しながら、達真は決意を固めた。

「ちょっと早いけど夕食にしない? 美味しいところを知ってるんだ」
「嫌だ」
「奢るよ?」
「……」

 車が横付けされた店の構えを見て、断るつもりだった夕食を共にすることになった。
 高級そうなフレンチや料亭なんかだったら絶対に足を踏み入れなかっただろう。しかし一ツ橋が連れてきた店はスイーツの品揃えで有名な、ややお高めのチェーンレストラン。
 ずっと一度は行きたいと思っていた店の前にピンポイントで連れてこられた達真の心情を、この男が知っているはずはないが、奢りでここの飯を食べられると聞いて無視できるほど達真の懐事情は潤っていない。
 メニュー表の一番高いものを立て続けに選び、一時間もする頃には満足して店を出た。

「はー美味かった。特に最後のパフェはデカくて美味くて最高だったな」
「喜んでもらえてよかった。達真くんてば高いのばっかり頼むから、僕のお財布スッカラカンだよ」
「嘘つけ。カード入れに挟まってる金キラのやつにたんまり入ってるんだろうが」
「いやぁそれほどでも」
「どういう反応だよそれは……」

 よく見なかったが、もしかしたら金ではなく黒の可能性もある。
 絶品だった夕食とデザートの味を反芻していた達真は、車が見覚えのない地下駐車場へ入っていくのを見咎めた。

「おい、どこだここ」
「僕のおうち」
「は?」
「店からはこっちのほうが近いし寄らせてもらったよ。あの店、お酒はあんまり置いてなかったでしょ? 僕は飲めなかったし。飲み直そうよ」
「嫌だ」
「この間すっごく貴重なワインを手に入れたんだけど……」
「……」

 まさかこいつ、俺の食べ物や酒の好みまで把握してるんじゃないだろうな。
 いいように転がされている自覚はありつつ、タダ酒の魅力に抗えない達真はまんまとアルファの巣へ引きずり込まれてしまった。
 一ツ橋の家はある種予想通りの、小洒落たデザイナーズマンションの一室だった。
 達真の住まう6畳一間が軽く3つは入りそうな、一人暮らしのはずなのになぜこんなに部屋が必要なのかと思うような広々とした間取りに格差社会の残酷さを覚える。
 予想に反して一ツ橋の部屋は低層階にあり、ベランダから真下を覗き込めば柔らかそうな芝生と大きな広葉樹が見えた。
 いざというときはここから飛び降りて逃げられそうだ。

「ちょっと、真っ先にベランダから逃走経路確認しないでくれない?」
「アルファの部屋だぞ。警戒するのは当然だろうが」
「心配しなくても嫌がることはしないよ。……嫌がられなければするけど」
「やめろ」

 触れる前から高級なものだと分かるソファにどっかり座り、ふんぞり返って一ツ橋が酒とつまみを用意するのを待つ。
 殊勝に手伝う気などまるでなく、むしろモタついていたらキレてやろうとでも考えている達真を見て、一ツ橋は小さく含み笑った。
 天敵の巣に連れ込まれて、必死で虚勢を張っている小動物にしか見えない。
 しかしそんな考えを読まれたらこの小動物は一瞬で逃げ出してしまうだろう。躊躇いなくベランダを飛び越えて。一ツ橋は慎重に表情を取り繕い、達真のために手際よくつまみを用意していった。

「……美味いなこれ」
「お気に召したのならなにより」

 一口含んで目を瞠った達真は、ワイングラスをくっと大きく傾け飲み干した。
 高そうな家にある高そうなワインはやはり美味で、いくらでも飲めてしまいそうだった。つまみのチーズがこれまた好みの味で、惜しげもなく注がれる杯を不用意に重ねてしまう。
 達真は酒が好きだが、強いわけではなかった。すでに頬は紅潮し、目元はとろんと溶けて姿勢もだらしなくなっている。
 何杯目かのワインを飲み干し、ついに達真はソファに寝そべってしまった。

「はぁ……美味かった……こんな美味いワイン飲んだのいつぶりだ……」
「喜んでもらえて嬉しいよ。……眠くなっちゃった?」
「ん」
「ここで寝たら体が痛くなっちゃうよ。ベッド、あっちだから」

 膝裏に差し込まれた腕に、達真の意識がふと鮮明になった。
 番のいないオメガがアルファの家で酔いつぶれ、無防備にベッドへ運ばれる。その意味がわからない達真ではない。
 こいつもやはり、興味本位か嗜虐心かは分からないが、達真を食い物にしたいだけだった。冷たい風が心臓に吹き込むように胸が冷える。
 アルファなんてどいつもこいつも変わらない。
 立場がなければ目もくれない。受け入れることに特化した体を好きなように嬲って捨て置く。
 最終的にオメガの腹に種を撒いて子を成せれば、それ以外の用などないのだろう。

 横抱きにされた体がしばし一ツ橋の腕の中で揺れ、シーツの上に降ろされた。予想に反して一ツ橋の気配が離れていく。
 寝たふりをしながら身動ぎもせず様子を伺っていると、すぐに寝室に一ツ橋が戻ってきた。達真の上着をそっと奪い、ベルトを抜いてくつろげる。
 下肢に一ツ橋の手がかかった瞬間、震えそうになった体を気力だけで押し留めた。今更体を暴かれることくらい怖くなどない。
 それなのに一ツ橋の手はそれ以上達真の服を乱さなかった。ごそごそと物音がして、瞼の裏が暗くなる。
 明かりの落とされた寝室にアルファとオメガが二人きり。
 そんな状況にまるで気づかないかのように、一ツ橋が達真の横に潜り込んできた。達真と自分にブランケットを掛け、図々しくも達真の腰に腕を回して抱き込んでくる。
 達真は必死に狸寝入りを決め込んでいたが、一ツ橋の胸に顔が埋まって苦しさを覚えていた。
 アルファの匂いが不快でないことも、性的な意図なくぎゅっと抱かれて感じた安堵感も、今まで知らなかった感情ばかりで。

「おやすみ」

 眠気の滲む一ツ橋の声が静かな寝室に響き、達真の額にキスがひとつ落とされた。
 硬直している達真を置いて、やがて規則的な寝息が頭上から聞こえてくる。達真は瞼を開き、信じられない思いで目の前のアルファを見上げた。
 暗がりに沈む、彫刻のように整った寝顔が数センチ先にある。
 ラフな寝間着に着替えられていて、いつもは後ろに撫でつけられている金髪が一筋顔に掛かっている。
 金のまつ毛が縁取る瞳が開く気配はまったくない。
 ヒート時のどさくさで、最後までではないとはいえ、一度は手中に収めたオメガだ。
 目の前で酔いつぶれるなんて据え膳のはずなのに、決定的に彼のものにする最大のチャンスだったのに、一ツ橋は達真に触れなかった。

「クソ、なんなんだよ」

 嘲笑ってやろうと思った。
 噛み痕の残るオメガに必死に腰を振る、決して自分のものにならないものを追い求める愚かなアルファだと。
 俺はおまえのものには決してならないのだと、侮蔑の視線で詰ってやろうと。
 それなのに手を出されないんじゃあ、どうすればいい。宝物のように抱きしめられてただ眠るだけなんて、そんな触れ合いは知らないのに。
 せめてもの抵抗に、一ツ橋に背を向ける。
 振り払うこともできるはずの手をそのままにしたのは、下手に身動きすればこいつが起きてしまうからだ。それ以外に理由はない。
 酒精で訪れた強烈な眠気の波が再び意識を拐い、達真は数年ぶりにアルファの腕の中で眠った。
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