16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ

フェラーラが敵になる 1510年 カンブレー同盟戦争

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<教皇ユリウス2世、フランス王ルイ12世、アルフォンソ・デステ(フェラーラ公)、イザベッラ・デステ(マントヴァ公の妻)、ルクレツィア・ボルジア、ソッラ>

 1509年から1510年にかけて、ローマでは教皇ユリウス2世とヴェネツィアの外交官が和睦のためのやりとりを頻繁に行っている。
 カンブレー同盟戦争で大国の連合軍を相手にすることの愚をヴェネツィアは悟ったし、対する同盟の主導者であるユリウス2世はそれを口実に他国、特にフランスがイタリア半島にどかどかと進出してくるのをもう止めたかった。海の大国ヴェネツィアが大人しくしてくれれば、それでよかったのだ。

 1510年2月に和睦は成立した。ヴェネツィア特使は教皇の出した条件をすべて受け入れた。

・ロマーニャ地方のリミニ、ファエンツァの返還
・教皇の権威の尊重
・アドリア海についてラヴェンナとフィウメの線上より南の制海権を放棄する
・領内の聖職者に課税せず、治外法権の特権を与える
・教皇の敵を援助しない

 これを受けて、ユリウス2世はヴェネツィアの破門を解いた。

 フランスは黙っていなかった。
 王であるルイ12世に対して、公式にヴェネツィアの破門解除がはかられることがなかったからである。すべては教皇庁とヴェネツィア特使の間で進められ、フランスだけではなく、他の連合国がそのテーブルにつくことはなかった。もちろんその方向で話が進んでいることはほうぼうから伝わっただろう。教皇庁には各国の枢機卿がおり、大使も駐在しているのだから。
 主導者がそう決めたのだからいいだろう、ということである。教皇と大国の王の間ではこのような軋轢(あつれき)がしばしば見られる。簡単にいえば教皇が上か、王が上かという争いである。

 有名なのは10世紀頃からの聖職叙任権(せいしょくじょにんけん)闘争である。「カノッサの屈辱」と後世呼ばれる事件では、丁々発止のやりとりの末に神聖ローマ皇帝が教皇に伏して赦しを乞う羽目になった。

 これは日本の朝廷と武士の関係にも共通する点がある。もともとの主(教皇や朝廷)に役割を与えられ力をつける王や豪族、そして実質的な力(この場合武力)がない主に上から命令されることに不満を覚え反発する――ということである。

 16世紀においても、教皇は絶対的な権威を持っている。だからどの国もローマには弓を引く(あるいは大砲を撃つ)ことができないのである。

 しかし今回、フランス王ルイ12世は兵を引き連れて進軍してきたのに、戦争にあっさりと幕を引かれたことに対して怒っている。その裏にはイタリア半島に足がかりを築いてわがものにしたいという思惑があるのだが、「ないがしろにされた」というのは侮辱に等しく許せるものではない。

 教皇にとっての敵はフランスになりつつあった。

 フランスをイタリア半島から駆逐しなければならない。

 しかしフランスを敵にするということは、フランスの軍勢をあてにできないばかりではなく、フランスに追従する国をも敵に回すということになる。前世紀末にフランスがローマまで進攻してきたときは、教皇アレクサンデル6世の懐柔(かいじゅう)策もあってわずかな被害でおさまった。その後チェーザレ・ボルジアがロマーニャ地方をはじめイタリア半島中部をほぼ制圧したのでローマを守る盾のような陣形ができつつあったのだ。
 しかしもう今はそれがない。解体してしまっている。

 ユリウス2世はどうフランスに対抗するかを考えなければならなかった。それを実行に移すまでには半年ほどの時間がかかることになる。

 その間、カンブレー同盟に参加したフィレンツェのニッコロ・マキアヴェッリが特使としてフランスに派遣され、フィレンツェの立場から戦争回避のための方策を相談している。この滞在はかなり長くなった。

 一方、フェラーラ、マントヴァの両国は、今後の戦争の展開とその対応についてしきりにやりとりを繰り返していた。とばっちりはこの両国にあたることが確実だったからである。やりとりの主はフェラーラ公アルフォンソ・デステ、そしてマントヴァ公妃イザベッラ・デステだ。

 イザベッラはアルフォンソの実姉で、甲冑を着て戦争に出て行くような勇ましい女性ではないが、「政治」ともいえる交渉能力に長けていた。各国のやりとりを逐一仕入れて、自国マントヴァが窮地に陥らないよう必要な各所に積極的に交渉していくのである。

 賢い女性である。

 その賢い女性が今回は危機感を感じている。故国フェラーラはフランスに付くことをそれとなく止めるべきだと考えている。それでなければ、教皇の標的になってしまうことが明らかだからだ。しかし、アルフォンソはこれまでのフランスとの関係を反故(ほご)にする気はなかった。教皇を敵にするにせよ、フランスを敵にするにせよ、フェラーラはどちらからも狙われるからである。それに、今回の件では派兵したのに面子(めんつ)をつぶされる形になったルイ12世に信義として協力するべきではないかとも思っていた。

 そうは思っても自国の命運がかかっている。アルフォンソにとっては難題だった。姉イザベッラは、「そのような同情は何の得にもならない」と喝破(かっぱ)する。それもその通りである。


 わずかばかりの平穏な時間、エステンセ城でアルフォンソは2歳になったエルコレを抱き上げている。
 ゆりかごでは前の年に生まれたルクレツィアとの間のニ男、イッポーリトが眠っている。エルコレはもう乳を飲まないが、イッポーリトにはまだ必要な糧だ。ソッラは乳母として忙しくふたりの世話をしている。男子は歩くようになったらもう大変だ。目を離すことができない。ルクレツィアがエルコレを椅子に座らせるが落ち着いてはいない。すぐに下りてしまった。
「エルコレは……少し義兄上に似ているかもしれないな。不思議なものだ……これでニコラスが加わったらまるで前世紀のボルジア家のようだ」とアルフォンソがつぶやく。
「アルフォンソ、間違いなくあなたの子ですからね」とルクレツィアがふくれる。
「わかっているよ。ただ少し不思議に感じただけだ。何と言ったらよいのだろう。運命とでも言えばいいのか」とアルフォンソが笑う。

 側に立っているソッラが申し訳なさそうにアルフォンソに言う。
「申し訳ありません。ニコラスもどことなくミケーレに似ていますから、もっとそのように感じられてしまうかもしれません」

「そうね、似ているわ……子供って不思議ね」とルクレツィアが微笑む。
 アルフォンソはやれやれ、という顔をしてふたりの女性に言う。

「それだけ私が歳を取ったということだよ。昔を懐かしむのは歳を取った証拠だ」

 アルフォンソは夕食後にソッラを部屋に呼んだ。
 フェラーラが非常事態になった場合、ルクレツィアと子どもについてやってほしいと頼むためである。特に子どもについては念を押した。ソッラは神妙にうなずいてアルフォンソの目を見た。
「フェラーラがフランスに付いたら、まっさきにヴェネツィアが攻めてきますか?」
 アルフォンソはふっと笑う。この乳母(とは言ってもまだ20歳を少し越えたほどなのだが)には戦争の話がしやすい。
「そうなるだろう。フェラーラを最も攻めやすいのはヴェネツィアだからな。現在のカンブレー同盟からフランスが外れた場合の勢力は……まず北イタリアから離れたナポリのスペインが教皇に付くだろう。神聖ローマ帝国は様子見になるのではないか。しかしヴェネツィア、スペインだけでは教皇も心もとない。体制が整ってからでないとヴェネツィアも動かないだろう。あと、戦力にするとすれば……傭兵か」
「傭兵ですか……外国の?」とソッラが尋ねる。
「そう、スイス兵だ。フランス軍は兵の多くをスイス兵に頼っているが、彼らスイス兵は話が折り合って雇われればどこにでもつく。戦争が商売なのだから」

 アルフォンソにはこの先のことがよく見えているようだった。それは賢い姉、イザベッラからの情報が有益な検討材料になっているからだろう。マントヴァも当主のフランチェスコ・ゴンザーガが捕虜になっていたが、もう帰城している。今後は二国が密接に連携していくことが何よりも重要になる。
 アルフォンソはふっと笑う。
「チェーザレ・ボルジアやドン・ミケロットが生きていたら……どんな風に活躍していただろうな。今こそ彼らのような存在が必要な気がしているのだよ、ソッラ。彼らは目的に対して決して迷うことがない。敵に回したら恐ろしいことこの上ないが……傑出した存在だった」

 ソッラは自身の主が夫を褒めてくれるのを嬉しく思う。

 ミケーレが死んで2年経ったが、今でも彼女の悲しみは海のように、心の奥底で波を寄せている。ミケーレのすべてが彼女のすべてのようだった。ソッラはアルフォンソに言う。
「チェーザレ様は、まだどこかで生きておられるかもしれません」
 アルフォンソは微笑みながら何度もうなずく。
「ああ、ルクレツィアもそう信じているよ。私もそうだったらと思うことはある。誰も彼が死んだところを見ていないから、そう信じていたいというのは理解できる」
「ミケーレも信じていました。だからフランスに行くことを了承したのです」とソッラはうつむきかげんになってつぶやく。

「そうだな、またどこかで立ち上がって、私たちの目の前に現れてくれることを祈ろう」


 アルフォンソが予測した通り、ユリウス2世はスイス人傭兵を新たな自軍の主力に据えようと考えていた。どこかの王のように都市を占領しようなどとは考えない、面倒な条件は付けてこない、金さえ払えば職務を忠実に遂行してくれる。そして何より、彼らは屈強で、組織的戦闘能力が高いのだ。

 さっそくユリウス2世はスイス人傭兵団を組み込んだ形でカンブレー同盟の再編成をはじめる。

 これまで、「スイス人傭兵」という言葉を何度も出してきた。しかし、その中身について述べていない。ここではその成り立ちについて書くこととしたい。

 スイスはよく知られているように、峻厳なアルプスの山々に囲まれた地域にある。大規模な耕地は得られない。山間の人々は歴史の表舞台に立つようなこともなく、小さな村落ごとに分かれて生活をしていた。
 そこに変化が起こったのは、13世紀のことだった。アルプスを南北に通す道が開かれた。難所だったのはゴッドハルト峠だが、そこを通す道ができて、待ってましたとばかりによそからの通過者、流入者がなだれ込む。山間の民も安穏とは過ごせなくなった。それまでに村落間のいさかいがなかったわけではない。ただ規模が違いすぎる数の人間が入ってくると、それぞれの土地で小競り合いをしている場合ではない。ここで近隣のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、3つの州が同盟を組むことになる。

 それがスイス人傭兵団、「スイス誓約同盟」の始まりである。1291年のことだった。山で日頃から鍛えている屈強な男たちで構成される軍隊は強かった。

 1315年、ときのバイエルン侯について戦った誓約同盟はハプスブルグの王軍に圧勝する。モルガルテンの戦いである。その勢いは止まらない。1386年にはゼンパッハの戦いで再度ハプスブルグの軍勢と正面切って対決し、圧勝したのである。

 この勝利がスイス誓約同盟の評判をヨーロッパ中に広めることになる。以降は誓約同盟と国家で傭兵契約を結ぶ慣習ができあがっていく。
 多額の金銭と略奪品が傭兵団の手に渡るようになるのだ。特に1474年以降はフランスが主な雇い主となる。

 ヨーロッパ中を震撼させたのがこの1474年、ブルゴーニュ戦争である。
 フランス王とブルゴーニュ公国との戦いで、歩兵中心に編成されたスイス傭兵軍は、重装騎兵が中心だった敵のブルゴーニュ軍を完膚なきまでに叩き潰した。何の容赦もなく、ただただ殺戮に徹したのである。そこに、「一騎討ち」などという優雅な要素はない。

 それがスイス傭兵というものの成り立ち、そして特徴である。

 聖なる都の「神の代理人」(教皇)はそれを頼ることになるのである。

 戦争が始まろうとしていた。

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